戦国期出羽の外交官、大高光忠に関する総合的考察
0. はじめに
本報告書は、戦国時代に出羽国で活動した安東氏の家臣、大高光忠という人物に焦点を当てる。大高光忠に関する研究は、安東氏そのものの歴史的変遷、すなわち檜山・湊両家の並立と統合、そして近世大名秋田氏への移行といった複雑な過程を理解する上で、重要な側面を担う家臣団、特に外交を担った人物の動向を明らかにする試みである 1 。
大高光忠に関する現存史料は断片的であり、特に「大高筑前」守とされる人物との関係性の解明は、本報告書における主要な課題の一つとなる。ご提供いただいた情報では、1558年の南部氏との和睦交渉、1589年の湊騒動における赤尾津家への使者としての活動が挙げられているが、これらが同一人物によるものか、あるいは別個の人物によるものかについては慎重な検討を要する。
本報告書の調査範囲は、大高光忠(および関連する可能性のある大高筑前守)の出自、安東家臣としての具体的な活動、特に関与したとされる外交交渉、そしてそれらが当時の歴史的状況において有した意味合いを、現存する史料に基づいて可能な限り明らかにすることにある。ただし、史料的制約から全ての事績を網羅することは困難であり、不明な点については今後の研究課題として明示する。
本報告書の理解を助けるため、まず関連する主要人物と出来事をまとめた年表を以下に示す。
表1:安東氏関連主要人物と出来事年表
西暦 (元号) |
出来事 |
安東氏関連人物 |
他勢力関連人物 |
大高姓関連人物 |
備考 |
1539年 (天文8年) |
安東愛季 生誕 |
安東舜季(父) |
|
|
|
1551年 (天文20年) |
湊堯季没後、檜山安東舜季の子・茂季が湊家を継承(異説あり) |
安東舜季、安東茂季 |
|
|
|
1558年 (永禄元年) |
安東氏、南部氏と和睦交渉 |
安東舜季? 安東愛季? |
南部氏 |
大高光忠 |
『南部史要』 |
1570年 (元亀元年) |
安東愛季、檜山・湊両安東氏を統合(異説あり) |
安東愛季 |
|
|
1 湊騒動(第二次)発生、豊島玄蕃らが挙兵 |
天正年間 (1573-1592) |
大高筑前守、安東愛季家臣として外交文書に関与 |
安東愛季 |
土佐林禅棟(藤島城主)、最上義光、鮭延愛綱、小野寺氏 |
大高筑前守 |
|
1587年 (天正15年) |
安東愛季 死去。実季が家督相続。 |
安東愛季、安東実季 |
|
|
|
1589年 (天正17年) |
湊騒動(湊合戦)勃発。安東通季が実季に対し蜂起。実季、由利衆の協力を得て鎮圧 |
安東実季、安東通季 |
戸沢盛安、由利十二党(赤尾津氏など)、南部氏 |
大高筑前 |
1 |
1589年 (天正17年)以降 |
安東実季、「秋田城介」を名乗り、秋田氏に改姓 |
安東実季(秋田実季) |
|
|
1 |
この年表は、本報告で論じられる複雑な人物関係と歴史的背景を概観する一助となることを意図している。特に、安東氏内部の権力構造の変遷と、大高姓の人物が活動した時期の対応関係を把握することで、個々の出来事の前後関係や、特定の人物がどの当主の時代にどのような状況下で活動したのかを理解する手がかりとなる。
1. 大高氏の出自と安東家臣団における位置
大高光忠という人物を考察するにあたり、まず彼が属した大高氏の出自や、安東氏家臣団の中でどのような位置を占めていたのかを概観する必要がある。
1.1. 戦国期における大高氏の概観
出羽国における大高氏の存在を示す史料や伝承はいくつか見られる。江戸時代の赤穂浪士の一人である大高忠雄の家系は、その出自を平安時代に遡る安倍氏の一族であり、代々安倍氏の嫡流である安東氏(後の秋田氏)に仕えた家柄であると伝えている。この伝承が戦国期に活動した大高光忠に直接繋がるかどうかは慎重な検討を要するものの、大高氏が古くから安東氏の譜代の家臣であった可能性を示唆している。
