最終更新日 2025-07-22

大道寺直昌

大道寺直昌は後北条氏重臣の子。主家滅亡後、前田家を経て徳川家康の松平忠吉に仕え、尾張藩の重臣となる。大坂の陣にも従軍し、子孫は尾張藩の名家として繁栄。乱世を生き抜いた武将。

後北条氏の遺臣から尾張藩の名家へ ― 大道寺直昌(直重)の生涯とその一族

序章:大道寺直昌とは何者か

大道寺直昌(だいどうじ なおまさ)は、戦国時代の終焉から江戸時代初期という激動の時代を生きた武将である。関東に覇を唱えた後北条氏の宿老・大道寺政繁の子として生まれながら、主家の滅亡という未曾有の国難に直面。しかし、彼は時代の荒波に呑まれることなく、新たな主君のもとでその才覚を発揮し、最終的には徳川御三家筆頭である尾張藩において大身の家臣となり、二百数十年にわたって続く名家の礎を築き上げた。その生涯は、滅びゆく者たちの悲哀と、新時代を生き抜く者たちの強かさを併せ持つ、まさに時代の転換点を象徴するものである。

本報告書は、この大道寺直昌という一人の武将の生涯を、その出自である名門大道寺一族の歴史、主家後北条氏の滅亡、そして彼が仕えた前田家、尾張徳川家における動向、さらには彼の子孫が築いた尾張藩大道寺家の栄光と変遷に至るまで、あらゆる角度から徹底的に掘り下げ、その実像に迫るものである。

名前の異同に関する考察 ― 「直昌」と「直重」

大道寺直昌の人物像を探る上で、まず避けて通れないのが「直昌」と「直重(なおしげ)」という二つの名前の存在である。複数の史料において、大道寺政繁の次男は「大道寺直重(直昌とも。新四郎)」と併記されている 1 。一方で、尾張藩に関連する公式な記録や、後年の編纂物では主に「直重」の名で記されているのが実情である 3

この名前の異同は、人物の混同や記録の誤りというよりも、当時の武家社会における慣習に起因するものと考えるのが最も合理的である。戦国時代から江戸時代初期にかけて、武士は元服、主君からの偏諱(へんき、主君の名前の一字を拝領すること)、役職への就任といった人生の節目に改名することが一般的であった 5 。したがって、「直昌」と「直重」は、同一人物が異なる時期、あるいは異なる状況下で使用した諱(いみな、実名)である可能性が極めて高い。人物を特定する上では、彼の通称である「新四郎(しんしろう)」や、後に名乗った「玄蕃(げんば)」が重要な鍵となる 2

この改名は、単なる名前の変更以上の意味を持つ。彼の人生における大きな転機、すなわち後北条氏の家臣であった時代から、徳川の治世下で新たな武士としての道を歩み始める段階への移行を象徴していると解釈できる。後北条氏滅亡後、新たな主君に仕えるにあたり、心機一転を図るとともに、新しい主従関係を明確にするために改名したという背景が推察される。それは、滅びた家の名を過去のものとし、新時代を生きる武士としての自己を再定義する行為であったのかもしれない。

本報告書では、ご依頼者が提示された「直昌」の名を尊重しつつ、史料上の正確性を期すため、原則として「大道寺直昌(直重)」と併記する。ただし、文脈、特に尾張藩士としての活動を記述する際には、記録に多く見られる「直重」の名を用いることで、その生涯の軌跡をより明確に描き出すこととしたい。

第一章:名門・大道寺一族の淵源 ― 後北条家臣時代

大道寺直昌(直重)の人物を理解するためには、まず彼が生まれ育った大道寺家が、主君である後北条家の中でいかに特別な存在であったかを知る必要がある。

1-1. 後北条氏草創の功臣「御由緒家」

大道寺一族の出自は、京都の山城国綴喜郡大道寺荘に遡るとされる 8 。その名が歴史の表舞台に大きく現れるのは、室町時代中期、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河へ下向し、戦国大名としての第一歩を踏み出した時である。大道寺重時(発専)は、早雲が決起した際の六人の盟友の一人であり、その家系は後北条家において「御由緒家(ごゆいしょけ)」と呼ばれる特別な家格を与えられた 10

