本報告書は、戦国時代の常陸国に生きた武将、大掾清幹(だいじょう きよもと)の生涯を、その背景となる一族の歴史、彼を取り巻く複雑な政治情勢、そして悲劇的な最期に至る多角的な要因を深く掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。通説として語られる「豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったために滅亡した」という単純な図式から脱却し、近年の研究成果も踏まえながら、彼の滅亡が避けがたい歴史の流れの中で起きた複合的な悲劇であったことを解明する 1 。
大掾氏は、桓武平氏国香流の嫡流という、関東でも屈指の貴種としての家格を誇った名門である 4 。その権威は古代の律令制における常陸大掾職に由来し、中世を通じて常陸国南部に広大な影響力を保持してきた 6 。しかし、戦国乱世の只中にあっては、その伝統的な権威が必ずしも実質的な軍事力と一致するわけではなく、大掾氏は「貴種」であるが故の苦悩を抱えることとなる。
大掾清幹が家督を継いだ天正年間後期、常陸国は激動の時代にあった。北には関東の雄として勢力を急拡大させる佐竹氏が君臨し、かつての大掾氏の本拠地であった水戸には宿敵・江戸氏が拠点を構え、南からは天下統一を目前にした後北条氏の威圧が迫るという、地政学的に極めて困難な状況に置かれていた。この四面楚歌ともいえる状況下で、わずか5歳で一族の命運を背負った若き当主が、いかにして時代の奔流に立ち向かい、そして散っていったのか。本報告書では、その軌跡を詳細に追うものである。
大掾氏の出自は、桓武天皇を祖とする平高望に遡る。高望の子・国香は常陸大掾に任じられ、その子・貞盛は叔父である平将門が起こした天慶の乱の鎮圧に多大な功績を上げた 5 。この功により、貞盛は常陸国に多くの所領を獲得し、坂東平氏の繁栄の礎を築いた。貞盛は弟・繁盛の子である維幹を養子とし、常陸の所領と権益を相続させた 4 。
この維幹が常陸大掾職に任ぜられて以降、その子孫は代々この官職を世襲したことから、職名そのものが氏族名となり「大掾氏」と呼ばれるようになった 5 。大掾氏は常陸国府の在庁官人として実権を掌握し、その権威を背景に一族は常陸南部に広く展開した。鹿島氏、行方氏、麻生氏、芹沢氏といった多くの庶家を輩出し、これらは「常陸平氏」として一大同族連合を形成したのである 5 。剣豪として名高い塚原卜伝や、幕末に新選組局長を務めた芹沢鴨も、この大掾氏一族の末裔と伝えられている 5 。
しかし、ここで注目すべきは、大掾氏の権威の源泉とその脆弱性である。彼らの権力基盤は、鎌倉幕府や室町幕府が任命する「守護」のような純然たる軍事統治権力とは異なり、あくまで律令制以来の国衙機構に根差す「在庁官人」としての職権にあった 8 。これは、安定した時代においては国内における絶対的な威光の源泉となったが、下剋上が常態化し、実力主義が全てを支配する戦国時代においては、その権威は形骸化しやすかった。軍事力で領国を切り拓いてきた佐竹氏や江戸氏のような新興勢力に対し、大掾氏が保持する伝統と格式は、時に無力なものとして映ったのである。この「権威の非軍事性」こそが、戦国後期の激しいパワーゲームの中で、大掾氏が不利な立場に置かれた根本的な要因であったといえよう。
大掾氏の長期にわたる衰退は、室町時代前期に決定的な転機を迎える。応永23年(1416年)、関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏に対して反乱を起こした「上杉禅秀の乱」である。この時、大掾氏当主であった満幹は、禅秀方に加担するという重大な政治的判断を下した 10 。しかし、乱はわずか数ヶ月で鎮圧され、禅秀は自害。勝利した足利持氏は、禅秀方に与した諸将に対して厳しい処罰を開始した 5 。
この結果、大掾氏は本拠地であった水戸城(馬場城)とその周辺所領を没収され、その地は持氏方として功のあった江戸通房に与えられた 11 。この水戸城の喪失は、単なる一城の失陥に留まらなかった。それは、大掾氏の勢力圏を常陸府中(現在の石岡市)周辺へと押し込め、常陸国における主導的地位を完全に失わせるものであった 8 。さらに、水戸を新たな拠点として勢力を拡大する江戸氏との間に、百数十年にわたる根深い対立構造を生み出すことになったのである 12 。
