本報告書は、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて対馬の宗氏に仕えた武将、大石智久(おおいし としひさ)の生涯と事績について、現存する史料に基づき詳細に明らかにすることを目的とする。特に、彼の武勇、文禄・慶長の役での活躍、虎退治伝説、そして対馬佐護郡代としての側面を多角的に検証する。
利用者より提示された「宗家臣。通称は荒河介。家中随一の勇将で、弟とともに虎と格闘して退治したという伝説も残っている。対馬佐護郡代に任じられた」という情報を出発点とし、これらの情報の背景、詳細、そして関連する新たな情報を提示する。その過程で、伝説と史実の峻別、史料の信頼性の検討、そして智久が生きた時代の対馬と宗氏の状況を踏まえた総合的な人物像の構築を目指す。
まず、大石智久の生涯における主要な出来事を時系列で整理した略年譜を以下に示す。
表1:大石智久 略年譜
年代 |
出来事 |
関連史料 (典拠) |
生年不詳 |
大石瀧之介調信(または大石又三郎)の子として誕生 |
1 |
天正19年(1591年)2月22日 |
主君・宗義智より一字拝領し、荒川助(荒河介)智久を名乗る |
1 |
文禄元年(1592年) |
文禄の役に従軍、弟・源左衛門智正と共に参戦 |
1 |
文禄元年(1592年)4月27日 |
忠州の戦いで首級3を挙げる |
2 |
文禄2年(1593年)1月 |
平壌城の戦いで敵兵50余人を斬る。平壌撤退時に櫓に登り敵情を偵察、小西行長より賞賛される |
1 |
慶長元年(1596年)9月 |
文禄の役の功により佐護湊に領地を与えられる |
1 |
慶長6年(1601年)9月 |
佐護郡を与えられ、佐護郡代となる |
1 |
慶長年間 |
死去 |
1 |
没後 |
墓所は泊船庵跡に設けられる |
1 |
大石智久の正確な生年は不明であるが、活動時期から安土桃山時代から江戸時代初め(17世紀初め)にかけての人物とされる 1 。彼の没年については、「大石氏家譜」断簡に慶長年間(1596年~1615年)と記されており 1 、江戸幕府の体制が確立する初期には既に故人であった可能性が高い。当時の武士階級、特に中央から離れた対馬の家臣に関する記録は限定的であり、生年が不明であることはその一端を示している。
父は、史料により大石瀧之介調信(おおいし たきのすけ しげのぶ)、あるいは大石又三郎と伝えられている 1 。この名前の異同は、家譜や記録が伝承される過程で何らかの変化が生じた可能性を示唆する。智久には源左衛門智正(げんざえもん ともまさ)という弟がおり、文禄の役や後述する虎退治において行動を共にしたと記録されている 1 。これは、大石家が兄弟で武功をもって宗氏に貢献していたことを示している。弟・智正に関する詳細な情報は乏しいものの、智久の武勇を語る上で欠かせない存在である。
大石氏の出自については、惟宗氏(これむねし)の末裔とされ、対馬の佐護大石原(さごおおいしはら)に住んだ彦五郎の代に大石氏を称したという伝承がある 1 。惟宗氏は対馬の領主であった宗氏とも深い関わりを持つ姓であり、宗氏自身も惟宗氏を本姓としている 3 。このことは、大石氏が古くから対馬に根ざした一族であり、宗氏の譜代の家臣、あるいは同族的な意識を持つ近しい関係にあった可能性を示唆する。佐護地域は弥生時代からの遺跡が確認されるなど、その歴史は古い 4 。佐護大石原という地名との結びつきは、大石一族の拠点を示していると考えられる。
