本報告書は、戦国時代の伊予国にその名を刻んだ武将、大野直之の生涯と、彼の活動が当時の伊予国に与えた影響について、現存する史料に基づき多角的に検証することを目的とする。大野直之は、河野氏の家臣でありながら、宇都宮豊綱の娘婿となり、後に地蔵嶽城主となるなど、複雑な立場にあった人物である。彼の生涯は、主家や兄に対する反乱、土佐の長宗我部元親との連携、そして最終的な没落といった波乱に満ちていたことが伝えられている 1 。
本報告書では、特に彼が繰り返した主家や縁戚への反逆、そして外部勢力との連携といった行動様式に着目する。これらの行動の背景にある動機や戦略、さらには戦国時代という特有の時代性が、彼の生涯にどのように影響したのかを浮き彫りにすることを目指す。大野直之の行動は、単に個人的な野心の発露に留まらず、当時の伊予国内部における勢力均衡の脆弱さや、土佐の長宗我部氏、中国地方の毛利氏といった外部勢力の介入が常態化していた戦国時代の伊予国の状況を映し出す鏡であったとも考えられる。彼の行動は、弱肉強食の時代における地方領主の生存戦略の一環であり、同時にその行動自体が更なる混乱を招く要因ともなっていた可能性について考察する。
大野直之は、伊予国喜多郡を拠点とした武将である。主家である河野氏に仕える一方で、地蔵嶽城主・宇都宮豊綱の娘婿となり、豊綱の没落後は自身が地蔵嶽城主の座についたとされる。しかし、その生涯は平穏なものではなく、たびたび主家や兄に背き、彼らとの戦いを繰り返したことが記録されている(ユーザー提供情報、 1 )。
本調査では、これらの基本的な情報に加え、『予陽河野家譜』などの文献史料や、関連する城郭の研究、同時代の伊予国や周辺地域の勢力図などを参照し、彼の生涯を可能な限り詳細に追跡する。大野直之の行動は、当時の伊予の政治的流動性と深く結びついており、彼の行動様式は、戦国時代の地方領主が生き残りをかけて繰り広げた戦略の一端を示すものと考えられる。
大野直之に関する史料は断片的であり、特に『予陽河野家譜』 1 や地元の伝承に依存する部分も少なくない。そのため、本報告書における記述には、多角的な検討と慎重な解釈が求められる。
なお、調査の過程で参照した資料の中には、舞踏家の大野一雄氏 5 や江戸時代の大野家の人物 6 に関するもの、豊臣氏の姓の由来 7 、複数の別時代・別人物の情報が混在する資料 8 、江戸時代の大洲藩主に関する記述 9 、大野氏の古代の出自に関する記述で戦国期とは直接関連が薄いもの 10 、赤穂浪士の大野九郎兵衛に関する記述 11 、現代の同窓会会報 12 、あるいは中国・日本の文献史料に関する一般的な記述 13 など、本報告書の対象である戦国武将・大野直之とは直接関係のないものが含まれていた。これらは本報告書の分析対象からは除外している。
以下に、大野直之の生涯における主要な出来事をまとめた年表を提示する。
年代(和暦・西暦) |
出来事 |
関連人物 |
関連城郭 |
主な情報源 |
不明 |
大除城主大野利直の六男として誕生。兄に直昌。 |
大野利直、大野直昌 |
大除城 |
1 |
不明 |
喜多郡菅田城主となる。菅田直行とも称す。 |
|
菅田城 |
1 |
不明 |
地蔵嶽城主宇都宮豊綱に見込まれ家老となり、娘婿となる。 |
宇都宮豊綱 |
地蔵嶽城 |
1 |
永禄11年(1568年)頃 |
宇都宮豊綱が河野・毛利連合軍に敗れ没落。 |
宇都宮豊綱、河野氏、毛利氏 |
地蔵嶽城 |
15 |
永禄11年(1568年)以降 |
宇都宮豊綱を陥れ、地蔵嶽城を奪取。 |
宇都宮豊綱 |
地蔵嶽城 |
1 |
天正元年(1573年)3月 |
