最終更新日 2025-06-06

天野隆重

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戦国武将 天野隆重の生涯と事績

1. はじめに

天野隆重(あまの たかしげ)は、文亀3年(1503年)に生まれ、天正12年(1584年)に没した戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である 1 。はじめ周防の大大名大内氏に属し、後に安芸の雄毛利氏に仕え、その中国地方統一に多大な貢献を果たした。特に毛利元就からの信頼は厚く、数々の重要な戦いで武功を挙げ、また戦略的要衝の城代を歴任した。

本報告書は、現存する史料に基づき、天野隆重の出自、主君の変遷、主要な戦歴、関連する古文書、人物評価、そして彼の一族の動向について多角的に明らかにし、その歴史的意義を考察することを目的とする。その際、『陰徳太平記』のような軍記物語は参考史料の一つとしつつも、書状などの一次史料や、より信頼性の高い研究に基づいて記述を進めることとしたい 2

天野隆重の生涯は、主家を変えながらも新たな主君に忠誠を尽くし、武功を挙げていくという戦国武将の一つの典型を示している。しかし、その中でも毛利元就から寄せられた信頼の厚さや、豊前松山城、月山富田城といった最前線の城代を歴任した事実は、彼の特異な能力と毛利家中における重要な立場を示唆している。主君が大内氏から毛利氏へと変わる激動の時代にあって、隆重がいかにしてその地位を確立し、信頼を勝ち得ていったのかを追うことは、戦国武将の処世術と能力を理解する上で重要である。

表1:天野隆重 略年譜

年号(和暦・西暦)

年齢

出来事

関連史料例

文亀3年(1503年)

1歳

安芸国金明山城主・天野元貞の長男として生まれる

1

天文19年(1550年)

48歳

毛利元就の命により、熊谷信直と共に吉川興経父子を誅殺

4

天文20年(1551年)

49歳

大寧寺の変。大内義隆自害。弟・天野隆良は義隆に殉死。隆重は毛利元就に属す

1

天文24年(1555年)

53歳

厳島の戦いに参加

1

弘治3年頃(1557年頃)

55歳

防長経略に参加

1

永禄5年(1562年)

60歳

豊前松山城代となり、大友軍の攻撃を撃退

1

永禄8-9年頃(1565-66年頃)

63-64歳

尼子氏滅亡後、月山富田城代となる

1

永禄12年(1569年)

67歳

尼子再興軍による月山富田城攻撃に対し、寡兵で籠城。偽降策を用いて尼子軍を撃退。小早川隆景より書状(天野武弘と連名)を受け取る

1

天正12年(1584年)

82歳

3月7日、出雲国八雲村熊野城にて死去

1

2. 天野隆重の出自と家系

天野隆重の理解を深めるためには、まず彼が属した安芸天野氏の背景と、彼自身の家族関係を把握する必要がある。

安芸天野氏の系譜

天野氏は、藤原南家工藤氏の流れを汲むとされ、鎌倉時代に安芸国志芳郷(現在の東広島市志和町)に下向し、国人領主として成長した一族である 3 。安芸天野氏には大きく二つの系統があり、天野隆重が属したのは天野政貞を祖とする金明山天野氏(かなみょうやま-/きんめいさん-、志芳堀天野氏とも)である 3 。もう一方は天野顕義から始まる生城山天野氏(おおぎやま-、志芳東村天野氏とも)で、天野興次、天野興定、天野元定らがこの系統に連なる 3

近年の研究では、天野隆重の系統である金明山天野氏が「保利氏(ほりし)」とも称されていたことが指摘されている 3 。この「保利」という呼称は、金明山城の所在地である「堀(ほり)」の音に通じるものであったと考えられ、単なる別名ではなく、毛利氏との関係性において特別な意味を持っていた可能性がある 3 。例えば、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いにおける毛利氏家臣団の戦功を記した「郡山城諸口合戦注文」には、本来毛利氏と同格であるはずの他の安芸国人の名は見られない中で、「保利氏家臣団」の名前が記載されている 3 。この事実は、天野隆重の系統が他の天野氏(例:生城山天野氏)とは異なり、比較的早い段階から毛利氏に対してより従属的な、あるいは譜代に近い形で扱われていた可能性を示唆する。これは、毛利氏が有力国人を自らの支配体制に組み込む上での戦略の一環であったとも考えられ、隆重が後に毛利氏から厚い信頼を得る素地の一つとなったのかもしれない。

父・天野元行(元貞)

天野隆重は、文亀3年(1503年)、安芸国金明山城を本拠とした国人領主・天野元貞(あまの もとさだ、元行(もとゆき)とも)の長男として生を受けた 1 。父・元貞は、永正9年(1512年)に毛利興元(毛利元就の兄)の呼びかけに応じ、石見国・安芸国の国人である高橋元光や吉川元経、近隣の平賀弘保、小早川弘平、そして生城山天野氏の天野興定らと共に国人一揆の契約を結んでいる 10 。これは、当時の天野氏が安芸国において一定の勢力を有し、地域の政治動向に積極的に関与していたことを示している。

