最終更新日 2025-06-06

天野興定

「天野興定」の画像

安芸の国人領主 天野興定に関する調査報告

序章:安芸の国人領主 天野興定

本報告書は、戦国時代の安芸国(現在の広島県西部)において活動した武将、天野興定(あまの おきさだ)について、現存する史料に基づき、その生涯、事績、そして彼を取り巻く歴史的背景を詳細に検討し、その実像に迫ることを目的とする。天野興定は、大内氏、尼子氏という二大勢力の狭間で揺れ動きつつも、安芸国の有力な国人領主として一定の役割を果たした人物である 1 。本報告を通じて、戦国期における地方武士の動向と、中国地方の複雑な政治状況の一端を明らかにしたい。

第一章:天野興定の生涯

第一節:出自と家系 – 生城山天野氏の系譜

天野氏の起源は伊豆国田方郡天野郷(現在の静岡県伊豆の国市)にあり、藤原南家工藤氏の一族、あるいは藤原北家足立遠元を祖とする説もある 2 。その末裔は各地に広がり、安芸国に下向した一族が安芸天野氏となった。

安芸天野氏には、大きく分けて二つの系統が存在した。一つは天野政貞を祖とする金明山天野氏(きんめいざんあまのし)であり、志芳堀越(しわほりごえ)を拠点としたため「堀天野氏」とも、あるいは「保利氏」とも称された 2 。もう一つが、天野顕義(あまの あきよし)を祖とし、志芳東村(しわひがしむら)を拠点とした生城山天野氏(おおぎやま-/いくしろやま-あまのし)であり、天野興定はこの生城山天野氏の系統に属する 1 。生城山天野氏は鎌倉時代に安芸国志芳庄の地頭として入部し、米山城(こめやまじょう)を築いて勢力を扶植したとされる 7

金明山天野氏と生城山天野氏は、同じ天野氏一族でありながら別家として扱われ、それぞれが安芸国内で独自の勢力基盤を築いていた 4 。このような二系統の分立は、天野氏全体の勢力拡大戦略や、周辺の有力大名との外交関係において、ある種の柔軟性や複雑性をもたらした可能性が考えられる。例えば、一方の系統が特定の勢力と結びついた場合でも、もう一方の系統が異なる選択肢を保持しやすかった、あるいは逆に一族内での連携や対立が生じた可能性も否定できない。

第二節:生没年と幼少期・青年期

天野興定の生年は文明7年(1475年)とされている 1 。没年については、天文10年(1541年)とする説が一般的である 10 。しかし、異説として享禄4年(1531年)8月23日に66歳で死去したとする記録も存在し、これは田村哲夫編修の『近世防長諸家系図綜覧』に拠るものである 11

没年の異説は、興定の事績評価に大きな影響を与える。天文10年没であれば、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いや天文10年の佐東銀山城攻略への参加が可能となるが、享禄4年没であればこれらの活動は興定本人によるものではないことになる。本報告では、複数の資料で支持される天文10年説を主軸としつつ、異説の存在も記しておく。

興定の通称は六郎、官位は民部大輔であったと伝わる 1 。戒名は高玄寺月光英心、墓所は安芸国志芳庄の高立寺(こうりゅうじ)とされる 1 。幼少期や青年期の具体的な事績に関する記録は乏しいが、父・興次(おきつぐ)と同様に、当時安芸国に大きな影響力を持っていた周防国の大内義興(おおうち よしおき)から偏諱(へんき:名前の一字を与えられること)を受けて「興」の字を用い、「興定」と名乗ったとされる 1 。これは、興定が若年から大内氏との間に一定の関係を築いていたことを示唆している。

第三節:父母・兄弟・妻子

興定の父は天野興次(1447年 - 1525年)である。興次は自在丸、六郎、民部太輔、讃岐守などと称され、法名は長徳院天陽機心、安芸国志芳庄の長徳寺(ちょうとくじ)に葬られた 2 。母は天野元範の娘と伝わる 2 。興定には興与(おきとも)という兄弟がいた 1