長宗我部元親と通じ、河野氏に反乱。河野軍の攻撃により地蔵嶽城を追われ逃亡。その後、河野氏与党の総攻撃に敗れ降伏、兄・直昌に預けられる。 |
長宗我部元親、河野氏、二神通範、大野直昌 |
地蔵嶽城 |
3 |
天正2年(1574年) |
長宗我部元親の手引きで兄・直昌を笹ヶ峠に誘い出し、決戦。直昌配下の勇将多数を討死させる。 |
大野直昌、長宗我部元親 |
|
1 |
天正7年(1579年) |
再び長宗我部元親に通じ河野氏に謀反。地蔵嶽城を追われ、鴇ヶ森城(花瀬城)に立てこもるが、毛利氏の援軍を得た河野軍に敗北。この戦いで河野方の忽那通著らが討死。 |
長宗我部元親、河野氏、毛利氏、忽那通著 |
地蔵嶽城、鴇ヶ森城(花瀬城) |
17 |
天正13年(1585年) |
豊臣秀吉の四国征伐。小早川隆景軍の伊予侵攻に対し抵抗するも敗北。最期については諸説あり(戦死、女装脱出、家臣による刺殺、捕縛など)。 |
豊臣秀吉、小早川隆景、長宗我部元親 |
地蔵嶽城 |
18 |
大野直之が属する大野氏は、伊予国喜多郡を本拠とした一族であった 1 。『大野系図』によると、大野氏は土居と称し、小田土居城に拠ったと記されており、この記述は比較的信頼性が高いものと考えられている 21 。戦国時代には、喜多郡立石(現在の小田町)にも大野氏の一族である立石氏が存在したことが確認されている 21 。これらの情報から、大野氏は伊予国において古くから活動していた在地領主の一つであった可能性がうかがえる。しかし、伊予国の守護であった河野氏や、同じく喜多郡に勢力を持っていた宇都宮氏といった、より大きな勢力の支配下、あるいは強い影響下にある国人領主という立場であったと推測される。これは、戦国時代の伊予国における多くの国人領主が置かれていた状況と軌を一にするものであり 22 、大野氏もまた、そうした複雑な力関係の中で活動していたと考えられる。
大野直之には、直昌という兄がいた。直之は直昌よりも四歳年少であったと伝えられている 1 。直昌は大除城主であり 1 、当初は兄弟として行動を共にしていた時期もあったと考えられるが、後に直之は兄である直昌に対しても反旗を翻すことになる 1 。この兄弟間の対立は、単なる個人的な確執に留まらず、家督や勢力範囲を巡る深刻な争いであった可能性が高い。戦国時代においては、兄弟間での家督争いや勢力争いは決して珍しいことではなく、しばしば外部勢力がその対立に介入し、事態を一層複雑化させることもあった。直之と直昌のケースにおいても、後に詳述するように、長宗我部氏などの外部勢力がこの兄弟間の不和を利用、あるいは助長した可能性が考えられる。
大野直之は、喜多郡菅田(現在の愛媛県大洲市菅田)の菅田城主となり、一時は菅田直行とも名乗っていた 1 。この菅田城は、築城年代こそ明らかではないものの、戦国時代に大野直之によって築かれたと伝えられている 2 。戦国武将にとって、城郭は自らの勢力を保持し、拡大していくための軍事的な拠点であると同時に、地域支配の象徴でもあった。直之による菅田城の築城、あるいは拠点化は、彼が地域において自立的な軍事力を確保し、独自の勢力基盤を確立しようとした動きの表れであり、その後の彼の活発な、そして時には過激な行動の基盤となったと言えるだろう。
大野直之の初期のキャリアにおいて重要な転機となったのは、地蔵嶽城(後の大洲城)主であった宇都宮豊綱との関係である。直之は豊綱に見込まれてその家臣となり、やがて家老の地位にまで昇った。さらに、豊綱の娘を娶り、娘婿という立場をも手に入れた 1 。この時期、彼は一時的に菅田直之と名乗っていたともされる 2 。
