戦国武将 大内親綱(片平親綱)の生涯と事績
1. 序論
本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、奥州南部の動乱期にその名を刻んだ武将、大内親綱(おおうち ちかつな)、後に片平親綱(かたひら ちかつな)と称される人物の生涯と事績について、現存する史料に基づき、詳細かつ徹底的に調査し、その実像を明らかにすることを目的とする。利用者より提供された初期情報、すなわち蘆名家臣、大内定綱の弟、天正17年(1589年)の伊達家帰属、摺上原合戦での功績といった点を基点としつつ、その範囲に留まらない包括的な記述を目指すものである。
大内親綱の研究は、単に一個人の生涯を追うに留まらず、彼が生きた時代の地域史、特に伊達政宗の勢力拡大過程における奥州南部の複雑な政治・軍事状況を理解する上で、貴重な示唆を与える。兄である大内定綱と共に、親綱は幾度も主家を変えながらも武将としての本分を全うし、最終的には仙台藩士として家名を残した。その動向は、戦国末期から近世初期にかけての地方武士の生き様を象徴する一例と言えよう。
史料において、親綱は「大内親綱」として記される場合と「片平親綱」として記される場合がある。これは彼が片平氏を名乗り、片平城主となった経緯に関連するものであり、本報告書では文脈に応じて両方の呼称を適宜用いることとする。主要な参考文献としては、伊達家の公式記録である『政宗記』や、関連する各地方の史書、系図資料などを参照する。これらの史料を丹念に読み解き、親綱の生涯を多角的に再構築することを試みる。
2. 大内親綱の出自と片平氏の成立
2.1. 大内氏の系譜と親綱の誕生
大内親綱の出自を語る上で、まず父である大内義綱(おおうち よしつな)の動向に触れる必要がある。義綱は陸奥国安達郡塩松地方の小浜城(おばまじょう、現在の福島県二本松市)を拠点とした武将であった 1 。当初、義綱は塩松領主であった石橋尚義(いしばし なおよし)に仕えていたが、永禄11年(1568年)、隣国の田村氏と内通し、同じく石橋家臣であった石川有信らと共に主君・尚義を塩松城から追放した 2 。これにより塩松石橋氏は滅亡し、義綱は塩松地方を自らの支配下に置き、田村氏の旗下に属することとなった。この一連の動きは、当時の奥州において頻繁に見られた、力による支配秩序の再編、すなわち下克上の一例である。
親綱には、兄として大内定綱(おおうち さだつな)がいた 2 。定綱は父・義綱の跡を継いで小浜城主となり、その武勇や調略に長けた才能は広く知られていた 2 。親綱と定綱は、その生涯を通じて多くの場面で行動を共にし、互いに支え合う強固な兄弟関係を築いていたことが史料から窺える 6 。
親綱自身の具体的な生年や幼名に関する直接的な史料は乏しい。しかし、兄・定綱が天文15年(1546年)の生まれであること 2 から、親綱はそれ以降に誕生したと推測される。後年、彼は「大内助右衛門親綱(おおうち すけうえもん ちかつな)」、さらに片平の地を領してからは「片平大和親綱(かたひら やまと ちかつな)」と名乗ったとされる記録が残っている 8 。
2.2. 片平氏の成立と片平城
親綱が「片平」という姓を名乗り、歴史の表舞台に独自の足跡を残し始める経緯については、いくつかの説が伝えられている。一つには、父である大内義綱が片平城(かたひらじょう)を攻略し、その城を親綱に預けたことから片平姓を名乗るようになったとする説がある 1 。また、宮城県の町誌に収録された「片平氏系図」によれば、大内助右衛門親綱が会津の蘆名盛氏(あしな もりうじ)から仙道(中通り)の片平邑(現在の福島県郡山市片平町周辺)を与えられ、「片平大和親綱」と名乗り、これが片平氏の初代となったと記されている 8 。この記述は、親綱が蘆名氏の勢力下で片平の地を得て、新たな氏を興した可能性を示唆している。さらに別の説として、田村氏が行った片平伊東氏攻めに大内定綱の弟(親綱)が参加し、その功績によって片平の地を賜り、片平親綱と称するようになったというものもある 9 。
