天野元政は毛利元就の七男。安芸天野氏を継ぎ、毛利氏の戦略的統合に貢献。織田・豊臣政権下の戦役を戦い抜き、関ヶ原では殿を務める。戦後、長州藩一門家老「右田毛利家」の礎を築いた。
毛利元就の七男、天野元政。彼の名は、兄である「毛利の両川」、すなわち吉川元春と小早川隆景の輝かしい武名や、毛利宗家を継いだ毛利輝元の存在の陰に隠れ、歴史の表舞台で語られる機会は決して多くない。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、我々は戦国時代における毛利氏の領国支配戦略の精髄、豊臣政権下での一門の動向、そして関ヶ原の敗戦を経て近世大名家臣団へと再編されていく歴史のダイナミズムを、一身に体現した稀有な実例を目の当たりにすることになる。
本報告書は、この天野元政という人物の生涯を多角的に掘り下げ、その歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。彼の人生は、単なる一武将の立志伝ではない。それは、父・元就の深謀遠慮によって安芸国の名族・天野氏の家督を継承することから始まり、織田・豊臣政権という激動の時代を毛利一門の将として戦い抜き、ついには近世長州藩の屋台骨を支える一門家老「右田毛利家」の礎を築き上げるという、壮大な物語なのである。
本報告書は三部構成を採る。第一部では、元就の子としての出自と、安芸国の名族・天野氏の家督を継承するに至った背景を、毛利氏の国人衆支配戦略という観点から分析する。第二部では、織田・豊臣政権、そして天下分け目の関ヶ原という激動の時代の中で、毛利一門の武将として果たした役割と軍歴を追う。第三部では、関ヶ原後の苦境から長州藩一門家老「右田毛利家」の創始者となる過程を詳述し、その人物像と晩年に迫る。この分析を通じて、天野元政という一人の武将の生涯が、いかにして戦国から近世へと至る毛利家の歴史そのものを映し出す鏡であったかを明らかにしていく。
永禄二年(1559年)、天野元政は、中国地方に覇を唱えつつあった安芸国の戦国大名・毛利元就の七男として生を受けた 1 。この時期の毛利氏は、弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を討ち破り、防長経略を経て大内氏の旧領をその手中に収め、名実ともに中国地方の覇者としての地位を固めつつある、まさに飛躍の時代であった。元政の誕生は、この毛利氏の勢力拡大期と軌を一にするものであり、彼の生涯が毛利家の膨張と再編の歴史と深く結びつくことを運命づけられていた。
母は元就の側室であった乃美大方(のみのおおかた)である 1 。彼女は安芸の国人で、小早川氏の一族ともされる乃美弘平の娘であった 5 。元政には同腹の兄弟として、四男の穂井田元清、九男の小早川秀包(元総)がおり、彼らもまた、元政と同様に毛利氏の勢力圏拡大と安定化のための戦略的配置の一翼を担うことになる 1 。異母兄には、既に毛利家の中核を担っていた毛利隆元、そして後に「毛利の両川」と称され、毛利家の武威を支える吉川元春、小早川隆景という偉大な存在がいた 1 。
元政の幼名は千虎丸(ちとらまる)といい、通称は少輔六郎(しょうのすけろくろう)と称した 1 。彼が多感な幼少期を過ごした吉田郡山城は、中国地方全域を視野に入れた壮大な政治・軍事戦略が練られる、まさにその中心地であった。父・元就や兄たちの背中を見ながら、彼は毛利一門としての自覚と、戦国武将としての素養を育んでいったに違いない。
元政がその名跡を継ぐことになる天野氏は、安芸国において非常に由緒ある国人領主であった。そのルーツは遠く伊豆国に遡り、藤原南家工藤氏の流れを汲む名族とされる 9 。鎌倉時代初期、一族の天野遠景が源頼朝の重臣として活躍し、その子孫が安芸国志芳荘(しわのしょう、現在の広島県東広島市志和町一帯)の地頭職を得て下向したのが、安芸天野氏の始まりである 12 。
