最終更新日 2025-06-12

大田原晴清

「大田原晴清」の画像

大田原晴清公の生涯と大田原藩の成立

表1: 大田原晴清 関連年表

年代 (西暦)

元号

年齢

主要な出来事

役職・知行の変化など

典拠

1567年

永禄10年

1歳

下野国大田原城主・大田原綱清の子として誕生。幼名は左兵衛、のち右兵衛尉。

1

1585年

天正13年

19歳

薄葉ヶ原の戦いに父・綱清、弟・増清と共に参陣(初陣)。

2

1588年

天正16年

22歳

(弟・増清が父の名代として上洛、豊臣秀吉に謁見)

3

1590年

天正18年

24歳

家督を相続。豊臣秀吉の小田原征伐に際し、沼津にて秀吉に謁見。忍城攻め等に参加。秀吉より本領7,100石(または7,114石)を安堵され、備前守を称す。秀吉、大田原城に宿泊。那須氏再興に尽力。

7,100石(または7,114石)安堵、備前守叙任(自称)

2

1592年

文禄元年

26歳

文禄の役(朝鮮出兵)に際し、名護屋城まで出陣。

2

1600年

慶長5年

34歳

関ヶ原の戦い。東軍に属し、上杉景勝の動向を徳川家康に報告。大田原城にて上杉軍の南下に備える。家康・秀忠より太刀や黄金を賜る。戦後、下野森田に800石加増。

7,900石に加増

2

1601年

慶長6年

35歳

服部正成が大田原城を去る際、徳川軍の大砲3挺を与えられる。

2

1602年

慶長7年

36歳

弟・増清と共に陸奥相馬中村城の守備にあたる。12月、下野・陸奥に4,500石加増され、計12,400石となり大田原藩を立藩、初代藩主となる。

12,400石に加増、大田原藩初代藩主

1

1604年

慶長9年

38歳

(奥方の発願により正法寺創建)

6

1612年

慶長17年

46歳

長男・政清誕生。

7

1614年

慶長19年

48歳

安房国里見忠義改易に伴い、館山城の接収・守衛にあたる。大坂冬の陣に本多正信組として参陣。

2

1615年

元和元年

49歳

大坂夏の陣に本多正信組として参陣、敵首70を挙げる。

2

1617年

元和3年

51歳

徳川秀忠の上洛に随行。8月~12月、駿府城番を務める。

駿府城番

1

1622年

元和8年

56歳

出羽国最上氏改易に伴い、弟・増清と共に山形城の守備にあたる。

2

1623年

元和9年

57歳

徳川秀忠の上洛に供奉。

2

1625年

寛永2年

59歳

従五位下に叙任される。

従五位下叙任

2

1627年

寛永4年

61歳

酒井直次と共に陸奥二本松城番を務める。幕府より米1,000石を大田原城に詰米として預かる。

2

(時期不明)

大坂城番を務める。

大坂城番

1

1631年3月7日 (旧暦2月5日)

寛永8年

65歳

死去。

1


1. はじめに

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、大田原晴清(おおたわらはるきよ、永禄10年(1567年) – 寛永8年2月5日(1631年3月7日))の生涯と事績について、詳細かつ包括的に論じるものである 1 。晴清は、下野国那須郡(現在の栃木県大田原市周辺)を本拠とした那須七党の一つ、大田原氏の出身であり、豊臣秀吉、次いで徳川家康に仕え、激動の時代を巧みに生き抜き、近世大名としての大田原藩の初代藩主となった人物である 1

従来、大田原晴清に関しては、那須七党の一員としての側面、豊臣秀吉の小田原征伐への参陣とそれに伴う所領安堵、そして関ヶ原合戦における東軍への所属と戦後の加増といった事績が知られている。本報告書では、これらの既知の情報を踏まえつつ、晴清の出自と家系の背景、家督相続の経緯、小田原征伐や関ヶ原の戦いにおける具体的な行動とその政治的意義、大田原藩初代藩主としての藩政の確立に向けた努力、さらには彼の家族構成や人物像に至るまで、現存する史料を基に多角的な視点からその生涯を徹底的に調査し、明らかにすることを目的とする。これにより、戦国末期から近世初頭にかけての地方領主の動態と、新たな支配体制への適応過程の一端を具体的に描き出すことを試みる。

2. 大田原氏の出自と戦国時代の那須地域

大田原晴清の生涯を理解する上で、彼が属した大田原氏の成り立ちと、当時の那須地域の政治状況を把握することは不可欠である。本章では、大田原氏の起源、那須七党としての役割、そして晴清の祖父・父の時代の動向を概観し、晴清が歴史の表舞台に登場するまでの背景を明らかにする。

