本報告書は、戦国時代に常陸国(現在の茨城県)から磐城国(現在の福島県浜通り)にかけて活動した武将、大塚親成(おおつか ちかしげ)について、現存する史料や研究に基づき、その生涯、事績、そして彼を取り巻く歴史的背景を多角的に解明することを目的とする。大塚親成は、岩城氏の家臣であり、大塚隆成の子、あるいは政成の子とされ、当初は佐竹氏と争ったものの、後に岩城氏と佐竹氏の同盟成立に伴い佐竹氏に属し、主君である佐竹義重の子で岩城家を継いだ岩城常隆(正しくは貞隆)に仕えたと伝えられている。本報告書では、これらの情報を出発点としつつ、それを超えて広範な情報を網羅的に扱い、大塚親成という一人の武将の姿を浮き彫りにすることを目指す。執筆にあたっては、不自然な箇所での外国語単語の使用や、一部のみにマークダウン記述が適用されるといった表現を避け、学術的な記述を心がける。
大塚氏は、鎌倉時代から常陸国多珂郡大塚郷(現在の茨城県北茨城市磯原町大塚周辺)の地頭としてその名が見える一族である 1 。当初は菅俣城(すがまたじょう)を本拠として勢力を有していた 2 。元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉幕府を攻めた際には、大塚五郎次郎員成(かずなり)が一族郎党を率いて新田軍に参加し、武功を挙げた記録が「大塚文書」の写しとして伝わっており、これは大塚氏が古くから武士として活動していたことを示す貴重な史料である 1 。
室町時代に入り、応永年間(1394年~1428年)の末頃、大塚氏は菅俣城から下手綱(しもてづな、現在の茨城県高萩市)の竜子山城(たつごやまじょう、たつのこやまじょう、たつこやまじょうとも)へと本拠を移したとされる 3 。この移転の背景には、より戦略的な拠点への進出や、周辺勢力との関係性の変化があったものと考えられる。竜子山城は茨城県北最大級と評される規模を持ち、大塚氏が一定の勢力を保持し、それをさらに拡大しようとしていた可能性がうかがえる。この時期は上杉禅秀の乱(応永23年、1416年)など、関東地方においても大きな政治的変動があり、そうした混乱が在地領主である大塚氏にとって、勢力拡大の好機となった可能性も否定できない。
『赤浜妙法寺過去帳』には、永享2年(1430年)の条に「妙浄禅門 大ツカ 十二・十六」という記載があり、この人物が竜子山城へ移った初期の大塚氏の一族と考えられている 3 。また、大塚氏の当主はしばしば「信濃守(しなののかみ)」の官途名を名乗っており、文安4年(1447年)の同過去帳には「道秀禅門 九・廿九 大ツカ信州」と見え、この人物が初期の竜子山城主であったと推測される 3 。この「信濃守」の官途名は、後の大塚隆成や親成も称したとされ 4 、一族の家格や特定の系統を示す意識の表れであった可能性があり、単なる称号ではなく、当時の武家社会におけるステータスや家系の連続性を示す重要な要素であったと考えられる。
竜子山城は、別名を松岡城、手綱城とも呼ばれ、現在の茨城県高萩市下手綱字館の内に位置する 5 。城郭構造は階段的連郭式の戦国時代の山城であり、その規模は茨城県北で最大級とされている 5 。
大塚氏が城主となる以前の竜子山城は、鎌倉府の御所奉行であった寺岡但馬守などが支配していたとされる 3 。しかし、応永23年(1416年)に発生した上杉禅秀の乱において、寺岡氏らは禅秀方に加担して敗北し、多珂郡内の地頭職を失い手綱の地を去った 3 。この寺岡氏の失脚後、大塚氏が上手綱村に入り、竜子山城を拠点とするようになったと考えられる。大塚氏はその後、約170年間にわたり竜子山城を支配したと伝えられている 5 。ただし、大塚氏が竜子山城主となった正確な時期については諸説あり、 5 では応永27年(1410年)頃から大塚信濃守が城主であったとする一方、 3 では応永末年の移住説を唱え、永享2年(1430年)の記録を重視するなど、さらなる検討が必要である。
大塚親成の正確な生没年は不詳である 4 。史料には掃部助(かもんのすけ)、信濃守といった官途名で記されている 4 。
親成の父については、史料によって記述が異なり、慎重な検討を要する。
