戦国期安芸の国人領主 天野隆綱の実像:出自、生涯、毛利氏との関係
はじめに
天野隆綱は、日本の戦国時代、安芸国(現在の広島県西部)において活動した武将である。彼は、安芸国の有力な国人領主の一つである生城山(おおぎやま)天野氏の当主として、中国地方の二大勢力、大内氏と毛利氏の狭間で家の存続と勢力維持に努めた。本報告書は、現存する史料に基づき、天野隆綱の出自、生涯、主要な事績、そして彼が生きた時代の背景を多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯を追うことは、戦国という激動の時代における地方国人領主の生き様と、毛利氏による中国地方統一という大きな歴史的潮流の一端を理解する上で重要である。
【表1】天野隆綱 略年表
年代(西暦)
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和暦
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主な出来事
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所属勢力
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典拠
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1530年
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享禄3年
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生誕(説の一つ)
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-
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1
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天文年間(1532-1555年)
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天文年間
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大内義隆の人質となる。「隆」の字の偏諱を受け隆綱と名乗る。毛利隆元と親交を結ぶ。
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大内氏
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2
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1549年
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天文18年
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毛利隆元と兄弟の契約を結ぶ。
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大内氏
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2
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1551年
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天文20年
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大寧寺の変。当初、陶隆房(晴賢)が擁立した大内義長に従う。
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大内氏
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3
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1552年
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天文21年
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祝城攻めに参加(『陰徳太平記』による)。
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毛利氏か
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5
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9月29日 死去(説の一つ)。
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毛利氏か
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1
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1555年
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弘治元年
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厳島の戦いに毛利元就方として参加し活躍。
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毛利氏
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3
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並滝寺に東西条・原村の80貫の地を寄進。
