最終更新日 2025-07-26

天野彦次郎

天野彦次郎は戦国末期から江戸初期の直江津商人。史料は少ないが、ゲームデータから「義理100」と判明。上杉家の苦難の時代に、直江津に残り旧主を経済的に支えた忠義の商人だったと推測される。

戦国動乱期における越後直江津の商人・天野彦次郎の実像 — 史料の狭間から再構築するその生涯と時代 —

序章:謎多き商人・天野彦次郎への挑戦

本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて越後国・直江津(なおえつ)で活動したとされる商人、「天野彦次郎(あまの ひこじろう)」の人物像について、現存する情報を基に、その生涯と彼が生きた時代を徹底的かつ多角的に分析・再構築することを目的とする。

調査に着手するにあたり、まず直面したのは、天野彦次郎に関する一次史料、すなわち同時代に作成された古文書や公的記録が極めて乏しいという厳然たる事実である。彼の名が具体的に記されている資料は、主にコーエーテクモゲームス社が開発した歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズに関連するデータサイトに限定されることが判明した 1 。これらの情報によれば、天野彦次郎は1575年に生まれ、1635年に没した直江津の商人とされる。

この史料的制約を踏まえ、本報告書は、実在が確証できない人物の伝記を記述する試みとは一線を画す。むしろ、「天野彦次郎という、ゲームによって設定されたアーキタイプ(典型像)を通じて、戦国末期から江戸初期の激動期に直江津で生きたであろう一人の有力商人の生涯と、彼を取り巻く社会・経済・文化を、歴史的蓋然性をもって再構築する」という方法論的アプローチを採用する。これは、歴史の表舞台に名を残すことのなかった無数の商人たちが、この時代において果たしたであろう役割とその実像に迫るための、一つの知的な挑戦である。

そのために、本報告書は二部構成を採る。第一部では、天野彦次郎が生きた舞台である湊町・直江津の地政学的・経済的重要性、そして彼が仕えたであろう支配者・上杉氏の経済政策を概観する。特に、同時代に実在し、詳細な記録が残る上杉氏の御用商人・蔵田五郎左衛門の事例を深く分析することで、天野彦次郎が置かれていたであろう立場と役割を具体的に浮かび上がらせる。

続く第二部では、これらの時代背景を基盤とし、ゲームデータとして残された天野彦次郎の生没年や能力値といった断片的な情報を丹念に読み解き、彼の生涯を再構築する。特に、彼の人生が上杉家の最も困難な時代と完全に重なる点に着目し、彼に与えられた特異な能力値「義理100」が意味するものを、歴史の大きな潮流の中で考察していく。

この試みを通じて、一人の「名もなき商人」の人生の軌跡を辿ることは、戦国という時代のダイナミズムを、武将や大名といった支配者層の視点からだけでなく、それを経済的に支えた人々の視点から、より深く、立体的に理解することに繋がるものと確信する。

第一部:天野彦次郎が生きた世界 — 越後・直江津の光と影 —

第一章:海の都・直江津の繁栄と戦略的価値

天野彦次郎がその生涯を送った越後国・直江津は、単なる一地方の港町ではなかった。古代から日本海交通の要衝として栄え、戦国時代においては支配者である上杉氏の経済と軍事を支える生命線とも言うべき、極めて重要な戦略拠点であった。

その歴史は古く、奈良時代には「水門都宇(みなとのつ)」の名で史書に登場する 4 。鎌倉時代に成立したとされる日本最古の海事法規『廻船式目』においては、当時の日本を代表する十大港湾「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つに数えられ、安濃津(あのつ)、博多(はかた)、堺(さかい)といった港と並び称されるほどの地位を確立していた 1 。この事実は、直江津が中世を通じて、西国や北国とを結ぶ海上交通の結節点として、人、物、そして情報が集積する一大中心地であったことを示している。

戦国時代に入ると、直江津の戦略的価値はさらに高まる。越後の国主となった上杉氏の本拠・春日山城の麓に広がる府中(国府)の外港として、その機能は飛躍的に増大した 7 。春日山城の本丸跡からは、眼下に広がる直江津の港と日本海が一望できる。この地理的関係は、上杉氏がこの港を直接支配下に置き、そこから得られる莫大な富と情報を掌握することが、領国経営と軍事行動の根幹であったことを如実に物語っている 9

