本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて後北条氏に仕えた重臣、大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)の生涯と事績、そしてその歴史的評価について、現存する史料および近年の研究成果に基づいて多角的に明らかにすることを目的とする。大道寺政繁は、天文2年(1533年)に生まれ、天正18年(1590年)にその生涯を閉じた武将である 1 。後北条氏の宿老として、北条氏康、氏政、氏直の三代にわたり仕え、武蔵国の河越城主や上野国の松井田城主などを歴任し、内政および軍事の両面で卓越した手腕を発揮した 2 。
政繁の生涯は、戦国大名その後北条氏の興隆と衰亡、そして豊臣秀吉による天下統一という時代の大きな転換期と深く結びついている。彼の多岐にわたる役職と広範な活動は、後北条氏の支配体制におけるその重要性を示している。しかしながら、その出自や詳細な事績、特に小田原征伐における降伏から最期に至る経緯については、複数の説が存在し、未だ不明な点も少なくない。本報告書では、これらの諸点について、関連史料を丹念に読み解き、可能な限り客観的かつ詳細な情報を提供することを目指す。具体的には、政繁の出自と家系、後北条氏における役職と権限、内政手腕と軍事指揮官としての器量、小田原征伐での動向と悲劇的な最期、そして後世における人物評価や関連史跡に至るまで、網羅的に検討を加える。
政繁のような宿老クラスの武将の生涯を詳細に追うことは、後北条氏という大名家の支配構造や、戦国末期の関東地方における政治・軍事状況を具体的に理解する上で不可欠な視点を提供する。彼の生涯を通じて、戦国武将が主家と運命を共にし、時代の大きなうねりに翻弄される姿を浮き彫りにするとともに、その歴史的意義を考察する。
大道寺政繁の人物像を理解する上で、その出自と家系の背景を把握することは不可欠である。大道寺氏が後北条氏の家臣団の中でどのような位置を占めていたのか、そして政繁自身の家族構成と子孫たちの動向は、彼の生涯と行動を考察する上で重要な手がかりとなる。
大道寺氏の起源については、山城国綴喜郡大導寺荘(現在の京都府綴喜郡宇治田原町大導寺)が発祥の地とされる説や 4 、同国宇治田原が出身であるとする説がある 5 。その氏族としての系統は、平氏とも藤原氏とも伝えられるが、代々の末裔は「平朝臣」を称していたという 6 。
後北条氏(伊勢氏)への臣従は古く、伊勢宗瑞(北条早雲)が駿河国へ下向した当初から従ってきた家柄であり、松田氏・遠山氏と共に「三家老衆」とも称され、後北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる特別な地位を占めていた 5 。この「御由緒家」という出自は、政繁が後北条家中で代々宿老としての役割を担い、重要な役職を歴任する上での基盤となったと考えられる。これは、単に個人の能力によって登用されただけでなく、家格や譜代の家臣としての信頼が重視された戦国武家社会の一側面を物語っている。北条早雲の時代から後北条氏に仕えたとされる大道寺氏の家紋は「揚羽蝶」である 5 。
大道寺氏のような譜代の重臣層の存在と彼らが果たした役割を分析することは、後北条氏が約100年にわたり関東地方で安定した支配を築き上げ、その統治機構を維持していく上で、どのような特質を持っていたのかを理解する鍵となるであろう。譜代の家臣は、新興の大名家にとって支配体制を安定させるための要であり、重要な役職に就くことが多かった。大道寺氏が「御由緒家」として宿老的役割を果たしたという事実は、後北条氏が家臣団を組織し、統治を行う上で、伝統や家格を重んじる側面を持っていたことを示唆している。これは、実力主義が強調されがちな戦国時代においても、旧来の秩序や家柄が一定の影響力を持ち続けたことを示し、後北条氏の支配体制の多層性を浮き彫りにする。
大道寺政繁の父祖については、史料によって記述が異なり、その系譜関係は複雑で確定していない。政繁の父とされる人物名には、大道寺重興(しげおき、周勝(かねかつ)とも)、資親(すけちか)、盛昌(もりまさ)などの諸説が見られる 1 。
