最終更新日 2025-06-06

天野景貫

「天野景貫」の画像

日本の戦国時代の武将「天野景貫(天野藤秀)」に関する調査報告

はじめに

天野景貫、あるいは天野藤秀の名で知られるこの人物は、戦国時代の遠江国において活動した国衆である。彼の生涯は、駿河の今川氏、三河・遠江の徳川氏、そして甲斐の武田氏という、当時東海地方に覇を唱えた強大な戦国大名たちの勢力争いの渦中で展開された。本報告書は、この天野藤秀(以下、本報告では主に「藤秀」の呼称を用いるが、景貫との関係性については後述する)の出自、家督継承の経緯、諸勢力との関係性の変遷、主要な戦歴、そして「藤秀」と「景貫」という呼称を巡る問題点について、現存する史料と近年の研究成果に基づいて多角的に明らかにすることを目的とする。

天野藤秀という一人の武将の生き様を追うことを通じて、戦国時代における国衆が置かれた複雑な政治的・軍事的状況と、その中で彼らが繰り広げた必死の生存戦略の一端を浮き彫りにすることを目指すものである。彼の行動は、時に変節と見なされることもあったが、それは弱小勢力が激動の時代を生き抜くための現実的な選択の連続であったとも解釈できる。本報告が、天野藤秀という人物、ひいては戦国時代の国衆研究の一助となれば幸いである。

第一章:天野藤秀の出自と天野氏の系譜

一 藤原南家工藤氏の血脈と天野氏の起源

天野氏の出自は、藤原南家工藤氏の一族に遡るとされている 1 。その祖とされる藤原景光が伊豆国田方郡天野郷(現在の静岡県伊豆の国市天野)に移り住んだことが、天野という姓の起源であると伝えられている 1 。鎌倉時代初期には、天野遠景が源頼朝に仕え、幕府の重鎮として活躍した。遠景は平家討伐の功績により、文治元年(1185年)には鎮西奉行(初代)に任じられたが、赴任地での反発が強く解任され、本貫の地である天野郷に帰ったとされる 1 。この時期の天野氏は、鎌倉幕府草創期において一定の役割を果たした有力な御家人であったことが窺える。

その後、天野氏は遠江国をはじめ、三河国、安芸国など各地に分家し、それぞれが国人領主として勢力を扶植していった 2 。戦国時代に至る遠江天野氏も、この流れを汲む一族である。天野氏は藤原南家という名門の出自を誇りとしたが、戦国期における遠江の一国衆という現実は、大勢力の狭間で翻弄されるものであった。この出自意識と現実との乖離は、惣領職を巡る一族内の対立や、外部勢力に対する複雑な交渉態度に影響を及ぼした可能性が指摘できる。名門としての自負が、家の権威や格を維持しようとする行動に繋がり、それが時には惣領職への執着や、今川氏・武田氏・徳川氏といった大名との外交における名分と実利のバランスを重視する姿勢として現れたのかもしれない。

二 遠江天野氏の展開:安芸守家と宮内右衛門尉家の分立と惣領職を巡る動向

戦国期の遠江天野氏には、大きく分けて二つの系統が存在した。一つは、犬居城(現在の静岡県浜松市天竜区春野町)を拠点とし、天野氏本来の惣領家と目される安芸守(七郎)系統である。もう一つは、秋葉城(同市天竜区春野町領家)などを拠点とした宮内右衛門尉(四郎)系統であり、天野藤秀はこの宮内右衛門尉家の系統に属する 1

これら二つの系統は、必ずしも安定した関係にあったわけではなく、史料によれば互いに惣領の地位を交換しながら家を運営していた時期もあったとされ、一族内における権力構造は流動的であったと考えられる 1 。このような内部状況は、天野氏全体の結束力を弱め、外部勢力からの介入を許す要因ともなり得た。藤秀は、この宮内右衛門尉系統の惣領であった小四郎虎景の子として誕生した 1

さらに、天野氏の内部対立の淵源は古く、南北朝時代には一族が南朝方と北朝方に分裂して争った歴史があり、この対立構造が戦国時代に至るまで何らかの形で影響を及ぼしていた可能性も否定できない 1 。長期にわたるこのような内部の不安定要因は、天野氏が遠江国において強固な勢力を築き上げる上での障害となり、今川氏のような外部の大勢力がその統制を強める隙を与えたとも考えられる。例えば、藤秀の父・虎景が没し、幼少の藤秀が家督を継いだ際、惣領職が安芸守家の天野景泰に移ったのは、こうした一族内部の力関係の変動を示す一例である 2 。今川義元は、景泰に惣領職を安堵しつつも、藤秀に対しても別途感状を与えるなど、両系統を並立させるかのような動きを見せているが 2 、これは今川氏が天野氏内部の対立構造を利用し、天野氏を一元的な強力な勢力とさせず、自らの統制下に置きやすくするための巧妙な方策であったと推測される。このような状況下で、藤秀が後に惣領職を奪還する過程は、単なる個人的な成功に留まらず、今川氏の統制策を乗り越え、自系統の優位を確立しようとする苦難の道のりであったと言えよう。