天正19年(1591年)2月22日、智久は主君である宗義智(そう よしとも)より「智」の一字を拝領し、智久と名乗るようになった 1 。当時の武家社会において、主君から名の一字を与えられることは、家臣に対する高い評価と深い信頼関係を示す重要な行為であった。宗義智からその名の一字を与えられたという事実は、智久が義智から格別の期待を寄せられていたことを物語っている。宗義智は、豊臣秀吉の九州平定後に所領を安堵され、文禄・慶長の役では第一軍に属し、またキリシタン大名としても知られ、宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスからは「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と評された人物である 5 。このような主君に仕えたことが、智久の人物形成にも影響を与えた可能性は否定できない。
智久の通称は荒河介(あらかわのすけ)、または荒川助と記されている 1 。「介」は律令制における国司の次官を示す官名であり、何らかの役職に由来するのか、あるいは名誉的な称号であった可能性が考えられるが、その具体的な由来を明らかにする史料は現時点では確認されていない。「荒河(川)」という地名に関連するのか、あるいは彼の武勇にちなんだ勇壮な通称であったのか、今後の研究が待たれる。
大石智久は、文禄の役(1592年~1593年)に際して、弟の源左衛門智正と共に朝鮮へ渡海し、参戦した 1 。当時の記録である「朝鮮御陣御供人数覚」には、大石党上下38人の筆頭として智久の名が挙げられており、彼が朝鮮に出陣した大石一族や配下の者たちを率いる主将であったことがわかる 1 。38人という兵力は、当時の対馬藩の規模を考慮すると決して少なくはなく、智久が単なる一個の武将ではなく、一定規模の部隊を指揮する部隊長クラスの人物であったことを示唆している。
文禄・慶長の役は、豊臣秀吉の命によって開始され、対馬藩主・宗義智は小西行長らと共に第一軍として朝鮮半島へ進攻した 5 。対馬は地理的に朝鮮半島に最も近い日本の領土であり、古来より外交・軍事の最前線としての役割を担わされてきた。この朝鮮出兵においても、宗氏と智久をはじめとする家臣団は、その先鋒としての重責を負うこととなった。
大石智久の武勇は、朝鮮での具体的な戦闘記録によって裏付けられている。
忠州の戦い(天正20年/文禄元年、1592年4月27日):
この戦いにおいて智久は、敵の矢が雨のように降り注ぎ進路を阻まれる中、鎌槍を手に自ら進んで敵兵を討ち、首3級を獲るという戦功を挙げたとされる 2。敵の激しい抵抗を物ともせず先陣を切って戦果を挙げた様子が具体的に記されており、彼の勇猛果敢さを示す逸話である。また、鎌槍を得物としていた点も注目される。
平壌城の戦いと撤退戦での勇名(文禄2年/1593年1月):
文禄2年(1593年)1月、日本軍が籠城する平壌城が明・朝鮮連合軍に包囲された際、智久は敵兵50余人を斬るという目覚ましい働きを見せた 2。平壌城の戦いは文禄の役における主要な戦闘の一つであり、日本軍は連合軍の猛攻により多大な損害を被り、撤退を余儀なくされた。このような劣勢の中で多数の敵兵を討ち取ったという記述は、智久の突出した戦闘能力を如実に示している。
さらに、日本軍が平壌から撤退する際には、敵が雨のように矢を放つ中、智久は自らの危険を顧みず鎧兜を脱いで櫓に登り、敵の様子を偵察して味方に伝えたという 1 。この決死の行動は、総大将であった小西行長からその勇気を称賛されたと記録されている 1 。撤退戦という極めて困難かつ危険な状況下で、冷静に敵情を把握し味方の危機を救おうとした智久の行動は、単なる武勇だけでなく、優れた判断力と強い責任感を兼ね備えていたことを示唆する。小西行長は智久の主君・宗義智の義父にあたる人物であり 5 、行長からの賞賛は、宗家中における智久の評価を一層高める効果があったと考えられる。