また、安東氏の拠点の一つであった檜山城(現・秋田県能代市)の近郊には、「大高相模守の館跡」という伝承が存在する。相模守という官途名を名乗る大高氏の存在は、その人物が一定の勢力を有していたことをうかがわせる。この大高相模守が、本報告の主題である大高光忠や後述する大高筑前守とどのような関係にあったのかは不明であるが、大高一族が檜山周辺に拠点を有していた可能性を示すものと言えよう。さらに、現代においても能代市檜山には大高姓を名乗る家が存在し、地域の歴史と深く関わってきたことが伝えられている。これも戦国期との直接的な繋がりは明らかではないが、大高氏がその地に根差した一族であったことを間接的に示している。
これらの断片的な情報をつなぎ合わせると、大高氏は単独の個人としてではなく、一族として安東氏に仕えていた可能性が浮かび上がる。檜山という安東氏の重要な拠点周辺に土着し、代々家臣として仕える中で、特定の地域に基盤を持つか、あるいは外交のような特定の職能を担うことで、家臣団内での地位を確立していったのではないかと推測される。史料や伝承に「光忠」「筑前守」「相模守」といった複数の名を持つ大高姓の人物が登場することは、この推測を補強する材料となる。
1.2. 大高光忠と大高筑前守 – 同一人物か別人か
本報告書における中心的な課題の一つは、ご提供いただいた情報で触れられている「大高光忠」と、史料に見える「大高筑前守」が同一人物であるか否かという点である。
史料によれば、永禄元年(1558年)に南部氏との和睦交渉の使者を務めたのは「大高光忠」(『南部史要』出典)であるとされる一方、天正17年(1589年)の湊騒動(湊合戦)の際に由利十二党の赤尾津氏へ使者として派遣されたのは「大高筑前」であると記されている。さらに別の史料では、安東愛季(1587年没)の家臣として「大高筑前守」の名が見え、最上義光と鮭延愛綱の和睦成立や、秋田氏(安東氏)と小野寺氏の講和に関連する書状を受け取るなど、外交活動に関与していたことが確認できる。
現時点の史料を見る限り、大高光忠と大高筑前守を同一人物と断定する直接的な証拠は見当たらない。両者の活動が確認される年代(1558年と1589年、および愛季存命中)には最大で30年以上の隔たりがあり、また「光忠」には官途名が付されていないのに対し、「筑前」には「守」という官途名が付されている点も異なる。出典となる史料もそれぞれ別である。これらの状況証拠から、両者は別人である可能性が高いと考えられる。
ただし、親子や兄弟といった近親者である可能性や、同一人物が後年になって改名し官途名を名乗るようになった可能性も完全に否定することはできない。例えば、「光忠」が通称や諱であり、「筑前守」が後年になって得た官途名とそれに伴う名乗りであるという解釈も成り立ちうる。しかし、それを裏付ける史料がない以上、憶測の域を出ない。
したがって、本報告では史料の記述を尊重し、当面は大高光忠と大高筑前守を別人として扱い、それぞれの事績を個別に検討する方針をとる。両者の活動を比較検討するため、以下の表に情報を整理する。
表2:大高光忠と大高筑前守の活動比較
史料上の名前 |
活動年 |
関連事件 |
具体的な役割 |
出典史料 |
当時の安東氏当主 |
大高光忠 |
永禄元年 (1558年) |
南部氏との和睦交渉 |
安東方使者 |
『南部史要』 |
安東舜季? 安東愛季? |
大高筑前 |
天正17年 (1589年) |
湊騒動(湊合戦) |
安東実季方使者(由利十二党赤尾津氏への派遣) |
|
安東実季 |
大高筑前守 |
天正年間 (安東愛季存命中、1587年以前) |
最上・鮭延氏間和睦報告、秋田・小野寺氏間講和祝意の書状受領 |
外交文書の接受 |