親綱の居城となった片平城は、現在の福島県郡山市片平町に存在した丘城である 6 。この城は元々、12世紀から13世紀頃に伊東祐長(いとう すけなが)によって築かれ、安積伊東氏(あさかいとうし)、後に片平伊東氏の居城として機能していた 9 。親綱がこの城の主となった正確な時期は、前述の片平氏成立の経緯と深く関連しており、おおよそ天正4年(1576年)頃以降のことと考えられる 9 。
片平氏の家祖としての位置づけに関して、『宮城町誌』は興味深い記述を残している。それによれば、片平氏の祖は周防・長門等の大守であった大内修理大夫時世(おおうち しゅりのだいぶ ときよ)の子、大内太郎左衛門義世(よしよ)であり、その二世にあたる備前義綱(びぜん よしつな、親綱の父)の代に奥州へ下向したという 8 。そして、三世である大内助右衛門親綱が片平氏の初代となったとされている。この系譜は、親綱が興した片平氏が、遠く西国に栄えた名族・大内氏の流れを汲むという意識を持っていた可能性を示唆するものであるが、この西国大内氏との直接的な血縁関係を裏付ける確たる史料は、現在のところ他に見出すことは難しい。
親綱が「片平」を名乗り、片平城を拠点としたことは、単に姓を変え、新たな所領を得たという以上の戦略的な意味合いを持っていたと考えられる。これは、兄・定綱が小浜城を拠点とする大内氏の宗家的な立場を維持する一方で、弟である親綱が片平城を拠点とする、いわば分家的な「片平氏」を形成することにより、大内一族全体としての勢力範囲の拡大と、政治的・軍事的なリスクの分散を図った動きであった可能性が高い。戦国時代において、有力な家臣や一族が主家から独立、あるいは半独立した形で新たな姓を名乗り、所領名を冠することは、その土地における支配権を内外に明確に示し、在地勢力としての基盤を強化するための一般的な手段であった。親綱の場合、蘆名氏という当時の有力大名から片平邑を領して「片平氏初代」となったという記録 8 は、主君からの公的な承認を得て新たな家を興したことを意味し、これにより「片平親綱」は独立した交渉単位としての性格を帯びることになった。この新たな立場は、後の伊達氏への帰属交渉においても、彼自身の価値を高める上で有利に働いた可能性がある。
表1:大内親綱(片平親綱)略年表
年(和暦・西暦) |
出来事 |
関連人物 |
場所 |
主要関連史料 |
天文15年(1546年)以降 |
親綱、大内義綱の子として誕生(推定) |
大内義綱、大内定綱 |
陸奥国塩松領 |
2 |
天正4年(1576年)頃か |
片平氏を称し、片平城主となる(諸説あり) |
蘆名盛氏(説による) |
陸奥国安積郡片平城 |
8 |
天正13年(1585年) |
小手森城の撫で斬り後、兄・定綱と共に蘆名氏に属し伊達政宗と敵対 |
大内定綱、伊達政宗、蘆名義広 |
会津、片平城 |
5 |
天正16年(1588年) |
兄・定綱と共に伊達政宗に帰順 |
大内定綱、伊達政宗、伊達成実 |
|
9 |
天正17年(1589年) |
摺上原の戦いに伊達方として参陣、戦功を挙げる |
伊達政宗、蘆名義広、大内定綱 |
摺上原(磐梯山麓) |
5 |
天正19年(1591年) |
奥州仕置により片平城を失領、伊達政宗に従い仙台藩士となる |
豊臣秀吉、伊達政宗 |
安積郡片平城 |
5 |
天正19年(1591年)以降 |
