室町幕府の権威が著しく低下し、日本各地で実力主義が横行した戦国時代、奥羽地方もまた群雄割拠の様相を呈していた。その中にあって大崎氏は、かつて奥州管領、後には奥州探題として陸奥国・出羽国に広範な影響力を有した名門斯波氏の血統を引く家柄であった 1 。斯波家兼が奥州探題として下向して以来、大崎氏は奥羽の武士を統率する立場にあったが 3 、本報告の主題である大崎義直が生きた時代には、その勢力は往時に比べて大きく減じ、陸奥国北西部、いわゆる大崎五郡(現在の宮城県大崎市周辺)を領有する一戦国大名となっていた 1 。
この時期、陸奥国では伊達氏が急速に勢力を伸張させ、奥羽でも随一の実力を持つに至り、周辺の諸氏を次々と服属させつつあった 5 。大崎氏もまた、この伊達氏の膨張と無関係ではいられず、さらには東に境を接する葛西氏、同族でもある出羽国の最上氏、会津の蘆名氏といった諸勢力との間で、複雑な外交関係と軍事的緊張の中に置かれていた。大崎氏が保持していた「奥州探題」という職名は、実質的な支配力が伴わなくなりつつある中で、なお一定の権威や名分として機能し得たのか、あるいは逆に、伊達氏のような新興勢力にとって、その権威を利用または簒奪の対象と見なされる要因となったのかは、当時の大崎氏の立場を理解する上で重要な点である。実際に、大永二年(1523年)には伊達稙宗が幕府から新設の陸奥国守護職に任命されており 1 、これは大崎氏が世襲してきた奥州探題職と並立、あるいはその権威を侵食する動きと解釈できる。このような「権威」と「実力」の乖離こそが、大崎氏の不安定な立場を助長し、後の伊達氏による介入を招きやすくした一因と考えられる。
本報告は、戦国時代に陸奥国で活動した武将、大崎義直の生涯とその事績について、現存する史料や研究成果に基づいて多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。具体的には、義直の出自と家督相続の経緯、当時の陸奥国における最重要課題であった伊達氏との関係、特に天文年間に発生した大崎氏の内訌と伊達氏の介入、そして奥羽全体を揺るがした天文の乱における義直の動向を中心に詳述する。さらに、天文の乱後の領国経営、周辺勢力との外交、晩年と死、そして大崎氏のその後の運命についても触れ、義直という人物が果たした役割と限界を総括的に評価する。
大崎氏は、室町幕府の有力者であった斯波氏の一族であり、斯波家兼が奥州管領(後に奥州探題)として陸奥国に下向したことを始祖とする 1 。義直は、この奥州探題大崎氏の当主であった大崎義兼の次男として誕生した 8 。生年は不詳とされている 1 。母については詳らかではない 8 。幼名は彦三郎と伝えられ、初めは義国と名乗ったが、後に義直と改めた 8 。兄には大崎高兼、弟には高清水直堅がおり、姉妹の一人は黒川晴氏に嫁いでいる 8 。次男であった義直が家督を相続することになった直接的な理由は兄・高兼の早世であるが、当時の武家社会における家督相続の慣行や、他に有力な兄弟、例えば弟・直堅の立場などを考慮すると、その背景には単純な長幼の序だけではない複雑な事情があった可能性も否定できない。
大崎氏第10代当主であった兄・大崎高兼が早世したことにより、次男であった義直が家督を相続した 8 。その具体的な時期については、永正十一年(1514年)に成立したとされる『留守氏旧記』の中に「大崎は十一代」との記述が見られることから、この年までには義直が第11代当主として大崎氏を継いでいたと推測されている 8 。