福原氏との姻戚関係

天野隆重が毛利氏の中で重きをなす上で、毛利氏の重臣である福原氏との深い姻戚関係は決定的な役割を果たしたと考えられる。隆重の母は、毛利氏一門衆宿老であった福原広俊(ふくばら ひろとし)の娘である 1 。さらに、隆重の妻も福原貞俊(ふくばら さだとし、広俊の子で広俊の跡を継いだ)の妹であった 1

この母方・妻方双方における福原氏との二重の姻戚関係は、偶然の産物ではなく、戦略的な意味合いが強かったと推察される。福原氏は毛利氏の庶家でありながら、代々宿老として毛利本家の運営に深く関与する極めて重要な家柄であった。そのような福原氏と二重の血縁で結ばれることは、天野隆重が毛利元就から個人的な信頼を得るだけでなく、毛利家中における彼の立場を強固なものにする上で計り知れない影響力を持ったであろう。戦国時代において、婚姻は有力な国人領主を自陣営に確実に取り込むための最も有効な手段の一つであり、毛利元就が天野氏を単に従属させるだけでなく、福原氏を介して自らの影響力を深く浸透させ、信頼できる腹心として取り込もうとした戦略的意図がここにはっきりと見て取れる。この強固な結びつきこそが、隆重のその後の目覚ましい活躍の基盤となったと言っても過言ではない。

兄弟姉妹と妻子

天野隆重には、弟に天野隆良(あまの たかよし)がいた。隆良は、天文20年(1551年)の大寧寺の変において、主君大内義隆に最後まで付き従い、長門国大寧寺で陶晴賢の軍勢と戦い討死している 1 。また、姉妹の一人は毛利氏の重臣である桂元澄(かつら もとすみ)に嫁いでいる 3

隆重の子としては、天野元嘉(あまの もとよし)、元明(もとあきら)、武弘(たけひろ)、元祐(もとすけ、元康(もとやす)とも)、元友(もととも)、元信(もとのぶ)らの名が伝えられている 1 。このうち、天野武弘は永禄12年(1569年)11月18日付の小早川隆景書状の宛名に、父隆重と共に名を連ねており、親子で軍事行動を共にしていたことが確認できる 8

表2:天野隆重 主要関連人物

氏名

隆重との関係

簡単な説明

関連史料例

天野元貞(元行)

安芸国金明山城主、隆重の父

1

福原広俊の娘

毛利氏宿老・福原広俊の娘

1

福原貞俊の妹

毛利氏宿老・福原貞俊の妹

1

天野隆良

大寧寺の変で大内義隆に殉死

1

桂元澄室

姉妹

毛利氏重臣・桂元澄の妻

3

天野元嘉

子(長男または嫡男か)

隆重の跡を継ぎ長州藩士となる。通化寺に隆重夫妻と共に墓がある

1

天野武弘

永禄12年小早川隆景書状の宛名に隆重と共に見える

8

天野元祐(元康)

子(三男)

叔父・天野隆良の養子となり家督を継ぐ(天野七郎兵衛家)

10

天野元信

五郎太石事件に関与し処刑される

1

毛利元就

主君

安芸国の戦国大名。隆重を厚く信頼し重用した

1

小早川隆景

主君の子(毛利元就三男)、毛利氏重臣

隆重・武弘親子に書状を発給

8

山中幸盛(鹿介)

敵将

尼子再興軍の中心人物。月山富田城で隆重と攻防を繰り広げる

1

大友宗麟

敵将

豊後の戦国大名。豊前松山城を巡り隆重と争う

1

吉川興経

誅殺対象

安芸国の国人。毛利元就の命で隆重らに誅殺される

4

3. 大内氏から毛利氏へ:主君の変遷と初期の活動

天野隆重の武将としてのキャリアは、中国地方の覇権が大きく揺れ動いた時代背景の中で、主君の変遷と共に形成されていった。

大内氏配下としての活動

天野隆重は、当初、周防・長門を本拠とし、西国に広大な勢力圏を築いていた戦国大名・大内義隆に仕えていた 1 。安芸国の多くの国人領主と同様に、天野氏も大内氏の支配体制下に組み込まれていたと考えられる。具体的な活動内容や、大内氏の下でどのような役割を担っていたかについては、現存する史料からは詳らかではないが、国人領主として軍事的な動員に応じる立場にあったことは想像に難くない。

大寧寺の変と毛利氏への帰属

隆重の運命を大きく変えたのは、天文20年(1551年)に勃発した大寧寺の変である。大内義隆がその重臣であった陶晴賢(陶隆房)の謀反によって攻められ、長門国大寧寺で自害に追い込まれたこの事件は、大内氏の勢力に大きな動揺をもたらした 1 。この政変を契機として、天野隆重は安芸国で急速に台頭しつつあった毛利元就に仕えるようになったとされている 1