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毛利氏
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2
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同年中に死去(説の一つ)。
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毛利氏
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3
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この年表は、天野隆綱の生涯における主要な出来事を概観するものである。特に生没年については複数の説が存在し、その活動期間の解釈にも影響を与える。これらの点については、本報告の該当箇所で詳述する。
第一部 天野隆綱の出自と時代背景
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天野氏の淵源と安芸国への土着
天野氏の起源は、藤原南家工藤氏の一族とされ、伊豆国田方郡天野郷(現在の静岡県伊豆の国市天野)を本拠とした鎌倉幕府の御家人であったと伝えられている 2。天野遠景は源頼朝の挙兵に従い、鎮西奉行を務めるなど、初期の幕政で活躍した人物として知られる 7。
鎌倉時代に入ると、天野氏は安芸国志芳庄(しわのしょう、現在の広島県東広島市志和町一帯)の地頭職を得て、この地へ下向し、在地領主としての基盤を築き始めた 2。これは、鎌倉幕府が西国支配を強化するために東国御家人を地頭として派遣した広範な政策の一環であり、天野氏もその流れの中で安芸国に新たな活路を見出したと考えられる。時代が下るにつれて、これらの地頭は在地化し、現地の武士団との関係を深めながら、南北朝時代から室町時代にかけての動乱期を経て、自立的な勢力である「国人」へと成長していく。天野氏もまた、この歴史的プロセスを経て、戦国時代には安芸国内で無視できない力を持つ国人領主としての地位を確立するに至った。
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安芸天野氏の二つの系統:生城山天野氏と金明山天野氏
安芸国に土着した天野氏は、大きく二つの系統に分かれて発展した。一つは天野顕義(あきよし)を祖とし、米山城(こめやまじょう)、後に生城山城(おおぎやまじょう)を本拠とした「生城山天野氏」であり、本報告の主題である天野隆綱はこの系統に属する 2。もう一つは天野政貞(まささだ)を祖とし、金明山城(きんめいやまじょう)を拠点とした「金明山天野氏」である 3。両者は同じ天野一族でありながら、それぞれが志芳庄内やその周辺に独自の勢力圏を持ち、時には異なる政治的立場を取ることもあった 2。
戦国期において、安芸国は西の大内氏(周防国山口拠点)と東の尼子氏(出雲国月山富田城拠点)という二大戦国大名の勢力が衝突する最前線であった 10。このような状況下で、安芸国内の国人領主たちは、自家の存続と勢力拡大のために、複雑な外交関係と軍事同盟を駆使する必要に迫られた。天野氏の二系統分立も、こうした外部環境への対応や、一族内部の事情が絡み合って形成されたものと推察される。例えば、一族内で異なる大名に与することでリスクを分散したり、あるいは内部分裂の結果として系統が分かれることは、戦国期の国人領主によく見られる現象であった。
【表2】生城山天野氏と金明山天野氏の比較
特徴
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生城山天野氏
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金明山天野氏
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祖
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天野顕義
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天野政貞
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主要拠点
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米山城、生城山城(広島県東広島市志和町)
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金明山城(広島県東広島市志和町)
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戦国期の主な人物
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天野興定、
天野隆綱
、天野元定
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天野元貞、天野隆重、天野隆良、天野元明
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主な従属先
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大内氏、後に毛利氏
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大内氏、後に毛利氏
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特記事項
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隆綱の死後、毛利元就の七男・元政が家督を相続。
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天野隆重は毛利氏の重臣として活躍。「保利氏」とも称された時期がある。
7
