はじめに
大塚政成という人物の概要と本報告の目的
本報告書は、戦国時代に常陸国北部から南陸奥にかけて、現在の茨城県高萩市周辺を本拠とした竜子山城(たつこやまじょう)を拠点に活動した武将、大塚政成(おおつか まさなり)に焦点を当てるものであります。ユーザー様よりご提示いただきました「佐竹家臣。竜子山城主。大塚家はもと岩城家臣。政成の時に、佐竹一家の待遇を受けて佐竹家に属し、のちに佐竹・岩城両家の間に入って和睦を成立させた」という情報は、大塚政成の生涯を理解する上で重要な手がかりとなります。本報告では、この情報を出発点としつつ、現存する諸史料を可能な限り調査し、大塚政成その人のみならず、彼の一族、そして彼らを取り巻く歴史的背景について、より深く、多角的に明らかにすることを目的といたします。
調査の範囲と主要な情報源の概観
調査範囲は、大塚氏の出自や初期の動向に始まり、大塚政成の具体的な活動、彼をめぐる一族の者たち、そしてその後の大塚氏と竜子山城の変遷にまで及びます。
主要な情報源としては、『図説北茨城市史』 1 や高萩市史関連資料 4、国立国会図書館レファレンス協同データベースに記載のある情報 6、さらには各種系図や古文書の記録などを活用いたしました。特に、大塚政成の生没年が不詳である 4 ため、断片的な記録を繋ぎ合わせ、その実像に迫ることを試みます。戦国期の地方領主に関する記録は必ずしも網羅的ではなく、特に大塚政成のような、いわゆる「国衆」と呼ばれる階層の人物については、中央の著名な大名に比べて史料が限定的であるのが現状です。それゆえ、本報告は現時点での史料に基づく分析と考察が中心となります。
第一章 大塚氏の出自と初期の動向
一、大塚氏の起源と鎌倉・南北朝時代における活動
多珂郡大塚郷と菅股城を拠点とした時代
大塚氏の歴史は古く、鎌倉時代には常陸国多珂荘大塚郷(現在の茨城県北茨城市磯原町大塚周辺)の地頭として、その名が見えます。この時期、大塚氏は菅股城(すがまたじょう)を本拠として勢力を扶植していたことが確認されています 1。この事実は、大塚氏が単に戦国期に勃興した一族ではなく、数世紀にわたり当該地域に深く根を下ろしていた在地領主であったことを強く示唆しています。彼らは、鎌倉幕府、南北朝の動乱、そして室町幕府という時代の権力構造の変化に巧みに適応し、その勢力を維持してきたと考えられます。
南北朝時代の動乱期においても、大塚氏の活動は記録に残されています。元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉幕府を打倒するために蜂起した際には、大塚五郎次郎員成(かずなり)が一族郎党を率いてこれに参加したことが、「大塚文書」と呼ばれる史料群の中に記されています 1。これは、大塚氏が単なる地方の土豪に留まらず、中央の政治的・軍事的動向にも積極的に関与し、行動を起こすだけの組織力と意志を有していたことを示す重要な記録です。
その後、興国元年(1340年、北朝では暦応3年)には、この大塚五郎次郎員成が戦闘において討死したと伝えられています。その忠義に対し、員成の女子(藤原氏)に「多珂郡大塚郷内下方半分地頭職」が与えられたという記録も存在します 1。この恩賞の事実は、当時の武士の行動原理と主従関係の一端を具体的に示すものであり、大塚氏がこの時期、南朝方(あるいは新田方)として活動し、その功績が認められていた可能性を示唆しています。
『赤浜妙法寺過去帳』に見る初期の大塚氏
時代は下り、室町時代中期の記録として注目されるのが、『赤浜妙法寺過去帳』の記述です。この過去帳には、永享2年(1430年)に「妙浄禅門 大ツカ 十二・十六」という人物の記載が見られます。この「妙浄禅門」と称される人物が、後に大塚氏の主要な拠点となる竜子山城へ移った最初の大塚氏の人物である可能性が研究者によって指摘されています 2。これは、大塚氏の勢力基盤の移動や拡大を考察する上で、重要な手がかりとなる記述です。
二、竜子山城への進出と高萩地方における大塚氏
竜子山城の築城と大塚氏による支配の確立
大塚氏は、応永年間末期(15世紀初頭頃)に、それまでの本拠地であった大塚郷の菅股城から、下手綱(現在の茨城県高萩市)に位置する竜子山城へ拠点を移したとされています 2。この竜子山城は、別名を松岡城(まつおかじょう)あるいは手綱城(たづなじょう)とも呼ばれ、茨城県北部においては最大級と評される、階段状に郭が連なる連郭式の構造を持つ戦国時代の山城です 8。
竜子山城の正確な築城年代や築城者については諸説があり、明確にはなっていません 8 。しかし、伝承や記録によれば、応永27年(1420年頃)から大塚信濃守を称する人物が城主となり、その子孫が約170年間、あるいは別の資料では176年間にわたって高萩地方を支配したとされています 4 。この菅股城から竜子山城への拠点移動は、単なる移住に留まらず、より広範な地域支配を目指したのか、あるいは防衛戦略上の理由があったのか、その背景には大塚氏の勢力拡大や周辺情勢の変化に対応するための戦略的判断があったと推測されます。特に、竜子山城が「茨城県北最大級」の山城であった 8 ことは、大塚氏がより堅固な拠点を必要とし、その勢力を誇示する意図があった可能性を示唆しています。