安芸国に土着した天野氏は、やがて二つの大きな流れに分かれていく。一つは金明山城(きんめいやまじょう)を本拠とする「金明山天野氏」、もう一つが米山城(こめやまじょう、別名:生城山城(おおぎやまじょう))を本拠とする「生城山天野氏」である 10 。元政が継承したのは、後者の生城山天野氏であった。
生城山天野氏は、室町時代を通じて安芸国の有力国人として勢力を扶植し、当初は周防の大内氏に従属していた 12 。しかし、毛利元就が安芸国人衆の盟主として台頭してくると、その関係は大きく変化する。天文九年(1540年)、尼子晴久が毛利氏の居城・吉田郡山城を包囲した際には、当時の当主・天野興定が毛利方として籠城し、尼子軍の撃退に貢献した(吉田郡山城の戦い) 10 。さらに弘治元年(1555年)の厳島の戦いにおいても、毛利方として参陣し、その勝利に力を貸している 12 。これにより、天野氏は毛利氏にとって単なる同盟者から、その家臣団の中核をなす重要な存在へと変わっていったのである。
永禄十二年(1569年)5月16日、生城山天野氏の当主であった天野元定が、跡継ぎとなる男子のないまま病死した 12 。この突然の当主の死は、由緒ある天野氏の家中に動揺をもたらし、後継者を巡って家中が割れる「内紛」が生じたと記録されている 3 。
この好機を、「謀神」と称された毛利元就が見逃すはずはなかった。彼はこの天野家の内紛に巧みに介入する。表向きは故・元定の「遺言」という形をとりながら、同年6月23日、当時まだ11歳であった自身の七男・千虎丸(元政)を、元定の一人娘であった光岳妙秋(こうがくみょうしゅう)の婿養子として送り込み、天野氏の家督を継承させたのである 2 。
この一連の家督相続劇が、単なる偶然や善意によるものではなく、元就によって周到に計画された政治工作であったことは、残された史料から明らかである。元定の死後、毛利家の重臣である桂元忠が、天野氏の家老14名に対して後継者問題に関する指示を伝達する書状を送っている事実が確認されている 16 。これは、毛利家中枢が天野家の家督問題に直接的に関与し、事態を主導していたことを示す動かぬ証拠である。一見すると、天野家中の「内紛」と元定の「遺言」という二つの要素は、それぞれ独立した出来事のように映る。しかし、桂元忠の書状の存在を考慮に入れると、これらは元就の描いた一つの筋書きに沿ったものであった可能性が極めて高い。すなわち、元就は天野家中に生じた後継者問題という政治的空白を巧みに利用し、自らの権威を背景に元定に「遺言」という形をとらせるか、あるいは家臣団にそう解釈させることで、自らの子を送り込むという介入を正当化したと考えられる。この手法により、元就は武力を用いて天野氏を制圧するという強硬手段を避け、その由緒ある家名と、戦闘力のある家臣団を無傷のまま温存することに成功した。そして、その組織の頂点に毛利の血を引く元政を据えることで、天野氏を毛利家の支配体制の中に完全に組み込むという、高度な政治戦略を完遂させたのである。
元政の役割は、これだけにとどまらなかった。彼は後に、毛利氏によって滅ぼされた大内氏の旧臣で、周防右田(みぎた)を領していた右田隆量(重政)の養子にもなっている 3 。この二重の養子縁組は、元政という人物が、毛利氏の領国拡大と安定化政策において、いかに重要な役割を担わされていたかを物語っている。彼の生涯は、毛利氏の支配が単なる武力による征服ではなく、婚姻や養子縁組といった巧みな「統合政策」によって支えられていたことを示す、極めて象徴的なケーススタディと言える。安芸の有力国人・天野氏と、周防の旧大内勢力の象徴である右田氏。この二つの重要な勢力を継承した元政は、単に家を継いだのではなく、毛利の支配を正当化し、旧勢力を円滑に吸収するための「生きた器」そのものであった。彼の名前が、毛利千虎丸から天野元政、そして右田元政、毛利元政へと変遷していく様は、まさに彼が担った役割の変遷を雄弁に物語っているのである。