第二章:天野藤秀の生涯

一 誕生と家督相続:若年での苦難と台頭

天野藤秀は、遠江天野氏の宮内右衛門尉系統に属する天野小四郎虎景の嫡男として生を受けた 1 。幼名は犬房丸と伝えられている 2

藤秀の父・虎景は、天文16年(1547年)7月までに死去したとみられる。同月、藤秀は今川義元から父の知行を安堵されたものの、この時まだ幼少であった 1 。戦国時代の国衆にとって、当主の若年での代替わりは、一族内部の権力闘争や外部勢力による介入を招きかねない、極めて不安定な状況を生じさせるものであった。藤秀の場合も例外ではなく、彼が幼少であり、かつ宮内右衛門尉系統に有力な後見人が存在しなかったことから、天野氏の惣領職は安芸守系統の天野景泰の手に渡り、さらに父・虎景に属していた同心や被官までもが景泰の支配下に置かれるという事態に至った 1 。これは、若き藤秀にとって、その後の波乱に満ちた生涯の幕開けとなる大きな試練であった。この初期の苦境は、藤秀が後に見せる粘り強い交渉力や、状況に応じて巧みに立場を変える処世術を育む一因となった可能性も考えられる。一度失ったものを取り戻すという経験は、彼の政治的、軍事的な行動原理に少なからぬ影響を与えたであろう。

二 今川氏配下としての活動と実績

戸田康光成敗など初期の軍功

家督を継いだものの、実権を掌握するには至らなかった藤秀であるが、若くして今川氏配下の武将として活動を開始する。天文16年(1547年)9月、今川義元が命じた三河国の戸田康光成敗を目的とした田原本宿における合戦などで軍功を挙げ、義元から感状を賜っている 2 。興味深いのは、この合戦には当時の惣領であった天野景泰も参戦しており、今川氏は藤秀と景泰の両者に対して、それぞれ別個に感状や指示を与えている点である。これは、前述の通り、今川氏が天野氏の惣領職を安芸守家の景泰に認めつつも、宮内右衛門尉家の藤秀をも一定程度評価し、両系統を並立させることで天野氏全体を統制下に置こうとした戦略の表れと解釈できる 2 。藤秀は、このような状況下でも着実に軍功を積み重ね、自身の存在感を徐々に高めていった 1

惣領職の奪還と今川氏との関係

天野藤秀と、惣領の地位にあった安芸守系統の天野景泰・元景父子との間には、所領問題を巡って度々対立が生じていた 2 。この対立は、単なる個人的な確執に留まらず、天野氏内部の二大系統間の主導権争いの側面も持っていたと考えられる。

永禄5年(1562年)2月、事態は大きく動く。今川氏真の裁定により、藤秀の知行および代官職が安堵されたのである 1 。これは、事実上、藤秀が景泰方から惣領としての実権の一部を奪還したことを意味する。藤秀は、今川氏の権威と裁定を巧みに利用し、長年の懸案であった惣領職奪還への大きな一歩を踏み出したと言える。この背景には、藤秀のこれまでの軍功や、今川氏に対する恭順な姿勢が評価された可能性に加え、今川氏側にも、天野氏内部の勢力バランスを再調整することで、より自らにとって都合の良い統制体制を構築しようとする意図があったのかもしれない。

この今川氏真の裁定に対して、景泰・元景父子は強い不満を抱いたとみられ、翌永禄6年(1563年)12月にはついに今川氏から離反するという挙に出た 2 。これに対し、藤秀は今川方に留まり、離反した景泰らを討伐する側に回った。その結果、藤秀は今川氏より正式に天野氏の惣領職を安堵されるに至る 1 。これにより、長らく続いた天野氏の二系統が並立する状態は解消され、藤秀率いる宮内右衛門尉系統が名実ともに天野氏の惣領となったのである。この一連の出来事は、藤秀が単なる武勇だけでなく、政治的な駆け引きにも長けていたことを示唆している。

三 激動の時代:今川、徳川、武田の狭間での選択

永禄年間後半から元亀・天正年間にかけて、遠江国は今川氏の衰退、徳川家康の台頭、そして武田信玄の侵攻という激動の時代を迎える。天野藤秀もまた、この大きな歴史のうねりの中で、一族と所領の存続を賭けた困難な選択を迫られることとなる。

今川氏の衰退と徳川家康への一時的従属

永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄と三河の徳川家康が連携し、今川領国への同時侵攻を開始する(駿河侵攻)。この未曾有の危機に際し、藤秀は当初、今川方の武将として、同じく遠江の国衆である奥山定友や知久氏の兄弟らと共に、自らの居城である犬居城に籠城し、抵抗の姿勢を示した 1

しかし、今川氏の劣勢が明らかになる中で、翌永禄12年(1569年)3月頃より、藤秀は徳川家康からの調略に応じるようになる。そして、最終的には徳川氏に従属し、家康の遠江国侵攻に協力する立場へと転じた 1 。この変節は、急速に弱体化する今川氏に見切りをつけ、新たに遠江の支配者として台頭しつつあった徳川氏に接近することで、自らの生き残りを図ろうとした現実的な判断であったと言えよう。戦国時代の国衆にとって、主家の盛衰を見極め、時流に応じて従属先を変えることは、必ずしも珍しいことではなかった。