この「御由緒家」という地位は、大道寺家が単なる譜代家臣ではなく、後北条家という巨大な戦国大名権力の創成期から深く関与した、いわば共同創業者ともいえる特別な立場にあったことを物語っている。その証左に、一族は代々、鎌倉代官や武蔵国の要衝・河越城の城代といった極めて重要な役職を世襲した 10 。特に鎌倉代官は、後北条氏にとって精神的支柱ともいえる鎌倉府の統治を任される重職であり、大道寺家が軍事のみならず、民政、寺社統制においても高い能力を有し、深く信頼されていたことを示している。

1-2. 父・大道寺政繁 ― 栄光と悲劇

直昌(直重)の父である大道寺政繁は、この名門大道寺家の当主として、後北条氏三代目の氏康、四代目の氏政、五代目の氏直に仕えた宿老である 1 。彼は父祖の跡を継ぎ、河越城主として武蔵国の支配を担う一方、北関東への進出拠点である上野国・松井田城代をも兼任し、後北条家の勢力拡大に大きく貢献した 15 。その名は、北条家の中核をなす重臣として広く知られていた。

しかし、その栄光は天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐によって、悲劇的な終焉を迎える。秀吉の大軍の前に、政繁が守る松井田城は持ちこたえられず降伏 16 。その後、政繁は豊臣方への道案内役などを務めたが、これが秀吉の逆鱗に触れた。秀吉は、小田原城開城の責任を北条氏政・氏照らと共に政繁にも問い、不忠者として切腹を命じたのである 10 。父・政繁の非業の死は、直昌(直重)をはじめとする息子たちの心に深い影を落とし、その後の人生航路を大きく左右する決定的な出来事となった。

1-3. 直昌(直重)の青年期 ― 天正壬午の乱と人質生活

直昌(直重)の青年期における特筆すべき出来事として、天正10年(1582年)に発生した「天正壬午の乱」が挙げられる。本能寺の変による織田信長の死後、甲斐・信濃の旧武田領を巡って徳川、上杉、そして北条が争ったこの動乱の末、後北条氏と徳川家康は和睦を結んだ。その際、和睦の証として、直昌(直重)は人質として家康のもとへ送られた 1

人質生活は短期間で終わり、彼はすぐに北条家へ返還されたが、この経験が彼の生涯に与えた影響は計り知れない。人質交換は、単なる形式的な儀礼ではなく、敵対勢力の首魁やその家風、家臣団の気風を直接肌で感じるまたとない機会であった。この時、直昌(直重)は若き日に、後に天下人となる徳川家康という人物を間近で観察し、その器量に触れたはずである。

この経験は、後北条氏滅亡という絶望的な状況下で、彼が次なる仕官先を模索する際に、心理的な障壁を著しく低くしたであろう。徳川方にとっても、直昌(直重)は全くの無名な浪人ではなく、かつて人質として預かった「顔見知りの将」であった。後年、彼が多くの北条旧臣の中から選ばれ、破格の待遇で徳川家に迎え入れられる背景には、この天正壬午の乱における束の間の人質生活という、運命的な伏線が存在したと見るべきである。それは、彼の人生における重要な原体験として、後のキャリアを方向づける一つの起点となったのである。

第二章:主家滅亡と流転の道

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による20万を超える大軍が関東に押し寄せた。後北条氏百年の栄華が、まさに風前の灯火となったこの年、大道寺直昌(直重)と彼の一族もまた、運命の岐路に立たされた。

2-1. 天正十八年、松井田城の攻防

天下統一の総仕上げとして開始された小田原征伐において、豊臣軍は箱根口からの本隊とは別に、上野国から侵攻する北方軍を編成した。この北方軍の主力を担ったのが、前田利家、上杉景勝、そして真田昌幸といった歴戦の猛者たちであった 2 。彼らの進撃路の真正面に立ちはだかったのが、父・大道寺政繁と直昌(直重)らが守る上野国・松井田城であった。

松井田城は、碓氷峠を抑える戦略的要衝であり、大道寺親子はここで壮絶な籠城戦を繰り広げた。しかし、数に勝る豊臣方の猛攻の前に、城は持ちこたえることができず、ついに開城を余儀なくされる 2 。降伏後、父・政繁は豊臣軍の先導役を務めるという屈辱的な役割を担わされた末に切腹を命じられたが、直昌(直重)ら息子たちは徳川家康の助命嘆願もあり、一命を取り留めた 2 。この戦いは、直昌(直重)にとって、後北条家の武将として戦った最後の戦いであり、父と共に主家の存亡を賭けて戦った記憶は、彼の武士としての原風景として深く刻まれたことであろう。