|
安東愛季 |
この表によって、両者の活動時期、関連した安東氏当主、そして史料上の出典の違いが明確になる。これにより、「別人説」の根拠を視覚的に示すことができる。今後の研究で新たな史料が発見され、両者の関係についてより明確な結論が得られることが期待される。
1.3. 注意すべき他の「光忠」姓の人物
史料を検討する上で注意すべき点として、同時代に「光忠」という名を持つ別の人物が存在した可能性が挙げられる。例えば、史料S3には工藤一族、岩手衆の一員として「厨川兵部光忠(みつただ)」なる人物の名が見える。この人物は南部氏側の勢力に属しており、安東家臣である大高光忠とは活動地域も主家も異なるため、明確に区別する必要がある。
戦国時代においては、同名異人や類似した名を持つ人物が複数存在することは決して珍しいことではない。そのため、史料の文脈を慎重に読み解き、人物の特定にあたっては細心の注意を払うことが肝要である。厨川兵部光忠の存在は、単に「光忠」という名のみで人物を特定することの危険性を示している。
2. 大高光忠の活動:永禄元年(1558年)南部氏との和睦交渉
大高光忠の名が史料に現れるのは、永禄元年(1558年)に行われた安東氏と南部氏との間の和睦交渉においてである。この交渉における彼の役割と、その歴史的背景について考察する。
2.1. 当時の安東氏と南部氏の関係
永禄年間(1558年~1570年)頃の安東氏と南部氏は、陸奥国鹿角郡の領有などを巡って長らく緊張関係にあり、時には武力衝突も辞さない状況にあった。この時期の安東氏は、出羽国北部に勢力を張る有力な戦国大名であり、檜山城を本拠とする檜山安東氏(下国家)と、秋田湊を拠点とする湊安東氏(上国家、あるいは湊家とも呼ばれる)の二つの系統が存在していた 1 。しかし、永禄元年の時点では、檜山系の安東愛季(当時19歳、父は安東舜季)のもとで勢力の再編と拡大が進められており、両家の統合へと向かう過渡期にあった。1558年当時は、愛季の父である舜季が依然として当主であったか、あるいは舜季が隠居・死去し、若年の愛季が家督を継承して間もない時期であった可能性が考えられる。
このような両氏の対立状況の中で和睦交渉が行われた背景には、双方にとって何らかの戦略的必要性があったと推測される。例えば、両者ともに他の方面に敵対勢力を抱えており(安東氏にとっては南の由利衆や内陸部の諸勢力、南部氏にとっては津軽地方における津軽為信の台頭の兆しなど)、一時的にでも北の戦線を安定させることで、他の課題へ注力する必要があったのかもしれない。あるいは、長期にわたる抗争による双方の疲弊が、一時的な停戦合意へと向かわせた可能性も考えられる。
2.2. 『南部史要』における大高光忠の役割
史料S2によれば、南部氏側の史書である『南部史要』に、永禄元年(1558年)の安東氏との和睦交渉の際、安東方の使者として大高光忠の名が記録されている。残念ながら、提供された情報だけでは、この交渉の具体的な内容、交渉に至る経緯、そして和睦が成立したのか否か、成立したとすればその条件や成果といった詳細までは明らかではない。これらの点を解明するためには、『南部史要』の該当箇所を直接確認し、詳細な分析を行う必要がある。
しかしながら、敵対する有力大名である南部氏との和睦交渉という、極めて重要な外交任務の使者として大高光忠が選ばれたという事実は、彼が当時の安東氏(おそらくは檜山安東氏の首脳部、すなわち安東舜季か、あるいは実権を掌握しつつあった若き安東愛季)から、その外交手腕、交渉能力、そして何よりも忠誠心において厚い信頼を得ていたことを強く示唆している。大規模な敵対勢力との和睦交渉を任される人物は、単なる伝令役ではなく、相手方との折衝能力に長け、場合によっては一定の裁量権を与えられていた可能性も考えられる。