宇都宮豊綱は、伊予国における有力な戦国領主の一人であったが、その立場は決して安泰なものではなかった。伊予国内では、守護である河野氏や、南予の雄である西園寺氏との間で絶えず緊張関係にあり 22 、さらには中国地方の毛利氏の勢力伸長に伴う介入も受けるなど、常に複雑な政治的・軍事的圧力に晒されていた。特に、永禄11年(1568年)には、毛利氏の援軍を得た河野氏との戦いに敗れ、地蔵嶽城を一時的に失うなど、その勢力は大きく揺らいでいた 15 。
このような状況下で、直之が宇都宮豊綱の家老となり、さらに娘婿という極めて近い関係を築いたことは、彼にとって大きな飛躍の機会であったことは間違いない。しかし、その後の彼の行動を鑑みるに、これは単なる主君への忠誠心や、縁戚関係の構築による安定を求めた結果とは言い難い側面がある。むしろ、豊綱の勢力に取り入ることでその内部事情を把握し、いずれはその実権を掌握しようとする戦略的な行動であった可能性が濃厚である。豊綱自身の勢力が不安定であったこと、そしてその立場が盤石でなかったことこそが、野心的な直之にとって、自らの勢力を伸張させるための好機と映ったのかもしれない。この主君であり舅でもある豊綱への接近は、後の彼の劇的な裏切り行為を予見させる、計算された布石であったと解釈することも可能であろう。
大野直之の人生において、大きな転換点となったのが、舅であり主君でもあった宇都宮豊綱の没落と、それに続く地蔵嶽城の奪取である。宇都宮豊綱は、前述の通り、河野・毛利連合軍との戦いに敗れるなどして勢力を弱体化させていた 15 。史料によれば、豊綱が実権を失った後、あるいは没落した後、大野直之は豊綱を陥れ、その居城であった地蔵嶽城(後の大洲城)を奪ったとされている 1 。この地蔵嶽城は、喜多郡における要衝であり、これを手中に収めることは、直之にとって自身の勢力基盤を飛躍的に強化することを意味した。
宇都宮豊綱の最期については、天正13年(1585年)に備後国三原(現在の広島県三原市)で失意のうちに病没し、これにより伊予宇都宮氏は名実ともに滅亡したと伝えられている 16 。豊綱の勢力が弱体化し、最終的に彼が伊予の地を追われたという状況は、直之にとって地蔵嶽城を奪取するための絶好の機会となった。この行為は、単なる個人的な裏切りという側面だけでなく、戦国時代特有の下剋上の一例であり、伊予国内における権力の空白を巧みに突いた、計算された行動であったと考えられる。直之の野心と、機を見るに敏な性格が如実に表れた出来事と言えよう。
地蔵嶽城を奪取し、喜多郡における有力な勢力としての地位を確立しつつあった大野直之であるが、彼の野心はそれに留まらなかった。彼は、当時四国統一を目指して破竹の勢いでその影響力を拡大していた土佐国の長宗我部元親と連携する道を選ぶ 1 。長宗我部元親は、土佐を統一した後、阿波、讃岐へとその勢力を伸ばし、伊予侵攻も本格化させていた 23 。
直之が長宗我部元親と手を結んだ背景には、複雑な戦略的計算があったと考えられる。地蔵嶽城を奪取したとはいえ、直之の支配基盤はまだ盤石とは言えず、伊予の守護である河野氏や、その背後にいる中国地方の雄・毛利氏といった強大な勢力からの反撃は必至であった。単独ではこれらの勢力に対抗することが困難であると判断した直之にとって、当時四国で最も勢いがあった長宗我部氏という外部の有力な後ろ盾を得ることは、自らの地位を保全し、さらなる勢力拡大を図る上で極めて重要な意味を持っていた。
一方、長宗我部元親にとっても、伊予国内に大野直之のような協力者を得ることは、伊予侵攻をより有利に進める上で大きなメリットがあった。在地領主の内応や協力は、外部からの侵攻軍にとって、地理的な案内や兵站の確保、さらには敵対勢力の分断など、多方面にわたって有効であったからである。このように、大野直之と長宗我部元親の連携は、両者の利害が一致した結果として成立したものであり、戦国時代の地方領主が生き残りと勢力拡大のために、より大きな勢力と結びつくという典型的な外交戦略の一環であったと言える。この連携は、直之のその後の行動をより大胆なものにし、伊予国内の情勢を一層流動化させる要因となった。