興味深いのは、この大寧寺の変における天野兄弟の異なる対応である。弟の天野隆良は、主君大内義隆に最後まで付き従い、義隆を守って討死するという壮絶な最期を遂げた 1 。一方で、兄である隆重は、旧主の滅亡という混乱の中で、新たな主君として毛利元就を選択した。この兄弟の異なる行動は、単に個人の価値観の違いと片付けることもできるが、戦国時代の武家が家名を存続させるための一つの戦略であった可能性も否定できない。すなわち、一方が旧主への忠義を貫いて家名を汚さぬようにしつつ、もう一方が時勢を読んで新興勢力に身を投じることで、いずれの勢力が勝利しても家系が生き残る道を探るという考え方である。隆重が毛利氏の重臣福原氏と深い姻戚関係にあったことを考慮すれば、毛利氏への帰属は自然な流れであったとも言えるが、弟の殉死という事実は、天野家が大内氏に対しても一定の忠節を尽くしていたことを示しており、隆重の選択が単なる日和見主義ではなかった可能性を物語っている。

毛利元就の信頼と家中での立場

毛利元就に仕えるようになった天野隆重は、前述の福原氏との強固な姻戚関係を背景に、元就から厚い信頼を得ることになる 1 。また、金明山天野氏が「保利氏」とも称され、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いの時点で、毛利氏の戦功者リストにその家臣団の名が見えることは、他の安芸国人と比較して早期から毛利氏と密接な、あるいは従属的な関係にあったことを示唆している 3

一方で、中国語版の資料には「ある程度の独立性を維持しながらも毛利氏に従った」との記述もあり 1 、国人領主としての一定の自律性を保持していた可能性も考えられる。毛利氏の支配体制が確立していく過程で、多くの国人領主がその独立性を失っていく中で、天野隆重がどのような形で毛利氏との主従関係を構築し、家中での地位を築いていったのかは、彼の武将としての資質を考える上で重要な点である。

4. 毛利氏家臣としての主要な戦歴

毛利氏に仕えた天野隆重は、その勢力拡大に貢献する数々の重要な戦いに参加し、武将としての名声を高めていった。

表3:天野隆重 主要合戦・役職一覧

合戦/役職名

時期(年号)

隆重の役割・立場

概要・特記事項(戦功、結果など)

関連史料例

吉川興経父子誅殺

天文19年(1550年)

実行部隊の一員

毛利元就の命により、熊谷信直と共に吉川興経父子を襲撃・殺害。

4

厳島の戦い

天文24年(1555年)

毛利軍として参戦

陶晴賢軍を破り、毛利氏の中国地方における覇権確立の契機となる。

1

防長経略

弘治元年~3年(1555~57年)

毛利軍として従軍

大内氏旧領である周防・長門両国を攻略。

1

豊前松山城代

永禄5年~12年(1562~69年)

城代(城番)

大友宗麟軍の数度にわたる攻撃を撃退。毛利氏の九州進出の拠点防衛に貢献。

1

月山富田城代

永禄9年頃~天正年間

城代

尼子氏滅亡後の旧尼子氏本拠地を管理。

1

月山富田城の戦い(対尼子再興軍)

永禄12年~元亀元年(1569~70年)

城代、守備軍指揮官

寡兵で尼子再興軍の猛攻を約1年半にわたり防衛。偽降策を用いて敵軍を撃退。

1

出雲国守護代

元亀元年(1570年)以降か

守護代

月山富田城防衛の功により昇進したとされる。

1

厳島の戦いと防長経略への従軍

天文24年(1555年)、毛利元就が陶晴賢を破った歴史的な戦いである厳島の戦いに、天野隆重は毛利軍の一員として参加した 1 。この戦いは、毛利氏が中国地方における覇権を確立する上で極めて重要な転換点となった。厳島の戦いの勝利に続き、毛利氏は大内氏の旧領である周防・長門両国の攻略(防長経略)を進めるが、隆重はこれにも従軍している 1 。これらの戦いにおける隆重の具体的な戦功に関する詳細は不明であるが、毛利氏の勢力拡大の初期段階における主要な軍事行動に深く関与していたことは、彼が元就から一定の信頼を得ていたことを示している。

豊前松山城代としての攻防戦(対大友氏)

毛利氏の勢力が北九州に及ぶようになると、天野隆重は新たな活躍の場を得る。永禄5年(1562年)、隆重は九州豊前国の松山城(現在の福岡県京都郡苅田町)の城代に任じられた 1 。この豊前松山城は、毛利氏の九州進出における最前線の拠点であり、豊後の戦国大名・大友宗麟との間で激しい争奪戦が繰り広げられた場所であった。