2.3. 和睦交渉の歴史的意義
この永禄元年の和睦交渉が、仮に成立したとして、どの程度の期間有効に機能し、安東・南部両氏の関係にどのような影響を与えたのかを考察することは重要である。戦国時代の和睦は、しばしば状況の変化によって容易に破棄されることもあったが、和睦が締結されたという事実自体が、その時点での両勢力の力関係や外交戦略を反映していると言える。
もしこの和睦が一定期間継続したのであれば、安東氏にとっては北方の脅威を一時的にでも緩和し、出羽国内における勢力基盤の強化(例えば湊安東家との関係調整や統合、由利地方への影響力拡大など)や、蝦夷地経営といった他の戦略目標に人的・物的資源を集中することを可能にしたかもしれない。その意味で、この和睦交渉は、安東氏のその後の発展にとって間接的に貢献した可能性がある。そして、この重要な交渉を担った大高光忠個人の評価も、安東家中で高まったであろうことは想像に難くない。
3. 大高筑前守の活動:天正17年(1589年)湊騒動と由利十二党赤尾津氏への派遣
大高光忠とは別に、あるいは同一人物の可能性も残しつつ、史料に「大高筑前」または「大高筑前守」として登場する人物の活動を見ていく。特に天正17年(1589年)の湊騒動(湊合戦)における役割は重要である。
3.1. 湊騒動(湊合戦)の背景と概要
湊騒動は、天正15年(1587年)に安東氏の当主であった安東愛季が死去し、その子である安東実季が家督を相続した直後に発生した大規模な内乱である。安東一族であり、おそらく旧湊安東氏系の血を引く安東通季(道季とも)が、隣国の戸沢盛安らの支援を受けて実季に対して蜂起した 1 。
この内乱の原因については諸説あるが、一つには安東愛季の時代に進められた檜山安東氏による集権化、特に旧湊安東氏系の国人衆や湊における交易に対する統制強化に対する反発があったとされる。愛季という強力な指導者を失ったことで、それまで表面化していなかった不満や対立が一気に噴出したと考えられる。大名家の代替わりは、しばしば内部の権力闘争や外部勢力の介入を招きやすい脆弱な時期であり、湊騒動もその典型例と言える。安東実季にとっては、家督を継いだばかりの極めて不安定な時期に勃発した、まさに存亡をかけた危機であった。
3.2. 由利十二党と赤尾津氏の動向
この湊騒動において、戦局の行方を左右する重要な要素となったのが、出羽国由利郡に割拠していた国人領主たちの連合体である「由利十二党」の動向であった 2 。彼らはそれぞれが独立性の高い勢力であり、時には連携し、また時には互いに敵対することもあった。
由利十二党の中でも、赤尾津氏(あかおつし)は有力な勢力の一つであった。彼らは日本海に面した赤尾津湊(現在の由利本荘市松ヶ崎付近)を拠点とし、交易によって経済力を蓄えていたと考えられている。史料によれば、赤尾津氏は以前から安東氏と誼を通じていたとされ、豊臣秀吉による奥州仕置の際には、由利地方で最大級となる約4,300石の所領を安堵されたと推定されていることから、その実力がうかがえる。
湊騒動のような内乱において、由利衆のような地域の国人領主連合がどちらの勢力に味方するかは、戦全体の帰趨に大きな影響を与えた。特に、安東氏と比較的友好的な関係にあったとされる赤尾津氏の支持を取り付けることは、安東実季方にとって戦略的に極めて重要であった。由利十二党は一枚岩ではなく、各々が自家の利益を最優先に考えて行動していたため、赤尾津氏が安東氏と誼を通じていたとしても、内乱に際してどちらに与するかは慎重な判断を要したはずである。
3.3. 大高筑前守の使者としての役割
このような緊迫した状況下で、安東実季方の使者として赤尾津氏のもとへ派遣されたのが「大高筑前」であったと史料は伝えている。この「大高筑前」は、他の史料で安東愛季の家臣として外交文書の接受にあたっていた「大高筑前守」 と同一人物である可能性が高いと考えられる。
