大友義長は内乱後の大友家を再興し、大内氏と巧みに渡り合い、肥後・筑後へ勢力拡大。家訓「義長条々」を制定し、次代の繁栄の礎を築いた。宗麟の祖父にあたる名君。
日本の戦国時代史において、「大友義長」という名は、しばしば混乱を招く。一人は、キリシタン大名として名高い大友宗麟(義鎮)の弟で、後に宿敵・大内氏の家督を継いだ大内義長(元・大友晴英)である 1 。しかし、本稿が主題とするのは、それより二世代前の人物、すなわち豊後国を本拠とした大友氏の第19代当主、**大友義長(1478年 - 1518年)**である 3 。彼は、宗麟の祖父にあたり、大友氏が戦国大名として飛躍するための礎を築いた、極めて重要な指導者であった。
本稿は、この大友氏第19代当主・義長に焦点を当て、その生涯を徹底的に詳述するものである。彼が生きた15世紀末から16世紀初頭は、室町幕府の権威が失墜し、各地の守護大名が自立化を進める動乱の時代であった。九州においても、西国の雄・大内氏がその勢力を拡大し、豊後・筑後守護であった大友氏は常にその圧迫に晒されていた 4 。さらに、大友氏の内部では、先代の当主・大友政親とその子・義右が対立し、家中を二分する深刻な内乱が勃発していた 3 。本稿は、この内憂外患の状況下で父・親治に擁立された義長が、いかにして家を再興し、次代の繁栄への道筋をつけたのかを、その政治、外交、戦略の各側面から多角的に解き明かすことを目的とする。
西暦 (和暦) |
大友義長の動向 |
九州の動向 |
中央の動向 |
1478 (文明10) |
誕生 |
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1497 (明応6) |
父・親治により家督を継承 |
大内義興、大友宗心を擁立し介入 |
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1501 (文亀元) |
将軍・足利義高より家督承認。豊後・筑後・豊前守護に任じられる |
豊前・筑後で大内氏との抗争が激化 |
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1502 (文亀2) |
大内義興らと京都大徳寺龍源院を創建 |
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1506 (永正3) |
肥後・菊池氏の内紛に介入。菊池武経を公然と支持 |
菊池氏の内紛が激化 |
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1507 (永正4) |
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永正の錯乱(細川政元暗殺) |
1508 (永正5) |
大内義興と和睦。義興の上洛を資金援助 |
大内義興、足利義稙を奉じて上洛 |
足利義稙、将軍に復帰 |
1509 (永正6) |
菊池政隆を自刃に追い込む |
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1513 (永正10) |
筑後の国人・星野氏の反乱を鎮圧 |
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1515 (永正12) |
長男・親安(義鑑)に家督を譲る。分国法「義長条々」を制定 |
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1518 (永正15) |
8月11日、父・親治に先立ち死去(享年41) |
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大友義長の治世は、父・大友親治が敷いた盤石な基盤の上に始まった。先代の政親・義右父子の対立は、大友家を分裂の危機に陥れたが、親治はこの内乱を力と政治力で鎮圧し、疲弊した家中を再統一した 3 。そして明応6年(1497年)、親治は自らの子である義長を新たな当主として擁立した。これは単なる世襲ではなく、内乱後の権力構造を再構築し、親治の統制下に家を一本化するための、極めて政治的な決断であった。
しかし、義長の家督相続は平穏無事には進まなかった。当時、北九州で覇を唱えていた周防の大内義興が、この家督継承に異を唱えたのである。義興は、大友一門の傍流である大友宗心を対立候補として担ぎ上げ、義長の正統性を公然と否定した 3 。
