最終更新日 2025-06-28

大宝寺義興

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出羽国庄内の落日 ― 大宝寺義興、存亡を賭けた五年間の軌跡

序章:出羽の驍将、大宝寺氏の系譜と庄内

武藤氏から大宝寺氏へ ― 庄内における勢力基盤の確立

出羽国庄内地方にその名を刻んだ大宝寺氏は、その源流を辿れば、鎮守府将軍・藤原秀郷に連なる名門、武藤氏に行き着く 1 。九州の地で勢力を誇った少弐氏とは同族であり、その出自は東国における有力武家としての格の高さを物語る。

大宝寺氏の庄内における歴史は、鎌倉幕府の成立期にまで遡る。文治5年(1189年)、源頼朝による奥州藤原氏征伐の功により、武藤頼平の子・氏平が長講堂領出羽国大泉荘の地頭職に任じられたことが、その始まりとされる 1 。当初、一族は本姓である武藤姓や、地頭職に由来する大泉姓を名乗っていた 1 。しかし、南北朝期に至り、大泉荘の中心地であった大宝寺(現在の山形県鶴岡市)に城郭を構え、その地名を苗字として大宝寺氏を称するようになった 1

室町時代には、幕府と直接結びつく京都扶持衆の地位を得て、一時は奥州探題である大崎氏に匹敵するほどの権勢を誇った 2 。しかし、戦国乱世の荒波は、この名門にも容赦なく押し寄せた。15世紀末から16世紀初頭にかけて、庶流である砂越氏との内紛が激化し、天文元年(1532年)には居城の大宝寺城を焼失するほどの打撃を受ける 2 。この内訌により、大宝寺氏はその勢力を大きく減退させることとなった。

戦国期における大宝寺氏の立場と周辺勢力

本報告書の主眼である大宝寺義興が歴史の表舞台に登場する直前、すなわち父・義増の代には、大宝寺氏はかつての栄光を失い、存亡の危機に瀕していた。弱体化した家勢を維持するため、北に隣接する仙北の小野寺氏や、地理的・伝統的に繋がりの深い越後の本庄氏、そしてその主筋である上杉氏との連携によって、かろうじてその命脈を保っている状況であった 5

大宝寺氏が本拠とした庄内地方は、肥沃な庄内平野がもたらす豊かな穀倉地帯であり、また日本海交易の重要拠点である酒田港を擁していた。この経済的・戦略的重要性ゆえに、庄内は周辺の有力大名、すなわち南の越後を支配する上杉氏、東の内陸部から勢力を拡大する最上氏、そして北の湊・檜山を拠点とする安東氏にとって、垂涎の的であった。この地理的条件こそが、大宝寺氏が常に外部勢力の脅威に晒されるという、極めて困難な立場を規定していたのである。

この状況下で、大宝寺氏の当主が下す判断には、単なる軍事力や領土の計算だけでは測れない、複雑な要因が絡み合っていた。鎌倉時代以来、約四百年にわたり庄内を治めてきた武藤氏宗家としての自負と、現実の勢力衰退という厳しい現実との乖離。この「名門としての矜持」は、後の義興の代における外交政策、特に強大な最上氏への安易な臣従を拒み、あくまで独立を志向して上杉・本庄氏との連携という茨の道を選択する、その根底に流れる精神的な支柱であったと推察される。それは、家の存続を賭けた合理的な判断であると同時に、四百年の歴史を自らの代で屈辱のうちに終わらせるわけにはいかないという、当主としての悲壮な覚悟の表れでもあった。

第一章:兄・義氏の栄光と凋落 ― 激動の家督相続

大宝寺義興の治世を理解するためには、彼の家督相続の直接的な原因となった兄・大宝寺義氏の生涯を避けて通ることはできない。義氏が遺した栄光と、その破滅的な最期こそが、義興が背負うことになった宿命の全てを物語っている。

