戦国時代の但馬国(現在の兵庫県北部)に、天空の城として名高い竹田城を拠点とした一人の武将がいた。その名は太田垣輝信(おおたがき てるのぶ)。但馬守護・山名氏の重臣でありながら、織田信長の中国侵攻という時代の激流に翻弄され、没落していった人物である。史料によっては「輝延」とも記されるこの武将の生涯は 1 、織田、毛利という二大勢力の狭間で、地方の独立領主(国衆)がいかにして生き残りを図り、そして抗い、ついには飲み込まれていったかを示す典型的な事例として、我々に多くの示唆を与える。
一般的に輝信は、「一度は信長に通じたものの、後に毛利氏に寝返り、羽柴秀吉に居城を攻め落とされた武将」として、簡潔に語られることが多い 1 。しかし、その単純な評価の裏には、名門国衆の当主としての誇り、領地と家臣を守るための苦渋の決断、そして武将としての執念が隠されている。彼はなぜ、一度は服属した織田信長を裏切るという、極めて危険な道を選んだのか。天空の要害と謳われた竹田城は、いかにして陥落したのか。そして、武士としての全てを失った後、太田垣一族の血脈は途絶えてしまったのか。
本報告書は、これらの問いを深く掘り下げることで、太田垣輝信という一人の武将の生涯を丹念に追う。それは同時に、戦国時代末期の但馬国という地域社会が、天下統一という巨大なうねりの中で経験したリアルな変容の過程を解き明かす試みでもある。輝信の選択と運命を多角的に分析することで、歴史の勝者の側からだけでは見えてこない、戦国乱世のもう一つの真実に迫ることを目的とする。
まず、輝信の生涯を理解するため、彼に関連する出来事を時系列で概観する。
年代(西暦) |
太田垣輝信および太田垣氏の動向 |
関連する国内外の情勢 |
天文7年頃(1538) |
太田垣輝信、誕生か 3 。 |
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永禄12年(1569) |
羽柴秀吉の第一次但馬侵攻。山名祐豊らと共に織田信長に服属 7 。 |
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。畿内を制圧。 |
元亀元年頃(1570) |
父・朝延より家督を相続し、第7代竹田城主となる 4 。 |
石山合戦が始まる。信長包囲網が形成され始める。 |
天正3年(1575) |
毛利氏と「芸但和睦」を締結し、反織田方へ転じる 7 。 |
長篠の戦い。織田・徳川連合軍が武田軍に大勝。 |
天正5年(1577) |
羽柴秀長率いる織田軍に竹田城を攻められ敗走。城は一時、織田方の手に落ちる 4 。 |
織田信長、対毛利戦を本格化(中国攻め)。手取川の戦いで上杉謙信に敗れる。 |
天正7年(1579) |
織田方の城代・羽柴秀長が転出した隙を突き、一時的に竹田城を奪還したとみられる 2 。 |
織田信長、安土城天主が完成。 |
天正8年(1580) |
羽柴秀吉による但馬平定。竹田城は完全に落城し、輝信は没落する 1 。 |
石山本願寺が信長に降伏し、10年にわたる石山合戦が終結。 |
天正13年頃(1585) |
輝信、死去したと推定される 2 。 |
豊臣秀吉、関白に就任。四国を平定する。 |
太田垣輝信の行動を理解するためには、まず彼が背負っていた「太田垣氏」という家の歴史と、但馬国におけるその特異な地位を知る必要がある。
太田垣氏は、但馬国造・日下部氏の後裔を称する、但馬でも指折りの古来からの名族であった 10 。その名が歴史の表舞台で確固たるものとなるのは、室町時代中期のことである。嘉吉元年(1441年)に勃発した嘉吉の乱において、一族の太田垣光景(みつかげ)が但馬守護・山名宗全の配下として赤松氏討伐に多大な功績を挙げた 7 。この功により、光景は播磨守護代に任じられると共に、嘉吉3年(1443年)、宗全の命により但馬の要衝である虎臥山(とらふすやま)に竹田城を築き、その初代城主となった 10 。これ以降、竹田城は太田垣氏累代の居城として、約140年間にわたりその支配下に置かれることとなる。