しかし、義直の当主としての代数については、史料や解釈によって見解が分かれる点に留意が必要である。多くの史料では義直を「第11代当主」としているが 8 、一方で、本報告の依頼者が事前に提示した情報では「第12代当主」とされており、また、ある系図資料 10 では、伊達稙宗の次男で後に義直の養子となる大崎義宣を第11代として数え、義直を第12代、その子の義隆を第13代とする記載が見られる。この義宣を歴代当主に含めるか否かという問題は、当時の大崎氏が置かれていた複雑な状況、特に伊達氏からの強い影響を反映していると言える。義宣は正式に家督を継承して大崎氏を統治したわけではないため、彼を当主として数えるか否かは、どの側面を重視するかによって解釈が異なり得る。この代数表記の揺れ自体が、大崎氏の自律性が揺らぎ、伊達氏の介入によって家督継承問題が混乱した時期の歴史的実態を象徴していると考えることができる。伊達氏の影響下で後継者候補とされた義宣の存在は、大崎氏の系譜認識に混乱をもたらし、結果として義直の代数にも複数の解釈を生む余地を与えたのである。
説 |
義直の代数 |
根拠・背景 |
主な史料・資料例 |
義直を第11代当主とする説 |
11代 |
兄・高兼(10代)の跡を直接継承したと見なす。養子・義宣を歴代当主に含めない立場。 |
『留守氏旧記』の記述に基づく解釈 8 、中国語版Wikipedia 9 、朝日日本歴史人物事典 1 など |
義直を第12代当主とする説(義宣を11代とする) |
12代 |
伊達稙宗の子・義宣が一時的に養嗣子となり、大崎氏の後継者と位置づけられた事実を重視し、義宣を一代として数える立場。 |
大崎氏系図の一つ 10 、ユーザー提供情報 |
考察 |
- |
義宣は天文の乱後に義直によって排除されており 8 、大崎氏を実質的に統治した期間はない。彼を当主として数えるかは、歴史的評価や系譜の捉え方による。 |
大崎義宣に関する記述 5 |
この表は、大崎義直の当主としての代数に関する複数の情報源を整理し、一見矛盾するように見える情報を文脈の中で理解する助けとなる。特に、史料 10 の系図が依頼者の認識と一致する可能性を示しつつ、他の史料との比較を通じて、なぜそのような差異が生じるのか(義宣の存在)を明確にすることで、より深い歴史理解を促す。これは、単なる事実の列挙ではなく、歴史解釈の多様性を示す好例である。
義直は家督相続後、当初は名生城(現在の宮城県大崎市古川)を居城としていたと伝えられている 8 。家督を継いだ初期の具体的な政治活動や軍事行動に関する史料は乏しいが、奥州探題としての伝統的な権威を背景に、縮小したとはいえ一定の領国(大崎五郡)の経営を行っていたと考えられる。しかし、その権威も伊達氏の台頭によって相対的に低下しつつある状況であった。
年代(和暦) |
推定年齢 |
主な出来事 |
典拠例 |
生年不詳 |
0歳 |
大崎義兼の次男として誕生。初名、義国。通称、彦三郎。 |
8 |
永正11年(1514年)以前 |
不詳 |
兄・高兼の早世により、大崎氏家督を相続(第11代または第12代)。 |
8 |
天文5年(1536年) |
不詳 |
家臣の氏家直継・古川持煕・新井田頼遠らが反乱(大崎内乱)。伊達稙宗に援軍を要請し鎮圧。代償として稙宗の子・義宣(小僧丸)を養子に迎える。 |
8 |
天文10年(1541年)頃 |
不詳 |
大崎氏内乱再発。伊達稙宗が再び介入。 |
5 |
天文11年(1542年) |
不詳 |
伊達稙宗・晴宗父子による天文の乱勃発。義直は伊達晴宗方に与する。養子・義宣は実父・稙宗方に与し、義直と対立。 |
5 |
天文14年(1545年) |
不詳 |
7月5日、従五位下左京大夫に任官。 |
8 |
天文15年(1546年) |
不詳 |
奥州探題に補任されたとの記録あり(伊達晴宗はこれに対し、探題職の伊達氏への帰属を主張)。 |