天野氏の家督を継いだ元政は、毛利一門の武将として、織田信長、そして豊臣秀吉という天下人が渦巻く激動の時代へと漕ぎ出していく。
彼の初陣は、天正六年(1578年)、19歳の時であった。織田方の羽柴秀吉が中国攻めを開始する中、毛利氏は播磨国の上月城に籠る尼子勝久・山中幸盛ら尼子再興軍を包囲した。この上月城の戦いにおいて、元政は兄・小早川隆景の軍に属して出陣し、尼子氏の息の根を止めるという重要な戦いで、武将としての第一歩を印した 2 。この戦いでの彼の働きは「抜群の戦功」と評されており、若くしてその武勇の片鱗を示したことが窺える 8 。
本能寺の変後、毛利家が豊臣秀吉に臣従すると、元政もまた毛利一門の将として、秀吉の天下統一事業に組み込まれていく。天正十五年(1587年)、秀吉が島津氏を討伐するために行った九州平定に、元政も従軍した 2 。この戦役で毛利軍は、当主・輝元、そして両川(元春、隆景)を筆頭に大軍を動員し、日向方面軍の中核として島津軍と対峙した 19 。元政が率いた部隊の具体的な編成や、個別の戦功に関する詳細な記録は乏しいものの、毛利一門の有力武将としてこの一大事業に参加したことは間違いない。
続く文禄・慶長の役(1592年-1598年)においても、元政は毛利軍の一員として朝鮮半島へ渡海したことが確認されている 2 。この未曾有の対外戦争において、毛利家は多大な兵員と物資を動員し、戦役全体を通じて重要な役割を担った。山口県文書館には、この朝鮮出兵の時期に、肥後熊本城主の加藤清正といった他国の有力大名から元政に宛てて送られた書状が複数残されている 21 。これは、元政が単なる毛利家中の将にとどまらず、豊臣政権下の諸大名からも毛利軍の有力武将の一人として認識され、外交的な窓口の役割も果たしていたことを示唆する貴重な史料である。
慶長五年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。毛利輝元が西軍の総大将として大坂城に入ったことにより、毛利家は否応なくこの大戦の渦中に身を投じることとなった。天野元政もまた、毛利一門として西軍に与し、存亡を賭けた戦いに臨んだ。
元政が参戦したのは、関ヶ原の本戦ではなく、その前哨戦であった伊勢方面の戦いである。彼は毛利宗家の家督を継いでいた毛利秀元や、吉川広家らと共に伊勢国へ進軍。東軍に与した富田信高が籠城する安濃津城(あのつじょう)を包囲した 7 。この安濃津城攻めにおいて、元政は配下の山内広通らを率いて奮戦し、城を陥落させるという明確な軍功を挙げている 7 。この行動は、関ヶ原の本戦で「宰相殿の空弁当」と揶揄されることになる毛利本隊の消極的な姿勢とは対照的に、西軍の一員としての責務を果たす積極的な軍事行動であった。
しかし、関ヶ原の本戦では、南宮山に布陣した毛利本隊が吉川広家の妨害によって動けず、西軍はわずか一日で壊滅的な敗北を喫した。この敗戦を受け、毛利軍は全軍撤退を余儀なくされる。この絶望的な状況下で、元政は殿(しんがり)という極めて困難かつ名誉ある役目を担ったと伝えられている 14 。殿軍とは、敗走する軍の最後尾にあって追撃してくる敵軍を食い止め、味方本隊の安全な撤退を援護する、最も危険で高度な統率力が求められる任務である。これを任されたという事実は、元政が毛利家中枢からその武勇と指揮能力を深く信頼されていたことの証左に他ならない。彼はこの重責を見事に果たし、毛利軍の組織的な崩壊を防ぎ、大坂への撤退を成功させたのである。
この関ヶ原での働きは、戦後の彼の処遇に決定的な影響を与えた。戦後処理の結果、毛利家は百二十万石余から防長二国三十七万石弱へと大減封され、家臣団の大規模なリストラを断行せざるを得ないという、未曾有の危機に直面した。多くの家臣が暇を出され、あるいは禄を大幅に減らされる中、元政は周防三丘に一万石という、破格の知行を与えられている 23 。この厚遇は、単に「元就の子」という血筋だけで説明できるものではない。むしろ、伊勢安濃津城攻めでの確かな軍功、そして何よりも毛利家存亡の危機において殿軍という大役を完遂した功績が、当主・輝元らによって正当に評価された結果であったと結論付けるのが合理的である。彼は、新たな長州藩の礎を担うべき重要な人材として、その苦難の船出から重用されたのである。
