本報告書は、戦国時代の常陸国(現在の茨城県)に長らく君臨した豪族、大掾氏の一員である「大掾慶幹(だいじょう よしもと)」について、現存する史料を基にその実像を徹底的に解明するものである。ご依頼者が提示された情報、すなわち大掾氏が平国香を祖とする常陸の豪族であるという点を起点とし、慶幹個人の生涯、そして彼を取り巻く一族の栄光と悲劇の全貌を明らかにする。
調査を進める上で最初に直面する課題は、本報告の主題である「慶幹」と、大掾氏最後の当主として知られる曽孫の「清幹(きよもと)」との間に見られる著しい混同である 1 。大掾氏の歴史、特にその滅亡の経緯を語る記録の多くは、若くして悲劇的な最期を遂げた清幹に焦点を当てている 1 。その劇的な結末は、歴史物語として強い印象を残す一方で、その数世代前の当主であった慶幹の具体的な事績を霞ませる結果となった。歴史の語りは、しばしば平穏な治世よりも壮絶な滅亡を記憶に留めやすい。大掾氏最後の当主である清幹の物語が持つ悲劇性が、その曽祖父である慶幹の存在を歴史の影へと押しやり、時には両者の事績が混同される事態を招いたのである。一部の系図資料は両者を明確に区別しているものの 4 、その関係性や没年情報には錯綜も見られる 5 。
したがって、本報告書では、まずこの系譜上の混乱を整理し、慶幹という人物を歴史の文脈に正しく位置づけることから始める。序論に続き、第一章では大掾氏の起源と常陸国における勢力基盤の確立過程を概観する。第二章では本報告の主眼である大掾慶幹の生涯と、彼が生きた時代の政治状況を詳述する。第三章では慶幹の死後、一族が周辺大名の圧力に屈し、衰亡へと向かう苦難の道のりを追う。第四章では最後の当主・清幹の悲劇と、一族の組織的な解体に至る過程を分析する。最後に結論として、大掾氏が常陸の歴史に残した意義と、現代に伝わるその遺産を考察する。これにより、一人の武将の生涯を超え、中世から戦国期にかけて関東に確固たる地位を占めた一族の興亡史を多角的に描き出すことを目的とする。
大掾氏の系譜は、平安時代前期、桓武天皇の皇子・葛原親王の子孫である平高望に遡る 5 。高望は平朝臣の姓を賜り上総介として関東に下向、その地に土着し、坂東平氏の礎を築いた 5 。高望の長子である平国香は、常陸大掾・鎮守府将軍に任じられ、常陸国に広大な勢力基盤を確立した 5 。国香の子、貞盛は、叔父である国香らを討った平将門の乱(承平・天慶の乱)において、藤原秀郷らと共に将門を討ち取る中心的な役割を果たした 5 。この功績により、貞盛は常陸国内に多くの所領を獲得し、一族の関東における地位を不動のものとしたのである 11 。
「大掾(だいじょう)」という特徴的な姓氏は、律令制における地方行政組織「国司」の四等官(守・介・掾・目)のうち、第三等官にあたる官職名に由来する 10 。平貞盛は弟・繁盛の子である維幹(これもと)を養子とし、常陸の所領と家督を継がせた 5 。この維幹が常陸大掾職に任ぜられ、以降その子孫が代々この職を世襲したことから、やがて職名そのものが一族を指す姓氏として定着したとされる 9 。
この事実は、大掾氏が単なる武力によって台頭した他の多くの戦国武士とは一線を画す出自を持つことを示している。彼らの権威の根源は、古代律令国家から続く公的な職権にあった。この伝統的な権威は、中世を通じて一族に大きな威信を与え続けたが、同時に、力こそが全てを支配する戦国乱世においては、旧来の秩序に固執する保守的な体質を生み出す要因ともなった。国衙(国府)との深い結びつきや、鹿島神宮の祭礼への関与といった慣例は、彼らの支配の正統性を支える一方で 11 、守護職に任じられて領国経営の近代化を進めた佐竹氏のような新興勢力と比較して、時代の変化への対応を遅らせる足枷となった可能性は否定できない。彼らの強みであったはずの伝統的権威は、皮肉にも、その後の衰退を運命づける遠因となったのである。
平安時代末期、大掾一族の惣領家は筑波郡多気を本拠とする多気氏であった 5 。しかし、鎌倉時代初期の建久4年(1193年)、惣領であった多気義幹が、常陸守護・八田知家の讒言により源頼朝の猜疑を招き、失脚するという事件が起こる 5 。曽我兄弟の仇討ち事件の混乱に乗じて謀反の噂を流された義幹は、所領と大掾職を没収された 5 。