『朝日日本歴史人物事典』では政繁の父を「資親か」としており 1 、中国語版の百科事典的記述では「大道寺重興」を父としている 7 。日本語版の百科事典的記述では、父を「大道寺重興(異説あり)」としつつ、注釈で盛昌や資親といった他の説も紹介している 6 。
系譜関係についても、「盛昌の子で周勝(重興)と資親が兄弟である」とする説と、「盛昌-周勝(重興)-資親-政繁と親子関係にある」とする説が存在する 6 。大道寺盛昌が北条早雲の時代からの家臣であることを考慮すると、政繁の直接の父とするには年代的にずれが生じる可能性も指摘されるが、盛昌の晩年に生まれた子である可能性も完全には否定できない 6 。
このように政繁の父祖に関する情報が錯綜している状況は、戦国時代の武家の系譜が、後世の編纂物によって形成される過程で、情報の混乱や異同が生じやすいことを示している。特に一次史料が不足している場合や、各史料の成立背景が異なる場合には、このような問題が生じやすい。したがって、これらの情報を取り扱う際には、慎重な史料批判が不可欠となる。この系譜の不確かさは、一人の歴史的人物研究において、基礎的な情報でさえ確定が困難な場合があることを示しており、歴史家が断片的な情報から全体像を再構築しようとする際の困難さと、複数の可能性を併記しつつ議論を進める学術的な誠実さの重要性を示唆している。
表1:大道寺政繁の父祖に関する諸説
説(提唱される父祖の名) |
主な史料・典拠 |
備考(年代的整合性など) |
大道寺重興(周勝) |
6 (Wikipedia日本語版本文、中国語版) |
盛昌の子、または孫とされる。 |
大道寺資親 |
1 (朝日日本歴史人物事典) 6 (Wikipedia日本語版注釈) |
盛昌の子または孫で、政繁の父とする説。 |
大道寺盛昌 |
6 (Wikipedia日本語版注釈) 10 (note記事) |
北条早雲期の家臣。政繁の父とするには年代的な検討が必要だが、晩年の子である可能性も示唆される。 |
大道寺政繁の妻は、後北条氏の重臣であった遠山綱景(とおやま つなかげ)の娘である 6 。彼女は最初に舎人経忠(とねり つねただ)に嫁ぎ、男子二人をもうけたが、経忠は永禄6年(1563年)の第二次国府台合戦で戦死した。この同じ合戦で、彼女の父である遠山綱景とその嫡男・隼人佐も討ち死にしている。綱景の娘は実家の遠山氏を頼った後、大道寺政繁に再嫁したと伝えられる 6 。
政繁には、複数の子がいたことが記録されている。
父政繁の死によって大道寺氏は一旦「滅亡」したとも記されるが 6 、その子供たちが徳川家や諸大名に仕官し、それぞれ家名を再興・維持していった事実は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家の巧みな存続戦略の一例と言える。主家が滅亡した後も、個々の能力や縁故を頼りとして新たな主君を見出し、家名を繋いでいく姿は、この時代の武士のしたたかさを示している。徳川家康が政繁の子供たちの助命に尽力したとの記録もあり 6 、これも彼らが生き延びる上で大きな要因となったであろう。
さらに、子孫たちが軍学者、藩の家老、幕府旗本、そして近代には実業家といった多様な分野で活躍していることは、武士階級が江戸時代から明治維新という社会の大きな変動期に適応し、その能力を新たな形で発揮していった様相を、大道寺家という一つの家系の歴史を通して垣間見ることができる。
表2:大道寺政繁の妻子と子孫の動向
氏名 |
政繁との続柄 |
生没年 |
主な事績・仕官先 |
備考 |
遠山綱景の娘 |
妻 |
不詳 |
舎人経忠と死別後、政繁に再嫁。 |
父は遠山綱景。 |
大道寺直繁 |
長男 |
生没年不詳 |
北条氏直の高野山配流に同行後、徳川秀忠に仕える。 |
通称孫九郎。子孫に軍学者大道寺友山。福井藩士として存続。 |
大道寺直重 |
次男 |
生没年不詳 |
松井田城籠城。戦後、前田利政、松平忠吉、徳川義直に仕える(尾張藩士)。 |
通称新四郎。子孫は尾張藩家老。大原幽学の父祖との説あり。 |
弁誉 |
三男 |
生没年不詳 |
仏門に入る。江戸深川本誓寺を中興。 |
|
大道寺直次 |
四男 |
生没年不詳 |
母方の遠山姓を名乗り諸家に仕えた後、幕府旗本(1000石)。後に大道寺姓に復す。 |