長宗我部元親という強力な後ろ盾を得た大野直之の行動は、ますます大胆さを増していく。その矛先は、実の兄である大除城主・大野直昌、そして主家である河野氏に向けられた。『予陽河野家譜』によれば、天正2年(1574年)、直之は長宗我部元親率いる土佐勢を手引きし、兄・直昌を伊予・土佐国境の笹ヶ峠に誘い出した。そして、そこで一大決戦を行わせ、直昌配下の勇将七十余人を討死させたという衝撃的な記述が残されている 1 。この戦いの詳細については、地元の庄屋文書などにも記録が見られるとされ 1 、その信憑性は比較的高いものと考えられる。
この笹ヶ峠の戦いは、直之にとって、単に兄の勢力を削ぐという以上の意味を持っていた。それは、兄や主家といった旧来の秩序や権威を完全に否定し、自らの実力でのし上がろうとする強い意志を内外に示した象徴的な出来事であった。主家である河野氏に対する明確な反逆行為であり、これにより直之と河野氏との対立は決定的なものとなった。この冷徹とも言える行動は、彼の野心の深さと、目的のためには手段を選ばない非情さを示している。また、長宗我部氏という強力な後ろ盾を得たことによる自信の表れとも解釈できるだろう。この事件を境に、大野直之は伊予国内における「危険な存在」として、河野氏にとって最大の脅威の一つとなっていったのである。
大野直之の反骨精神と野心は、笹ヶ峠の戦い以前にも顕著であった。天正元年(1573年)3月、彼は土佐の長宗我部元親と通じ、主家である河野氏に対して反旗を翻した 3 。これに対し、河野氏は直ちに討伐軍を派遣し、二神通範らが直之の拠点である地蔵嶽城を攻撃した。この戦いで地蔵嶽城は陥落し、直之は城を捨てて逃亡したと記録されている 3 。
この騒乱に際し、河野氏側は単独での鎮圧が困難と判断したのか、安芸の毛利氏に援軍を要請した。毛利氏の支援を得た河野氏与党は総攻撃をかけ、最終的に大野直之は敗れて降伏した 3 。降伏後の処遇については、兄である大野直昌に預けられたとされる 18 。
この最初の反乱とその失敗は、直之にとって大きな教訓となった可能性がある。長宗我部氏の支援があったとはいえ、それが限定的であったか、あるいは毛利氏の支援を受けた河野氏連合の力がそれを上回っていたため、単独に近い形ではこれらの勢力に対抗することが困難であることを痛感したかもしれない。しかし、この敗北によって彼の野心が完全に潰えたわけではなかった。むしろ、この経験が彼の戦略をより周到なものにし、再起の機会を虎視眈々と窺う潜伏期間へと繋がったと考えることもできる。彼の不屈の精神、あるいは執拗なまでの野心は、この時点ではまだ健在であった。
最初の反乱から約6年後の天正7年(1579年)、大野直之は再び長宗我部元親と通じ、河野氏に対して謀反を起こした 4 。この行動は、彼の権力への執着がいかに強固なものであったか、そして長宗我部氏との連携が依然として継続、あるいは深化していたことを示している。
河野氏は再び鎮圧軍を派遣したが、この戦いは熾烈を極めた。特に、花瀬城(鴇ヶ森城とも呼ばれる)を巡る攻防戦では、河野方の有力武将であった忽那通著らが討死するという大きな損害を被った 19 。この事実は、直之の軍事的力量や、彼に与する勢力が決して侮れないものであったことを物語っている。