直江津は、まさに経済の動脈であった。北前船の前身である廻船が頻繁に出入りし、西国からは生活に不可欠な塩や、当時普及し始めていた木綿製品がもたらされた 10 。一方で、北国からは身欠き鰊(みがきにしん)などの海産物が運ばれ、越後国内や、さらに内陸の信濃(しなの)方面へと供給された 11 。また、越後平野で生産された米や豆類は、ここから各地へと積み出された 11 。こうした活発な交易活動は、港に巨万の富をもたらし、天野彦次郎のような財力と情報網を持つ有力商人が活躍するための豊かな土壌を育んだのである。

第二章:上杉氏の経済基盤と「御用商人」という存在

「軍神」と称され、生涯の多くを戦場で過ごした上杉謙信。その度重なる関東や信濃への遠征を財政的に支えたのが、直江津港からもたらされる利益と、それを最大化するための巧みな経済政策であった。この政策の中核を担ったのが、天野彦次郎もその一員であったと推察される「御用商人」と呼ばれる特権的な商人たちである。

上杉氏の財源の柱の一つが、越後の特産品であった「青苧(あおそ)」の独占的支配である 13 。青苧は、カラムシとも呼ばれる植物から取れる繊維で、高級麻織物である越後上布(えちごじょうふ)の原料であった 14 。当時、木綿はまだ全国的に普及しておらず、麻布の需要は極めて高かった。謙信はこの点に着目し、青苧の生産を奨励するとともに、「青苧座(あおそざ)」と呼ばれる同業者組合を組織させ、その生産と流通を強力に統制した 14 。青苧商人たちは、上杉氏の保護下で安定した商売を行う見返りとして、「座役(ざやく)」と呼ばれる営業税を上納した。この青苧座からの収入は、上杉氏に莫大な利益をもたらしたと記録されている 13

もう一つの大きな財源が、直江津港における税収であった。港に入港する全ての船から「船道前(ふなどうまえ)」と呼ばれる一種の入港税を徴収したのである 14 。日本海有数の港であった直江津の賑わいを考えれば、この船道前から得られる収入もまた、相当な額に上ったことは想像に難くない。

こうした経済システムは、必然的に上杉氏と密接に結びついた特権的な商人層を生み出した。彼らは「御用商人」として、上杉氏の経済政策の実行部隊となり、青苧の売買や税の徴収を代行した。その見返りとして、彼らは領内での商業活動において様々な便宜を与えられ、一般の商人とは一線を画す地位を築いていた。天野彦次郎もまた、直江津という上杉氏の経済の心臓部で活動した商人として、この御用商人の系譜に連なる存在であった可能性は極めて高い。彼らは単なる商人ではなく、大名の領国経営に深く組み込まれた、半官半民の経済官僚としての側面を持っていたのである。

第三章:有力商人の実像 — 蔵田五郎左衛門という鏡 —

天野彦次郎という人物の実像に迫る上で、史料の制約は大きな壁となる。しかし、彼とほぼ同時代、同じく上杉氏に仕え、その活動が比較的詳細な記録として残されている一人の御用商人が存在する。その名は、蔵田五郎左衛門(くらたごろうざえもん)。彼の具体的な活動を分析することは、天野彦次郎が置かれていたであろう立場や担っていた役割を推察するための、またとない鏡となる。蔵田という「光」を当てることで、天野という「影」の輪郭はより鮮明になる。

蔵田五郎左衛門は、単なる商人ではなかった。その出自は伊勢神宮の神職である「御師(おし)」であったとされ、宗教的な権威を背景に持ちながら、長尾為景(謙信の父)の代から上杉氏に仕えた 16 。彼の名は一代限りではなく、天正10年(1582年)の上杉景勝の文書には「祖父五郎左衛門以来」と記されており、少なくとも三代にわたって「五郎左衛門」の名が襲名され、上杉氏の財政を担う重職が世襲されていたことがわかる 16

彼の最大の功績は、上杉氏の財源の根幹であった「越後青苧座」の統轄である 16 。蔵田は越後国内で青苧座を管理し、税を徴収するだけでなく、自ら消費地である京都に赴き、青苧の流通に関する課税権を持っていた公家・三条西実隆(さんじょうにしさねたか)と直接交渉を行っている 16 。大永5年(1525年)、蔵田は三条西家に対し課税の減額を求めたが一度は厳しく拒否されるも、粘り強い交渉の末、妥結に至った記録が残る 16 。これは、彼が地方の商人という立場に留まらず、中央の権力者とも渡り合える高度な交渉力と政治感覚を兼ね備えた、国家の財務官僚に等しい存在であったことを示している。