2.1. 大田原氏の起源と那須七党

大田原氏の家伝によれば、その祖は武蔵国阿保郷(現在の埼玉県北部)に居住した備前守忠清に遡るとされる。その後、忠清の子孫が下野国那須郡の大俵(おおたわら、現在の大田原市付近)に移り住み、「大俵」を姓として称した。そして、14代当主とされる資清(すけきよ)の代に、姓を「大田原」と改めたと伝えられている 5 。さらに詳細な出自としては、武蔵七党の一つである丹党(たんとう)の一族で、武蔵国榛沢郡阿保郷を本拠とした阿保氏の流れを汲むと称しているが、現存する系図では宣化天皇に繋がる系譜ではなく、大俵忠清を初代として記載している 5 。戦国時代の武家が自らの家系の権威を高めるために系譜を修飾することは珍しくなく、大田原氏の系譜もこうした当時の慣習を反映している可能性が考えられる。

中世以降、大田原氏は那須氏の有力な配下武将として、「那須七党(那須七騎とも)」の一角を占め、地域の軍事・政治において重要な役割を担ってきた 5 。那須七党は、那須宗家を支える中核的な家臣団であり、それぞれが独立性の高い領主でもあった。この連合体の中で、大田原氏は代々武勇をもって知られ、那須氏の勢力維持に貢献した。

2.2. 晴清の祖父・大田原資清と父・綱清の時代

大田原晴清の祖父にあたる大田原資清は、大田原氏の歴史において特筆すべき人物である。資清は天文12年(1543年)頃、従来の拠点であった水口(みなくち)から移り、現在の龍城公園の地に大田原城を築城したとされている 4 。この大田原城が、以降の晴清の時代の本拠地となる。

資清の時代、那須家中は必ずしも一枚岩ではなく、有力家臣間の権力闘争が絶えなかった。資清自身も、当初は那須氏の家臣として活動していたが、同じく那須七党の有力氏族である大関氏や福原氏との抗争に敗れ、一時的に那須を離れて越前国(現在の福井県)へ逃れた時期もあった 10 。しかし、天文11年(1542年)には那須に帰還し、当時勢力を振るっていた大関増次(ますつぐ)を討ち果たし、その子である高増(たかます)に大関氏の名跡を継がせるなど、那須家中で大きな影響力を持つに至った 10 。これは、単に主家に従属するだけでなく、実力によって自家の地位を切り開いていく戦国武将の典型的な姿を示している。資清は三男である綱清(つなきよ、晴清の父)に大田原家の家督を継がせ、同じ那須七党の伊王野氏との連携を深め、さらには主君である那須政資(なすまさすけ)に娘を嫁がせて那須資胤(なすすけたね)を儲けさせるなど、婚姻政策を通じて那須家中で随一の勢力を築き上げたとされる 10 。このような祖父・資清の巧みな勢力拡大戦略は、孫である晴清の代における、より大きな政治的文脈での立ち回りの素地を形成したと言えるだろう。資清が臨終に際し、自らの娘婿であった名将・佐久山義隆の暗殺を指示したという逸話も伝えられており 10 、これは権力維持のためには非情な手段も辞さない戦国武将の厳しさを示している。

晴清の父である大田原綱清は、この資清の三男として大田原家を継ぎ、天正13年(1585年)の薄葉ヶ原(うすばがはら)の戦いなどで戦功を挙げた武将であった 10 。晴清は、このような武門の家系に生を受けたのである。

2.3. 大田原晴清の誕生と初陣

大田原晴清は、永禄10年(1567年)、下野国大田原城主であった大田原綱清の子として誕生した 1 。幼名は左兵衛といい、後に右兵衛尉と称した 1

晴清が歴史の記録に初めてその名を現すのは、天正13年(1585年)のことである。この年、那須氏の当主・那須資晴(なすすけはる)と、下野国の有力大名である宇都宮国綱(うつのみやくにつな)との間で薄葉ヶ原の戦いが勃発した。この戦いに、19歳であった晴清は、父・綱清や弟の増清(ますきよ)と共に那須方として参陣し、これが彼の初陣となった 2 。若くして実戦を経験したことは、その後の彼の武将としてのキャリアの第一歩を印すものであった。

大田原氏が那須七党という地域連合の中で確固たる地位を築き、大田原城という堅固な拠点を有していたことは、晴清が後に豊臣秀吉や徳川家康といった中央政権の巨頭と渡り合う上で、極めて重要な物理的・政治的基盤となった。この地域における安定した勢力基盤なくしては、中央の権力者が晴清を交渉相手として重視することはなかったであろう。

