戦国時代から江戸時代初期にかけての日本は、絶え間ない戦乱から徳川幕府による統一へと移行する、歴史上類を見ない激動の時代であった。この大転換期を91年という長寿を全うして生き抜いた一人の武将がいる。その名は大道寺直英(だいどうじ なおひで)、通称を隼人(はやと)という 1 。彼の生涯は、単なる一武将の立身出世物語にとどまらない。それは、滅びゆく主家から新たな支配者の下へ、そして辺境の大名家へと、自らの持つ専門技術を武器に渡り歩いた、新時代の武士の生存戦略を体現するものであった。
直英の価値は、旧来の武士が重んじた武勇や一所懸命の忠義だけに留まらなかった。彼の真価は、後北条氏の下で培われた「築城技術」という、移転可能かつ普遍的な専門技能にあった 1 。主家である後北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた際、養父の政繁が切腹を命じられる中、直英は徳川家康の庇護下に入る 1 。これは、家康が旧北条家の人材、特に直英のような技術者の価値を高く評価していたことの証左である。その後、徳川家の天下普請事業である名古屋城の築城に携わり、その技術に磨きをかけると、今度はその専門性を見込んだ津軽藩主・津軽信枚によって破格の待遇で招聘される 1 。これは、戦乱の時代が終わり、藩体制の確立と領国経営が急務となった江戸初期において、武勇に秀でた武士から、築城や行政に長けたテクノクラート(技術官僚)へと、求められる武士像が変化したことを象徴する出来事であった。
本報告書では、この大道寺直英の91年にわたる生涯を、史料に基づき徹底的に詳述する。後北条家臣としての出自と激動の青年期、徳川家臣として雌伏し転機を掴んだ時期、そして弘前藩の家老として北の大地の藩政に深く関与し、その礎を築いた壮年期から晩年までを追う。さらに、彼の人生に影を落とした養子直秀をめぐる悲劇的な事件の深層にも迫り、その決断が持つ意味を考察する。彼の生涯を通じて、戦国から江戸へと移行する時代の武士の生き様、そして専門技術が個人の運命を、ひいては一藩の未来をも左右した実像を明らかにしていく。
【表1】大道寺直英 略年譜
年代(西暦) |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
天文21年 (1552) |
1歳 |
紀伊国にて舎人経忠の子として誕生。幼名は勇丸。 |
1 |
永禄6年 (1563) |
12歳 |
第二次国府台合戦で実父・舎人経忠と祖父・遠山綱景が戦死。 |
1 |
永禄6年以降 |
12歳〜 |
母が大道寺政繁と再婚し、政繁の養子となる。 |
1 |
天正18年 (1590) |
39歳 |
小田原征伐。後北条氏が滅亡。養父・政繁は切腹。直英は徳川家康預かりとなる。 |
1 |
慶長年間 (c. 1600s) |
49歳〜 |
義弟・大道寺直重の縁で尾張藩主・徳川義直に仕える。名古屋城築城に携わる。 |
3 |
慶長19年 (1614) |
63歳 |
大坂冬の陣に従軍。陣中にて津軽信枚と邂逅。築城技術を見込まれる。 |
1 |
元和元年以降 (c. 1615) |
64歳〜 |
津軽信枚に招聘され、弘前藩へ移籍。家老職に就く。 |
2 |
元和8年頃 (c. 1622) |
71歳 |
亀ヶ岡城の築城計画に関与。縄張りを担当したとされる。 |
2 |
寛永11年 (1634) |
83歳 |
弘前藩のお家騒動「船橋騒動」が発生。その収拾に尽力する。 |
2 |
寛永13年 (1636) |
85歳 |
養子・大道寺直秀が福島家再興を画策し、謎の急死を遂げる。 |
8 |
寛永19年 (1642) |
91歳 |
弘前にて死去。戒名は玉弓院清月浄心居士。 |
1 |
大道寺直英の人生は、天文21年(1552年)、紀伊国牟婁郡藤縄の住人であった舎人経忠(とねり つねただ)と、後北条氏の重臣・遠山綱景(とおやま つねかげ)の娘との間に、長男として生を受けたことから始まる 1 。幼名を勇丸といい、その出自は、後に関東の覇者となる後北条氏の家臣団と深く結びついていた。