竜子山城主として実名が確認される比較的初期の人物としては、寛正4年(1463年)に建立された森神社の棟札に「当地頭大塚下総守藤原頼成(よりなり)」の名が見えることが報告されています 4 。約170年ないし176年という長期にわたる竜子山城を中心とした高萩地方の支配は、大塚氏がこの地域において安定した支配体制を築き上げていたことを物語っています。これは、単に軍事力に秀でていただけではなく、在地社会との良好な関係構築や、領地経営に関する統治能力も有していたことを示唆するものと言えるでしょう。
第二章 大塚政成の生涯
一、大塚政成の登場:父・大塚行成と当時の時代背景
生没年に関する考察
本報告の中心人物である大塚政成の具体的な生年および没年については、残念ながら現存する史料からは詳らかにすることができません 4。これは、戦国時代の地方領主に関する記録が断片的であることの典型例であり、彼の具体的な活動期間を正確に特定する上で大きな制約となっています。
政成の父は、竜子山城主であった大塚行成(ゆきなり)であると伝えられています 6。政成自身については、高萩市内の森神社の天文17年(1548年)の棟札にその名「政成」が見えることから 4、少なくともこの頃には歴史の表舞台で活動を開始していたと考えることができます。
家督相続の経緯と初期の立場
大塚政成が父・行成から家督を相続した具体的な経緯や時期に関する直接的な史料は見当たりませんが、行成の後を継いで竜子山城主となったと推測するのが自然でしょう。
大塚氏の帰属について見ると、古くは常陸の有力大名である佐竹氏に属していた時期もあったようですが、文明17年(1485年)以降は、南陸奥の雄である岩城氏の支配下に置かれていました 6。したがって、政成が歴史に登場した当初も、この岩城氏傘下という立場にあったと考えられます。父・行成の名と、政成が1548年に活動している記録 4 との間には、政成の家督相続の具体的な時期や、相続初期の動向に関する情報が欠落しています。これは、戦国時代中期の地方史における史料的制約を反映しており、政成の初期のキャリア形成や、岩城氏の家臣としての具体的な役割については、現時点では推測に頼らざるを得ない部分が大きいと言わざるを得ません。しかし、「古くは佐竹氏に属していた」 6 という過去の経緯は、政成の時代の外交政策を理解する上で重要な伏線となります。文明17年(1485年)の岩城氏への服属 2 は、当時の佐竹氏の勢力後退や岩城氏の勢力伸長といった地域内のパワーバランスの変化を色濃く反映していると考えられ、政成の時代に再び佐竹氏との関係を深めていく背景には、こうした過去の経緯や、両氏に対する大塚氏の複雑な立場、そして生き残りをかけた戦略的判断があったと推測されます。
二、岩城氏への服属と佐竹氏との関係構築
文明17年(1485年)以降の岩城氏への服属の背景と詳細
大塚政成の時代より約半世紀遡る文明17年(1485年)7月、岩城氏の当主であった岩城常隆(つねたか)が軍勢を率いて常陸国多珂郡に侵攻し、車城(くるまじょう)や大塚氏の本拠である竜子山城を攻略するという事件が発生しました 3。この時、竜子山城主であった大塚伊勢守成貞(なりさだ)は、政成の先祖にあたる人物ですが、岩城軍の勢いを前に戦わずして降伏し、これ以降、大塚氏は岩城氏の家臣としてその支配下に入ることになりました 3。この軍事行動の結果、竜子山領と車領は岩城氏の所領として割譲されることになったと記録されています 2。
天文21年(1552年)、佐竹義昭より「一家の待遇」を受けるに至った経緯とその意義
岩城氏に服属していた大塚氏でしたが、大塚政成の代になると、常陸の佐竹氏との間に新たな関係が築かれます。天文21年(1552年)7月3日、大塚信濃守政成は、佐竹氏の当主佐竹義昭(よしあき)から一通の書状を受け取ります。その内容は「向後、無二の忠信為るべき候段、侘言(たごん)の上、壱家の例を為すべく候」というもので、これにより政成は佐竹氏から「一家の待遇」、すなわち佐竹一門と同様の破格の待遇を受けることになったのです 2。
この厚遇が実現した背景には、当時の政治情勢が関わっています。佐竹氏は、長らく抗争を続けていた江戸氏との戦いを終え、ようやく和議を結んだばかりの時期でした 2。こうした佐竹氏側の状況を的確に捉えた大塚政成は、岩城氏に属するという立場でありながらも、佐竹氏に対して忠節を尽くすことを巧みに申し出た結果、この「一家の待遇」という特別な地位を獲得したと考えられています 2。
この「一家の待遇」は、単に名誉的なものではなく、大塚氏が佐竹氏から非常に丁重に扱われたことを意味します 4。その影響は後々まで及び、佐竹氏が秋田へ移封された後や、同じく秋田に移った岩城家(亀田藩)においても、大塚氏は「竜子山殿」という敬称で呼ばれ、特別な敬意を払われ続けたと伝えられています 4。