しかし、戦局は最終的に直之にとって不利に展開する。地蔵嶽城を追われた直之は、鴇ヶ森城(花瀬城)に立てこもって抵抗を試みたが、またしても毛利氏の援軍を得た河野氏の攻撃によって敗れ去った 17 。
この二度目の反乱と敗北は、当時の伊予国における勢力図の力学を如実に示している。大野直之のような在地領主が、長宗我部氏という外部勢力と結びついて既存の秩序に挑戦しようとしても、河野氏と毛利氏という強固な同盟関係がそれを阻むという構図である。伊予国の覇権争いは、単に国内の勢力間の争いに留まらず、土佐の長宗我部氏と中国地方の毛利氏という二大勢力の代理戦争の様相を呈していたと言える。大野直之は、その渦中で翻弄されつつも、自らの野望を追求し続けた存在であり、彼の行動は伊予の戦乱を一層激化させる要因となった。
大野直之の度重なる反乱は、河野氏にとって深刻な脅威であった。河野氏はその都度討伐軍を派遣したが、長宗我部氏の支援を受ける直之にてこずることが多く、単独での鎮圧が困難な状況がしばしば見られた。その結果、河野氏は中国地方の毛利氏に援軍を要請することが常態化していった 3 。
毛利氏が河野氏を支援した背景には、いくつかの戦略的理由があった。第一に、瀬戸内海の制海権を維持するためには、伊予国における親毛利勢力である河野氏の安定が不可欠であった。第二に、四国において急速に勢力を拡大する長宗我部元親の脅威に対抗するため、河野氏を支援することで長宗我部氏の伊予への進出を食い止める必要があった 22 。
皮肉なことに、大野直之の存在と彼の反乱行為は、結果的に毛利氏の伊予への影響力を強める一因となった。河野氏が自力で直之を抑えきれない状況が続くことで、毛利氏の軍事的・政治的介入が常態化し、伊予の政治情勢はより一層、外部勢力の意向に左右される複雑なものへと変容していった。大野直之は、自らの野心のために行動した結果、意図せずして伊予国におけるより大きな勢力間のパワーバランスに影響を与える存在となっていたのである。
天正13年(1585年)、天下統一を目指す羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)による四国征伐が開始された 23 。この大規模な軍事行動は、伊予国にも及び、秀吉の命を受けた小早川隆景率いる大軍が伊予に侵攻した 4 。この中央からの圧倒的な軍事力の前に、これまで伊予国内で繰り広げられてきた勢力争いは、新たな局面を迎えることとなる。
この四国平定戦において、大野直之がどのような動向を示したかについては、史料によってやや記述に差異が見られる。長年にわたり連携してきた長宗我部元親が秀吉軍の主たる攻撃対象であったことから、直之も長宗我部方として抵抗したと考えるのが自然である。実際に、ある史料によれば、主君であった河野通直が秀吉軍に降伏した後も、大野直之は頑強に抵抗を続けたとされている 18 。
一方で、四国平定戦直前の時期の動向として、大野直之が先陣となって地蔵ヶ嶽城の河野氏守備兵を追い払い城主となり、その後、河野氏と和睦したという記述も存在する 30 。この情報が事実であれば、四国平定という未曾有の事態を前に、一時的に河野氏との間で何らかの妥協が成立した可能性も考えられる。しかし、最終的には豊臣軍と敵対する立場を取ったことは、その後の経緯からほぼ確実であると言える。
長宗我部氏との連携を生命線としてきた直之にとって、秀吉による四国平定は、その戦略の根幹を揺るがすものであった。伊予の守護であった河野氏が比較的早い段階で秀吉軍に降伏する中 23 、もし直之が最後まで抵抗を続けたとすれば、それは彼の最後まで諦めない不屈の精神を示すと同時に、もはや後がないという絶望的な状況認識の表れであったのかもしれない。最大の支援者であった長宗我部氏の敗北 27 は、直之にとって孤立無援の戦いを強いるものであった可能性が高い。