加美郡谷地森村に1000石を拝領し、邑主となる |
伊達政宗 |
陸奥国加美郡谷地森村 |
6 |
生没年不詳 |
|
|
|
12 |
慶応2年(1866年) |
11代片平大丞教敬、村田へ所替え(片平氏の谷地森支配の終焉) |
片平教敬 |
加美郡谷地森村 |
8 |
この年表は、親綱の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものであり、報告書全体の理解を助けることを意図している。特に、彼が複数の勢力に属し、拠点を変えながら活動した武将であったことを考慮すると、このような時系列での把握は極めて重要である。
3. 蘆名家臣としての親綱
3.1. 蘆名氏への臣従と兄・定綱との連携
大内親綱が蘆名氏の家臣として活動した時期は、兄・大内定綱の動向と密接に連動している。定綱は当初、父・義綱の代からの経緯で田村氏の旗下に属していたが、天正7年(1579年)頃、田村氏との間に生じた軋轢から手切れに至り、会津の蘆名盛氏を頼った 2 。この重要な転換期において、弟である親綱も兄と行動を共にし、蘆名氏の勢力下に入ったものと考えられる。複数の史料が、親綱が蘆名家に仕えていた事実を明記している 1 。
興味深いのは、天正16年(1588年)頃の状況を伝える記録である。『政宗記』によれば、この時期、大内定綱は蘆名氏の麾下にありながらも、必ずしも十分な扶持(給与や所領)を与えられていなかったようで、弟である親綱を頼って片平村(片平城)に身を寄せていたとされる 10 。この記述は、兄弟が片平城を一つの拠点として緊密に連携し、蘆名氏の支配下にあっても一定の自立性を保ちつつ、互いの勢力を維持しようとしていたことを示唆している。
当時の南奥州は、蘆名氏、伊達氏、田村氏、佐竹氏といった諸勢力が複雑に入り乱れ、領土や覇権を巡って絶え間ない抗争を繰り返していた。親綱と定綱も、この激動の渦中で、一族の存続と勢力維持のために、巧みな外交と武力を駆使して生き残りを図っていたのである。
3.2. 蘆名体制下での動向と周辺勢力との関係
天正13年(1585年)、伊達政宗が突如として大内定綱の居城である小浜城の支城・小手森城を攻撃し、城内の者を撫で斬りにするという衝撃的な事件が発生した 13 。この「小手森城の撫で斬り」の後、定綱は本拠地の小浜城をも放棄し、会津の蘆名氏を頼って落ち延びた 5 。この時、片平城主であった親綱も兄と運命を共にし、明確に蘆名方として伊達氏と敵対する立場を取ることになった 9 。
『政宗記』には、天正16年(1588年)2月、大内定綱が「片平・安子島・高玉の兵を率いて」、苗代田の古城に立てこもっていた地下人らを攻撃したという記述が見られる 10 。ここで言及される「片平の兵」とは、まさしく片平城を拠点とする親綱の兵力を指すものと考えられる。この時点において、定綱・親綱兄弟は蘆名方の武将として、伊達氏に対抗するための具体的な軍事行動に積極的に参加していたことがわかる。
これらの史実を鑑みると、大内定綱と親綱の兄弟は、単なる血縁関係を超えた、経済的・軍事的に強く依存し合う運命共同体であったと言える。特に、定綱が蘆名氏から十分な経済的支援を得られなかった時期には、片平城という確固たる拠点を持ち、独自の兵力を有していた弟・親綱の存在が、大内兄弟全体の勢力を維持する上で不可欠な要素となっていた。親綱が兄の経済的基盤の一部を支え、またその兵力が兄の軍事行動に組み込まれていた事実は、彼らの間の強い相互依存関係を物語っている。この強固な結びつきは、後に彼らが伊達氏へ帰順する際に、兄弟揃って行動するという選択をとった背景要因の一つとも考えられる。戦国時代の兄弟関係は、時に協力し、時に骨肉の争いを繰り広げることもあったが、大内兄弟の場合は一貫して協力関係にあり、これが彼らが南奥州の激動の時代を生き抜く上で極めて重要な力となったのであろう。