これらの情報の錯綜は、単純な誤記とは考えにくく、大塚氏内部の複雑な家督相続の経緯や、異なる系統の記録が並存していた可能性を示唆している。あるいは、隆成と政成が親子や兄弟といった近親関係にあり、記録の過程で混同が生じた可能性も考えられる。
また、「親成」という名のうち「親」の字は、当時の岩城氏当主であった岩城親隆(いかわ ちかたか、 10 、 27 にその名が見える)からの一字拝領(偏諱)である可能性が極めて高い。これが事実であれば、親成(あるいはその父の代)と岩城親隆との間に強い主従関係、あるいはそれに準ずる密接な関係が存在したことを物語る。偏諱は、主君が家臣に対して忠誠の証として、また家臣にとっては名誉として与えられるものであり、親成がこの名を得た時期を特定できれば、その頃の岩城氏と大塚氏の関係性をより具体的に理解する手がかりとなる。 26 では親成に「重成(しげなり)」という別名(または読み)があった可能性も示唆されている。
大塚氏略系図(親成周辺の諸説)
Mermaidによる関係図
16世紀半ばの常陸国から磐城国にかけての地域は、北に勢力を拡大する伊達氏、南に関東の覇権をうかがう後北条氏という二大戦国大名の狭間に位置していた。この地域において、在地の大名である岩城氏と佐竹氏は、互いに領土の拡大を目指し、時には同盟を結び、時には激しく敵対するという複雑な関係にあった。
佐竹氏は、当主・佐竹義昭(よしあき)、そしてその子・義重(よししげ)の代に積極的な勢力拡大策を推進し、常陸国内の統一を進めるとともに、北方の陸奥国南部(磐城方面)への進出を強めていた 10 。これは、隣接する岩城氏との間に深刻な緊張関係を生む要因となった。
大塚氏が本拠とした竜子山城は、地理的に岩城氏の勢力圏と佐竹氏の勢力圏の境界域に位置していた。この地政学的な条件が、大塚氏の存亡に大きな影響を与え、両者の勢力均衡の上に立って一族の安泰を図るという巧みな外交戦略を強いたと考えられる 3 。時には緩衝勢力として、また時には一方の勢力に与して他方と戦うという、国衆ならではの生き残りをかけた選択を迫られる立場にあった。
大塚親成は、当初岩城氏の家臣として活動していたと考えられる。父とされる大塚隆成が岩城重隆の家臣であったことからも 4 、親成もまた岩城氏に仕え、竜子山城主として国境の防衛という重要な役割を担っていたと推測される。しかし、この時期の具体的な活動内容については、史料が乏しく不明な点が多い。
大塚親成の活動において、佐竹氏との関係は極めて重要な意味を持つ。
これらの出来事は、大塚親成が単なる一地方領主ではなく、外交手腕と軍事指揮能力を兼ね備え、地域の政治・軍事情勢において一定の役割を果たす存在であったことを示している。
豊臣秀吉による天下統一後、文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)において、大塚親成は文禄2年(1593年)、主君である岩城氏に従い、肥前国名護屋(現在の佐賀県唐津市名護屋)に在陣した記録が残っている 4 。豊臣政権下の大名・国衆は朝鮮出兵への軍役を課されており、大塚氏もその一翼を担ったのである。この従軍は、大塚親成が豊臣政権による全国規模の政治・軍事動員体制に組み込まれていたことを明確に示している。名護屋への在陣は、兵力だけでなく多大な経済的負担を伴うものであり、大塚氏の規模からすれば相当なものであったと推測される。
天正11年(1583年)12月、大塚親成らは荒川八幡宮(所在地の詳細は不明だが、高萩市周辺と推定される)を造営し、神馬を奉納したという記録がある 8 。これは、地域領主としての宗教的権威の行使や、地域の安定と繁栄を祈願する行為として解釈できる。
大塚親成 関連年表
西暦(和暦) |
大塚親成・大塚氏の動向 |
関連する主君・勢力の動向(岩城氏・佐竹氏) |
中央・周辺情勢 |
典拠史料 |
1558年(永禄元年)頃 |
(大塚政成または親成)岩城重隆と佐竹義昭の和議を調停 |
岩城重隆、佐竹義昭と抗争 |
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4 |
1562年(永禄5年) |
(父とされる)大塚隆成が隠居 |
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4 |
1568年(永禄11年) |
