最終更新日 2025-06-13

大村由己

「大村由己」の画像

大村由己 詳細報告:その生涯と豊臣秀吉の天下統一における文化的役割

序章:大村由己とは何者か

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、文人として、そして豊臣秀吉の側近として特異な足跡を残した大村由己(おおむら ゆうこ)の生涯と業績について、現時点で入手可能な情報に基づき、多角的に掘り下げることを目的とする。大村由己は、羽柴(豊臣)秀吉の家臣であり、播磨の出身、秀吉の右筆を務め、新作能を創作するなど文化人として長じ、秀吉の軍記『天正記』を著した人物として一定の認知がある。しかし、その活動は単なる記録者の域を超え、秀吉の天下統一事業とその後の政権運営において、文化を通じたイメージ戦略や正当性の構築という点で、極めて戦略的な価値を持った存在であった。

由己は、武力ではなく、その筆と知識をもって激動の時代を生き抜き、稀代の天下人である豊臣秀吉の下で、プロパガンダの担い手、あるいは文化政策の一翼を担うという、他に類を見ない役割を果たした。彼の著作や活動は、秀吉個人の偉業を称揚するにとどまらず、豊臣政権の権威を高め、その支配を正当化するための意図的な情報発信という側面を強く持っていた。本報告書では、由己の出自から晩年に至るまでの生涯を追うとともに、その著作、特に『天正記』の内容と史料的価値、さらには能作者としての活動や同時代の知識人との交流を詳細に検討し、戦国・安土桃山時代における彼の位置づけを明らかにすることを目指す。

第一章:出自と修学時代 ― 文人としての素養形成

大村由己の生涯を理解する上で、まずその出自と、文人としての素養がどのように形成されたかを見ていく必要がある。

1.1. 生誕地と生年

大村由己は、播磨国三木(現在の兵庫県三木市)の出身であるとされている 1 。生年については、天文5年(1536年)頃とする説が有力である 1 。これは、慶長元年(1596年)に60歳あるいは61歳で没したという記録からの逆算によるものである 2

1.2. 初期:僧籍から還俗へ

由己は、初め青柳山長楽寺(三木大村金剛寺の塔頭)の僧侶であり、頼音房(らいおんぼう)と称していた 3 。しかし、後に還俗し、大村由己として活動を始めることになる。その具体的な時期や理由については詳らかではないが、羽柴秀吉の播磨進出、特に三木合戦(天正6年~8年、1578年~1580年)と何らかの関連があった可能性が考えられる。

1.3. 修学と学問的背景

由己の文人としての才能は、若い頃からの熱心な修学によって培われた。京都の相国寺において、仁如集堯(じんにょしゅうぎょう)から漢学を学んだことは、彼の代表作である『天正記』の多くが漢文体(もしくは漢文訓読体)で書かれていることの背景にあると考えられる 2 。また、様々な師を訪ねて歌道を修めたとされ、和歌や連歌にも通じていた 3 。さらに、禅や外典(仏教以外の書物)の学問も修めた記録がある 2

こうした漢学、和歌、さらには禅や外典といった広範な分野にわたる学識は、単に個人的な教養の深さを示すだけでなく、多様な文化的要請に対応できる人材としての価値を高めた。特に、公式な記録に適した漢文と、能の詞章や和歌などより幅広い層に訴えかける和文の両方を自在に扱える能力は、後に豊臣秀吉のような実力者に仕え、その政権の多様な文化的ニーズに応える上で、極めて重要な意味を持つことになった。

第二章:羽柴秀吉への出仕と右筆・御伽衆としての役割

大村由己の人生における大きな転機は、羽柴秀吉との出会いと、彼への出仕であった。これにより、由己は一介の文人から、天下人の側近へとその立場を大きく変えることになる。

2.1. 秀吉への出仕の経緯

由己が羽柴秀吉の右筆(祐筆)となったのは、秀吉による播磨攻め、特に三木合戦(天正6年~8年、1578年~1580年)の頃とされている 3 。彼の出身地である播磨国三木が、秀吉の勢力圏に入ったことが直接的な契機となったと考えられる 3 。天正10年(1582年)の秀吉による中国大返しの際には、姫路城での軍議に参加しており、この時点で既に秀吉の側近としての地位を確立していたことがうかがえる 3

