戦国時代の日本列島は、各地で群雄が割拠し、下克上が常態化する激動の時代であった。その中にあって、関東地方の北東部に位置する下野国(現在の栃木県)は、常陸の佐竹氏、南下野の宇都宮氏、そして関東の覇権をうかがう相模の後北条氏といった大勢力に囲まれた、地政学的に極めて不安定な地域であった 1 。これらの大国は、下野国を自らの勢力圏に組み込むべく、絶えず政治的・軍事的な圧力を加えており、国内の諸豪族は常に離合集散を繰り返すことを余儀なくされていた。
この下野国那須郡を支配していたのが、那須与一の末裔と伝わる名門・那須氏である 2 。しかし、戦国期の那須氏の統治体制は、他の戦国大名とは一線を画す特異な構造を有していた。それは「那須七騎(那須七党)」と呼ばれる武家連合組織の存在である 9 。那須七騎とは、主家である那須氏に加え、その一族である芦野氏・伊王野氏・千本氏・福原氏、そして重臣である大関氏・大田原氏の七家を指す 9 。彼らは那須氏の家臣という立場にありながら、それぞれが独立した領地と軍事力を保持し、極めて強い自立性を有していた 2 。
この連合体的な統治構造は、那須氏が周辺大国の侵攻に対して領内諸氏の力を結集して対抗する上では有効に機能した。しかしその一方で、主家の権威が絶対的ではなく、家臣間の紛争を強力に調停・鎮圧する能力に欠けるという、構造的な脆弱性を内包していた。有力家臣同士の対立は、主家の統制を離れて先鋭化しやすく、一度生じた亀裂は容易に修復しがたいものとなる。
本報告書で詳述する大関増次の悲劇は、まさにこの那須氏の統治構造の脆弱性が生んだ事件であった。彼の死は、単なる個人的な怨恨に端を発するものではなく、那須七騎という枠組みの中で繰り広げられた有力家臣、すなわち大関氏と大田原氏の熾烈な勢力争いの帰結であった。増次の短い生涯と非業の死は、下野国那須地方の戦国史における一つの転換点となり、その後の勢力図を大きく塗り替えることになるのである。
大関増次は、永正15年(1518年)、那須七騎の重鎮であった大関宗増の嫡男として生を受けた 12 。通称は弥五郎と伝わる 12 。父・宗増は、主家・那須氏の再統一に功を挙げた実力者であったが、その一方で野心家として知られ、同僚を讒言によって陥れるなど、那須家中で専横を極めた人物であった 15 。この父の強引な権勢拡大策が、結果として息子である増次の運命に暗い影を落とすことになる。
項目 |
詳細 |
典拠 |
姓名 |
大関 増次(おおぜき ますつぐ) |
12 |
生誕 |
永正15年(1518年) |
12 |
死没 |
天文11年12月20日(1543年1月25日) |
12 |
享年 |
25 |
12 |
別名 |
弥五郎(やごろう) |
12 |
戒名 |
久遠院殿超山道宗大居士 |
12 |
父 |
大関 宗増(おおぜき むねます) |
12 |
氏族 |
大関氏(那須七騎の一つ) |
9 |
主君 |
那須 資房(なす すけふさ) |
12 |
居城 |
白旗城(しらはたじょう) |
12 |
増次が城主を務めた白旗城は、現在の栃木県大田原市(旧黒羽町)に位置する山城である 12 。この城は応永年間(1394年~1428年)に大関増清によって築かれたとされ、湯坂川に沿って伸びる舌状丘陵の先端に位置し、複数の曲輪を空堀で区画した連郭式の構造を持つ、典型的な中世の防御拠点であった 17 。大関氏の居城は代々変遷したが、父・宗増の代には一時的に大関城に移っていたものを、増次自身が白旗城を改修し、再び本拠としていた 17 。この事実は、増次が単に父の跡を継いだだけの貴公子ではなく、自らの拠点に主体的に手を入れる、気概ある若き城主であったことを示唆している。