岩城氏に服属している状況下で、佐竹氏が江戸氏と和議を結んだという好機を見逃さず 2、佐竹氏に接近して「一家の待遇」という破格の地位を獲得した 2 大塚政成の行動は、彼の卓越した外交的機敏性と戦略眼を如実に示しています。これは、単に強大な勢力に盲従するのではなく、両勢力の動向を冷静に分析し、自家の地位向上と長期的な安定化を図ろうとした、国人領主としての能動的な動きであったと言えるでしょう。この「一家の待遇」は、軍事的な保護、紛争発生時の有利な調停、そして重要な情報へのアクセスなど、実質的な利益をもたらした可能性が極めて高く、これにより大塚氏は岩城氏との関係においても一定の発言力を保持し、佐竹・岩城という二大勢力の間で独自の立場を築くための強固な基盤を得たと考えられます。後に詳述する両氏間の和睦仲介 2 も、この特異な立場があったからこそ可能になったと言っても過言ではありません。
三、佐竹・岩城両氏間の調停者としての役割
永禄元年(1558年)の和睦成立における政成の具体的な貢献
佐竹氏から「一家の待遇」を得ていた大塚政成は、その立場を活かし、佐竹・岩城両氏間の緊張緩和に重要な役割を果たします。永禄元年(1558年)4月、岩城氏の当主であった岩城重隆(しげたか)は、佐竹義昭との間で対立が生じ、軍勢を率いて常陸国多珂郡小里(現在の茨城県常陸太田市里美地区周辺)へ出兵し、両軍は戦闘状態に入りました 2。
この危機的な状況において、大塚政成が両者の間に入って調停を行い、最終的に和議を成立させたと記録されています 2。これは、政成が佐竹・岩城という対立する両勢力から一定の信頼を得ていたことを示す、彼の外交手腕を物語る特筆すべき事績です。大塚氏の所領である竜子山城周辺は、地理的に常陸の佐竹氏と陸奥の岩城氏の勢力圏の境界に位置していました。この地理的条件が、大塚氏に自ずと緩衝地帯としての役割を担わせ、政成のような人物が外交手腕を発揮する機会を与えたと考えられます。和睦の成功は、彼が両氏の複雑な利害関係を深く理解し、双方にとって受け入れ可能な妥協点を見つけ出す能力に長けていたことを示唆しています。
常陸・南陸奥における勢力均衡の中での大塚氏の巧みな立ち回り
史料によれば、大塚氏は「つねに岩城・佐竹両氏の勢力均衡の上に立ち、一族の安泰をはかった」と評されています 2。政成による和睦の仲介は、まさにこの一族の生存戦略を体現する行動であったと言えるでしょう。戦国時代の国人領主が、より強大な大名たちの間で自立を保ち、生き残るためには、一方の勢力に完全に依存するのではなく、複数の勢力との間で巧みなバランス外交を展開することが不可欠でした。政成の行動は、この「勢力均衡外交」を巧みに実践した好例であり、一方に偏ることなく、時には両属的な立場を維持することで、自家の存続と一定の自立性を保とうとしたものと解釈できます。
四、中央政権との関わり
天文24年(1555年)の上洛と室町幕府への献上の記録
大塚政成の活動は、常陸・南陸奥という地域に限定されたものではありませんでした。天文24年(1555年)、政成は奥州の他の武将らと共に京へ上洛し、当時の室町幕府の将軍であった足利義輝に拝謁し、黄金十両や馬具の一種である轡(くつわ)などを献上したという記録が、幕府の政所執事であった蜷川親俊(にながわ ちかとし)の日記(『親俊日記』、あるいは『讒拾集』とも)に見られます 2。
この上洛と献上の事実は、大塚政成が地方の国人領主でありながらも、中央政権である室町幕府の権威を認識し、それとの繋がりを意識していたことを示す重要な証拠です。政成の上洛と献上は、単なる儀礼的な行為に留まらず、自身の地域における支配の正当性を中央の権威によって補強しようとする意図があった可能性が考えられます。また、この上洛が、佐竹氏から「一家の待遇」を受けた天文21年(1552年)のわずか3年後であることから、佐竹氏の威光を背景に、あるいは佐竹氏との連携の一環として行われた可能性も否定できません。戦国時代中期にあっても、室町幕府の権威が完全に地に堕ちていたわけではなく、政成のような地方の武将たちが依然として幕府からの承認や、幕府との関係構築を重視していたことを示す一例と言えるでしょう。彼らにとって、幕府との繋がりは自らの社会的地位を高め、周辺勢力との外交交渉を有利に進めるための有効な手段となり得たのです。
五、政成の終焉に関する考察
大塚政成の没年や死因、晩年に関する具体的な記録は、残念ながら現在のところ確認されていません 4。彼の生涯の終わりを伝える直接的な史料の欠如は、その最期を謎に包まれたものとしています。
一部の史料には、大塚隆成(たかなり)という人物(大塚氏の庶流で菅俣城主であったとされる)が、「宗家信濃守正成の後を継いで竜子山城に入った。永禄5年(1562年)に隠居」したという記述が見られます 6。もしこの記述が正確で、かつ「宗家信濃守正成」が大塚政成本人を指すのであれば、政成の活動期間は永禄5年(1562年)以前ということになります。しかし、この点については他の史料との整合性や、「宗家信濃守正成の後を継いで」という部分の解釈には慎重な検討が必要です。
例えば、政成の子とされる大塚親成(ちかなり)が、永禄11年(1568年)に佐竹勢と戦ったり 5、文禄2年(1593年)に朝鮮出兵に参加したりといった活動記録が存在します 6。もし大塚隆成が永禄5年(1562年)に政成の後を継いで、同年に隠居したとすれば、その後の竜子山城主の座や大塚氏の宗家の動向について、さらなる疑問が生じます。これは、大塚氏の系譜や事績に関する史料が断片的であること、あるいは一族内に複数の系統が存在し、それぞれが複雑に関係していた可能性を示唆しており、政成の終焉時期やその後の家督継承の実態を正確に特定することを困難にしています。