佐竹義重の竜子山領進攻に対し、石滝台・愛宕坂で戦い撃退。島名城を陣小屋として使用 |
佐竹義重、竜子山領へ進攻 |
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13 |
1574年(天正2年)9月 |
高貫の陣に出陣し勝利(伊達軍を撃破との説あり) |
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8 |
1578年(天正6年)頃 |
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岩城常隆が家督を継承 |
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10 |
1583年(天正11年)12月 |
荒川八幡宮を造営、神馬を奉納 |
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8 |
1590年(天正18年) |
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岩城常隆病死。佐竹義重の三男・貞隆が岩城氏を継承 |
豊臣秀吉による奥州仕置 |
14 |
1593年(文禄2年) |
文禄の役において備前名護屋に在陣 |
岩城貞隆も朝鮮出兵に従軍 |
文禄の役 |
4 |
1596年(慶長元年) |
(親成隠居説あり)子・大塚隆通が竜子山から岩城領折木城へ知行替え |
岩城領内で検地・知行替え実施 |
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8 |
1600年(慶長5年) |
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岩城貞隆、関ヶ原の戦いで上杉景勝征伐に不参加 |
関ヶ原の戦い |
17 |
1602年(慶長7年) |
(大塚氏、所領を失う) |
岩城貞隆、改易。佐竹義宣、秋田へ減転封 |
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9 |
岩城氏の当主であった岩城親隆の子・常隆は、天正6年(1578年)頃に家督を継承した 10 。岩城常隆は、天正16年(1588年)に勃発した伊達政宗と蘆名・佐竹連合軍との間で行われた郡山合戦において、両者の仲介調停役を務めるなど、一定の政治的役割を果たしていた 14 。
しかし、天正18年(1590年)、岩城常隆は若くして病死してしまう 14 。常隆には実子がいなかったか、あるいはいても幼少であったため、常陸国の有力大名であり、岩城氏と複雑な関係にあった佐竹氏当主・佐竹義重の三男である貞隆(幼名:能化丸)が、岩城氏の名跡を継承し、岩城貞隆となった 13 。これは、佐竹氏の岩城氏に対する影響力が決定的なものとなったことを示す出来事であった。豊臣秀吉の中央政権もこの養子縁組を追認し、岩城貞隆は磐城平十二万石の所領を安堵された 14 。
利用者から提供された情報では、大塚親成は「主君・義重の子で岩城家を継いだ常隆に仕えた」とあるが、正確には佐竹義重の子である貞隆が岩城常隆の「跡を継いだ」ため、親成は新たな主君となった岩城貞隆に仕えることになった。この時期、大塚氏をはじめとする岩城氏の旧臣たちは、形式的には岩城家臣でありながら、実質的には佐竹氏の強い影響下に置かれるという複雑な立場に立たされた。主家の後継者問題は、隣接する有力大名である佐竹氏にとって、岩城家への影響力を決定的にする絶好の機会となり、この養子縁組は事実上の乗っ取りに近い形であったとも言える。岩城氏の伝統的な家臣団と、佐竹氏から送り込まれた新しい当主及びその側近との間に、潜在的な対立や緊張関係が生じた可能性は否定できない。
豊臣秀吉による奥州仕置(天正18年、1590年)を経て、岩城氏は豊臣政権公認の大名としての地位を確立したが、同時に佐竹氏による統制も一層強化された。豊臣政権がこの養子縁組を公認した背景には、当時急速に勢力を拡大していた伊達政宗を牽制するため、佐竹氏を通じて岩城氏をコントロール下に置こうとする中央政権の戦略的意図があったと考えられる 15 。