6 |
天文17年(1548年) |
不詳 |
天文の乱、伊達晴宗方の勝利で終結。 |
13 |
天文19年(1550年) |
不詳 |
養子・大崎義宣を討ち取る。 |
8 |
永禄10年(1567年)頃 |
不詳 |
子・大崎義隆に家督を譲ったと推定される。 |
9 |
天正5年(1577年) |
不詳 |
死去。 |
8 |
分類 |
氏名 |
義直との関係 |
典拠例 |
家族 |
大崎義兼 (おおさき よしかね) |
父 |
8 |
|
大崎高兼 (おおさき たかかね) |
兄(大崎氏10代当主) |
8 |
|
(高清水)直堅 (たかしみず なおかた) |
弟 |
8 |
|
女子 |
姉妹(黒川晴氏正室) |
8 |
|
妻(氏名不詳) |
正室 |
- |
|
大崎義隆 (おおさき よしたか) |
嫡男(大崎氏12代または13代当主) |
8 |
|
黒川義康 (くろかわ よしやす) |
子(黒川晴氏の養子となった可能性) |
8 |
|
釈妙英 (しゃくみょうえい) |
娘(最上義光正室) |
8 |
養子 |
大崎義宣 (おおさき よしのぶ) |
養子(伊達稙宗の次男、小僧丸) |
5 |
主要関連人物 |
伊達稙宗 (だて たねむね) |
伊達氏当主。義宣の実父。大崎内乱に介入。天文の乱で義直と敵対。 |
8 |
|
伊達晴宗 (だて はるむね) |
伊達稙宗の嫡男。天文の乱で父と対立。義直は晴宗方に与力。 |
12 |
|
最上義光 (もがみ よしあき) |
出羽国の戦国大名。義直の娘婿。 |
9 |
|
蘆名盛氏 (あしな もりうじ) |
会津の戦国大名。義直と親交があったとされる。 |
14 |
|
葛西晴胤 (かさい はるたね) |
陸奥国の戦国大名。大崎氏と敵対。義宣の弟・晴清(後の葛西当主)の父または近親。 |
5 |
|
氏家直継 (うじいえ なおつぐ) |
大崎氏家臣。天文5年の内乱で義直に反旗。 |
8 |
|
古川持煕 (ふるかわ もちひろ) |
大崎氏家臣。天文5年の内乱で義直に反旗。 |
8 |
|
新井田頼遠 (にいだ よりとお) |
大崎氏家臣。天文5年の内乱で義直に反旗。 |
8 |
大崎義直の治世において、その権力基盤を揺るがす最初の大きな試練は、天文五年(1536年)に発生した家臣団による大規模な反乱であった。この内乱では、氏家直継、古川持煕、新井田頼遠といった大崎氏の有力家臣らが義直に対して兵を挙げた 1 。反乱の直接的な原因について、史料 8 は具体的に言及していないものの、当時の大崎氏がかつての勢いを失い、陸奥国北西部に割拠する一地方勢力へと縮小していたことが、その背景にあると示唆されている 1 。
しかし、この内乱の原因をより深く探ると、単なる勢力衰退に起因する家臣の不満だけではなく、伊達氏の影、特に伊達稙宗の子・義宣(小僧丸)の養子入り問題が絡んでいた可能性が浮上する。史料 5 は、「旧川状」という記録を根拠に、義宣の入嗣が天文二年(1533年)頃であり、この養子縁組に対する大崎家中の反発が天文五年の内乱を引き起こしたとする説を提示している。もしこの説が正しければ、義直が伊達氏との連携を強化しようとして進めた養子縁組が、逆に家臣団の強い反感を買い、武力蜂起を招いたことになる。いずれにせよ、この内乱は義直自身の求心力の低下と、大崎氏内部の統制の緩みを示すものであり、義直は独力でこの事態を収拾することができなかった 1 。この大崎氏内部の脆弱性と、強大化する伊達氏の影響力が交錯した結果、内乱は深刻化し、大崎氏の自立性をさらに損なう事態へと発展していく。