大友宗麟は、毛利氏の九州への影響力拡大を阻止すべく、数度にわたり松山城に大規模な攻撃を仕掛け、時には宗麟自身が苅田まで出陣するほどの執拗さを見せた 1 。このような危機的状況の中で、天野隆重は城主である杉重良(すぎ しげよし、名目上の城主)や他の城番と共に、中心となって城の守りを固め、大友軍の猛攻をことごとく退けた 1

豊前松山城の防衛は、毛利氏の九州戦略にとって極めて重要な意味を持っていた。この城が陥落すれば、毛利氏の九州における足がかりは失われ、大友氏の勢力回復を許すことになりかねなかった。隆重がこの戦略的要衝の防衛責任者として選ばれ、かつその任務を成功させたことは、彼の武勇、指揮能力、そして毛利氏への忠誠心が高く評価されていたことの証左である。大友氏の執拗な攻撃を何度も頓挫させた隆重の功績は、毛利氏の九州における勢力維持に大きく貢献したと言えるだろう。毛利軍が最終的に永禄12年(1569年)に領国内の反乱に対応するため松山城から撤退するまで、隆重はこの地で奮闘を続けた 6

月山富田城代としての尼子再興軍との死闘

天野隆重の武将としてのキャリアの中で、最も輝かしい戦功の一つとして挙げられるのが、出雲国月山富田城(がっさんとだじょう)の城代としての尼子再興軍との戦いである。

毛利氏が出雲の戦国大名尼子氏を滅ぼした後、隆重はその旧本拠地であり難攻不落の名城として知られた月山富田城の城代に任命された 1 。これは、毛利氏が出雲支配の安定化を図る上で、最も信頼できる武将にその枢要を委ねたことを意味する。

永禄12年(1569年)、尼子氏の旧臣であった山中幸盛(鹿介)や立原久綱らに擁立された尼子勝久が、尼子家再興の旗を掲げて隠岐から出雲に上陸し、月山富田城の奪還を目指して侵攻を開始した 1 。これに呼応して各地の尼子氏残党も蜂起し、尼子再興軍の兵力は6,000人を超える規模に膨れ上がった 1

当時、毛利軍の主力は毛利元就の命により九州で大友氏と交戦中であり、月山富田城に残された守備兵は、城主の毛利元秋(毛利元就の五男)や天野隆重らが率いるわずか数百名(300名説 1 、500名説 7 など諸説あり)に過ぎなかった。兵力において圧倒的に不利な状況であった。

このような絶望的な状況下で、天野隆重はその智勇を遺憾なく発揮する。隆重は、城主毛利元秋に詐降策を進言したとも、あるいは自ら考案したとも言われるが 1 、尼子再興軍に対して「月山富田城を開城し降伏したい」という偽りの書状を送ったのである 7 。尼子再興軍は書状の真偽を測りかねたものの、秋上宗信に兵(1,000~2,000名)を率いさせて月山富田城へ向かわせた 7

油断して城内深くまで進軍してきた秋上隊に対し、隆重は三の丸手前で待ち伏せていた毛利軍に急襲を命じ、これを散々に打ち破った 1 。この偽降策の成功は、尼子再興軍に大きな打撃を与えた。その後も山中幸盛らの攻撃は続いたが、隆重は巧みな指揮でことごとくこれを退け、永禄13年(元亀元年、1570年)に毛利本隊の救援が到着するまでの約1年半もの間、月山富田城を守り抜いたのである 1 。救援が到着した際には、城内の兵糧は完全に尽き、まさに落城寸前の状態であったと伝えられている 7 。この目覚ましい功績により、天野隆重は出雲国守護代に昇進したともされる 1

この月山富田城の戦いは、単なる籠城戦の成功例としてだけでなく、多層的な意義を持つ。第一に、天野隆重の卓越した戦術眼と心理戦の巧みさ(偽降策)を示すものである。第二に、圧倒的な兵力差にも屈せず、寡兵で大軍を翻弄し続けたその精神力と統率力の高さを示す。第三に、この時期、毛利氏は九州の大友氏、周防の大内輝弘、そして出雲の尼子再興軍という複数の脅威に直面しており、二正面あるいは三正面作戦を強いられていた。もし月山富田城が早期に陥落していれば、毛利氏の戦線は崩壊していた可能性すらある。隆重の粘り強い防衛は、毛利本隊が態勢を立て直し、救援に向かうための貴重な時間を稼いだと言え、毛利氏の中国地方支配の安定化に大きく貢献した。そして第四に、この戦いは尼子氏再興の夢を打ち砕く決定的な戦いの一つとなり、戦国史における毛利氏の優位を不動のものとする上で重要な意味を持った。

なお、偽降策の経緯については史料によって記述に異同があり、『雲陽軍実記』では山中幸盛が偽降を見抜こうとしたが秋上宗信が隆重の義を信じて聞き入れなかったために敗れたとする一方、『陰徳太平記』などの毛利方史料では、幸盛をはじめとする尼子再興軍の将は隆重の嘘の書状を見破ることができず、宗信の敗北によって初めて偽りの降伏であったことを知り悔しがったとされている 7