4. 伊達政宗への帰順
4.1. 帰順の背景:蘆名氏の弱体化と伊達氏の台頭
大内定綱・親綱兄弟が長年仕えた蘆名氏であったが、天正12年(1584年)に当主・蘆名盛隆が家臣によって暗殺されるという衝撃的な事件が発生する 7 。その後、佐竹氏から義広を新たな当主として迎えたものの、蘆名家中では旧臣と新当主派との間に対立が生じ、また家臣団の動揺も収まらず、かつての勢威は陰りを見せ始めていた 7 。
一方で、伊達政宗は父・輝宗から家督を相続して以降、破竹の勢いでその勢力を拡大し、南奥州における覇権確立を目指して会津攻略の機会を虎視眈々と窺っていた。このような蘆名氏の弱体化と伊達氏の急速な台頭という、周辺情勢の劇的な変化を目の当たりにして、大内定綱・親綱兄弟は、自らの将来と一族の安泰を見据え、新たな主君を模索し始めたとしても不思議ではない。彼らにとって、没落しつつある主家と運命を共にするか、あるいは新興勢力に活路を見出すかは、死活問題であった。
4.2. 帰順の経緯と伊達成実の役割
史料によれば、天正16年(1588年)、大内定綱は伊達政宗に帰参を申し出て許され、これに伴い弟である片平親綱も伊達氏に属することになったとされている 6 。利用者より提供された情報では天正17年(1589年)とされているが、複数の史料が帰順の動きを1588年頃と示唆している点は留意すべきである。
この帰順の実現において、伊達家の重臣である伊達成実(だて しげざね)が果たした役割は極めて大きかった。『政宗記』によれば、成実は政宗に対し、大内定綱を味方に引き入れることの戦略的重要性を力説した 10 。すなわち、定綱を帰順させれば、彼が影響力を持つ塩松地方に残る旧臣や地下人(じげにん、在地武士や有力農民層)を掌握でき、さらに仙道(中通り)の諸勢力への働きかけも容易になる。加えて、定綱の弟である片平親綱をも同時に従えることができれば、戦略的要衝である安子島(あこがしま)や高玉(たかたま)方面の攻略も格段に有利になると進言したのである。
この成実の的確な情勢分析と進言を受け入れた政宗は、大内定綱に対し、保原(ほばら)や懸田(かげた)など数カ村の所領を新たに与える(充行う)と共に、起請文(誓約書)を交わして正式に臣従させた 10 。弟の親綱も、これに準じた形で伊達家臣団の一員となったものと考えられる。一方で、天正17年(1589年)4月24日に片平親綱が伊達政宗に内通したことが、政宗による本格的な蘆名攻めの直接的な引き金の一つとなったとする記録もあり 11 、帰順の具体的な時期やプロセスについては複数の情報が存在する。しかし、いずれにせよ、蘆名氏との決戦である摺上原の戦いの直前には、兄弟が完全に伊達方として行動していたことは確実である。
大内定綱と親綱の伊達氏への帰順は、個別の交渉というよりも、兄弟を一体として扱う「パッケージディール」としての側面が強かったと推察される。伊達成実の進言内容も、定綱という経験豊富な武将を獲得すれば、片平城という戦略的拠点を持つ親綱も自ずと付随してくるという認識に基づいていたように見受けられる。当時の武家社会において、兄(多くの場合、家督相続者)の決定に弟が従うというのは自然な流れであったが、伊達方にとっても、兄弟の軍事的な一体性を考慮し、両者をまとめて味方に引き入れることは、蘆名攻略を目前に控えた状況下で大きな戦力増強に繋がるため、極めて合理的な判断であった。この「パッケージディール」は、大内兄弟にとっても、新たな主君のもとで兄弟揃って一定の地位を確保し、これまでの強固な連携関係を維持しながら活動できるという大きな利点があったと言えよう。