武田信玄の遠江侵攻と武田方への帰属

徳川氏に一時的に従属した藤秀であったが、その一方で、武田氏とも繋がりを持っていた形跡が窺える。永禄11年(1568年)12月、武田方の将・秋山虎繁(信友)が信濃国伊那郡から遠江国北部(北遠)に侵攻した際、藤秀がこれを案内したとする記録が『三河物語』に見られる 2 。これが事実であれば、藤秀は徳川氏に従属する以前から、あるいは従属と並行して、武田方とも通じていたことになり、その外交姿勢は極めて複雑であったと言える。この行動は、後に「三枚舌外交」とも評される所以である 1

そして、元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大規模な徳川領国への侵攻作戦(西上作戦)を開始すると、藤秀の立場はより鮮明になる。彼は武田氏に明確に従属し、その証として嫡男である小四郎景康を人質として甲府に差し出した 1 。これにより、天野氏の居城である犬居城は、武田氏による遠江侵攻の重要な前線拠点の一つと化した。犬居城はこの時期に武田氏によって改修が加えられたとされ、現在残る遺構にもその影響が見られる可能性が指摘されている 7

天野藤秀のこのような今川氏から徳川氏へ、そして武田氏へと主君を変遷させた行動は、戦国時代の国衆が生き残るための典型的な戦略であったと解釈できる。遠江国は、駿河の今川、三河・遠江への進出を図る徳川、そして信濃から南下してくる武田という、三大勢力の力がぶつかり合う地政学的に極めて不安定な地域であった。このような状況下で、一つの勢力に固執し殉じることは、自領と一族の滅亡に直結する可能性が高かった。藤秀は、各勢力の力関係を冷静に見極め、その時々で最も有利、あるいは最も危険の少ない選択肢を選び続けたのであろう。これは倫理的な問題として捉えるよりも、むしろ自領と一族の保全を最優先とした結果の、現実的な対応であったと理解する必要がある。

犬居城攻防戦と「犬居崩れ」の真相

武田方となった天野藤秀と犬居城は、徳川家康にとって遠江支配を確立する上での大きな障害となった。天正2年(1574年)4月、家康は犬居谷に軍勢を進め、犬居城を攻撃した。しかし、藤秀は悪天候なども味方につけ、この徳川軍の攻撃を巧みに防ぎきった 2

さらに藤秀は、攻城戦に失敗し撤退を開始した徳川軍に対し、油断を見逃さず奇襲を敢行した。この奇襲は成功し、徳川軍は総崩れとなって大きな損害を被ったと伝えられている 1 。この戦いは「犬居崩れ」として知られ、天野藤秀の武勇と戦略眼を示す逸話として後世に語り継がれている。この時、徳川方の勇将・大久保忠世が追撃を受けて崖から転落したものの、再度崖をよじ登り敵兵3名を討ち取ったという武勇伝も、この「犬居崩れ」に関連して伝えられている 1

しかし、武田氏全体の戦局は、翌天正3年(1575年)5月(旧暦)の長篠の戦いにおける大敗によって大きく傾く。この長篠の戦いの際、藤秀は犬居谷の守備を命じられており、直接戦闘には参加せず領国に残留していた 2

長篠の戦いの後、徳川家康は遠江・駿河における武田方拠点への反攻を本格化させる。犬居谷もその例外ではなく、再び徳川軍の侵攻を受けることとなった。武田方の二俣城への補給路を遮断する目的もあり、徳川軍は犬居谷の諸城を攻撃した。藤秀は朝比奈泰方と共に光明城を守備したが7月上旬までに攻略され、犬居城の支城である樽山城や勝坂城も相次いで徳川方の手に落ち、犬居谷の大半が徳川氏によって制圧されてしまった 2

それでも藤秀は抵抗を諦めず、犬居谷の北方にある鹿鼻城に拠点を移し、失地回復の機会を窺った。武田勝頼も、藤秀ら北遠方面の戦線を維持すべく、信濃国伊那郡の松島衆や大草衆を奥山郷に派遣するなど支援を試みている 2 。しかし、大勢は覆し難く、天正4年(1576年)夏、徳川家康による二度目の大規模な天野氏討伐が行われると、ついに本拠地である犬居城は落城。天野藤秀は甲斐の武田氏を頼って遠江から逃亡し、ここに犬居天野氏による犬居谷支配は終焉を迎えた 7

以下に、天野藤秀の主君変遷と主要な動向をまとめた表を示す。

天野藤秀 主君変遷および主要動向表

時期 (和暦/西暦)

仕えた主君

主要な出来事・動向

藤秀の立場・役職など

天文16年 (1547)

今川義元

父・虎景死去、家督相続。父の知行安堵。三河田原本宿の合戦(戸田康光成敗)で軍功、感状を得る 2

宮内右衛門尉家当主(幼少)、惣領職は景泰へ 2

永禄5年 (1562)

今川氏真

今川氏真の裁定により知行・代官職安堵、事実上の惣領職奪還 1

天野氏惣領職へ

永禄6年 (1563)

今川氏真

離反した天野景泰らを討伐、正式に惣領職を安堵される 2

天野氏惣領

永禄11年 (1568)

(今川氏真) → (徳川家康) / (武田信玄とも連携か)

今川領国への武田・徳川侵攻開始。当初今川方として犬居城籠城 2 。秋山虎繁の北遠侵攻を案内したとの説あり(『三河物語』) 2

犬居城主

永禄12年 (1569)

