本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて阿波国(現在の徳島県)で活動した武将、大西頼包(おおにし よりかね)の生涯、事績、そして彼が生きた時代の背景について、現存する史料や研究成果に基づき、多角的に詳述することを目的とする。利用者より提供された情報(阿波の武将。大西家は三好家と誼を結んでいたが、頼包は人質として出された長宗我部元親に厚遇を受けて家臣となり、父を説得して長宗我部家に降伏させた)を基点としつつ、より深く掘り下げた情報を提供する。
大西頼包に関する史料は断片的であり、特にその出自の詳細や晩年については不明な点が多い。生没年不詳であることからも 1 、その全貌解明の難しさがうかがえる。本報告書では、これらの情報を整理し、可能な範囲で歴史的文脈の中に位置づけることを試みる。
本報告書の構成は以下の通りである。第一章では頼包の出自と大西氏の阿波における基盤、第二章では長宗我部元親への帰属の経緯、第三章では長宗我部家臣としての具体的な活動、第四章ではその後の動向と人物像について論じ、終章で総括する。
以下に、大西頼包の生涯における主要な出来事をまとめた年表を提示する。
大西頼包 関連年表
年代(西暦/和暦) |
出来事 |
関連人物 |
拠点・場所 |
典拠史料例 (ID) |
備考 |
生年不詳 |
大西頼包、誕生(父:頼武、兄:覚養) |
大西頼武、大西覚養 |
阿波国白地城 |
1 |
上野介と称す |
天正3年 (1575) |
長宗我部元親、阿波侵攻開始。白地城を攻める。 |
長宗我部元親、大西覚養 |
阿波国白地城 |
5 |
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同年 |
大西覚養、頼包を人質として元親に差し出し和議。 |
大西覚養、長宗我部元親 |
阿波国白地城 |
5 |
頼包、元親より厚遇される |
天正5年 (1577)頃 |
覚養、織田信長の三好救援の噂を受け、再度元親と対決準備。 |
大西覚養、織田信長、三好氏 |
阿波国白地城 |
4 |
|
天正5年 (1577) |
頼包、兄・覚養を説得し長宗我部方に降伏させる。白地城落城。 |
大西覚養、長宗我部元親 |
阿波国白地城 |
1 |
覚養は讃岐へ逃亡。父・頼武はこの頃自刃した説あり 2 。頼包は元親の家臣となる。 |
天正6年 (1578) |
(『南海治乱記』)重清城攻めに先鋒として参加。 |
久武内蔵助、長宗我部元親 |
阿波国重清城 |
15 |
|
天正6年 (1578)頃 |
(可能性)馬路城主となる。 |
長宗我部元親 |
阿波国馬路城 |
16 |
|
時期不詳 |
讃岐の香川之景へ降伏勧告の使者を務める。 |
香川之景、長宗我部元親 |
讃岐国 |
1 |
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天正11年 (1583) |
引田の戦い。仙石秀久軍を破る。 |
香川信景、桑名親光、仙石秀久 |
讃岐国引田 |
1 |
長宗我部軍の指揮官の一人として活躍 |
没年不詳 |
大西頼包、死没。 |
|
不明 |
1 |
多度津に「大西角田の墓」の伝承あり 3 。 |
大西頼包の理解を深めるためには、まず彼が属した大西氏の歴史的背景と、阿波国におけるその位置づけを把握する必要がある。
大西氏の起源については諸説が存在する。有力な説の一つは、建武二年(1335年)に阿波国三好郡西部に位置した田井荘の庄司であった近藤氏が、その地を大西郷と改称し、自らも大西氏を名乗るようになったとするものである 4 。同様の記述は、平安時代に西園寺家の荘園「田井の庄」の庄官として京都から近藤氏が来住し、後に大西氏と改姓して土着したという形でも伝えられている 6 。一方で、大西氏の祖を小笠原氏や忌部氏とする説も存在し、その出自に関する定説は確立されていない 4 。 6 に掲載されている小笠原氏の系図には大西覚養(頼包の兄)の名が見えるが、これが直接的な父祖関係を示すものか、後代の婚姻や主従関係によるものか、あるいは別系統の大西氏を指すのかについては、更なる史料的検討を要する。