吉川興経父子誅殺への関与とその背景

天野隆重の戦歴において、武勇や智謀を示すものとは別に、主君の非情な命令を遂行した事例も存在する。天文19年(1550年)9月、毛利元就の命を受けた天野隆重は、同じく毛利氏の家臣である熊谷信直と共に、安芸国の国人領主であった吉川興経(きっかわ おきつね)とその嫡子千法師を襲撃し、殺害するという任務にあたった 4

この事件の背景には、吉川興経自身の当主としての器量不足や、当時安芸国で勢力を争っていた大内氏と尼子氏の間で度々離反を繰り返したことへの不信感があった 17 。さらに重要なのは、毛利元就が自身の次男である元春(後の吉川元春)を吉川興経の養子として送り込み、最終的には吉川家の家督を乗っ取り、吉川氏を毛利氏の強力な一翼として組み込もうとする冷徹な戦略があったことである 5 。興経は隠居させられていたが、その後の不穏な動きが粛清の引き金となった。

毛利元就はこの誅殺にあたり、事前に吉川家中に内応者を用意し、興経の刀の刃を潰させ、弓の弦も切らせるなど、周到な準備を整えていた 17 。そのため、興経はほとんど抵抗することもできずに殺害されたという。

天野隆重がこの吉川興経父子の誅殺という、いわば「汚れ役」とも言える任務の実行部隊に選ばれたことは、彼が単に武勇に優れていただけでなく、主君の非情な命令にも従う絶対的な忠誠心と、それを確実に遂行できるだけの覚悟と能力を兼ね備えていたことを示している。この種の任務を成功させることは、主君からの信頼を一層深める一方で、他の勢力からは恨みを買うリスクも伴う。隆重が毛利家中で確固たる地位を築き、元就から絶大な信頼を得るに至った背景には、このような主君の意を汲んだ「働き」も無視できない要素であったと考えられる。

5. 天野隆重に関わる史料と評価

天野隆重の人物像や事績を明らかにする上で、いくつかの重要な史料が存在する。それらを分析することで、彼の活動や毛利家中での位置づけ、そして同時代人や後世からの評価について考察することができる。

小早川隆景書状(天野隆重・天野武弘宛)

永禄12年(1569年)11月18日付で、毛利氏の最高幹部の一人である小早川隆景から、天野隆重とその子・武弘に宛てて発給された書状が現存している 8 。この書状は、当時毛利氏が直面していた緊迫した軍事情勢を背景に書かれたものである。

具体的には、毛利氏と大友氏の間で繰り広げられていた筑前立花城を巡る攻防戦や、出雲における尼子氏遺臣(尼子勝久ら)の再興運動に関連する内容を含んでいる 8 。当時、小早川隆景は兄の吉川元春と共に筑前の攻略にあたっていたが、大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が周防国山口で挙兵し、さらに出雲方面でも尼子勝久が大友氏と連携して蜂起するという、毛利氏にとって挟み撃ちにされる危機的な状況にあった 8 。この書状は、このような状況下で毛利元就の命令を受け、吉川元春と小早川隆景が兵を立花城に残して筑前から撤退することを決定した際に、天野隆重・武弘親子に対して何らかの指示や情報伝達を行ったものと考えられる。

この書状は、アジアとの国際貿易港であった博多を巡る毛利氏と大友氏の攻防の様子を伝える貴重な一次史料であると同時に、古くから『大日本史料』などでその存在が知られていた史料の原文書そのものであるという点でも歴史的価値が高い 8 。天野隆重が、息子の武弘と共に、毛利氏の最高首脳部から直接指示を受ける立場にあったこと、そして当時の複雑で緊迫した軍事局面において重要な役割を担っていたことを明確に示している。

『萩藩閥閲録』における記述

江戸時代に長州藩(萩藩)によって編纂された家臣たちの家譜集である『萩藩閥閲録』には、天野隆重やその一族に関する記述が見られる。

  • 巻七十三「天野求馬」 : この項には、天野求馬(あまの きゅうま)という人物に関する記録が収められている。求馬は、毛利元就・輝元父子から出雲国内の富田、能義郡吉田村、宍道塚、本城(本庄)、加賀、雲州島根円福寺など、広範囲にわたる知行地を与えられていたことが確認できる 19 。また、天野隆重や毛利元秋(元就の五男、月山富田城主)との連署書状も存在しており、隆重と密接な関係にあったことがうかがえる 19 。天野求馬の正確な出自や隆重との関係(親子、兄弟、あるいは有力な配下など)は、これらの情報だけでは断定できないものの、隆重による出雲統治を支える重要な役割を担っていた人物であったと考えられる 3
  • 巻七十「天野七郎兵衛」 : こちらは、天野隆重の弟である天野隆良の家系に関する記録である。隆良は大寧寺の変で大内義隆に殉じて男子なく戦死したが、その忠義を重んじた毛利元就の命により、隆重の三男である元祐(もとすけ)が隆良の婿養子となり家督を相続した 12 。元祐は周防国吉敷郡大内村内の60石の知行を継ぎ、この家系は「天野七郎兵衛家」として長州藩士として存続したことが記されている 12