その跡を継承したのが、同族の庶流であった吉田(馬場)資幹(すけもと)である 12 。この時、源頼朝からの下文によって公式に常陸大掾職に任じられたことが、実質的な「大掾氏」の成立であったと見なされている 11 。資幹の子孫は、当初水戸城を本拠としたが 5 、やがて古代から常陸国の政治的中心地であった国府が置かれた府中(現在の茨城県石岡市)に拠点を移し、府中城を築いた 15 。以降、彼らは「府中大掾氏」あるいは「馬場大掾氏」として、戦国時代の終焉に至るまで常陸中南部に勢力を誇ったのである 17 。
大掾氏の勢力が常陸国に深く根を張るにつれて、一族からは多くの庶家が分立した。鹿島、行方(なめかた)、真壁、東条、小栗といった一族が、常陸南部の各郡郷に土着し、それぞれが在地領主として確固たる地盤を築いた 10 。これらの庶家群は、特に鹿島・行方両郡に集中し、後世「南方三十三館」と総称される広範な武士団ネットワークを形成した 11 。彼らは大掾宗家と連合し、時には対立しながらも、一族全体の勢力圏を構成する重要な要素であり続けた。この強固な一族連合の存在が、大掾氏が長きにわたり常陸南部における一大勢力として君臨し得た理由の一つであった。
大掾慶幹は、16世紀中頃に常陸府中を支配した武将であり、大掾氏が独立した勢力として最後の輝きを放った時代の当主であった。彼の治世は、北関東の勢力図が大きく塗り替えられようとする激動の時代と重なる。北からは佐竹氏が、南からは後北条氏がその勢力を急速に拡大し、常陸国内では大掾氏、小田氏、江戸氏といった国人領主たちが互いに牽制し合う、まさに三つ巴の緊迫した状況が続いていた 5 。
慶幹の死後、大掾氏は周辺大名の圧力に抗しきれず、急速に衰亡の道をたどることになる。その意味で、慶幹の時代は、大掾氏にとって黄昏時代の幕開けであり、独立領主としての矜持を保ち得た最後の時代であったと言える。以下の略系図は、しばしば混同される慶幹と、一族最後の当主・清幹との関係を明確にするものである。
表1:大掾氏(府中大掾家)戦国期略系図
当主名(読み) |
生没年 |
続柄 |
主要な出来事・備考 |
典拠 |
大掾 慶幹 (だいじょう よしもと) |
不詳 - 1551年 |
- |
天文15年(1546年)、長者原の戦いで小田政治を撃退し、小高城を奪取。 |
5 |
大掾 貞国 (だいじょう さだくに) |
不詳 - 1577年 |
慶幹の子 |
小田氏との抗争激化。佐竹義昭の支援を受けるも、事実上の従属下に入る。 |
5 |
(不詳) |
- |
貞国の子 |
系図上、清幹の父にあたる人物が存在するが、名は伝わっていない。 |
1 |
大掾 清幹 (だいじょう きよもと) |
1573年 - 1590年 |
貞国の孫 |
5歳で家督継承。天正18年、佐竹義宣に府中城を攻められ自害。大掾宗家滅亡。 |
1 |
注:清幹を貞国の子とする説もあるが 1 、両者の没年差(16年)と清幹の家督継承時の年齢(5歳)を考慮すると、系図 4 に見られるように、間に一代を挟む孫とするのが妥当と考えられる。
史料上で確認できる慶幹の最も著名な功績は、天文15年(1546年)に起こった小田氏との合戦である 5 。この年、大掾氏の一族である小高城主・小高直幹の裏切りと誘いに応じ、常陸南部に勢力を拡大しようとしていた小田政治(おだ まさはる)が、大軍を率いて大掾氏の本拠地・府中へと侵攻した。
慶幹はこれを府中の長者原で迎え撃った。この戦いで慶幹は巧みな采配を見せ、侵攻してきた小田軍を見事に撃退する。さらに、勝利の勢いに乗って敵方に寝返った小高城へと進軍し、これを攻め落として奪取した 5 。この一連の戦功は、慶幹が単なる名門の当主ではなく、優れた武将としての器量を持っていたことを示している。この勝利は、周辺勢力に対して大掾氏の武威を知らしめ、一時的にその威勢を回復させる効果があった。