大掾清幹の悲劇は、天正年間に突如として始まったものではない。その遠因は、彼の生誕より150年以上も前のこの事件に遡ることができる。水戸を失ったことで、大掾氏は北の佐竹氏と、旧本拠地で勢力を伸ばす江戸氏との間に挟撃されるという、絶望的な戦略的劣勢に立たされた。清幹の短い治世の大半を費やした江戸氏との激しい抗争は、この歴史的対立の最終局面であり、彼は先祖が残した負の遺産ともいえる地政学的状況の中で、一族の存亡を賭けた戦いを強いられたのである 13 。
西暦(和暦) |
清幹・大掾氏の動向 |
国内(常陸・関東)の動向 |
中央の動向 |
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1573(天正元) |
大掾清幹、誕生 13 。 |
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足利義昭が追放され、室町幕府が事実上滅亡。 |
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1577(天正5) |
父・貞国の死により、 5歳で家督相続 13 。 |
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1578(天正6) |
佐竹氏主導の反北条連合「東方之衆」に参加。小川岱合戦に家臣を派遣 13 。 |
佐竹氏と後北条氏が常陸小川岱で対陣。 |
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1582(天正10) |
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本能寺の変。織田信長が死去。 |
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1584(天正12) |
沼尻の合戦に家臣を派遣 13 。 |
佐竹・宇都宮連合軍と後北条軍が下野沼尻で対陣。 |
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1585(天正13) |
水戸城主・江戸重通との抗争が激化(第一次府中合戦) 13 。府中城下が戦火に見舞われる 15 。 |
結城晴朝の仲介で一時和睦。 |
豊臣秀吉が関白に就任。 |
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1588(天正16) |
江戸氏との和議が破綻。佐竹氏が江戸氏に加勢し、第二次府中合戦が勃発 13 。田余砦が陥落し、降伏に近い形で和睦 13 。 |
佐竹氏が江戸氏を支援し、大掾氏を攻撃。 |
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1590(天正18) |
**4月:**小田原征伐に際し、佐竹義宣に秀吉への執り成しを依頼 1 。 |
**7月:**小田原合戦後、島左近を介して豊臣政権と交渉するも失敗 2。 |
**12月:**佐竹軍の攻撃を受け、府中城が落城。清幹は自害(享年18)3。 |
**12月:**佐竹氏が水戸城を攻略し、江戸重通を追放。 |
**3月-7月:**豊臣秀吉による小田原征伐。後北条氏が滅亡。 **8月:**秀吉が佐竹義重に常陸一国を安堵 2。 |
1591(天正19) |
**2月:**大掾氏一族(南方三十三館)が太田城で佐竹氏により謀殺される 5 。 |
佐竹氏が常陸国を完全に平定。 |
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大掾清幹は天正元年(1573年)に、常陸府中城主・大掾貞国の子として生を受けた 13 。彼には秀幹という弟がおり、後には慶松という名の子がいたとも伝えられているが、詳細は不明である 18 。天正5年(1577年)10月、父・貞国が没すると、清幹はわずか5歳という幼さで、風雲急を告げる常陸の名門・大掾氏の家督を継承することとなった 13 。