最終的に、大野直之は豊臣秀吉方の小早川隆景・吉川元春連合軍の前に敗れ去った 15 。『予陽河野家譜』には、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐軍の将である小早川隆景が喜多郡内に進軍した際、大野直之は曽根宣高と共に捕えられたと記されている 4 。
この結末は、ある種の皮肉を伴っている。かつて、大野直之が河野氏に反乱を起こした際には、河野氏を支援する形で毛利氏(小早川隆景はその一翼を担う武将)が介入し、直之の野望を幾度も打ち砕いてきた。そして今、その毛利氏の一部である小早川隆景が、豊臣政権という新たな中央権力の下で四国平定軍の中核を担い、最終的に大野直之を打ち破ったのである。これは、戦国時代末期における勢力図の大きな転換と、地方勢力が中央の巨大な力に飲み込まれていく過程を象徴する出来事であったと言えるだろう。
大野直之の最期については、史料によって記述が異なり、複数の説が存在している。これは、彼の没落が戦国末期の混乱の中で起こり、公式な記録として統一されるよりも、むしろ様々な伝承として語り継がれる側面が強かったことを示唆しているのかもしれない。
これらの諸説が入り乱れていること自体が、大野直之という人物の最期に関する歴史的評価の難しさを物語っている。特に女装脱出説や家臣による刺殺説のような劇的な結末は、彼の波乱に満ちた生涯を象徴するものとして、人々の記憶に残りやすかったのかもしれない。これらの異説の存在は、彼の人物像が後世において多様に解釈され、語り継がれてきた証左とも言えるだろう。家臣による刺殺説に見られる「功績のあった家老を手打ちにしたため」という理由は、彼の非情な一面や、末期の追い詰められた状況下での猜疑心が露呈した結果である可能性も考えられる。
現存する史料や伝承から、大野直之の人物像についていくつかの側面をうかがい知ることができる。
まず、彼の 勇猛さ については、「勇猛を以て聞こえ」 1 と評されるように、武将としての武勇に優れていたことが示唆される。度重なる戦いに身を投じ、時には自ら先陣を切ることもあったのかもしれない。
一方で、彼の行動は 権謀術数 に長けていたことを物語っている。主家である河野氏、舅である宇都宮豊綱、さらには実の兄である大野直昌に対しても容赦なく反旗を翻し 1 、自らの勢力拡大のためには手段を選ばない冷徹さを持っていた。また、土佐の長宗我部元親と通じるなど 1 、時勢を読み、有利な勢力と結びつく機を見るに敏な戦略眼も持ち合わせていた。
さらに、彼の 執拗さ、あるいは不屈の精神 も特筆すべき点である。天正元年の反乱に失敗し、一度は降伏したものの 3 、その後も再起を図り、天正7年には再び大規模な反乱を起こしている 18 。この粘り強さが、彼を伊予の戦乱における一時期の重要人物たらしめた要因の一つであろう。
しかし、その一方で、彼の 求心力には限界があった 可能性も否定できない。最終的に家臣に刺殺されたという説 32 が事実であるとすれば、彼の非情な性格や、度重なる戦乱による家臣たちの疲弊が、内部からの離反を招いたことも考えられる。
これらの要素を総合すると、大野直之は、戦国時代という実力主義の世を生き抜くために、武勇と知略、そして非情さをも併せ持った、典型的な戦国時代の梟雄(きょうゆう)の一人であったと言える。彼の行動は、単に個人の資質に起因するだけでなく、伊予国という限定された地域で、毛利、長宗我部、そして最終的には豊臣といった強大な外部勢力の狭間で、生き残りをかけて必死に足掻いた結果とも解釈できる。彼が用いた戦略、すなわち下剋上や合従連衡は、弱者が強者に対抗するための常套手段であったが、最終的にはより大きな時代の趨勢、すなわち中央集権化への流れに飲み込まれていったのである。