正室は、興定の叔父にあたる天野元貞(あまの もとさだ)の娘であった 1 。彼女は天文2年(1533年)7月14日に死去し、法名は玉相院真光妙如とされている 1 。このような一族内での婚姻は、戦国時代の国人領主層においては、家の結束を固め、所領や家督相続を安定させるための戦略的な意味合いを持つことが多かった。天野氏のような中小規模の国人領主にとって、一族の団結は外部勢力に対抗するための重要な基盤であり、この婚姻も生城山天野氏内部の権力基盤強化に寄与したと考えられる。

興定には、長男の天野隆綱(あまの たかつな、? - 1556年)と次男の天野元定(あまの もとさだ、? - 1569年)という二人の息子がいた 1

天野興定関連主要人物一覧

関係

氏名

備考

主な関連スニペット

天野興次

生城山天野氏当主、大内義興より偏諱

2

天野元範の娘

2

兄弟

天野興与

1

正室

天野元貞の娘

興定の叔父・元貞の娘

1

長男

天野隆綱

興定の跡を継ぐが嗣子なし

1

次男

天野元定

兄・隆綱の跡を継ぐが嗣子なし、毛利元政を養子に

1

主君(初期)

大内義興

興定に偏諱を与える

1

主君(一時)

尼子経久

1

主君(後期)

大内義隆

1

連携関係

毛利元就

米山城攻防の仲介、吉田郡山城の戦いで共闘

1

連携関係

志道広良

毛利家臣、興定との起請文交換に関与

18

第二章:戦国武将としての天野興定

第一節:大内・尼子両勢力の狭間での動向

天野興定が生きた戦国時代の安芸国は、西の周防国を本拠とする大内氏と、北の出雲国を本拠とする尼子氏という二大勢力が覇権を争う最前線であった。興定をはじめとする安芸の国人領主たちは、これらの大勢力の動向に翻弄されつつ、自家の存続と勢力拡大を図るため、複雑な外交関係と軍事行動を展開した。

大内義興への従属と偏諱

興定の父・興次の代から、天野氏は大内氏の影響下にあったと考えられ、興定自身も大内氏の当主であった大内義興から偏諱を受け「興定」と名乗ったことは前述の通りである 1 。これは、興定が大内氏と主従関係に近い、あるいは少なくとも強固な同盟関係にあったことを示している。当時の国人領主にとって、有力大名から偏諱を受けることは、その勢力圏に属することを示す重要な意味を持っていた。

尼子氏への一時的帰属と鏡山城の戦い

永正年間(1504年~1521年)から大永年間(1521年~1528年)にかけて、出雲の尼子経久(あまご つねひさ)が急速に勢力を拡大し、安芸国にもその影響が及ぶようになると、天野興定は大内氏から離反し、一時的に尼子氏に属したとされる 1 。この背景には、尼子氏の武威と、安芸国人たちの間で大内氏の支配に対する不満や、尼子氏の新たな支配への期待があった可能性が考えられる。

特に大永3年(1523年)、尼子氏が安芸国における大内方の重要拠点であった鏡山城(東広島市西条町)を攻略した際には、興定も尼子方に与していたとみられる 7 。『陰徳太平記』など一部の編纂史料には、この鏡山城の戦いで毛利元就が天野興定や平賀弘保を味方につけて鏡山城を攻めたとの記述もあるが 15 、一次史料との整合性や当時の力関係を考慮すると、この時期の興定は尼子方にあったとする見方が有力である。毛利元就自身も、この時点では尼子方の武将として活動していた時期であり、興定が元就と共に尼子方として鏡山城攻めに関与した可能性も考えられる。