自力での反乱鎮圧が困難であると判断した大崎義直は、当時陸奥国で最大の勢力を誇っていた伊達氏の当主、伊達稙宗に救援を要請した 1 。この時期、伊達氏は大永二年(1522年)に稙宗が室町幕府から陸奥国守護職に任じられており 1 、これにより陸奥国には伝統的な権威である奥州探題(大崎氏)と、新たに実力と公的地位を兼ね備えた守護(伊達氏)が並立するという変則的な状況が生じていた。この守護という立場は、伊達稙宗にとって、大崎氏の内政に介入する格好の大義名分を与えたと考えられる。奥州探題である大崎氏が、陸奥守護である伊達氏に救援を求めるという構図は、両者の力関係が既に逆転し、大崎氏が伊達氏に対して従属的な立場に置かれつつあったことを明確に示している。伊達氏にとって、この大崎氏の内乱は、その影響力をさらに奥州探題領へと浸透させる絶好の機会であった。
伊達稙宗は義直の救援要請に応じ、軍事介入によって反乱を鎮圧したが、その代償は大きなものであった。稙宗は自身の次男である小僧丸(後の大崎義宣)を、義直の兄・故高兼の娘を娶わせるという形で、義直の養嗣子として大崎氏に送り込んだのである 5 。これにより、大崎氏は実質的に伊達氏の強い影響下に置かれ、その従属関係は決定的なものとなった 8 。
義宣の入嗣時期については、内乱鎮圧後の天文六年(1537年)頃とする説(『伊達正統世次考』に基づく 5 )と、内乱前の天文二年(1533年)頃であり、これが内乱の原因の一つとなったとする説(「旧川状」に基づく 5 )が存在する。稙宗は、この養子縁組を「川内一党(大崎家家臣団)の頻りの懇望による」と説明しているが 5 、これは伊達氏側の都合を正当化するための口実であった可能性が高い。
この養子縁組は、大崎氏の家督継承に伊達氏が直接的に関与することを意味し、将来的な大崎氏乗っ取りの布石とも解釈できるものであった。大崎氏内部では、伊達氏の軍事力を背景としたこの強引な養子縁組に対する反発が渦巻いていたと見られ 5 、天文十年(1541年)頃には再び大崎氏の領内で内乱が再発し、伊達稙宗が再度軍事介入を行う事態となっている 5 。この二度目の内乱(大崎再乱)の際、稙宗に従って出陣した嫡男の伊達晴宗が、現地の戦況を伝える書状の中で「勿論小僧丸我等の一大事」と記していることは注目に値する 5 。これは、義宣の身柄や処遇が伊達家、特に晴宗ら次世代にとっても極めて重要な関心事であったことを示しており、大崎氏の問題が伊達家の内部事情とも深く連動していたことを物語っている。
興味深いことに、義宣の入嗣問題が進行していた時期は、伊達家内部でも稙宗とその嫡男・晴宗との間に不協和音が生じ始めていた時期と重なる。晴宗が父・稙宗の意に反して古川(義宣の入嗣と関連する地)に警護の兵を置くなど、独自の動きを見せていたことは 5 、後の天文の乱に至る伊達家内の深刻な対立が、この大崎氏への介入策を一つの契機として顕在化し始めた可能性を示唆している。稙宗の広範な縁組政策(いわゆる洞政策)の一環であった義宣の大崎氏入嗣は、大崎氏を従属させる効果はあったものの、結果として伊達家中の結束を揺るがし、さらには奥羽全体を巻き込む大乱の一因となる皮肉な状況を生み出したのであった。
天文十一年(1542年)、伊達氏の当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗との間で深刻な対立が表面化し、奥羽の広範囲を巻き込む大規模な内乱、いわゆる天文の乱が勃発した 5 。この争乱は天文十七年(1548年)まで6年間に及び、伊達一族のみならず、大崎氏を含む周辺の多くの大名や国人領主を二分する戦いとなった 12 。乱の原因は複合的であるが、主なものとしては、稙宗が推し進めた過度な勢力拡大策、特に自身の子らを周辺の大名家へ養子として送り込み、伊達氏の支配体制を強化しようとした政策(例えば、越後上杉氏への三男・時宗丸の入嗣問題など 12 )に対し、これに反対する家臣団や、父の政策に危機感を抱いた晴宗が反旗を翻したことが挙げられる 12 。この天文の乱は、伊達氏内部の権力闘争という枠を超え、奥羽地方の勢力図を大きく塗り替える可能性を秘めたものであり、各勢力は稙宗方、晴宗方のいずれに与するかという、自らの存亡に関わる極めて困難な選択を迫られることとなった。