確実な最後の事績として記録されているのは、永禄元年(1558年)の佐竹・岩城両氏間の和睦成立への貢献です 2。したがって、少なくともそれ以降しばらくは活動を続けていたと考えられますが、その終焉の具体的な時期や状況については、今後の新たな史料の発見や研究の進展が待たれるところです。
大塚政成 関連略年表
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
主要史料例 |
備考 |
1485年(文明17年) |
岩城常隆が多珂郡に侵攻、竜子山城が降伏し大塚氏は岩城氏に服属。竜子山領は岩城氏へ。 |
大塚成貞、岩城常隆 |
2 |
政成の先代の出来事。 |
1548年(天文17年) |
森神社の棟札に「政成」の名が見える。 |
大塚政成 |
4 |
この頃、政成が活動を開始していた可能性。 |
1552年(天文21年) |
大塚政成、佐竹義昭より「一家の待遇」を受ける。 |
大塚政成、佐竹義昭 |
2 |
岩城氏に属しつつ佐竹氏とも良好な関係を構築。 |
1555年(天文24年) |
大塚政成、奥州の武将らと上洛し、将軍足利義輝に黄金等を献上。 |
大塚政成、足利義輝 |
2 |
中央政権との繋がりを示す。 |
1558年(永禄元年) |
大塚政成、岩城重隆と佐竹義昭の間の小里での合戦を調停し和睦を成立させる。 |
大塚政成、岩城重隆、佐竹義昭 |
2 |
外交手腕を発揮。 |
1562年(永禄5年) |
大塚隆成(庶流)が「宗家信濃守正成の後を継いで」竜子山城に入り、同年に隠居したとの記録あり。 |
大塚隆成、(大塚政成) |
6 |
政成の活動終期を示唆する可能性もあるが、解釈に注意が必要。 |
1568年(永禄11年) |
佐竹義重が竜子山領へ進攻。大塚勢(親成か)が石滝台・愛宕坂にて撃退。 |
大塚親成(推定)、佐竹義重 |
4 |
親成の活動期。 |
1574年(天正2年) |
高貫の陣にて竜子山勢(親成か)が勝利。 |
大塚親成(推定) |
4 |
|
1583年(天正11年) |
大塚親成ら、荒川八幡宮を造営し神馬を奉納。 |
大塚親成 |
4 |
史料により天正2年とも。 |
1592年~1593年(文禄元年~2年) |
大塚掃部助(親成か)が文禄の役(朝鮮出兵)に従軍、名護屋に在陣。 |
大塚親成(掃部助) |
4 |
佐竹義宣に従軍。 |
1596年(慶長元年) |
大塚隆通、竜子山城から折木城へ知行替えとなる。 |
大塚隆通 |
4 |
大塚氏による高萩地方支配の終焉。 |
1602年(慶長7年) |
佐竹氏が秋田へ転封。大塚氏もこれに従ったとみられる。 |
佐竹義宣、(大塚氏一族) |
7 |
秋田でも「竜子山殿」として待遇された記録あり 4 。 |
(注:本年表は主要な出来事を抜粋したものであり、全ての関連事項を網羅するものではありません。)
第三章 大塚政成をめぐる人物
大塚政成の生涯や大塚氏の動向を理解する上で、彼を取り巻く一族の人物たちの存在は欠かせません。しかし、史料の断片性や記述の異同により、その系譜や個々の人物の具体的な役割については不明な点も多く残されています。以下に、主要な関連人物について、現時点で判明している情報を整理し、考察を加えます。
大塚氏 主要人物一覧(本報告関連)
氏名(読み) |
推定される続柄・関係 |
主な役職・官途名 |
主な活動・事績の概要 |
関連する主要史料例 |
備考 |
大塚 行成(おおつか ゆきなり) |
政成の父 |
竜子山城主 |
政成の父として名が伝わる。具体的な事績は不詳。 |
6 |
行成の代に大塚氏が岩城氏支配下に入った状況を引き継ぎ、政成が佐竹氏との関係を再構築したと考えられる。 |
大塚 政成(おおつか まさなり) |
行成の子 |
信濃守(しなののかみ) |
本報告の中心人物。佐竹氏より「一家の待遇」を受ける。佐竹・岩城両氏の和睦を仲介。天文24年に上洛し幕府に献上。生没年不詳。 |
4 |
|
大塚 親成(おおつか ちかなり) |
政成の子 2 、または隆成の子 6 |
掃部助(かもんのすけ)、信濃守 |
永禄11年佐竹勢撃退、天正2年高貫の陣で勝利、天正11年荒川八幡宮造営、文禄の役に従軍。花押の存在も確認される 2 。 |
2 |
父が政成か隆成かで史料に異同あり。武勇に優れた人物であったと推測される。 |
大塚 隆成(おおつか たかなり) |
大塚氏庶流、菅俣城主。政成の縁者か。 |
掃部助、信濃守、筑雄(ちくゆう) |
岩城重隆の臣。一時、「宗家信濃守正成の後を継いで」竜子山城に入り、永禄5年に隠居したとの記録あり 6 。 |
6 |
政成との具体的な関係や、宗家継承の経緯・実態については謎が多い。掃部助という官途名は親成や隆通とも共通する。 |
大塚 隆通(おおつか たかみち) |
大塚氏一族。政成・親成との具体的な続柄は不明。 |
掃部助 |
