最終更新日 2025-06-12

大崎義宣

「大崎義宣」の画像

戦国期奥羽の奔流に散った貴公子:大崎義宣の生涯

1. 序論

本報告書は、戦国時代の武将、大崎義宣の生涯について、現存する史料や研究成果に基づき、詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とします。大崎義宣(幼名:小僧丸)は、陸奥国の戦国大名・伊達稙宗の次男として生まれ、後に奥州探題の名門である大崎氏の養嗣子となった人物です 1 。彼の生涯は、伊達氏の勢力拡大政策と大崎氏内部の複雑な権力闘争、そして伊達氏自身の内訌である天文の乱に深く翻弄されたものでした。

当時の陸奥国では、室町幕府の権威が著しく低下し、各地で国人領主が実力で割拠する戦乱の時代でした。奥州探題として高い家格を誇った大崎氏は、斯波氏の末裔であり、足利一門として奥州管領などを務めた家柄でしたが 2 、戦国時代に至っては広域の軍事・行政権限を行使できなくなり、現在の宮城県北西部に位置する大崎五郡(加美・玉造・志田・遠田・栗原)に勢力を持つ一大名へとその地位を低下させていました 1 。一方で、伊達氏は急速に勢力を伸張させ、奥羽地方随一の実力を持つに至り、周辺諸氏への影響力を強めていました 1 。大崎氏もまた、その強大な伊達氏の影響下に置かれつつある状況でした。大崎氏が有していた「奥州探題」という伝統的な権威は、実効支配力の弱体化にもかかわらず、依然として一定の価値を持っていました。伊達氏のような新興勢力にとって、この権威を手中に収めることは、自らの支配を正当化し、さらなる勢力拡大を図る上で有利に働く可能性がありました。伊達稙宗が次男・義宣を大崎氏の養子として送り込んだ背景には、単に大崎氏の領土や家臣団を掌握するという直接的な目的だけでなく、この「奥州探題」という名目上の権威をも伊達氏の影響下に置こうとする深謀遠慮があったと考えられます。このため、義宣の存在は、伝統的権威を保持しようとする大崎氏と、それを支配下に置こうとする伊達氏という二つの力の衝突点に位置づけられ、彼の立場は極めて不安定なものとならざるを得ませんでした。

以下に、大崎義宣の生涯と関連する出来事をまとめた年表を提示します。

表1:大崎義宣関連年表

年代 (西暦)

元号

大崎義宣の動向

大崎氏・伊達氏等の関連動向

主な典拠

1526年

大永6年

伊達稙宗の次男として誕生(幼名:小僧丸)

4

1530年

享禄3年

大崎高兼(10代当主)死去、弟の義直が11代当主となる

5

1533年頃 (説1)

天文2年頃

大崎義直の養嗣子として入嗣か

1

1534年

天文3年

大崎氏領内で内紛勃発(天文の内訌、~1536年)

1

1536年

天文5年

大崎義直、伊達稙宗の援軍を得て内紛鎮圧

1

1537年頃 (説2)

天文6年頃

大崎義直の養嗣子として入嗣

1

(不明)

大崎高兼の娘・梅香姫と婚姻

5

1540年

天文9年

伊達稙宗、小僧丸(義宣)を強引に大崎義直の娘梅香姫に婿入りさせ入嗣させる

7

1541年頃

天文10年頃

大崎氏領内で再乱、伊達稙宗が介入し鎮圧

1

1542年

天文11年

伊達氏で天文の乱勃発(~1548年)。伊達稙宗と嫡男・晴宗が対立

8

実父・伊達稙宗方に与する

大崎義直は伊達晴宗方に与する

8

1543年

天文12年

元服し、大崎三郎義宣と名乗る

7

1544年

天文13年

不動堂を拠点とし、大崎義直軍と対陣

1

1547年

天文16年

不動堂で大崎義直軍の攻撃を受ける

1

1548年

天文17年

不動堂で大崎義直軍の攻撃を受ける。妻・梅香姫死去

天文の乱終結。伊達稙宗が隠居し、晴宗が家督継承

8

1550年

天文19年

葛西領へ逃亡を図るも、道中の桃生郡辻堂にて大崎義直の手により殺害される(享年25)