大関氏の出自については、二つの説が存在する。大関家に伝わる系図や江戸時代後期に編纂された『創垂可継』などでは、武蔵七党の一つである丹党の流れを汲む丹治姓と称している 12 。しかし、近年の郷土史研究では、本来は常陸国(現在の茨城県)の小栗氏から分かれた平姓であり、丹治姓とするのは、後に大田原氏から高増が養子として入った際に、家の権威を高めるために系図を修飾した「作為」であるとの見方が有力視されている 15 。戦国の世にあって、自家の出自をより権威あるものに見せるための系図操作は珍しいことではなく、大関氏のルーツに関する議論は、当時の武家のアイデンティティ形成の一端を垣間見せる興味深い事例と言えるだろう。
大関増次の悲劇の根源は、彼が生まれた永正15年(1518年)に、父・大関宗増が引き起こした一つの事件に遡る。この年、宗増は同僚であり、同じく那須七騎の重鎮であった大田原資清の才覚と、主君・那須資房からの厚い信頼を妬み、福原氏と結託して資清を讒言によって罪に陥れたのである 16 。
資清は智勇に優れた武将として知られ、那須氏の家督争いにおいても活躍し、主君からの信任も厚かった 21 。宗増にとって、その存在は自らの権勢を確立する上で最大の障害と映ったのであろう。宗増は「資清に謀反の疑いあり」と主君に迫真の演技で訴え、ついに資清を那須の地から追放することに成功する 23 。これにより、宗増は那須家中で並ぶ者のない権力を手中に収め、専横を極めるに至った 16 。
一方、故郷を追われた大田原資清の苦難は、ここから始まった。当時22歳であった資清は、まず塩谷郡の長興寺にいた実兄・麟道和尚を頼り、そこで出家して「永存」と号した 24 。その後、兄の勧めもあり、俗世から離れて修行に打ち込むべく、曹洞宗の大本山である越前国(現在の福井県)の永平寺へと向かった 21 。那須を追われてから実に24年という長きにわたる流浪の生活であった 26 。
しかし、資清は単に雌伏していただけではなかった。彼の運命を大きく変える出会いが、この流浪の地・越前で待っていた。ある日、永平寺を参詣に訪れた越前の太守・朝倉孝景が、僧侶の中にいる資清の非凡な風格に目を留めたのである 24 。孝景は資清と語り合ううちにその人物と見識、特に兵法に関する深い造詣に感銘を受け、両者は肝胆相照らす仲となった 24 。
この朝倉孝景との邂逅は、資清の復讐計画を、単なる一個人の怨念によるものから、大国の軍事支援を背景に持つ政治的・軍事的な事業へと昇華させる決定的な転換点となった。資清は単に不遇をかこっていたのではなく、亡命先で有力な政治的パトロンを獲得するという、卓越した外交能力を発揮したのである。やがて孝景は資清に対し、「兵を貸すゆえ、速やかに本国に帰りて復仇を計れ」と、騎馬50、歩卒200からなる軍勢の援助を約束する 24 。24年の歳月を経て、大田原資清は周到な準備と強力な後ろ盾を得て、父の代からの恨みを晴らすべく、那須の地へと帰還するのである。そして、その復讐の刃が最初に向けられたのが、宿敵・宗増のただ一人の嫡男、大関増次であった。
天文11年12月20日(西暦1543年1月25日)、大関増次にとって運命の日が訪れた 12 。この日、増次は少数の供だけを連れて鷹狩りに出かけていた。
戦国武将にとって鷹狩りは、単なる娯楽やスポーツではなかった。それは、武芸の鍛錬、領内の地形や民情の視察、そして自らの権威を誇示するための重要な行事という、複数の意味合いを持つものであった 29 。広大な領地を馬で駆け巡ることは、平時における一種の軍事演習であり、領地の隅々までを自らの目で確かめる統治行為でもあった。しかし、この武将としての日常的かつ権威の象徴であった行為が、大田原資清によって致命的な弱点へと転化させられることになる。城から出て、防御が手薄になるこの瞬間こそ、奇襲をかける絶好の機会であったからだ 12 。