主君である安東実季が家督相続直後の内乱という危機的状況に陥る中、大高筑前守は赤尾津氏に対して支援を要請し、同盟関係を確実なものにするという極めて重い任務を託されたのである。内乱時における外交使節には、自陣営の正当性や将来性を説得力をもって伝え、相手に味方することの利点を提示する高度な交渉術が求められる。具体的な交渉内容は不明であるが、結果として赤尾津氏を含む由利衆が実季方に与し、その協力によって実季は反乱を鎮圧することができたとされている。この事実は、大高筑前守の外交交渉が成功したことを示している。
考えられる交渉材料としては、旧来の友好関係の再確認、反乱を起こした通季方の行動の非正当性の主張、そして実季方が勝利した際の恩賞の約束などが挙げられる。赤尾津氏としても、安東氏の内乱が長引けば由利地方の安定にも悪影響が及ぶ可能性があり、早期終結のために有利と見込んだ実季方に与することは、自家の存続と勢力維持にとって合理的な判断であったのかもしれない。
3.4. 湊騒動の終結と大高筑前守の貢献
由利衆の協力を得た安東実季は、安東通季方の勢力を打ち破り、湊騒動を鎮圧することに成功した。この勝利によって、安東氏(騒動後に秋田氏と改姓)は内乱を克服し、豊臣政権下の大名として、そして後の近世大名として存続していく道が開かれた 1 。
もし赤尾津氏をはじめとする由利衆の協力が得られなければ、安東実季がこの困難な内乱を乗り切れたかどうかは定かではない。そうなれば、安東氏は分裂状態が続くか、あるいは戸沢氏や南部氏といった外部勢力のさらなる介入を招き、最悪の場合、戦国大名としての命脈を絶たれていた可能性すら考えられる。
したがって、大高筑前守が赤尾津氏との交渉を成功させ、由利衆の協力を取り付けたことは、単に一合戦の勝利に貢献したというに留まらず、安東(秋田)家の歴史における重要な転換点において、その存続に大きく寄与したと評価できる。彼の名が史料に「大高筑前」として記録されたのは、この湊騒動における顕著な功績によるものである可能性が高い。
4. 大高光忠および大高筑前守のその他の活動と生涯
大高光忠と大高筑前守について、これまで触れてきた主要な活動以外にどのような事績が確認できるのか、そして彼らの晩年や子孫についてはどのような情報があるのかを検討する。
4.1. 大高光忠に関する追加情報
大高光忠に関しては、現時点で提供されている情報の中では、永禄元年(1558年)の南部氏との和睦交渉の使者としての活動以外に、具体的な事績を示すものは見当たらない。彼がいつ生まれ、いつ没したのか、また南部氏との交渉以外にどのような役割を安東家中で果たしたのかについては、今後の史料調査に委ねられる部分が大きい。
今後の調査課題としては、まず出典とされている『南部史要』における大高光忠に関する記述内容をより詳細に確認することが挙げられる。また、南部氏側の他の史料や、安東氏(秋田氏)側の古文書、例えば秋田藩家蔵文書 などの中に、彼の名や関連する情報が記録されていないか、丹念に探索する必要があるだろう。
4.2. 大高筑前守に関する追加情報
一方、大高筑前守については、湊騒動以前の活動を示す興味深い記録が存在する。史料S17によれば、安東愛季の家臣「大高筑前守」として、田川郡藤島城主であった土佐林禅棟からの書状を受け取ったことが記されている。この書状は、最上義光と鮭延愛綱の間の和睦が成立したことの報告と、秋田氏(安東氏)と小野寺氏との間の講和がなったことへの祝意を伝えるものであった。