5. 伊達家臣としての活躍
5.1. 摺上原の戦いにおける戦功
伊達政宗に帰順した大内親綱は、その直後から伊達家臣として重要な戦いに身を投じることになる。天正17年(1589年)旧暦6月5日、南奥州の覇権を賭けた伊達政宗軍と蘆名義広軍との一大決戦、摺上原(すりあげはら)の戦いにおいて、親綱は兄・大内定綱と共に伊達軍の主要部隊として参陣した 5 。
この決戦における伊達勢の陣立てを見ると、兄・大内定綱が左手(左翼)を、そして弟である片平親綱が右手(右翼)を固めるという、極めて重要な配置についていたことが記録されている 11 。これは、兄弟が伊達軍の側面防御という枢要な役割を担ったことを意味し、政宗が彼らの武勇と忠誠を高く評価し、信頼を寄せていたことの証左と言える。摺上原の戦いは伊達軍の大勝利に終わり、この結果、伊達政宗は会津地方を手中に収め、南奥州における覇権を確立した 11 。親綱もこの歴史的な勝利に大きく貢献し、その戦功により戦後、所領を加増されたと伝えられている(ユーザー提供情報)。また、史料の中には、政宗が大内定綱と片平親綱の寝返り(帰順)を得たことを契機として、蘆名氏への攻勢を一層強めていったと記すものもあり 6 、彼らの伊達方への参加が戦局全体に与えた影響の大きさが窺える。
5.2. 奥州仕置と所領の変化
摺上原の戦いでの勝利によって会津を手に入れた伊達政宗であったが、その支配は長くは続かなかった。天正18年(1590年)から天正19年(1591年)にかけて、天下統一を進める豊臣秀吉によって奥州仕置(おうしゅうしおき)が断行され、奥州の諸大名の所領は大幅に再編された。伊達政宗も例外ではなく、苦心の末に獲得した会津領などを没収され、旧領の出羽米沢から陸奥岩出山城へと転封を命じられた。
この政宗の所領替えは、彼に従う家臣団にも大きな影響を及ぼした。多くの家臣が、慣れ親しんだ土地を離れ、新たな知行地へと移ることを余儀なくされたのである。片平親綱もその一人であった。史料によれば、天正19年(1591年)、伊達政宗の所領となっていた安積郡一帯(親綱の居城であった片平城を含む)が奥州仕置によって没収されたため、片平親綱は長年拠点としてきた片平郷から退去せざるを得なくなり、これに伴い片平城も廃城となった 9 。しかし、親綱は兄・定綱と共に、奥州仕置によって会津を去ることになった主君・政宗に付き従い、仙台藩士として新たな道を歩むこととなった 5 。
5.3. 加美郡谷地森の拝領と統治
片平城という拠点を失った親綱であったが、伊達政宗は彼のこれまでの功績と忠誠に報いることを忘れなかった。親綱は政宗から新たな知行地として、陸奥国加美郡谷地森村(かみぐん やちもりむら、現在の宮城県加美郡加美町)において1000石の所領を与えられたと伝えられている 6 。
『宮城町誌』に収録された「片平氏系図」には、「天正17年(1622) 伊達氏の一族となり、谷地森、他を知行地として賜り谷地森村の邑主となる」という記述が見られる 8 。この年号「天正17年(1622)」は、天正17年が西暦1589年、西暦1622年が元和8年にあたることから、明らかな誤記であると考えられる。奥州仕置が天正19年(1591年)であること、そして 6 の記述などを考慮すると、親綱が谷地森へ移ったのは奥州仕置以降と考えるのが自然であり、これが仙台藩士としての新たな出発点となった。
注目すべきは、「伊達氏の一族となり」という表現である 8 。これは、片平氏が仙台藩において、単なる家臣というだけでなく、準一家格といった特別な高い家格を与えられたことを示唆している可能性がある。このような厚遇は、譜代の重臣や特に功績のあった外様家臣に与えられるものであり、親綱の伊達家への貢献がいかに大きなものであったかを物語っている。