徳川家康

徳川方の調略を受け従属、家康の遠江侵攻に協力 1

徳川氏配下の国衆

元亀3年 (1572)

武田信玄

武田信玄の西上作戦開始に伴い、武田氏に明確に従属。嫡男・景康を人質として甲府へ送る 1

武田氏配下の先方衆、犬居城主

天正2年 (1574)

武田勝頼

徳川家康による犬居城攻撃を撃退(犬居崩れ) 1

武田氏配下の先方衆、犬居城主

天正3年 (1575)

武田勝頼

長篠の戦い(藤秀は犬居谷守備)。徳川軍の反攻により光明城、樽山城、勝坂城など失陥。鹿鼻城で抵抗 2

武田氏配下の先方衆

天正4年 (1576)

武田勝頼

徳川家康による犬居城攻撃で落城、甲斐へ逃亡 7

所領を失う

天正7年 (1579)頃

武田勝頼

武田領国内で替地を与えられる 2 。勝頼より光明城攻略を命じられる 2

武田氏家臣

天正10年 (1582)

(武田氏滅亡) → 北条氏照

武田氏滅亡後、武蔵八王子城主・北条氏照を頼り配下となる 1

北条氏照配下

天正11年 (1583)

北条氏照

下野国小山城の在番を命じられる。嫡男・景康が対佐竹氏戦線で活躍 2

小山城在番

天正12年 (1584)

北条氏照

4月、「天野文書」に名が見える(史料上の最後の記録) 2

没年不詳

四 武田氏滅亡後の流転と北条氏への仕官

天正7年(1579年)頃には、本拠地である犬居谷を追われた藤秀に対し、主君である武田勝頼から武田領国内において替地が宛行われた記録がある 2 。これは、武田氏が依然として藤秀を自らの家臣として遇し、その戦力を評価していたことを示している。

しかし、天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐によって、武田氏は滅亡という破局を迎える。主家を失った藤秀は、新たな活路を求めて関東へと向かい、当時関東に広大な勢力圏を築いていた相模国の北条氏政の弟(一説には子)で、武蔵八王子城主であった北条氏照を頼り、その配下となった 1 。武田氏滅亡によって多くの武田旧臣が新たな仕官先を求めて流浪しており、藤秀のこの行動もその一つであった。北条氏と武田氏はかつて同盟関係にあった時期もあり、また地理的にも近接していたことから、藤秀にとって北条氏は頼るべき自然な選択肢の一つであったと考えられる。北条氏としても、藤秀のような遠江での戦歴や武田氏傘下での活動を通じて一定の武名と経験を有する武将を迎え入れることは、自らの軍事力強化、特に北関東で対立していた佐竹氏などへの備えとして有益であったと推測される。

北条氏に仕えた藤秀は、翌天正11年(1583年)3月には、下野国小山城(現在の栃木県小山市)の在番を命じられている。この小山城は、北条氏にとって佐竹氏や宇都宮氏など北関東の諸勢力に対する最前線の拠点の一つであり、藤秀は嫡男の景康と共にこの重要な城の守備と、対佐竹氏を主とする軍事活動に従事した。景康はこの時期、対佐竹氏との戦いなどで武功を挙げたと記録されている 1 。北条氏への仕官は、藤秀父子にとって再起の機会であったが、それはあくまで北条氏の勢力圏内での限定的なものであり、かつての犬居谷のような本領を回復するには至らなかった。これは、一度本拠地を失った国衆が、強大な大名の庇護下でしか存続しえない戦国時代末期の厳しい現実を物語っている。

五 晩年と最期:史料に見る最後の記録と不明な点

天野藤秀の活動が史料上で最後に確認できるのは、天正12年(1584年)4月付の「天野文書」とされるものである 2 。この「天野文書」が具体的にどのような内容の書状や記録であり、どこに所蔵されているのかといった詳細については、現時点ではさらなる調査を要する 2 。この文書が、藤秀の最後の確実な記録として極めて重要な史料であることは間違いないが、その内容が不明であるため、彼の最晩年の具体的な活動や境遇、そして死に至るまでの経緯は依然として謎に包まれている。

この天正12年の記録以降、藤秀の動静は史料から途絶え、その没年や最期の地も不詳である 2 。一説には、天正4年(1576年)の犬居城落城以降に犬居の地で死去したともされるが、これは後述する「景貫」を藤秀の子とする説に関連するものであり、現在の通説とは異なっている 2 。北条氏に仕えていたことを考えると、関東のいずれかの地で没した可能性が高いが、確証はない。おそらく、かつての本拠地である犬居の地を再び踏むことなく、その波乱に満ちた生涯を終えたものと考えられている 1

北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされるのは天正18年(1590年)の小田原征伐であり、藤秀の最後の記録である天正12年から6年後のことである。この間に藤秀が死去したのか、あるいは何らかの理由で史料に残るような活動をしなくなったのかは不明である。晩年の記録が乏しいことは、藤秀が歴史の表舞台から静かに退場していったことを示唆しているのかもしれない。

第三章:「藤秀」と「景貫」―呼称と実名を巡る諸説

天野藤秀に関しては、その呼称について「藤秀」と「景貫」という二つの名が伝えられており、これが同一人物を指すのか、あるいは親子など別人を指すのかという問題が長らく議論されてきた。

一 同一人物説とその根拠(『天野文書』、研究者の見解)