これらの具体的な戦功により、大石智久は宗家中で随一の勇将と評価されていたことがうかがえる。彼の武功は具体的な戦場での行動と共に記録されており、単なる伝聞ではなく、史実に基づいたものである可能性が高い。これらの目覚ましい活躍が、後述する虎退治伝説とも結びつき、彼の勇将としてのイメージを後世において不動のものにしたと考えられる。
以下に、文禄・慶長の役における大石智久の主な武功をまとめた表を示す。
表2:文禄・慶長の役における大石智久の主な武功
戦役・戦場 |
年月 |
智久の行動・戦功 |
典拠 |
忠州の戦い |
文禄元年(1592年)4月27日 |
敵の矢の中、鎌槍を手に進み首3級を獲る |
2 |
平壌城の戦い |
文禄2年(1593年)1月 |
敵兵50余人を斬る |
2 |
平壌城撤退戦 |
文禄2年(1593年)1月 |
鎧兜を脱ぎ櫓から敵情偵察、小西行長より賞賛される |
1 |
大石智久の武勇を象徴する逸話として、虎退治の伝説が残されている。記録によれば、山猟の際に人々の前で虎と組み合うなど、数々の手柄を立てたとされる 1 。特に虎については、弟の源左衛門智正と共に仕留めたと伝えられている 1 。「人々の前で」という記述は、この行為が単なる狩猟ではなく、武勇の誇示といった側面を持っていた可能性を示唆する。「組み合う」という表現は、武器に頼るだけでなく、至近距離での危険な格闘を想起させ、智久の並外れた勇気と膂力を強調するものである。弟との共闘説は、大石兄弟の絆と武勇を共に示す物語として伝承されたと考えられる。
この虎退治伝説の舞台は、朝鮮半島であったと考えるのが自然である。歴史的に対馬に虎が生息していたという確たる証拠はなく、江戸時代末期に豊後(現在の大分県)で捕獲されたという「虎」が見世物にされた際、それがツシマヤマネコであった可能性を指摘する推測がある程度である 9 。対馬の自然環境や生態系を考慮すると 9 、虎のような大型肉食獣の生息は考えにくく、伝説の舞台が朝鮮半島であることを補強する。
朝鮮出兵に参加した日本の武将たちの間では、虎狩りがある種の流行となっていた側面が指摘されている。例えば、加藤清正や島津義弘といった名だたる武将たちも朝鮮で虎狩りを行った記録が残っている 11 。一説には、豊臣秀吉が虎の皮革や肉(薬用として)を所望したため、諸将が競って虎を狩り、秀吉に献上しようとしたとも言われている 12 。大石智久の虎退治伝説も、こうした朝鮮出兵時の特殊な状況下、いわば「虎狩りブーム」とも言える風潮の中で生まれた可能性が高い。単に個人の武勇を示すだけでなく、主君への忠誠心のアピールや、異国での武功を内外に誇示する手段としての意味合いも含まれていたかもしれない。加藤清正の虎退治については、実際には槍ではなく鉄砲を使用したという説もあり 12 、智久の「組み合う」という伝説は、より原始的で生々しい勇壮さを強調した物語として形成された可能性がある。秀吉の虎への関心が諸将の虎狩りを奨励し、それが武勇伝として各地に広まる素地を作ったと考えられ、智久の虎退治もこの大きな潮流の中で発生し、記録されたと推測できる。
虎は強大かつ獰猛な獣の象徴であり、これを打ち破る物語は、英雄の超人的な力を示す上で非常に効果的である。そのため、虎退治の逸話は武将の武勇を語る上で典型的なモチーフとして、古来より好んで語り継がれてきた。大石智久の虎退治伝説も、彼の「家中随一の勇将」という評価を具体的に示すエピソードとして、その勇猛さを際立たせ、後世にその名を強く印象付ける上で重要な役割を果たしたと考えられる。
この種の伝説は、実在の人物の武功を核としつつも、そこに象徴的なモチーフ(この場合は虎)が結びつき、時代や語り手による脚色や増幅を経て形成される英雄伝説の一類型と見なすことができる 13 。特に、対馬という国境の島において、朝鮮や明といった「外敵」との戦いで武功を立てた人物の武勇伝は、島の守り手としてのアイデンティティや誇りを高め、共同体の結束を強める上で文化的に重要な意味を持った可能性がある 7 。虎退治伝説は、単なる個人の武勇を超え、戦国武将が異文化と対峙し、その地で「武威」を示すという、当時の時代精神や価値観を反映した文化的現象として捉えることもできよう。