さらに驚くべきは、彼が経済活動のみならず、行政・軍事面においても重用されていたことである。永禄4年(1561年)、上杉謙信が関東に出陣している際に府内(直江津)の蔵田に宛てた書状が現存する 19 。その中で謙信は、敵による放火への警戒を厳命し、万一出火した場合は当事者だけでなく町の責任者も処罰するといった、極めて厳しい内容を伝えている。また別の書状では、謙信の留守中、府内や春日山城の管理、城の普請(修繕)、そして倉の管理(兵糧の差配)などを、重臣である直江氏らと協力して行うよう指示している 16

蔵田五郎左衛門の事例は、戦国時代の有力な御用商人が、単に物資を調達し売買するだけの存在ではなく、大名の領国経営そのものに深く関与し、財政、行政、そして時には軍事の後方支援まで担う、極めて重要なパートナーであったことを明確に示している。天野彦次郎もまた、直江津という重要拠点の商人として、規模の大小こそあれ、蔵田が果たしたような多岐にわたる役割の一端を担い、上杉氏の権力と深く結びついていたと考えるのが、最も自然な推論であろう。

第二部:天野彦次郎の生涯の再構築

第四章:史料(ゲームデータ)に見る天野彦次郎の輪郭

天野彦次郎に関する直接的な一次史料が存在しない以上、我々が彼の実像に迫るための唯一の手がかりは、歴史シミュレーションゲームのデータとして記録された、いくつかの断片的な情報である。これらは歴史的事実そのものではないが、ゲーム制作における歴史考証の産物として、当時の人物像に対する一定の解釈を反映していると考えられる 20 。これらの情報を丹念に分析し、歴史的文脈の中に位置づけることで、彼の人物像の輪郭を浮かび上がらせることが可能となる。

現存するデータから、以下の基礎情報を抽出できる 1

  • 生没年 : 1575年(天正3年) - 1635年(寛永12年)
  • 登場年 : 1590年(天正18年)
  • 出自 : 南越後、直江津の商人
  • 特技 : 「商業」「茶湯」
  • 能力値 : 「義理 100」

これらの情報は、一つ一つが重要な意味を持っている。生没年に注目すると、彼の生涯は上杉謙信の死後から始まり、徳川幕府の体制が盤石となる寛永期に終わる。まさに戦国乱世の終焉と、新たな時代の幕開けを身をもって体験した世代であることがわかる。登場年が1590年と設定されているのは、数え年で16歳にあたり、元服して商人として本格的に活動を開始する時期として、歴史的にも極めて妥当性の高い設定である。

特技として「商業」と「茶湯」が挙げられている点も示唆に富む。「商業」は彼の本分そのものであるが、「茶湯」は単なる趣味や教養の域を超えた意味を持つ。戦国時代、茶の湯は堺の豪商・千利休に代表されるように、商人たちが武将や公家と交流し、情報交換や人脈形成を行うための重要な社会的・政治的ツールであった 22 。この特技は、天野彦次郎が単なる地方商人ではなく、中央の文化や情報にも通じた、洗練された人物であった可能性を示唆している。

しかし、これらの情報の中で最も異彩を放ち、彼の人物像を解き明かす鍵となるのが、「義理 100」という最高値の能力評価である。武将ならいざ知らず、なぜ一介の商人に、主君への忠誠を意味する「義理」の最高値が与えられたのか。この一点を深く考察することこそが、彼の生涯に秘められた物語を解き明かすことに繋がる。彼の生きた時代背景とこの特異な能力値を重ね合わせる時、「義理」は単なるゲームのパラメータではなく、彼の人生を貫く試練と選択の主題として立ち現れてくるのである。

彼の生涯と、彼が否応なく巻き込まれた歴史の奔流を視覚的に対比するため、以下に関連年表を提示する。この年表は、彼の人生の各段階における決断の重みを、より具体的に理解するための一助となるだろう。

天野彦次郎関連年表

西暦 (和暦)

天野彦次郎の年齢

上杉家・直江津の動向

日本の主要な動向

1575 (天正3)

0歳

直江津にて生誕。

長篠の戦い。

1578 (天正6)

3歳

上杉謙信死去。直江津を舞台の一つとする後継者争い「御館の乱」が勃発。

-

1582 (天正10)

7歳

織田信長の北陸侵攻が本格化。

武田氏滅亡。本能寺の変、織田信長死去。

1590 (天正18)

15歳

商人として活動を開始か(ゲーム登場年)。上杉景勝、豊臣秀吉に臣従。

豊臣秀吉、天下統一を達成。

1598 (慶長3)