「悪屋形」と呼ばれた兄・大宝寺義氏の拡大政策とその実像

大宝寺義興の兄であり、大宝寺氏17代当主であった義氏は、天文20年(1551年)に義増の長男として生まれた 6 。彼の青年期は、大宝寺氏の苦難を象徴する出来事から始まる。永禄11年(1568年)、父・義増が越後の本庄繁長の乱に与したため、上杉謙信の軍勢に攻め込まれる。この時、和睦の条件として、義氏は人質として越後の春日山城へ送られた 6 。この越後での経験は、彼と上杉氏との間に強固な関係を築く礎となった。

永禄12年(1569年)、父の隠居に伴い家督を相続した義氏は、当初、家老の土佐林禅棟の後見を受けていた 6 。しかし、若き当主は現状維持に甘んじることなく、失われた権威の回復に乗り出す。元亀2年(1571年)、家中最大の実力者であった土佐林氏をはじめとする反大宝寺勢力を徹底的に討伐 6 。軍事力によって家中の統制を確立すると、出羽国の田川、櫛引、遊佐の三郡を完全に掌握し、大宝寺氏往年の勢威を一時的に回復させることに成功した。これは義氏、弱冠20歳での偉業であった 6

その後、義氏は外交においても積極策を採る。天正6年(1578年)に頼みとしていた上杉謙信が急死し、御館の乱で越後が混乱すると、義氏は新たな後ろ盾を求め、当時天下人であった織田信長に接近した。天正7年(1579年)、信長に馬や鷹を献上することで誼を通じ、破格の待遇である「屋形号」を許される 6 。これにより、中央政権の権威を背景に、庄内における自らの支配力を絶対的なものにしようと図ったのである。

しかし、この急進的な拡大政策と権威の追求は、同時に大きな歪みを生んでいた。由利郡への度重なる遠征は、領民に重い軍役と税の負担を強いた。また、屋形号を得るために、武藤宗家が世襲してきた羽黒山別当の座を弟の義興に譲ったことは、羽黒山の信徒たちの反発を招いた 6 。こうした求心力の低下から、義氏は領民や国人衆の一部から「悪屋形」と渾名されるに至る 6 。彼の栄光は、常に危うい基盤の上に成り立っていた。

天正11年(1583年)の政変:家臣の謀反と義氏の横死

義氏の権威が揺らぐ中、その隙を虎視眈々と狙っていたのが、出羽統一を目指す最上義光であった。義光は、義氏に不満を抱く大宝寺家臣団への調略を水面下で活発に進めていた 9

そして天正11年(1583年)3月、その時は訪れた。義氏の側近であり、日本海交易の要衝・酒田の代官を務めていた前森蔵人(後の東禅寺義長)が、最上義光と通じて突如謀反の兵を挙げたのである 8 。前森は、義氏から預かった軍勢をそのまま逆用し、主君の居城である尾浦城を包囲した 6 。この謀反には、かつて大宝寺氏と内紛を繰り返した砂越氏や、来次氏といった庄内の有力国人の多くが同調、あるいは日和見を決め込み、義氏は完全に孤立した 6

万事休すを悟った義氏は、城外の高館山にて自害して果てた。享年33。「打太刀のひびき即ち覚めにけり、実に夢の世の人のたわむれ」という辞世の句を残しての、あまりに早すぎる最期であった 6

義興が継承した「負の遺産」

兄の横死という未曾有の事態を受け、大宝寺義興は家督を継承した。しかし、彼が相続したのは、領地や財産といった「正の遺産」ではなかった。それは、崩壊した統治システムと、外部勢力が深く介入した内部分裂という、絶望的な状況そのものであった。