2.2. 右筆としての活動

右筆として由己は、秀吉の発給する文書の作成など、書記としての役割を担った 3 。例えば、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸の様子を記録した『聚楽行幸記』は、秀吉の命により由己が著したものである 5 。なお、この『聚楽行幸記』を能筆家として知られる大饗正虎が清書して天皇に献上したという記録があるが 6 、これは由己が著者、正虎が清書担当という役割分担を示すものであり、由己の著述者としての立場を揺るがすものではない。

2.3. 御伽衆としての役割

由己は、天正8年(1580年)頃には秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)の一員であった 2 。御伽衆とは、主君の側に侍して話し相手を務めたり、書物の講釈を行ったりする役職であり 1 、単なる書記官僚ではなく、秀吉の個人的な相談役や文化的ブレーンとしての性格が強かった 2 。由己はこの立場から、秀吉の事績を記録し、豊臣政権の正統性を訴えるスポークスマンとしての役割を積極的に担ったと推察される 3

御伽衆として秀吉に近侍したことは、由己が秀吉の意図や政権の動向、さらには秀吉自身の思想や政策を間近で把握し、それを自身の著作に色濃く反映させる上で決定的に重要であった。この立場は、彼が単なる出来事の記録者ではなく、秀吉の自己認識や政権の公式見解を深く理解し、それを効果的に「物語る」ことを可能にしたのである。

2.4. 大坂天満宮別当

由己は、天正10年(1582年)から没する慶長元年(1596年)まで、大坂天満宮の別当を務めた 2 。これは、秀吉政権下における由己の宗教的・文化的な地位を示すものの一つであり、彼が文筆活動だけでなく、一定の社会的地位を伴う役職にもあったことを示している。

第三章:主著『天正記』の編纂 ― 豊臣政権の公式記録者として

大村由己の名を後世に最も知らしめたのは、主著『天正記』の編纂である。これは豊臣秀吉の事績を記録した一連の著作群の総称であり、豊臣政権の公式記録者としての由己の側面を最もよく表している。

3.1. 『天正記』の成立経緯と目的

『天正記』(別名『秀吉事記』)は、豊臣秀吉の命により、天正年間(1573年~1592年)における秀吉の目覚ましい活躍を記録した軍記物である 3 。その主な目的は、秀吉の偉業を顕彰し、成立間もない豊臣政権の正統性を内外に示すことにあったと考えられている 3 。近年の研究では、『天正記』が当初、国際的にも通用する「正史」としての位置づけを念頭に、格調高い漢文体で著された可能性が指摘されている。由己が漢籍に深い造詣を持っていたことが、この大事業の執筆担当者として選ばれた理由の一つであろう 8

この「正史」意識は、『天正記』の編纂が単なる戦功の記録を超え、中国の正史を範とした国家的な編纂事業としての性格を帯びていたことを示唆する。秀吉政権が自らの事績を、中華文明圏における正統な歴史叙述の形式で後世に残そうとした意識の表れと見ることができる。しかし同時に、『任官之記』に見られるような、明らかに秀吉を美化し、その出自を粉飾して正当化する内容も含まれており、客観的な「正史」を目指しつつも、強力なプロパガンダとしての機能が優先された、あるいは両立が図られたと考えられる。

3.2. 『天正記』の構成と内容

『天正記』は元来12巻から成るとされるが、現在はその一部のみが現存している(8巻が現存し、4巻が散逸したとする説がある) 3 。以下に主要な構成作品とその概要を示す。

表1:『天正記』構成一覧

巻名(別名)

主な内容

成立年(推定含む)

現存状況

特記事項

『播磨別所記』(『播州御征伐之事』)

三木合戦の経緯と終結

天正8年頃

現存

天正13年に本願寺顕如・教如親子の前で由己自身が朗読したと伝わる 3

『惟任退治記』(『惟任謀反記』)

本能寺の変、山崎の戦い、織田信長葬儀

天正10年

現存

事件後速やかに成立 7

『柴田退治記』(『柴田合戦記』)

賤ヶ岳の戦い、柴田勝家滅亡、大坂城築城開始

天正11年

現存

秀吉の覇権確立過程を記述 3

『紀州御発向記』

紀州征伐(根来・雑賀一揆鎮圧)