毛利元就の仲介と大内氏への再帰属 – 米山城攻防と起請文の交換

尼子氏に属した天野興定であったが、その立場は長くは続かなかった。大永5年(1525年)、安芸国における勢力回復を目指す大内義興は反撃に転じ、その重臣である陶興房(すえ おきふさ、後の陶晴賢)の軍勢が興定の本拠である米山城を攻撃した 1 。この攻撃により天野氏は滅亡寸前にまで追い込まれたが、当時同じく大内氏の傘下にあった毛利元就(もうり もとなり)の取り成しによって降伏が許され、天野興定は再び大内氏の支配下に入ることとなった 1

この毛利元就による降伏の仲介は、単なる温情から出たものではなく、将来的な毛利氏の安芸国内における影響力拡大を見据えた戦略的な行動であった可能性が高い。天野氏に恩を売ることで、毛利氏は自らの発言力を高めようとしたと考えられる。一方、天野興定にとっても、毛利氏の仲介を受け入れることは、大内氏との関係を修復し、家名を存続させるための現実的な選択であったと言えよう。

この大内氏への再帰属に際して、天野興定は毛利元就および毛利氏の重臣であった志道広良(しじ ひろよし)との間で起請文(きしょうもん:誓約書)を交換している 18 。これらの起請文は、単なる同盟確認以上の意味合いを含んでいた。特に、志道広良と興定の間で交わされた起請文には「兄弟御契約」という文言が見られるのに対し、元就と興定の間で交わされた起請文にはこの文言がないという指摘がある 18 。これは、毛利氏側が天野氏に対して一定の優位性を示しつつ、天野氏を自らの影響下に置こうとした巧みな外交術の一端であった可能性が考えられる。形式的には対等な関係を示唆しつつも、実質的な主導権を握ろうとする毛利氏の戦略が垣間見える。

第二節:主要な合戦における役割

大内氏に再属した天野興定は、その後、大内氏や毛利氏と連携し、安芸国内や周辺地域における数々の合戦に参加した。

吉田郡山城の戦い(天文9年、1540年)

天文9年(1540年)、尼子経久の子である尼子晴久(あまご はるひさ)が大軍を率いて毛利元就の居城・吉田郡山城(安芸高田市吉田町)を包囲した際、天野興定は毛利氏救援のための援軍を率いて出陣し、尼子軍の撃退に大きく貢献した 1 。この戦いは、毛利氏の存亡をかけた重要な戦いであったと同時に、安芸国の国人領主たちの向背が問われる戦いでもあった。興定のこの行動は、毛利氏との同盟関係をより強固なものにし、その後の毛利氏の台頭に繋がる重要な一歩であったと言える。『陰徳太平記』によれば、興定は宍戸隆家(ししど たかいえ)と共に吉田郡山城に籠城し、防衛の一翼を担ったとされている 22

佐東銀山城の攻略(天文10年、1541年)

吉田郡山城の戦いで尼子氏を退けた翌年の天文10年(1541年)、天野興定は毛利氏と共に、尼子方に属していた安芸佐東銀山城(広島市安佐南区)の城主・武田信実(たけだ のぶざね)を攻略した 1 。この戦いは、安芸国内における尼子勢力の影響力を削ぎ、大内・毛利連合の支配を確固たるものにするための重要な軍事行動であった。興定はこの戦いにも積極的に参加し、武功を挙げたとされるが、同年中に病没したと伝えられている 1

熊野要害の戦いと「合戦手負注文」

天野興定の軍事活動を具体的に示す史料として、「天野興定合戦手負注文」や「天野興定合戦分捕手負注文」といった古文書が残されている。これらの文書は、興定が参加した合戦における戦功や損害を記録したものであり、当時の合戦の実態や武士の評価基準を知る上で非常に貴重である。

例えば、大永5年(1525年)八月七日付の「天野興定合戦手負注文」(天野毛利文書所収)には、同月六日の芸州志芳庄奥屋における合戦で、興定の郎党(家臣)が負傷した人数などが記されている 23 。この合戦は、尼子氏と結んだ安芸武田氏が志和盆地に侵攻してきた際に、大内方として天野興定らがこれを迎撃したものであった。