大西頼包自身の直接的な出自に目を向けると、彼は阿波白地城主であった大西頼武(おおにし よりたけ)の子として生まれた 1 。頼武は出雲守を称したとされる 2 。頼包には兄として覚養(かくよう、俗名:輝武、同じく出雲守を称した)と頼晴がいた 1 。頼包自身は上野介(こうずけのすけ)と称したことが記録されている 1 。この「上野介」という官途名は、坂東の名門である足利氏や新田氏、あるいは関東管領を務めた上杉氏など、上野国(現在の群馬県)に縁の深い有力武家を想起させる。しかし、戦国時代において武家が称する官途名は、朝廷からの正式な補任に基づくものばかりではなく、多くの場合、自称や主君からの恩賞として与えられる儀礼的な称号としての性格を帯びていた。大西氏の出自伝承(近藤氏説や小笠原氏説)と上野国との直接的な結びつきは史料からは確認できないため、頼包が上野介を称した背景には、阿波国における大西氏の勢力や格式を内外に示す意図があった可能性が考えられる。
大西氏の本拠地であった白地城(はくちじょう、現在の徳島県三好市池田町白地)は、その地理的条件から阿波国における大西氏の勢力基盤を理解する上で極めて重要である。
白地城は、阿波国の西端に位置し、四国の中央部を流れる吉野川とその支流である馬路川の合流地点に臨む台地上に築かれていた 5 。この地は、北に猪ノ鼻峠を越えれば讃岐国(香川県)、西に境目峠を越えれば伊予国(愛媛県)、南に吉野川を遡れば土佐国(高知県)、そして東に吉野川を下れば徳島平野を中心とする阿波国の中心部に至るという、まさに四国の十字路とも言える戦略的要衝であった 5 。このため、白地城は軍事戦略上、四国全体の動向を左右し得る重要な拠点と見なされていた。
大西氏は、この白地城を本拠として阿波国西部から伊予国の一部にまで影響力を及ぼす勢力を有していた 4 。しかし、このような交通の結節点に位置するということは、裏を返せば、常に周辺の有力大名からの圧力を受けやすい立場にあったことも意味する。三好氏や長宗我部氏といった強大な勢力が四国内で覇を競う中で、白地城はその勢力争いの最前線となる宿命を負っていた。この地理的特性こそが、大西氏の外交政策や存亡に大きな影響を与え、ひいては大西頼包自身の人生をも大きく左右する要因の一つとなったのである。
戦国時代後期の大西氏は、阿波国を本拠として畿内にも強大な勢力を築いた三好氏と、婚姻を通じて緊密な関係を構築していた。
大西頼包の父である大西頼武は、三好氏の最盛期を現出した三好長慶の妹を娶っていたと伝えられている 4 。この強力な姻戚関係を背景として、大西氏は阿波国西部のみならず、隣接する讃岐・伊予・土佐の三国にも影響力を行使するほどの勢力を誇った時期があった 4 。
この三好氏との密接な関係は、頼包の兄である大西覚養の代にも引き継がれた。覚養自身も三好長慶の弟である三好実休(義賢)の娘を娶るなど、大西氏と三好氏は代々重層的な婚姻関係で結ばれていた 10 。戦国時代における婚姻は、単なる血縁関係の構築に留まらず、軍事的・政治的な同盟関係を強固にするための重要な手段であった。
この三好氏との深い絆は、後に土佐から長宗我部元親が阿波国へ侵攻してきた際に、大西氏が容易に降伏できない大きな要因となった。後述するように、頼包が人質として長宗我部氏に送られた後、兄・覚養は一度は元親と和議を結んだものの、織田信長が三好氏救援のために阿波へ出兵するとの噂(これは三好氏を支援するための動きと解釈された)に接すると、再び三好方へ与する姿勢を見せることになる 4 。これは、長年にわたる三好氏との強い結びつきと、新興勢力である長宗我部氏への根強い不信感の表れであったと考えられる。このような状況が、人質となっていた頼包の立場を一層複雑なものとし、大西家内部の動揺( 29 には、父・頼武らが三好方につこうとする覚養を幽閉したという説も存在する)を引き起こす遠因となった可能性も否定できない。
土佐国を統一し、四国制覇へと乗り出した長宗我部元親の阿波侵攻は、大西頼包の運命を大きく変える転機となった。三好氏との深い関係にあった大西氏が、いかにして長宗我部氏に帰属するに至ったのか、その過程における頼包の役割は極めて重要である。
