大月景秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、越前国(現在の福井県)を拠点とした朝倉義景に仕えた武将であり、また医師でもあった人物である 1 。彼の生涯は、医薬を通じて主家である朝倉氏に貢献し、主家滅亡という大きな転換点を経て後は、薬屋として再起し名声を得るという、戦国乱世における武士の多様な生き様と、専門技術を持つ人間の適応力を示す興味深い事例である。
本報告書は、利用者より提供された「医師。朝倉義景に仕え、気つけや解毒に効能がある丸薬『万金丹』を創って朝倉家の軍兵を支えた。主家が滅亡すると出家、薬屋を営んで大いに評判を得た」という情報を出発点とし、現存する史料や研究成果を基に、大月景秀の出自、朝倉氏への仕官、医師としての活動、彼が関わったとされる妙薬「万金丹」の実態、朝倉氏滅亡後の動向、そして彼の子孫とされる「大月斎庵」による医業の継承に至るまでを多角的に掘り下げ、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。大月景秀の生涯を追うことは、戦国時代の武将の盛衰、当時の医療技術の実際、そして激動の時代における個人の選択と戦略という、複数の歴史的テーマが交差する様相を浮き彫りにする試みでもある。
大月景秀の出自については、大月家の家譜にその手がかりが残されている。それによれば、景秀は越前国吉田郡志比谷市野々村の出身であったとされる 1 。彼が戦国大名朝倉氏の家臣となるきっかけは、朝倉掃部(官途名であり、実名は不明)の妹を娶ったことによるものであったという 1 。この婚姻は、景秀のその後の人生において重要な転機となったと考えられる。当時の武家社会において縁戚関係は極めて重要であり、医術という専門技能を持つ景秀が、朝倉氏という有力な一族と結びつくことで、その活動の場を大きく広げることになったのであろう。
景秀は通称を三郎左衛門尉と称し、備中守という官位も有していたとされる 1 。これらの呼称は、彼が朝倉家臣団の中で一定の社会的地位を認められていたことを示唆している。
武士としての大月景秀の活動を具体的に示す記録も存在する。永禄5年(1562年)には、京都から越前へ下向した公家の大覚寺義俊を慰めるために催された曲水宴に、朝倉家の家臣の一人として名を連ねている 1 。これは、景秀が単に医術に長けた専門家としてだけでなく、朝倉氏の文化的な催しにも参加する資格と教養を兼ね備えた人物であったことを物語っている。朝倉氏が京都文化を積極的に取り入れ、文化的レベルの高さを誇っていたことはよく知られており、景秀もそうした環境の中で自身の存在価値を高めていたのかもしれない。
さらに、永禄11年(1568年)5月、室町幕府15代将軍となる足利義昭が朝倉館を訪問した際には、中門の警護を担当したという記録もある 1 。これは、景秀が武士としての信頼を得ており、重要な警備任務を任される立場にあったことを明確に示している。医師としての専門性と武士としての忠誠心や能力を併せ持っていたことが、朝倉家中の彼の地位を確固たるものにしていたと考えられる。
戦国時代の越前国、特に朝倉氏の本拠地であった一乗谷においては、一定水準の医療活動が行われていたことが考古学的発見からも裏付けられている。一乗谷朝倉氏遺跡からは、中国の医薬書である「湯液本草」の燃え残りの一部や、漢方薬を調合する際に用いられた「薬研(やげん)」といった医療関連の遺物が出土している 3 。これは、一乗谷の城下町に医師が存在し、医薬を用いた治療が行われていたことを具体的に示すものである。