しかし、この勝利を戦略的な視点から分析すると、その限界も浮かび上がる。この戦いはあくまで常陸国内の伝統的なライバルである小田氏との局地的な紛争であり、その間にも着々と勢力を拡大していた佐竹氏や後北条氏といった、より大きな脅威に対する根本的な解決策とはならなかった。慶幹の勝利は、いわば自領の保全を目的とした防衛的な成功であり、迫り来る大国の圧力という、より大きな戦略的劣勢を覆すまでには至らなかったのである。彼の奮戦は、沈みゆく船の中で懸命に水を掻き出すようなものであり、一族の短期的な延命には繋がったものの、長期的な運命を変えることはできなかった。
諸記録によれば、慶幹は天文20年(1551年)に没したとされる 5 。彼の死は、大掾氏にとって一つの時代の終わりを意味した。慶幹という強力な指導者を失った大掾氏は、関東の覇権を巡る佐竹氏と後北条氏の激しい角逐の渦中に、より直接的に晒されることとなる。慶幹の死後、家督を継いだ子・貞国の時代には、大掾氏の独立性は急速に失われ、やがては巨大な勢力の前に屈していくことになるのである。慶幹の治世は、大掾氏が自らの意思で領国を治め、敵を撃退し得た最後の時代として、歴史に記憶されている。
大掾慶幹の死後、家督を継いだ子・貞国の時代、大掾氏は存亡の危機に直面する 5 。宿敵である小田氏との抗争はますます激化し、単独での対抗が次第に困難となっていった。この状況を打開するため、貞国は北方の雄・佐竹義昭との連携を深める道を選んだ。しかし、この同盟関係は対等なものではなく、結果的に大掾氏の独立性を蝕む「劇薬」となった。
この力関係の変化を象徴するのが、永禄7年(1564年)の出来事である。佐竹義昭は、小田氏との抗争を支援するという名目の下に、軍勢を率いて大掾氏の本拠地である府中城に入部した 7 。戦国時代の常識において、同盟国の主城に相手の軍隊を駐留させることは、事実上の支配権の譲渡に等しい。これにより、大掾氏は佐竹氏の強力な軍事・政治的影響下に置かれ、その意思決定は大きく制約されることになった。貞国は天正5年(1577年)に没するまで 5 、佐竹氏の勢力下で一族の存続を図るという、極めて苦しい舵取りを強いられ続けた。この一連の過程は、戦国期において強国が弱小勢力を同盟関係を通じて徐々に支配下に収めていく典型的な事例であった。当初は共通の敵に対抗するための実利的な協力関係として始まったものが、力の差によって徐々に保護・被保護の関係へと変質し、最終的には主従関係へと転化していく。大掾氏は、この主権侵食のプロセスを食い止めることができなかったのである。
貞国の死後、家督はわずか5歳の清幹が継承した 1 。幼少の当主は叔父の竹原義国が後見する体制であったが、一族の求心力は著しく低下し、佐竹氏の介入はさらに露骨なものとなった。この時期、大掾氏は佐竹義重を盟主とする反後北条氏連合「東方之衆(とうほうのしゅう)」の一員として組み込まれていた 1 。しかし、その立場はもはや対等な同盟者ではなく、佐竹氏の戦略に組み込まれた一地方勢力に過ぎなかった。
大掾氏の独立性を完全に奪い去ったのが、二度にわたる「府中合戦」である。皮肉なことに、この戦いの相手は、同じく「東方之衆」の仲間であった水戸の江戸重通であった 1 。
第一次府中合戦(天正13年-14年 / 1585年-1586年)
天正13年8月、清幹と重通は園部川流域の支配を巡って武力衝突に至った。この争いにおいて、清幹には真壁氏が、重通には宍戸氏が味方し、佐竹領内の国人たちを二分する深刻な事態へと発展した。盟主である佐竹氏が仲介に乗り出すも不調に終わり、最終的には下総の結城氏までが仲裁に加わることで、天正14年11月にようやく和議が成立した 1。この時点で、大掾氏は自領内の紛争すら自力で解決できず、上位勢力の裁定に頼らざるを得ない状況に陥っていた。
第二次府中合戦(天正16年 / 1588年)
しかし、この和議は長くは続かず、天正16年1月に両者の戦いは再燃する。ここで佐竹義重・義宣父子は、江戸氏を支援するための直接的な軍事行動を開始した。これは、佐竹氏がもはや中立的な仲介者ではなく、大掾氏を敵と見なしたことを意味する。追い詰められた清幹は、これまで敵対してきた後北条氏に援軍を要請するという最後の賭けに出た 1。しかし、これは佐竹氏に大掾氏討伐の完璧な口実を与える結果となった。佐竹・江戸連合軍は、鹿島氏や烟田氏といった大掾一族まで動員して府中城に迫り、清幹と援軍に駆けつけた真壁氏幹の連合軍を打ち破った。同年5月、清幹は和睦という名の事実上の降伏を余儀なくされたのである 1。