資清はこの好機を逃さなかった。増次が鷹狩りに出たとの情報を掴むや、かねてより準備していた兵を率いて、狩場であった金丸山へと急行した 26 。そして、狩りに興じ油断していた増次の一行に、周到に計画された奇襲を仕掛けたのである。
不意を突かれた増次勢は、奮戦するも多勢に無勢であった。増次は必死に抗戦し、居城である白旗城を目指して落ち延びようとしたが、那須郡川西ノ邑石井沢(現在の栃木県大田原市黒羽向町)の地でついに追い詰められた 13 。この地は那珂川の河岸段丘が広がる浸食地形で、追われる者にとっては逃げ場のない場所であったのかもしれない 32 。もはやこれまでと覚悟を決めた増次は、忠臣であった大沼弾正泰致(史料によっては泰宗とも)、そして五月女越後増行と共に、潔く自刃して果てた 13 。享年、わずか25。あまりにも短い生涯であった。
陣営 |
主要人物 |
役割・結末 |
典拠 |
大関方 |
大関 増次 |
白旗城主。鷹狩り中に奇襲を受け、石井沢にて自刃。 |
12 |
|
大沼 弾正 泰致(泰宗) |
増次の重臣。主君と共に殉死。 |
13 |
|
五月女 越後 増行 |
増次の重臣。主君と共に殉死。 |
13 |
大田原方 |
大田原 資清(永存) |
首謀者。24年来の恨みを晴らし、勝利を収める。 |
12 |
|
(朝倉氏援軍、旧臣など) |
資清の指揮下で奇襲を実行。 |
24 |
この石井沢での一戦は、大関増次という一人の若き武将の命を奪っただけでなく、那須地方の勢力図を根底から覆す、大きな歴史の転換点となったのである。
大関増次の死は、大関家にとって破滅的な打撃となった。なぜなら、彼には嫡子がおらず、その死は当主の血統が断絶することを意味したからである 14 。これは、家の存続を至上命題とする戦国武家にとって、最大の危機に他ならなかった。すでに隠居の身であった父・宗増に、宿敵・大田原資清の勢いを止める力はもはや残されていなかった 18 。
万策尽きた宗増は、資清と和睦する道を選ばざるを得なかった。そして、その和睦の条件として突きつけられたのが、資清の長男・熊満(後の高増)を、亡き増次の名跡を継ぐ養嗣子として迎え入れ、大関家の家督を譲るというものであった 12 。これは、表向きは和睦と養子縁組という形を取りながらも、実質的には大関家が資清の巧みな政略によって乗っ取られたことを意味していた 18 。資清はこの成功に飽き足らず、次男を福原氏の養子に送り込むなど、那須七騎内における自らの支配力を一気に拡大させ、那須家中で最大の権力者へと成り上がったのである 21 。
ここに、大関増次の死がもたらした歴史の皮肉な逆説が浮かび上がる。彼の悲劇的な死は、大関氏の直接の血脈を絶つという、一族にとって最大の悲劇であった。しかし、それは同時に、より優れた政治的・軍事的才覚を持つ大田原氏の血、すなわち大関高増を当主として迎える結果をもたらした。
この養子・高増は、父・資清の智謀と自らの武勇を兼ね備えた傑物であった。『黒羽町誌』は高増を「人となり剛勇大胆、かつ洞察力もある武将」と評している 38 。彼は天文15年(1546年)の五月女坂の戦いで宇都宮俊綱を討ち取る武功を挙げるなど、早くからその器量の大きさを示した 14 。その後も、主家である那須氏と対立して常陸の佐竹氏と結んだかと思えば、和睦して那須家中の安定を図るなど、硬軟織り交ぜた巧みな外交戦略を展開した 1 。