大石智久は、その武功により領地と役職を与えられている。慶長元年(1596年)9月、文禄の役における功績が認められ、佐護湊(さごみなと)に領地を与えられた 1 。さらに慶長6年(1601年)9月には、佐護郡(さごぐん)そのものを与えられ、佐護郡代に任じられた 1 。これらの恩賞は、彼の文禄の役での戦功が直接的な理由であり、智久の働きが宗氏政権内部で高く評価されたことを明確に示している。佐護湊、そして佐護郡という具体的な地名が挙げられていることから、これらは単なる名誉職ではなく、実質的な支配権を伴うものであったと考えられる。
文禄の役での活躍が宗義智からの信頼獲得につながり、まず佐護湊を拝領し、最終的に佐護郡全体の郡代に任命されるという流れは、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士社会における典型的な立身出世のパターンと言える。慶長6年(1601年)という年は、関ヶ原の戦いの翌年にあたり、徳川幕府による全国支配体制が確立しつつある時期である。宗氏は、李氏朝鮮との外交交渉を有利に進めるためにも、国内の安定と有能な家臣による領内統治を強化する必要に迫られていた。智久の郡代任命も、こうした時代の要請に応えるものであった可能性が考えられる。
佐護地域は、対馬の中では比較的平野部が広がり、古代からの遺跡も多く発見されていることから、古くから開けた土地であったことがわかる 4 。江戸時代には穀倉地帯としての性格も有していたとされ 4 、対馬における重要な生産拠点の一つであった可能性が高い。そのような地域の郡代に智久が任じられたことは、彼への期待の大きさを物語っている。
郡代の一般的な職務は、幕府直轄地においては租税の徴収、領民の裁判、その他民政全般にわたる広範なものであった 3 。対馬藩における郡代の具体的な職務内容や権限を直接示す史料は現時点では確認できないが、同様に郡内の行政・民政を統括し、年貢の徴収や治安維持などを担っていたと推測される。対馬は土地が痩せており、農業生産力は全体的に高くなかったため 25 、佐護のような比較的豊かな地域の統治は藩財政にとっても重要であったはずである。したがって、智久には武勇だけでなく、領地経営や民政といった統治者としての能力も期待されていたと考えられる。江戸時代初期は各藩で新田開発や治水灌漑といった地方開発が進められた時期であり 26 、智久が佐護郡代としてこうした開発事業に関与した可能性も視野に入れるべきであるが、現時点ではそれを裏付ける具体的な記録は見当たらない。
文禄の役における大石党の主将としての役割や、戦功による佐護郡代への任命といった事実から、大石智久が宗氏家臣団の中でも非常に有力な武将の一人であったことは疑いようがない。宗氏の主要な家臣としては、江戸時代を通じて朝鮮外交に深く関与した柳川調信(やながわ しげのぶ)や雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)、あるいは藩政改革に尽力した陶山訥庵(すやま とつあん)といった人物が知られているが 3 、智久は特に武功の面において、これらの人物に匹敵する、あるいはそれ以上の存在感を示していた可能性がある。