奥州仕置による片平城失領は、親綱にとって大きな転機であったに違いない。しかし、彼は主君・伊達政宗への忠誠を貫き、加美郡谷地森に新たな所領を得て「邑主」としての地位を確立した。これは、彼の武将としての能力、そして仙台藩における彼の重要性が政宗によって高く評価されていたことの証である。この谷地森での新たなスタートが、その後の片平氏の仙台藩における安定した地位の礎となったのである。
表2:大内親綱(片平親綱)の知行変遷
時期(和暦・西暦) |
所属勢力 |
知行地 |
石高 |
備考(拝領経緯、失領経緯など) |
主要関連史料 |
天正4年(1576年)頃か |
蘆名氏 |
陸奥国安積郡片平(片平城) |
不明 |
蘆名盛氏より拝領(説による) |
8 |
天正16年(1588年) |
伊達氏 |
(当初)500石(ユーザー情報) |
500石 |
伊達政宗に帰順し拝領 |
ユーザー情報 |
天正17年(1589年) |
伊達氏 |
(摺上原合戦後)加増(ユーザー情報) |
不明 |
摺上原の戦いの戦功による加増 |
ユーザー情報 |
天正19年(1591年) |
伊達氏 |
片平領失領 |
― |
奥州仕置による安積郡没収のため |
9 |
天正19年(1591年)以降 |
伊達氏 |
陸奥国加美郡谷地森村 |
1000石 |
奥州仕置後、伊達政宗より拝領。谷地森村の邑主となる。 |
6 |
この表は、親綱の経済的基盤と地位の変動を具体的に示したものである。武士にとって知行地と石高は、その勢力と主君からの評価を直接的に示す指標であり、親綱が蘆名家臣時代に片平を領し、伊達家帰属後に当初500石、摺上原合戦後に加増され、最終的に谷地森で1000石を得たという変遷は、彼の生涯における浮き沈みと、最終的な成功を物語っている。
6. 晩年と片平氏のその後
6.1. 親綱の晩年、没年、墓所
大内親綱(片平親綱)の具体的な晩年の活動や、正確な没年、そして墓所の所在地に関する情報は、現時点で渉猟し得た史料からは残念ながら明確に見出すことができない。ある武将名鑑では「生没年不詳」と記されている 12 。
兄である大内定綱は、慶長15年(1610年)に65歳で没したことが記録されている 2 。親綱も兄と近い時期まで生存していた可能性は否定できないが、これを裏付ける直接的な証拠は現在のところ確認されていない。
今後の調査の進展によっては、仙台藩の詳細な記録や、彼が最後に治めた加美郡谷地森の郷土史料、あるいは片平家の菩提寺(もし特定できれば。加美町谷地森の寺院として香林寺などが挙げられているが 16 、片平氏との直接的な関係は現時点では不明である)などから、これらの点に関する新たな情報が得られる可能性も残されている。
6.2. 仙台藩家臣としての片平氏
大内親綱が興した片平氏は、彼一代で終わることなく、その後も仙台藩士として家名を存続させた。これは、親綱が伊達家に対して多大な貢献をし、その功績が認められた結果と言えよう。
『宮城町誌』などの記録によれば、片平氏は初代・親綱以降、谷地森を拠点とし、11代目の当主である片平大丞教敬(かたひら だいじょう のりたか)が慶応2年(1866年)に村田(現在の宮城県柴田郡村田町)へ所領替えとなるまで、実に約250年間にわたり同地を治めたとされている 8 。この事実は、片平氏が仙台藩内において安定した地位を保持し続け、地域に根差した領主として機能していたことを示している。