2-2. 大道寺家のその後 ― 四散した兄弟たち

主家は滅亡し、当主であった父も非業の死を遂げた。大道寺政繁の遺された息子たちは、それぞれが自らの才覚と縁故を頼りに、新たな時代を生き抜くための道を模索し始める。彼らの多様な進路は、戦国時代の終焉と江戸幕藩体制の成立という社会の大転換期において、名門武家がいかにして家名を存続させようとしたかの見事な縮図となっている。

  • 長男・直繁: 嫡男である直繁は、武士の鑑として、まずは旧主君・北条氏直が蟄居を命じられた高野山まで随行した 2 。氏直の死後、徳川家康の元に戻り、最終的には二代将軍・徳川秀忠に仕えることとなる。彼の家系は大道寺家の嫡流とされ、代々当主は「孫九郎」を名乗った。そして、この直繁の孫から、後に『武道初心集』などの著作で知られる高名な軍学者・大道寺友山が輩出されることになる 2
  • 三男・弁誉: 武士としての道を捨て、仏門に入り弁誉と号した。江戸深川の本誓寺を中興したと伝えられている 2
  • 四男・直次: 母方の姓である「遠山」を名乗り、黒田家、豊臣秀次、福島正則など様々な主君に仕えた後、最終的には徳川家に召し出され、1,000石の幕府旗本となった 2
  • 養子・直英: 政繁の妻の連れ子で、養子となっていた直英は、一度は尾張藩に仕えた後、津軽藩主・津軽信枚にその築城技術を高く評価され、移籍。弘前藩の家老という重職に就いた 8

この兄弟たちの動向は、単なる離散ではない。結果として、徳川将軍家、御三家筆頭の尾張徳川家、幕府直臣の旗本、そして外様大名の津軽家と、新たな支配体制の各層に大道寺の血脈が根を張ることになった。これは、父・政繁が築いた人脈や、一族が代々受け継いできた統治・軍事のノウハウという「無形の資産」が、新時代の支配者たちにとっても極めて価値あるものと見なされたことの証左に他ならない。彼らは巧みにリスクを分散させ、それぞれの場で再起を図ることで、一族全体の存続という大目的を果たしたのである。

2-3. 前田家への仕官と関ヶ原

後北条氏滅亡後、直昌(直重)が最初に仕えたのは、皮肉にも松井田城で敵将として対峙した前田利家の子、前田利政であった 2 。これは、戦国乱世の現実主義を如実に示す選択である。武士にとって、主家を失った以上、自らの武芸と才覚を評価してくれる新たな主君を見出すことが、生き残るための唯一の道であった。

しかし、彼の流転の道はまだ終わらない。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、主君・利政は西軍に与してしまう。その結果、西軍が敗北すると利政は所領を没収され、改易となった 2 。これにより、直昌(直重)は再び浪人の身となり、新たな仕官先を探さねばならない状況に追い込まれたのである。

2-4.【特別検証】朝鮮出兵・順天城の戦いへの参加について

ご依頼者からは、「文禄の役では、寺沢広高に従い朝鮮順天城の戦いで勇戦した」という情報が提示された。この点について、今回収集したあらゆる史料を精査・検証した。

文禄・慶長の役に関する陣立書や各戦闘の記録 23 、さらには諸大名の動向を記した各種の編纂物に至るまで、大道寺直昌(直重)の名は一切見出すことができなかった。また、彼が肥前名護屋城主であった寺沢広高の配下にあったという記録も確認できない。

このことから、専門家としての見解を述べるならば、この逸話は史実として確認することが極めて困難であると言わざるを得ない。後北条氏が滅亡した天正18年(1590年)以降、文禄の役が始まる文禄元年(1592年)までの間、直昌(直重)は浪人であったか、あるいは前田利政に仕官した直後であり、豊臣秀吉の直臣でもない彼が、寺沢広高の軍に加わって朝鮮へ渡海したとは考えにくい。

この情報は、後世に成立した軍記物語や小説などにおける創作、あるいは同時代に活躍した別の武将(例えば、同じく北条旧臣で後に他家に仕えた人物など)の逸話との混同から生じた可能性が高い。したがって、本報告書では、この朝鮮出兵に関する逸話は、現在のところ史実として裏付けることはできない、と結論づける。