これらの『萩藩閥閲録』の記述は、天野一族が単に隆重個人の武功によってのみ毛利氏に貢献したのではなく、一族全体として毛利氏の支配体制の中で様々な役割を担い、その中で家名を維持しようとしていた様相を浮かび上がらせる。天野求馬のような隆重の活動を支えたであろう一族の存在や、本家とは別に分家が毛利氏に仕え続けた事実は、天野氏の歴史をより立体的かつ多角的に理解する上で重要である。これらの記録が江戸時代の長州藩によって編纂されたものであることは、毛利氏にとって天野一族の貢献が、後世まで記録に残す価値のあるものとして認識されていたことを示している。

『陰徳太平記』など軍記物における描写

江戸時代に成立した軍記物語である『陰徳太平記』には、天野隆重の活躍、特に月山富田城の戦いにおける偽降策を用いた奮戦などが描かれている 7 。これらの記述は、天野隆重の武勇や智謀を伝えるエピソードとして広く知られる一因となっている。

しかしながら、『陰徳太平記』は、毛利氏の活躍を顕彰する目的で書かれた側面が強く、史実の改竄や毛利氏に都合の良い虚飾が多く含まれていると指摘されており、史料としての信頼性は低いと評価されている 2 。例えば、月山富田城での偽降の計略を尼子方が全く見抜けなかったとする記述は、毛利方の視点から描かれたものである可能性が高く、その解釈には慎重を期す必要がある 7 。したがって、『陰徳太平記』などの軍記物の記述は、あくまで参考程度に留め、書状などの一次史料や他の信頼性の高い史料との比較検討を通じて、その内容を吟味する必要がある。

その他の関連文書

  • 吉川家文書 : 毛利氏の重臣である吉川家に伝わる文書群の中には、吉川元春(毛利元就次男)、志道元保、渡辺長、天野隆重、杉原盛重が連署し、小早川隆景(毛利元就三男)、福原貞俊、口羽通良に宛てた書状が存在することが確認されている 24 。この書状は、天野隆重が毛利氏の最高幹部や他の有力家臣たちと共同で公式な文書を発給する立場にあったことを示している。歴史研究者の木下和司氏はこの書状に注目し、毛利氏の「家中」である渡辺長と、国衆である天野隆重や杉原盛重が連署している点から、隆重らが毛利氏「家中」との間に身分的な隔たりを意識していなかった、すなわち毛利氏の支配体制に深く組み込まれていた証左であると考察している 24
  • 多賀文書 : 永禄12年(1569年)8月21日付で、天野隆重と新藤就勝(しんどう なりかつ)が連署した書状が、多賀氏に伝わる文書(多賀文書)の中に存在する 26 。この書状の具体的な内容は不明な点が多いが、 27 の文脈では、出雲国の多賀氏、三刀屋氏、宇山氏の間で起こった知行地を巡る争いに関連して、毛利元就が多賀氏に知行を与えるという裁決を下した件で、この天野隆重・新藤就勝連署書状が引用されている。これは、隆重が出雲における所領問題の解決にも関与していた可能性を示唆する。
  • 小早川家文書(『萩藩閥閲録』所収) : 元亀4年(1573年)3月12日付の天野隆重書状の写しが、『萩藩閥閲録』巻百十五「湯原文左衛門」の項に収録されていることが確認できる 28 。この書状は月山富田城に関連する内容で、宛先は湯原文左衛門、あるいはその関係者であった可能性が高い。

武将としての能力と毛利氏への忠誠心に関する考察

天野隆重の武将としての能力は、数々の戦歴、特に豊前松山城や月山富田城における寡兵での防衛成功によって証明されている。これらの戦いでは、卓越した指揮能力、戦術眼、そして何よりも不屈の精神力が遺憾なく発揮された。特に月山富田城での偽降策は、彼の智謀の一端を示すものと言えるだろう。

一方で、吉川興経父子の誅殺といった非情な任務を遂行したことは、彼が主君の命令に対して絶対的な忠誠心を持っていたこと、あるいは戦国武将としての冷徹な現実主義を身につけていたことを示している。

毛利元就、その子隆元、そして孫の輝元という毛利家三代にわたって仕え、特に元就からは絶大な信頼を得ていたことは、彼の能力と忠誠心が一貫して高く評価されていたことを物語っている 1 。近年の研究では、毛利氏の出雲国支配において、毛利元秋(元就の五男で月山富田城主)と天野隆重が一体となって統治にあたった体制を「元秋・隆重体制」と評価する見解も出されており 27 、これは隆重が単なる一城代に留まらず、方面軍の司令官に近い、あるいは地域の統治責任者として極めて重要な役割を担っていたことを示唆している。