大崎氏の家督は義直の実子・大崎義隆が継承

6

2. 出自と血筋

大崎義宣は、大永6年(1526年)、伊達氏14代当主・伊達稙宗の次男として生を受けました 4 。幼名は小僧丸と伝えられています 1 。実父である稙宗は、14人の息子と7人の娘をもうけ、これらの子女を周辺の有力大名家へ婚姻させたり養子として送り込んだりする戦略を積極的に展開し、伊達氏の勢力圏を巧みに拡大していきました 14 。義宣の大崎氏への養子入りも、この稙宗による広範な拡張政策の一環として位置づけられます。

稙宗の時代、伊達氏は陸奥国守護職に任じられるなど 2 、名実ともにかつてないほどの勢威を誇り、奥羽地方における覇権確立に向けて大きく前進していました。内政面においても、稙宗は天文5年(1536年)に全169条にも及ぶ詳細な分国法『塵芥集』を制定し 14 、領国経営の安定化と家臣団統制の強化に努め、伊達氏のさらなる発展の礎を築きました。義宣の存在は、このような父・稙宗の野心的な膨張政策を推進するための重要な「駒」の一つであったと言えるでしょう。稙宗にとって、伝統ある大崎氏に自身の息子を送り込むことは、大崎氏を実質的な支配下に置き、その権威をも利用するための重要な布石でした。しかし、こうした強引とも言える介入や、他の大名家への子息の送り込みは、伊達家臣団内部や、特に嫡男である伊達晴宗からの不満を徐々に増大させることになりました 1 。結果として、これらの政策は伊達氏内部の深刻な亀裂、すなわち天文の乱を引き起こす遠因となり、義宣自身の運命をも大きく狂わせる要因となったのです。

義宣の生涯を理解する上で、彼を取り巻く主要な人物との関係を把握することは不可欠です。以下にその関係図を示します。

表2:大崎義宣関連主要人物とその関係

人物名

義宣との関係

備考

主な典拠

大崎義宣

本人

伊達稙宗次男、大崎義直養子、梅香の夫

伊達稙宗

実父

伊達家14代当主、天文の乱で晴宗と対立

4

大崎義直

養父

大崎家11代当主、高兼の弟、天文の乱で晴宗方に与し義宣と敵対、義宣を殺害

1

梅香姫

正室

大崎高兼の娘、義直の養女

5

大崎高兼

義宣の舅(梅香の実父)

大崎家10代当主

5

伊達晴宗

実兄

稙宗の嫡男、伊達家15代当主、天文の乱で稙宗と対立

4

大崎義隆

義宣の義弟にあたる(義直の実子)

義宣死後の大崎家12代当主

6

葛西晴胤

(諸説あり)義宣が逃亡を試みた相手

葛西氏当主

11

3. 大崎氏への養子入り:大崎家の内訌と伊達氏の介入

大崎義宣の人生における最初の大きな転機は、大崎氏への養子入りでした。これは、当時の大崎氏が抱えていた深刻な内紛と、それに対する伊達氏の介入という複雑な背景のもとで行われました。

大崎氏の内乱(天文の内訌)

天文3年(1534年)6月、大崎氏の領国において、当主である大崎義直に対する大規模な内紛、いわゆる「天文の内訌」が勃発しました 1。この内乱の発端は、大崎氏の家臣であった新田頼遠(新井田とも記される)が義直への出仕を拒否したことでした。これに激怒した義直が頼遠討伐に向かったところ、大崎氏の執事(家老)を務める氏家氏や、大崎氏の庶流である古川持熙、高泉直堅といった有力家臣たちが頼遠支援に動き出し、事態は義直対反乱家臣連合という構図に発展しました 6。『古川記』によれば、氏家氏らは「縁近の好を糺す」ことを名分として出兵したとされますが、反乱の根本的な原因や、有力家臣たちが主君に背いてまで頼遠を支援した具体的な理由は必ずしも明確ではありません。しかし、義直に留まった家臣が鳴瀬川流域に集中していたのに対し、反乱軍は江合川流域に集中するなど、大崎氏の主従関係に深刻な地理的・派閥的対立が存在した可能性が指摘されています 6。