大野直之の生涯にわたる活動は、戦国時代の伊予国の歴史に小さからぬ影響を与えた。
第一に、彼の度重なる反乱は、伊予国内の政治的混乱を助長し、守護であった河野氏の支配体制を大きく揺るがした。河野氏は直之の鎮圧に多くの労力を割かざるを得ず、結果としてその勢力を弱体化させる一因となった可能性がある。
第二に、直之が長宗我部元親と連携したことは、元親の伊予侵攻を容易にする一助となった側面がある。内部に協力者を得ることで、長宗我部氏の伊予への進出はよりスムーズに進んだと考えられ、伊予の勢力図が大きく塗り替えられるきっかけの一つとなった。
第三に、彼の活動は、喜多郡の要衝である地蔵嶽城(後の大洲城)の争奪史と深く結びついている 2 。この城を巡る攻防は、そのまま当時の伊予における勢力争いの縮図であり、直之はその中心人物の一人として、この地域の戦国史において無視できない存在となっている。
総じて、大野直之は、伊予国の統一を妨げ、結果として外部勢力の介入を招きやすくした「混乱の種」としての役割を担ったと評価できるかもしれない。彼自身の野望は最終的に潰えたが、その行動は伊予の勢力図を著しく流動化させ、豊臣秀吉による四国平定へと繋がる大きな歴史の流れの中で、一つの画期をなす出来事に深く関与した。彼の存在は、戦国時代の伊予が、もはや中央の政局と無縁ではいられなかったことを示す好例であり、地方の動揺が天下統一という大きなうねりへと収斂していく過程の一断面を映し出している。
大野直之の生涯は、戦国時代の伊予国という、中央から見れば一地方の限定された舞台で、野心と権謀術数を駆使して成り上がりを図った武将の典型であったと言える。主家や縁者への裏切りを重ね、外部勢力と巧みに結びつくことで一時的に勢力を拡大したが、それは同時に周囲との軋轢を深め、より大きな時代のうねり、すなわち豊臣秀吉による天下統一事業の中で最終的には没落へと至った。
彼の行動は、当時の伊予国が置かれていた政治的流動性と、土佐の長宗我部氏や中国地方の毛利氏といった外部勢力の影響がいかに強かったかを象徴している。直之は、これらの勢力間の力関係を巧みに利用しようとしたが、同時にそれらの勢力に翻弄される存在でもあった。その意味で、彼の生涯は、戦国乱世の厳しさと、その中で生き残りをかけて戦った地方武将の悲哀をも物語っている。
大野直之に関する研究は、史料の制約もあり、未だ十分とは言えない。今後の研究課題としては、以下のような点が挙げられる。
第一に、大野直之に関する一次史料のさらなる発掘と検証が求められる。特に、『予陽河野家譜』以外の同時代史料や、後代に編纂されたものであっても信頼性の高い史料における記述を比較検討することで、より客観的な直之像に迫ることができる可能性がある。
第二に、地元の伝承や地名に残る大野直之の痕跡の調査も重要である。例えば、大洲市に現存するとされる直之の祠 32 のようなものは、彼が地域史の中でどのように記憶され、語り継がれてきたかを探る上で貴重な手がかりとなる。
第三に、彼の行動が、同時代の他の伊予国人領主たちの動向と比較して、どのような共通点や特異性を持っていたのか、より広範な視点からの分析が必要である。これにより、大野直之という個人の特質だけでなく、戦国時代の伊予国における国人層の一般的な行動様式や、その中での彼の位置づけを明らかにすることができるだろう。
これらの研究を通じて、大野直之という一武将の生涯をより深く理解するとともに、戦国時代の伊予国の地域史、さらには日本全体の戦国史の解明に貢献することが期待される。