また、『広島県史 古代中世資料編V』にその一部が紹介されている「天野興定合戦分捕手負注文」(天野毛利文書所収、大内義典謹判との記述あり)は、大永7年(1527年)二月九日の安南郡熊野要害(現在の広島県安芸郡熊野町周辺か)攻めにおける戦功を記録したものである 24 。この文書には、天野興定の家臣である滋賀孫左衛門尉(しが まござえもんのじょう)が敵方の梶山新左衛門尉(かじやま しんざえもんのじょう、阿曽沼氏家臣)を討ち取ったことや、財満源三郎(ざいま げんざぶろう)が野村五郎兵衛(のむら ごろべえ、阿曽沼氏重臣)を討ち取ったことなど、具体的な戦功が列挙されている 25 。さらに、負傷した家臣の名前と、その負傷部位(例えば「両ノ手」「舵ニケ所」など)まで詳細に記録されており、当時の合戦の激しさや、戦功評価の厳密さがうかがえる 24

これらの「合戦手負注文」や「合戦分捕手負注文」は、単なる記録に留まらず、戦後の恩賞給付の際の重要な根拠資料となった。家臣一人ひとりの働きを具体的に記録し評価することで、興定は家臣団の忠誠心を維持し、軍事力を強化しようとしたと考えられる。また、敵方の武将名が具体的に記されていることから、天野氏がどのような勢力と、どのような規模の戦闘を繰り広げていたのかを具体的に知ることができる。

第三節:安芸国人としての立場 – 国人一揆への参加

天野興定は、個別の合戦への参加だけでなく、安芸国の国人領主たちが自らの権益を守るために結成した「国人一揆」にも名を連ねている。史料によれば、興定は(永正9年)1512年に、安芸国の他の有力国人領主たちと共に一揆契約を結んだことが確認されている 2

この国人一揆は、毛利元就の兄である毛利興元(もうり おきもと)の呼びかけによって成立したもので、参加者には天野興定のほか、高橋元光(たかはし もとみつ)、吉川元経(きっかわ もとつね)、平賀弘保(ひらが ひろやす)、小早川弘平(こばやかわ ひろひら)、阿曽沼弘秀(あそぬま ひろひ데)、矢野城主で水軍を擁する野間興勝(のま おきかつ)、そして金明山天野氏の天野元貞らがいた 2

この一揆契約の条項には、「故なくして本領を召し放たれれば、一同に歎き申すべきこと(理由なく所領を没収された場合は、全員で抗議すること)」や、「国役等のこと、時宜により談合あるべきこと(国からの課役については、状況に応じて相談して対応すること)」、「是非の弓矢一大事においては、時剋をめぐらせず馳せ集まり、身々の大事として奔走いたすべきこと(戦争のような重大事態が発生した場合は、時間を置かずに駆けつけ、自らの問題として尽力すること)」などが含まれていた 26

これらの条項は、国人領主たちが大内氏や尼子氏といった強大な外部勢力の圧力や、国内の他の国人領主との紛争に対して、一致団結して対処しようとする意志の表れであった。しかし、このような国人一揆は、参加する各領主の思惑の違いや、外部勢力による切り崩し工作などにより、必ずしも永続的かつ強固な団結を維持できたわけではなかった。天野興定が一揆に参加しつつも、その後の情勢変化に応じて大内氏や尼子氏、そして毛利氏との関係を変化させていったことは、国人一揆という枠組みの限界と、より強力な勢力との結びつきを通じて自家の生き残りを図るという、戦国国人領主の現実的な判断を示していると言えるだろう。

第三章:天野興定の拠点と支配

第一節:居城 – 米山城から生城山城へ

天野興定をはじめとする生城山天野氏の主な活動拠点となったのは、安芸国賀茂郡の志芳庄(現在の東広島市志和町)に位置する米山城(こめやまじょう)と生城山城(おおぎやまじょう、または いくしろやまじょう)であった。