23歳

上杉家、会津120万石へ移封。直江津は新領主・堀秀治の所領となる。

豊臣秀吉死去。

1600 (慶長5)

25歳

関ヶ原の戦い。上杉景勝は西軍に与し、敗北。

徳川家康が天下の実権を掌握。

1601 (慶長6)

26歳

上杉家、米沢30万石へ減封・移封。

-

1614 (慶長19)

39歳

大坂冬の陣。

-

1615 (元和元)

40歳

大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。

武家諸法度発布。元和偃武。

1635 (寛永12)

60歳

死去。

参勤交代の制度化。

第五章:激動の時代と天野彦次郎 — 「義理100」の試練 —

天野彦次郎の生涯は、上杉家にとって最も過酷な試練の時代と完全に重なる。彼の人生を「義理100」という視座から再構築する時、それは平穏な商人の一代記ではなく、激動の時代に翻弄されながらも、己の信義を貫こうとした一人の人間の、苦難と決断の物語として立ち現れる。

彼の幼少期、わずか3歳の時に越後を揺るがす大事件が勃発する。上杉謙信の急死によって引き起こされた後継者争い、「御館の乱」(1578-79年)である 23 。この内乱は、謙信の養子である上杉景勝と上杉景虎の間で繰り広げられ、越後の国人衆を二分する激しい戦いとなった。景虎方の拠点の一つが直江津の「御館」であり、この地もまた戦火の中心地となった 9 。幼い彦次郎が目の当たりにしたであろう、主家の内乱と故郷の混乱は、彼の原風景として深く刻み込まれたに違いない。この内乱は景勝の勝利に終わるが、上杉家の国力を著しく疲弊させ、その後の衰退の遠因となった 23

彼が商人として独り立ちしたであろう1590年頃、上杉家は豊臣秀吉の天下統一事業に組み込まれ、一応の安定を得る。しかし、彼が23歳となった1598年、その人生を根底から揺るがす最大の転機が訪れる。主君・上杉景勝が、豊臣政権の命令により、会津120万石へ移封されることになったのである 24 。これは、上杉家が先祖代々の土地である越後を完全に手放すことを意味した。天野彦次郎にとって、それは自らの生活基盤であり、商売の拠点である直江津から、主君が去るという事態であった。

さらに追い打ちをかけるように、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉家は敗北し、翌1601年には会津から米沢30万石へと大減封の上、再び移封される 25 。かつて越後一国を領した名門は、見る影もなく衰退した。

この時、「義理100」の商人である天野彦次郎は、どのような決断を下したのだろうか。考えられる選択肢は、主に三つある。

第一に、「移住説」。直江津での財産や人脈を全て捨て、主君・上杉家に従い、会津、そして米沢へと移り住む道である。これは「義理」を最も純粋な形で貫く生き方だが、湊町商人としての経済基盤を完全に失うことを意味し、現実的には極めて困難な選択である。

第二に、「変節説」。故郷を去った上杉家を見限り、直江津の新領主となった堀氏、後には松平氏の御用商人として、新たな支配者の下で生きる道である。これは商人として最も現実的で合理的な選択かもしれないが、「義理100」という彼の人物像とは明らかに矛盾する。

そして第三に、「残留・遠隔支援説」。生活の基盤である直江津に留まり、表向きは新領主に従いつつも、密かに出羽国米沢の旧主・上杉家と連絡を取り続け、経済的な支援を行うという道である。これは最も困難で危険を伴う生き方であるが、「義理」と「実利」を両立させようとする、極めて人間的な葛藤に満ちた選択肢である。「義理100」という特異な評価は、彼がこの最も困難な道を選び、没落した主家を故郷から支え続けたという、類稀な忠誠心に対するものではないだろうか。本報告では、この「残留・遠隔支援説」こそが、天野彦次郎という人物像を最も深く体現するものであると推論する。

第六章:一商人としての生業と文化

「義理100」の試練に立ち向かう一方で、天野彦次郎は商人としての生業を営み、湊町の文化を担う一員としての日々を送っていたはずである。彼の商人としての具体的な活動や、文化的側面を考察することで、その人物像はさらに立体的になる。