この未曽有の大乱において、大崎義直は伊達晴宗方に与して戦った 5 。義直が晴宗を選んだ背景には、いくつかの戦略的判断があったと考えられる。まず最も直接的な理由として、養子として大崎氏に入っていた大崎義宣が、実父である伊達 баскет宗方に付いたことが挙げられる 5 。義宣は伊達氏による大崎氏支配の象徴であり、潜在的な脅威であった。義直にとって、義宣と敵対する晴宗方に付くことは、この伊達氏による大崎氏乗っ取りの危険性を排除し、大崎氏の自立性を回復する好機と映った可能性がある。
また、伊達稙宗の強引な勢力拡大政策は、大崎氏にとっても決して歓迎できるものではなかった。稙宗の支配が強化されれば、大崎氏の立場はますます弱体化する恐れがあった。そのため、晴宗方に与することで伊達氏の影響力を相対的に弱め、大崎氏の政治的地位を少しでも向上させようとしたのかもしれない。あるいは、晴宗方が地理的に近かった、家臣団の意向が強く働いたなど、より現実的な要因も考慮に入れる必要があるだろう。いずれにせよ、この選択は大崎氏の将来にとって極めて重要な決断であり、その背後には複雑な政治的計算があったと推測される。
大崎義直が伊達晴宗方に与した結果、実父・稙宗を支持した養子・大崎義宣とは完全に敵対関係となった。義宣は稙宗方の一翼を担い、大崎領内においては東端に位置する不動堂(現在の宮城県遠田郡美里町周辺)などを拠点として活動した 5 。天文十三年(1544年)には、この不動堂に攻め寄せた義直の軍勢と対陣している。その後も、天文十六年(1547年)や天文十七年(1548年)にも義直軍が不動堂方面へ攻撃を仕掛けたとされるが、結局のところ、義宣は大崎領内で広範な支持を得ることはできず、確固たる足場を築くには至らなかったようである 5 。
義宣の活動は、大崎領内よりもむしろ、そこから南に離れた伊達氏の勢力圏である宮城郡南部、名取郡、柴田郡といった地域で、稙宗党の勢力を結集し、軍事行動を展開することに重点が置かれていた形跡が見られる 5 。これは、義宣が大崎氏内部での基盤が極めて脆弱であり、実家である伊達氏(稙宗方)の直接的な支援なしには活動が困難であったことを物語っている。大崎領内が、伊達氏内部の争いの縮図のような形で戦場と化したことは、大崎氏の苦しい立場を象徴している。義宣が領内で十分な支持を得られなかった事実は、大崎家中の反伊達感情の根強さ、あるいは義直の統率が一定程度機能していたことを示唆しているとも考えられる。
約6年間に及んだ天文の乱は、天文十七年(1548年)9月、伊達晴宗方の勝利という形で終結した。父・稙宗は家督を晴宗に譲り、丸森城(現在の宮城県丸森町)に隠居することとなった 8 。
この乱の終結により、稙宗方であった大崎義宣は伊達氏内部での立場を完全に失い、その身の置き所もなくなった。その最期については諸説あるが、『伊達正統世次考』などによれば、天文十九年(1550年)、同様に伊達氏から葛西氏の継嗣に入っていた実弟の葛西晴清(当時は葛西晴胤かその子)を頼って落ち延びる途中、葛西領内の桃生郡辻堂において、義直が差し向けた討手によって殺害されたと伝えられている 5 。『会津四家合考』は病死説を採るが 5 、一般的にはこの暗殺説が有力視されている。