そして、高増の真価が最も発揮されたのが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の時であった。主家・那須氏が北条方につくか豊臣方につくか日和見を続ける中、高増は那須氏を見限り、いち早く息子の晴増と共に秀吉のもとに参陣した 1 。この的確な情勢判断により、大関氏は秀吉から1万3000石の所領を安堵され、独立した大名としての地位を公的に認められたのである。一方で、参陣が遅れた主家・那須氏は改易の憂き目に遭った。
もし大関増次が生き永らえ、父・宗増の路線を継承していたならば、このような大胆かつ的確な政治判断が下せたかは大いに疑問である。結果として、増次の死という「破壊」が、大関家が戦国の動乱を生き残り、近世大名・黒羽藩として存続するための「再生」と「発展」の礎を築いた。一人の若者の悲劇が、皮肉にも一族を繁栄へと導く道を開いたのである。
大関増次の生涯は25年という短さで幕を閉じたが、その記憶は故郷の地に深く刻まれ、後世まで語り継がれることとなった。
増次の墓は、彼が自刃した終焉の地、石井沢に築かれた 14 。黒羽藩の公式史書である『創垂可継』によれば、当初は大きな榎の木がその墓標とされていたという 34 。非業の死を遂げた者の墓は、時として人々に忘れ去られることもあるが、増次の場合はそうではなかった。時代が下った江戸後期の文化9年(1812年)、黒羽藩の第11代藩主であった大関増業が、この墓域を整備し、四面に垣を巡らせ、石碑を建立したのである 34 。この事実は、増次の悲劇が単なる過去の出来事としてではなく、藩の歴史の重要な一幕として、後継の藩主たちによって大切に継承されていたことを物語っている。現在、大田原市指定史跡となっているその墓所には、増次の供養塔である宝篋印塔を中心に、主君に殉じた忠臣・五月女越後増行と大沼弾正泰宗の五輪塔も並んでおり、主従の固いきずなが後世にまで伝えられている 34 。
さらに、増次の存在は単なる歴史上の人物に留まらなかった。彼は死後、神として祀られることになる。『旧黒羽藩主大関氏来歴』によれば、増次はまずその非業の死を遂げたことから祟りをなす「荒人神」として恐れられ、後に「丹性明神」と改められて祀られたという 14 。これは、強大な力を持つ御霊を神として鎮め、その力を地域の守護へと転化させようとする、日本古来の信仰の形である。
注目すべきは、こうした増次の顕彰を主導したのが、他ならぬ養子・大関高増とその子孫であったという点である。高増は、自らが新たに築いた黒羽城下の菩提寺・大雄寺において、増次を「中興開基」として位置づけた 14 。「中興開基」とは、一度衰えた寺院などを再興した功労者を指す尊称である。高増は、自らの家系の始祖となる前の、悲劇の当主を藩の公式な歴史の中心に据えたのである。
この一連の行為は、単なる慰霊や追悼に留まるものではない。それは、大関家を乗っ取った「侵略者の子」ではなく、大関家の正統な歴史と伝統を受け継ぎ、さらに発展させた「正統な後継者」であるという物語を構築するための、高度な政治的・文化的戦略であった。悲劇の先代を手厚く祀ることで、高増は旧来の家臣や領民の人心を収攬し、自らの支配の正当性を内外に示そうとしたのである。増次の記憶は、こうして後の支配者によって戦略的に再生産され、藩の歴史の中に確固たる地位を占めることになった。
大関増次は、父の代に蒔かれた対立の種が、自らの代で悲劇的な死という形で刈り取られた、戦国の非情さを体現する人物であった。しかし、彼の死は那須の勢力図を塗り替え、結果として大関家が近世大名へと飛躍する直接的な契機となった。自らの意図とは無関係に、巨大な歴史の歯車を動かす存在となった若き武将・大関増次。その短い生涯は、戦国という時代の複雑な因果と、悲劇の中から新たな秩序が生まれる歴史のダイナミズムを、今に伝えている。