天正13年頃

現存

秀吉の支配領域拡大を示す 3

『任官之記』

秀吉の関白就任の経緯と正当性の主張

天正13年

現存

秀吉の祖父を「萩中納言」、母を宮仕えの経験者とするなど、出自の粉飾が見られる 3

『四国御発向並北国御動座記』

四国征伐(長宗我部元親降伏)、越中佐々成政征伐

天正13年頃

現存

広範囲な軍事行動を記録 3

『聚楽行幸記』

後陽成天皇の聚楽第行幸の次第

天正16年

現存

『天正記』中、唯一純和文体で記述され、広く流布したとされる 1 。秀吉の権威を最大限に演出。

『金賦之記』

聚楽第での大名への金銀下賜の記録か

天正17年頃

散逸

3

『大政所御煩平癒記』

秀吉の母・大政所の病気回復の記録か

不明

散逸

3

『若公御誕生之記』

秀吉の子・鶴松誕生の記録か

天正17年頃

散逸

3

『西国征伐記』

九州征伐の記録か(朝鮮出兵の記録とする説もある)

不明

散逸

3

『小田原御陣』

小田原征伐(後北条氏滅亡)

天正18年頃

現存

秀吉の天下統一の完成を記録 3

『天正記』の他の巻が主に漢文体(あるいは漢文訓読体)で書かれているのに対し、『聚楽行幸記』のみが純和文体で書かれたことは、この記録が持つ特別な宣伝的意図を反映していると考えられる 1 。天皇行幸という、秀吉の権威を国内に最大限に示す一大イベントの記録を、より広範な層が理解しやすい和文で記述することにより、その内容、すなわち秀吉の威光と天皇からの信任を、より多くの人々に伝え、印象づけるという戦略的な判断があったものと推察される。これは、他の戦記的な記録とは異なる普及戦略であったと言えよう。

3.3. 『天正記』の史料的価値と限界

『天正記』は、豊臣政権研究における一次史料に近い重要史料として位置づけられる一方で、その記述は秀吉顕彰の意図が極めて強く、客観性には限界がある 3 。特に『任官之記』に見られる秀吉の出自に関する記述は、秀吉自身の権威付けのための創作であるとの評価が一般的である 3 。そのため、歴史史料として利用する際には、他の史料との比較検討を含めた慎重な史料批判が不可欠となる 12

近年の学術的研究、例えば中村博司氏らによる研究では、江戸時代以降に編纂・出版されたテキスト(例えば『群書類従』所収本など)に見られる後代の改変や誤りを排し、可能な限り原本に近い形での翻刻・校訂作業が進められており、より信頼性の高いテキストの提供が試みられている 11 。これにより、『天正記』をめぐる研究環境は新たな段階に入りつつある。

第四章:新作能の創作と多岐にわたる文芸活動

大村由己の才能は、『天正記』のような軍記物の編纂にとどまらず、能楽や和歌、連歌といった多岐にわたる文芸活動にも発揮された。特に、豊臣秀吉の命による新作能の創作は、由己の文化人としての一面を際立たせるものである。

4.1. 秀吉の能への傾倒と由己への創作命令

文禄の役(1592年~)の頃、豊臣秀吉は能楽に深く傾倒していた。既存の能作品だけでは満足せず、自身の偉業を後世に伝え、その威光を内外に示すための新たな能、すなわち「新作能」の創作を、側近の文人である大村由己に命じたとされている 3 。由己は、和歌や連歌にも通じた当代一流の文化人であり、秀吉のこの要求に応えるに足る人物であった。

4.2. 新作能の具体例と特徴

由己が作詞し、当代随一の能役者であり作曲にも長じた金春流の金春安照(こんぱるやすてる)が作曲を手がけた作品群は、「豊公能(ほうこうのう)」とも総称される 4 。これらは、上演を前提とした新作能としては最後の作品群にあたると考えられている 4

表2:大村由己作 新作能一覧

作品名(別名)

作曲者(推定含む)

成立年頃

主題(特に秀吉の役割)

特記事項

『吉野花見』(『吉野詣』)