6. 天野隆重の晩年と墓所

数々の戦功を挙げ、毛利氏の重臣として活躍した天野隆重であるが、その晩年と最期についても記録が残されている。

晩年の動向と最期

史料によれば、天野隆重は晩年、出雲国八雲村(現在の島根県松江市八雲町)にあった熊野城に居住したとされる 9 。そして、天正12年(1584年)3月7日、同地において82歳(数え年)でその生涯を閉じた 1 。戦国乱世を生き抜き、大内氏から毛利氏へと主君を変えながらも、一貫して武将としての本分を全うした人生であった。

岩国市通化寺の墓所

天野隆重の墓は、山口県岩国市周東町上久原(旧玖珂郡周東町西午王ノ内)に所在する大梅山通化寺(だんばいさん つうけいじ)の境内地にある 1 。墓石は隆重のものと、その夫人のものが並んで建てられている 9 。さらに、この墓所には隆重夫妻だけでなく、その子である天野元嘉夫妻も共に葬られていると伝えられている 1

この天野隆重夫妻の墓は、その歴史的価値が認められ、昭和51年(1976年)12月9日に岩国市の文化財(史跡)に指定されている 9

7. 天野隆重の子孫と金明山天野氏嫡流の行方

天野隆重の死後、彼の子孫たちは毛利氏の家臣として、あるいは別の形で家名を繋いでいった。しかし、その道のりは必ずしも平坦なものではなく、戦国時代から江戸時代への移行期における武家社会の変動を色濃く反映している。

嫡男・天野元嘉の系統と長州藩士としての存続

天野隆重の死後、家督は子の天野元嘉(あまの もとよし)が継いだとされる 10 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は大幅に減封され、周防・長門の二国(現在の山口県)に移されることとなった。天野元嘉の系統は、この毛利氏の移封に従い、長州藩士として江戸時代を通じて存続した 10 。前述の通り、天野元嘉夫妻の墓は、父である隆重夫妻と共に岩国市の通化寺にあり、親子代々この地に縁があったことがうかがえる 1

五郎太石事件と天野元信の処刑、金明山天野氏嫡流の断絶

一方で、天野隆重の子の一人である天野元信(あまの もとのぶ、母は福原氏の娘)の系統は、悲劇的な結末を迎えることとなる。慶長10年(1605年)、毛利輝元が萩城を築城する際に発生した「五郎太石事件(ごろたいしじけん)」に、天野元信が深く関与した 10

この事件は、築城のための石材(五郎太石)の盗難を巡り、天野元信の義父にあたる熊谷元直(くまがい もとなお)と、毛利氏の重臣である益田元祥(ますだ もとよし)との間で深刻な対立が生じたものである 13 。天野元信は熊谷元直に与し、益田元祥方を提訴するなど強硬な態度を取った。この対立は萩城の普請を遅らせ、結果として毛利輝元の上洛にも影響を及ぼした 13 。輝元は、築城遅延が江戸幕府の不興を買うことを恐れ、また藩内の統制を強化する意図もあって、熊谷元直と天野元信らを罪に問い、処断することを決定した 13 。天野元信は妻と共に殺害され、この系統は断絶した 13 。また、この事件の背景には、元信らがキリシタンであったことも一因として挙げられている 13 。この事件により、金明山天野氏の嫡流の一つと見なされる元信の家系は途絶え、家伝の文書なども多く失われたと伝えられている 10

五郎太石事件は、単なる築城資材を巡る紛争という表面的な様相だけでなく、より深層的な要因が絡んでいたと考えられる。関ヶ原の戦いで敗北し、大幅な減封を余儀なくされた毛利氏にとって、藩内の統制強化と藩主権力の確立は喫緊の課題であった。熊谷氏や天野氏(隆重の系統)は、元々安芸国の有力国人であり、毛利元就の時代にはその自律性をある程度保ちつつ毛利氏に協力する形で家中に組み込まれていたが、輝元の時代になると、このような旧国人勢力の存在が、藩主を中心とした新たな支配体制を構築する上で障害と見なされるようになった可能性が指摘されている 13 。天野元信の処刑は、隆重が築き上げた毛利氏との信頼関係とは裏腹に、次世代の天野氏嫡流が毛利氏の新体制の中で生き残ることの困難さを示すものであった。また、キリシタン信仰が処罰理由の一つとされた点は、徳川幕府による禁教政策が厳しさを増す中で、毛利氏が幕府の意向を忖度し、藩内の不安定要素を排除しようとした対応であった可能性も考えられる。

弟・天野隆良の養子となった天野元祐(隆重三男)の系統(天野七郎兵衛家)