天正三年(1575年)、土佐国をほぼ手中に収めた長宗我部元親は、次なる目標として阿波国への本格的な侵攻を開始した。その矛先は、阿波西部の要衝である白地城を守る大西覚養にも向けられた 5 。
白地城は前述の通り、天然の地形を巧みに利用した堅固な城であり、元親率いる長宗我部軍も容易には攻め落とすことができなかった 5 。攻めあぐねた元親は、大西覚養との間で和議を結ぶこととなった。この和議の条件として、覚養は実弟である上野介頼包を人質として長宗我部氏に差し出すことになったのである 5 。なお、一部の資料 11 では、この時人質とされた上野介を覚養の「養子」であったとする記述も見られるが、他の多くの史料 1 では実弟とされており、後者の記述がより有力であると考えられる。
人質として長宗我部氏のもとへ送られた大西頼包であったが、そこで彼を待っていたのは意外な処遇であった。長宗我部元親は、頼包に対して非常に手厚い待遇を施したと伝えられている 1 。
この元親による厚遇は、単なる温情主義や個人的な好意から出たものと解釈するだけでは不十分である。むしろ、これは敵対勢力を内部から切り崩すための高度な政治戦略であったと見るべきであろう。 5 の記述にあるように、元親は人質である頼包を厚遇することによって「大西氏にくさびを打ち込みました」のである。人質を丁重に扱い、その心服を得ることで、元の勢力への離間を画策し、自陣営に取り込むというのは、戦国時代においてしばしば見られた外交・調略手段の一つであった。元親がこの手法を効果的に用いた好例が、大西頼包のケースであったと言える。もしこの厚遇がなければ、頼包が後に兄や父(あるいは大西家全体)を説得して長宗我部氏に降伏させるほどの強い動機を持つに至ったかどうかは疑問である。
元親の巧みな処遇と、彼自身の器量に触れる中で、頼包の心境には大きな変化が生じた。次第に元親個人に心服するようになり、最終的には長宗我部氏の家臣となることを決意するに至ったのである 1 。軍記物である『土佐物語』やそれに類する史料においても、この頼包の心服の様子は強調して描かれることが多い。例えば、 12 には「元親の心に感謝した上野介は、自ら先導して白地城を攻め覚養を讃岐に走らせ」とあり、その心服の度合いと、それが具体的な行動へと結びついた様がうかがえる。
大西頼包が長宗我部元親に心服し、その家臣としての道を歩み始めた頃、阿波本国の大西氏の状況は依然として流動的であった。特に、中央政権の動向が、大西氏の運命に大きな影響を与えようとしていた。
織田信長が、長年大西氏が従属してきた三好氏を救援するために阿波へ出兵するのではないか、という情報が伝わると、白地城主大西覚養の心は大きく揺らいだ。彼は長宗我部元親との和議を破棄し、再び三好氏側に立って戦う準備を進め始めたのである 4 。この覚養の動きは、大西氏と三好氏との長年の深い関係性を考慮すれば、ある意味自然な反応であったとも言える。
この危機的状況に対し、既に長宗我部元親の家臣となっていた大西頼包が動いた。彼は兄である覚養を説得し、長宗我部氏側へ投降するよう働きかけたのである 1 。この説得の具体的な内容や経緯については史料によって若干の差異が見られる。利用者提供の情報では「父を説得して」とあるが、多くの史料は「覚養を説得」としている。
ここで注目すべきは、父・大西頼武の動向である。 29 の記述によれば、三好方につこうとする覚養に対し、父・頼武や兄・頼晴、そして頼包らが反対し、覚養を白地城の奥深くに幽閉した上で、当時長宗我部氏と連携することもあった細川真之(さねゆき)への加勢を表明したとされている。この記述が事実であれば、父・頼武自身も長宗我部氏への帰順に積極的であった可能性が示唆される。一方で、 2 の記述では、元親が阿波侵攻を開始し、覚養が頼包を人質に出して和睦した後、三好側に寝返った際、元親は人質となっていた頼包を案内人として白地城の支城である田尾城を攻め落とし、その混乱の過程で父・頼武は自刃したと伝えられている。この場合、頼武の最期は利用者情報とは異なる様相を呈する。