川越城守備の記録あり。 |
大道寺直英(養子) |
養子 |
生没年不詳 |
妻の連れ子。尾張藩、後に弘前藩家老。弘前城築城に関与。 |
通称隼人。子孫は弘前藩家老、明治期に第五十九国立銀行創立者(大道寺繁禎)。 |
大道寺政繁は、後北条氏三代(氏康・氏政・氏直)にわたって宿老として仕え、その治世を支えた重臣であった 2 。その諱「政繁」の「政」の一字は、四代目当主である北条氏政からの偏諱(主君が臣下に自身の諱の一字を与えること)を賜ったものとも言われている 6 。これは、政繁が当主から格別の信頼と期待を寄せられていたことを示すものと考えられる。
政繁は後北条氏の支配体制の中で、軍事・行政の両面にわたる数々の要職を歴任した。
これらの役職に加え、政繁は従五位下駿河守の官位を有していた 1 。また、後北条氏の政策決定機関である評定に参加する評定衆の一人であり、時にはその筆頭を務めたこともあったとされ、内政に関する彼の公式文書が多く残されていることが指摘されている 20 。
政繁が任された河越城、松井田城、そして一時的ながら小諸城は、いずれも後北条氏の領国支配と軍事戦略において極めて重要な位置を占めていた。これらの城の責任者を歴任した事実は、彼が軍事・統治の両面で主君から絶大な信頼を得ていたことを物語っている。特に、複数の重要拠点の城代を兼任し、かつ鎌倉代官のような伝統的権威も持つ宿老の存在は、後北条氏の統治システムが、中央集権的な要素と、有力家臣への大幅な権限委譲を巧みに組み合わせたものであった可能性を示唆している。
表3:大道寺政繁 略年表
和暦/西暦 |
年齢 (数え) |
主な出来事 |
天文2年 (1533) |
1歳 |
生まれる 1 。 |
天文15年 (1546) |
14歳 |
(伝承)河越夜戦にて、本間近江守と一騎打ちし勝利 6 。 |
(詳細時期不明) |
- |
鎌倉代官、武蔵河越城主・城代、武蔵岩槻城代などを歴任 1 。 |
永禄12年 (1569) |
37歳 |
三増峠の戦いに「河越衆」を率いて参戦か 6 。 |
天正10年 (1582) |
50歳 |
本能寺の変後、神流川の戦いで武功を立てる 3 。天正壬午の乱では先鋒として信濃へ侵攻、小諸城主となる 1 。後に上野松井田城主(城代)となる 1 。 |
天正12年 (1584) |
52歳 |
坂戸宿を開設 6 。 |
天正18年 (1590) |
58歳 |
豊臣秀吉の小田原征伐。4月、松井田城で籠城後、前田利家らに降伏 1 。その後、豊臣方に協力し八王子城攻めなどに参加 6 。7月5日、小田原城開城。7月19日、秀吉の命により自害 1 。 |
大道寺政繁は、「河越衆」と呼ばれる軍団を率いて各地を転戦し、武功を挙げたと記録されている 2 。この「河越衆」は、政繁が城主を務めた河越城を拠点とする部隊であったと考えられる。
「河越衆」の具体的な編成や規模、後北条氏の軍事組織全体における正確な位置づけについては、現存する史料からは詳細を明らかにすることは難しい。しかし、後北条氏がその広大な領国を支配し防衛するにあたり、各地域の戦略的拠点に有力な家臣を配置し、その地域の兵力を中核とする方面軍的な部隊を編成していたことは十分に考えられる。「河越衆」もそのような地域軍団の一つであり、平時には河越を中心とする武蔵国の防衛を担い、戦時には当主の命令一下、他の部隊と連携して大規模な軍事作戦に参加したと推測される。政繁がこの「河越衆」を効果的に統率し、数々の戦役で活躍したことは、彼の軍事指揮官としての能力の高さを示すものである。
「河越衆」のような家臣団を中核とする地域軍団の編成と運用は、戦国大名の軍事力の源泉と、その組織構造を理解する上で重要な事例となる。これは、兵農分離が徐々に進行していく過渡期において、在地武士層を効果的に組織化し、大名の軍事力として動員するための一つの形態であったとも考えられる。
大道寺政繁は、後北条氏の宿老として、内政と軍事の両面で顕著な功績を残した。その活動は、領国の安定と発展、そして軍事力の維持強化に大きく貢献した。
政繁の内政における手腕は高く評価されており、特に長年拠点とした武蔵河越城の城下町経営においてその能力が発揮された。