佐竹の臣。天正13年佐竹義重に従い陸奥に出陣。慶長元年に竜子山城から折木城へ移転。 |
4 |
大塚氏の竜子山城支配の終焉と、新たな拠点への移動を担った人物。 |
(注:上記一覧は本報告の記述に関連する人物を抜粋したものであり、大塚氏の全ての人物を網羅するものではありません。続柄や事績については諸説ある部分も含まれます。)
一、父:大塚行成(おおつか ゆきなり)
大塚政成の父として、その名が大塚行成であったと伝えられています 6。行成もまた、竜子山城主であったとされていますが 6、その具体的な治績や活動に関する詳細な記録は乏しく、人物像を具体的に描くことは困難です。
しかし、行成の時代に大塚氏が岩城氏の支配下に入るという大きな転換期(文明17年、1485年以降)を迎えたことは確かであり 2、政成は父からその状況を引き継ぎ、新たな活路として佐竹氏との関係再構築に乗り出したと考えられます。行成の時代の統治が、政成の後の外交活動や一族の結束にどの程度の影響を与えたのかは、史料の制約から詳らかではありませんが、政成の活動の基盤を準備した重要な人物であったと言えるでしょう。
二、子:大塚親成(おおつか ちかなり)
親成の父に関する史料の異同
大塚政成の子としては、大塚親成(掃部助)の名を挙げる史料群が存在します 2。これらの史料、特に『図説北茨城市史』所収の「竜子山城と大塚氏」では、親成の花押(かおう、署名代わりのサイン)も確認されており、その実在性を示唆しています 2。
一方で、国立国会図書館レファレンス協同データベースに収録されている情報などでは、大塚隆成(掃部助・信濃守)の子として大塚親成(掃部助・信濃守)を挙げる記述も見られます 6。
この親成の父が政成であるか隆成であるかという食い違いは、大塚氏の正確な系譜を理解する上で避けて通れない重要な論点です。本報告では、両論が存在することを明記しつつ、主に政成の子である可能性を念頭に置きながら記述を進めますが、この点については今後のさらなる史料研究による確定が待たれるところです。
親成の武功と事績
親成は、武将としての活躍が伝えられる人物です。永禄11年(1568年)、佐竹氏の当主佐竹義重が竜子山領へ軍事侵攻を行った際、大塚勢(この軍勢を親成が指揮していた可能性が高いと考えられます)は、石滝台(いしだきだい)・愛宕坂(あたござか)において佐竹軍を迎撃し、これを退けたとされています 5。別の記録によれば、この時、親成は岩城氏のもとへ赴いており不在でしたが、岩城からの援軍を率いて帰還し、佐竹勢を撃退したとも伝えられています 4。この佐竹勢の撃退は、大塚氏の武勇と、独立性を維持する上で非常に重要な戦いであったと言えます。
また、天正2年(1574年)9月には、高貫(たかぬき、現在の高萩市内か)の陣において、竜子山勢が出陣し勝利を収めたという記録があり 4、これも親成の指揮による軍事行動であったと考えられます。これらの記録は、親成が優れた武将であり、大塚氏が戦国時代にあって一定の軍事力を保持していたことを示しています。
軍事面以外では、天正11年(1583年)12月(一部史料では天正2年とも 4)、親成らが中心となって荒川八幡宮(現在の高萩市安良川にある八幡宮か)を造営し、神馬を奉納したという記録も残されています 4。これは、領内の宗教的権威への配慮や、地域社会の安定を図る領主としての側面をうかがわせます。
文禄の役(朝鮮出兵)への参加
豊臣秀吉による天下統一が進むと、大塚氏もその大きな歴史の流れに無関係ではいられませんでした。文禄元年(1592年)2月、秀吉から朝鮮出兵の命令が発せられると、大塚掃部助(親成である可能性が高い)は、主筋にあたる佐竹義宣の指揮下に入り、岩城氏の家臣らと共に朝鮮半島へ渡海するための軍勢に加わったとされています 4。
さらに、文禄2年(1593年)の朝鮮派兵の際には、大塚親成(掃部助・信濃守)は、出兵の拠点となった肥前国名護屋(現在の佐賀県唐津市)に在陣していたことが記録されています 6。これらの朝鮮出兵への参加は、大塚氏が佐竹氏の指揮命令系統に組み込まれ、豊臣政権による全国規模の軍事動員体制の一翼を担う存在となっていたことを明確に示しています。これは、戦国時代末期の地方国人領主が、中央政権の強大な力と無縁ではいられなくなった時代の趨勢を具体的に反映する出来事と言えるでしょう。
親成の父が政成か隆成かという系譜上の問題に加え、政成の子とされる親成 2 、隆成の子とされる親成 6 、そして隆成自身 6 も「掃部助」という官途名を名乗っている場合がある点は注目に値します。これは、官途名が特定の家系で世襲されたり、あるいは同名や類似名の人物が同時期に複数存在したりした可能性を示唆しており、大塚氏の系譜関係の特定を一層困難にしている要因の一つです。
三、その他の一族(大塚隆成、大塚隆通など)と家臣団
大塚隆成(おおつか たかなり)
大塚隆成は、生没年不詳の人物で、掃部助(かもんのすけ)、信濃守(しなののかみ)、あるいは筑雄(ちくゆう)とも称したと伝えられています 6。