結局、義直は自力でこの反乱を鎮圧することができず、内乱は大崎領全域に拡大しました。この状況を憂慮した義直は、近隣の大領主である伊達稙宗に援軍を仰ぐため、稙宗の本拠地である桑折城へ向かいましたが、交渉は長期化し、結果として当主が2年間も領国を不在にするという異常事態を生み出しました 6 。その間も反乱軍が優勢でしたが、天文5年(1536年)5月になってようやく伊達稙宗が出兵に応じ、同年6月には大崎・伊達連合軍が古川持熙の本拠地である古川城を攻略、持熙を討ち取りました。そして同年10月までに高泉氏や氏家氏を降伏させ、約3年にわたる内乱はようやく鎮圧されたのです 6 。この大崎氏の内訌は、単に主君と家臣の間の対立に留まるものではなく、大崎氏の統制力が著しく低下し、家臣団内部が深刻な分裂状態にあったことを如実に示しています。この弱体化こそが、強大な伊達氏による介入を招く最大の要因となったと言えるでしょう。もし大崎氏が自力で内紛を収拾できるだけの力を持っていれば、伊達稙宗が自身の次男を大崎氏の養嗣子として送り込むという大胆な介入は、はるかに困難であったと考えられます。

義宣(小僧丸)の養子入りの経緯と時期の諸説

内乱鎮圧後、伊達稙宗は次男の小僧丸(後の大崎義宣)を、大崎義直の養嗣子として大崎氏に送り込みました 1。稙宗側の説明によれば、これは大崎家の家臣団、いわゆる「川内一党」からの度重なる懇願によるものであったとされています 1。しかし、この養子入りの具体的な時期については、いくつかの説が存在し、議論の対象となっています。

仙台藩が編纂した『伊達正統世次考』巻8下によれば、小僧丸の入嗣は内乱鎮圧の後とされており、これに従う研究者は、入嗣時期を天文6年(1537年)頃と推測しています 1 。この場合、小僧丸は数え年で12歳、彼の兄である伊達晴宗は19歳であったことになります。この説に立てば、伊達稙宗は内乱鎮圧の「恩賞」または「代償」として、弱体化した大崎氏に対して強引に自身の息子を後継者としてねじ込んだ形となります。大崎家家臣団の「懇願」という言葉は、伊達氏の強大な圧力を受けての形式的なものか、あるいは伊達氏自身による介入正当化のための言辞であった可能性が高まります。

一方で、江戸時代に書かれた「旧川状」(古川状)という記録には、大崎義直が天文5年(1536年)2月に伊達氏の援兵を引き出すことができたのは、既に稙宗の次男を跡継ぎにしていた縁によるものだ、と記されています 1 。これは、小僧丸の入嗣が内乱鎮圧後ではなかったことを示唆しています。この「旧川状」を根拠として、一部の研究者は、小僧丸の入嗣を天文2年(1533年)頃とし、むしろこの伊達氏による強引な養子縁組そのものが大崎家中の反発を招き、天文の内訌を引き起こした一因になったのではないかと考えています 1 。この説の場合、小僧丸は入嗣時に8歳、兄の晴宗は15歳となります。

いずれの説を採るにしても、この養子縁組が伊達氏の強い意向のもとで行われたことは間違いなく、伊達稙宗の嫡子である伊達晴宗が、父の意に反して古河(古川)に警護の兵を置いたという事実は 1 、稙宗の強引なやり方に対する伊達氏内部からの不協和音が既にこの時期から存在したことを示唆しており、後の天文の乱へと繋がる伏線とも読み取れます。「川内一党」からの懇願という稙宗側の説明は、伊達氏の介入を正当化し、あたかも大崎氏側の主体的な要請であったかのように見せかけるための政治的なプロパガンダであった可能性も考慮に入れるべきでしょう。

梅香姫との婚姻

大崎義宣は、大崎氏の家督を継承するにあたり、大崎氏10代当主・大崎高兼の娘であり、11代当主・大崎義直の養女となった梅香姫を正室として迎えました 5。大崎高兼は、父・義兼の死後、享禄2年(1529年)に家督を継ぎましたが、わずか1年後の翌享禄3年(1530年)に死去してしまいました 5。高兼には男子の跡継ぎがいなかったため、弟である義直が家督を継承し、大崎氏11代当主となっていました 5。