第三章:尾張藩士として ― 新天地における礎の確立

二度にわたる主家の没落という不運を乗り越え、大道寺直昌(直重)はついに安住の地を見出す。それは、徳川家康の子らが治める尾張の地であった。ここで彼は、後北条氏の遺臣という過去を乗り越え、新たな藩体制の中で確固たる地位を築き上げていく。

3-1. 清洲への招聘 ― 松平忠吉に仕える

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、徳川家康は戦功のあった自身の四男・松平忠吉に、尾張国清洲52万石を与えた。この新たな清洲藩が成立するにあたり、忠吉は有能な家臣団の形成を急いだ。その折、白羽の矢が立ったのが、浪々の身であった大道寺直昌(直重)である。

彼は、2,000石という破格の知行で忠吉に召し出された 2 。これは、滅亡した大名の旧臣、それも一度は西軍に与した大名に仕えていた人物に対する待遇としては異例の高禄であった。この厚遇の背景には、天正壬午の乱で人質となった際の家康との縁に加え、後北条家の重臣として培われた大道寺一族の統治能力や武門としての名声が、家康および忠吉に高く評価されていたことがある。彼の存在は、新しい藩の骨格を形成する上で不可欠な人材と見なされたのである。

彼が清洲城下に構えた屋敷の周辺は、後年までその名を留め、現在でも愛知県清須市に「清洲町字大道寺」という地名として残っている 8 。これは、彼が清洲時代において、いかに重要な存在であったかを物語る生きた証拠と言えよう。

3-2. 尾張徳川家の成立と継続仕官

順風満帆に見えた直昌(直重)のキャリアであったが、慶長12年(1607年)、主君の松平忠吉が嗣子なく若くして病没するという不幸に見舞われる。しかし、彼の運命はここで尽きなかった。家康は、尾張の地に自身の九男である徳川義直を新たに入封させ、御三家筆頭たる尾張徳川家を創始した。

この藩主交代に際し、直昌(直重)は松平忠吉の旧臣らを指す「清洲新参衆」の一人として、そのまま義直に仕えることが認められた 3 。主君の死という危機を乗り越え、新たな藩体制に組み込まれただけでなく、彼はその実務能力を高く評価され続けた。元和6年(1620年)には、藩主の親衛隊ともいえる馬廻組の番頭に任じられ、さらに500石を加増されて、知行は合計2,500石に達したのである 3 。この事実は、彼が単なる武辺者ではなく、新藩の組織構築において実務能力を発揮し、若き新藩主・義直の信頼を確かに勝ち得たことを示している。

3-3. 武将としての晩年と死

大坂の陣(冬の陣・夏の陣)では、彼は尾張藩の一員として、藩主・徳川義直に従い出陣したと考えられる。特に、同じく尾張藩に一時身を寄せていた養子の兄・大道寺直英と共に参陣したとの記録も残っている 20 。これは、彼が後北条氏の武将として戦った松井田城攻防戦以来の、大規模な実戦経験であった。

戦国の動乱を生き抜き、徳川の泰平の世の到来を見届けた直昌(直重)は、寛永5年(1628年)に55年の生涯を閉じた 4 。彼は、父祖の地である関東を離れ、新天地・尾張において、一族が二百数十年にもわたって繁栄を謳歌するための盤石な基礎を築き上げた。その生涯は、まさに尾張藩大道寺家の「家祖」として、後世に語り継がれるべきものであった。

第四章:尾張藩の名家・大道寺家の成立と繁栄

大道寺直昌(直重)が築いた礎は、彼一代で終わることはなかった。彼の子孫たちは、初代の遺した功績と信頼を元に、尾張藩内でその地位をさらに高め、幕末に至るまで藩政の中枢を担う名家として存続していく。

4-1. 歴代当主と藩内での地位向上

初代・直昌(直重)の跡を継いだのは、息子の大道寺直時であった。直時は父の遺領2,500石のうち2,000石を継承し、大御番頭などを務めた後、万治元年(1658年)にはついに藩の最高職である家老職(年寄役)に就任した 3 。これを機に2,000石を加増され、知行は4,000石に達した。

これ以降、尾張大道寺家は代々、年寄役や名古屋城の城代といった藩の最高幹部を輩出する家柄として、その地位を不動のものとする 3 。後北条氏の旧臣の家が、徳川御三家の筆頭である尾張藩において、これほどまでの高位を世襲し続けた例は稀であり、一族の非凡な能力と藩主からの厚い信任を物語っている。その二百数十年にわたる栄達の軌跡は、以下の表に集約される。