彼の出自については、「陸奥国岩城重隆の臣」であり、かつ「佐竹氏の臣、竜子山城主大塚氏の庶流で常陸国多珂郡菅俣城主」であったという、やや複雑な記述がなされています 6。さらに注目すべきは、「宗家信濃守正成の後を継いで竜子山城に入った。永禄5年(1562年)に隠居」したという記録です 6。これが事実であるとすれば、大塚政成と隆成の関係、そして大塚氏宗家の家督継承について、何らかの複雑な事情が存在した可能性が浮上します。例えば、政成が一時的に当主の座を退いた、あるいは何らかの理由で不在となり、庶流である隆成が宗家の家督を代行した、もしくは史料の記述に何らかの混同があるなど、複数の解釈が考えられます。この隆成の位置づけは、大塚氏の内部構造や権力継承の実態を理解する上で、解明すべき重要な課題の一つと言えるでしょう。
大塚隆通(おおつか たかみち)
大塚隆通も生没年は不詳ですが、掃部助を称し、常陸国の佐竹氏の家臣であったとされています 4。
彼の具体的な活動としては、天正13年(1585年)に佐竹義重に従って陸奥へ出陣したという記録が残っています 6。そして、大塚氏の歴史において大きな転換点となる出来事に関わった人物でもあります。慶長元年(1596年)に、長年大塚氏の本拠地であった竜子山城から、福島県広野町に位置する折木城(おりきじょう)へ知行替え(所領の変更)となったとされているのです 4。この移転により、大塚氏による高萩地方(竜子山城)の支配は、約176年間の歴史に幕を閉じることになりました 4。
家臣団に関する情報
大塚政成やその一族が率いた家臣団の具体的な構成や、主要な家臣の名前などに関する詳細な史料は、現在の調査では非常に限定的であり、その実態を明らかにすることは困難です。
大塚政成(宗家当主と目される)、大塚隆成(庶流で菅俣城主、一時的に竜子山城主となった可能性も示唆される)、そして大塚隆通(折木城へ移転した人物)といった複数の名が史料に見えることは、大塚氏が一枚岩の単純な構造ではなく、本家と分家、あるいは庶流といった複数の系統から成り立っていた可能性を示しています。それぞれの系統が独自の所領や役割を持ち、時には協力し、時には競合しながら、大塚氏全体の動向に影響を与えていたのかもしれません。特に、大塚隆成に関する記述 6 は、その複雑な立場と宗家との関係性において多くの謎を含んでおり、大塚氏内部の権力構造や家督継承の実態を解明する上での重要な鍵となり得ます。
第四章 大塚氏のその後の動向と竜子山城の変遷
一、慶長元年(1596年)の知行替えと折木城への移転
大塚隆通による竜子山から折木城への移転
慶長元年(1596年)、大塚氏にとって大きな転機が訪れます。この年、大塚隆通は、長年の本拠地であった常陸国竜子山城から、陸奥国磐城郡(現在の福島県双葉郡広野町)に位置する折木城へと知行替え(所領替え)を命じられました 4。
移転先の折木城は、高倉山城跡(たかくらやまじょうあと)とも呼ばれ 12、室町時代には岩城氏の支配下にあった猪狩氏の居城であったと伝えられる山城です 12。
この知行替えの具体的な理由、例えば佐竹氏の領国経営政策の一環であったのか、岩城氏との関係性の変化によるものか、あるいは当時勢力を南下させていた伊達氏への備えとしての戦略的配置であったのかなどについては、直接的な史料に乏しく、明確にはなっていません。しかし、この時期は豊臣政権による全国的な検地(太閤検地)が各地で実施され、大名領国の再編成が進められていた時期と重なります。岩城領においても文禄4年(1595年)に太閤検地が実施されており 7、佐竹氏も同年に新たな知行割を行っています 14。こうした背景を考慮すると、大塚氏の折木城への移転は、佐竹氏による領国支配体制の強化、特に国境地域の防衛線の再編や、有力な国人領主の配置転換といった、より大きな戦略的意図のもとに行われた可能性が高いと考えられます。大塚氏をより北方の折木城へ移したのは、当時緊張関係にあった伊達氏に対する牽制や防衛という、対伊達氏政策の一環であった可能性も否定できません。
いずれにせよ、この移転によって、大塚氏による高萩地方、すなわち竜子山城を中心とした支配は、約176年という長い歴史に終止符を打つことになりました 4。長年慣れ親しんだ本拠地を離れ、新たな所領である折木へ移ることは、大塚氏にとって大きな転換点であったはずです。新しい土地での支配体制の確立や、異なる環境への適応が求められたことでしょう。この移転が、大塚氏にとって栄転であったのか、あるいは実質的な勢力削減を伴うものであったのかについては、移転先の石高や戦略的重要性を詳細に比較検討する必要がありますが、現存する史料からはその判断は難しい状況です。
二、佐竹氏の秋田転封と大塚氏
慶長7年(1602年)の佐竹氏秋田移封に伴う大塚氏の動向
慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いにおいて、佐竹氏の当主佐竹義宣(よしのぶ)がとった曖昧な態度(東軍・西軍いずれにも明確に与しなかったとされる)が、戦後処理において徳川家康の不興を買い、大きな影響を及ぼすことになります。その結果、慶長7年(1602年)5月、佐竹氏は常陸国水戸54万石から出羽国秋田20万石へと大幅に減らされた上で転封(国替え)を命じられました 7。