これらの情報を総合的に勘案すると、大西家の当主であった覚養と、その父である頼武、そして弟の頼包の間で、長宗我部氏への対応を巡って深刻な意見の対立や葛藤が存在した可能性が高い。頼包による説得工作は、単に兄・覚養一人に向けられたものではなく、大西家全体の方向性を決定づけるための重要な働きかけであり、その背景には父・頼武の意向も複雑に絡んでいたと推測される。戦国時代の武家が、旧主への義理と新興勢力への現実的な対応という狭間で苦悩するのは典型的な姿であり、大西頼包の行動もまた、そのような文脈の中で行われたものであった。頼包がまず父・頼武を説き、その上で父と共に覚養を説得したのか、あるいは父・頼武も説得の対象に含んでいたのか、あるいは父・頼武が最終的に長宗我部への降伏を是としながらも、その過程で何らかの理由により自刃という道を選んだのか、複数のシナリオが考えられるが、いずれにしても頼包の役割は大きかったと言えよう。
最終的に、織田信長は紀伊国の雑賀衆との戦いに忙殺され、阿波への出兵は実現しなかった。そして天正五年(1577年)、白地城は長宗我部勢の攻撃により落城した 5 。城主であった大西覚養は讃岐国へと落ち延びた 5 。その後、弟である頼包の勧めに応じて長宗我部元親に降伏し、一旦は阿波国に戻った。しかし、元親の命により、三好方に服属していた娘婿の重清城主・重清長政を謀殺した後、程なくして三好方の十河存保(そごう まさやす)の反撃を受けて敗死したとされている 8 。この覚養の最期は天正六年(1578年)頃のことと推定される。
なお、一部の資料 6 には「天正6年(1578年)に長宗我部元親が阿波に侵攻した際、白地城は落城し、大西頼包は討死しました」という記述が見られるが、これは他の多くの史料と矛盾する。白地城の落城は天正五年(1577年)が有力であり 5 、また、後述するように頼包は天正十一年(1583年)の引田の戦いで活躍しているため、この討死説の信憑性は低いと判断される。
長宗我部元親に帰順した大西頼包は、その後、元親の四国経略において重要な役割を担うことになる。彼の活動は、外交交渉から実戦における指揮まで多岐にわたった。
長宗我部氏の家臣となった大西頼包が任された重要な任務の一つに、讃岐国の有力国人領主である香川之景(かがわ ゆきかげ、後の信景)への降伏勧告使者としての派遣がある 1 。
当時、長宗我部元親は阿波国に続いて讃岐国への勢力拡大を強力に推し進めており、香川氏はその過程における重要な攻略対象の一つであった。このような状況下で、頼包が使者として選ばれた背景には、いくつかの理由が考えられる。まず、頼包は元々阿波国の有力な武家の出身であり、讃岐を含む周辺地域の情勢にも通じていたであろうこと。次に、彼自身が一度は長宗我部氏と敵対関係にありながらも、元親の度量や将来性を見極めて帰順したという経歴は、他の国人領主に対して長宗我部氏に従うことの利や元親の人物的魅力を説得する上で、言葉に重みを持たせた可能性がある。つまり、元親の厚遇を身をもって体験した頼包の存在そのものが、一種の生きた証として機能したかもしれない。元親が頼包をこの任に抜擢したのは、単に忠誠心を買っただけでなく、その出自や経験が外交交渉において有効に活用できると判断したためであろう。
大西頼包の武将としての側面を最も顕著に示すのが、天正十一年(1583年)四月に讃岐国大内郡引田(現在の香川県東かがわ市)において発生した「引田の戦い」における活躍である 14 。
この戦いは、織田信長亡き後の中央政権を掌握しつつあった羽柴秀吉が、四国への影響力拡大を意図して派遣した仙石秀久(せんごく ひでひさ)率いる軍勢と、長宗我部元親軍との間で繰り広げられた。大西頼包は、香川信景(之景から改名)や桑名親光(くわな ちかみつ)らと共に長宗我部軍の主要な指揮官の一人としてこの戦いに臨み、仙石秀久の軍を打ち破る上で重要な役割を果たした 1 。兵力においては、長宗我部軍(阿波・讃岐勢のみで約5,000、土佐本隊の援軍を含めればそれ以上)が、羽柴軍(約2,000、諸城攻略の失敗により実際はそれ以下)を上回っていたとされ、結果は長宗我部軍の圧勝であった 14 。