この危機に対し、親治・義長父子が見せたのは、戦国初期の大名らしい巧みな外交戦略であった。彼らが頼ったのは、失墜したとはいえ、依然として権威の源泉であった室町将軍家である。当初、彼らは前将軍・足利義材(後の義稙)に接近したが、義材は大内氏の支持も受けていたため、事態は好転しなかった。そこで父子は、機敏に方針を転換し、義材と対立していたもう一人の将軍・足利義高(後の義澄)と連携する道を選んだ。この外交的選択は功を奏し、明応10年/文亀元年(1501年)、義高は義長の家督相続を正式に承認し、彼を豊後・筑後・豊前の三カ国守護に任命した 3 。これにより、義長は大内氏の介入を退け、大友氏当主としての揺るぎない正統性を確立したのである。この一連の動きは、地方の勢力争いが、いかに中央政局と密接に連動していたか、そして将軍の権威が自らの正当性を担保するための重要な政治的資源であったかを示している。
義長の治世は、その大半が隠居した父・親治との「共同統治」であったと記録されている 3 。これは単に経験豊富な父が若い息子を後見するという以上の、戦略的な意味合いを持つ権力構造であった。
内乱を収拾した張本人である親治は、家中に絶大な権威と影響力を保持していた。彼が実権を握り続ける一方で、若き義長を当主という「表の顔」に据えることで、いくつかの重要な政治的効果が生まれた。第一に、内乱の再発を企む可能性のある反対勢力の動きを、親治の権威で封じ込めることができた。第二に、義長を次代のリーダーとして内外に示しつつ、親治の経験に基づく安定した統治を行うことで、権力の円滑な移行と組織の安定化を同時に達成した。この意図的に構築された「戦略的二頭政治」の下、親治・義長の代に分国統治の末端機構である政所が各地に設置されるなど、統治体制の整備が進められた 3 。軍事面を義長が、政務や外交を親治が担うといった役割分担を通じて、大友氏は内乱の傷跡から着実に回復し、後の飛躍に向けた強固な組織的基盤を築き上げていったのである。
人物名 |
続柄・関係 |
備考 |
大友義長 |
本人(大友氏19代当主) |
戦国大名化の礎を築いた名君 3 |
大友親治 |
父(大友氏18代当主) |
内乱を鎮圧し、義長との二頭政治で家を安定させた 3 |
阿蘇惟憲の娘 |
正室 |
肥後の名族・阿蘇氏との婚姻同盟 3 |
大友義鑑 |
長男(大友氏20代当主) |
義長の後を継ぎ、領国支配を強化。宗麟の父 6 |
菊池義武(大友重治) |
次男 |
義長の戦略により肥後・菊池氏の家督を継承 3 |
大内義興 |
宿敵であり、後には協力者 |
周防・長門等を支配した西国随一の実力者 3 |
義長の治世は、北九州の覇権を巡る大内氏との絶え間ない緊張関係によって特徴づけられる。両家の対立は、単なる領土争いにとどまらず、中央政局の動向と密接に絡み合いながら、複雑な様相を呈していた。
文亀元年(1501年)頃から、大友領と大内領が接する豊前・筑後の国境地帯では、両軍による一進一退の攻防が繰り返された 3 。これは、九州における勢力圏を拡大しようとする両家の、構造的な対立の現れであった。
この膠着状態を大きく動かしたのが、永正4年(1507年)に京都で発生した「永正の錯乱」である。義長が同盟を結んでいた中央政権の実力者、管領・細川政元が暗殺されたことで、義長は政治的な後ろ盾を失った。この混乱を好機と見た大内義興は、前将軍・足利義稙を奉じて上洛を開始する 3 。これにより、義興は「幕府を再興する官軍」という政治的に圧倒的優位な立場を手にした。
この状況下で、義長は極めて現実的かつ合理的な外交判断を下す。これまで敵対してきた大内氏と敵対し続けることは、将軍を敵に回すことを意味し、大友家の存亡を危うくしかねない。そこで義長は、過去の対立を水に流し、大内義興と和睦。さらに義興の上洛に際しては、多額の資金援助を行った 3 。これは単なる「寝返り」や「屈服」ではない。失われた中央との繋がりを、宿敵であった大内氏との関係改善によって補い、自領の安泰を最優先するという、プラグマティックな戦略的方針転換であった。
大友氏と大内氏の関係が興味深いのは、軍事的に激しく対立する一方で、水面下では協調関係も維持していた点である。その象徴的な事例が、文亀2年(1502年)頃、両家が能登の畠山氏と共に、京都の臨済宗大徳寺に塔頭・龍源院を創建したことである 3 。
戦を交える敵同士が、なぜ共同で寺院を建立したのか。これは、当時の武家社会において、武力衝突と外交・文化交流が、別個のチャネルで並行して存在していたことを示唆している。特に禅宗寺院は、大名間の公式・非公式な交渉や情報交換の場として、重要な役割を担っていた。龍源院の共同創建は、表向きは敵対しつつも、対話の窓口を完全に閉ざすことなく、全面戦争へのエスカレーションを回避するための「安全装置」として機能していた可能性がある。これは、戦国初期の外交がいかに多層的で洗練されていたかを示す好例と言えよう。