現在の歴史学界においては、天野藤秀と天野景貫は基本的に同一人物であり、その実名は「藤秀」であったとする説が通説となっている 2 。この説を支持する研究者としては、秋本太二氏や、特に鈴木将典氏の著作『遠江天野氏・奥山氏』における詳細な検討が挙げられる 2

藤秀の改名については、幼名の犬房丸から、小四郎藤秀、そして官途名である宮内右衛門尉を冠した宮内右衛門尉藤秀へと変遷したと考えられている 2 。「景貫」という名は、この藤秀の別名、あるいは特定の時期や状況下で使用された呼称の一つであった可能性が指摘されている 2 。天正12年(1584年)の「天野文書」においても「藤秀」の名が見られることは、彼が晩年までこの実名を名乗っていたことを示唆する傍証となり得る 2

二 親子説とその背景(諸系図の記述)

一方で、古くは「藤秀」と「景貫」を別人と捉え、親子関係にあるとする説も存在した。この説の主な背景となっているのは、江戸時代などに編纂された遠江天野氏に関する諸系図の記述である。これらの系図類の中には、天野虎景の子を「藤秀」とし、さらにその「藤秀」の子を「景貫」として記載しているものが見られる 2

また、この親子説と関連して、「藤秀」は犬居城が落城した天正4年(1576年)以降に犬居の地で死去し、その子である「景貫」が天野氏の官途である宮内右衛門尉を名乗り、家督を継いだとする見解も存在した 2 。この説は、犬居城落城という大きな出来事と人物の交代を結びつけるものであり、一見整合性があるようにも思われるが、前述の通り、現在の研究では通説とはなっていない。

三 本報告における見解

本報告においては、鈴木将典氏ら近年の研究成果に基づき、基本的に「藤秀」と「景貫」を同一人物とみなし、実名を「藤秀」とする立場をとる。「景貫」という呼称については、藤秀の通称、あるいは官途名に関連した別名の一つとして、特定の文脈で使用された可能性を考慮する。ただし、一部の史料や記録においては「景貫」の名で言及される場合も見られるため(例: 9 における犬居城主「天野藤秀と嫡男景貫」という記述は、親子説に依拠している可能性がある)、その都度、史料の性質や文脈を考慮しつつ、慎重に扱う必要がある。

この「藤秀」と「景貫」の呼称問題は、戦国時代の武将によく見られる実名、通称、官途名、受領名、法名、別名などが複雑に混在して使用されたことや、後世に編纂された系図における情報の錯綜や誤認が原因で生じたものと考えられる。一次史料の精査と、それに基づく専門的な研究の進展によって同一人物説が有力となった経緯は、歴史研究における史料批判の重要性を示す好例と言えよう。この呼称問題を整理することは、天野藤秀の生涯と事績を正確に追跡し理解する上で不可欠な作業である。

第四章:天野藤秀の家族と一族

天野藤秀の生涯を理解する上で、彼の家族構成や一族の動向も重要な要素となる。特に父・虎景の事績や、子・景康のその後の運命は、藤秀の置かれた状況や犬居天野氏の行く末を考える上で欠かせない。

一 父・天野虎景

天野藤秀の父は、天野小四郎虎景である。虎景は、藤秀と同じく遠江天野氏の宮内右衛門尉系統の惣領であり、戦国時代前期から中期にかけて今川氏配下の国衆として活動した人物である 1

虎景の事績としては、永正13年(1516年)から翌年にかけて起こった今川氏親と斯波氏との抗争において、氏親方として戦功を挙げ、賞された記録が残る(山中大滝合戦) 11 。一時期、今川氏の領主権介入に反発して離反したこともあったようだが、天文6年(1537年)には今川義元による遠江見付端城攻めに参加しており、この頃には今川氏に帰参していたことが確認できる 11

天文14年(1545年)に勃発した第二次河東一乱(今川氏と北条氏の抗争)においては、駿河狐橋合戦に同心・被官を率いて参陣し、被官の戦功を今川義元に上申している。興味深いのは、この際、天野氏のもう一方の系統である安芸守家の天野景泰も同じく参陣し、虎景とは別に義元から感状を与えられている点である 11 。これは、今川氏が天野氏の二大系統を並立させ、相互に牽制させることで統制を強化しようとした政策の一端を示すものと考えられる。

虎景の活動を示す史料は天文14年以降途絶え、天文16年(1547年)7月には嫡男である犬房丸(後の藤秀)に虎景の知行が安堵されていることから、天文14年8月から天文16年7月の間に死去したものと推定されている 11

二 子・天野景康、福房の動向

天野藤秀の子としては、景康(小四郎とも)と福房の名が伝えられている 1 。特に嫡男と目される景康は、父・藤秀の生涯と深く関わり、その後の犬居天野氏の運命を左右する存在であった。

景康の武田氏人質時代と北条氏配下での活動

嫡男・景康は、元亀3年(1572年)、父・藤秀が武田信玄に明確に従属した際、その忠誠の証として甲府に人質として送られた 1 。これは戦国時代において、従属関係を結ぶ際にしばしば見られた慣行である。

天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、景康は父・藤秀と共に新たな主君を求めて関東へ赴き、北条氏照の配下となった。そして翌天正11年(1583年)、父と共に下野国小山城の在番を命じられ、対佐竹氏戦線などの軍事活動に従事し、武功を挙げたとされる 1 。この時期、景康は父と共に北条氏の戦力として一定の役割を果たしていたことが窺える。