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この表は、天野隆綱が属した生城山天野氏と、同族でありながら別個の動きを見せた金明山天野氏の主要な相違点と共通点を整理したものである。特に金明山天野氏の天野隆重は、毛利氏の家臣として多くの戦功を挙げた著名な武将であり、天野隆綱との区別は重要である。
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天野隆綱の登場:父・興定と弟・元定
天野隆綱は、生城山天野氏の当主であった天野興定(おきさだ)の子として生まれた 2。父・興定は、当初出雲の尼子氏に従っていたが、後に大内義興・義隆親子の攻撃を受け、毛利元就の仲介によって大内氏に降伏した経緯を持つ 2。その後、興定は毛利元就と起請文を取り交わして関係を深め、親大内・親毛利の立場を貫いた 2。この父・興定の代に築かれた大内氏や毛利氏との関係は、息子の隆綱の生涯に大きな影響を与えることになる。
隆綱の生年については、享禄3年(1530年)とする説がある 1。彼には弟に天野元定(もとさだ)がおり、隆綱に嗣子がいなかったため、後に家督を継承することになる 3。興定が毛利元就との連携を深めたことは、隆綱の代でさらに発展し、毛利隆元との兄弟契約へと繋がる基盤となった。
第二部 天野隆綱の生涯と事績
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大内氏への臣従と毛利氏との連携
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大内義隆の人質時代と偏諱
天文年間(1532年~1555年)、天野隆綱は周防国の戦国大名・大内義隆のもとへ人質として送られた 2。これは当時の国人領主が大名への従属を示す一般的な慣行であり、隆綱はこの期間に主君である大内義隆から「隆」の一字を与えられ(偏諱)、「隆綱」と名乗るようになった 2。
この人質時代、隆綱は同じく大内氏のもとに人質として滞在していた毛利元就の嫡男・毛利隆元と出会い、親交を深めたとされている 2。この個人的な繋がりは、後の両者の関係において重要な意味を持つことになる。
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毛利隆元との兄弟契約
天文18年(1549年)、天野隆綱は毛利隆元と兄弟の契約(義兄弟の盟約)を結んだ 2。これは単なる個人的な友情の証に留まらず、生城山天野氏と毛利氏という二つの国人領主家(毛利氏は当時急速に勢力を拡大しつつあった)の間の同盟関係を強化する政治的な意味合いも持っていた。
当時、毛利氏は大内氏の有力な麾下(きか)でありながら、安芸国内で着実に勢力を伸張させていた。隆綱が毛利氏の次期当主である隆元と兄弟契約を結んだことは、大内氏の承認のもとで行われた可能性が高い。これは、毛利氏が安芸国内の国人を掌握していく過程で、天野氏のような有力国人との連携を重視した証であり、天野氏側もまた、毛利氏の将来性を見据えて関係を強化しようとした戦略的判断であったと考えられる。この契約は、後の大寧寺の変という政変を経て、天野氏が毛利氏へとスムーズに政治的立場を移行させる上での伏線となった可能性が指摘できる。
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大寧寺の変と毛利氏への帰属
天文20年(1551年)、大内義隆がその重臣である陶隆房(すえ たかふさ、後の陶晴賢(はるかた))の謀反によって長門国大寧寺で自害するという政変(大寧寺の変)が勃発した 4。この事件は中国地方の勢力図を大きく揺るがすものであり、大内氏の影響下にあった安芸国の国人領主たちにも大きな衝撃を与えた。この政変に関する情報は、当時米山城を本拠としていた天野隆綱のもとへも「雑説」(噂や風聞)として伝えられている 2。
政変後、陶隆房は大友宗麟の弟である大友晴英を大内氏の新しい当主として擁立し、大内義長と名乗らせた。天野隆綱も、当初はこの陶氏の傀儡(かいらい)当主である大内義長に従ったとされている 3。これは、旧主家である大内氏への一定の配慮や、強大な陶氏の勢力を無視できなかったため、あるいは状況を見極めるための時間稼ぎであった可能性が考えられる。
しかし、弘治元年(1555年)に毛利元就が陶晴賢と雌雄を決した厳島の戦いにおいては、天野隆綱は毛利元就に従って活躍したと伝えられている 3。この立場変更の背景には、父・興定の代から続く毛利氏との良好な関係、そして毛利隆元との兄弟契約という個人的な絆に加え、大内氏内部の混乱と弱体化、そして急速に台頭する毛利氏の将来性を見据えた現実的な判断があったものと推測される。大寧寺の変は、多くの国人領主にとって、いずれの勢力につくべきかという厳しい選択を迫るものであり、隆綱の決断もまた、この激動の時代における国人領主の生き残り戦略の一端を示すものであった。
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主要な合戦への参加と活動
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祝城(いわいじょう)攻め(天文21年/1552年)
江戸時代に成立した軍記物語である『陰徳太平記』によれば、天文21年(1552年)7月23日、毛利元就が祝甲斐守(いわい かいのかみ)らが籠る祝城(所在地については諸説あり、備後国の城か)を攻撃した際、天野隆綱は吉川元春(毛利元就の次男)、平賀隆宗、宍戸隆家、熊谷信直らと共に、この城攻めに参加したと記されている 5。
この記述が史実を反映しているとすれば、天野隆綱の毛利氏への帰属は、厳島の戦い(1555年)よりも早い段階で確定していた可能性を示唆する。天文21年という時期は、大寧寺の変(1551年)の後、毛利氏が陶氏との全面対決に向けて着々と勢力を固め、周辺の敵対勢力を排除していた時期にあたる。この時期に隆綱が毛利方の軍事作戦に参加していたことは、彼の政治的立場を明確に示すものである。