彼の主たる活動は、廻船を用いた交易であったと考えられる。直江津港を拠点とし、日本海沿岸の各地と取引を行っていたであろう。主な交易品としては、西国からの塩、衣料品、畿内の工芸品、北国からの海産物加工品(身欠き鰊、塩鮭など)が挙げられる 10 。また、越後国内や信濃からは米や大豆、そしてかつて上杉家の財源であった青苧を、何らかの形で取り扱っていた可能性も否定できない。主家が越後を去った後も、旧来のネットワークを駆使し、米沢の上杉家が必要とする物資を調達し、送り届けるといった活動に従事していたのかもしれない。

彼の特技として記録されている「茶湯」は、この時代の有力商人にとって極めて重要な意味を持っていた 1 。茶の湯は、単なる趣味や風流の嗜みではなかった。堺や博多の会合衆(えごうしゅう)に代表されるように、茶会は身分を超えた情報交換の場であり、人脈を形成し、時には水面下で政治的・経済的な交渉を行うための、洗練された舞台装置であった 22 。天野彦次郎が茶湯に通じていたということは、彼が直江津という地方都市にいながら、地域の文化的指導者としての役割を担い、京や堺の文化人、あるいは他の有力商人たちとの間に、独自のネットワークを築いていたことを強く示唆する。この文化的素養こそが、彼の商才と不可分な、重要な社会的スキルだったのである。

また、彼は直江津の「町衆(ちょうしゅう)」の有力な一員として、地域の自治運営にも深く関与していたと考えられる 26 。戦国時代の都市、特に堺や博多のような湊町では、有力商人たちが自治組織を形成し、町の防衛、インフラ整備(防火対策など)、祭礼の執行などを担っていた 27 。蔵田五郎左衛門が謙信から府内の防火を厳命されていたように、直江津においても、天野彦次郎のような有力者が町の安全や秩序維持に責任を負っていた可能性は高い。彼は、自らの商売を通じて富を築くだけでなく、その富と影響力をもって、地域社会の安定と発展に貢献する存在であったと推察される。

終章:歴史の影に生きた商人の意義

本報告書は、戦国時代の商人・天野彦次郎に関する史料の乏しさという制約の中から、彼が生きた時代背景、経済構造、そして同時代の類例人物との比較分析を通じて、その人物像を再構築する試みであった。その結果、浮かび上がってきたのは、単なる一商人の姿ではない。「主家の没落と故郷からの離別という、抗いがたい歴史の奔流に直面しながらも、己の信義を貫き、激動の時代を知恵と才覚で生き抜いたであろう一人の人間」としての、天野彦次郎の姿である。

彼の生涯は、1578年の「御館の乱」という主家の内紛に始まり、1598年の上杉家の越後退去、そして1601年の米沢への減移封という、主家の苦難と軌を一にする。彼の特異な能力値「義理100」は、この逆境の中にあってなお、故郷・直江津から遠く離れた旧主を経済的に支え続けた、その稀有な忠誠心への評価であったと解釈するのが最も妥当であろう。また、「茶湯」の特技は、彼が経済力のみならず、中央の文化にも通じた情報網と洗練された社交術を併せ持つ、地域のオピニオンリーダー的存在であったことを示唆している。

天野彦次郎という、歴史の表舞台にその名を刻むことのなかったかもしれない一人の商人の生涯を追う作業は、我々に重要な視点を与えてくれる。それは、戦国から江戸へと移行する時代の社会・経済・文化が、大名や武将といった英雄たちの物語だけによって動かされていたわけではない、という事実である。彼らの興亡の裏には、蔵田五郎左衛門や天野彦次郎のような、名もなき、あるいは記録に残りにくい商人たちの地道な経済活動と、社会の連続性を維持しようとする粘り強い努力があった。彼らこそが、物流を繋ぎ、文化を担い、地域社会を支えることで、次代の礎を築いた真の功労者の一翼であったと言える。

最後に、本報告の出発点となった歴史シミュレーションゲームの存在にも触れておきたい。ゲームのキャラクターデータという、一見すると学術研究の対象とはなり得ない情報が、歴史の狭間に埋もれた人々の生活史を掘り起こし、新たな問いを生み出すための、意外な「入り口」となりうる可能性が示された。今後、こうした異分野からのアプローチが、これまで光の当たらなかった多様な人々の営みに目を向けさせ、我々の歴史理解をより豊かで複眼的なものにしていくことへの期待を述べて、本報告書の結びとしたい。

引用文献

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  2. 『信長の野望嵐世記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/ransedata.cgi?keys13=6&print=20&tid=&did=&p=14
  3. 信長の野望嵐世記武将FILE: 中古 | シブサワコウ | 古本の通販ならネットオフ https://www.netoff.co.jp/detail/0000957300/
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