文禄4年(1595年)、あるいは慶長元年(1596年)頃、岩城領内において検地が実施され、それに伴い家臣団の知行替え(所領の配置換え)が行われた 9 。この知行替えは、豊臣政権下で進められた検地と知行割の一環であり、大名による家臣団統制を強化する策の現れであった。旧来の在地性の強い国衆を、長年慣れ親しんだ本拠地から切り離し、新たな知行地を与えることで、大名への依存度を高め、より中央集権的な支配体制を構築しようとする意図があった。
この時、大塚親成の子である大塚隆通(あるいは親成自身であったとする説もあるが後述する)は、長年の本拠地であった竜子山城から、岩城領内の標葉郡(しねはぐん)折木城(おりきじょう、現在の福島県双葉郡広野町)へと移された 8 。竜子山城は、大塚氏が長年にわたり支配してきた拠点であり、在地との結びつきも強固であったはずである。そこからの移転は、大塚氏の伝統的な権力基盤を弱体化させる効果があったと考えられる。一方、新たな知行地である折木城は、当時の岩城領の北辺に位置し、相馬氏との国境に近い戦略的に重要な場所であった可能性があり 9 、大塚氏のような経験豊富な武将が配置されたとも解釈できる。この知行替えは、岩城氏(実質的には佐竹氏)の領国経営の一環として、大塚氏の忠誠度や能力を評価した上で行われた人事であった可能性もある。
9 の記述によれば、大塚親成は文禄年間(1592年~1596年)に岩城領で検地が実施され、知行替えが行われた際に、石岡村岩淵(いしおかむらいわぶち)に隠居したと伝えられている。この石岡村岩淵が、旧領の竜子山に近い現在の茨城県高萩市石岡であるのか、あるいは別の場所を指すのかについては特定が必要であるが、もし息子の隆通への折木城への知行替えと同時期であるならば、これは家督を譲っての計画的な隠居であった可能性が高い。新しい領地(折木)での統治を若い世代に託すという意図があったのかもしれない。親成の正確な没年は不明である。
大塚親成の子は隆通(たかみち)とされ 8 、慶長元年(1596年)、父祖伝来の地である竜子山から、岩城領北方の標葉郡折木城へと移った 8 。 9 によれば、隆通は折木に移った後、上薊川(かみあざみがわ)の地に菩提寺として法壺山東禅寺(ほうこさんとうぜんじ)を開いた。これは、新たな領地における支配の正当性を示し、一族の精神的な拠り所を確立しようとする領主としての一般的な行動であり、大塚氏が単なる武辺一辺倒ではなく、領地経営や文化的側面にも意を用いていたことを示唆する。
慶長5年(1600年)に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、岩城氏当主・岩城貞隆は、当初は東軍の徳川家康方に与する姿勢を見せたものの、実兄である佐竹義宣(さたけ よしのぶ)の意向に従い、家康が命じた上杉景勝征伐への参陣を見送った 17 。佐竹義宣自身も、この戦いにおいて西軍寄りの中立とも取れる曖昧な態度をとった。
この結果、戦後処理において、慶長7年(1602年)、岩城貞隆はその所領である磐城平十二万石を没収され、改易処分となった 2 。主家である岩城氏が改易されたことにより、その家臣であった大塚隆通らも所領を失い、浪人の身となった 9 。
一方、佐竹義宣も関ヶ原での曖昧な態度を徳川家康に咎められ、常陸国水戸五十四万石から出羽国秋田二十万石へと大幅に減転封された 2 。
主家を失った大塚氏一族のその後については、いくつかの可能性が考えられる。
まず、旧主である佐竹氏を頼り、秋田へ移った一族がいた可能性が高い。 26 の系譜では、七代目親成、八代目隆通の後、佐竹氏の秋田への国替えに従ったとされており、実際に秋田藩(久保田藩)の分限帳や家臣録には「大塚」姓が見られる 21 。これは、これまでの主従関係や同盟関係の延長線上にある自然な選択肢であったと言える。
また、別の一族は仙台藩伊達氏に仕えた可能性も示唆されている。 9 には、江戸時代中期の安永五年(1776年)に、仙台藩領の角田(かくだ、現在の宮城県角田市)に住む大塚新左衛門という人物が、江戸への道中、隆通が開いた折木城下の東禅寺に立ち寄り、先祖の位牌を拝したという記録がある。角田は伊達氏の庶流である石川氏の所領であった時期があり、岩城氏の旧臣が伊達氏やその一門に仕官する例は実際に存在した 14 。仙台藩の家臣録にも大塚姓の記録があり 25 、天和3年(1683年)に改易されたとあるが、これが常陸大塚氏の系統に連なるものか否かはさらなる検証が必要である。 29 に見える伊達家臣の大塚左衛門は羽州置賜郡大塚邑の発祥とされており、本報告の対象である常陸大塚氏とは別系統の可能性が高いが、岩城旧臣が伊達家に仕えたという一般的な傾向は考慮に入れるべきである。