しかし、その平穏な幼少期は、戦国の非情な現実によって突如として打ち砕かれる。永禄6年(1563年)、第二次国府台合戦において、里見氏との激戦の末、実父の舎人経忠と、母方の祖父である遠山綱景が共に討死するという悲劇に見舞われた 1 。この時、直英はわずか12歳。一度に父と祖父という二人の庇護者を失い、母子ともに極めて不安定な立場に置かれた。
この窮地を救ったのが、母の再婚であった。未亡人となった母は、実家の遠山家を頼った後、同じく後北条氏の宿老であり、武蔵国河越城主として重きをなしていた大道寺政繁(だいどうじ まさしげ)に嫁いだ 1 。これに伴い、連れ子であった直英は政繁の養子となり、「大道寺直英」を名乗ることになる。大道寺氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)の時代から後北条氏に仕えた最古参の家臣団の一つであり、政繁はその中でも屈指の実力者であった 10 。
この養子縁組は、直英の運命を大きく変えたが、同時に複雑な立場をもたらした。政繁と母の間には、その後、直繁(なおしげ)、直重(なおしげ)、弁誉(べんよ)、直次(なおつぐ)という四人の男子が生まれた 1 。実年齢では彼らの兄であるにもかかわらず、直英は養子であるため、大道寺家の系図上は「五男」として扱われた 1 。この事実は、彼が大道寺家という名門の中で、嫡流とは異なる特別な、そしてある種、微妙な位置づけにあったことを示唆している。この経験が、後の彼の処世術や人間観察眼を養う一助となった可能性は否定できない。
大道寺家の養子となった直英は、後北条氏の家臣としてキャリアをスタートさせる。養父・政繁は河越衆を率いる重臣であり、武蔵国の要衝・河越城と、徳川氏との同盟後に北条領となった上野国の最前線・松井田城を管轄していた 1 。政繁が両城の城代を兼務する中、直英は河越城の城代として、その実務を担ったとされる 1 。
この時期、直英は単なる城の管理者にとどまらず、後北条氏が進めた城郭の拡張・改修事業に深く関与した 1 。これが、彼の生涯を決定づける「築城技術」の習得期であった。彼が学んだのは、戦国時代屈指の築城技術と評される「北条流築城術」である。北条流は、伊勢宗瑞から氏直に至る五代百年の間に、関東平野における絶え間ない実戦経験から編み出された、極めて実践的な防衛思想の結晶であった 11 。
その特徴は、石垣を多用する織豊系城郭とは異なり、地形を巧みに利用した大規模な土塁(どるい)や空堀(からぼり)を主体とするところにある 12 。特に、堀の底に畝(うね)を設けて敵兵の移動を妨げる「障子堀(しょうじぼり)」や、城門の防御力を飛躍的に高める方形の出撃拠点「角馬出(かくうまだし)」などは、北条流の独創的な技術として知られている 13 。直英は、河越城や松井田城の改修を通じて、これらの高度な縄張り(城の設計思想)と普請(土木工事)の技術を実践的に学び、自らの血肉としていった。この時に得た専門知識こそが、後に主家が滅亡した際に彼を救い、新たな活躍の場へと導く最大の資産となるのである。
天正18年(1590年)、天下統一を目指す豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて関東に侵攻し、小田原征伐が開始された。後北条氏の命運を賭けたこの戦いで、大道寺一族は防衛の最前線に立つ。養父・政繁と義弟・直重らは、中山道方面からの豊臣軍別働隊を迎え撃つべく松井田城に籠城し、直英は他の大道寺一族と共に本拠地である河越城の守備を担当した 1 。
しかし、戦況は圧倒的に不利であった。前田利家、上杉景勝、真田昌幸といった歴戦の将が率いる豊臣軍の猛攻の前に、松井田城は持ちこたえられず降伏・開城する 1 。降伏後、大道寺氏は皮肉にも豊臣方の一員として、武蔵松山城や八王子城といった、かつての同胞の城を攻める道案内役を務めることとなった 1 。これに伴い、直英が守る河越城も戦わずして開城し、前田利家の軍勢が入城した 1 。