義宣の排除は、大崎義直にとって、伊達氏による大崎氏家督の直接的な乗っ取りという最大の危機を回避したことを意味した。この一点においては、義直の天文の乱における選択と行動は、大崎氏の存続に大きく貢献したと言える。しかしながら、これにより大崎氏が伊達氏への従属状態から完全に脱却し、かつてのような勢力を回復できたわけではなかった 8 。天文の乱で晴宗方についたという「功績」は、伊達氏との関係において一定の立場を保障するものではあったかもしれないが、それはあくまで伊達氏の優位性を認めた上での限定的な自律性の確保に過ぎず、対等な関係を再構築するには至らなかった。義宣の死は、大崎氏にとって一つの危機を乗り越えたことを意味したが、それは同時に、より強大な伊達氏の勢力圏内で、その顔色を窺いながら存続の道を探らざるを得ないという、新たな現実の固定化でもあった。
天文の乱において伊達晴宗に味方した大崎義直は、乱後も伊達氏との一定の友好関係を維持した。この関係は、伊達氏の当主が晴宗から子の輝宗に代替わりして以降も継続されたと見られている 14 。しかし、この「良好な関係」とは、決して対等なものではなく、伊達氏の優位の下での従属的な友好関係であったと理解するのが適切であろう。
天文の乱の最中である天文十四年(1545年)七月五日、義直は従五位下左京大夫に任官している 8 。これは大崎氏の当主が代々任じられてきた伝統的な官位であり、乱の最中という困難な状況下ではあったが、幕府との繋がり(あるいは伊達氏の斡旋によるものか)を維持し、自身の権威を内外に示そうとした行動と解釈できる。さらに、史料 6 によれば、天文十五年(1546年)には大崎義直が奥州探題に補任されたと記されている。これが事実であれば、失墜しつつあった大崎氏の権威を少しでも回復しようとする義直の努力の現れと言える。しかし、同史料は続けて、伊達晴宗が「陸奥守護職と奥州探題職は同一のものであり、稙宗が守護職を得た時点で伊達氏が探題職に補任される権利を得ている」と主張したと伝えており、これは大崎氏の探題職がもはや名目的なものとなり、その実権や権威は伊達氏によって掌握されつつあったことを明確に示している。義直の官位任官や探題職への補任(仮に事実だとしても)は、伊達氏の支援や黙認のもとで行われた可能性が高く、大崎氏の権威をある程度回復させる一方で、伊達氏の影響力を再確認させるという両面性を持っていたと考えられる。伊達氏にとって、名目上の探題として大崎氏を存続させつつ、実質的な影響力を確保する方が、直接支配するよりも都合が良かったのかもしれない。
伊達氏に従属的な立場にありながらも、大崎義直は周辺勢力との外交を通じて、自家の存続と勢力維持を図ろうとした。
これらの外交関係は、大崎氏が伊達氏の強い影響下にありながらも、最上氏との強固な婚姻同盟を軸とし、蘆名氏とも連携することで、伊達氏への過度な依存を避け、独自の外交バランスを模索していたことを示している。特に最上氏との連携は、地理的にも伊達氏を牽制する上で重要な意味を持っていたと考えられる。
天文の乱後、大崎義直は弱体化した勢力の維持と領国経営に努めた。その一環として、居城の移転が行われた可能性が指摘されている。史料 1 によれば、天文年間の内訌(おそらく天文五年の内乱を指す)の後、大崎氏の居城は加美郡の中新田城から玉造郡の名生城(現在の宮城県大崎市古川)へ移されたと考えられている。この移転の理由については、岩手沢(現在の宮城県加美郡加美町岩ケ崎周辺か)に本拠を置いていたとみられる氏家氏への対策のためであったろうと推測されている 1 。天文五年の内乱で中心的な役割を果たした氏家直継ら有力家臣との関係は、その後も大崎氏の領国経営における重要な課題であり続けたと考えられる。名生城への移転が事実であれば、内訌の経験から、より支配のしやすい、あるいは家臣団を統制しやすい拠点を求めた結果であったのかもしれない。