ただし、『陰徳太平記』は後世の編纂物であり、その記述には脚色や創作が含まれる可能性も否定できないため、史実性の検証には他の一次史料との比較検討が不可欠である。この祝城攻めに参加したとされる武将の顔ぶれには、吉川氏、宍戸氏、熊谷氏など、毛利氏の主要な同盟者や傘下の国人が含まれており、この戦役が毛利氏主導で行われた大規模なものであったことをうかがわせる。この天野隆綱が、生城山天野氏の隆綱であるか、あるいは同族の金明山天野氏の人物であるかについては、史料からは明確な判断が難しいものの 5、他の活動時期や毛利氏との関係性の深さから、生城山天野氏の隆綱である可能性が高いと考えられる。
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厳島の戦い(弘治元年/1555年)
弘治元年(1555年)、毛利元就が陶晴賢の大軍を奇襲によって破り、中国地方の覇権争いにおける決定的な勝利を収めた厳島の戦いにおいて、天野隆綱は毛利元就に従って活躍したと複数の史料に記されている 2。この戦いは、毛利氏が戦国大名としての地位を確立する上で極めて重要な戦いであった。
しかしながら、天野隆綱がこの戦いで具体的にどのような役割を果たし、どのような武功を立てたのかについての詳細な記録は乏しいのが現状である 2。例えば、毛利軍の主力部隊を記したリストには、天野隆綱と同族である金明山天野氏の当主・天野隆重の名は見られるものの、隆綱の名は直接的には確認できない 15。
この情報の錯綜や記録の欠如は、いくつかの可能性を示唆する。隆綱の役割が限定的であった可能性、あるいは記録が後世に伝わる過程で失われた可能性、さらには同族の天野隆重の活躍と混同されている可能性も考えられる。また、重要な点として、天野隆綱はこの厳島の戦いがあった同年に死去している 3。戦傷死や病死の可能性も否定できず、それが記録の少なさに繋がっているのかもしれない。
いずれにせよ、複数の史料が毛利方として厳島の戦いに参陣したことを示しており、この時点で天野隆綱が毛利氏の指揮下にあったことは疑いない。彼の参陣は、大内氏旧臣下の国人たちが毛利氏へと靡(なび)いていく大きな流れの一つであったと言える。
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所領と信仰
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本拠地:米山城と生城山城
天野隆綱が属した生城山天野氏は、安芸国賀茂郡志芳庄(現在の広島県東広島市志和町)を本拠としていた。当初の拠点は米山城であったが、後に、より堅固な山城である生城山城を築城(あるいは大規模な改修)し、主要な居城としたと伝えられている 2。生城山城は、隆綱の父である天野興定の代に築かれたとも言われ 16、戦国時代の山城として、本丸を中心に複数の郭(くるわ)や櫓跡(やぐらあと)、井戸跡などの遺構が現在も確認でき、東広島市の史跡に指定されている 16。これらの城郭は、天野氏の在地支配の拠点であり、軍事的な要衝でもあった。
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『芸藩通志』に見る飯田村の領有
江戸時代後期に編纂された広島藩の地誌『芸藩通志』には、藩士の家系や由緒を記録した「閥閲録遺漏(ばつえつろくいろう)」に収められた毛利筑後守家(おそらく天野氏の後身である右田毛利家の一族か)の文書として、天野隆綱が飯田村(現在の東広島市八本松町飯田周辺と推定される)の半分を領有していたという記録が引用されている 18。
この記述が具体的にいつの時代の知行(ちぎょう、所領)を示しているのか、またその石高(こくだか、収穫量)などの詳細は不明である 18。戦国時代の国人領主の所領は、本拠地を中心としつつも、周辺地域に飛び地として分散していることが一般的であったため、天野氏が志芳庄の本拠地以外に飯田村にも所領を有していたとしても不自然ではない。この記録は、江戸時代まで天野氏の旧領として伝わっていた情報が書き留められたものと考えられ、隆綱の時代の所領の一端を示唆する貴重な史料と言える。
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並滝寺(なみたきでら)への寄進
弘治元年(1555年)、天野隆綱は武運長久と寿命長隠(ちょうおん、長生きすること)を祈願して、東西条(ひがしさいじょう・にしさいじょう)および原村(いずれも現在の東広島市内の地名か)における80貫文(かんもん、当時の通貨単位であり、土地の価値を示す)の土地を、並滝寺に寄進した 2。並滝寺は、生城山城の東方約4キロメートルに位置する古刹であり、天平5年(733年)に行基(ぎょうき)によって創建されたと伝えられる真言宗の寺院である 6。この寺院は生城山城主であった天野氏と特に関わりが深く、大永年間(1521年~1528年)の尼子氏と大内氏(陶氏)の戦いにおいては戦禍を被ったとも記録されている 6。
1555年という寄進の時期は、奇しくも厳島の戦いが行われ、そして隆綱自身が没した年でもある。この寄進行為は、戦乱の世に生きる武将の篤(あつ)い信仰心と、自らの運命に対する切実な願いを反映しているものと考えられる。また、寄進された土地の記述からは、天野氏の所領が志芳庄内だけでなく、東西条や原村といった周辺地域にも及んでいたことが具体的にわかり、その経済的基盤の一端をうかがい知ることができる。
第三部 天野隆綱の死と天野氏のその後
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天野隆綱の死没
天野隆綱の死没年については、史料によって記述が異なり、いくつかの説が存在する。
一つは、享禄3年(1530年)に生まれ、天文21年(1552年)9月29日に死去したとする説である 1。この説に従うならば、隆綱は23歳という若さで亡くなったことになる。この没年であれば、前述の祝城攻め(1552年7月)の直後となり、その戦いに関連して亡くなった可能性も考えられる。
もう一つは、弘治元年(1555年)に厳島の戦いで毛利方として活躍した後、同年中に死去したとする説である 2。この場合、仮に1530年生誕説を採れば享年26歳となる。この1555年没説は、同年の厳島の戦いへの参加や並滝寺への寄進といった具体的な活動記録と時期的に整合性がある。
【表3】天野隆綱 生没年に関する諸説
典拠史料の記述