金春安照

文禄3年頃

吉野に花見に赴いた秀吉の前に蔵王権現が現れ、秀吉の治世を賛美する。

秀吉の威徳を神仏が認める構図 4

『高野参詣』

金春安照

文禄3年頃

高野山に参詣した秀吉の前に母・大政所の霊が現れ、秀吉の孝行を称える。

秀吉の人間的な側面と孝心を強調 4

『明智討』

金春安照

文禄3年以前

本能寺の変後、秀吉が明智光秀を討ち、主君織田信長の仇を報じた山崎合戦を描く。

文禄3年(1594年)に大坂城や禁中で秀吉自身によって演じられたとされ、秀吉のお気に入りであったことがうかがえる 3

『柴田討』(『柴田』)

金春安照

文禄3年以前

賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家を破った様を描く。

秀吉の武勇と戦略を称賛 4

『北条討』(『北条』)

金春安照

文禄3年以前

小田原征伐における北条氏政の滅亡と秀吉の勝利を描く。

秀吉の天下統一事業の完成を象徴 4

『この花』

金春安照

文禄3年3月頃

秀吉の前に梅の精が現れ、秀吉の治世の天下泰平と長寿を祝福する。

平成12年(2000年)に金春安明師所蔵の番外謡本の中から発見された 4

これらの新作能は、いずれも秀吉を主役とし、その武功や徳を称揚する内容となっている 3 。秀吉が自らを主役とする能を由己に作らせ、自身で演じたという事実は 3 、単なる趣味や娯楽を超えた、自己の権威を文化的に高め、さらには神格化しようとする試みであったと解釈できる。能という伝統的で格調高い芸能の形式を用いることで、秀吉は自身の支配の正当性と永続性を演出しようとしたのであり、大村由己はその「神話創生」の重要な担い手であったと言えるだろう。

4.3. その他の文芸活動

由己の文芸活動は新作能の創作に留まらない。彼は謡曲、和歌、連歌、俳諧、狂歌など、当時の主要な文芸ジャンルにおいて多彩な才能を発揮した 2 。これらの活動は、彼が当代一流の文化人として広範な知識と教養を有していたことを示している。

4.4. 『梅庵古筆伝』と古筆鑑定

由己はまた、『梅庵古筆伝』という著作を著し、古筆(こひつ、古い時代の優れた筆跡)に対する深い造詣も示している 2 。彼の号である「梅庵(ばいあん)」は、この著作名にも通じるものであり、古筆鑑定家としての一面も持っていたことがうかがえる。

第五章:当代知識人との交流

大村由己は、豊臣秀吉の側近として政権の中枢に関わる一方で、当時の知識人社会においても活発な交流を持っていた。これは、彼が単に権力に追従するだけの人物ではなく、自らの学識と人間的魅力によって文化人としての地位を築いていたことを示している。

5.1. 主要な交流相手

由己は、近世儒学の祖とされる藤原惺窩(ふじわらせいか)、公家であり日記『言経卿記』の著者として知られる山科言経(やましなときつね)、連歌の第一人者であった里村紹巴(さとむらじょうは)など、当時の第一級の文化人たちと親交があったことが記録されている 2

5.2. 『言経卿記』に見る由己

特に山科言経の日記『言経卿記』には、大村由己(梅庵の名で登場することもある)との具体的な交流の様子が記されており、由己の人物像や活動の一端をうかがい知ることができる。

例えば、 20 の記述によれば、浪人中の言経が、由己が進めていた『天正記』の編纂作業を「アルバイト」として手伝っていたとあり、当時の知識人間の経済的な状況や、学術的な協力関係の一端が垣間見える。また、 21 には、天正17年(1589年)から19年(1591年)頃にかけて、由己の邸宅で連歌会が催されたことや、言経が由己を介して山名禅高と書状のやり取りをしていたことなどが記されており、由己が文化サロン的な役割を担い、広範な情報ネットワークを築いていた可能性を示唆している。さらに、 22 には、言経が冷泉家所蔵の貴重な古典籍を由己のために書写したという記述があり、二人の間の学術的な協力関係の深さがうかがえる。

これらの『言経卿記』の記述は、豊臣政権の公式記録者としての大村由己とは異なる、一個の文化人としての日常や、他の知識人との具体的な相互作用を明らかにする貴重な情報源である。これにより、由己が秀吉の威光だけに頼って活動していたのではなく、自らの学識と築き上げた人脈によっても、その活動基盤を確固たるものにしていたことが理解できる。