この記録は、大高筑前守が安東愛季の存命中(具体的な年次は不明だが、愛季は天正15年/1587年に没しているため、それ以前の出来事)から、安東氏の外交担当者として活動していたことを示している。当時、安東氏は西に出羽国中央部の小野寺氏と境を接しており、両者の関係は常に緊張と緩和を繰り返していた。そのような状況下で、他勢力間の和睦情報や、自勢力と他勢力との講和に関する連絡・書状の接受を担当する立場にあったということは、彼が安東氏の外交政策において重要な役割を担うキーパーソンの一人であったことを物語っている。
この安東愛季政権下での外交経験が、後の安東実季の代に発生した湊騒動という危機的状況において、由利赤尾津氏との困難な交渉を成功させるための素地となった可能性は十分に考えられる。つまり、大高筑前守は一朝一夕に外交の使者として抜擢されたのではなく、長年にわたり外交分野で経験を積み、その能力を主家から認められていた、専門性の高い家臣であったと推測される。
4.3. 晩年と子孫
大高光忠、大高筑前守ともに、その晩年や没年、そして子孫に関する直接的な情報は、提供された史料からは確認することができない。戦国時代の家臣クラスの人物の生涯を詳細に追跡することは、史料的制約から極めて困難な場合が多い。
ただ、一つの手がかりとして、江戸時代に赤穂浪士四十七士の一人として知られる大高源五忠雄の家系が、元々は安東氏(秋田氏)の旧臣であったという伝承がある。この大高家は、平安時代から続く安倍氏の一族で、代々安東氏に仕えた名門であったとされている。もしこの伝承が事実であり、かつ戦国期の大高光忠や大高筑前守がこの家系に連なる人物であったとすれば、何らかの系譜情報が存在する可能性も考えられる。しかし、現時点ではこれを直接結びつける史料はなく、あくまで推測の域を出ない。
大高光忠や大高筑前守が、主家である安東(秋田)氏の移封(慶長7年/1602年に常陸国宍戸へ、その後陸奥国三春へ 1 )に付き従ったのか、あるいは故地である出羽国に残ったのかといった基本的な情報すら不明である。今後の研究においては、秋田藩の分限帳や系図類 などを詳細に調査することで、彼らの消息や子孫に関する何らかの手がかりが得られる可能性に期待したい。
5. 総括
本報告書では、戦国期に出羽国で活動した安東氏の家臣、大高光忠および関連する可能性のある大高筑前守について、現存する史料情報を基に考察を行った。
大高光忠は、永禄元年(1558年)に安東氏の使者として南部氏との和睦交渉に臨んだことが『南部史要』に記録されている。これは、安東氏が勢力拡大を図る中で、北方の安定を確保するための重要な外交活動であった。
一方、大高筑前守は、安東愛季の治世下で外交文書の接受に関与し、愛季没後の天正17年(1589年)に勃発した湊騒動においては、安東実季の使者として由利十二党の赤尾津氏へ派遣され、その協力を取り付けるという重要な役割を果たした。この外交成功は、実季方の勝利と安東(秋田)家の存続に大きく貢献したと考えられる。
史料S2の記述に基づけば、大高光忠と大高筑前守は活動時期や名乗りから別人である可能性が高いと判断される。しかし、両者ともに安東氏の外交という重要な局面で名を残していることから、大高一族の中で外交を専門的に担う家系が存在し、その系譜に連なる人物たちであった可能性も考えられる。彼らの活動は、主家である安東氏の勢力維持・拡大、そして危機克服に対して、外交という側面から少なからぬ貢献をしたと言えるであろう。
今後の研究課題としては、まず『南部史要』における大高光忠に関する記述内容を詳細に確認し、交渉の具体的な経緯や成果を明らかにすることが挙げられる。また、安東氏(秋田氏)関連の古文書や系図類を博捜し、大高光忠および大高筑前守に関する追加情報を探索すること、そして可能であれば大高一族全体の系譜関係を解明することが望まれる。これらの研究が進むことによって、戦国期出羽における安東氏家臣団の多様な活動と、その中で大高氏が果たした役割について、より深い理解が得られることが期待される。
6. 参考文献一覧