天野隆重の直系の一つの系統が悲劇的な結末を迎えた一方で、別の系統は長州藩士として家名を繋いでいる。隆重の弟である天野隆良は、前述の通り大寧寺の変で男子を残さずに戦死した。しかし、その忠義を重んじた毛利元就の計らいにより、隆重の三男である天野元祐(もとすけ、元康とも)が隆良の婿養子となり、その家督と周防国吉敷郡大内村内の60石の知行を相続した 10 。この家系は「天野七郎兵衛家」として『萩藩閥閲録』巻七十にその名が記録されており、長州藩士として幕末まで存続したことが確認できる 12

その他の子孫(天野元珍など)

さらに別の系統として、「姓氏家系メモ」(miraheze) によれば、天野隆重の子とされる天野元珍(あまの もとよし、あるいは「もとたか」か)という人物の存在が伝えられている 33 。元珍は、毛利氏が関ヶ原の戦いの後に防長二国へ移封された際、毛利氏の禄を辞して郷士となり、出雲国八束郡熊野村(現在の島根県松江市八雲町熊野)に土着したという 33 。その五代の孫にあたる元良は医者となり、松江に移り住んだとされている 33 。この元珍の系統は、数度の火災によって家伝の系図や記録類を焼失したと伝えられている 33

天野隆重の子孫たちの動向は、戦国武将の一族が時代の大きな変化の中で、多様な生き残り戦略を取ったことを示している。嫡流が断絶するという悲劇に見舞われる一方で、長州藩の家臣として武士の身分を維持した家系(元嘉の系統や元祐の系統)や、武士の身分を離れて郷士となり、さらには専門職である医者として新たな道を切り開いた子孫(元珍の系統)が存在したことは、近世社会への移行期における武家のあり方の多様性を示す興味深い事例と言えるだろう。

8. 結論

天野隆重は、戦国時代から安土桃山時代という激動の時代を生き抜き、毛利氏の中国地方における覇権確立に多大な貢献を果たした傑出した武将であった。彼の生涯を振り返ると、いくつかの重要な歴史的意義を見出すことができる。

第一に、天野隆重は、安芸国の一国人領主から身を起こし、毛利元就という稀代の智将に見出され、その信頼を得て重臣へと登り詰めた人物である。特に、毛利氏の重臣である福原氏との二重の姻戚関係は、彼の毛利家中における地位を確固たるものにする上で大きな役割を果たした。これは、戦国時代における婚姻政策の重要性と、国人領主がより大きな権力構造に組み込まれていく過程を示す好例と言える。

第二に、天野隆重は、武勇と智謀を兼ね備えた優れた指揮官であった。豊前松山城や月山富田城といった戦略的要衝の防衛において、寡兵ながらも大軍を相手に粘り強く戦い抜き、時には偽降策のような奇策を用いて敵を翻弄した。これらの戦功は、単に個人の武勇伝としてだけでなく、毛利氏の勢力拡大と領国維持にとって不可欠なものであった。特に、毛利氏が複数の戦線を抱え、危機的状況にあった際の彼の奮戦は、戦略的に極めて高い価値を持つ。

第三に、天野隆重の生涯は、戦国武将の持つ多面性を如実に示している。輝かしい武功を立てる一方で、吉川興経父子の誅殺といった主君の非情な命令も忠実に実行した。これは、戦国時代に生きる武将が、主家への忠誠と自身の存続のために、時には冷徹な判断を下さざるを得なかった現実を反映している。

第四に、天野隆重とその一族の動向は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会の大きな変動を映し出している。隆重自身は毛利氏の重臣として天寿を全うしたが、その子孫たちは、長州藩士として家名を繋いだ者、五郎太石事件という政争に巻き込まれて悲劇的な最期を遂げた者、あるいは武士の身分を離れて新たな道を模索した者など、多様な運命を辿った。これは、近世封建体制が確立していく中で、旧来の国人領主層がどのように変容し、あるいは淘汰されていったかを示す縮図とも言える。

今後の研究課題としては、まず、現存する一次史料、特に書状類のさらなる詳細な分析を通じて、天野隆重の具体的な活動内容や、彼の意思決定の背景にある思考をより深く掘り下げることが挙げられる。「保利氏」という呼称が具体的にどのような文脈で使用され、どのような意味合いを持っていたのかを特定することも興味深い。また、『萩藩閥閲録』などに名が見える天野求馬と隆重との正確な関係性の確定や、軍記物語と一次史料との比較検討を通じた隆重像の再構築も重要である。さらに、五郎太石事件の真相と、それが天野氏嫡流の断絶に与えた影響のより詳細な経緯の追求は、近世初期における毛利氏の藩政確立の過程を理解する上でも意義深い。

天野隆重は、毛利元就や吉川元春、小早川隆景といった著名な武将たちの陰に隠れがちではあるが、その事績を丹念に追うことで、戦国乱世の実像と、そこに生きた武士たちの姿をより鮮明に浮かび上がらせることができる。本報告書が、天野隆重という一人の武将への理解を深める一助となれば幸いである。

引用文献

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