梅香姫との婚姻は、伊達氏から送り込まれた義宣の、大崎氏における正統性を補強するための重要な政略結婚でした。大崎氏の先代当主である高兼の血を引く実娘であり、かつ現当主である義直の養女という二重の立場を持つ梅香姫を妻とすることで、義宣は大崎氏内部の様々な勢力への配慮を示し、後継者としての地位を盤石なものにしようとする伊達稙宗の深慮があったと考えられます。これは、伊達氏による大崎氏の家督継承を、可能な限り円滑に、かつ正当性を持って進めようとする戦略の一環であったと言えるでしょう。

4. 大崎家中の亀裂:養子入り後の緊張

大崎義宣の養子入りは、伊達氏の強大な軍事力を背景としたものであり、大崎氏の家督継承問題に大きな影響を与えましたが、同時に大崎家中に新たな亀裂と緊張を生み出すことになりました。

義宣が大崎氏の跡継ぎとしての地位を得たのは、実質的には伊達氏の軍事力と政治的圧力によるものでした。そのため、大崎家の家臣団の中には、この外部からの介入による当主交代に対して、根強い反発や不満が渦巻いていたと考えられます 1 。特に、当主であった大崎義直自身も、内心ではこの養子縁組に強い不満を抱いており、伊達氏の強要によってやむなく受け入れたとされています 10 。彼にとって、実子ではなく伊達氏から送り込まれた養子が家督を継ぐことは、大崎氏の伝統と自らの権威を揺るがすものであったでしょう。

このような家中の不満が燻り続ける中、天文10年(1541年)頃、大崎氏の領内では再び内乱が勃発しました 1 。これは、義宣の養子入りに対するくすぶっていた不満が顕在化したものと考えられます。この「大崎再乱」に対し、伊達稙宗は再び大軍を率いて大崎領に介入し、鎮圧にあたりました。この時、稙宗に従軍していた嫡男の伊達晴宗が戦地で発給した書状には、「勿論小僧丸我等の一大事」(小僧丸=義宣のことは、我々伊達家にとって最重要事である)との文言が見られ、義宣を大崎氏の当主として擁立することが、伊達家全体の戦略目標であったことを明確に示しています 1

しかし、この「大崎再乱」と伊達氏による再度の軍事介入は、義宣の養子入りが表面的には成立したものの、大崎氏内部の根本的な対立構造を解決するには至らなかったことを示しています。むしろ、伊達氏の度重なる軍事力による介入は、大崎氏の伊達氏への従属を一層深める一方で、大崎家臣団の亀裂をさらに深刻化させ、義宣の立場をより一層不安定なものにしたと言えるでしょう。晴宗の書状にある「小僧丸我等の一大事」という言葉は、この時点では晴宗も父・稙宗の方針に従っていた(あるいは従わざるを得なかった)ことを示唆しますが、この数年後には父子が袂を分かつ天文の乱が勃発することを考えると、この大崎氏への介入が、晴宗自身の父に対する不満をさらに募らせた可能性も否定できません。結果として、義宣は大崎氏内部からの真の支持を得ることができず、伊達氏内部で対立が生じた際には、極めて脆弱な立場に置かれることになったのです。

5. 天文の乱(1542年~1548年):運命の奔流

大崎氏内部の緊張が高まる中、天文11年(1542年)6月、大崎義宣の運命を決定的に左右する大事件が勃発します。それは、彼の実家である伊達氏内部で起こった大規模な内訌、世に言う「天文の乱」です 8

この乱は、伊達氏14代当主・伊達稙宗と、その嫡男である伊達晴宗との間で起こりました。直接的なきっかけの一つは、稙宗が自身の三男・伊達時宗丸(さねときまる)を越後の上杉定実の養子にしようとしたことや、相馬氏への伊達氏からの養子送り込みなど、稙宗による強引な勢力拡大策に対する晴宗や一部家臣の反発でした 15 。父子の対立は武力衝突へと発展し、伊達家臣団はもちろんのこと、伊達氏と姻戚関係や同盟関係にあった奥羽地方の多くの大名や国人領主たちを巻き込み、それぞれが稙宗方・晴宗方に分かれて争う、6年余りにも及ぶ広範な争乱へと発展しました 15