【表:尾張藩大道寺家 歴代当主と知行・役職の変遷】

当主名(通称)

続柄

知行(石)

主な役職・特記事項

初代

直重(新四郎、玄蕃)

政繁次男

2,000 → 2,500

家祖。松平忠吉、徳川義直に仕える。馬廻組番頭 3

2代

直時(八介、玄蕃)

直重の子

2,000 → 4,000

大御番頭、同心頭を経て、万治元年(1658年)に家老職 3

3代

直治(太郎左衛門、玄蕃)

直時の子

4,000

寛文11年(1671年)に家老職に就任 3

4代

直秀(駿河守)

直治の子

4,000 → 5,000

元禄6年(1693年)に家老職。従五位下に叙任される 3

5代

直澄(太郎左衛門)

直秀の子

4,000

享保10年(1725年)に家督相続。御城代を務める 3

6代

直長

直澄の養子

(不明)

28

7代

直方

直長の子

(不明)

大原幽学の父とする説がある 2

8代

直寅(玄蕃)

直方の子

3,500

文化13年(1816年)に家督相続。御用人、御城代を歴任 3

幕末

直良(主水、雨田)

直寅の子

3,500 → 1,750

用人、城代。青松葉事件に連座し永蟄居処分 2

幕末

直近

直良の跡を継ぐ

1,750

父の処分により知行を減らされて家督を継ぐ 28

注:史料により当主名や続柄に若干の揺れが見られる場合がある。本表は徳川林政史研究所の目録および関連資料に基づき作成した 2

4-2. 一族の文化と社会への影響

尾張大道寺家は、単に藩政を担う武家としての役割に留まらなかった。その歴史は、近世から近代へと移行する日本の文化・社会史にも確かな足跡を残している。

特筆すべきは、江戸時代後期の著名な農政学者・思想家である大原幽学が、尾張藩大道寺家の出身であるという説の存在である 2 。幽学は、七代当主・大道寺直方の次男として生まれ、若き頃は大道寺左門と名乗っていたと伝わる。もしこの説が事実であれば、大道寺家が武辺一辺倒ではなく、学問や思想に関心を持つ土壌があったことを示唆しており、非常に興味深い。

また、幕末の動乱期には、大道寺家もその渦中に巻き込まれる。尾張藩内で起こった尊王攘夷派の弾圧事件「青松葉事件」において、当時の当主であった大道寺直良(主水、号は雨田)が連座し、永蟄居という厳しい処分を受けた 2 。これは、大道寺家が藩の重臣として、幕末の激しい政治対立の最前線に立たされていたことを物語っている。

さらに、大道寺家の文化的な遺産として、その用人であった水野正信が遺した膨大な記録『青窓紀聞(せいそうきぶん)』が挙げられる 30 。全204冊にも及ぶこの記録は、藩政の重要情報から市井の風聞に至るまで、幕末維新期の尾張藩の動向を多角的に伝える第一級の歴史史料として、今日高く評価されている 32 。このような詳細な記録が家臣によって残されたことは、大道寺家が情報を収集・記録し、後世に伝えるという知的な活動を重視する家風を持っていたことの証左と言えるだろう。

これらの事実は、尾張大道寺家が、政治・軍事・文化の三つの側面から立体的に評価されるべき、奥行きの深い一族であったことを示している。

終章:大道寺直昌(直重)の歴史的評価

大道寺直昌(直重)の生涯は、後北条氏の重臣の子という栄光に始まり、主家滅亡と二度の主君喪失という逆境を乗り越え、新天地・尾張で一族繁栄の礎を築き上げるという、まさに波瀾万丈の物語であった。彼は単なる戦国武将の一人としてではなく、時代の巨大な転換点を生き抜き、新たな秩序の中で一族を未来へと繋いだ「家祖」として評価されるべき人物である。

彼の父・政繁が、旧時代の終焉と共に悲劇的な最期を遂げたのとは対照的に、直昌(直重)は驚くべき強かさと現実的な判断力をもって新時代へ適応した。その処世術、忠吉・義直という二人の主君に認められた実務能力、そして自らの家を存続させるという明確な目的意識は、戦国乱世から徳川泰平の世への移行期を生きた武士の、一つの理想的なモデルを示している。