この第二次府中合戦の敗北により、大掾氏は独立領主としての地位を完全に喪失した。佐竹氏にとって、この戦いは単に江戸氏を助けるという戦術的な目的以上に、南下する伊達政宗の脅威を前に、自らの勢力圏内の不安定要素を排除し、支配体制を盤石にするという戦略的な狙いがあったとみられている 1 。大掾氏は、そのための「見せしめ」として、その牙を抜かれたのである。
大掾氏の滅亡は、第二次府中合戦での事実上の降伏から、わずか2年余りの間に、計画的かつ迅速に実行された。その過程は、戦国時代の終焉と新たな統一権力の出現という、時代の大きな転換を象徴するものであった。
表2:大掾氏滅亡に至る主要年表(1588年~1591年)
年月 |
出来事 |
概要 |
典拠 |
天正16年 (1588) 5月 |
第二次府中合戦 終結 |
大掾清幹、佐竹・江戸連合軍に敗北し、事実上降伏。後北条氏との連携が露見し、佐竹氏との関係が決定的に悪化。 |
1 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐 |
豊臣秀吉が後北条氏を討伐。大掾清幹はこれに参陣せず、所領没収の対象となる。 |
11 |
天正18年 (1590) 12月 |
府中城落城 |
小田原参陣の功により常陸一国を安堵された佐竹義宣が、水戸の江戸氏を追放後、府中城を攻撃。激戦の末に落城し、大掾清幹は自害。 大掾宗家滅亡 。 |
2 |
天正19年 (1591) 2月9日 |
南方三十三館 謀殺事件 |
佐竹義宣、鹿島・行方両郡に割拠する大掾氏の庶家(南方三十三館)の当主らを太田城に招き、だまし討ちで殺害。 |
12 |
天正19年 (1591) 2月-3月 |
南方諸城の制圧 |
佐竹軍、南方三十三館の各居城に軍を進め、抵抗勢力を制圧。これにより、 大掾一族は完全に滅亡 し、佐竹氏による常陸統一が完成。 |
21 |
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始された。これは単なる一合戦ではなく、秀吉が天下統一を宣言し、全国の大名に服従を求める政治的な一大イベントであった。秀吉が発令した「惣無事令」(大名間の私闘の禁止)に従い、全国の諸大名は秀吉の下に参陣することが義務付けられた。
しかし、大掾清幹と彼に連なる一族の多くは、この歴史的な大動員に加わらなかった 11 。第二次府中合戦以降、佐竹氏に対抗するために後北条氏と結んでいたことが、この致命的な判断の直接的な原因であったとされる 5 。この決断は、戦国時代的な局地的な同盟関係の論理に固執し、天下統一という新たな時代のパラダイムを理解できなかった政治的判断の誤りであった。秀吉に参陣した佐竹義宣にとって、清幹の不参は、豊臣政権の公的な権威を借りて大掾氏を合法的に討伐する、またとない大義名分となったのである。
小田原の後北条氏が滅亡し、秀吉による天下統一が完成すると、佐竹義宣は秀吉から常陸一国(約54万石)の支配を公式に安堵された 20 。これにより、佐竹氏の長年の宿願であった常陸統一は、天下人の公認事業となった。
同年12月、佐竹軍は行動を開始する。まず、同じく小田原不参の罪を問われた水戸城の江戸重通を攻撃し、これを追放 2 。その勢いを駆って、大掾氏の本拠・府中城に殺到した。府中城は、大掾詮国によって築かれて以来、約250年にわたり難攻不落を誇った堅城であったが 3 、圧倒的な兵力差と、もはや大掾氏に味方する勢力がいない孤立無援の状況では、抗する術はなかった。
激しい攻防の末、府中城は炎上し、ついに落城した。伝承によれば、当主・大掾清幹は、燃え盛る自らの城を望み、「嗚呼残念」と嘆きの言葉を残して自刃して果てたという 3 。時に清幹、わずか18歳であった 1 。ここに、桓武平氏国香流の嫡流として約700年の長きにわたり常陸に君臨した大掾宗家は、その歴史に幕を下ろした 14 。