西暦 (和暦) |
元政の年齢 |
元政の動向 |
関連する毛利家・国内の主要な出来事 |
典拠 |
1559年 (永禄2年) |
1歳 |
毛利元就の七男として誕生。幼名は千虎丸。 |
毛利氏、備中へ進出。 |
1 |
1569年 (永禄12年) |
11歳 |
天野元定の死去に伴い、その婿養子となり生城山天野氏の家督を相続。「天野元政」と名乗る。 |
毛利氏、北九州で大友氏と争う(多々良浜の戦い)。 |
3 |
1571年 (元亀2年) |
13歳 |
父・毛利元就が死去。 |
毛利輝元が家督を相続。 |
1 |
1578年 (天正6年) |
20歳 |
播磨上月城の戦いに兄・小早川隆景の軍に属して初陣。軍功を挙げる。 |
織田信長の中国攻めが本格化。 |
2 |
1587年 (天正15年) |
29歳 |
豊臣秀吉による九州平定に従軍。 |
毛利輝元、豊臣政権下で重きをなす。 |
2 |
1592年 (文禄元年) |
34歳 |
文禄の役に従軍し、朝鮮へ渡海。 |
豊臣秀吉、朝鮮出兵を開始。 |
2 |
1596年 (慶長元年) |
38歳 |
従五位下・讃岐守に叙任される。 |
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25 |
1600年 (慶長5年) |
42歳 |
関ヶ原の戦いで西軍に属す。伊勢安濃津城を攻略。本戦敗北後、毛利軍の殿を務める。 |
毛利輝元、西軍総大将となるも敗北。 |
7 |
1603年 (慶長8年) |
45歳 |
毛利氏の防長移封に伴い、周防国三丘に1万石を与えられる。毛利姓に復帰。 |
毛利氏、萩城の築城を開始。 |
26 |
1609年 (慶長14年) |
51歳 |
4月29日、長門国萩にて死去。 |
|
2 |
関ヶ原の戦いは、毛利家にとって栄光からの転落であった。しかしそれは同時に、近世大名・長州藩として再出発する新たな時代の幕開けでもあった。天野元政は、この苦難の時代において、藩の草創期を支える重鎮として重要な役割を担うことになる。
戦後処理の結果、毛利家は安芸・備後など中国地方の大半の所領を失い、周防・長門の二国に封じ込められた。この大幅な減封に伴い、元政はそれまでの本拠地であった安芸国志芳荘を離れ、慶長八年(1603年)頃、新たに知行地として与えられた周防国熊毛郡三丘(みつお、現在の山口県周南市)に移った 23 。石高は一万石であった 23 。
この三丘への入封を機に、元政は重要な決断を下す。それは、約30年間にわたって名乗ってきた「天野」の姓を改め、本来の姓である「毛利」に復帰することであった 26 。この改姓は、単なる形式的なものではない。それは、彼がもはや安芸の一国人領主の名代ではなく、毛利宗家を支える「一門」としての立場を内外に明確に示す、強い意志の表明であった。近世長州藩の骨格を形成する一員としての、新たな自己規定だったのである。
長州藩士・毛利元政としての彼は、藩政の中枢にも深く関与していた。慶長九年(1604年)、萩城の築城工事が遅々として進まないことに業を煮やした輝元は、その責任を普請奉行であった熊谷元直と天野元信(金明山天野氏の一族)に問い、彼らを誅殺するという厳しい処断を下した。この「五郎太石事件」と呼ばれる藩政初期の粛清事件において、輝元から誅殺の実行を直接命じられたのが、叔父である元政であった 29 。このような汚れ役を任されるということは、彼が輝元から絶大な信頼を寄せられていた側近中の側近であったことを物語っている。
元政が築いた家は、彼の死後、さらに発展を遂げ、長州藩における不動の地位を確立していく。