3. 豊臣政権下での躍進

天正年間後半、日本国内の統一事業は豊臣秀吉によって急速に進められていた。この大きな歴史の転換期において、大田原晴清は的確な判断と迅速な行動によって、自家の存続と発展を成し遂げる。本章では、小田原征伐への参陣から文禄の役に至るまでの、豊臣政権下における晴清の動向を詳述する。

3.1. 小田原征伐への参陣と所領安堵

天正18年(1590年)、大田原晴清は父・綱清から家督を相続したとされている 2 。まさにこの年、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏政・氏直親子を討伐するため、世に言う小田原征伐を開始した。この国家的な大事業に対し、下野国の諸領主も対応を迫られた。

晴清は、この天下の趨勢を的確に見極め、いち早く秀吉に恭順の意を示した。背景には、弟である大田原増清が、晴清に先んじて天正16年(1588年)に父・綱清の名代として上洛し、秀吉に謁見していたという伏線があった 2 。この事前の布石が功を奏し、晴清自身も秀吉が小田原攻略のために駿河国沼津(現在の静岡県沼津市)に着陣した際に、早期に謁見を果たすことに成功した 2 。これは、主家である那須氏の当主・那須資晴が、秀吉からの小田原参陣の再三の呼びかけに対し、なかなか態度を明確にせず静観の構えを見せた 12 のとは対照的な動きであった。この迅速な判断と行動が、その後の大田原氏の運命を大きく左右することになる。

晴清は豊臣軍の一員として、北条方の拠点であった武蔵国忍城(おしじょう、現在の埼玉県行田市)の攻略戦などにも参加した 3 。小田原城が陥落し北条氏が滅亡すると、戦後処理が行われた。その結果、参陣が遅れた主君・那須資晴は所領を没収されるという厳しい処分を受けた。他の那須七騎の諸氏の中にも減封処分を受ける家が出るなど、那須家全体が危機的状況に陥る中で、大田原氏は秀吉から7,100石(史料によっては7,114石とも記される 13 )の本領安堵を勝ち取ったのである 2 。この時、晴清は秀吉から備前国勝光ならびに宗光合作の太刀を賜ったとされ、これを機に「備前守」を称するようになったと伝えられている 2 。主家が危機に瀕する中で自家の安泰を確保しただけでなく、太刀拝領という栄誉まで受けたことは、晴清の政治的手腕と、豊臣政権における彼の評価の高さを如実に物語っている。

表2: 大田原晴清 知行変遷表(小田原征伐後から大田原藩成立まで)

時期

石高

典拠

備考

天正18年 (1590年)

7,100石 (7,114石)

2

小田原征伐後、本領安堵

関ヶ原合戦後

7,900石

2

下野森田に800石加増

慶長7年 (1602年)

12,400石

1

下野・陸奥に4,500石加増、大名となる

(参考) 分知後

約11,400石

5

大田原藩としての実質石高(推定)

3.2. 主家那須氏の再興への貢献と秀吉との関係

小田原征伐後、晴清は豊臣政権下でさらなる活動を展開する。まず、降伏した旧北条方の成田氏長の居城であった忍城の接収業務を、豊臣家重臣の浅野長政(ながまさ)の指揮下で担当した 2

その後、豊臣秀吉は北条氏滅亡後の関東・奥羽地方の仕置(戦後処理と新たな支配体制の構築)のため、自ら軍勢を率いて北上した。その途次、天正18年(1590年)8月4日、秀吉は大田原晴清の居城である大田原城に入り、8月6日までの数日間滞在した 4 。天下人である秀吉が、方面軍の総大将でもない一国人領主の城にこれだけの期間滞在することは異例であり、晴清に対する秀吉の信頼と評価の高さを示すものと言える。

晴清はこの千載一遇の機会を逃さなかった。彼は、小田原への遅参によって所領を没収され、失意の中にあった旧主・那須資晴の子である資景(すけかげ、幼名は藤王丸)を伴い、大田原城に滞在中の秀吉に謁見し、那須氏の家名再興を懇願したのである 2 。晴清のこの熱心な働きかけと、秀吉が晴清を「覚えが良かった」 3 とされるほど評価していたことが功を奏し、那須資景は秀吉から新たに5,000石の所領を与えられ、那須氏は小規模ながらも領主として存続することが許された 2 。この一連の動きは、晴清の主家に対する忠誠心を示すと同時に、秀吉との良好な関係を巧みに利用した高度な政治的手腕の現れであった。これにより、那須地域における大田原氏の立場は、旧主を助けた功労者として、さらに強化されたと考えられる。晴清は、主家那須氏の動向という潜在的なリスクを的確に認識しつつ、弟・増清を早期に上洛させるなどの布石を打ち、自らは最適なタイミングで秀吉に謁見するという、リスク回避と機会活用の双方を巧みに行ったのである。