同年7月、本城である小田原城もついに陥落し、後北条氏は滅亡する。戦後処理において、秀吉は開戦の主導者として北条氏政・氏照、そして大道寺政繁らに責任を問い、切腹を命じた 3 。主家の滅亡と養父の死という絶望的な状況の中、直英ら政繁の子たちの運命は風前の灯火であった。しかしここで、後の天下人となる徳川家康が動く。家康は秀吉に強く助命を嘆願し、その結果、直英を含む政繁の子らは死を免れ、家康預かりの身となった 1 。この一連の出来事は、直英にとって後北条家臣としての時代の終わりであると同時に、彼の持つ築城技術という専門性が、新たなパトロンである家康の目に留まったことを示す、人生の大きな分岐点であった。
【表2】大道寺政繁 一族関係図
Mermaidによる関係図
後北条氏の滅亡後、徳川家康の庇護下に入った大道寺直英は、新たな主君を求めて再起の道を探ることになる。その機会は、尾張藩を通じて訪れた。義理の弟である大道寺直重が、徳川家康の九男・徳川義直が藩主を務める尾張藩に仕官していた縁を頼り、直英もまた同藩に身を寄せた 3 。
尾張藩士となった直英に与えられた最初の大きな仕事は、近世城郭の集大成ともいえる名古屋城の築城への参加であった 3 。名古屋城の築城は、徳川幕府が全国の諸大名に普請を命じた国家的な巨大プロジェクト、いわゆる「天下普請」である。この事業に、旧北条家臣である直英が抜擢されたという事実は、彼の築城家としての能力が、党派や出自を超えて高く評価されていたことを物語っている。ここで彼は、後北条氏の下で培った土木中心の築城術に加え、全国から集められた最新の石垣技術や天守建築の技法に触れる機会を得た。この経験は、彼の技術体系をさらに深化させ、より完成度の高いものへと昇華させたに違いない。名古屋城での経験は、彼の専門性を確固たるものにし、次の大きな転機へと繋がる重要な布石となった。
慶長19年(1614年)、豊臣家の残存勢力と徳川幕府との間で大坂冬の陣が勃発する。直英は尾張藩主・徳川義直の配下として、徳川方の一員として出陣した 1 。戦乱の世の最終章ともいえるこの戦場で、直英は彼の後半生を決定づける運命的な出会いを果たす。相手は、陸奥国弘前藩の二代藩主・津軽信枚(つがる のぶひら)であった 1 。
当時の信枚は、自領の防衛と統治の拠点として新たな城の建設を構想しており、その実現のために優れた築城技術者を熱心に探していた 1 。陣中にて直英と知り合った信枚は、彼が後北条氏の下で城郭建築の豊富な経験を積み、さらに名古屋城という当代随一の城の建設にも関わったことを知る。信枚は、直英こそが自らの構想を実現するために不可欠な人材であると確信した。
ここから信枚の迅速な行動が始まる。彼は主君である徳川義直に直接交渉し、家臣である直英を津軽藩へ移籍させてほしいと願い出た 4 。戦国時代が終わり、大名家が家臣団を固定化しつつあったこの時期に、他家の中核的な技術者を「ヘッドハンティング」するというのは極めて異例のことであった。義直がこれを許可した背景には、徳川家と津軽家の良好な関係や、信枚の熱意があったと考えられるが、何よりも直英の持つ「築城技術」という専門性が、一人の武士の移籍を正当化するほどの価値を持っていたことの証左である。この邂逅と移籍は、直英にとって雌伏の時代を終え、北の大地でその才能を存分に発揮する新たなキャリアの幕開けとなった。
津軽信枚の熱心な招聘に応じ、大道寺直英は尾張藩から弘前藩へと籍を移した。時に60代半ば、多くの武士が隠居を考える年齢での大きな決断であった。信枚は彼を破格の待遇で迎え、藩の最高職である家老(奉行職)に任命し、当初500石、後には加増された知行を与えた 2 。彼の屋敷は弘前城の南内門近くに構えられたとされ、この一帯が有力家臣の邸宅地であったことからも、藩内での彼の重要性がうかがえる 19 。