この主家である佐竹氏の秋田への移封に伴い、家臣団の多くも常陸を離れて秋田へ移住しました。大塚氏もまた、この時に佐竹氏に従って秋田へ移ったと考えられています。実際に、江戸時代に作成された秋田藩(久保田藩)の家臣団の名簿や分限帳には、「大塚」という姓が見受けられます 17。
秋田藩における大塚氏の待遇と「竜子山殿」という呼称
佐竹氏に従って秋田へ移った大塚氏ですが、新天地においても特別な敬意をもって遇されていたことを示唆する記録があります。秋田へ移った佐竹本家や、同じく常陸から秋田へ移り亀田藩(岩城藩)を立藩した岩城氏(佐竹義宣の実弟である岩城貞隆が初代藩主)のもとでも、大塚氏はかつての本拠地名にちなんで「竜子山殿(たつこやまどの)」と呼ばれ、氏名を直接呼ぶことを避け、丁寧に待遇されていたという記録が、秋田県立図書館所蔵の文書などから確認できるとされています 4。
この事実は、大塚政成の代に佐竹氏との間に築かれた「一家の待遇」という特別な関係性が、関ヶ原の戦いを経て佐竹氏が大きく勢力を削がれ、遠く秋田へ移封されるという激動の時代を経てもなお、大塚氏の家格として認識され、尊重され続けていたことを示すものです。主家が大幅な減転封という困難な状況に置かれた中で、大塚氏がこれに従い秋田へ移った 17 ことは、主家に対する忠誠心の表れであると同時に、新天地においても「竜子山殿」として一定の敬意を払われた 4 という事実は、大塚氏が単なる一介の家臣ではなく、特別な由緒を持つ家として佐竹家中において認識され続けていたことを強く示唆しています。これは、大塚政成の時代に築き上げられた「一家の待遇」という外交的成果が、後々まで大塚家の家格を支える無形の財産として機能していたことを物語っていると言えるでしょう。
秋田藩では、藩主佐竹義宣が藩財政の立て直しや藩体制の再構築のために、家臣団の知行削減や再編を行いました 17。その中で大塚氏が具体的にどのような位置づけにあり、どの程度の知行高を与えられ、どのような役職に就いていたのかといった詳細については不明な点が多いものの、「竜子山殿」という特別な呼称は、一定以上の家格が藩内で公に認められていたことを示唆しています。彼らは、かつての常陸国竜子山での栄光を精神的な支柱としつつ、新たな土地である秋田で、佐竹藩の藩政に貢献していったものと考えられます。
三、竜子山城の歴史的変遷
大塚氏退去後の竜子山城(松岡城)の状況
大塚氏が慶長元年(1596年)に折木城へ移転した後、竜子山城がその後すぐに誰によってどのように管理されたのか、一時的に不明確な期間が存在します。
しかし、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、この地域にも新たな支配者が現れます。慶長7年(1602年)、佐竹氏や岩城氏といった旧勢力が常陸国を去った後、出羽国角館(かくのだて)から戸沢政盛(とざわ まさもり、当初は安盛(やすもり)と名乗った)が4万石(後に3万3千石とも 8)をもってこの地に入封しました。戸沢政盛は、古くからの山城であった竜子山城の麓に新たに平山城としての郭を整備し、城の名も「松岡城」と改称しました 8。
その後、江戸時代を通じて、松岡の地は水戸藩の附家老(つけがろう)であった中山氏が陣屋を構える所領となり、明治維新を迎えることになります 8。そして、明治4年(1871年)の廃藩置県に伴い、松岡城は廃城となりました 8。
現在、竜子山城跡(松岡城跡)は、戦国時代に大塚氏が拠点とした山城部分の遺構と、山麓に設けられた居館部分の痕跡、そして近世に戸沢氏や中山氏によって改修が加えられた部分とが複合的に残る史跡となっています 9。
大塚氏が拠点としていた時代の竜子山城は、典型的な戦国期の防御施設としての性格が強い山城であったと考えられます 8。しかし、戸沢氏による松岡城への改称と麓部分の整備 8 は、近世的な城郭への移行、すなわち戦闘本位の城から政庁としての機能や領主の居館としての性格を重視する城への変化を示すものです。時代が下るにつれて、山頂部分の軍事施設の利用頻度は減り、麓の居館や政務を行う空間が中心となっていったと考えられます 19。これは、戦乱の時代が終焉を迎え、より安定した藩政による支配体制へと移行していったという、日本史全体の大きな歴史的トレンドを、この地域の城郭のあり方が具体的に反映している事例と言えるでしょう。大塚氏から戸沢氏、そして中山氏へと、竜子山城(松岡城)の支配者が変遷していった事実は、この地域が戦略的に重要な位置にあり、また近世を通じて地域の政治的中心地の一つであり続けたことを示しています。城の名称や構造の変化は、それぞれの時代の支配者の意図や、城という施設に求められる役割が時代と共に変化していったことを雄弁に物語っています。
第五章 大塚政成の歴史的評価と今後の研究課題
一、戦国期における国人領主としての役割と限界
大塚政成は、常陸の佐竹氏と南陸奥の岩城氏という、当時この地域で強大な勢力を誇った二大戦国大名に挟まれた国人領主として、その生涯を送りました。彼の事績を辿ると、巧みな外交手腕を駆使し、一族の存続と自勢力の維持に腐心した姿が浮かび上がります。
特に、佐竹氏から「一家の待遇」という破格の扱いを受け、さらには対立する佐竹・岩城両氏の間に立って和睦を仲介したことは、彼の政治的手腕の高さと、両勢力から一定の信頼を得ていたことを示す特筆すべき成果と言えるでしょう。