慶長十四年(1609年)に元政が死去すると、その家督は嫡男の毛利元倶(もととも)が継承した 30 。そして元倶の代、寛永二年(1625年)に、毛利家にとって大きな転機が訪れる。藩内の知行地替えが行われ、元倶の三丘領と、同じく毛利一門家老の筆頭であった宍戸広匡(ししどひろまさ)の右田領が交換されることになったのである 23 。
この領地替えにより、元倶は周防国佐波郡右田(現在の山口県防府市)へと移り、知行も一万三千石(史料によっては一万七千石とも 23 )に加増された。これ以降、元政を祖とするこの家系は、本拠地の名を冠して「右田毛利家」と称されるようになり、長州藩の歴史にその名を刻んでいく 23 。
この一門家老筆頭と次席という、藩の根幹をなす二家の領地替えは、単に当事者間の都合によるものではなかったと考えられる。これは、減封後の長州藩が、限られた領国の中で防衛と統治の効率を最大化するために、藩主導で行った戦略的な再配置の一環であった。近世初期の長州藩にとって、仮想敵である徳川幕府への備えは最重要課題であり、領内の防衛体制と政治体制の再構築は急務であった 33 。宍戸家が移った三丘も、元倶が入った右田も、それぞれが山陽道に面した交通・軍事上の要衝である。このような重要な二家の配置転換は、それぞれの土地の戦略的価値と、各家が担うべき役割(例えば、宍戸家は藩主後見役、右田毛利家は軍事的中核など)を熟慮した上で、藩主・毛利秀就の命令によって断行されたと見るのが自然である。元政が築いた家は、その死後も長州藩の骨格を形成する重要なピースとして、藩全体のグランドデザインの中に位置づけられ続けたのである。
こうして成立した右田毛利家は、宍戸家、益田家、福原家などと共に「一門八家」と称される長州藩の最高位の家臣団の一角を占めた 24 。その家格は宍戸家に次ぐ次席とされ 23 、代々の当主は藩の要職を歴任し、幕末に至るまで長州藩政に重きをなし続けたのである。
戦国の世を駆け抜け、近世大名家臣団の礎を築いた天野元政は、どのような人物だったのだろうか。残された逸話や史料から、その人間性を垣間見ることができる。
彼の人物像を最も象徴するのが、父・元就への篤い孝心を示す「歯廟(しびょう)」の存在である。元政は、父・元就の抜け落ちた歯を形見として譲り受け、常に肌身離さず持ち歩いていたという 26 。そして慶長八年(1603年)、三丘の領主となった年が、奇しくも父・元就の三十三回忌と、母・乃美大方の三回忌にあたることから、領内の仙竜寺跡地に、父の遺歯を納めた宝篋印塔(歯廟)と、母のための供養塔を並べて建立した 26 。偉大な父への深い敬慕の念と、亡き父母を思う純粋な孝心が伝わってくる逸話である。
家庭人としての元政は、複数の妻と多くの子女に恵まれた。正室は、天野氏を継ぐ際に迎えた天野元定の娘・光岳妙秋である 4 。そのほか、側室として木梨隆盛の次女である帰命院(きみょういん)や、長島氏の娘がいたことが記録されている 4 。
彼の子孫たちの動向は、近世大名家臣団における家の存続戦略を如実に示している。嫡男の元倶は毛利姓を名乗り、右田毛利家の二代当主となった。一方で、次男の元以(もとい)は「天野」の名跡を継承し、三男の元理(もとまさ)は母方の姓である「阿曽沼」を名乗った 4 。これは、本家は毛利一門としての地位を確立しつつ、分家が由緒ある家名を継承することで、家全体の格とネットワークを維持・拡大しようとする巧みな戦略であった。また、娘たちは厚狭毛利家や、長府藩士の細川家、椙杜(すぎのもり)家といった毛利一門や重臣の家に嫁いでおり、婚姻政策を通じて一門内の結束を固めるという、戦国時代さながらの政略が、江戸時代に入っても継続されていたことがわかる 4 。
晩年の元政は、剃髪して「宗休(そうきゅう)」と号し、武将としての第一線からは一歩退いたものと思われる 3 。そして慶長十四年(1609年)4月29日、新たな本拠地であった長門国萩の地で、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年51であった 2 。