宗家を滅ぼした佐竹氏の粛清は、それで終わりではなかった。一族の力を完全に削ぎ、将来の反乱の芽を摘むため、さらに非情な謀略が実行される。翌天正19年(1591年)2月9日、佐竹義宣は、常陸南部の鹿島・行方両郡に割拠していた大掾氏の有力な庶家群、いわゆる「南方三十三館」の当主たちを、新年の挨拶を名目に太田城に呼び寄せた 21 。
何の疑いもなく太田城に参上した鹿島氏、島崎氏、玉造氏、烟田氏といった当主たちは、城内においてだまし討ちに遭い、ことごとく殺害された 12 。この謀殺と時を同じくして、佐竹軍は各々の居城にも軍勢を送り、当主を失った城を次々と攻略・制圧した 21 。鹿島城では当主・清秀の室が徹底抗戦の末に自害するなど、一部では激しい抵抗も見られたが 21 、組織的な抵抗は不可能であった。
この冷徹かつ計画的な一連の行動により、大掾一族の軍事・政治的基盤は物理的に根絶やしにされ、佐竹氏による常陸統一事業は完成した。大掾氏の滅亡は、単なる一地方豪族の敗北ではなく、天下統一という巨大な権力の奔流の中で、新しい時代の潮流を読み違えた勢力が、より巧みに立ち回った者によって淘汰されていく、戦国乱世の終焉を象徴する出来事であった。
大掾氏の歴史は、古代の公的権威を背景に中世を通じて常陸国に君臨した名門一族の栄光と、戦国乱世という激動の時代に適応できずに滅び去った悲劇の物語である。桓武平氏の嫡流という比類なき血統と、律令制下の官職「大掾」を世襲することで得た伝統的な権威は、長らく一族の誇りであり、その支配の正統性を支える基盤であった。
しかし、下剋上が常態化し、力こそが全てを決定する戦国時代において、その伝統と格式は、かえって柔軟な戦略的思考を妨げる足枷となった。彼らの権威は、もはや形骸化した旧時代の秩序に依拠しており、領国を拡大し、家臣団を再編して国力を増強するという、戦国大名としての変革を遂げることができなかった。大掾慶幹の時代に小田氏を撃退し、最後の意地を見せたものの 5 、それは迫り来る大きな時代のうねりに対する一時的な抵抗に過ぎなかった。続く世代は、佐竹氏や後北条氏といった巨大勢力の草刈り場となり、最終的には豊臣秀吉による天下統一という、抗いようのない国家規模の権力再編の過程で、その役割を終えた。
大掾氏の興亡史は、時代の変化を的確に読み解き、旧来の価値観を捨ててでも自己変革を遂げる政治的洞察力と柔軟性を欠いた勢力が、いかにして歴史の舞台から淘汰されていくかを示す、一つの典型的な事例として、後世に歴史的な教訓を投げかけている。
天正19年(1591年)の「南方三十三館」謀殺事件により、大掾一族は組織としては完全に滅亡した 12 。しかし、佐竹氏の粛清を逃れた分家・庶家の中には、下総国へ落ち延びて徳川家臣となったり、他家に仕官したり、あるいは武士の身分を捨てて帰農するなどして、その血脈を後世に伝えた家も少なくない 12 。
また、一族の系譜からは、歴史に名を残す人物も輩出されている。剣豪として名高い塚原卜伝(高幹)は鹿島氏の分家である塚原氏の出身と伝わり、幕末に新選組の初代筆頭局長を務めた芹沢鴨(光幹)も、大掾一族の末裔である芹沢氏の出身とする伝承が存在する 9 。これらの名は、大掾氏という名族が日本の歴史に与えた影響の広がりを物語っている。
かつて大掾氏が国府を置き、本拠地とした茨城県石岡市には、今もその痕跡が静かに息づいている。府中城の跡地は現在、石岡小学校や公民館となっているが、往時を偲ばせる土塁や空堀の一部が残されている 15 。
そして、石岡市国府にある曹洞宗の寺院・平福寺の境内には、大掾氏代々の菩提寺として、一族の墓所が大切に保存されている 25 。中央に最大の五輪塔が据えられ、その周囲に14基の五輪塔が林立する「常陸大掾氏墓所」は、石岡市の史跡に指定されており 8 、府中城を築いた大掾詮国以降の代々の当主のものと伝えられている 8 。これらの史跡は、歴史の勝者である佐竹氏の影に隠れがちな、かつてこの地を支配した名門一族の記憶を、静かに現代に伝えている。
本報告は、歴史の表舞台から消え去った大掾氏、とりわけその独立性を保った最後の当主であった大掾慶幹に光を当てることで、常陸国戦国史の多層的かつより深い理解に貢献するものである。