引田の戦いは、長宗我部氏が、本能寺の変後の混乱を経て中央で急速に台頭しつつあった羽柴秀吉の勢力と初めて本格的に衝突し、これに勝利を収めたという点で極めて重要な意味を持つ。この勝利に頼包が指揮官として貢献したという事実は、彼が長宗我部家中において武勇にも優れた信頼篤い武将として認識されていたことを明確に示している。また、この勝利は、一時的にではあるものの、長宗我部氏の四国における覇権を維持し、秀吉の四国介入を遅らせる上で大きな影響を与えたと言える。
上記の外交・軍事活動以外にも、大西頼包が長宗我部家臣として関与した可能性のある事績がいくつか散見される。
軍記物である『南海治乱記』によれば、天正六年(1578年)夏、長宗我部元親が阿波国大西郷に来攻し、重清城(しげきよじょう)を攻めた際、土佐方の先鋒部隊の中に久武内蔵助(ひさたけ くらのすけ)と共に「大西上野介」(頼包を指す)の名が見える 15 。この記述では、頼包は手勢五百余人を率いて真っ先に川を渡り攻撃を仕掛けたとされており、その勇猛さがうかがえる。この重清城攻めは、白地城落城(天正五年)の翌年の出来事であり、頼包が長宗我部家臣として活動していた時期と時系列的にも一致する。
また、一部の資料においては、頼包が「池田城」(白地城の別称か、あるいは近隣の別の城か詳細は不明)を攻略する際の先鋒を務めた後、その功績により元親から「馬路城」(うまじじょう)を与えられ、「大西上野介」と改名した(あるいは、上野介を名乗るようになった)との記述が存在する 16 。さらに、天正六年四月に藤目城主であった斎藤下総守が大西上野介との縁故関係から長宗我部元親に降伏した際、その仲介役あるいは影響力を行使した大西上野介を馬路城主であったとする資料もある 17 。
「改名」という点については他の史料での確認は難しいものの、阿波国内の要衝の一つである馬路城の城主を任されたという可能性は、頼包のこれまでの功績や元親からの信頼度を考慮すれば十分に考えられる。もし頼包が馬路城主となっていたとすれば、それは元親が阿波国出身である頼包を阿波国内の城主に任じることで、在地勢力の懐柔や安定的な統治を図った戦略の一環であったと見ることができる。旧領主一族の者を活用して占領地の安定化を図るという手法は、戦国時代の大名統治においてしばしば見られるものであり、頼包の出自と能力がそのために活用されたとしても不思議ではない。
大西頼包の長宗我部家臣としての活躍は、引田の戦い(天正十一年、1583年)を一つの頂点とするが、それ以降の彼の動向については史料が乏しく、不明な点が多い。
引田の戦い以降、大西頼包に関する明確かつ詳細な記録は急速に減少する。前述の通り、彼の生没年は不詳であり 1 、その晩年や最期がどのようなものであったかは詳らかではない。
特に、天正十三年(1585年)に豊臣秀吉が大軍を率いて四国に侵攻し、長宗我部元親が降伏するという、四国の勢力図を根底から覆す歴史的な大転換期において、頼包がどのような役割を果たしたのか、あるいはどのような立場にあったのかを示す直接的な史料は見当たらない。長宗我部氏が土佐一国に領地を減封された後、彼が引き続き元親に仕えたのか、それとも別の道を歩んだのかも不明である。
ここで再度、 6 の「天正6年(1578年)に長宗我部元親が阿波に侵攻した際、白地城は落城し、大西頼包は討死しました」という記述について触れておく。この記述は、天正十一年(1583年)の引田の戦いにおける頼包の活躍 1 と明確に矛盾する。 6 の情報源は限定的であり、他の複数の一次史料に近い記述と照らし合わせると、この1578年討死説の信憑性は極めて低いと判断せざるを得ない。おそらく、兄である大西覚養(天正6年頃に敗死 8 )や父である大西頼武(天正5年に自刃したとする説あり 2 )の最期と混同したか、あるいは何らかの誤伝に基づく記述である可能性が高い。
戦国末期から安土桃山時代にかけての激動期において、一武将の記録が歴史の表舞台から途絶えてしまうことは決して珍しいことではない。長宗我部家にとって存亡の危機であった天正十四年(1586年)の戸次川(へつぎがわ)の戦いのような大規模な合戦においても、現存する参戦武将の名簿 18 に大西頼包の名は見当たらない。この事実は、彼がその時点で既に一線を退いていた(病没、隠居など)、あるいは何らかの理由で中央の戦役には参加していなかった可能性を示唆している。この記録の空白期間が何を意味するのか、今後の史料発見が待たれるところである。