ただし、今日我々が目にする壮麗な総石垣の城郭は、太田垣氏の時代のものではない。彼らの時代の竹田城は、土塁や空堀を主とした、戦国期によく見られる典型的な山城であったと推測される 16 。現在の威容を誇る石垣遺構は、太田垣氏が没落した後の天正13年(1585年)以降、最後の城主となった赤松広秀によって、当時の最新技術である穴太衆積みなどを用いて大規模に改修されたものである 4 。
太田垣氏は、応仁の乱(1467年-1477年)においても主家である山名氏の主力として活躍した。特に、宿敵であった丹波守護・細川氏の軍勢が但馬国境に侵攻してきた際には、これを国境の夜久野ヶ原で撃退するなど、その武名は広く知れ渡った 7 。こうした功績により、太田垣氏は同じく但馬の有力国衆であった垣屋(かきや)氏、八木(やぎ)氏、田結庄(たいのしょう)氏と共に「山名四天王」と称されるようになった 18 。輝信の時代には、垣屋続成、八木豊信、田結庄是義(是清)が、彼と共に四天王の一角を占めていた 20 。
しかし、「四天王」という呼称が与える忠臣のイメージとは裏腹に、その実態は主家の権力を凌駕しかねない、半ば独立した国衆連合体であった。この点を理解することは、後の輝信の行動を読み解く上で極めて重要である。彼らの自立性の高さは、戦国時代の史料に明確に見て取れる。例えば、永正9年(1512年)、太田垣氏ら山名四天王は結束して、主君である但馬守護・山名致豊に反旗を翻し、彼を追放して弟の山名誠豊を新たな守護として擁立するという、下剋上ともいえる行動を起こしている 7 。さらに大永2年(1522年)には、主君・山名誠豊が播磨へ出兵する際の出陣要請に太田垣氏が応じなかった記録もあり 4 、主家の命令を公然と無視するほどの独立性を保持していたことがわかる。
これらの事実が示すのは、輝信が家督を継承した時点で、彼が第一に守るべきは、もはや衰退し名目上の存在となっていた山名氏への「忠義」ではなく、国衆としての「太田垣家」そのものの存続と、自らの領地の安寧であったということである。主家は頼るべき絶対的な存在ではなく、時には交渉し、時には共闘し、時には見限る対象ですらあった。このリアリズムこそが、戦国後期の国衆の偽らざる姿であり、輝信の行動原理の根幹をなしていた。
輝信の父は、第6代竹田城主であった太田垣朝延(とものぶ)である 1 。朝延が城主であった時代は、中央の政治的混乱が但馬にも波及し、山名氏の統制力が一層低下していく過渡期にあたっていた。輝信はこのような時代背景の中、幼少期より父から城の普請や領内統治の手法を学び、来るべき動乱の時代を生き抜くための教育を受けたと想像される 6 。彼が家督を継ぐ頃には、但馬国はまさに群雄割拠の様相を呈しており、巨大勢力の到来は目前に迫っていた。
太田垣輝信が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、元亀元年(1570年)頃、父・朝延から家督を相続し、第7代竹田城主となってからである 4 。彼が当主となった時代の但馬国は、西の毛利氏、東の織田氏という二大勢力に挟まれた、極めて緊迫した情勢下にあった。
輝信の家督相続に先立つ永禄12年(1569年)、但馬国は大きな転換点を迎える。この年、織田信長は、毛利氏と結んで出雲国で再興を図る尼子氏残党の動きを牽制するため、部将の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に但馬への侵攻を命じた 7 。