さらに、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(現在は福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館としてリニューアル 4 )では、過去に「一乗谷の医師」と題した企画展が開催され、その際には朝倉氏が出版したとされる医学書「八十一難経」の木版(西福寺蔵)なども展示された 3 。また、別の史料によれば、中国の明で医術を学んだ谷野一栢という医師が、一乗谷でこの「八十一難経」を復刻したとも伝えられている 5 。これらの事実は、一乗谷が当時の地方都市としては先進的な医学知識の集積地の一つであり、医学書の出版を通じて知識の普及も試みられていた可能性を示唆している。大月景秀も、こうした医学的環境の中で活動していた医師の一人であったと考えられる。
景秀が具体的にどのような系統の医術を、誰から学んだのかを直接的に示す史料は現在のところ見当たらない。しかし、彼が創製または製法を習得したとされる「万金丹」が気つけや解毒に効能があったと伝えられていること [ユーザー提供情報]、そして後に産前産後の薬としても用いられたこと 1 から、薬学や内科的治療、さらには戦陣における金創医術(外傷治療)にも通じていたと推測される。戦国時代は、著名な医師である曲直瀬道三が活躍し、李朱医学(当時の中国医学の一派)が日本に広まった時期でもあり 7 、景秀がこうした医学の潮流から何らかの影響を受けていた可能性も否定できないが、それを裏付ける具体的な証拠は今後の研究に待たれる。
朝倉義景の侍医としての大月景秀の活動は 1 、主君やその家族、さらには家臣団の健康管理、疾病治療、そして戦時における負傷兵の救護など、多岐にわたっていたと想像される。特に、彼が朝倉家の軍用薬として「万金丹」を調合していたという事実は 2 、その医術が軍事的にも高く評価され、重要視されていたことを明確に示している。戦国武将にとって、兵士の士気を維持し、戦闘能力を保持することは死活問題であり、医薬の役割は極めて大きかった。景秀の存在は、朝倉軍の戦力維持に少なからず貢献していたであろう。
大月景秀の名を語る上で欠かせないのが、彼が関わったとされる妙薬「万金丹」である。史料によれば、景秀は朝倉家の軍用薬としてこの「万金丹」の製法を習得した、あるいは創製したとされている 1 。朝倉氏に仕えていた時代には主に軍陣での気つけや解毒などに用いられたと推測されるが [ユーザー提供情報]、朝倉氏滅亡後、景秀自身が薬屋を開いた際には、産前産後の妙薬として販売し好評を得たと伝えられている 1 。この用途の転換は、景秀の薬剤に対する深い知識と、時代の変化や市場のニーズを的確に捉える能力を示唆している。
景秀が用いた「万金丹」の具体的な成分や製法に関する直接的な史料は見当たらない。しかし、「万金丹」という名称の薬は、当時から江戸時代にかけて各地に存在し、特に伊勢(現在の三重県)で製造販売されたものが全国的に有名であった 11 。伊勢の万金丹の成分としては、阿仙薬(アセンヤク)、桂皮(ケイヒ)、丁子(チョウジ)、木香(モッコウ)、千振(センブリ)、甘草(カンゾウ)といった和漢薬の生薬が配合されていた記録があり 14 、銀の糖衣を施して丸薬としていたという記述も見られる 11 。これらの生薬は、芳香性健胃、整腸、鎮痛、強壮などの効能を持つものが多く、景秀の万金丹も、これらと同様の生薬を基本としつつ、独自の工夫が加えられていた可能性が考えられる。
伊勢の万金丹は、その起源について夢想や神託によるものが多く語られ、信仰と結びついた側面も持ち合わせていた 11 。また、伊勢参りの土産物として、あるいは道中薬や家庭の常備薬として広く庶民に受け入れられていた 11 。これに対し、大月景秀の万金丹は、その出自が朝倉氏の軍用薬という実用的な目的であり、後に産前産後の薬という特定の医療ニーズに応える形で専門性を高めていった点に特徴があると言える。
朝倉軍における万金丹の役割は、負傷兵の治療補助や兵士の体力維持、士気の高揚などにあったと考えられる。戦場においては、迅速な応急処置と感染症予防が兵士の生死を分けることもあり、携帯可能で即効性のある薬の存在は極めて重要であった。景秀の万金丹は、そうした軍事的要請に応えるものとして重宝されたのであろう。