5.3. 交流の意義

こうした当代一流の知識人たちとの交流は、由己が単に秀吉の側近という立場に留まらず、当時の知識人社会においても一定の評価と地位を得ていた文化人であったことを証明している。また、彼が『天正記』をはじめとする著作を執筆する上で、これらの人脈から様々な情報や知識を得たり、あるいは助言や協力を受けたりした可能性も十分に考えられる。

特に、山科言経のような有職故実や古典籍に精通した公家知識人との連携は 14 、大村由己の著述活動、とりわけ『天正記』のような歴史編纂事業において、記述の正確性、典故の確かさ、さらには表現の洗練性といった点で、その質の向上に大きく寄与した可能性がある。公家が持つ専門的な知識や、彼らがアクセス可能であったであろう貴重な記録・古典籍は、由己の編纂作業にとって計り知れない価値を持つリソースとなったはずである。この協力関係は、由己の著作の質を高め、結果として豊臣政権の公式記録としての権威を一層高める効果ももたらしたと考えられる。

第六章:晩年、死没、そして後世への影響

大村由己は、豊臣秀吉の天下統一事業とその後の政権安定期において、文化的な側面から多大な貢献をしたが、その活動もやがて終焉の時を迎える。

6.1. 晩年の活動

由己の晩年における特筆すべき活動としては、文禄の役(1592年~)に際し、豊臣秀吉に従って肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)まで従軍したことが挙げられる 3 。この時期は、前述の通り、秀吉の命による新作能の創作が活発に行われた時期と重なっており、由己は陣中にあってもその文筆の才を発揮していたと考えられる。また、最晩年に至るまで、大坂天満宮の別当としての務めも続けていた 2

6.2. 死没

大村由己は、慶長元年5月7日(西暦1596年6月2日)、摂津国天満天神、すなわち大坂天満宮においてその生涯を閉じた 2 。享年は60歳、あるいは61歳であったと伝えられている 2 。彼の墓所の具体的な場所については、現時点での調査では特定に至らなかった 15

6.3. 後世への影響

大村由己の最大の業績である『天正記』は、後世の豊臣秀吉に関する歴史叙述や文学作品に極めて大きな影響を与えた。特に、江戸時代初期に成立し、広く読まれた小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』は、『天正記』を重要な典拠の一つとして利用しつつ、独自の編集や解釈を加えたものと考えられている 3

甫庵の『太閤記』は、由己の『天正記』と比較すると、文禄年間(1592年~1596年)以降の記事、とりわけ関白豊臣秀次に関する記述がより詳細であるなどの違いが見られる 18 。これは、由己の没後に起こった事件や、由己とは異なる情報源に基づいて甫庵が記述を補った可能性を示唆している。

由己の『天正記』が、秀吉の同時代史料として、ある程度「事実」に基づいた(ただし秀吉の意向を強く反映した)記録であったのに対し、小瀬甫庵の『太閤記』は、それを下敷きにしつつも、より物語的、教訓的な要素を加え、秀吉像を大衆向けに「英雄化」あるいは「理想化」する方向へと発展させたと言える。由己の仕事は、いわば後の「太閤記物」という一大ジャンルが花開くための重要な種子となったのである。由己が提供した「素材」を元に、甫庵は江戸初期という異なる時代背景や読者層を意識し、よりドラマチックで教訓的な要素を盛り込み、秀吉の物語を再構築した。この意味で、由己の記録は一次的なプロパガンダとしての性格が強いのに対し、甫庵の物語は二次的な英雄譚としての性格を帯びていると評価できる。由己が形成に大きく関与した秀吉像は、その後の豊臣秀吉のパブリックイメージの原型の一つとなり、今日に至るまで影響を与え続けている。

終章:大村由己再評価 ― 戦国時代の文化と権力のはざまで

大村由己の生涯と業績を振り返ると、彼は播磨の一介の学僧から身を起こし、その学識と文才によって天下人豊臣秀吉の側近へと駆け上がり、激動の時代に特異な足跡を残した人物であったと言える。主著『天正記』の編纂、秀吉の事績を称える新作能の創作、そして和歌や連歌など多岐にわたる文芸活動は、彼の非凡な才能を物語っている。