この伊達氏の内訌は、大崎氏における義宣の立場を根本から揺るがしました。大崎義宣は、実父である伊達稙宗に味方しました 7 。これは、彼の後見人であり、彼を大崎氏の養子として送り込んだ張本人である稙宗を支持する自然な行動と言えるでしょう。しかし、その一方で、彼の養父である大崎義直は、この天文の乱を、伊達氏の介入によって押し付けられた義宣を大崎氏から追放する絶好の機会と捉えました。義直は迷うことなく伊達晴宗方に加担し、義宣と明確に敵対する立場を取ったのです 7 。これにより、義宣は実父と養父の間で引き裂かれ、自らが養子に入った大崎氏の領内で、養父と戦うという極めて困難かつ皮肉な状況に追い込まれました。義直にとって、晴宗方への加担は、単に伊達氏のいずれかの派閥を支持するという以上に、伊達氏の支配から脱し、大崎氏の主体性を取り戻すための重要な行動であったと考えられます。

天文の乱が始まると、大崎義宣は大崎領の東端にあたる不動堂(現在の宮城県美里町不動堂)を拠点として、養父・義直の勢力に対抗しました 1 。不動堂は鳴瀬川に臨む要害の地であり 10 、伊達領にも比較的近いことから、実父・稙宗方からの支援を受けやすかったのかもしれません。天文13年(1544年)には、攻め寄せてきた大崎義直の軍勢と不動堂で対陣し、その後も天文16年(1547年)、天文17年(1548年)にも義直軍による攻撃を繰り返し受けています 1 。数年にわたり不動堂で抵抗を続けたものの、義宣の勢力は限定的であり、大崎氏の中枢部や家臣団の広範な支持を得ることはできませんでした。彼の戦いは、実父・稙宗の派閥の一員としての戦いであり、大崎氏当主としての領内統治とは程遠いものであったと言わざるを得ません。結局のところ、「大崎領の中で義宣はほとんど足場を築けなかったようである」 8 という評価が示すように、彼が大崎氏の当主として領民や家臣の心を掴むことは叶いませんでした。

天文の乱は長期にわたりましたが、天文17年(1548年)9月、室町幕府13代将軍・足利義輝の仲介により、伊達稙宗が隠居し、伊達晴宗が家督を継承するという形で和睦が成立しました 12 。これにより、義宣の実父である稙宗方は実質的に敗北し、義宣は大崎領内における全ての政治的立場と軍事的な後ろ盾を失うことになったのです。

6. 悲劇的な終焉

天文の乱が伊達稙宗方の敗北という形で終結したことは、大崎義宣の運命に決定的な影を落としました。彼を支えてきた実家の権威が失墜し、養家である大崎氏内部では敵対する養父・義直が伊達晴宗方として勝利を収めたことにより、義宣の立場は完全に失われました。

さらに追い打ちをかけるように、天文17年(1548年)、天文の乱が終結に向かうまさにその最中に、義宣の妻である梅香姫が死去しました 11 。梅香姫は、大崎氏10代当主・高兼の実娘であり、現当主・義直の養女という立場から、義宣と大崎氏とを結びつける数少ない、そして象徴的な繋ぎ止め役でした。彼女の死は、義宣の政治的な孤立を深めるだけでなく、精神的にも大きな打撃を与えたと推察されます。実父・稙宗の敗北と、彼を大崎氏に繋ぎとめる唯一の絆とも言える妻・梅香姫の死により、義宣は政治的にも精神的にも完全に追い詰められていったのです。

立場を失い、身の危険を察した義宣は、天文の乱終結から2年後の天文19年(1550年)5月、再起を期してか、あるいは単に生き延びるためか、葛西氏を頼ってその領地へ逃亡を図りました 10 。逃亡の際に頼ろうとしたのは、弟で葛西氏に養子に入っていた葛西晴清(牛猿丸)とも 10 、あるいは葛西氏当主の葛西晴胤とも言われています 11 。葛西氏は伊達氏とは独立した勢力であり、かつて伊達稙宗が影響力を行使しようとした対象でもあったため、義宣にとっては一縷の望みを託せる相手だったのかもしれません。

しかし、この逃亡計画は成就しませんでした。義宣は、葛西領へ向かう道中の桃生郡辻堂(現在の宮城県石巻市桃生町付近と比定される)において、養父である大崎義直が差し向けた刺客の手にかかり、殺害されてしまいました 6 。時に大永6年(1526年)生まれの義宣は、享年25歳という若さでした 4 。義宣の最期は、戦国時代の権力闘争の非情さを象徴しています。養父でありながら、政治的対立から養子を抹殺するという行為は、血縁よりも実利が優先される当時の武家社会の厳しさを示しています。