北条氏滅亡後の景康の消息と犬居天野氏宮内右衛門尉家の終焉

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐によって北条氏は滅亡する。この北条氏の滅亡は、その配下にあった天野景康の運命にも大きな影響を与えた。北条氏滅亡後の景康の具体的な動向については、残念ながら判然としない部分が多い。一説には甲斐国に戻ったとも、あるいは駿河国に移ったとも伝えられている。興味深いことに、いずれの地に赴いたとする伝承においても、景康が寺院を建立したという話が残されている 1 。これは、武士としての道を絶たれた後、宗教に帰依したか、あるいは一族の菩提を弔うために行った行為であった可能性も考えられる。

しかし、その後の景康の子孫の動向もまた不明であり、かつて遠江国に勢力を有した名門・犬居天野氏の主流である宮内右衛門尉家は、歴史の表舞台から姿を消し、事実上、この系統は途絶えたものとされている 1

この犬居天野氏本流の断絶とは対照的に、天野氏の別系統である三河天野氏出身の天野康景(藤秀とは遠縁の関係にあたる 1 )は、徳川家康に早くから仕え、三河三奉行の一人に数えられるなど重用された。康景は関ヶ原の戦いの功により、慶長7年(1602年)には駿河国興国寺藩1万石の大名に取り立てられたが、慶長12年(1607年)に些細な事件が原因で改易されている。しかし、その子の康宗は後に赦免され、1千石の旗本として徳川家に仕え、家名を存続させることに成功している 12

天野景康と犬居天野氏本流の最終的な結末は、戦国乱世を生き抜いたとしても、近世大名・旗本体制へと移行する大きな時代の転換期において、旧来の国衆勢力が淘汰されていく厳しい過程を象徴していると言えよう。北条氏という後ろ盾を失ったことが景康にとって致命的であり、徳川氏との間に強固な主従関係を築けなかったか、あるいは築く機会に恵まれなかったことが、家の断絶に繋がったと考えられる。豊臣政権から徳川幕府へと移行する過程で、多くの国衆や小領主が所領を失い、大名の家臣となるか、帰農するか、あるいは歴史の闇に消えていくかの選択を迫られた。犬居天野氏宮内右衛門尉家もまた、この歴史の大きな潮流の中でその姿を消したのである。

以下に、天野藤秀を中心とした遠江天野氏の略系図を示す。

遠江天野氏略系図(藤秀関連)

藤原景光(天野氏祖)

(伊豆天野氏・遠江天野氏などへ分岐)

【遠江天野氏 宮内右衛門尉家】             【遠江天野氏 安芸守家】
:                                      :
天野景貞(民部少輔)                           天野景泰
|                                      |
天野虎景(小四郎)                             天野元景

天野藤秀(犬房丸、小四郎、宮内右衛門尉)
(景貫とも)
┣━━━━━━━━━━┓
天野景康(小四郎)      天野福房

  • 注:本系図は主要人物の関係を示すための略系図であり、全ての人物や詳細な分岐を網羅するものではない。

第五章:天野藤秀と関連城郭

天野藤秀の軍事活動を理解する上で、彼が拠点とした城郭や、戦いに関わった城郭の戦略的重要性、そしてそれらの支配関係を把握することは不可欠である。

一 本拠地・犬居城の戦略的重要性

犬居城(静岡県浜松市天竜区春野町犬居)は、遠江国北部の山間地帯、現在の春野地域に位置し、天野氏が代々本拠地としてきた山城である 1 。この城は、遠江と信濃を結ぶ重要な交通路であった秋葉街道(いわゆる「塩の道」)を押さえる要衝にあり、物流の結節点であると同時に、軍事戦略上も極めて重要な拠点であった 8 。山城としての防御機能に加え、山麓には城主の居館があったと推定されている 7

天野藤秀は、この犬居城を拠点として、その生涯における主要な軍事活動を展開した。特に、天正2年(1574年)には、徳川家康自らが率いる軍勢による攻撃を一度は撃退し(犬居崩れ)、その武名を知らしめた 1 。しかし、最終的には天正4年(1576年)に徳川軍の再度の攻撃により落城し、藤秀は遠江を追われることとなる 7