以下に、大月景秀の万金丹と伊勢の万金丹の比較を試みる。
表1: 「万金丹」比較表
特徴 |
大月景秀の万金丹 (越前) |
伊勢の万金丹 (代表例) |
備考 |
起源・伝承 |
朝倉氏の軍用薬として景秀が製法を習得または創製 1 |
複数の系統。夢想や神託によるものが多い 11 |
景秀のものは実用性が重視された可能性。 |
主な用途 |
初期:軍用 (気つけ、解毒など) 2 。後期:産前産後の薬 1 |
胃腸病、食あたり、下痢、風邪の引き始めなど広範な家庭薬、道中薬、土産物 11 |
用途の変遷が景秀の生涯と連動。 |
成分 (推定) |
不明。当時の一般的な和漢薬か。 |
阿仙薬、桂皮、丁子、木香、千振、甘草など 14 。銀衣を施すことも 11 。 |
景秀の万金丹も類似の生薬ベースであった可能性。 |
流通・販売 |
朝倉氏滅亡後、北庄にて景秀が薬屋を開業し販売 1 |
伊勢参りの土産物として全国に広まる。専門の薬舗が江戸や近江など県外にも出店することも 11 |
景秀のものは地域密着型、伊勢のものは広域流通型。 |
この表からもわかるように、同じ「万金丹」という名称でありながら、その背景や性格には違いが見られる。景秀が「万金丹」という名称を用いたのは、既にその名がある程度知られていたためか、あるいは当時の薬名として一般的だったためかは定かではないが、彼がその内容を自身の経験と知識に基づいて独自に発展させた可能性は高い。
天正元年(1573年)8月、大月景秀が仕えた朝倉義景は、織田信長との戦いに敗れ、一乗谷は焼き払われ、朝倉氏は滅亡した 1 。主家を失った景秀は、大きな人生の岐路に立たされることとなった。
多くの史料が一致して伝えるところによれば、景秀は朝倉氏滅亡後、薙髪(ちはつ)して出家し、法名を「善隆(ぜんりゅう)」と改めた 1 。これは、武士としての身分を捨て、新たな人生を歩むという彼の決意の表れであったと考えられる。戦国乱世においては、主家を失った武士が僧侶となることは珍しいことではなかった。
善隆と名を改めた景秀は、北庄(現在の福井市中心部)に移り住み、薬屋を開業した 1 。当時の北庄は、織田信長の重臣であった柴田勝家が越前支配の拠点として新たに城を築き、城下町の整備を進めていた時期にあたる 15 。善隆は、この新興都市で再起を図ったのである。彼が販売したのは、かつて朝倉軍のために用いた「万金丹」であったが、今度はその効能を産前産後の妙薬として謳い、これが大きな評判を博したと伝えられている 1 。戦乱が一段落し、新たな社会秩序が形成されつつある中で、軍用薬から民生用、特に女性や子供の健康を守る薬へと用途を転換させたことは、善隆の先見性と、彼が持つ医薬の知識の応用力の高さを示すものと言えよう。当時の薬屋がどのように経営されていたかの詳細は不明な点も多いが、専門的な知識と独自の製品を持つことは、事業の成功に不可欠であったと考えられる 17 。
しかし、善隆(景秀)の薬屋としての活動期間は、極めて短かった。彼は、朝倉氏滅亡からわずか3ヶ月後の天正元年11月8日(西暦1573年12月2日)に死去したと記録されている 1 。主家滅亡という大きな悲劇と、その後の目まぐるしい生活の変化が、彼の心身に影響を与えた可能性も否定できない。それでも、この短い期間に彼が築いた薬屋としての評判と「万金丹」の価値は、その後の大月家に大きな遺産を残すことになった。
大月景秀(善隆)の死後も、彼が築いた医業と「万金丹」の評判は途絶えることなく、その子孫によって受け継がれていった。史料によれば、大月家は代々医術を家業とし、「大月斎庵(おおつきさいあん)」として知られるようになったとされている 1 。初代・善隆の薬屋経営は短期間であったにもかかわらず、その医術と薬が地域の人々から高い信頼を得ていたことが、この家業継承の背景にあったと考えられる。