具体的な領国経営策に関する史料は乏しいが、前述したような官位任官 8 や、周辺勢力との外交交渉を通じて、失墜しつつあった大崎氏の権威を少しでも維持し、領国の安定を図ろうとした義直の苦心が窺える。しかし、家臣団の統制は依然として難しく、後の義隆の代になると、執事であった氏家吉継(直継の子孫か同族か)と、義隆の側近であった新井田刑部(天文五年の内乱で反旗を翻した新井田頼遠の一族か)を巡る対立が原因で、伊達政宗の介入を招く大崎合戦が勃発している 16 。これは、氏家氏をはじめとする有力家臣との緊張関係が、義直の時代から解決されないまま後代まで持ち越されていたことを示唆している。
大崎義直は、晩年になると嫡男である大崎義隆に家督を譲ったと考えられている。その具体的な時期については明確な史料がないものの、義隆が永禄十年(1567年)に家臣に対して所領を安堵する旨の文書を相次いで発給していることから、この頃に義直から義隆への代替わり、すなわち家督の禅譲が行われたと推測されている 8 。義隆は天文十七年(1548年)の生まれであるため 14 、この時、数え年で20歳前後であったことになる。義直がこの時期に家督を譲った背景には、自身の健康問題があったのか、あるいは政治的な判断(例えば、伊達氏との関係が比較的安定していた時期を選んだなど)があったのかは詳らかではないが、これにより大崎氏の当主は次世代へと引き継がれた。
家督を義隆に譲った後の義直の動向については詳しい記録が残されていないが、天正五年(1577年)に死去したと伝えられている 8 。その享年や死因、最期の地などについては不明である。義直が没した天正五年は、中央では織田信長が畿内をほぼ平정し、天下統一に向けてその勢力を急速に拡大していた時期にあたる。東北地方もまた、こうした中央政権の動きと無縁ではなく、次第にその影響を受けるようになっていく過渡期であった。
義直の死後、家督を継いだ大崎義隆の時代も、伊達氏との従属的な友好関係は基本的に維持された 14 。しかし、長年の宿敵であった葛西氏との間では依然として紛争が絶えず 14 、大崎氏の領国は常に不安定な状況に置かれていた。
やがて伊達氏の当主が輝宗からその子・政宗の代になると、伊達氏の勢力拡大の野心はより露骨なものとなる。天正十六年(1588年)には、大崎氏内部における執事・氏家吉継と義隆の寵臣・新井田刑部との対立が深刻化し、これを好機と見た伊達政宗が氏家氏を支援する名目で軍事介入を行う、いわゆる大崎合戦が勃発した 15 。この戦いは、義隆の妹婿である最上義光の援軍などもあり、一時的に大崎氏が伊達軍を退ける場面も見られたが 18 、大崎氏の弱体化をさらに進める結果となった。
最終的に、戦国大名としての大崎氏は、天正十八年(1590年)から翌年にかけて行われた豊臣秀吉による奥州仕置によって終焉を迎える。大崎義隆は小田原征伐に参陣しなかったことなどを理由に改易され、その所領は没収された 18 。これにより、斯波氏以来の名門であり、かつては奥州探題として奥羽に君臨した大崎氏は、戦国大名としての歴史に幕を閉じることになったのである。義直の生涯は、まさに大崎氏が名門としての矜持を辛うじて保ちつつも、戦国時代の厳しい現実の中で次第にその勢力を失い、最終的には滅亡へと向かう過渡期そのものであったと言える。彼個人の努力や戦略にもかかわらず、伊達氏の膨張という大きな歴史の流れには抗しきれず、その後の大崎氏の運命もまた、より強大な中央集権的勢力によって翻弄されることになったのである。