米山城は、天野氏が志芳庄に下向して以来の拠点の一つであり、興定の代においても重要な役割を果たした 7 。特に大永5年(1525年)には、大内氏の攻撃を受け、興定が籠城戦を繰り広げた舞台となったことは前述の通りである 8 。この米山城での攻防戦は、興定にとって大きな試練であったと同時に、その後の城郭戦略にも影響を与えた可能性がある。

史料によれば、天野興定は後に、米山城よりもさらに堅固な山城として生城山城を築いた(あるいは本格的に整備した)と伝えられている 5 。生城山城は、志和盆地の中央部に位置する標高485メートルの生城山の山頂に築かれ、本丸を中心に二の丸、三の丸、見張りの壇、井戸の壇、お馬が壇、侍屋敷などを備えた大規模な山城であったとされ、その遺構は現在も東広島市史跡として残されている 5 。生城山城築城の直接的な契機は、米山城での籠城戦の経験から、より防御力に優れ、領国を一望できる山城の必要性を痛感したためではないかと推測されている 8

米山城から生城山城への本拠地の移転、あるいは生城山城の本格的な整備は、単なる居城の変更以上の意味を持っていたと考えられる。それは、天野興定の軍事戦略や領国支配に対する考え方の変化を反映している可能性がある。尼子・大内という二大勢力との間で激しい攻防を経験する中で、より防御力に優れ、戦略的にも有利な山城の重要性を再認識した結果と言えるだろう。これは、戦国時代の城郭が、戦闘の激化や戦術の変化に伴い、より防御性を重視した構造へと発展していく一般的な傾向とも合致している。

第二節:所領 – 安芸国志芳庄を中心として

天野興定の基本的な所領は、父祖伝来の地である安芸国賀茂郡の志芳庄(現在の東広島市志和町一帯)であった 1 。この志芳庄は、生城山天野氏だけでなく、同族の金明山天野氏(堀天野氏)にとっても重要な勢力基盤であり、米山城や生城山城、そして金明山城といった天野氏関連の城郭が集中して存在していた 9

戦国時代末期、毛利氏支配下における志芳天野氏の所領規模を示す記録によれば、東天野氏(興定の系統)は約15500石(そのうち志芳庄内は約4000石)、堀天野氏(金明山天野氏)は約7100石(そのうち志芳庄内は約1300石)であったとされている 16 。これらの数値は興定の時代の直接的な石高を示すものではないが、天野氏の所領の多くが、後に毛利氏から志芳庄以外の山陰地方などに与えられたものであったことを示唆している。

志芳庄という比較的限られた地域に、生城山天野氏と金明山天野氏という二つの系統が並立し、それぞれが城を構えていたという事実は、この地域の支配構造が単純ではなかったことを物語っている。両系統の関係性(協力関係にあったのか、競争関係にあったのか、あるいは棲み分けていたのか)が、志芳庄全体の経営や外部勢力との交渉にどのように影響したのかは非常に興味深い点である。

天野興定の時代の具体的な領国経営、例えば検地の実施、用水路の管理、市場の設置や保護政策、あるいは寺社への寄進や保護といった政策に関する直接的な史料は乏しい。しかし、城郭を維持し、家臣団を養い、そして活発な軍事行動を展開するためには、安定した経済基盤が不可欠であったことは論を俟たない。志芳庄を中心とした所領からの年貢収取に加え、交通路の支配、特産品の生産や流通への関与なども、その経済基盤を支える要素であった可能性が考えられる。

第四章:天野興定をめぐる史料と伝承

天野興定の実像に迫るためには、彼に関する史料を丹念に分析することが不可欠である。幸いなことに、興定に関連するいくつかの一次史料(古文書)や、後世に編纂された史料が存在する。