しかし、由己の活動を評価する上でより重要なのは、彼が豊臣政権において担った文化的・政治的役割である。彼は単に秀吉個人の才能への評価によって重用されただけでなく、豊臣政権の正当性を内外に示し、その文化的な権威を高めるという、明確な戦略的意図の下で活動した文化人であった。彼の著作、特に『天正記』や新作能は、秀吉の偉業を後世に伝えるという名目の下に、政権のプロパガンダとしての機能を色濃く有していた。

大村由己の業績は、豊臣秀吉という絶対的な権力者の庇護と命令の下で成し遂げられたものであり、その内容は必然的に秀吉の意向を強く反映するものであった。このため、彼の著作には客観性や中立性の限界が伴うことは否定できない。しかし、まさにその「偏り」や意図性こそが、豊臣政権のプロパガンダ戦略や、秀吉が自らをどのように見せようとしたのか、どのような歴史を残そうとしたのかを如実に示す一次史料としての価値を持つ。

由己の生涯と活動は、戦国時代から近世へと移行する過渡期における、権力と文化の密接な関係、そして文人がその中で果たし得た役割の複雑さ(奉仕と利用、創造と制約)を今日に伝えている。彼の著作は、史料批判の重要性を我々に認識させるとともに、当時の権力者の自己認識や、情報操作を含む広報戦略の手法を理解する上で、貴重な手がかりを提供する。大村由己は、権力に奉仕した文化人の一つの典型として、またその時代における歴史叙述の一つのあり方を示す存在として、日本史において再評価されるべき人物であると言えよう。

引用文献

  1. 学芸ノート 【第9回】 高岡御車山のルーツ!?『聚楽行幸記』 https://www.e-tmm.info/gakugei-9.htm
  2. 大村由己(おおむらゆうこ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1-39617
  3. 大村由己 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%94%B1%E5%B7%B1
  4. 〈この花〉豊公能 - 能楽金春流情報サイト金春 ... - 能楽金春ニュース http://www.komparunews.com/konohana
  5. 聚楽行幸記(じゅらくぎょうこうき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%81%9A%E6%A5%BD%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E8%A8%98-78321
  6. 大饗正虎(おおあえ・まさとら)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%A5%97%E6%AD%A3%E8%99%8E-1059535
  7. 『天正記』(てんしょうき) | 筒井氏同族研究会 https://tsutsuidouzoku.amebaownd.com/posts/7690885/
  8. 基調講演 特別講演 - 日本研究中心 http://cjs.ntu.edu.tw/eacjs/pdf/abstract.pdf
  9. Union Catalogue Database of Japanese Texts https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100045383?ln=en
  10. 豊臣秀吉|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2398
  11. 第一種古活字版『天正記』翻刻・改訂文・注解を中心に (日本史研究叢刊 46) https://www.amazon.co.jp/-/en/%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E5%8D%9A%E5%8F%B8/dp/4757611013
  12. 共同研究・競争的資金等の研究課題 - 教員情報検索 - 東京大学 https://www.researchers.adm.u-tokyo.ac.jp/Profiles/83/0008205/detail.html?lang=ja&achievement=research_fund
  13. 日本史研究叢刊46 『天正記』の復原的研究 - 和泉書院 https://www.izumipb.co.jp/smp/book/b653298.html
  14. 山科言経(やましな・ときつね)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%A7%91%E8%A8%80%E7%B5%8C-21889
  15. 第十章戦国の争乱と中世後期の文化@ 社会 - 神戸市 https://www.city.kobe.lg.jp/documents/56204/kc-10.pdf
  16. 目次一覧 - 日本医史学会 http://jshm.or.jp/journal.html
  17. お城EXPO 2021 徹底ガイド⑥ テーマ展示「伝承する歴史―豊臣秀吉を中心に―」 - 城びと https://shirobito.jp/article/1479
  18. 太閤記を読む - 名古屋市図書館 https://www.library.city.nagoya.jp/img/oshirase/2016/nakamura_201607_1_1.pdf
  19. 近世初期軍記の研究 - 早稲田大学リポジトリ https://waseda.repo.nii.ac.jp/record/6143/files/Gaiyo-2884.pdf
  20. 解説5 | 豊能町公式ホームページ https://www.town.toyono.osaka.jp/page/page004994.html
  21. シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第十四回 | 東谷ズム https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding14/
  22. 冷泉家と時雨亭文庫 角田 文衛 No.750(昭和56年1月) - 学士会 https://www.gakushikai.or.jp/magazine/article/archives/archives_750/