しかしながら、その一方で、大塚氏は最終的に佐竹氏の家臣団の一員として組み込まれ、その後の佐竹氏による知行替え(慶長元年の折木城への移転)や、関ヶ原の戦後の秋田転封といった、より大きな時代の趨勢や主家の都合には抗うことができませんでした。この点には、戦国時代における国人領主が持つ自立性の限界も見て取ることができます。彼らは、大名間のパワーゲームの中で、常に自らの存続をかけた綱渡りを強いられていたのです。
二、外交交渉における手腕と地域勢力としての存続戦略
大塚政成の最大の功績は、やはりその卓越した外交交渉能力にあると言えるでしょう。対立する二大勢力の間で巧みに立ち回り、双方から一定の信頼を勝ち取り、ついには両者の和睦を成立させた 2 という事実は、彼の非凡なバランス感覚と交渉術を物語っています。
史料に見える「常に岩城・佐竹両氏の勢力均衡の上に立ち、一族の安泰をはかった」 2 という大塚氏の基本戦略は、戦国乱世において、比較的勢力の小さい国人領主が生き残るための現実的かつ有効な方策でした。政成の行動は、この戦略を巧みに実践した好例と言えます。戦国時代において、大名間の絶え間ない抗争の中で、大塚氏のような国人領主が独立性を完全に保つことは極めて困難であり、有力大名と良好な関係を築き、何よりもまず「家」を存続させることが至上命題でした。政成の外交手腕や戦略は、この「生存」という最も困難な課題を達成するための優れた能力として高く評価されるべきであり、彼の行動は、戦国期における中小規模領主の典型的な生き残り戦略の好例として、歴史にその名を留める価値があります。
三、史料的制約と不明点、今後の研究への展望
大塚政成に関する研究を進める上での最大の課題は、やはり史料的な制約です。彼の正確な生没年が不明であること 4、そして具体的な活動の詳細に関する記録が断片的であることは、その全貌を明らかにする上での大きな壁となっています。
また、大塚氏の系譜、特に政成と、彼の子とされる親成、そして一族の重要人物である隆成との関係については、史料間で記述に異同が見られ 2、錯綜しています。これらの関係性を正確に解明するためには、さらなる史料の発見と比較検討が不可欠です。
今後の研究への展望としては、まず「大塚文書」 1 や『赤浜妙法寺過去帳』 2 といった、既に存在が知られている基礎史料のより詳細な再検討が求められます。また、茨城県北部や福島県浜通りといった大塚氏の活動範囲であった地域には、未だ発見・整理されていない古文書や記録が眠っている可能性も否定できません。地方に残るこれらの未整理史料の丹念な調査が進めば、大塚政成及び大塚一族の実像がより鮮明になることが期待されます。
さらに、文献史学的なアプローチだけでなく、考古学的な調査との連携も、大塚氏の活動実態を明らかにする上で有効な手段となり得ます。大塚氏の本拠地であった竜子山城跡 19 や、初期の拠点であった菅股城跡などにおける発掘調査や遺構・遺物の分析は、文献史料だけでは知り得ない情報をもたらす可能性があります。
大塚政成は、織田信長や豊臣秀吉のような、歴史の教科書に必ず登場する全国的に著名な武将ではありません。しかし、彼のような地域に深く根を下ろした国人領主たちの動向こそが、戦国時代の複雑で多様な様相を織りなしていた原動力の一つであったと言えます。政成に関する研究は、中央集権化へと向かう大きな歴史の過渡期において、地方勢力がどのような役割を果たし、また、地域社会が具体的にどのような状況にあったのかを理解する上で非常に重要です。史料の乏しさは研究を進める上での大きな挑戦ではありますが、それゆえにこそ、新たな発見がもたらされる可能性も秘めていると言えるでしょう。
おわりに
大塚政成に関する調査の総括と歴史的意義の再確認
本報告書では、戦国時代の常陸国から南陸奥にかけて活動した武将、大塚政成について、現存する史料を基にその生涯と一族の動向を追ってまいりました。
大塚政成は、佐竹氏と岩城氏という二大勢力に挟まれた国人領主として、その存亡をかけて巧みな外交手腕を発揮しました。特に、佐竹氏から「一家の待遇」という特別な地位を認められ、両氏が対立した際にはその間に立って和睦を成立させるなど、地域の安定に少なからず貢献した重要な人物であったと評価できます。この「一家の待遇」は、単なる名誉に留まらず、その後の大塚氏の家格や、佐竹氏が秋田へ転封された後も「竜子山殿」として敬意を払われ続けるといった形で、長期にわたり影響を与えました。
しかしながら、その生涯には未だ多くの謎が残されています。生没年が不詳であることに加え、その具体的な活動や一族の正確な系譜についても、史料の断片性から不明な点が多く、今後の研究に委ねられる部分が大きいのが現状です。
それでもなお、断片的な史料から垣間見える大塚政成の姿は、戦国乱世という激動の時代を、知略と交渉をもって生き抜いた国人領主の一つの典型として、また、常陸国北部から南陸奥にかけての地域史を理解する上で欠くことのできないキーパーソンとして、今後も研究され、語り継がれていくべき価値を持つ人物であると言えるでしょう。
参考文献