直英に課せられた最大の任務は、もちろんその築城技術を津軽藩のために活かすことであった。信枚が計画していた新城、すなわち現在のつがる市木造にあった亀ヶ岡城の建設において、直英はその基本設計である「縄張り」を担当したと伝えられている 2 。縄張りは城の防衛能力や機能性を決定づける最も重要な工程であり、これを任されたことは、信枚が直英の技術に全幅の信頼を寄せていたことを示している。
この招聘は、単に一人の技術者を雇い入れた以上の意味を持っていた。それは、関東の戦国大名・後北条氏が百年にわたって蓄積してきた最先端の軍事土木技術が、直英という人物を介して、北の津軽藩へと「技術移転」された瞬間であった。後北条氏が滅びなければ決して交わることのなかったであろう、関東の洗練された築城術と、北の辺境で独立を保ってきた津軽の地が、直英の存在によって結びついたのである。彼が亀ヶ岡城や弘前城の改修に用いたであろう、地形を活かした防衛線、複雑な虎口(こぐち、城の出入口)、効果的な横矢掛かり(側面攻撃の仕掛け)といった北条流の設計思想は、津軽藩の城郭の防衛力を飛躍的に向上させ、その後の藩の安定に大きく貢献したと考えられる。
直英の価値は、築城技術という専門性だけではなかった。彼は、藩の根幹を揺るがすお家騒動において、卓越した政治手腕を発揮する。寛永11年(1634年)、三代藩主・津軽信義の時代に「船橋騒動」と呼ばれる深刻な内紛が勃発した 20 。この騒動は、若き藩主・信義が寵愛した新参の側近・船橋長真(ふなばし ながざね)一派と、藩祖・為信の代から仕える譜代の重臣たちとの間の権力闘争が原因であった 21 。新参者の船橋が藩政を壟断することに反発した兼平伊豆(かねひら いず)や乳井美作(にゅうい みまさく)といった譜代の家臣たちが、江戸の町屋に立てこもり、幕府に訴え出るという事態にまで発展した 21 。
この藩を二分する危機において、家老であった直英は、事態の収拾に尽力した 2 。彼の立場は、この調停役として極めて有利であった。彼は津軽の譜代家臣でもなければ、信義が登用した新参者でもない。藩主・信枚にその専門技術を買われて移籍してきた「外部の専門家」であった。この「よそ者」という立場が、彼に特定の派閥に与しない中立性をもたらした。譜代家臣団の誰が調停に立っても、新参者側はそれを疑うだろう。逆もまた然りである。しかし、直英にはそうした藩内のしがらみがなかった。
加えて、彼はかつて関東の覇者・後北条氏に仕え、その後は天下人・徳川家康の息子である徳川義直に仕えたという輝かしい経歴を持っていた。その豊富な経験と、大藩の政治を見てきた広い視野は、津軽藩の家臣たちに対して絶大な権威と説得力を持ったはずである。この中立性と権威という二つの要素を巧みに利用し、直英は騒動の鎮静化に努めた。最終的に幕府の裁定によって喧嘩両成敗という形で決着したが 21 、藩の分裂という最悪の事態を回避する上で、彼の果たした役割は計り知れない。この一件は、大道寺直英が単なる技術者ではなく、複雑な人間関係と政治力学を読み解くことのできる、老練な政治家でもあったことを証明している。
【表3】船橋騒動 主要関係者と対立構造
新参派(藩主側近) |
譜代派(旧来の重臣) |
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津軽信義 (三代藩主) |
兼平伊豆 (筆頭格) |
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船橋長真 (藩主の乳母の夫、寵臣) |
乳井美作 |
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乾四郎兵衛 (船橋派の重臣) |
その他、藩祖以来の家臣多数 |
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【調停役】 |