秀吉率いる織田軍の進撃は、まさに電撃的であった。わずか10数日の間に、但馬守護・山名祐豊の居城であった此隅山城をはじめ、垣屋城など18の城が次々と陥落し、国の重要な財源であった生野銀山も織田方の支配下に置かれた 8 。この圧倒的な軍事力の前に、但馬の国衆はなすすべもなかった。『重編応仁記』などの記述によれば、恐らく鉄砲隊という新兵器を効果的に用いた織田軍の戦術の前に、但馬勢は壊滅的な打撃を受けたとされる 22 。
この状況を目の当たりにした山名祐豊、そして太田垣輝信を含む但馬の国衆たちは、組織的な抵抗を試みることなく、織田信長に服属する道を選んだ 7 。これは、自らの家と領地を保全するための、極めて現実的な政治判断であった。
しかし、この服属は輝信にとって、心からの忠誠を誓ったものではなかった。むしろ、それは不可避の圧力に対する一時的な恭順に過ぎなかったと考えるべきである。当時の国衆にとって、織田信長の支配下に入ることは、伝統的な所領支配権を安堵されることを必ずしも意味しなかった。信長は服属した大名であっても、容赦なく改易や転封を行うことで知られており、その先進事例は但馬の国衆にとって大きな脅威であったに違いない。
したがって、この時点での服属は、あくまでも目の前の破滅を回避するための時間稼ぎであり、状況が変化すれば、再び自立や他の勢力との連携を模索するのは、国衆として当然の生存戦略であった。この「不本意な服属」という経験が、後の輝信の反織田への転換の伏線となったことは想像に難くない。
一度は織田信長に恭順の意を示した太田垣輝信であったが、その立場は長くは続かなかった。彼の生涯における最大の岐路は、天正3年(1575年)、織田方から離反し、毛利氏と手を結んだことであった。この決断は、単なる「裏切り」という言葉では片付けられない、国衆としての存亡をかけた戦略的判断であった。
天正元年(1573年)、織田信長が室町幕府15代将軍・足利義昭を京都から追放したことで、信長と、義昭を庇護した西国の雄・毛利氏との対立は決定的となった 23 。毛利輝元は、亡命将軍である義昭を安芸国鞆(とも)に迎え入れ、自らを「公儀」の軍と位置づけることで、反信長勢力の盟主として西国の諸大名に共闘を働きかけた 23 。
これにより、織田領と毛利領の最前線に位置する但馬国は、両勢力にとって極めて重要な戦略的価値を持つ地となった。特に毛利氏にとって、但馬を自陣営に取り込むことは、織田軍の中国地方への侵攻を食い止めるための防波堤を築く上で不可欠であった。
このような情勢の中、毛利氏の重臣で山陰方面の軍事を担っていた吉川元春は、これまで敵対関係にあった但馬の国衆に対し、水面下で接触を開始した 7 。そして天正3年(1575年)、但馬守護の山名祐豊を筆頭に、太田垣輝信、垣屋豊続といった「山名四天王」の主要メンバーがこの呼びかけに応じ、安芸(毛利)と但馬(山名・国衆)の間で反織田の軍事同盟、いわゆる「芸但和睦(げいたんわぼく)」が成立した 11 。
この同盟締結により、太田垣輝信は公然と反織田の旗幟を鮮明にした。これは、織田信長という当代随一の権力者に弓を引く、極めて危険な賭けであった。
輝信がこの大きな決断に至った背景には、国衆としての自立性を維持したいという強い動機があった。織田信長の目指す天下統一は、旧来の国衆の権益を認めない、強力な中央集権体制の構築を意味した。信長の支配下に入ることは、いずれは所領を奪われ、先祖代々の家臣団も解体される未来に繋がる可能性が高かった。
一方、毛利氏の支配体制は、国衆の一定の自立性を認める連合体的な性格を色濃く残していた。輝信にとって、毛利と組むことは、大きな危険を伴うものの、自らの領地と「家」の存続を維持できる可能性を残す選択肢であった。
また、但馬国内の複雑な情勢も輝信の決断に影響を与えた。当時、隣国の丹波では親毛利派の赤井(荻野)直正が勢力を誇っており、天正3年頃には、この赤井勢が但馬に侵攻し、太田垣輝信の竹田城や山名氏の出石城を攻撃するという事件も発生している 24 。このような混乱の中で、より強力な後ろ盾を求めて毛利氏に接近するのは、生き残りのための必然的な動きであったともいえる。