7. 死後と評価

若くして非業の死を遂げた大崎義宣ですが、その名は後世にいくつかの形で伝えられています。

義宣の戒名は「玉龍院殿輝山道宣大居士」とされています 11 。その墓は、妻・梅香姫の墓と共に、宮城県大崎市古川小野の梅香院に現存すると伝えられています 11 。梅香院の名は、妻・梅香姫に由来するものでしょう。また、宮城県石巻市大森にも「伊達小僧丸(大崎義宣)の墓」と伝えられる史跡が存在します 19 。これは、遺骨が分骨されたものか、あるいは異なる伝承に基づくものかもしれませんが、彼の死が地域の人々によって記憶されていたことを示唆しています。

大崎義宣の養子入りから殺害に至るまでの経緯が極めて複雑であり、また大崎氏当主としての実質的な統治期間がほとんどなかったため、史料によっては彼を正式な大崎氏の歴代当主として数えない場合もあります 11 。彼の死後、大崎氏の家督は、養父・大崎義直の実子である大崎義隆が継承しました 6 。これにより、大崎氏は一時的に伊達氏の直接的な介入を排したかに見えましたが、伊達氏の影響力は依然として強く、大崎氏の自立は困難な状況が続きました。

歴史的に見ると、大崎義宣の生涯は、実父・伊達稙宗の野心的な勢力拡大政策と、養父・大崎義直との間の深刻な対立、そして実家である伊達氏そのものの内紛である天文の乱という、巨大な歴史の渦に巻き込まれ、翻弄された悲劇として特徴づけられます。彼は、伊達氏と大崎氏という二つの家の間で、自身の意志とは別に政治の道具として利用され、その結果、最後は非業の死を遂げました。彼の存在と死は、伊達氏が大崎氏を完全にその影響下に置こうとする過程における、一つの象徴的な事件であったと言えるでしょう。義宣の生涯は、戦国時代における個人の運命の儚さ、血縁よりも政治的利害が優先される武家社会の厳しさ、そして大勢力の狭間で生きる小勢力の苦悩を色濃く体現しています。

8. 結論

大崎義宣の生涯は、戦国時代という激動の時代における、一人の武将の短くも波乱に満ちた軌跡を示しています。伊達稙宗の子として生まれながらも、父の政略によって奥州探題の名門・大崎氏の養子となり、実家と養家という二つの家の間で板挟みとなる宿命を背負いました。彼の人生は、大崎氏の内部で起こった「天文の内訌」と、実家である伊達氏を二分した「天文の乱」という二つの大きな争乱に深く関わり、その渦中で政治的にも軍事的にも翻弄され、最終的には若くして命を落とすという悲劇的な結末を迎えました。

義宣の悲劇は、単なる個人的な不運として片付けられるものではありません。それは、伊達稙宗の野心的な拡大政策が、弱体化し内部対立を抱えていた大崎氏という土壌に強引に種を蒔いた結果として生じたものと分析できます。養父・大崎義直との対立は、単なる個人的な感情のもつれというよりも、大崎氏の自立を求める意志と、それを許容しない伊達氏の支配力との間の衝突の現れであったと言えるでしょう。

大崎義宣の短い生涯は、血縁や恩義といった人間的な絆よりも、時には冷徹な政治的判断や剥き出しの権力闘争が優先される戦国時代の武家社会の非情さを浮き彫りにしています。彼は、歴史の大きなうねりの中で、個人の力では抗い難い運命に翻弄された人物として記憶されるべきです。

なお、大崎義宣に関しては、未だ解明されていない点も残されています。例えば、義宣の養子入りを「懇願した」とされる大崎家家臣団「川内一党」の具体的な構成員やその真の動機、義宣が拠点とした不動堂における戦いのより詳細な戦況や、彼を支持した可能性のある大崎家臣の具体的な名前や動向、そして何よりも義宣自身が発給した書状などの一次史料の発見と分析は、今後の研究によって彼の生涯をより深く理解する上で重要な課題となるでしょう。

引用文献

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