これらの事例は、戦国末期から江戸初期にかけて、主家を失った武士たちが、縁故を頼ったり、新たな仕官先を求めたりして流動した様相をよく示している。東禅寺の記録は、離散した一族が数世代を経てもなお自らのルーツを意識し、菩提寺を訪れるという、武家の家意識の強さを物語る興味深い事例である。
大塚親成は、常陸国と磐城国の国境という、戦国時代の動乱が絶えなかった地において、小規模な領主でありながらも、巧みな外交手腕と確かな武勇をもって一時期その勢力を維持し、岩城氏と佐竹氏という二つの有力な戦国大名の間で重要な役割を果たした人物として評価することができる。
特に永禄年間における佐竹・岩城間の和議調停への関与や、佐竹氏による軍事侵攻を一時的にではあれ撃退したとされる軍事的手腕は、彼の政治的・軍事的能力の高さを示すものである。彼の生涯は、戦国時代の国衆(在地領主)が、いかにして激動の時代を生き抜こうとしたかを示す縮図と言える。時には大名間の調停役として独自の存在感を示し、時には武力で自領を防衛し、また時には強大な勢力に従属することで、家の存続を図った。これらの行動は、単なる日和見主義と断じるべきではなく、限られた選択肢の中で最善を尽くそうとする現実的な判断に基づいていたと考えられる。
豊臣政権による天下統一、そして関ヶ原の戦いという、日本史における大きな歴史の転換期に翻弄されながらも、一族の存続に努めたその姿は、戦国時代末期に多くの国衆が辿った運命を象徴している。彼の名は、中央の歴史において大きく取り上げられることは少ないかもしれないが、常陸国北部から磐城国南部にかけての地域における戦国時代の歴史を理解する上で、欠かすことのできない人物の一人と言えるであろう。
大塚親成のような人物は、著名な戦国大名の陰に隠れがちであるが、彼ら国衆の動向こそが、戦国時代の地域社会の実態や、大名権力の形成過程を具体的に明らかにする鍵となる。親成に関する断片的な史料を繋ぎ合わせ、その生涯を再構築する作業は、地域史研究の深化に貢献するものであり、彼のような人物に光を当てることで、戦国時代の多様な武士の生き様や、中央と地方の複雑な関係性がより鮮明になる。
本報告書では、戦国時代の武将・大塚親成について、現存する史料や研究成果に基づき、その出自、生涯、事績、そして彼を取り巻く大塚一族の動向を概観した。大塚親成は、常陸国と磐城国の国境地帯に位置する竜子山城を拠点とし、岩城氏の家臣として、また時には佐竹氏との間で複雑な関係を取り結びながら、激動の時代を生き抜いた人物である。永禄年間の佐竹氏との攻防や和議調停、文禄の役への従軍、そして豊臣政権下での知行替えといった出来事は、彼の武将としての側面と、国衆としての立場を如実に示している。
しかしながら、史料の制約から、大塚親成の正確な生没年、父が隆成であるか政成であるかの最終的な確定、隠居後の詳細な動向など、依然として不明な点が多く残されている。特に、父に関する情報は錯綜しており、今後の史料発見や、現存する大塚氏関連文書(花押などを含む)のより詳細な分析が待たれる。
今後の研究課題としては、まず未発見の古文書の探索が挙げられる。地方の旧家や寺社には、いまだ光の当たっていない貴重な史料が眠っている可能性があり、それらが大塚氏や親成の実像を解明する手がかりとなるかもしれない。また、関連する地域の自治体史や郷土史研究のさらなる進展も期待される。花押の比較研究なども、人物比定や年代確定の一助となるであろう。
大塚親成という一人の武将の生涯を追うことを通じて、戦国時代における国衆の多様な生き様や、彼らが置かれた厳しい状況、そして中央政権の動向が地方に及ぼした影響の大きさを具体的に考察することができた。彼の名は歴史の表舞台で大きく語られることは少ないかもしれないが、地域史を豊かに彩る重要な存在として、今後も研究が深められるべき人物であると言えよう。