3.3. 文禄の役への対応

豊臣政権下の大名・領主は、秀吉の次なる目標であった明国の征服、いわゆる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)への軍役負担を命じられた。大田原晴清もその例外ではなかった。文禄元年(1592年)に始まった文禄の役に際し、晴清は軍勢を率いて肥前国名護屋城(現在の佐賀県唐津市)まで出陣した 2 。名護屋城は、朝鮮半島への出兵拠点として築かれた城であり、全国から多くの大名がここに集結した。ただし、晴清に関しては、実際に朝鮮半島へ渡海して戦闘に参加したという記録は見られず、名護屋城に在陣したに留まったようである 2 。これは、当時の彼の立場や動員兵力、あるいは渡海部隊の編成順など、様々な要因が絡んでいたものと推測されるが、いずれにしても豊臣政権の命令に従い、大名としての軍役義務を果たしたことを示している。

4. 関ヶ原の戦いと大田原藩の成立

慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部では対立が顕在化し、徳川家康が急速にその影響力を強めていった。この全国的な政情不安は、やがて慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いという形で爆発する。大田原晴清は、この天下分け目の戦いにおいて、的確な判断を下し、徳川方として行動することで、さらなる飛躍の機会を掴むこととなる。

4.1. 東軍への帰属と諜報活動

関ヶ原の戦いに際し、大田原晴清は徳川家康が率いる東軍に与した 2 。彼の領地である下野国大田原は、当時家康と対立していた会津の上杉景勝の領地と境を接しており、戦略的に極めて重要な位置にあった。

開戦前から、晴清は上杉景勝の領内の動向を探り、その情報を逐一家康に報告するなど、諜報活動において重要な貢献を果たした 2 。当時、家康にとって最大の脅威の一つと目されていたのが、120万石の大領を有し、強力な軍事力を保持する上杉景勝の存在であった。そのため、上杉領の最前線に位置する晴清からもたらされる情報は、家康にとって戦略的価値が非常に高かったのである。

慶長5年(1600年)6月、家康の命を受けた晴清は、石川重次や内藤忠清らを奉行とする徳川方の雑兵1,000人余りを自らの居城である大田原城に迎え入れ、陸奥国境(対上杉戦線)の城郭修造にあたった 2 。この際、家康の子である徳川秀忠からも、国境地帯の往来を厳しく禁じるよう重ねて指示を受けている 2 。さらに同月、徳川方の援軍として皆川隆庸(ひろつね)や服部正成(まさなり)らが大田原城に入り、長筒の大砲10挺が配備されるなど、大田原城は対上杉戦線の重要拠点として機能強化が図られた 2 。大砲の配備は、当時の最新兵器による城の防衛力強化を意味し、大田原城が徳川方の防衛ラインにおいていかに重視されていたかを示している。

同年7月24日、晴清は同じ下野国の領主である大関資増(すけます、後の黒羽藩初代藩主)や伊王野資信(いおうのすけのぶ)らと共に、下野国小山(現在の栃木県小山市)に陣を進めていた家康に謁見した。その席で、万が一上杉景勝が南進してきた場合には、大田原城に籠城してこれを防ぐよう直接指示を受けた。さらに、この時家康からは名刀として知られる正恒(まさつね)作の太刀と黄金100両を、秀忠からは金熨斗(きんのし)付きの長船師光(おさふねもろみつ)作の刀を与えられた 2 。これらの恩賞は、晴清に対する家康・秀忠親子の期待の大きさと、彼が担う役割の重要性を示すものであった。続く8月25日には、家康から書状が送られ、上杉景勝が出兵の動きを見せた際には、速やかに注進(報告)するよう改めて命じられている 2

4.2. 戦後の加増と大田原藩の成立

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の本戦で徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利した。この戦勝の結果、全国の諸大名の勢力図は大きく塗り替えられることとなった。

大田原晴清は、関ヶ原での東軍勝利の後、これまでの功績を賞され、下野国森田(現在の栃木県那須烏山市森田付近か)において800石の所領を加増され、知行高は7,900石となった 2

翌慶長6年(1601年)7月、対上杉戦線の緊張が緩和したためか、大田原城に援軍として入っていた服部正成が城を去る際、徳川軍が持ち込んでいた大砲10挺のうち3挺が、引き続き国境防衛の任にあたる晴清のために、そのまま大田原城に与えられた 2 。これは、大田原城が依然として戦略的拠点として認識されていたこと、そして晴清に対する徳川方の信頼が厚かったことの証左と言える。