したがって、輝信の反織田への転換は、信義や忠誠といった倫理観だけで評価すべきではない。それは、自家の存続を第一に考えた、リアリズムに基づく合理的な政治的・戦略的判断として捉えるべきなのである。
芸但和睦によって反織田の立場を明確にした太田垣輝信と、それを許さない織田信長との対決は避けられないものとなった。輝信の武将としての最後の戦いは、彼の居城・竹田城を舞台に繰り広げられた。
但馬国衆の離反に対し、信長は即座に反応した。天正5年(1577年)、中国攻めの総大将に任じられていた羽柴秀吉は、弟の羽柴秀長に大軍を預け、但馬平定を命じた 4 。秀長軍は播磨から但馬へ進撃し、山口岩洲城などを次々と攻略しながら、太田垣輝信が籠る竹田城へと迫った 12 。
信長の伝記である『信長公記』には、この時の様子が簡潔に記されている。「小田垣(太田垣)楯籠る竹田へ取懸り、是又退散」とあり 4 、輝信が抵抗の末に敗走したことがわかる。また、信憑性には議論があるものの、『武功夜話』などの軍記物には、より詳細な戦闘の様子が描かれている。それによれば、輝信は「高山険阻に拠り岩石を投げ落とし手向かい候」とあり 4 、虎臥山の険しい地形を最大限に利用して、激しく抵抗したことがうかがえる。
しかし、織田軍の圧倒的な物量と、鉄砲を駆使した新戦術の前には、山城の防御力だけでは抗しきれなかった。激しい攻防の末、輝信はついに城を支えきれず、城を明け渡して敗走した 4 。竹田城には城代として羽柴秀長が入り、織田方の拠点となった 4 。
一般的には、この天正5年の敗北によって太田垣氏の歴史は終わったかのように語られる。しかし、輝信の抵抗はこれで終わったわけではなかった。彼は敗走後も再起の機会をうかがっており、その執念が実を結ぶ瞬間があった。
天正7年(1579年)、竹田城の城代であった羽柴秀長が、信長の命令で明智光秀を支援するため丹波方面へ出陣し、城が手薄になるという好機が訪れた 4 。この隙を突き、毛利方の支援を受けた太田垣輝信が、一時的に竹田城を奪還した可能性が複数の史料から示唆されている 2 。
この「束の間の奪還」は、輝信の武将としての粘り強さと、彼が毛利方から継続的な支援を受けていた活動的な反織田勢力であり続けたことを物語っている。それはまた、当時の但馬国が織田方にとって決して安定した支配地ではなく、毛利方との間で熾烈な攻防が繰り広げられる最前線であり続けたことの証左でもある。一度の敗北で全てが終わったわけではないという事実は、輝信の人物像をより立体的で悲劇的なものにしている。
輝信による一時的な抵抗も、時代の大きな流れを変えるには至らなかった。天正8年(1580年)、羽柴秀吉は但馬国の完全制圧のため、再び大規模な軍勢を投入した 14 。この圧倒的な軍事力の前に、但馬の反織田勢力はもはや抗う術を持たなかった。
有子山城に籠っていた山名祐豊が降伏し、但馬守護としての山名氏が事実上滅亡したのに続き、太田垣輝信の竹田城も完全に落城した 1 。ここに、嘉吉の乱以来、約140年にわたって続いた太田垣氏による竹田城支配は、完全に終焉を迎えたのである。
城を失った輝信は、播磨国へと落ち延びたと伝えられている 7 。彼のその後の人生は、栄光とは無縁の、失意に満ちたものであったと想像される。
戦いに敗れ、全てを失った太田垣輝信と、その一族はどのような運命を辿ったのだろうか。その軌跡は、戦国敗者の典型的な末路と、逆境を生き抜くためのしたたかな知恵の両方を示している。
播磨国へ逃れた後の輝信の具体的な足取りを記した確かな史料は、現在のところ見つかっていない。後世のゲームなどで、その没年が天正13年(1585年)頃と設定されていることがあるが 2 、これはあくまで推定であり、歴史的な根拠に基づくものではない。かつては但馬に武威を誇った名門の当主が、いつ、どこで、どのようにしてその生涯を閉じたのか、今となっては知る由もない。栄華を極めた竹田城主の最期は、歴史の闇の中に静かに消えていった。