第一節:一次史料に見る興定 – 古文書の分析

「天野興定合戦手負注文」「天野興定合戦分捕手負注文」

前述の通り、天野興定の具体的な軍事活動を伝える貴重な一次史料として、「天野興定合戦手負注文」と「天野興定合戦分捕手負注文」が挙げられる。

大永5年(1525年)八月七日付の「天野興定合戦手負注文」(天野毛利文書所収)は、芸州志芳庄奥屋における合戦(対尼子方武田氏)での興定軍の損害状況を記録したものである 23

また、『広島県史 古代中世資料編V』などに一部が紹介されている「天野興定合戦分捕手負注文」(天野毛利文書所収)は、大永7年(1527年)の安南郡熊野要害攻め(対阿曽沼氏)における戦功、すなわち討ち取った敵の首級や負傷した自軍の兵士について詳細に記したものである 24 。この文書には「大内義典謹判」との記述が見られるが、この「大内義典」なる人物の正体については後述する。これらの史料は、興定が指揮した合戦の具体的な様相、家臣団の構成、そして当時の戦功評価のあり方を知る上で、他に代えがたい価値を持つ。

「天野興定起請文案」

大永5年(1525年)6月、天野興定が毛利元就および志道広良との間で交わした起請文の案文が、「右田毛利家文書」などに残されている(『戦国遺文 大内氏編』一八三号、『広島県史 古代中世資料編V』などにも関連記述や収録の可能性あり) 18 。これらの起請文は、天野氏が大内氏に再帰属する際に、毛利氏との間で取り交わされた約定の内容を示すものであり、当時の国人領主間の複雑な同盟関係や力関係を如実に反映している。

その他の関連文書

陶隆房(後の陶晴賢)が天野興定に対し、安芸武田氏の攻略に協力するよう求めた書状も現存している 33 。これは、興定が大内氏の指揮下で軍事行動を行っていたことを示す具体的な証拠となる。

これらの一次史料を総合的に分析することで、天野興定の政治的・軍事的立場や、彼が置かれていた状況をより深く理解することができる。

ところで、「天野興定合戦分捕手負注文」に見られる「大内義典謹判」 24 、また、同時代の安芸国人である平賀弘保が拝領した感状に添えられたとされる「大内義典(ママ)殿副状」 34 に登場する「大内義典」という人物は、大内氏の正式な系図には見当たらず、その正体は現在のところ不明である。この人物が、大内義興や義隆の時代に、何らかの形で実権を握っていたのか、あるいは特定の状況下でのみ用いられた名なのか、はたまた筆写の過程での誤記や異称なのか、様々な可能性が考えられる。この「大内義典」の謎は、当時の史料記録のあり方や、大内氏内部の権力構造に関する未解明な点を示唆しており、今後の研究によって明らかにされるべき興味深い課題と言えるだろう。関連する文書として、天文7年(1538年)に大内義典が白井氏に所領を宛て行った下文の存在も指摘されている 35

第二節:編纂史料における興定像 – 『陰徳太平記』『芸備通志』等の記述

江戸時代以降に編纂された史書や軍記物語にも、天野興定に関する記述が見られる。代表的なものとして、『陰徳太平記』と『芸備通志』が挙げられる。

『陰徳太平記』は、毛利氏の興隆を中心に描いた軍記物語であり、天野興定についてもいくつかの重要な場面で言及されている。例えば、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いにおいて、興定が宍戸隆家と共に毛利元就の籠もる城に入り救援したこと 22 、大永3年(1523年)の鏡山城の戦いにおいて、毛利元就が天野興定や平賀弘保を味方につけて城を攻めたこと 15 (ただし、この時期の興定の立場については前述の通り異説もある)、そして大永5年(1525年)に陶興房が天野興定と合流して志芳奥屋で佐東衆と戦ったことなどが記されている 37 。これらの記述は、物語としての脚色が含まれている可能性も考慮し、一次史料との比較検討を通じて慎重に扱う必要がある。特に『陰徳太平記』は毛利氏の活躍を顕彰する傾向が強いため、その中で天野興定が毛利氏の重要な戦いに協力者として登場することは、毛利氏の勢力拡大の過程における天野氏の位置づけを反映していると同時に、天野氏が毛利氏にとって重要な同盟者であったことを後世に伝えようとする意図も含まれている可能性がある。