大西頼包の後半生が不明である一方で、香川県仲多度郡多度津町には興味深い伝承が残されている。同町の大字道福寺字角田という場所には、「大西角田(おおにし かくでん)の墓」と呼ばれるものが存在するという 3 。
地元では、この大西角田なる人物を中世の武将であり、長宗我部元親が多度津を拠点としていた香川氏を攻めた際に、香川氏に降伏を促すための軍使として天霧城(あまぎりじょう)に赴いた長宗我部方の武将であったと伝えている 3 。
この伝承は、大西頼包の経歴といくつかの点で注目すべき共通項を持つ。まず、「大西」という姓。次に、「長宗我部方の武将」であったという点。そして最も重要なのが、「香川氏への降伏勧告の使者」を務めたという役割である。大西頼包もまた、長宗我部元親の家臣として讃岐の香川之景(信景)へ降伏勧告の使者を務めた記録がある 1 。
3 の資料では、大西頼包とこの大西角田が同一人物であるかを示す直接的な資料は現在のところ見当たらないとしつつも、その関連性を示唆している。確かに、「角田(かくでん)」という名乗りは、頼包の通称である「上野介」や諱である「頼包」とは異なるため、直ちに同一人物と断定するには慎重を期す必要がある。しかしながら、戦国時代の武将が複数の名や字(あざな)、号(ごう)を持つことは決して珍しいことではなかった。「角田」が頼包の別の通称であった可能性、あるいは号であった可能性、さらには後世の伝承の中で呼称が変化した可能性も完全に否定することはできない。もし大西頼包が晩年に讃岐方面で活動し、その地で没したとすれば、その墓所が「大西角田の墓」として地域の人々に記憶され、伝承として残ったというシナリオは十分に考えられる。この「大西角田」伝承は、大西頼包の後半生を解明する上で、今後の研究において注目すべき手がかりの一つと言えるだろう。
大西頼包に直接的な子孫がいたかどうかを明確に示す史料は、提供された情報の範囲内では見当たらない。 30 には百姓の名が列挙されているが、これらが頼包の子孫であるという根拠はない。
大西氏という一族全体で見れば、阿波国の旧族であり 20 、その歴史は古い。長宗我部氏による一時的な支配の後、豊臣秀吉による四国平定を経て阿波国には蜂須賀氏が入部する。その際、大西一族の一部が蜂須賀氏の家臣団に組み込まれた可能性 6 や、あるいは長宗我部氏の旧臣として土佐藩内で存続した系統があった可能性 6 も考えられるが、頼包の直系がどうなったかについては不明である。
興味深いことに、 28 には大西頼包の父である大西頼武の墓に関する記述があり、その碑文には「施主七代子孫大西清衛門」と刻まれ、建立年月日が「寛政七年(1795年)卯六月三日」と記されている。これは、少なくとも大西頼武の系統が江戸時代中期まで続いていたことを示している。頼包の系統が、この大西氏本家筋とどのような関係にあったのか、あるいは独立して存続したのか、それとも途絶えたのかは、現在のところ明らかではない。
戦国時代の武将の家系は、主家の滅亡、当主の戦死、改易など、様々な要因によって多くが断絶の道を辿った。しかし一方で、一部は帰農して在地に土着したり、新たな領主の家臣として召し抱えられたり、あるいは他家に養子に入るなどして家名を後世に伝えた例も少なくない。大西頼包の系統がどのような運命を辿ったかは不明であるが、前述の「大西角田」伝承がもし頼包本人に関連するものであれば、その墓が地域で語り継がれていること自体が、何らかの形でその記憶がその地に残った証左と言えるかもしれない。
断片的な史料から大西頼包の人物像を再構築すると、いくつかの際立った特徴が浮かび上がってくる。