当然ながら、治世の初期は経験豊富な家臣団による補佐体制が敷かれていたと推測される。この時期の大掾氏は、北関東の覇権を巡り後北条氏と激しく対立していた佐竹氏との協調路線を選択した。佐竹義重が主導する反北条の国衆連合「東方之衆」に名を連ね、天正6年(1578年)の小川岱合戦や、天正12年(1584年)の下野沼尻の合戦といった重要な軍事行動にも参加している 13 。ただし、いずれの合戦も清幹自身は幼少であったため、家臣が代理として軍勢を率いて出陣した 13 。
この佐竹氏との関係は、単純な主従関係と見るべきではない。むしろ、共通の強大な敵である後北条氏に対抗するための軍事同盟という側面が強く、大掾氏が独立した国衆(地域領主)として、一定の主体性を保持していたことを示している 2 。しかし、佐竹氏が周辺勢力を次々と傘下に収め、その勢力を拡大していくにつれて、両者の力関係は徐々に変化していく。対等な同盟者という関係は、やがて佐竹氏を盟主として仰ぐ、より従属的なものへと変質していったと考えられる。清幹は、この従属と自立の狭間で、一族の舵取りという困難な課題に若くして直面することになったのである。
大掾清幹の時代、一族の本拠地であった府中城(現在の茨城県石岡市)は、その歴史と構造において、大掾氏の権威と戦略を象徴する城郭であった。この城は、南北朝時代の正平年間(1346年~1370年)に、第15代当主・大掾詮国によって築かれた 20 。特筆すべきは、その築城場所が古代の常陸国府が置かれた跡地であったことである 23 。これは、国府の持つ伝統的な権威を自らのものとして取り込み、常陸国内における大掾氏の正統性を改めて誇示しようとする、極めて高度な政治的意図の表れであったと推測される 23 。
城郭の構造は、本丸、二の丸、三の丸を中核とし、さらに箱の内出丸、磯部出丸、宮部出丸といった複数の出城を備えた、堅固な平山城であった 20 。城域は東西約500メートル、南北約400メートルに及び、幾重にも巡らされた堀と壮大な土塁がその守りを固めていた 20 。現在でも石岡小学校の敷地内などにその一部が残り、往時の規模を偲ばせている 24 。さらに近年の研究では、城郭本体だけでなく、周辺の寺社や城下町までをも防御線に取り込んだ、南北1.0キロメートル、東西1.5キロメートルにも及ぶ広大な「総構え」の構造を持っていた可能性も指摘されており、大掾氏の勢力の大きさを物語っている 8 。
清幹の治世において、この府中城は、激化する江戸氏との抗争の最前線基地となった。天正13年(1585年)の合戦では、府中城下も戦火に見舞われるなど、城とその周辺は常に緊張状態に置かれていた 15 。府中城は、大掾氏にとって最後の砦であると同時に、その栄光と苦難の歴史が刻まれた場所だったのである。
清幹の治世は、周辺勢力との絶え間ない抗争の連続であった。特に、旧本拠地・水戸を拠点とする江戸重通との対立は、大掾氏の命運を左右するほど深刻であった。天正13年(1585年)頃から両者の抗争は激化し、府中城下で合戦が繰り広げられた(第一次府中合戦) 13 。この時は下総の結城晴朝が仲介に入り、一時的に和議が成立したものの、両者の根深い対立が解消されることはなかった 13 。
天正16年(1588年)、和議は破られ、第二次府中合戦が勃発する。この戦いで、大掾氏にとって事態は決定的に悪化した。宿敵・江戸氏に、これまで同盟関係にあったはずの佐竹氏が公然と加勢したのである 13 。佐竹・江戸連合軍の猛攻の前に大掾方は劣勢に立たされ、同年4月には府中城の重要な支城であった田余砦が陥落した 13 。さらに府中城下が焼き払われるなど甚大な被害を受け、清幹は降伏に近い屈辱的な内容で和睦を結ばざるを得なくなった 13 。