そして慶長7年(1602年)7月、晴清は新たな任務を命じられる。それは、関ヶ原の戦いで西軍に与したために改易処分となった陸奥国の相馬義胤(そうまよしたね)の旧居城であった相馬中村城(現在の福島県相馬市)の接収と、その後の城の守備であった。晴清は弟の増清と共にこの任にあたった 2

同年12月25日、これら一連の功績、すなわち関ヶ原における諜報活動、大田原城の守備、そして戦後の相馬中村城接収と守備が高く評価され、晴清は下野国芳賀郡・那須郡内、および陸奥国磐城郡内に合わせて4,500石の大幅な加増を受けた。これにより、彼の総石高は1万2,400石となり、晴れて1万石以上の大名としての資格を得て、大田原藩を立藩し、その初代藩主となったのである 1 。この飛躍的な昇進は、晴清が時流を的確に読み、徳川政権の確立に貢献したことへの明確な報酬であった。なお、史料によれば 13 、この1万2,400石(または1万2,415石)から、大田原氏の分家である二家に対してそれぞれ500石ずつを分与したため、大田原藩本藩としての実質的な石高は1万1,415石(あるいは1万1,417石 5 )となったと考えられる。

晴清の石高が、関ヶ原直後の800石加増、そしてその後の相馬中村城守備などの功績を経た後の決定的な4,500石加増という段階を踏んでいる点は興味深い。これは、徳川政権が戦功のみならず、その後の奉公や忠誠心を持続的に評価し、それに応じて恩賞を与えるという、周到な論功行賞システムの一端を示している。晴清の事例は、その典型例と言えよう。小田原征伐での的確な判断と秀吉への貢献、そして関ヶ原での家康への忠誠と具体的な軍功(諜報、防衛)という一連の行動が信頼を積み重ね、最終的に1万石を超える大名への昇格という輝かしい結果に繋がったのである。

5. 初代藩主としての治績と晩年

大田原藩の初代藩主となった大田原晴清は、その後約30年にわたり、藩政の基礎固めと徳川幕府への奉公に努めた。本章では、藩の初期統治、幕府から課された諸役、家族、そして最期について記述する。

5.1. 大田原藩の初期藩政

慶長7年(1602年)に立藩した大田原藩は、石高約1万1千4百石余の外様大名として、明治維新に至るまで大田原氏による支配が続いた 5 。初代藩主である晴清は、まず藩の統治体制の確立に着手した。藩政の運営にあたっては、当然ながら江戸幕府の承認と指示を仰ぐ必要があり、幕府が推進する封建制度の枠組みに従って、領内の身分制度の確立や、村役人(庄屋・名主など)、町年寄といった行政末端の役人の指名などを行った 13

城下町の整備も、藩政初期の重要な課題であった。大田原城下は、江戸と東北地方を結ぶ重要な幹線道路であった奥州道中の宿場町としての機能も有しており、晴清の時代にはこの宿場町を取り込む形で城下町の整備に着手したとされている 8 。これにより、人や物資の往来を円滑にし、商業の振興を図ることで、藩の経済的基盤を強化する狙いがあったと考えられる。具体的な町の区画整理や寺社の配置、用水路の整備など、晴清の代に行われた詳細な記録は乏しいものの、その基礎はこの時期に築かれたと推測される。

家臣団に対する知行割(給与としての土地の配分)については、藩政初期においては、家臣が直接自らの知行地の百姓から年貢を徴収するという形態(地方知行制)が採られていた。しかし、時代が下るにつれて、年貢の一部を一旦藩の蔵に納めさせ、そこから藩の係役人を通じて家臣に禄米として支給する形態(蔵米知行制)へと移行していったようである 13 。これは、藩主の支配権を強化し、より中央集権的な藩体制を確立していく過程を示すものと言える。

藩成立以前の史料ではあるが、天正18年(1590年)頃に作成されたと推定される晴清の「知行方目録」が現存しており、当時の大田原氏の所領の具体的な地名や石高の一部を知ることができる 16 。これは、晴清の領地経営の原点を知る上で貴重な史料である。

表3: 大田原晴清 主要官職・軍役年表

年代 (元号)

役職・軍役

関連人物・場所

典拠

天正13年 (1585年)

薄葉ヶ原の戦い(初陣)

那須資晴、宇都宮国綱

2

天正18年 (1590年)

小田原征伐参陣(忍城攻め等)