義興が当主となった時点で、大宝寺家は主君が家臣に殺害されるという、武家社会において最も屈辱的な形でその権威を失墜させていた。家臣団は、新当主の義興に従う者、兄を殺害し最上氏の後ろ盾を得て酒田を支配する東禅寺義長に与する者、そして両者の間で形勢を窺う日和見主義者とに分裂し、もはや一枚岩の体をなしていなかった。義興は、兄を殺した謀反人を処断する力さえ持たなかったのである。

最大の脅威である最上義光は、この内部抗争に乗じて大宝寺家中に協力者を確保し、庄内への影響力を決定的なものとしていた。義興の治世は、この兄が作り出した「権力構造の真空」を埋めるための、苦闘の連続となることが運命づけられていた。彼の最初の課題は領土の維持や拡大ではなく、誰が味方で誰が敵かさえ定かでない家臣団をいかにして再掌握するかという、極めて内向きで困難な問題だったのである。

第二章:大宝寺義興の登場と存亡を賭けた外交戦略

兄・義氏の横死という、大宝寺家四百年の歴史の中でも類を見ない危機に際し、当主となった大宝寺義興。彼は、崩壊寸前の家をいかにして立て直し、存続を図ったのか。その短い治世は、生き残りを賭けた必死の外交努力に彩られている。

窮地における舵取り:当初の動向

大宝寺義興は、天文23年(1554年)、大宝寺義増の次男として生を受けた 8 。家督を継ぐ以前は、櫛引郡の丸岡城を居城とし、「丸岡兵庫」と称されていたことが記録に残っている 12 。天正7年(1579年)、兄・義氏が織田信長から屋形号を得るにあたり、それまで武藤宗家が世襲してきた羽黒山別当の職を譲り受けている 8 。この事実は、義興が単なる城主の一人ではなく、兄に次ぐ正統な後継者候補と目されていたことを強く示唆している。

天正11年(1583年)3月、兄の突然の死を受け、義興は本拠である尾浦城に入り、大宝寺氏第18代当主として、この未曾有の国難に立ち向かうこととなった 8

上杉・伊達への接近と援助要請

家督を継いだ義興が直面したのは、最上義光による圧倒的な軍事的圧力であった。これに対抗するため、義興は外交に活路を見出そうとする。天正12年(1584年)、彼は越後の上杉景勝に対し、馬や鷹を献上して援助を要請した 8 。驚くべきことに、この時の使者には、兄を死に追いやった張本人である東禅寺筑前守(前森蔵人)の名も連なっている 8

この一見、不可解な行動は、当時の大宝寺家が置かれた極めて脆弱な立場を浮き彫りにしている。義興には、兄の仇である東禅寺氏を単独で討伐する力はなく、むしろ彼を交渉のテーブルに着かせ、庄内全体が一応は自らの統制下にあるという体面を保ち、上杉氏との交渉に臨む以外に選択肢がなかったのである。これは、個人的な怨恨を超え、家の存続という至上命題を優先した、義興の政治家としての冷静さと、彼が直面した厳しい現実認識の表れであった。

しかし、庄内の情勢は安定しない。天正14年(1586年)春には、その東禅寺氏らが北庄内で反乱を起こす。この危機に際し、義興は上杉氏だけでなく、米沢の伊達政宗にも助けを求めるという、まさに全方位に救いの手を伸ばす外交を展開した 8 。義興の治世は、敵と味方が目まぐるしく入れ替わる、綱渡りの連続であった。


【表1:大宝寺義興 治世関連年表(1583年-1587年)】

年(和暦/西暦)

大宝寺義興の動向

周辺勢力の動向

備考

天正11年 (1583)

3月、兄・義氏が家臣・前森蔵人の謀反により自害。義興が家督を相続。

前森蔵人、東禅寺義長と改名し最上義光の後ろ盾で酒田を支配。

大宝寺氏の権威失墜が決定的に 8

天正12年 (1584)

東禅寺義長と共に上杉景勝に馬・鷹を送り援助を要請。この頃「義高」と称す。

最上義光、庄内への圧力を強める。

兄の仇と共同で外交交渉を行うという異常事態 8

天正13年 (1585)