武士としての太田垣家は滅びた。しかし、その血脈は意外な形で後世へと繋がっていた。輝信の嫡子であった新兵衛という人物が、追手から逃れるために但馬国内の養父郡吉井にある白岩(しらいわ)という地に潜伏したという伝承が残されている 7 。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、敗軍の将の一族、特に嫡流は、新たな支配者によって根絶やしにされる危険が常に付きまとった。「太田垣」という姓は、織田・豊臣政権にとって、最後まで抵抗した「逆賊」の象徴であった。この名を名乗り続けることは、一族の命脈を危険に晒す行為に他ならなかった。
そこで新兵衛は、武士としての「家」と「名誉」を捨て、生き抜くための道を選んだ。彼は、潜伏先の地名を取って自らの姓を「白岩」と改め、武士の身分を捨てて農民(帰農)となることで、政治的な監視の対象から外れ、社会に溶け込むことを図ったのである 7 。これは単なる零落ではなく、敗者の子孫が生き抜くための、意図的かつ究極の生存戦略であった。武士としての「家」を犠牲にしてでも、「血」を未来に繋ぐことを最優先したこの決断により、太田垣氏の血統は形を変えて存続し、その末裔は現代に至るまで続いている。輝信の物語は、戦場での敗北で終わるのではなく、この一族のしたたかな生存戦略によって、別の形で今に繋がっているのである。
一方、主を失った竹田城は、新たな城主を迎えて大きくその姿を変えていく。太田垣氏が去った後、城には羽柴秀長の家臣であった桑山重晴が入り、その後、天正13年(1585年)には赤松広秀(斎村政広)が城主となった 9 。
現在、竹田城跡を訪れる人々を圧倒する壮大な総石垣の城郭は、この最後の城主・赤松広秀の時代に、織田信長の安土城築城にも携わった石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」の技術などを用いて整備されたものである 4 。皮肉なことに、太田垣氏が約140年間にわたって守り続けた城は、彼らが没落した後に、その歴史上最も輝かしい威容を誇る姿へと変貌を遂げたのであった。
太田垣輝信の生涯を振り返るとき、我々は何を読み取るべきだろうか。彼は、室町以来の名門国衆の当主として、一族の存続という重い責務を一身に背負っていた。彼の行動の全ては、その責務を果たすためのものであったといえる。
輝信の生涯は、織田・毛利という二大勢力の巨大な圧力の中で、地方領主がいかにして自立を維持しようと苦悩し、選択を重ねていったかを象徴している。一度は織田に従い、次に毛利と結んだその変転は、単なる日和見的な裏切りではなく、刻一刻と変化する情勢の中で、自家の存続にとって最善と思われる道を必死に模索した結果であった。彼の粘り強い抵抗は、武将としての意地と誇りを示すものであったが、最終的には天下統一という時代の大きな潮流には抗うことができなかった。
歴史的に見れば、輝信の没落は、戦国時代的な「国衆が各地に割拠する地方分権の時代」の終わりと、織豊政権による「中央集権的な統一国家」の始まりを告げる、一つの象徴的な出来事であった。彼の物語は、信長や秀吉といった歴史の勝者の視点からだけでは決して見えてこない、敗れ去った者たちの視点から戦国時代の終焉を捉え直す貴重な機会を与えてくれる。
今日、天空の城として世界的な名声を得た竹田城。その歴史を語る上で、壮麗な石垣を築いた赤松広秀の名は欠かせない。しかし同時に、その礎となった土の城を築き、最後まで守ろうとして戦い、そして散っていった悲劇の城主、太田垣輝信の名もまた、深く記憶されるべきであろう。彼の苦闘と没落の物語は、華やかな城郭の歴史に、人間的な深みと哀愁を与え続けている。