豊臣秀吉、浅野長政

2

文禄元年 (1592年)

文禄の役(名護屋城出陣)

豊臣秀吉、名護屋城

2

慶長5年 (1600年)

関ヶ原の戦い(諜報、大田原城防衛)

徳川家康、上杉景勝

2

慶長7年 (1602年)

相馬中村城守備

徳川家康、相馬義胤(旧領)

2

慶長19年 (1614年)

館山城接収・守衛

里見忠義(改易)

2

慶長19年 (1614年)

大坂冬の陣参陣

徳川方(本多正信組)

2

慶長20年/元和元年 (1615年)

大坂夏の陣参陣(敵首70)

徳川方(本多正信組)

2

元和3年 (1617年)

駿府城番

徳川秀忠

1

元和8年 (1622年)

山形城守備

最上氏(改易)、弟・増清

2

寛永4年 (1627年)

陸奥二本松城番

酒井直次

2

(時期不明)

大坂城番

1

5.2. 幕府への奉公

大名となった後も、晴清は徳川幕府から様々な公務(軍役や城番など)を命じられ、これに忠実に従事した。これは、新興大名であった大田原藩が徳川幕府のヒエラルキーの中に確実に組み込まれ、その地位を安定させるための不可欠なプロセスであった。

記録によれば、晴清は駿府城(徳川家康の隠居城)の城番や、大坂城の城番を務めたことが確認できる 1 。慶長19年(1614年)9月には、安房国(現在の千葉県南部)の領主であった里見忠義が改易された際、晴清は一族を率いてその居城であった館山城の接収を行い、その後しばらく同城の守衛として在番した 2

同年冬から始まった大坂冬の陣、そして翌慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣においては、晴清は徳川方として本多正信の組に属して参陣した。特に夏の陣では、敵兵の首を70級挙げるという武功を立てたと記録されている 2 。これは、彼が単に譜代格の大名としてだけでなく、実戦においても武勇を発揮できる武将であったことを示している。

元和3年(1617年)には、2代将軍徳川秀忠の上洛に随行し、京から戻った後の同年8月から12月までの期間、駿府城の城番を務めた 2 。元和8年(1622年)には、出羽国(現在の山形県・秋田県)の有力大名であった最上氏が改易された際にも、弟の増清と共に同年9月から10月までその居城であった山形城に入り、城の守備と戦後処理にあたっている 2

元和9年(1623年)にも、再度秀忠の上洛に供奉した 2 。そして寛永2年(1625年)、晴清は従五位下に叙任された 2 。これは、大名としての格式を示す官位であり、幕府内における彼の地位が公に認められたことを意味する。寛永4年(1627年)3月には、酒井直次と共に陸奥国二本松城(現在の福島県二本松市)の城番を務めた 2 。また、同年には幕府から米1,000石を、有事の際の兵糧米(詰米)として大田原城に預けられている 8 。これは、幕府からの信頼の厚さと、大田原城が依然として戦略的に重要な拠点と見なされていたことを示している。

5.3. 家族構成

大田原晴清の家庭生活に関する記録は断片的であるが、いくつかの情報が伝えられている。晴清の正室は、同じ下野国の有力武家である那須氏の一族、那須資貞(なすすけさだ)の娘であった 7 。那須氏との姻戚関係は、地域における大田原氏の立場を安定させ、那須家中の他の勢力との協調を図る上で重要な意味を持っていたと考えられる。

晴清と正室の間には、慶長17年(1612年)に長男の政清(まさきよ)が誕生している 7 。この政清が、晴清の死後、家督を相続して大田原藩の第2代藩主となった。

晴清には、弟に増清(ますきよ)がいたことが確認されている。増清は兄である晴清の重要な補佐役として、しばしば行動を共にしており、前述の相馬中村城守備や山形城守備など、重要な任務に兄と共に出陣している記録が残っている 2 。兄弟で協力して家の安泰と発展に努めた様子がうかがえる。

また、晴清の奥方(那須資貞の娘)は熱心な法華宗(日蓮宗)の信者であったと伝えられている。その奥方の発願により、慶長9年(1604年)、正行院日春(しょうぎょういんにっしゅん)上人を開山として、大田原の地に正法寺(しょうぼうじ)が創建された 6 。晴清自身の信仰については明確ではないが、妻の信仰活動を許容し、寺院建立を支援したことは、当時の武家の信仰のあり方の一端を示している。