彼の墓所は二か所に存在する。一つは、関ヶ原後に最初に領地とした周南市三丘の仙竜寺跡。そしてもう一つが、二代・元倶以降の右田毛利家の菩提寺となった防府市の天徳寺である 3 。この天徳寺という寺号は、元政の戒名である「天徳性真大居士(てんとくしょうしんだいこじ)」に因んで、息子・元倶が改めたものであり 36 、右田毛利家がまさしく元政によって創始されたことを今に伝えている。
天野元政 |
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父母 |
父: 毛利元就 |
母: 乃美大方 |
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養父 |
天野元定 |
右田隆量 |
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妻 |
正室: 光岳妙秋 (天野元定の娘) |
側室: 帰命院 (木梨隆盛の娘) |
側室: 長島氏の娘 |
子女 |
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(帰命院の子) |
(長島氏の娘の子) |
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長男: 毛利元倶 (右田毛利家 2代) |
長女: 毛利元宣 (厚狭毛利家) 室 |
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次男: 天野元以 (天野氏継承) |
次女: 細川元董 (長府藩士) 室 |
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三男: 阿曽沼元理 (阿曽沼氏継承) |
三女: 椙杜元周 (長府藩士) 室 |
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四男: 天野元雅 |
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五男: 天野就員 |
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六男: 毛利元嘉 |
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天野元政の生涯は、父・毛利元就の周到な戦略の駒として始まり、毛利一門の武将として織田・豊臣政権下の激動の時代を戦い抜き、最終的には近世大名・長州藩の重臣として家の礎を築き上げるという、戦国から近世への移行期を生きた武将の、典型的かつ劇的な軌跡であった。彼は、偉大な父や兄たちの陰で決して目立つ存在ではなかったかもしれないが、その足跡は毛利家の歴史の重要な節目と常に重なり合っている。
彼が後世に遺した最大の遺産は、言うまでもなく「右田毛利家」そのものである。彼が創始したこの家は、長州藩の一門家老として幕末まで存続し、藩政を支え続けた。特に幕末維新の動乱期には、当主であった毛利親信(右田毛利家12代)が戊辰戦争で軍功を挙げ、その功績によって明治時代には華族の男爵に叙せられている 23 。元政が築いた家は、時代を超えて毛利家、そして日本の歴史に貢献し続けたのである。
天野元政という一人の人物の生涯を深く考察することは、単に一個人の伝記を知るにとどまらない。それは、毛利氏による国人領主の巧みな支配・統合の実態、豊臣政権下における大名家臣団の軍事・外交的役割、そして関ヶ原の敗戦という未曾有の危機を乗り越えて近世藩体制を再構築していく過程など、日本史の重要な局面を理解するための、具体的で説得力のある事例を提供してくれる。彼は、毛利の両川のような華々しい武名こそ残さなかったが、その堅実な生涯は、毛利家の歴史の連続性と変容を、静かに、しかし雄弁に物語っているのである。