一方、『芸備通志』は、江戸時代後期に編纂された安芸・備後両国の地誌であり、歴史的事項についても詳細な記述を含んでいる。同書には、大永5年(1525年)の志和庄奥屋での合戦に関する記述があり、これは前述の「天野興定合戦手負注文」の内容と関連付けられている 23

これらの編纂史料は、天野興定の事績や当時の状況を後世に伝える上で一定の役割を果たしてきた。しかし、その記述の正確性については常に吟味が必要であり、可能な限り一次史料との照合を行い、多角的な視点から歴史像を再構築していく努力が求められる。

第五章:人物像の考察と歴史的評価

第一節:激動期を生きた国人領主としての実像

天野興定は、大内氏、尼子氏という二大勢力が安芸国の覇権をめぐって激しく争った戦国時代中期に活動した、典型的な国人領主であったと言える。彼の生涯は、強大な外部勢力の動向に翻弄されながらも、離反と帰属を繰り返し、巧みな外交と軍事行動によって自家の存続と勢力維持を図ろうとした軌跡として捉えることができる。その行動は、単に日和見主義的であったと断じるべきではなく、むしろ激動の時代を生き抜くための現実的かつ必死の戦略であったと評価すべきであろう 11

特に、毛利元就との連携は、天野興定および生城山天野氏にとって大きな転機となった。大内氏への再帰属を仲介した元就との間に結ばれた関係は、その後の吉田郡山城の戦いや佐東銀山城攻略といった共同軍事行動を通じて強化され、結果として毛利氏の安芸国統一、さらには中国地方制覇へと繋がる過程において、天野氏が一定の役割を果たす基盤となった。これは、天野氏自身の勢力安泰にも貢献したと言える。

また、「合戦手負注文」や「合戦分捕手負注文」といった一次史料からは、興定が自ら家臣団を率いて合戦に臨み、個々の家臣の戦功を重視し、それを厳密に記録していた様子がうかがえる。これは、彼が単なる受動的な領主ではなく、戦場における指揮官として、また家臣団を統率する武将としての能力も有していたことを示唆している。

興定の外交戦略は、大内・尼子という巨大勢力の間で、時には一方に属し、時には他方と結ぶといった柔軟なものであった。毛利元就の仲介を受け入れたことも、その時々の状況判断に基づいた最善の策を選択する現実主義的な判断力を示している。しかしながら、国人領主である以上、より強大な大名の意向に左右される立場であり、その外交戦略には自ずと限界があったことも否めない。彼の生涯は、戦国時代における中小規模の領主が、いかにして自立性を保ちつつ生き残りを図ろうとしたか、その苦闘と葛藤を象徴していると言えよう。

第二節:毛利氏との関係とその後の天野氏

天野興定が築いた毛利氏との関係は、彼の死後、天野氏の家運に決定的な影響を与えることとなった。興定の没後、家督は長男の隆綱、次いで次男の元定へと継承された。しかし、隆綱、元定ともに男子の跡継ぎに恵まれなかったため、最終的に元定の遺言と毛利元就の推挙により、元就の七男である毛利元政(もうり もとまさ)が元定の娘婿として養子に入り、生城山天野氏の家督を相続した 2

この毛利元政による家督相続は、生城山天野氏が事実上、毛利氏の一門として組み込まれることを意味した。元政は後に毛利姓に復し、長州藩の一門家老である右田毛利氏(みぎたもうりし)の祖となり、天野氏の家系もその中で存続していくこととなる。