犬居城は、藤秀が武田氏に従属していた時期には、武田氏によって改修が加えられたとされており、その影響は現在も残る空堀や堀切といった遺構に見て取れる可能性がある 7

二 その他の関連城郭(秋葉城、樽山城、勝坂城、鹿鼻城、光明城など)における役割

天野藤秀は、本拠地である犬居城以外にも、その支配領域や戦況に応じて複数の城郭に関与している。

  • 秋葉城(静岡県浜松市天竜区春野町領家): 宮内右衛門尉系統の初期の拠点の一つであったと考えられている 4 。犬居城の南西に位置し、犬居谷への入り口を押さえる役割も担っていた可能性がある。
  • 樽山城・勝坂城(静岡県浜松市天竜区春野町): これらは犬居城の重要な支城であり、犬居城防衛網の最前線を構成していた 2 。天正3年(1575年)、徳川軍による犬居谷侵攻の際には、本城である犬居城に先立って攻略された。これらの支城の失陥は、犬居城の孤立を深め、最終的な落城へと繋がる大きな要因となった 9
  • 鹿鼻城(所在地不詳、犬居谷北方か): 犬居城が徳川軍の手に落ちた後、藤秀が一時的にこの城に籠もり、犬居谷の奪還を試みたとされる 2 。犬居谷北方の防衛拠点、あるいは再起のための拠点としての役割が期待されたものと思われる。
  • 光明城(静岡県浜松市天竜区山東): 犬居城の南西約5キロメートルに位置する山城で、元は今川氏によって築かれたとされる 7 。天正3年(1575年)の徳川軍の侵攻時には、天野藤秀は武田方の武将・朝比奈泰方と共にこの光明城を守備したが、激戦の末に攻略された 2 。その後、天正7年(1579年)には、逆に武田勝頼から藤秀に対して光明城の攻略が命じられており、この地域における武田・徳川間の争奪の焦点の一つであったことがわかる 2
  • 小山城(栃木県小山市): 武田氏滅亡後、藤秀が北条氏照に仕えた際、天正11年(1583年)に在番を命じられた城である 2 。下野国に位置し、北条氏にとって対佐竹氏・宇都宮氏の最前線であった。藤秀は嫡男・景康と共にこの城の守備にあたった。
  • 笹ヶ嶺城(静岡県浜松市天竜区春野町豊岡): 犬居城の支城の一つであり、犬居城が徳川軍の攻撃を受けた際に、同時に攻められ落城したと記録されている 7

これらの城郭群は、天野藤秀が置かれた戦略的環境と、彼が展開した防衛戦略を具体的に示している。藤秀は、本城である犬居城を中心に、樽山城、勝坂城、笹ヶ嶺城といった支城や、光明城のような連携拠点を活用し、時には山間部の地の利を活かした防衛網を構築して、徳川氏やその他の敵対勢力からの侵攻に対抗しようとした。これらの城郭は単独で機能するのではなく、相互に連携し、情報伝達、兵力移動、兵站維持の拠点として機能するネットワークを形成していたと考えられる。しかし、一つ一つの城の兵力は限られており、連携が断たれたり、主要な支城が失陥したりすると、本城も危機に陥るという脆弱性も抱えていた。藤秀の戦歴は、これらの城郭をいかに効果的に運用し、また、いかにして失っていったかの記録であり、戦国時代の国衆による領土防衛の現実を具体的に示していると言えよう。

第六章:天野藤秀の人物像と歴史的評価

天野藤秀の生涯を辿ると、戦国時代の典型的な国衆の姿が浮かび上がってくる。それは、強大な戦国大名の狭間で、一族と所領の存続を賭けて必死に生き抜こうとした姿である。

一 戦国時代の国衆としての生存戦略

天野藤秀の行動は、まさに戦国時代の国衆が直面した厳しい現実とその中での生存戦略を体現していると言える 1 。彼は、まず今川氏の権威を利用して一族内の対立を制し、惣領職を奪還した。その後、今川氏が衰退すると、時流を読んで徳川家康に一時的に従属し、さらに武田信玄の勢力が遠江に及ぶと、今度は武田氏に帰属するというように、その時々の情勢に応じて巧みに主君を変えることで、自らの立場と所領の保全を図ろうとした 1

このような行動は、後世の価値観から見れば変節と映るかもしれないが、当時の国衆にとっては、より強力な庇護者を求めて従属先を変えることは、生き残りのための常套手段であった。特に、遠江国のように複数の大勢力が国境を接し、常に緊張状態にある地域においては、一つの勢力に固執することがかえって危険を招くことも少なくなかった。藤秀は、各勢力の力関係を冷静に見極め、その時々で自らにとって最も有利、あるいは最も危険の少ない選択肢を選び続けたのであろう。

また、天正2年(1574年)の「犬居崩れ」において徳川家康の本隊を撃退した武勇や、犬居城失陥後も鹿鼻城に拠って抵抗を続けた粘り強さは、彼が単なる弱小領主ではなく、困難な状況下でも果敢に戦う気概と戦略性を備えた武将であったことを示している 1

二 「三枚舌外交」と評される処世術の評価

天野藤秀の外交戦略の中でも特に注目されるのが、徳川家康に従属しつつ、その裏では武田方の秋山虎繁の北遠侵攻を手引きしたともされる行動である(『三河物語』による) 2 。この二股的な対応は、一部で「三枚舌外交」と評されている 1

この行動をどう評価するかは難しい問題である。一方の勢力に完全に依存することの危険性を深く認識し、常に複数の選択肢を保持しようとした高度な外交戦略、あるいはリスクヘッジの一環と見ることもできる。しかし同時に、このような行動は各勢力からの絶対的な信頼を損なう危険性を常に孕んでおり、結果的にどの勢力からも盤石な支持を得られなかった一因となった可能性も否定できない。

しかし、戦国乱世という極限状況においては、このような処世術もまた、小勢力が大勢力の狭間で生き残るための現実的な知恵であり、一概に非難されるべきものではないという評価も成り立つ。藤秀の行動を評価する際には、彼が置かれた厳しい地政学的状況と、当時の国衆の一般的な行動様式を十分に考慮する必要がある。単に倫理的な善悪で断じるのではなく、彼の選択がどのような戦略的意図に基づき、そしてどのような結果をもたらしたのかを客観的に分析することが重要である。