最上方の清水城を攻めるも、伊達政宗の仲介で和議。

-

伊達氏が調停役として介入 12

天正14年 (1586)

春、東禅寺氏らが北庄内で反乱。伊達政宗に援助を要請。

東禅寺氏、最上氏と結び反乱。

敵味方の関係が流動的であったことを示す 8

天正15年 (1587)

本庄繁長の次男・千勝丸(義勝)を養子に迎える。10月、東禅寺氏の再度の反乱と最上軍の侵攻を受け、敗北し自害(または連行)。

本庄繁長、上杉家重臣として新発田の乱を鎮圧中。最上義光、庄内へ大軍を侵攻させる。

養子縁組が最終戦争の引き金となる 14


【図1:大宝寺義興を巡る主要人物関係図(天正15年時点)】

Mermaidによる関係図

graph TD subgraph 敵対勢力 Mogami[最上義光] Tozenji[東禅寺義長] end subgraph 大宝寺家 Yoshioki[大宝寺義興] Yoshikatsu[本庄義勝(養子)] end subgraph 同盟勢力 Uesugi[上杉景勝] Honjo[本庄繁長] end Date[伊達政宗] Mogami -- 支援・連携 --> Tozenji Tozenji -- 謀反・敵対 --> Yoshioki Mogami -- 侵攻・敵対 --> Yoshioki Yoshioki -- 養子縁組 --> Yoshikatsu Yoshikatsu -- 実父 --> Honjo Honjo -- 主君 --> Uesugi Yoshioki -- 援助要請 --> Uesugi Yoshioki -- 援助要請・調停依頼 --> Date


第三章:本庄氏からの養子縁組 ― 上杉家との連携強化

最上氏の圧力が日増しに強まる中、大宝寺義興は家の存続を賭けた最後の大勝負に出る。それが、上杉氏の重臣・本庄繁長の次男を養子に迎えるという、極めて大胆な外交的決断であった。

決断の背景:なぜ最上への臣従ではなく上杉との連携を選んだのか

天正15年(1587年)当時、大宝寺家が単独で独立を維持することは、もはや不可能となっていた。義興の前に残された道は、大きく分けて二つ。一つは、強大な最上義光の軍門に降り、その支配下で家名を保つ道。もう一つは、上杉景勝との連携をさらに強固なものとし、その支援を背景に最上氏と対決する道であった。

義興は後者を選んだ。この決断の背景には、前述した武藤宗家としての名門の矜持が、最上氏への屈辱的な臣従を許さなかったという精神的な要因があったことは想像に難くない。加えて、上杉氏とは父・義増の代からの主従関係があり、兄・義氏も人質として越後で過ごした経験があるなど、歴史的・人的な繋がりが深かった 5 。最上氏との関係が、調略と裏切りに満ちた不信の関係であったのに対し、上杉氏との関係には、まだ信頼の余地が残されていた。

『本庄家譜』に見る養子縁組の経緯と、その戦略的意義

天正15年(1587年)、義興は越後村上城主・本庄繁長の次男である千勝丸(後の大宝寺義勝、武藤義勝)を養子として正式に迎えた 8 。この事実は、本庄家に伝わる『本庄家譜』にも記されており、歴史的信憑性は極めて高い 8

この養子縁組は、単なる同盟強化策ではなかった。それは、大宝寺氏の後継者を外部から迎えることで、家の存続そのものを上杉・本庄連合に委ねることを意味した。この一手は、義興自身の死後までをも見据えた、高度な戦略的意図を内包していた。万が一、自らが戦場で討たれたとしても、養父である本庄繁長と、大宝寺家の正統な後継者となった義勝は、「跡目相続」と「弔い合戦」という大義名分を掲げて、庄内に軍事介入することが可能となる。