大崎義直は、大崎氏最後の奥州探題として記録されている 8 。この「奥州探題」という職名は、かつては陸奥・出羽両国に広範な軍事・行政権限を行使し得る、室町幕府の地方統治機関の長としての重みを持っていた。しかし、義直が生きた戦国時代中期には、幕府の権威そのものが失墜し、それに伴い奥州探題の権限も名目的なものへと変質していた。義直の時代の「奥州探題」は、もはや奥羽全体の統括権を実質的に意味するものではなく、大崎氏の家格の高さを示す称号以上の意味は薄れていた可能性が高い。
それでもなお、この伝統的な権威は、外交交渉や家中の権威付けにおいて、一定の象徴的価値を持ち得たかもしれない。例えば、天文十四年(1545年)の左京大夫任官 8 や、天文十五年(1546年)の探題補任(史料 6 による)は、こうした伝統的権威に依拠することで、失墜しつつある大崎氏の立場を少しでも有利にしようとした義直の試みと見ることができる。しかし、伊達晴宗が「陸奥守護職と奥州探題職は同一」と主張したように 6 、その権威は既に伊達氏によって相対化され、実質的な支配力とは乖離していた。義直は、この形骸化しつつある伝統的権威を背負いながら、現実の厳しい権力闘争を生き抜かなければならなかったのである。
大崎義直の生涯は、戦国時代の東北地方において、強大な隣接勢力に囲まれた小大名がいかにして生き残りを図ったかという、苦闘の連続であった。家督相続直後から、天文五年(1536年)の家臣団による大規模な内乱に直面し、これを自力で鎮圧できずに伊達稙宗の介入を招き、その結果として伊達氏から養子・義宣を迎え入れざるを得なくなるなど、その治世は多難な幕開けであった 8 。
しかし、その後の天文の乱(1542年~1548年)という未曽有の動乱においては、伊達晴宗方に与するという戦略的決断を下し、結果として伊達氏による大崎氏の直接的な乗っ取りを画策した可能性のある養子・義宣を天文十九年(1550年)に排除することに成功した 8 。これは、短期的に見れば大崎氏の滅亡を回避し、その存続に大きく貢献したと言える。この一連の行動は、義直の政治的判断力と行動力を示すものであり、彼の功績として評価されるべき点である。
一方で、これらの対応は、伊達氏への従属をより深める結果となり、大崎氏がかつてのような独立した勢力として再起する道を閉ざした側面も否定できない。義直の統治下で、大崎氏は伊達氏の顔色を窺いながらの領国経営を余儀なくされ、根本的な勢力回復には至らなかった。彼の生涯は、まさに綱渡りのような生存戦略の連続であり、その選択は常に最善とは言えないまでも、その時々の状況下における次善の策であった可能性が高い。
大崎義直の時代の選択と行動は、その後の大崎氏の運命に決定的な影響を与えた。伊達氏への従属関係を固定化させたことは、結果として子の義隆の代における困難(例えば、伊達政宗の介入を招いた大崎合戦など)を準備したとも言える。しかし、当時の圧倒的な伊達氏の勢力と、大崎氏内部の脆弱性を考慮すれば、義直にそれ以外の有効な選択肢が果たして存在したのかという点も慎重に検討する必要がある。
大崎義直という一人の武将の生涯を通じて見えてくるのは、戦国時代の東北地方における権力構造のダイナミックな変動、すなわち伝統的権威(奥州探題)の失墜と、実力に基づく新たな秩序(伊達氏の覇権)の形成過程である。義直は、この大きな歴史の転換期にあって、旧体制の象徴としての立場と、新時代の現実との狭間で苦悩し、自家の存続のために必死の努力を続けた人物として記憶されるべきであろう。彼が残したものは、輝かしい成功物語ではないかもしれないが、戦国乱世の厳しさと、その中で生きる人間の複雑な様相を我々に伝えてくれる貴重な事例と言える。