三 遠江地域における影響と歴史的位置づけ

天野藤秀は、遠江国の国衆の中でも、特に武田信玄・勝頼父子との結びつきが強く、武田氏による遠江侵攻およびその後の支配において、現地の協力者として重要な役割を果たした。犬居城を拠点とした彼の抵抗は、徳川家康による遠江全域の平定を遅らせる一因となったと言える。

しかし、その奮闘も虚しく、最終的には本拠地である犬居城を失い、遠江を追われて他国へ流転することを余儀なくされた。そして、彼の子・景康の代で犬居天野氏の宮内右衛門尉家の系統は歴史の表舞台から姿を消すこととなり、遠江における天野氏の勢力は事実上終焉を迎えた。藤秀の生涯は、戦国時代に数多く存在した国衆が辿った栄光と没落の軌跡を象徴しているかのようである。

歴史の勝者として名を残すことはできなかった天野藤秀であるが、その才覚と行動力によって、一時は強大な戦国大名を翻弄し、激動の時代を生き抜こうとした一人の武将として記憶されるべき人物であると言えよう 1 。彼の存在は、戦国時代の遠江地域の政治史・軍事史を理解する上で、また、戦国大名と国衆との関係性や、国衆の存在形態そのものを考察する上で、多くの示唆を与えてくれる。

おわりに

本報告書では、戦国時代の遠江国の国衆、天野藤秀(景貫)の生涯と事績について、現存する史料と研究に基づいて考察を試みた。

天野藤秀は、藤原南家工藤氏の血脈を引く名門の出自を持ちながらも、戦国時代という実力主義の世において、一族内部の惣領職を巡る争いや、今川、徳川、武田といった強大な外部勢力との間で絶えず困難な選択を迫られ続けた。彼は、幼少期に父を失い、一度は惣領職を他系統に奪われるという苦難を経験しながらも、今川氏の権威を巧みに利用してこれを奪還し、犬居城を拠点とする天野氏の当主としての地位を確立した。

その後の生涯は、まさに激動の戦国乱世を象徴するものであった。今川氏の衰退、徳川家康の台頭、そして武田信玄の遠江侵攻という大きな時代の転換点において、藤秀は自領と一族の存続を賭け、時には徳川氏に、そして後には武田氏に従属するという、極めて現実的な選択を繰り返した。その過程で見せた「犬居崩れ」のような目覚ましい武功や、複数の勢力と通じようとした複雑な外交戦略は、彼の武将としての能力と、小国衆としてのしたたかな生存術を示している。

しかし、武田氏の滅亡、そしてその後に仕えた北条氏の滅亡という、主家の相次ぐ崩壊は、藤秀とその一族の運命を大きく左右した。最終的に、犬居天野氏の宮内右衛門尉家は歴史の表舞台から姿を消すこととなり、藤秀自身もその最期は詳らかではない。

天野藤秀の生涯は、戦国時代における中小国衆が、いかにして大国の狭間で翻弄され、そして生き残りを図ろうとしたかを如実に物語っている。彼は歴史の敗者として終わったかもしれないが、その知略と武勇を尽くして時代の荒波に立ち向かった姿は、戦国時代の一つの確かな生き様として記憶されるべきであろう。天野藤秀に関する研究は、戦国期の遠江地域の政治史・軍事史をより深く理解する上で、また、戦国大名と国衆の関係性や、国衆という存在そのもののあり方を考察する上で、今後も重要な示唆を与え続けてくれるものと期待される。

引用文献

  1. 【大河ドラマ連動企画 第20話】どうする藤秀(天野藤秀)|さちうす - note https://note.com/satius1073/n/n44763aa3b07c
  2. 天野藤秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E8%97%A4%E7%A7%80
  3. 天野宮内左衛門尉景信館 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/015yamanashi/228amano/amano.html
  4. 天野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F
  5. 天野 藤秀(あまの ふじひで) | 武将どっとじぇいぴー https://busho.jp/imagawa/amano-fujihide/
  6. 浜松市立中央図書館 浜松読書文化協力会 https://www.lib-city-hamamatsu.jp/study/pdf/k-ieyasu.pdf
  7. 犬居城 笹ヶ嶺城 鶴ヶ城 光明城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/sizuoka/hamamatusitenryu.htm
  8. 犬居城の見所と写真・100人城主の評価(静岡県浜松市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1252/
  9. 勝坂城 http://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/totoumi/shiseki/hokuen/katsusaka.j/katsusaka.j.html
  10. 平宰相〜北条嫡男物語〜 - 足利義周の使者 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n0780gq/97/
  11. F018 天野景隆 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/f018.html
  12. 徳川家康をたった一度も裏切らなかった男「天野康景」。生涯貫き通した仰天の忠義とは? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/129276/
  13. 徳川家康に仕えていた天野康景(やすかげ)などを含む、天野家の家系図や歴史がわかる資料を探している。源... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000304655&page=ref_view
  14. 実は大事な働きをしていた天野康景の城 (坂崎城) | 愛知 https://ameblo.jp/mikawa-hide/entry-10748616869.html
  15. 天野康景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E5%BA%B7%E6%99%AF
  16. 遠江 犬居城[縄張図あり]-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tohtoumi/inui-jyo/