義長の真骨頂は、大内氏との対決に留まらず、巧みな謀略を用いて九州内での勢力拡大を図った点にある。特に、隣国・肥後の名門守護、菊池氏への介入は、彼の戦略家としての一面を如実に示している。
当時、肥後守護の菊池氏では、当主・菊池能運の死後、激しい家督争いが勃発していた 7 。義長はこの内紛を、肥後への影響力を確保する絶好の機会と捉えた。彼の戦略は、単なる機会主義的な介入ではなく、十数年単位の長期的な視野に立った、周到な国家乗っ取り計画とも言うべきものであった。
そのプロセスは、以下の四段階に要約できる。
この一連のプロセスは、大規模な軍事侵攻というハイリスク・ハイコストな手段を避け、謀略と外交によって他国を支配下に置くという、戦国大名ならではの極めて高度な戦略思想の現れであった。
肥後への介入と並行して、義長はもう一つの守護国である筑後の支配権確立にも注力した。筑後の国人領主である星野氏などが大内氏に通じて反乱を起こすと、義長は自ら軍勢を率いて鎮圧にあたった。長年にわたる対陣の末、永正10年(1513年)にこれを鎮圧し、筑後における大友氏の支配を確固たるものとした 3 。
義長の功績は、軍事や外交に留まらない。彼は領国経営の安定化を目指し、大友氏の家法、通称「義長条々」を制定したことでも知られている 10 。
永正12年(1515年)に定められたこの「義長条々」は、後の戦国大名が制定した体系的な分国法(法律)とは趣を異にする。その内容は、領民や家臣が守るべき具体的な法規よりも、当主や一族が持つべき心構え、家族への思いやりといった、道徳的な訓戒を説く「家訓」としての性格が強いものであった 3 。裁判における依怙贔屓を戒め、公正な裁きを心掛けるべきことなどが記されており 12 、統治者としての倫理観が示されている。大友氏において、より体系的な分国法が整備されるのは、息子・義鑑の代になってからである 13 。この事実は、義長の時代の統治が、まだ法による画一的な支配へ移行する過渡期にあり、当主の個人的な徳や判断、一族内の人間関係に重きを置いていたことを示唆している。
この家訓の中で、義長の政治家としての鋭い洞察力が最も顕著に現れているのが、後継者に対して警戒すべき一族を具体的に名指ししている点である。彼は、筑後や肥後の国人領主である星野氏、阿蘇氏、相良氏といった外部の敵だけでなく、大友一門の庶流でありながら大きな力を持つ 田原氏 を、特に注意すべき内部勢力として挙げていた 3 。
なぜ身内であるはずの田原氏を警戒対象としたのか。権力闘争の歴史において、最も危険なライバルとなるのは、血縁が近く、家督を狙う資格と実力を兼ね備えた有力な一門であることが多い。義長自身が家督相続に際して一門の宗心と争った経験から、外部の敵以上に、内部の有力分家こそが将来的な脅威になりうると喝破していたのである。
この義長の慧眼は、後に現実のものとなる。孫である大友宗麟の時代、田原氏の一族である田原親賢(鑑種)が謀反を起こし、大友家を大きく揺るがしたのである 3 。この一点だけでも、「義長条々」が単なる精神論ではなく、後継者である義鑑に遺した、極めて実践的な「脅威リスト」であり、深い洞察に基づく政治的遺言であったことがわかる。
義長は、大友氏の未来に向けた確かな道筋をつけたが、その全てを見届けることはできなかった。
永正12年(1515年)、義長は長男の親安(後の義鑑)に家督を譲り、隠居した。しかし、かつての父・親治がそうであったように、実権は依然として義長が握り続けていた 3 。彼は、大聖院宗心を擁立して反乱を起こした重臣・朽網親満を鎮圧するなど、隠居後も大友家の安定に力を尽くした。しかし、永正15年(1518年)、義長は病に倒れ、父・親治に先立ってこの世を去った。享年41歳、あまりにも早い死であった 3 。
大友義長の治世は、父・親治との二人三脚で、内乱によって疲弊した大友家を再建し、安定させることに費やされた。彼は、宿敵・大内氏との関係を巧みに操り、謀略を駆使して肥後への足がかりを築き、家訓を通じて統治の理念を示した。これらの功績は、息子・義鑑による領国支配の強化、そして孫・宗麟による「九州六ヶ国探題」としての全盛期 14 を迎えるための、不可欠な土台となった。
結論として、大友義長は、宗麟の華々しい活躍の影に隠れがちではあるが、大友氏を中世的な守護大名から、自立した領国経営を行う近世的な戦国大名へと変質させる上で、決定的な役割を果たした「礎を築いた名君」として再評価されるべきである。彼が確立した、①家中の統一、②巧みな外交による勢力圏の維持、③謀略による領土拡大の布石、④統治理念の明文化、という要素は、戦国大名として生き残るための必須条件であった。彼の早世は惜しまれるが、その比較的短い治世は、次代の飛躍に向けた完璧な準備期間であったと言えるだろう。