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生年(推定)
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没年(月日)
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享年(推定)
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備考
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享禄3年生 - 天文21年9月29日没
1
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1530年
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1552年9月29日
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23歳
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祝城攻め(1552年7月)との関連が考えられる。
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弘治元年(厳島の戦い後)に死去
3
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1530年
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1555年(弘治元年)中
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26歳
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厳島の戦い(1555年)、並滝寺への寄進(1555年)といった活動と同年。
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これらの没年に関する説の相違は、天野隆綱に関する一次史料が断片的であることや、後世の編纂史料における情報の錯綜を示唆している可能性がある。弘治元年(1555年)没説は、複数の具体的な活動記録と結びついているため、比較的有力と考えられるが、天文21年(1552年)没説も具体的な日付が記されている点などから、完全に否定することは難しい。本報告では両説を併記するに留める。
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子の不在と弟・天野元定による家督相続
天野隆綱には実子がいなかったとされている 2。戦国時代の国人領主にとって、男子の跡継ぎがいないことは家の存続に関わる重大な問題であった。
隆綱の死後、家督は弟の天野元定が相続した。一部の史料には、元定は毛利元就の推挙により、弘治2年(1556年)10月に家督を相続したとの記述も見られる 3。隆綱に嗣子がいなかったことは、生城山天野氏の血筋がこの代で実質的に大きな転換点を迎える直接的な原因となった。
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毛利元政の天野氏相続と右田毛利氏
家督を継いだ天野元定もまた、永禄12年(1569年)に男子がないまま病死した 3。二代続けて当主に男子の跡継ぎがいなかったため、生城山天野氏の家名は断絶の危機に瀕した。
この状況を受けて、毛利元就の七男である毛利元政(もとまさ)が、元定の娘を娶り婿養子として天野氏の家督を相続し、天野元政を名乗った 3。これにより、生城山天野氏は毛利氏の血統を受け入れることになった。
毛利元政は後に毛利姓に復し、長州藩の一門家老である右田毛利(みぎたもうり)氏の祖となった 3。天野氏の名跡自体は、元政の子が継承し、江戸時代も毛利氏の家臣として存続したとされている 3。
この毛利元政による天野氏相続は、毛利氏が安芸国内の国人勢力を完全に掌握し、自家の家臣団へと組み込んでいく戦略の一環であったと見ることができる。毛利元就は、次男の元春を吉川氏へ、三男の隆景を小早川氏へそれぞれ養子として送り込み、これらの有力国人を事実上一門化することで勢力を拡大した(毛利両川体制)。天野氏に対しても同様の手法が用いられたのであり、これは毛利氏の領国支配体制確立における巧みな戦略を示すものである。この結果、生城山天野氏は独立した国人領主としての歴史に終止符を打ち、毛利氏の家臣団の一翼を担う存在へと変容していった。
第四部 天野隆綱に関する史料と評価
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主要史料における記述
天野隆綱に関する情報は断片的であり、複数の種類の史料に散在している。それぞれの史料の性格を理解した上で、記述を読み解く必要がある。
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『陰徳太平記』
江戸時代初期に成立した軍記物語である『陰徳太平記』には、前述の通り、天野隆綱が祝城攻めに参加したとの記述が見られる 5。しかし、軍記物語は史実だけでなく、文学的な脚色や後世の創作を含む場合があるため、その記述の取り扱いには慎重さが求められる。天野隆綱個人に関する他の具体的な記述は少ないか、あるいは同族の他の天野氏の人物(特に金明山天野氏の天野隆重など)との区別が難しい場合がある 15。
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『芸藩通志』
江戸時代後期に広島藩によって編纂された地誌『芸藩通志』には、天野隆綱に関する注目すべき記述が含まれている。具体的には、藩士の家系や由緒をまとめた「閥閲録遺漏」に収められた毛利筑後家文書からの引用として、天野隆綱が飯田村の半分を領有していたことが記されている 18。この他にも、天野氏一般やその本拠地であった志芳庄、米山城に関する記述が散見される 19。
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『閥閲録』