これは、自らが滅びることを半ば覚悟の上で、敵である最上氏が庄内地方を完全に手中に収めることを阻止するための、いわば「ポイズン・ピル(毒薬条項)」戦略であった。たとえ自分が倒れても、上杉・本庄勢が庄内を奪還し、最上氏の完全勝利は許さない。自らの命と引き換えに、敵に最大の打撃を与えることを意図した、悲壮かつ計算され尽くした最後の切り札だったのである。

賭けの代償:養子縁組が引き起こした新たな火種

しかし、この起死回生を狙った一手は、皮肉にも義興自身の命運を縮め、大宝寺氏の滅亡を早める結果に繋がった。本庄氏からの養子縁組という報は、庄内の親最上派国人、とりわけ東禅寺義長らを強く刺激した。「このままでは庄内が完全に上杉氏の支配下に置かれてしまう」という危機感を抱いた彼らは、最上義光と連携し、大宝寺氏を打倒するための最終的な軍事行動へと踏み切るのである 15 。義興が家の存続を賭けて放った矢は、ブーメランのように自らに返り、最後の戦いの火蓋を切ることになった。

第四章:最上義光の庄内侵攻と大宝寺氏の最期

天正15年(1587年)秋、大宝寺義興の運命を決定づける最後の戦いが始まった。養子縁組に反発する内部勢力と、その機を逃さず介入する外部勢力によって、大宝寺氏は壊滅的な打撃を受けることになる。

天正15年(1587年)の最終戦争:東禅寺氏の蜂起と最上軍の介入

同年10月、本庄氏からの養子縁組に強く反発した東禅寺義長が、最上義光と呼応して再び反乱の兵を挙げた 8 。義興はこれを討伐すべく出陣するが、まさにその時を待っていたかのように、最上義光は六十里越街道を越え、庄内へと大軍を侵攻させた 8

義興の軍は、正面から進撃してくる最上本隊と、背後から呼応する東禅寺勢によって挟撃されるという、絶望的な状況に陥った 12 。衆寡敵せず、大宝寺軍は総崩れとなり、義興は居城である尾浦城へと敗走した。

尾浦城の落城と義興の敗北

最上・東禅寺連合軍の猛攻の前に、尾浦城はなすすべもなく包囲され、やがて落城した 4 。これにより、大宝寺義興の敗北は決定的となった。

自害か、あるいは ― 義興の最期を巡る通説と異説の検討

大宝寺義興の最期については、複数の説が存在し、今日においても完全な定説を見ていない。

通説(自害説):

最も広く知られているのは、義興が敗北を悟り、城中もしくはその近辺で自害したという説である 4。この説に基づけば、鎌倉時代から約四百年にわたり庄内を支配してきた武藤系大宝寺氏は、この義興の死をもって実質的に滅亡したということになる 8。これは、戦国敗者の典型的な末路として、多くの史書で語られてきた。

異説(助命・連行説):

一方で、注目すべき異説が存在する。それは、義興は自害せず、最上軍に捕縛され、助命の上で最上氏の本拠である山形へ連行されたというものである。この説は、『鶴岡市史』や、義興がかつて居城とした『丸岡城跡』の解説文など、複数の信頼できる資料において「一説には」という形で言及されている 8。さらに、ある資料では、山形・谷地に送られ、数年後にその地で没したと、より具体的に記されている 17。

この「助命説」が事実であった場合、その背景には最上義光の高度な政治的計算があった可能性が浮かび上がる。権謀術数に長けたことで知られる義光にとって 10 、敵将である義興は、単に排除すべき存在ではなく、政治的に利用価値のある「駒」であったのかもしれない。

例えば、庄内統治を円滑に進めるため、旧主である義興を傀儡として生かしておくという選択肢。あるいは、大宝寺氏と深い関係を持つ上杉氏との外交交渉において、義興の身柄を有利な取引材料として使うという目的も考えられる。また、「大宝寺義興は自害せず、最上様が寛大にもお命を助けられた」という情報を庄内に流布させること自体が、義光の徳の高さを内外に示す、効果的なプロパガンダとして機能した可能性もある。