これらの内政における多岐にわたる活動は、大道寺政繁が単なる武将ではなく、優れた行政官僚としての側面も持ち合わせていたことを示している。彼による積極的な城下町経営やインフラ整備は、戦国時代における地方都市の発展と、それに伴う経済的・文化的中心地の形成を促す重要な要因であり、後北条氏の領国支配の安定化と国力増強に大きく貢献したと考えられる。
大道寺政繁は、内政手腕のみならず、軍事指揮官としても高い能力を発揮し、後北条氏の主要な合戦の多くに参陣して武功を挙げた。
これらの事績は、大道寺政繁が単に内政に長けた文官であっただけでなく、戦場においては勇猛果敢な武将であり、優れた軍事指揮官でもあったことを示している。彼の文武両道にわたる能力は、後北条氏の勢力拡大と領土防衛に不可欠なものであったと言えよう。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、後北条氏にとって、そして大道寺政繁にとって、運命を決定づける出来事となった。政繁はこの戦役において、松井田城での抵抗、降伏後の豊臣方への協力、そして理不尽とも言える最期を迎えることになる。
小田原征伐が開始されると、大道寺政繁は上野国松井田城の城代として、中山道口の守備という極めて重要な役割を担った 1 。松井田城は、関東平野への入り口を押さえる戦略的要衝であった。政繁は、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを主力とする豊臣方の大軍(一説には3万5千 19 )を、寡兵(城兵3千余と伝わる 26 )で迎え撃つこととなった 1 。
政繁は、圧倒的な兵力差にもかかわらず、約1ヶ月にわたり籠城し、激しく抵抗したと伝えられる 2 。当初は死守する覚悟であったとされるが 6 、豊臣軍の猛攻に加え、水脈を断たれ、兵糧を焼かれるなど苦戦を強いられた 6 。最終的に、天正18年4月20日、政繁は松井田城を開城し、豊臣方に降伏した 1 。一説には、降伏後、政繁父子は前田利家に伴われて豊臣秀吉と面会し、この時点では一度許されたともいう 28 。
政繁が圧倒的な兵力差の中で長期間抵抗したことは、武将としての意地と責任感を示すものである。しかし、最終的に開城降伏したことは、無益な犠牲を避けるための現実的な判断であったとも解釈できる。この松井田城の攻防は、小田原征伐における中山道方面の戦いの一環であり、豊臣軍の圧倒的な物量と、それに対する北条方の必死の抵抗という構図を象徴している。この城の陥落は、後北条氏の防衛線が破綻していく過程の重要な一歩であった。
松井田城で降伏した後、大道寺政繁は豊臣方に加わり、かつての主家である後北条氏の諸城攻略に協力するという複雑な立場に置かれた。
記録によれば、政繁はまず忍城(おしじょう、現在の埼玉県行田市)攻めの道案内を務めたとされる 6 。その後も、同年5月22日の武蔵松山城(現在の埼玉県比企郡吉見町)、6月14日の鉢形城(現在の埼玉県大里郡寄居町)、そして6月23日の八王子城(現在の東京都八王子市)攻めなど、後北条氏の主要な拠点攻略戦に相次いで参加した 6 。
特に八王子城攻めにおいては、政繁の働きが際立っていたと伝えられる。城の弱点である搦手口(からめてぐち、裏門)の情報を豊臣軍に提供し、さらに自らの軍勢を率いて正面から激しく攻め立てるなど、八王子城の早期陥落に最も貢献した人物の一人とされている 6 。
降伏した政繁が旧主の城攻めに積極的に協力した行動は、一見すると不可解にも映る。しかしこれは、降将として新たな支配者の下で生き残るための必死の選択であった可能性、あるいは豊臣方の強い圧力によるものであった可能性が考えられる。この時期の政繁の行動は、主君への忠誠という伝統的な武士の倫理観と、激動の時代を生き抜くための現実主義との間で揺れ動く戦国武将の苦悩を映し出していると言えるかもしれない。しかし、皮肉なことに、この積極的な協力が後に豊臣秀吉から「寝返り」と見なされ、かえって不信感を買う一因となった可能性も指摘されている 1 。
天正18年(1590年)7月5日、後北条氏の本拠地である小田原城は豊臣秀吉の前に開城し、ここに戦国大名としての後北条氏は事実上滅亡した 30 。その直後の7月19日、大道寺政繁は、北条氏政・氏照兄弟や同じく宿老の松田憲秀らと共に、秀吉から開戦の責任を問われ、切腹を命じられた 1 。享年58であった 1 。