天野興定の代に、時には対立し、時には協力し、そして最終的には強固な連携関係を築いた毛利氏との関係が、結果的に天野氏の家名を江戸時代、さらにはそれ以降へと繋げる上で極めて重要な役割を果たしたことは疑いようがない。毛利元就の深謀遠慮とも言える国人領主取り込み戦略の一環として、天野氏が毛利氏の支配体制下に組み込まれていった過程は、戦国時代から近世へと移行する時期の地方勢力の変容を象徴する事例の一つと言えるだろう。興定がもし異なる選択をしていたならば、天野氏の運命も大きく変わっていたかもしれない。

天野興定略年表

年代(和暦)

年代(西暦)

主要な出来事

関連スニペット

文明7年

1475年

天野興定、天野興次の子として誕生。

1

永正9年

1512年

安芸国人一揆に参加。

2

大永3年頃

1523年頃

大内氏から離反し、尼子氏に属す。鏡山城の戦いに関与か。

1

大永5年

1525年

大内氏(陶興房軍)に米山城を攻撃される。毛利元就の仲介で降伏し、大内氏に再帰属。

1

大永5年6月

1525年6月

毛利元就・志道広良と起請文を交換。

18

大永5年8月

1525年8月

芸州志芳庄奥屋にて尼子方武田氏と合戦(天野興定合戦手負注文)。

23

大永7年2月

1527年2月

熊野要害を攻略(対阿曽沼氏、天野興定合戦分捕手負注文)。

24

天文9年

1540年

吉田郡山城の戦いに毛利氏援軍として出陣、尼子軍撃退に貢献。

1

天文10年

1541年

毛利氏と共に尼子方の佐東銀山城を攻略。

1

天文10年

1541年

病没(通説)。墓所は高立寺。戒名は高玄寺月光英心。

1

(異説)享禄4年

(1531年)

8月23日没、享年66(『近世防長諸家系図綜覧』による)。

11

終章:天野興定研究の総括と今後の展望

本報告書では、戦国時代の安芸国における国人領主、天野興定について、現存する史料や研究成果に基づいてその生涯と事績を概観した。天野興定は、藤原氏を起源とし伊豆国から安芸国志芳庄に根を下ろした生城山天野氏の当主として、大内氏と尼子氏という二大勢力が角逐する激動の時代を生きた。

興定は、当初大内義興に属してその偏諱を受け、その後、尼子氏の勢力拡大に伴い一時的にこれに帰属した。しかし、大内氏の反攻と毛利元就の仲介により再び大内方の将となり、以後は毛利氏と緊密な連携を保ちつつ、吉田郡山城の戦いや佐東銀山城攻略など、安芸国内における重要な合戦で戦功を挙げた。その活動は、「合戦手負注文」や起請文案といった貴重な一次史料によって具体的に跡付けることができる。

また、興定は安芸国の他の国人領主たちと一揆契約を結ぶなど、地域勢力としての自立性を模索する動きも見せたが、最終的には毛利氏との関係を深め、その七男・元政が天野氏の家督を継承することで、天野氏は毛利氏の一門として近世へと命脈を繋いだ。

天野興定の研究を通じて明らかになった点は多いものの、依然として不明な部分も残されている。例えば、彼の具体的な領国経営の実態(検地、用水管理、市場政策、寺社との具体的な関わりなど)については、直接的な史料が乏しく、今後の史料発掘や周辺状況からの推考が待たれる。また、没年に関する異説(天文10年説と享禄4年説)の真相究明や、「天野興定合戦分捕手負注文」に見られる「大内義典」なる人物の正体なども、興味深い研究課題である。

天野興定のような国人領主一人ひとりの生涯を丹念に追うことは、戦国時代の複雑な権力構造、地域社会の実態、そして武士たちの多様な生き様を理解する上で不可欠である。本報告書が、天野興定という一人の武将への理解を深めるとともに、戦国時代史研究のさらなる進展に僅かながらも寄与することを願うものである。

引用文献

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