この一連の抗争は、大掾氏の軍事的な劣勢と、外交的な孤立を白日の下に晒した。佐竹氏の戦略目標が、共通の敵であった後北条氏への対抗から、常陸国内の競合勢力を排除し、一国を完全に掌握するという「国内統一」へとシフトしたことは明らかであった。かつての同盟者から公然と敵として扱われたことで、清幹は領国を維持するために極めて厳しい立場に追い込まれた。この苦い経験と拭いがたい不信感が、2年後の小田原征伐という国家的な大動乱に際して、彼が佐竹氏を頼らざるを得ないという皮肉な状況を生み出す伏線となったのである。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして後北条氏討伐の軍を発した「小田原征伐」は、大掾清幹と大掾氏一族の運命を決定づけた。清幹がこの歴史的な大戦に参陣しなかったことは、長らく彼の滅亡の直接的な原因とされてきた 13 。しかし、近年の研究によって、この「小田原不参」の背景には、より複雑で悲劇的な事情があったことが明らかになっている。
清幹の不参は、単純な北条方への加担や豊臣政権への反逆を意味するものではなかった。その証拠に、同年4月、清幹は佐竹義宣に対し、切々たる内容の書状を送っている。その中で彼は、長引く江戸氏との対立など領国の事情により、どうしても小田原へ参陣することができないため、秀吉への詫び言(謝罪)と執り成しを義宣に依頼しているのである 1 。この書状の存在は、清幹に豊臣政権へ恭順する意思が明確にあったことを示している。
ところが、佐竹義宣はこの清幹の必死の訴えを黙殺した 1 。義宣は、これを長年の懸案であった常陸統一を成し遂げる千載一遇の好機と捉えた。彼は秀吉のもとへ参陣すると、清幹が参陣しなかった事実のみを報告し、自らが常陸一国を支配する正当性を認めさせた。同年8月1日に秀吉が佐竹氏に安堵した所領の石高、21万6千余貫文という数字は、それまでの佐竹領だけでは到底及ばない規模であり、初めから大掾氏や江戸氏の所領を併呑することを見越したものであった 2 。
さらに、清幹は佐竹氏を介するだけでなく、別の活路を見出そうと試みていた。小田原合戦の終結後、彼は豊臣政権の中枢、石田三成の腹心として知られる島左近を介して、政権との直接交渉に臨んでいたことが、近年発見された書状によって判明した 2 。交渉の具体的な内容は、豊臣政権が諸大名に要求していた人質の提出に関するものであったとみられるが、この最後の望みも「対応を誤った」とされ、不調に終わってしまった 2 。
ここに、大掾氏滅亡の複合的な要因が浮かび上がる。第一に、江戸氏との長年の抗争による国力の疲弊。第二に、常陸統一の野望を抱く佐竹義宣の計算され尽くした政治的謀略。そして第三に、中央政権との直接交渉における清幹自身の外交的失敗。彼は、時代の大きな変化の波に乗り切れず、複数の危機が同時に降りかかる中で、有効な手を打つことができなかった悲劇の当主であった。彼の滅亡は単なる「自業自得」ではなく、避けがたい歴史の流れの中で起きた、より複雑で悲劇的な事件として捉えるべきなのである。
豊臣秀吉から常陸一国の支配という「お墨付き」を得た佐竹氏の行動は迅速かつ苛烈であった。天正18年(1590年)12月、佐竹義重・義宣父子が率いる大軍は、まず水戸城に攻め寄せた。江戸重通は抵抗するも敵わず、城を追われて下総の結城氏のもとへ落ち延びた 3 。
水戸城を無血開城に近い形で手中に収めた佐竹軍は、その勢いのまま南下し、大掾氏の本拠・府中城へと矛先を向けた 3 。清幹と大掾氏の家臣団は府中城に籠城し、激しく応戦したと伝えられる 13 。しかし、圧倒的な兵力差の前にはなすすべもなく、数日にわたる攻防の末、ついに城は陥落した 6 。
同年12月22日、もはやこれまでと覚悟を決めた大掾清幹は、府中城下で自害して果てた 3 。その生涯はわずか18年であった。法名は宗真と伝わる 13 。籠城戦の具体的な戦闘経過や、殉じた家臣たちの名など、詳細な記録は乏しいが、平安時代から約600年にわたり常陸国に君臨した名門・大掾氏の嫡流は、この日、若き当主の死とともに、その長い歴史に幕を閉じたのである。
大掾本宗家を滅ぼした佐竹氏の常陸平定は、それで終わりではなかった。むしろ、ここからがその仕上げであり、最も凄惨な局面であった。府中城落城の翌年、天正19年(1591年)2月9日、佐竹義宣は「知行割(所領の再配分)」という名目で、大掾氏の有力な一族であり、常陸南部の鹿島・行方両郡に割拠していた国人領主たちを、居城である太田城に招いた 2 。