宗氏家臣団の役職や序列は複雑であり、時代によっても変遷したと考えられる 28 。智久が郡代としてどの程度の権限を持ち、家臣団の中でどのような序列に位置づけられていたのかを詳細に知るためには、対馬藩の分限帳などの史料分析が不可欠となる。なお、後に宗家の屋台骨を揺るがすことになる柳川一件(国書改竄事件)は 30 、智久の没後(慶長年間)に発生した事件であるため、彼が直接関与することはなかった。しかし、智久のような武功派の重臣の存在は、その後の家臣団の構成や藩内における力関係にも間接的な影響を与えたかもしれない。主君である宗義智は、朝鮮との困難な外交交渉や文禄・慶長の役という国難に直面した人物であり 7 、智久のような勇猛かつ忠実な家臣の存在は、義智にとって大きな精神的支柱となったであろう。
大石智久の最期に関する詳細は不明な点が多いが、「大石氏家譜」断簡によると、慶長年間に死去したとされている 1 。具体的な没年は記されていないものの、慶長年間(1596年~1615年)に亡くなったとすれば、江戸幕府が安定期に入る前、大坂の陣(慶長19年~20年、1614年~1615年)よりも前に世を去った可能性が高い。これにより、彼の活動期間は主に豊臣政権末期から徳川政権初期にかけての動乱期に限定されることになる。
智久の墓は、対馬の泊船庵(はくせんあん、泊舩庵とも記される)の跡地にあると伝えられている 1 。この泊船庵は、明治維新の頃に廃絶したとみられている。郷土史料である『対馬風土記 第18号』には、「大石荒河介智久墓」に関する記述が見られることから 34 、地域において彼の墓の存在が認識されていたことがわかる。
泊船庵という仏教寺院に葬られたという事実は、智久自身、あるいは大石家が仏教を信仰していたことを示唆する。泊船庵がどのような宗派の寺院であったか、なぜ智久がそこに葬られたのかといった具体的な背景は、現存する史料からは明らかではない。明治維新期に廃絶したという事実は、当時の廃仏毀釈運動の影響など、社会の大きな変動が影響した可能性も考えられる。武将の墓は、その人物の生前の地位や信仰、そして後世の人々による顕彰のあり方を示す重要な手がかりとなる。大石智久の墓に関する伝承や、泊船庵に関するより詳細な情報が得られれば、彼の人物像や大石家の信仰について、さらに深い理解が得られる可能性がある。墓所の具体的な現状については、さらなる現地調査や郷土史料の確認が必要とされる。
大石智久の実像に迫る上で重要な史料として、以下のものが挙げられる。
「大石氏家譜」断簡とその重要性:
近年、宗家文庫(そうけぶんこ)所蔵の『獲虎実録(かくとらじつろく)』という書の裏表紙内反故紙(ほごし)から、対馬藩士「大石氏家譜」の断簡が発見された 1。この断簡には、大石智久の文禄の役における具体的な武功譚や、弟・智正と共に虎を狩ったとされる逸話などが記されている。断簡とはいえ、同時代に近い時期に作成された記録である可能性が高く、大石智久研究における第一級の史料と言える。特に、彼の武功や虎狩りに関する具体的な記述は、他の記録を補完し、より詳細な人物像に迫るための貴重な手がかりとなる。『獲虎実録』という虎狩りに関する書の反故紙から発見されたという経緯自体が、大石智久の虎退治伝説がいかに注目されていたか、あるいは大石家自身がその武勇を誇りとしていたかを示唆するようで興味深い。「大石氏家譜」がどのような経緯で作成され、どのような内容を網羅していたのか、断簡以外の部分が現存するのかは、今後の研究における重要な課題である。家譜は一族の由緒や功績を顕彰する目的で作成されることが多く、その記述には一定の強調や省略が含まれる可能性も考慮して慎重に扱う必要がある。
『対馬人物志』、『対馬風土記』など:
長崎県教育会対馬部会編『郷土史料 対馬人物志』(原著1917年)1 や、対馬郷土研究会発行の『対馬風土記』34 といった郷土史料にも、大石智久に関する記述が含まれている。これらの史料は、主に近代以降に編纂されたものであり、一次史料だけでなく、地域に伝わる伝承なども収録している可能性がある。そのため、史料批判的な検討は不可欠であるが、大石智久に関する地域での認識や評価の変遷を知る上で参考となる。特に『対馬風土記 第18号』には、前述の通り「大石荒河介智久墓」に関する言及があり、墓所の存在を裏付ける資料の一つとなっている 34。これらの郷土史料は、古書店などで流通しているものもあり 34、国会図書館や対馬市内の図書館 38 での所蔵状況を確認し、内容を精査することが望まれる。
近年の大石智久研究において特筆すべきは、中京大学の徳竹由明(とくたけ よしふみ)氏による一連の研究成果である。徳竹氏は、前述の「大石氏家譜」断簡に関する論文「対馬藩士「大石氏家譜」の断簡を巡って ―大石智久の文禄の役での武功譚・虎狩等―」(『中京大学文学部紀要』第57巻第2号、2023年) 1 や、さらに詳細な分析を加えた「翻刻対馬藩士大石氏の家譜二種」(同紀要第58巻第2号、2024年) 36 を発表している。
これらの研究は、これまでその存在が広く知られていなかった「大石氏家譜」断簡を学術的に紹介し、翻刻と詳細な分析を行ったものであり、大石智久に関する最新かつ最も重要な学術的成果と言える。特に、断簡に記された智久の具体的な事績の検討は、彼の武勇伝の実態や、伝説形成の背景を探る上で不可欠な貢献である。徳竹氏の一連の研究は、断片的にしか知られていなかった大石智久という人物に関する史料を発掘・分析し、その歴史的評価に新たな光を当てるものであり、本報告書を作成する上でも極めて重要な参照文献となる。
大石智久は、戦国時代の終焉から江戸時代初期にかけての日本史における激動期に、国境の島・対馬を領する宗氏の家臣として、文武両面にわたり顕著な活躍を示した重要な人物であった。
彼の武人としての側面は、特に文禄・慶長の役における勇猛果敢な戦いぶりに色濃く表れている。忠州の戦いでの先駆けや、平壌城の戦いおよびその撤退戦で見せた抜群の武勇と冷静な判断力は、「家中随一の勇将」と称されるにふさわしく、総大将小西行長からも賞賛されるほどであった。その武勇を象徴する虎退治伝説は、朝鮮出兵という特殊な状況下で生まれた可能性が高いものの、彼の勇名を後世に語り継ぐ上で大きな役割を果たした。
また、智久は単なる武辺者にとどまらず、その戦功によって佐護郡代に任じられ、対馬の地方行政にも携わった。これは、彼が武勇だけでなく、統治能力においても一定の評価を得ていたことを示唆している。
大石智久のような、中央の歴史記録には詳細が残りにくい地方の武将に関する研究は、史料の制約という大きな壁に直面することが少なくない。しかし、「大石氏家譜」断簡のような新たな史料の発見と、それに基づく徳竹由明氏らによる近年の研究は、これまで謎に包まれていた部分も多かった智久の実像を徐々に明らかににしつつある。
歴史上の人物を評価する際には、伝説や後世の評価と、史実とを慎重に区別し、彼が生きた時代の社会的・政治的背景の中でその行動や役割を多角的に捉える視点が不可欠である。大石智久の場合も、朝鮮出兵という未曾有の国策に翻弄された対馬藩の置かれた状況や、当時の武士の価値観などを踏まえて理解を深める必要がある。
今後の課題としては、まず「大石氏家譜」のさらなる調査が挙げられる。断簡以外の部分の発見、あるいは他の大石家関連文書の探索が進めば、智久だけでなく大石一族全体の歴史や、当時の対馬藩士の生活様相についても新たな知見が得られる可能性がある。また、佐護郡代としての具体的な治績に関する史料の探索も重要である。対馬藩の地方支配の実態解明の一助となるであろう。さらに、弟・源左衛門智正をはじめとする大石一族の他の人物に関する研究の深化も期待される。これらの研究が進むことによって、大石智久という一人の武将を通じて、戦国末期から江戸初期にかけての対馬の歴史、ひいては日朝関係史の一側面がより鮮明に描き出されることになるであろう。