したがって、たとえ義興が最終的に自害したのが事実であったとしても、「助命説」という異説が複数の資料に残されているという事実は、彼の死が単なる一個人の敗北ではなく、最上義光の戦後処理における政治戦略の一環として、その情報が操作・利用された可能性を示唆している。大宝寺義興は、その死の瞬間に至るまで、そして死後さえも、巨大な政治の渦に翻弄され続けたのである。

第五章:残響 ― 義興の死と庄内の行方

大宝寺義興の死は、庄内地方の混乱の終息を意味しなかった。むしろそれは、上杉氏と最上氏という二大勢力が庄内の覇権を巡って直接激突する、より大規模な紛争の序曲であった。

復讐の軍勢:本庄繁長・義勝父子による庄内侵攻

義興の死と、庄内が最上氏の支配下に入ったという報は、越後の本庄繁長のもとに届けられた。養子・義勝(千勝丸)を大宝寺氏に送り込んだばかりの繁長にとって、これは到底座視できる事態ではなかった。彼は上杉景勝の支援を取り付け、養子・義勝と共に、報復と庄内奪還のための軍備を整えた 14

天正16年(1588年)8月、豊臣秀吉によって天下統一の基本方針である「惣無事令」が発令された直後であったにもかかわらず、本庄繁長・義勝父子は大軍を率いて庄内へと侵攻を開始した 14

十五里ヶ原の戦い:上杉対最上の代理戦争

本庄軍の侵攻に対し、最上義光から庄内支配を任されていた東禅寺義長・勝正兄弟と、最上からの援軍がこれを迎え撃った。両軍は、大宝寺氏のかつての本拠・尾浦城下の十五里ヶ原で激突した 17

この戦いは、兵力で勝る本庄軍の圧勝に終わった。東禅寺義長・勝正兄弟はこの戦いで討死し、最上軍は2500人以上の死者を出すという壊滅的な敗北を喫した 17 。この結果、庄内地方は最上氏の手を離れ、一時的に上杉氏(実質的には本庄氏)の支配下に入ることとなった 18

大宝寺義興が自らの死を覚悟して打った「養子縁組」という一手は、まさに彼の狙い通り、最上氏による庄内の完全支配を阻止し、本庄・上杉勢による軍事介入を成功させるという結果をもたらしたのである。

武藤系大宝寺氏、四百年の歴史の終焉

十五里ヶ原の戦いに勝利した養子・義勝は、大宝寺氏の名跡を継ぎ、天正17年(1589年)には上杉景勝を通じて豊臣秀吉に臣従、庄内領主としての地位を公認された 14 。しかし、その栄光は長くは続かなかった。

惣無事令違反である十五里ヶ原の戦いや、その後の奥州仕置を経て発生した庄内藤島一揆の責任を問われる形で、庄内は秀吉によって没収されてしまう 4 。大宝寺義勝は領地を失い、その後は上杉家の家臣として米沢に移った。これにより、鎌倉時代から約四百年にわたり庄内を本拠としてきた武藤系の名跡は事実上途絶え、大宝寺氏の歴史はその幕を閉じたのである 4

義興の死から始まった一連の出来事は、戦国末期の東北地方において、在地領主間のローカルな紛争が、豊臣中央政権による新たな秩序形成(惣無事令・奥州仕置)の波に飲み込まれていく、過渡期の様相を象徴的に示している。義興の悲劇は、一個人の物語であると同時に、地方の武力闘争で領土の帰趨が決まる時代が終わりを告げ、中央政権の政治的裁定が地方の運命を左右する新しい時代へと移行していく、その転換点に位置づけられるのである。