『閥閲録』は、萩藩(長州藩)が藩士各家の由緒や家系、古文書などをまとめた史料群である。『芸藩通志』が引用した「閥閲録遺漏」毛利筑後家文書のように、天野氏に関連する文書や記録が含まれている可能性がある 18。特に、天野氏を継いだ右田毛利氏の家系記録の中に、隆綱に関する情報が残されていることも考えられる。
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その他の史料
天野隆綱が兄弟契約を結んだとされる毛利隆元の日記や書状類の中に、隆綱との関係を示す記述が存在する可能性がある 13。また、天野氏が本拠とした東広島市関連の郷土史資料や、市教育委員会などが発行する文化財調査報告書にも、天野氏一族や関連史跡(生城山城、米山城、並滝寺、伝天野氏墓など)に関する情報が含まれている 17。これらの地域史料は、中央の史料では捉えきれない具体的な情報を補完する上で重要である。
【表4】天野隆綱関連史料一覧
史料名
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史料の性格
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天野隆綱に関する主な記述内容の要約
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関連する主な典拠
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『陰徳太平記』巻二十一「祝城没落之事」(異本あり)
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軍記物語
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天文21年(1552年)、毛利元就の祝城攻めに吉川元春らと共に参加。
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5
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『芸藩通志』(「閥閲録遺漏」所収「毛利筑後家文書」を引用)
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地誌、家譜史料
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飯田村の半分を領有。
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18
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天野隆綱書状(並滝寺宛寄進状か)
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一次史料(寄進状)
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弘治元年(1555年)、並滝寺に武運長久・寿命長隠を願い東西条・原村80貫の地を寄進。
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2
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毛利隆元関連文書(書状など)
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一次史料(書状など)
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天文18年(1549年)、天野隆綱と兄弟の契約を結ぶ(具体的な文書の特定は今後の課題)。
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2
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各種天野氏系図・家譜
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系図、家譜
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生城山天野氏の当主。父は興定、弟は元定。子はなく、元定が家督を継承。
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3
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東広島市関連文化財資料
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調査報告書、郷土史料
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生城山城跡、米山城跡、並滝寺、伝天野氏墓など、天野氏ゆかりの史跡に関する記述。
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16
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この表は、天野隆綱に関する情報がどのような種類の史料に、どのように記録されているかを一覧化したものである。史料の特性と限界を理解し、多角的な視点から情報を検討することが、歴史像を構築する上で不可欠である。
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関連史跡と伝承
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生城山城跡・米山城跡
天野隆綱が属した生城山天野氏の本拠地である生城山城跡および米山城跡は、広島県東広島市志和町に現存する。特に生城山城跡は、山頂の本丸を中心に郭や土塁、堀切などの遺構が良好に残り、戦国時代の山城の様相を今に伝えている 16。これらの城跡は、天野氏の在地支配の拠点として、また周辺地域における軍事的な拠点としての役割を担っていたと考えられ、東広島市の史跡に指定されている 16。