彼らは通称「南方三十三館」と呼ばれていたが、これは実際に33の館があったわけではなく、多数の領主がいたことを示す呼称である 2 。新たな領地配分に望みを繋いで太田城に参集した領主たちを待っていたのは、祝宴ではなく、周到に準備された佐竹勢による襲撃であった。領主たちは宴席で次々と謀殺され、ここに大掾氏の血を引く有力な支族は、その当主を一挙に失ったのである 32 。
このだまし討ちと並行して、佐竹軍はただちに鹿島・行方両郡へ進駐した。主を失った城々は抵抗らしい抵抗もできず、次々と制圧されていった 17 。しかし、鹿島城だけは例外であった。城主・鹿島清秀の室が自ら大将となり、一族郎党を率いて籠城し、佐竹軍に頑強に抵抗したと伝えられる。佐竹方は攻めあぐね、最終的には大砲を持ち出して城壁を破壊し、力攻めの末にようやく落城させたという 17 。
この「南方三十三館の仕置き」は、単なる戦闘や偶発的な事件ではない。それは、将来にわたる反乱の芽を根絶やしにするために計画された、冷徹な政治的粛清であった。この事件の犠牲者については、茨城町田島の和光院や水戸市六反田町の六地蔵寺に残る『過去帳』にその名が記録されており、後世の創作ではない歴史的事実であることが確認できる 2 。佐竹氏によるこの非情な一手は、豊臣政権から与えられた権威を最大限に利用し、常陸国における中世的秩序を完全に破壊し、自らを頂点とする新たな近世的支配体制を確立するための、極めて合理的かつ過酷な戦略だったのである。
氏族名 |
当主名(判明分・伝承含む) |
犠牲者 |
本拠地(郡名) |
出典 |
鹿島氏 |
鹿島清秀 |
父子 |
鹿島郡 |
2 |
嶋崎氏 |
嶋崎(不明) |
父子 |
行方郡 |
2 |
玉造氏 |
玉造重幹 |
父子 |
行方郡 |
2 |
中居氏 |
中居秀幹 |
本人 |
鹿島郡 |
2 |
烟田(釜田)氏 |
烟田通幹 |
兄弟 |
鹿島郡 |
2 |
相賀(アウカ)氏 |
相賀(不明) |
本人 |
行方郡 |
2 |
小高氏 |
小高治部大輔 |
父子 |
行方郡 |
2 |
手賀氏 |
手賀(不明) |
兄弟 |
行方郡 |
2 |
武田氏 |
武田(不明) |
本人 |
行方郡 |
2 |
注:過去帳の記録に基づき、謀殺されたとされる主要な9氏を記載。犠牲者の続柄(父子、兄弟)も過去帳の記述による。 |
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大掾清幹は、日本の歴史が中世から近世へと大きく転換する激動の時代において、名門の誇りと現実の勢力との乖離に苦悩し、強大な隣国・佐竹氏の冷徹な政治的謀略と、豊臣中央政権との複雑な交渉の波に呑み込まれた、悲劇の若き当主であったと評価できる。彼の滅亡は、単に個人の資質の限界や判断ミスに帰せられるべきではない。むしろ、古代以来の伝統的な権威にその存在基盤を置いていた地方領主が、実力主義を原則とする近世的な統一権力の下で生き残ることがいかに困難であったかを示す、象徴的な事例といえる。
清幹の死と、それに続く「南方三十三館の仕置き」による一族の粛清は、歴史的に重大な意義を持つ。これにより、平安時代から約600年にわたって常陸国に君臨した桓武平氏国香流の嫡流、常陸大掾氏は完全に滅亡した。これは、常陸国における中世的秩序の終焉と、佐竹氏を絶対的な頂点とする新たな近世的支配体制の確立を意味する、地域史上の画期的な出来事であった。
その悲劇的な最期にもかかわらず、大掾氏とその最後の当主・清幹は、本拠地であった石岡の地において、深く記憶され続けている。古代国府以来の歴史を象徴する存在として、その名は郷土史に刻まれている 10 。市内の平福寺に残る大掾氏累代の墓所や、往時の威容を今に伝える府中城跡の遺構は、一族が築いた栄華と、清幹が辿った悲劇の歴史を静かに物語っている 10 。大掾清幹の短い生涯は、常陸国の一つの時代の終わりを告げるものとして、そして戦国乱世の非情さを体現する物語として、今日まで語り継がれているのである。