まず挙げられるのは、一度恩義を感じた相手には強い忠誠心を示した点である。当初は三好氏と深い縁故を持つ阿波大西氏の一員であった頼包だが、長宗我部元親の人質となった際に受けた厚遇に深く感じ入り、元親個人に心服した。そして、その恩義に報いるかのように、兄・覚養を説得して長宗我部方へ帰順させるという困難な役割を果たした 1 。この忠誠心の転換と確立は、戦国時代特有の主家選択におけるリアリズム(実利や将来性を見据えた判断)と、個人的な恩義に対する報恩という人間的な感情の二つの側面から理解することができる。
次に、彼が高い交渉力と説得力を有していたことがうかがえる。兄・覚養を説得して大西家全体の運命を左右する決断を促した逸話 1 は、その弁舌の巧みさと人間的影響力の大きさを示唆する。また、長宗我部家臣となった後に讃岐の有力国人である香川之景への降伏勧告の使者を務めたこと 1 も、彼の外交交渉における能力の高さを示すものである。人質という逆境の立場から、主家の運命を左右するほどの説得工作を成功させたことは、特筆に値する。
さらに、武将としての確かな実力と武勇も持ち合わせていたと考えられる。天正十一年の引田の戦いにおいて、羽柴秀吉方の仙石秀久軍を破った際に長宗我部軍の主要な指揮官の一人として名を連ねていること 1 、また、『南海治乱記』に記される天正六年の重清城攻めで先鋒を務めたとされること 15 などは、彼が戦場においても勇敢かつ有能な指揮官であったことを物語っている。
これらの点を総合すると、大西頼包は、単に武勇に優れただけの武将ではなく、状況を的確に判断し、外交交渉や説得工作といった知略も駆使できる、いわば知勇兼備の人物であった可能性が高い。人質という困難な状況を乗り越え、新たな主君の下でその才能を開花させ、主家の勢力拡大に貢献した彼の生涯は、戦国時代の武将が示した多様な生き様の一つとして評価できよう。彼の存在と行動は、長宗我部元親の四国経略、特に阿波・讃岐方面への進出において、重要な人的資源となったことは間違いない。
大西頼包の生涯は、阿波国の有力国人領主の子として生まれ、当初は地域の大勢力であった三好氏との深い関係の中で育ちながらも、土佐から興った長宗我部元親の急速な台頭という時代の大きな転換期に直面した一人の武将の物語である。人質という数奇な運命を辿る中で、敵将であったはずの元親にその才覚と人間性を見出され、やがてその忠実な家臣となった。彼の人生は、戦国時代の武将が、自己の信念、主家との複雑な関係、そして受けた恩義に基づいて、いかに激動の時代を生き抜き、自らの活躍の場を求めたかを示す貴重な一例と言える。
大西頼包の長宗我部氏への帰順は、単に一個人の身の振り方の問題に留まらなかった。それは、阿波国の有力な国人勢力である大西氏そのものを元親の勢力下に組み込む上で、決定的な役割を果たした。これにより、長宗我部元親の阿波平定は大きく前進し、その後の四国統一戦略の基盤が強化された。さらに、長宗我部家臣となった後の頼包の活動、特に讃岐方面への外交工作や、中央政権(羽柴氏)との初期の衝突であった引田の戦いにおける軍功は、長宗我部氏が四国における覇権を一時的にせよ確立する上で、少なからず貢献したと評価できる。彼の存在は、元親にとって、阿波・讃岐という戦略的に重要な地域における貴重な橋頭堡であり、また有能な実行者であった。
大西頼包に関する研究は、史料の制約から未だ多くの謎を残している。今後の研究においては、以下の点が課題として挙げられる。
第一に、彼の正確な生没年や、引田の戦い以降の晩年の動向、特に香川県多度津町に残る「大西角田」伝承との具体的な関連性を、新たな史料の発見や既存史料の再解釈を通じて解明すること。
第二に、大西一族全体の動向、特に頼包の父・頼武の系統が江戸時代まで存続したことが確認される中で 28、頼包自身の系統がその後どうなったのかについて、関連する古文書や系図、地方史料などを丹念に調査し、分析すること。
第三に、同時代に活動した他の阿波・讃岐の国人領主たちの動向(例えば、三好氏から長宗我部氏へ、あるいは織田・羽柴氏へと帰属先を変えた武将たち)と比較検討することによって、大西頼包の行動原理や思想的背景をより深く、かつ相対的に理解すること。
これらの課題に取り組むことで、大西頼包という一人の武将の生涯をより鮮明に浮かび上がらせるとともに、戦国時代の四国における地域権力の動態や、武士たちの多様な生き様についての理解を一層深めることができるであろう。