5.4. 死没と菩提寺

大田原晴清は、初代藩主として藩政の基礎を固め、幕府への奉公を続ける中、寛永8年(1631年)2月5日に65歳でその生涯を閉じた 1

大田原氏代々の菩提寺は、晴清の祖父である大田原資清が開基となって天文14年(1545年)に創建された曹洞宗の寺院、大田山光真寺(こうしんじ、現在の大田原市に所在)である 8 。晴清もこの光真寺に葬られたと考えられ、同寺には代々の大田原藩主の墓所が残されている 8

晴清が生涯を通じて示した幕府への忠実な奉公と、それによって得られた信頼が、新興の小藩であった大田原藩が改易されることなく明治維新まで存続する確固たる礎となったと言えるだろう。

6. 大田原晴清の人物像と歴史的評価

大田原晴清の生涯を辿ると、激動の時代を生き抜いた武将としての資質や、彼が歴史の中で果たした役割がおのずと浮かび上がってくる。本章では、史料から推察される晴清の人物像と、歴史的な評価について考察する。

6.1. 史料から推察される人物像

大田原晴清の具体的な人となりを直接伝える史料は限られているが、彼の行動や経歴からいくつかの特徴を読み取ることができる。

第一に、 時勢を読む洞察力と決断力 に長けていた点である。豊臣秀吉による小田原征伐の際には、主家である那須氏の動向が定まらない中で、いち早く秀吉に恭順の意を示し、結果として自家の所領を安堵された 2 。また、関ヶ原の戦いに際しても、迷うことなく徳川家康率いる東軍に属し、その後の加増と大名への昇格に繋げた 2 。これらの判断は、天下の趨勢を的確に見抜き、機を逃さず行動に移す能力の高さを示している。

第二に、 主家への忠誠心と政治的手腕のバランス感覚 である。那須氏が小田原遅参によって改易の危機に瀕した際、晴清は秀吉が大田原城に滞在した機会を巧みに捉え、旧主・那須資晴の子である資景の家名再興を助けた 2 。これは、単に強者に従属するだけでなく、自家の立場を強化しつつも、かつての主家にも配慮するという、高度な政治感覚とバランス感覚の現れと言える。

第三に、 武将としての実力 も備えていたことである。天正13年(1585年)の薄葉ヶ原の戦いでの初陣 2 に始まり、小田原征伐における忍城攻めへの参加 3 、関ヶ原の戦い前夜における対上杉景勝の最前線である大田原城の防衛体制の構築 2 、そして大坂夏の陣では敵兵の首を70級挙げるという具体的な武功 2 など、単なる策略家ではなく、武人としての側面も史料から確認できる。

第四に、 律儀さとそれによって培われた信頼性 である。豊臣秀吉や徳川家康・秀忠といった当代一流の権力者から継続的に信頼され、国境防衛、改易された大名の城の接収・守衛、将軍の上洛随行など、数々の重要な任務を任されている 1 。これらの任務を滞りなく遂行したことが、さらなる信頼に繋がったと考えられる。

第五に、 家臣や家族への配慮 も垣間見える。弟の増清をしばしば重要な任務に同行させており、一族としての結束を重視し、共に家の発展に尽力していた可能性がうかがえる。また、妻の信仰に基づく寺院(正法寺)の建立を支援していること 6 からも、家族の意向を尊重する一面があったことが推察される。

晴清は当初、那須氏という主家を持つ、いわば「中間管理職」的な立場であったが、小田原征伐を機に中央権力と直接結びつくことで、事実上の独立を果たし、ついには自らが藩祖となる「創業」を成し遂げた人物と言える。

6.2. 歴史的評価

大田原晴清は、戦国時代の終焉から江戸幕府による安定した支配体制が確立されるまでの、まさに激動期において、その巧みな政治判断と時流への適応能力を最大限に発揮し、下野国の一国人領主に過ぎなかった大田原氏を、1万石を超える近世大名へと飛躍させた立役者として高く評価されるべきである。

彼の生涯は、豊臣政権による天下統一、そして徳川幕府による新たな中央集権体制が確立していく過程で、地方の武士や領主がいかにして生き残り、新たな支配秩序の中に組み込まれていったかを示す好例と言える。晴清の行動は、単に強大な権力者に盲従するというものではなく、旧主家である那須氏の存続にも配慮しつつ、自家の地位を確立し、さらには発展させていくという、戦国武将特有のリアリズムと戦略性に貫かれている。

また、彼の立身出世の過程は、秀吉からの「恩」(所領安堵、太刀拝領など)、そして家康からの「恩」(加増、太刀・黄金拝領など)に対し、忠実な「奉公」(諜報活動、軍役、城番など)をもって応えるというサイクルを繰り返すことで、その地位を段階的に上昇させていった典型例と見ることができる。この主従関係のあり方は、江戸時代の武家社会における基本的な構造であり、晴清はその中で成功を収めた人物であった。