「大月斎庵」の名は、江戸時代後期の福井藩の記録にも見出すことができる。福井藩が領民の天然痘予防のために種痘事業を推進した際、これに協力した町医の中に「大月斎庵」の名が記されている 19 。これは、大月家が単に家伝の薬を販売するだけでなく、時代の要請に応じた新たな医療技術(この場合は種痘)にも取り組み、地域医療に積極的に貢献していたことを示す貴重な証左である。福井藩では、藩医だけでなく多くの町医が種痘事業に関与しており 19 、大月斎庵もその一翼を担う存在であった。
さらに時代は下り、大正11年(1922年)4月10日には、大月斎庵が福井市足羽上町小学校内に「足羽学院」という私塾を開いたという記録が存在する 21 。この足羽学院は、後に文部省認定の足羽中学校へと発展した 21 。医業を生業としてきた大月家が、教育分野にも進出したことは特筆すべきであり、これは大月家が地域社会において単なる医療提供者にとどまらず、文化・教育面でも一定の影響力を持つ存在へと発展していたことを示唆している。この背景には、代々受け継がれてきた知的好奇心や社会貢献への意識があったのかもしれない。
現代の福井市内には、大月姓を冠する産婦人科クリニックが存在するが 23 、これらの医療機関と戦国時代の大月景秀、あるいは近世・近代の「大月斎庵」との直接的な系譜関係を明確に示す史料は、現時点では確認されていない。しかし、大月景秀(善隆)が晩年に産前産後の薬「万金丹」で名を馳せたこと、そしてその家系が「大月斎庵」として医業を継承してきた歴史を鑑みると、福井という地域における「大月」姓と産婦人科医療との間には、何らかの歴史的な連続性を想起させるものがある。
大月景秀の生涯は、戦国時代から安土桃山時代という激動の時代を生きた一人の地方武士であり、また優れた医師であった人物の軌跡として、いくつかの点で歴史的な意義を見出すことができる。
第一に、武士としての側面と医師としての専門性を兼ね備えていた点が挙げられる。朝倉氏の家臣として曲水宴に参加したり、足利義昭来訪時の警護役を務めたりするなど 1 、武士としての務めを果たす一方で、医術をもって主君に仕え、特に軍用薬「万金丹」を調合して朝倉軍を支えた 2 。このような文武両道ならぬ「武医両道」とも言える存在は、戦国時代においても比較的稀有であり、個人の持つ専門技術が、自身の立身や主家への貢献にいかに重要であったかを示す好例と言える。
第二に、「万金丹」を通じた医療への貢献である。戦時下においては、兵士の救護や士気維持に不可欠な軍用薬として、平時(特に朝倉氏滅亡後)においては、産前産後の薬として民衆の健康を支えた 1 。特に後者の、女性や子供という、戦乱の時代には顧みられにくい立場の人々のための薬を提供したことは、彼の医師としての倫理観や人間性をも窺わせる。
第三に、地域史、特に越前・福井の歴史における位置づけである。朝倉氏の家臣として一乗谷の文化や政治に関与し、主家滅亡後は北庄(福井)で薬屋を開業、その医業が「大月斎庵」として後世に引き継がれたことは、福井の地域医療史において特筆すべき足跡を残したと言える 1 。一乗谷で活動した谷野一栢のような先進的な医師の存在 5 とともに、大月景秀もまた、当時の越前における医療水準の一端を担っていた可能性が考えられる。
しかしながら、大月景秀に関する直接的な一次史料は限定的であり、その詳細な活動や思想、医術の具体的な内容などを完全に復元することは容易ではない。例えば、彼がどのような師につき医術を学んだのか、彼が創製した「万金丹」の正確な成分や製法はどのようなものであったのか、といった点は未だ謎に包まれている。
以下に、大月景秀の生涯を略年譜としてまとめる。
表2: 大月景秀 略年譜
和暦 |
西暦 |
出来事 |
関連史料・情報源 |
生年不詳 |
不詳 |
越前国吉田郡志比谷市野々村に生まれると伝わる。 |
1 |
(戦国時代) |
(戦国時代) |
朝倉掃部の妹を娶り、朝倉氏家臣となる。通称三郎左衛門尉、官位備中守。 |
1 |
永禄5年 |
1562年 |