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大道寺直英(隼人) (家老) |
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典拠: 2 |
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弘前藩で重きをなした大道寺直英であったが、彼には実子がおらず、家名の存続という重大な課題を抱えていた。この問題を解決するため、彼は一人の男子を養子に迎える。その名は大道寺直秀(なおひで、直英とは別の漢字) 8 。この養子縁組は、単なる跡継ぎ問題の解決に留まらず、極めて複雑で政治的な意味合いを帯びていた。
養子・直秀は、直英の妻が前夫との間にもうけた子ではなく、徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)が、最初の夫である福島正之(ふくしま まさゆき)との間にもうけた実子であった 8 。満天姫は後に津軽信枚に再嫁しており、直秀は信枚の継室である満天姫の連れ子として津軽家にやってきた。そして、跡継ぎのいなかった家老・大道寺直英の婿養子となったのである 8 。
この縁組により、大道寺家は驚くべき血統の交差点となった。養父・直英は滅びた後北条氏の旧臣。養子・直秀は、賤ヶ岳の七本槍として名高い福島正則の血筋(正之は正則の甥で養嗣子)を引いている。そして直秀の母・満天姫は、時の支配者である徳川家康の養女である。つまり、大道寺家は、後北条、福島、津軽、そして徳川という、戦国末期から江戸初期にかけての主要な権門と、複雑な姻戚関係で結ばれることになった。この関係は、大道寺家の地位を盤石にする可能性を秘めていたが、同時に、一歩間違えれば巨大な政争に巻き込まれる危険性をはらんでいた。
悲劇の引き金となったのは、養子・直秀の出自に根差した野心であった。彼の実家である福島家は、かつては安芸広島49万石を領した大大名であったが、福島正則の代に武家諸法度違反などを理由に改易され、信濃国川中島4万5千石に減封。さらに正則の死後、その遺領も幕府に没収され、一族は3千石の旗本へと転落していた 8 。
自らの高貴な血筋を知った直秀は、この没落した福島家を、自らが当主となって大名として再興させることを夢見るようになる 8 。彼はこの計画を実現すべく、幕府に働きかける活動を始めた。しかし、この行動は極めて危険な賭けであった。津軽藩の家老という身でありながら、主家の意向を介さず、独断で幕府に働きかけて自らの家を再興しようとすることは、主君への背信行為と見なされかねない。万が一、幕府の不興を買えば、直秀個人のみならず、津軽藩全体がその咎を問われ、改易などの厳しい処分を受ける可能性すらあった 9 。
実母である満天姫や、養父である直英は、この無謀な計画が津軽家にもたらす災禍を予見し、何度も直秀を諫めた 4 。しかし、野心に燃える直秀は彼らの忠告に耳を貸さず、ついに自ら江戸へ上り、幕府要人に直接訴えることを決意する。寛永13年(1636年)9月24日、江戸への旅立ちを前に、母・満天姫の居所へ暇乞いに訪れた直秀は、母に勧められるままに別れの杯を干した。その直後、彼は突然激しい苦しみに襲われ、絶命したという 8 。『大道寺家譜』に記されたこの突然の死は、明らかに尋常なものではなかった。
大道寺直秀の急死をめぐっては、その状況の異常さから、当時から毒殺説が強く囁かれている 8 。そして、その実行犯として疑いの目が向けられたのは、彼の行動を止めようとしていた二人の最も近しい人物、すなわち実母・満天姫と養父・大道寺直英であった 1 。彼らは直秀の行動がもたらすであろう破滅的な結果を誰よりも理解しており、それを未然に防ぐ動機と機会を持っていた。