天正壬午の乱で敵将・家康と顔を合わせた偶然。小田原の役で敵として戦った前田家に仕える決断。そして、関ヶ原の戦いの後に徳川家に破格の待遇で迎え入れられた幸運。彼の人生は、数々の岐路における的確な選択と、それを引き寄せるだけの武門の名声と個人の才覚によって切り拓かれた。

彼の選択と努力がなければ、二百数十年にわたり尾張藩の中枢を担った名家・大道寺家の歴史は始まらなかった。その功績は、歴史の表舞台で華々しく活躍した英雄たちの影に隠れがちではあるが、滅びの淵から一族を再興させたという点で、確かな価値と重みを持つものである。大道寺直昌(直重)は、激動の時代にあって、しなやかに、そして力強く生き抜いた一人の武士の姿を、我々に鮮やかに示してくれるのである。

引用文献

  1. 大道寺政繁 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E6%94%BF%E7%B9%81
  2. 大道寺政繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E6%94%BF%E7%B9%81
  3. 徳川林政史研究所所蔵 大道寺家文書目録 https://rinseishi.tokugawa.or.jp/image_holder02/daidouji-mokuroku.pdf
  4. 大道寺直重(だいどうじ なおしげ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E7%9B%B4%E9%87%8D-1086575
  5. 襲 名 https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/23594/files/KU-1100-19640200-01.pdf
  6. 弁護士会の読書:氏名の誕生 https://www.fben.jp/bookcolumn/2022/09/post_6979.php
  7. 戦国大名はなぜ名前を何度も変えるの?武将の姓・氏・名の謎を徹底解説! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/64896/
  8. 大道寺氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E6%B0%8F
  9. 武家家伝_大道寺氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/daido_k.html
  10. 登場人物一覧(た行) - 上総介 戦国書店 https://kazusanosukede.gozaru.jp/busyou/toujyoujinbutu-ta.htm
  11. 北条家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/houzyouSS/index.htm
  12. 大道寺重時 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E9%87%8D%E6%99%82
  13. 御由緒六家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%B1%E7%B7%92%E5%85%AD%E5%AE%B6
  14. 大道寺盛昌 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E7%9B%9B%E6%98%8C
  15. 戦国北条氏家臣団・河越衆筆頭「大道寺氏」とは https://sengoku-his.com/194
  16. 郷土士の歴史探究記事 その48 http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-cf243b.html
  17. 歴史の目的をめぐって 井伊直政 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-ii-naomasa.html
  18. 北条氏直〜関東北条家最後の当主をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/1185/
  19. 大道寺直次とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E7%9B%B4%E6%AC%A1
  20. 大道寺氏 http://kakei-joukaku.la.coocan.jp/Japan/meizoku/daidouji.htm
  21. 大道寺直英 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E7%9B%B4%E8%8B%B1
  22. 大道寺直英とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E7%9B%B4%E8%8B%B1
  23. 小西行長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
  24. 文禄・慶長の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
  25. 閑山島海戦とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%96%91%E5%B1%B1%E5%B3%B6%E6%B5%B7%E6%88%A6
  26. 「新修名古屋市史資料」の利用にあたって https://www.city.nagoya.jp/somu/cmsfiles/contents/0000010/10388/shishiichiran201904.pdf
  27. 尾張大道寺氏とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA%E6%B0%8F
  28. 尾張藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E8%97%A9
  29. 大道寺雨田 https://soutairoku.com/01_soutai/04-1_ta/01-2_i/daidouji_uden/daidouji_uden.html
  30. 名古屋市蓬左文庫|これまでの展示案内 https://housa.city.nagoya.jp/exhibition/back_h21.html
  31. 名古屋市蓬左文庫所蔵資料目録 (1) - 『青窓紀聞』目次 https://housa.city.nagoya.jp/archive/deta/20180403_8.pdf
  32. 郵政博物館 研究紀要 第16号 目次 巻頭論文 逓信省財政と産業政策 1885〜1940 杉 山 伸 https://www.postalmuseum.jp/publication/research/docs/research_16_all.pdf
  33. BULLETIN of NAGOYA CASTLE RESEARCH CENTER Vol. 6 MARCH 2025 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/69/69145/142416_1_%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%B4%80%E8%A6%81%E7%AC%AC6%E5%8F%B7.pdf
  34. 嘉永小田原地震における小田原町の震災対応 - 歴史地震研究会 https://www.histeq.jp/kaishi/HE35/HE35_085_103_Okazaki.pdf
  35. 4 https://swu.repo.nii.ac.jp/record/2450/files/KJ00004311233.pdf