政繁が処刑に至った理由については、いくつかの説が伝えられているが、いずれも確たる史料的根拠に乏しく、真相は未だ明らかではない 5 。
表4:大道寺政繁の処刑理由に関する諸説
説 |
主な内容・論拠 |
関連スニペット・史料 |
考察 |
秀吉軍の軍監との意見対立による讒言 |
政繁が豊臣軍の軍監(戦目付)と意見を異にし、その結果、軍監が秀吉に政繁を悪く報告(讒言)したため。 |
6 |
豊臣政権内部の人間関係や、降将に対する監視の厳しさを背景とする説。具体的な讒言の内容は不明。 |
秀吉が政繁の寝返りを嫌った |
松井田城で降伏し、その後豊臣方に積極的に協力した政繁の行動が、かえって秀吉に「寝返り者」としての不信感を抱かせたため。 |
1 (「順応性が災いした」との評価) 6 |
秀吉の性格や、裏切りに対する厳しい姿勢を考慮した説。協力が裏目に出た皮肉な結果。 |
北条氏中心勢力の一掃という秀吉の方針 |
秀吉が、後北条氏の旧体制を完全に解体し、将来的な反抗の芽を摘むために、氏政・氏照ら首脳部だけでなく、政繁のような有力宿老も処断対象としたため。 |
6 |
秀吉の天下統一戦略の一環として、旧勢力の有力者を徹底的に排除する冷徹な政治判断があったとする説。 |
裏切り説 |
政繁自身に何らかの裏切り行為があったとする説(具体的な内容は不明)。 |
5 |
他の説と比べ、具体的な根拠はさらに乏しい。 |
これらの説が示すように、政繁の処刑は、豊臣秀吉の天下統一事業における見せしめ、あるいは旧勢力の有力者を徹底的に排除するという非情な政治判断の一環であった可能性が高い。一度は協力させた上で処断するという手法は、秀吉の老獪な戦略と、反抗の芽を完全に摘み取ろうとする意志の強さを示しているとも解釈できる。特に「讒言説」が根強く語られる背景には、政繁の処刑があまりにも理不尽であり、直接的な反逆行為がなかったにも関わらず死に至ったことへの同情や、豊臣政権内部の権力闘争・人間関係の複雑さが投影されている可能性も考えられる。
大道寺政繁が切腹を命じられ、その生涯を閉じた場所についても、複数の説が伝えられている。
いずれの説が史実であるかについては、現時点では確たる史料的証拠に乏しく、断定は難しい。しかし、河越の常楽寺に供養塔や顕彰碑が建立されている事実は、地域の人々にとって政繁が河越と深く結びついた人物として記憶され、顕彰の対象となっていることを示している。武将の最期の地を特定することは、その人物の生涯を完結させる上で象徴的な意味を持つ。諸説ある場合、それぞれの説がどのような史料や伝承に基づいているのかを検証することは、歴史研究における実証性の追求の一環となる。
大道寺政繁は、後北条氏の重臣として約半世紀にわたり活躍し、その内政手腕と軍事的能力は高く評価されてきた。しかし、その最期は悲劇的であり、人物評価も多岐にわたる。
現存する史料や記録から、大道寺政繁の人物像について以下のような評価がうかがえる。
これらの評価を総合すると、政繁は内政と軍事の両面で卓越した能力を発揮し、主君からの信頼も厚い、戦国時代の理想的な武将像の一つである「文武両道」を体現していた人物と見なすことができる。しかし、その評価は、彼が生きた時代の価値観(主君への忠誠、武勇、統治能力)を反映する一方で、小田原征伐後の行動や最期を巡っては、後世の視点からの同情や批判、あるいは運命の皮肉といった複雑なニュアンスも含まれることになる。
特に『北条記』や『関八州古戦録』といった軍記物における政繁の記述 10 については、史実を伝えつつも物語的な脚色や教訓的要素が含まれる可能性があるため、その記述の信頼性については慎重な検討が必要である。これらの軍記物が政繁をどのように描き、それが史実とどの程度合致するのか、あるいは乖離するのかを分析することは、政繁像をより深く理解する上で重要となる。
大道寺政繁の人となりや後世における記憶を伝えるものとして、いくつかの逸話や顕彰の事例が残されている。