この事件を単なる親子の愛憎劇として捉えるのは表層的であろう。その根底には、近世武家社会における「家」(いえ)の存続という、至上命題が存在した。当時の武家にとって、「家」の存続と繁栄は個人の生命や感情よりも優先されるべき絶対的な価値観であった。直秀の福島家再興運動は、彼の個人的な野心の発露であると同時に、彼が属する津軽家、そして彼が継ぐべき大道寺家という二つの「家」を、幕府の猜疑心という名の危険に晒す行為に他ならなかった。
満天姫は徳川家康の養女として、幕府の政治力学の恐ろしさを肌で知っていたはずである。大道寺直英は、主家である後北条氏の滅亡を目の当たりにし、政治的な失敗が「家」の断絶に直結することを痛感していた。再三の説得にもかかわらず、直秀が江戸へ向かうと決意した時点で、彼はもはや説得不可能な「家」にとってのリスクそのものと化した。
この文脈で考えれば、毒殺という非情な手段は、個人的な憎悪からではなく、「家」を守るための冷徹で究極的な判断として下された可能性が高い。津軽家と大道寺家の未来という、より大きな利益のために、一人の息子の生命を犠牲にする。それは、近世武家社会の非情な論理がもたらした悲劇であり、個人の野心が「家」の論理によって抹殺された瞬間であった。真相は歴史の闇の中だが、この事件は、直英と満天姫が背負ったであろう、想像を絶する苦悩と覚悟を物語っている。
養子・直秀の死によって、大道寺家は再び跡継ぎを失うという危機に直面した。しかし、この問題は津軽藩主家との連携によって、より強固な形で解決されることとなる。直英は、直秀の遺した娘・喜久(きく)の婿として、藩主・津軽信枚の七男である為久(ためひさ)を迎え、自らの養子としたのである 1 。
この養子縁組は、極めて戦略的な一手であった。これにより、大道寺家は藩主家の血を直接取り込むことになり、その家格と地位は藩内で不動のものとなった。もはや単なる功臣の家ではなく、藩主一門に連なる特別な家として、その存続が保証されたのである。この時から、大道寺直英の通称であった「隼人」は、為久以降の代々の当主が受け継ぐ名跡となり、「大道寺隼人家」として弘前藩の家老職を世襲する名門の地位を確立した 2 。直秀の悲劇という大きな犠牲の上に、大道寺家は北の大地で盤石の礎を築き上げたのであった。
数々の激動と悲劇を乗り越えた大道寺直英は、寛永19年(1642年)、91歳という当時としては驚異的な長寿を全うし、弘前の地で静かにその生涯を閉じた 1 。彼の亡骸は、弘前市新寺町にある貞昌寺(ていしょうじ)に葬られた 1 。
特筆すべきは、直英が生前、この貞昌寺に一つの供養塔を建立していたことである。それは、小田原征伐の際に秀吉の命で非業の死を遂げた養父・大道寺政繁を弔うためのものであった 1 。自らの墓をその傍らに置かせたことは、主家も時代も異なる地にあってなお、養父への深い敬愛と孝心を持ち続けた直英の人柄を偲ばせる。滅びゆく主家への忠義と、新たな主君への奉公、そして家族への情愛という、複雑に絡み合う感情を、彼は91年の生涯をかけて全うしたのである。
大道寺直英の遺産は、二つの側面を持つ。一つは、弘前藩の初期藩政において、その卓越した築城技術と政治手腕で藩の安定と発展に大きく貢献したという事実である。彼はまさに、津軽藩の礎を築いた一人であった。もう一つは、彼が創始した「大道寺隼人家」という家系の存続である。この家系は、幕末に至るまで弘前藩の重臣として藩政を支え続けた。
そして、その影響は明治維新後にも及ぶ。直英の子孫である大道寺繁禎(しげよし)は、明治時代に青森県会議長などを務める地域の有力者となり、第五十九国立銀行を創立した 1 。この銀行こそが、現在の株式会社青森銀行の前身である。戦国乱世を生き抜いた一人の武将が確立した家系が、数世紀の時を経て、近代日本の地方経済の基盤を築くに至ったという事実は、大道寺直英という人物の生涯が持つ、歴史の大きな連続性を見事に示している。彼の物語は、過去の遺産が形を変えて現代に生き続けていることの、力強い証なのである。