大田原藩の初代藩主として、その後の約270年間にわたる藩の存続の基礎を築いた功績は大きい。彼が確立した藩の体制と、幕府との良好な関係が、小藩ながらも大田原藩が明治維新まで改易されることなく存続し得た大きな要因となったと考えられる。

7. おわりに

本報告書では、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、大田原晴清の生涯について、その出自から大田原藩初代藩主としての治績、そして人物像に至るまで、現存する史料に基づいて詳細に検討してきた。

大田原晴清は、永禄10年(1567年)に那須七党の一つである大田原綱清の子として生まれ、若くして薄葉ヶ原の戦いで初陣を飾った。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に際しては、主家那須氏とは一線を画し、いち早く秀吉に恭順して7,100石の所領を安堵された。さらに、秀吉が大田原城に滞在した際には、旧主那須氏の再興を助けるなど、政治的手腕を発揮した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康方の東軍に属し、上杉景勝に対する諜報活動や大田原城の守備で功績を挙げた。戦後、これらの功により加増を重ね、慶長7年(1602年)には1万2,400石の大名となり、大田原藩を立藩、初代藩主となった。その後も大坂の陣への参陣や各地の城番など、幕府への奉公を続け、寛永8年(1631年)に65歳で没した。

晴清の生涯は、時勢を読む洞察力、的確な判断と迅速な行動力、そして主家や中央政権に対する忠誠と戦略のバランス感覚に特徴づけられる。彼は、激動の時代を巧みに生き抜き、一地方領主から近世大名へと大田原氏を飛躍させ、その後の大田原藩約270年の歴史の礎を築いた。彼が残した大田原藩は、その後も存続し、下野国北部の地域社会に影響を与え続けた 5

大田原晴清の研究は、戦国時代から近世への移行期における地方武士の多様な生き様や、徳川幕府による幕藩体制の成立過程を具体的に理解する上で、貴重な示唆を与えてくれると言えるだろう。


史跡情報

大田原晴清に関連する主要な史跡としては、以下が挙げられる。

  • 大田原城跡(龍城公園) : 晴清が居城とし、大田原藩の藩庁が置かれた場所。現在は龍城公園として整備され、本丸の土塁や堀切、空堀などの遺構が残っている 20
  • 光真寺 : 大田原氏の菩提寺。天文14年(1545年)に晴清の祖父・資清が開基となって創建された曹洞宗の寺院で、晴清を含む歴代藩主の墓所があると考えられる 8
  • 正法寺 : 慶長9年(1604年)、晴清の奥方の発願により創建された日蓮宗の寺院 6

これらの史跡は、大田原晴清の生涯や彼が生きた時代、そして大田原氏の歴史を具体的に感じることができる貴重な場所である。

引用文献

  1. 大田原晴清(おおたわら はるきよ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%99%B4%E6%B8%85-1060743
  2. 大田原晴清 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%99%B4%E6%B8%85
  3. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
  4. 大田原の人物 - 大田原市立図書館 https://www.lib-ohtawara.jp/study/otawara-people.html
  5. 大田原氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%B0%8F
  6. 本朝山 正法寺 - 日蓮宗ポータルサイト https://temple.nichiren.or.jp/1081018-shoboji/
  7. 大田原政清 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E6%94%BF%E6%B8%85
  8. 大田原城と城下町 - 大田原市 https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2024052100035/file_contents/ohtawarajyouko-su2.pdf
  9. 大田原市 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%B8%82
  10. 下野戦国争乱記 那須の武将能力値 http://shimotsuke1000goku.g2.xrea.com/henkoun.htm
  11. 紙本著色 大田原資清と一族の肖像画(しほんちゃくしょく おおたわらすけきよといちぞくのしょうぞうが) 市指定有形文化財(歴史資料) https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082774330/
  12. 豊臣秀吉と大田原 https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2020072100048/file_contents/2020080306.pdf
  13. 【第一節 藩政の確立】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100010/ht070030
  14. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  15. 大田原藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%97%A9
  16. 第3章 那須塩原市の歴史文化の特徴 https://www.city.nasushiobara.tochigi.jp/material/files/group/38/ck_03_3syo1.pdf
  17. 第七章 豊臣秀吉の小田原城攻略と大田原晴清 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht060240
  18. 光真寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E7%9C%9F%E5%AF%BA
  19. 大田山光真寺/縁起 http://hikari-k.ed.jp/zenchoji/engi/index.html
  20. 大田原城の見所と写真・200人城主の評価(栃木県大田原市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/387/