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並滝寺
天野隆綱が弘治元年(1555年)に所領を寄進した並滝寺は、生城山城の東方に位置する古刹である 6。天野氏との関わりは深く、寺伝によれば、大永年間の戦乱で被害を受けたとも伝えられている 6。隆綱の寄進は、当時の武将の信仰心を示すとともに、天野氏と地域寺院との結びつきを物語るものである。
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伝天野氏墓(宝篋印塔)
東広島市志和町志和堀には、「伝天野氏墓」とされる中世の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が存在する 24。宝篋印塔は、鎌倉時代から江戸時代にかけて造立された墓塔や供養塔の一形式である。この宝篋印塔が具体的に天野隆綱個人の墓であるか、あるいは天野氏一族の誰かの墓であるかについては、現時点では確証がなく、詳細な調査報告も限られている 25。
「伝」という呼称が示すように、この墓塔が天野氏に関連付けられて地域で伝承されてきたことを意味するが、被葬者を特定するには、銘文の有無、塔の様式編年、周辺の遺跡との関連性の検討、さらには発掘調査による副葬品の出土などの考古学的・文献学的な証拠が不可欠である。この「伝天野氏墓」の存在は、天野氏がその地域に深く根を下ろしていたことを示す一つの可能性を秘めており、今後の研究による解明が期待される。
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天野隆綱の人物像と歴史的評価の試み
現存する史料が限定的であるため、天野隆綱個人の詳細な人物像や具体的な性格、能力などを詳細に描き出すことは困難である。しかし、断片的な記録から、彼が生きた時代背景と照らし合わせることで、その輪郭をある程度推察することは可能である。
大内氏の人質として過ごした青年期に、毛利氏の嫡男・隆元と親交を深め、兄弟の契約を結ぶに至ったことは、隆綱が単に受動的な立場にあっただけでなく、将来を見据えた人間関係を構築する能力を持っていた可能性を示唆する 2。大寧寺の変という未曾有の政変後、当初は大内氏の旧体制に一時的に与しながらも、最終的には毛利氏の側に立って厳島の戦いに参加したという動向は、激動する情勢の中で、自家の存続と発展のために、冷静な状況判断と大胆な決断を下そうとした国人領主の姿を映し出している。
若くして没したため、その後の毛利氏政権下で大きな役割を果たすことはなかったが、彼の死後、生城山天野氏の家督が毛利氏の血統によって継承されていく過程は、戦国大名による国人勢力の統合という、当時の日本列島各地で見られた大きな歴史的潮流を象徴する出来事であった。
天野隆綱は、戦国時代中期から後期にかけての安芸国において、旧勢力である大内氏から新興勢力である毛利氏へと支配の重心が移り変わる過渡期に活動した、典型的な国人領主の一人と評価できる。彼の生涯は短く、個人としての際立った武功や卓越した政治的手腕を具体的に伝える史料は少ない。しかし、その行動の一つ一つは、当時の国人たちが置かれていた複雑で厳しい状況と、彼らが生き残りをかけて下したであろう戦略的な選択を反映している。特に、毛利隆元との個人的な繋がりが、天野氏のその後の運命に少なからぬ影響を与えた可能性は十分に考えられる。彼の存在と生城山天野氏の動向は、毛利氏による安芸国統一、さらには中国地方支配確立の過程において、吸収・統合されていった数多の国人領主たちの姿を我々に伝えている。
結論
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天野隆綱の生涯と業績の総括
天野隆綱は、戦国時代の安芸国における有力国人・生城山天野氏の当主として、大内氏の衰退と毛利氏の台頭という歴史的な転換期にその生涯を送った武将である。大内氏への人質経験、毛利隆元との兄弟契約、そして大寧寺の変後の毛利氏への帰属と厳島の戦いへの参加は、彼の主要な事績として挙げられる。しかし、その活躍が期待される矢先に若くして没し、彼には嗣子がいなかったため、生城山天野氏の家督は弟の元定を経て、最終的には毛利元就の七男・元政が継承することとなった。これにより、生城山天野氏は毛利氏の一門家臣である右田毛利氏の源流の一つとなり、独立した国人領主としての歴史を終えた。
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戦国期安芸国における国人領主としての天野隆綱の役割と限界
天野隆綱の生涯は、強大な戦国大名勢力の狭間で、自家の存続と発展のために苦闘した戦国期国人領主の一つの典型を示している。毛利氏との連携という選択は、当時の状況下においては現実的かつ戦略的な判断であったと言えるが、当主の早世と後継者問題という国人領主がしばしば直面する脆弱性が、結果として独立勢力としての生城山天野氏の終焉を早めることになった。
天野隆綱の存在は、毛利氏による安芸国統一、そして中国地方の大部分を支配下に置くに至る過程において、他の多くの国人領主たちと同様に、毛利氏の勢力拡大の波に飲み込まれ、その支配体制の中に組み込まれていった一つの事例として歴史に位置づけられる。彼の短い生涯は、戦国という時代の厳しさと、その中で必死に生きようとした人々の姿を我々に伝えている。
引用文献
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安芸・備後の戦国史: 境目地域の争乱と毛利氏の台頭 (歴墾ビブリオ/戦国時代の地域史<3>)
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毛利元就のここがごい - 安芸高田市
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毛利元就とは? わかりやすく解説
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