これらの逸話や顕彰の存在は、大道寺政繁が単なる歴史上の記録としてだけでなく、人々の記憶や物語の中で生き続けていることを示している。逸話は必ずしも史実を正確に反映しているとは限らないが、人々が彼に対してどのようなイメージを抱き、その生涯をどのように解釈してきたかを理解する上で貴重な手がかりとなる。政繁は、学術的な研究対象であると同時に、逸話や伝説を通じて大衆的な物語の登場人物ともなっており、歴史上の人物が史実としての側面と、人々の記憶や想像力の中で再構築される側面の両方を持つことを示している。
大道寺政繁の生涯と活動を今に伝える史跡や墓所は、彼とゆかりの深い各地に点在している。これらの場所は、政繁の足跡を辿り、その時代背景を考察する上で重要な意味を持つ。
補陀寺(ほだいじ)は、群馬県安中市松井田町新堀に位置する曹洞宗の寺院である。大道寺政繁の菩提寺とされており、一説には政繁の居館跡とも伝えられている 3 。境内には、政繁の墓碑と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建立されている 3 。政繁が上野国松井田城主としてこの地を治めていたことと深く関連しており、前述の「墓が汗をかく」という逸話もこの寺に伝わるものである 3 。
常楽寺(じょうらくじ)は、埼玉県川越市上戸に位置する時宗の寺院である。この地はかつての河越氏の館跡(河越館跡)の一角にあたるとされ 32 、大道寺政繁が最期を迎えた場所の一説として知られている 5 。境内には、政繁の供養塔と顕彰碑が建てられており 5 、彼が長年城主を務めた河越の地における顕彰の拠点となっている。
これらの史跡は、大道寺政繁という人物の生涯と活動を具体的に物語る「歴史的空間」である。墓所や供養塔は彼を偲ぶ場であり、城跡は彼の統治や戦闘の舞台を今に伝える。これらの場所を訪れることは、文献史料だけでは得られない歴史の臨場感や、地域と歴史上の人物との繋がりを体感する機会を提供する。また、これらの史跡の保存と研究は、大道寺政繁個人の顕彰に留まらず、後北条氏時代の地域史、城郭史、都市史の研究を深化させる上で重要な意義を持つ。さらに、地域の歴史的アイデンティティを形成し、文化観光資源としての活用にも繋がる可能性を秘めている。
本報告書では、戦国時代から安土桃山時代にかけて後北条氏の重臣として活躍した大道寺政繁について、その出自、家系、役職、内政手腕、軍事行動、小田原征伐における動向と最期、人物評価、そして関連史跡に至るまで、現存する史料と研究に基づいて詳細な検討を行った。
大道寺政繁は、後北条氏三代にわたって宿老として仕え、武蔵河越城主、上野松井田城主など数々の要職を歴任し、内政においては河越城下の整備や坂戸宿の開設など、領国経営に卓越した手腕を発揮した。軍事面においても「河越衆」を率いて神流川の戦いや天正壬午の乱などで武功を挙げ、後北条氏の勢力維持と拡大に大きく貢献した。その能力と人格は高く評価され、主君からの信頼も厚かったと伝えられる。
しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐において、松井田城で奮戦するも降伏。その後、豊臣方に協力して旧主の諸城攻略に参加するという複雑な立場を経て、最終的には秀吉の命により切腹させられるという悲劇的な最期を遂げた。その処刑理由については、讒言説や秀吉の政治的意図など諸説あるものの、真相は未だ謎に包まれている。
政繁の生涯は、戦国武将が主家と運命を共にし、時代の大きな転換期に翻弄される姿を象徴している。彼の多岐にわたる活動は、後北条氏の支配体制や関東地方の政治・軍事状況を具体的に理解する上で貴重な事例を提供する。
一方で、大道寺政繁の研究には未だ多くの課題が残されている。特に、父祖の系譜の確定、三増峠の戦いや神流川の戦いといった主要合戦における具体的な役割と戦功の詳細な解明、そして処刑理由の真相究明については、さらなる史料の発見と分析が待たれる。例えば、未発見の古文書や書状、あるいは考古学的調査の進展などが、新たな光を当てる可能性がある。
大道寺政繁という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、単に個人の伝記的研究に留まらず、戦国時代の武士の生き様、主家と家臣の関係、そして時代の変革期における個人の運命といった、より普遍的なテーマへの考察を促す。彼の存在は、後北条氏研究はもちろんのこと、戦国時代史全体の理解を豊かにする上で、今後も重要な意味を持ち続けるであろう。