結論:大宝寺義興の生涯が戦国史に刻んだもの

大宝寺義興。その名は、兄・義氏や、敵対した最上義光といった人物の陰に隠れ、戦国史の表舞台で大きく語られることは少ない。しかし、彼のわずか五年間の治世は、戦国末期の東北地方が経験した激動と、そこに生きた武将の苦悩を凝縮した、極めて示唆に富む事例である。

悲劇の当主か、有能な戦略家か ― 義興の再評価

結果として家を滅ぼしたという事実から見れば、義興は「悲劇の当主」という評価を免れない。しかし、彼の行動を詳細に分析する時、その評価は一変する。彼が継承したのは、すでに崩壊寸前の家臣団と、外部勢力の深い介入という絶望的な状況であった。その中で彼は、限られた手札を駆使し、兄の仇とさえ一時的に手を結ぶという非情な現実主義に徹し、家の存続のために奔走した。その姿は、単なる悲劇の主人公ではなく、冷静な「危機管理者」としての側面を強く浮かび上がらせる。

特に、本庄氏からの養子縁組という決断は、自らの死後までをも見据えた、極めて高度な戦略的思考の産物であった。それは、無力な当主では到底考えつくことのできない一手であり、彼を単なる敗者として片付けることを許さない。義興は、自らの命と引き換えに、敵の完全勝利を阻み、一矢を報いることに成功したのである。

東北地方における戦国末期の勢力争いの中での大宝寺氏の位置づけ

大宝寺義興の五年間の苦闘は、出羽国において、大宝寺氏のような在地領主の時代が終わりを告げ、最上・伊達・上杉といった、より広域を支配する大大名が覇を競う時代へと完全に移行する、その最終局面を象徴している。彼の敗北と死は、一個人の悲劇に留まらず、中世以来続いてきた「庄内における武藤氏の支配」という、一つの時代の終焉を告げる鐘の音であった。

大宝寺義興の生涯は、強大な勢力に挟まれた中小領主が、いかにして生き残りを図り、そして時代の大きなうねりの中に消えていったかを示す、普遍的な物語でもある。彼の名は、華々しい勝者の歴史の影に埋もれた、無数の敗者たちの苦悩と矜持を、静かに、しかし雄弁に後世に伝えている。

引用文献

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  2. 大宝寺氏 http://www.newtenka.cn/daming/02/wujiang/06/06.htm
  3. 寄稿 「鶴ケ岡城の変遷」 斎藤秀夫 - 米沢日報デジタル http://yonezawa-np.jp/html/feature/2019/history32-history-turugaokajou/tsurugaokajou.html
  4. 大宝寺氏(だいほうじうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E6%B0%8F-1182264
  5. 大宝寺義増 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E5%A2%97
  6. 大宝寺義氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
  7. zh.wikipedia.org https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%B6%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F#:~:text=%E5%A4%A7%E5%AF%B6%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F%EF%BC%88%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F%EF%BC%8C%E3%81%A0%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86%E3%81%98,%E6%BB%BF%E5%8D%83%E4%BB%A3%EF%BC%8C%E9%80%9A%E7%A8%B1%E5%9B%9B%E9%83%8E%E6%AC%A1%E9%83%8E%E3%80%82
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  10. 最上義光の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/50952/
  11. 大宝寺义氏- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%A4%A7%E5%AF%B6%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
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  15. 本庄繁長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7
  16. 大宝寺義勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E5%8B%9D
  17. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
  18. 十五里ヶ原古戦場 (じゅうごりがはらこせんじょう) - 山形県 https://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1612
  19. 十五里ヶ原合戦 https://joukan.sakura.ne.jp/kosenjo/juugorigahara/juugorigahara.html
  20. 六十里越街道の歴史~歴史変遷・戦国時代の六十里越街道 [ 酒田河川国道事務所 ] https://www.thr.mlit.go.jp/sakata/road/60history/004.html
  21. 大宝寺義勝とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E5%8B%9D