また、片平家の系図が存在することを示唆する記録もある。「仙台藩伊達家御一族片平家の略系図。多々良親繩から 5 代の分を含む」という記述がそれである 17 。ただし、この「多々良親繩(たたら ちか縄)」との関連については、 8 や 8 が示す大内氏出自の系譜とは異なる可能性があり、系譜の接続についてはさらなる詳細な検討が必要となる。本報告書では、現時点での情報に基づき、 8 および 8 が示す大内氏を祖とする系譜を主軸として記述している。
仙台藩の家臣録や分限帳といった史料群 18 を詳細に調査することによって、江戸時代における片平氏の具体的な家格、歴任した役職、知行高の推移などがより明らかになる可能性がある。
片平氏が初代・親綱から数えて11代、約2世紀半にわたって谷地森の邑主として存続したという事実は、単に仙台藩の家臣として家が続いたという以上に、その地域社会の安定と発展に少なからず貢献した可能性を示唆している。一つの家系がこれほど長期間にわたり同じ土地を治めるということは、その地域の文化や経済、さらには人々の生活に対しても、何らかの影響を与えずにはいられないからである。「邑主」としての立場 8 は、年貢の徴収といった経済的な側面だけでなく、地域のインフラ整備や領民間の紛争解決など、領民の生活に密着した統治を行っていたことを推測させる。仙台藩という大きな枠組みの中で、特定の家系が特定の地域を長期間にわたり統治するということは、藩の地方支配体制の一翼を確かに担っていたことを意味し、その地域の歴史を語る上で片平氏の存在は無視できないものと言えるだろう。そして、幕末維新の動乱期における11代当主・片平教敬の村田への所替え 8 は、時代の大きな変化が地方の支配構造にも影響を及ぼしたことを示す一例として捉えることができる。
7. 結論
大内親綱(片平親綱)の生涯の総括
大内親綱は、戦国時代末期の奥州南部という、まさに群雄割拠の動乱期を、兄・大内定綱と共に巧みに生き抜いた武将である。その生涯は、蘆名氏から伊達氏へと所属を変えながらも、一貫して武将としての能力を発揮し続けた軌跡であった。特に、伊達政宗の覇業を決定づけた摺上原の戦いにおける戦功は、彼の武名を高めると共に、伊達家における地位を確固たるものにした。片平城主としての経験、そして豊臣秀吉による奥州仕置という大きな政治的変動を乗り越え、最終的には仙台藩において加美郡谷地森に1000石を領する邑主となり、その子孫は幕末まで続く片平氏の礎を築いた。彼の生涯は、激動の時代にあって、状況の変化に柔軟に対応しつつ、自らの力で道を切り開いていった地方武将の一典型と言えるだろう。
歴史的意義と評価
大内親綱の生涯は、戦国時代から近世へと移行する中で、地方の国人領主たちが中央集権化の大きな波に翻弄されつつも、機敏な判断力と確かな武勇によって新たな秩序の中で自らの地位を確保していく過程を体現している。特に、兄・定綱との間に見られた終始一貫した強固な連携は、戦国時代における兄弟の協力関係の好例として特筆に値する。また、親綱が興した片平氏が、仙台藩の家臣として長く存続し、谷地森の地を治め続けたことは、初代・親綱の伊達家への貢献が後世まで高く評価された結果であり、彼の事績は仙台藩史、さらには南奥州戦国史を理解する上で重要な意味を持つものと評価できる。
今後の研究課題
本報告書において、大内親綱の生涯と事績について現存史料から可能な限りの情報を整理し、その実像に迫ることを試みた。しかしながら、親綱自身の正確な没年や墓所の所在地、晩年の詳細な動向、そして「多々良親繩」との系譜関係の具体的な内容など、未だ不明な点も少なからず残されている。これらの点については、今後の新たな史料の発見と、より詳細な研究の進展によって解明されることが期待される。特に、仙台藩政下の片平氏に関するより詳細な記録や、谷地森地域の郷土史料の発掘が鍵となるであろう。