大覚寺義俊のための曲水宴に朝倉家臣として参加。 |
1 |
永禄11年 |
1568年 |
足利義昭の朝倉館訪問時、中門警護を担当。 |
1 |
(時期不明) |
(時期不明) |
医師として朝倉義景に仕え、軍用薬「万金丹」の製法を習得 (または創製)。 |
2 |
天正元年8月 |
1573年8月 |
朝倉義景、織田信長に敗れ滅亡。 |
1 |
天正元年8月以降 |
1573年8月以降 |
薙髪し法名を善隆と改める。北庄に移り、産前産後の妙薬として「万金丹」を創製・販売し好評を得る。 |
1 |
天正元年11月8日 |
1573年12月2日 |
死去。 |
1 |
(死後) |
(死後) |
大月家は代々医術を業とし「大月斎庵」として続く。 |
1 |
(江戸後期) |
(江戸後期) |
「大月斎庵」が福井藩の種痘事業に関与した町医として記録される。 |
19 |
大正11年4月10日 |
1922年4月10日 |
大月斎庵、福井市足羽上町小学校内に足羽学院を開く。 |
21 |
この年譜は、断片的な情報を繋ぎ合わせることで、大月景秀という一人の人物が戦国末期の激動の中でどのように生き、その専門性をどのように活かしたかを浮き彫りにする。彼の生涯は、歴史の大きな流れの中で埋もれがちな、しかし確かに存在した地方の専門技術者の姿を我々に伝えてくれる。
本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて越前国で活動した医師であり武将でもあった大月景秀について、現存する史料を基にその生涯と業績を多角的に検討してきた。その結果、大月景秀が朝倉義景の家臣として武士の務めを果たしつつ、医師としての専門性を発揮し、特に「万金丹」という薬を通じて戦時下の軍事医療、そして主家滅亡後は平時における民間医療(特に産前産後のケア)に貢献したことが明らかになった。さらに、彼の死後もその医業は「大月斎庵」として子孫に受け継がれ、福井の地で長く地域医療の一翼を担い、後には教育分野にも進出したという、注目すべき家系の歴史も確認された。
大月景秀の生涯は、戦国乱世という困難な時代において、個人の持つ専門技術や知識がいかに生き抜くための力となり得たか、そして社会の変化に柔軟に適応していくことの重要性を示す好例と言える。彼は、主家の滅亡という大きな転換点に際しても、自身の医術と「万金丹」という具体的な成果物を頼りに、新たな土地で薬屋として自立の道を切り開いた。これは、戦国武士の多様な生き方の一つとして、また、専門職能人のレジリエンスを示す事例として評価できよう。
しかしながら、大月景秀研究には未だ多くの課題が残されている。彼が習得した医術の具体的な内容や師弟関係、彼が創製または改良した「万金丹」の正確な成分や製法、そして彼の薬屋経営の具体的な実態など、解明されていない点は少なくない。
今後の展望としては、福井県内に残る古文書や、大月家に関連する可能性のある史料のさらなる発掘と丹念な分析が期待される。福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 4 、福井県文書館 28 、福井市立郷土歴史博物館 30 などには、未整理・未公開の関連資料が眠っている可能性も否定できない。また、大月斎庵家に伝わる家伝記録や、当時の日記、書簡などに、大月景秀や「万金丹」に関する新たな記述が見出される可能性もある。
大月景秀は、歴史の教科書に名を残すような著名な戦国大名ではない。しかし、彼の生涯を詳細に追うことは、当時の地方社会の様相、医療の実情、そして文化のあり様をより具体的に理解する上で貴重な手がかりを与えてくれる。歴史は、決して英雄や為政者だけで紡がれるものではなく、大月景秀のような、それぞれの専門分野で確かな足跡を残した「名もなき人々」の活動の積み重ねによっても形作られてきたのである。彼の研究は、そうした歴史の深層に光を当てる試みとして、今後も継続されるべきであろう。