表題:太田道灌の子、太田康資(1476-1513)に関する総合的調査報告
1. 序論
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本報告書の対象人物の特定と歴史的文脈
本報告書は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて活動した武将、太田康資(おおた やすすけ、太田資康とも表記、文明8年(1476年)生まれ、永正10年(1513年)没)を対象とする
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。彼が生きた時代は、応仁・文明の乱(1467年~1477年)以降、室町幕府の権威が著しく失墜し、中央の混乱が地方へも波及した時期にあたる。特に関東地方においては、関東管領を世襲した上杉氏内部で山内上杉家と扇谷上杉家が対立を深め(長享の乱など)、それに乗じる形で伊勢宗瑞(後の北条早雲)に代表される新興勢力が台頭し、旧来の支配体制が大きく揺らいだ激動の過渡期であった
2
。太田康資の生涯は、まさにこの関東における権力構造の変転と深く結びついている。
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調査の目的と範囲
本調査の目的は、太田道灌の子である康資の出自、生涯、人物像、さらにはその死が関東の歴史に与えた影響、そして彼に関連する史料について、現存する情報を可能な限り網羅的に収集・分析し、その実像を明らかにすることにある。具体的には、提供された資料(太田康資(太田道灌の子).pdf)
1
の記述を基軸としつつ、関連する古文書の記録、後世の編纂物、研究論文、地方史資料などを渉猟し、多角的な検討を加える。
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同姓同名人物との明確な区別
太田康資という名を持つ人物には、本報告書の対象である太田道灌の子・康資(1476年生~1513年没)の他に、後世、太田資高の子として生まれ、主に後北条氏や上杉謙信に仕えた太田康資(1531年生~1581年没)が存在する
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。両者は生没年、活動時期、仕えた主君などが全く異なる別人であり、混同を避ける必要がある。本報告書では、特に断りのない限り、「太田康資」は太田道灌の子を指す。両者の基本的な情報を以下に整理する。
表1:太田康資(道灌の子)と同名の太田康資(資高の子)の比較
項目
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太田康資(太田道灌の子)
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太田康資(太田資高の子)
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生年
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文明8年(1476年)
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享禄4年(1531年)
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没年
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永正10年(1513年)
1
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天正9年(1581年)
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通称・別名
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源六
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、資康(すけやす)
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源六郎、新六郎、武庵斎
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父
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太田道灌(資長)
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太田資高
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母
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不明
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北条氏綱の娘(浄心院)
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主な活動拠点
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江戸城、菅谷城など武蔵国
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江戸城、岩槻城、後に安房国など
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仕えた主な勢力
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扇谷上杉家、一時的に山内上杉家、古河公方
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後北条氏、後に上杉謙信、里見氏
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妻
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三浦道寸(義同)の娘
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北条氏康の養女(遠山綱景の娘・法性院)
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子
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太田資顕、資高、資貞など
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太田駒千代(早世)、太田重正(資綱)、英勝院(徳川家康側室、諸説あり)など
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特記事項
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父の暗殺、長享の乱への関与、三浦氏救援と戦死
1
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北条氏からの離反、第二次国府台合戦への参加、怪力伝説
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この表によって、両者の基本的な属性と活動の相違点が明確となり、本報告書が前者、すなわち太田道灌の子である康資に焦点を当てていることが理解されよう。
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本報告書の構成概要
本報告書は、まず太田康資の出自と家系を明らかにし、次にその波乱に満ちた生涯を幼少期から最期まで辿る。続いて、室町幕府や古河公方との関係性、伝承や逸話を通じて垣間見える人物像、そして彼の死が後世に与えた影響と評価について詳述する。最後に、関連する主要史料と康資の没年に関する諸説を検討し、結論として彼の生涯と歴史的意義を総括する構成で論を進める。
2. 出自と家系
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太田康資の誕生と家族
太田康資は、文明8年(1476年)、江戸城主であった太田道灌(実名:資長)の嫡男として誕生した
1
。父の道灌はこの時44歳であり、それまで実子に恵まれなかったため、太田資忠や太田資家といった複数の養子を迎えて家督の後継に備えていたとされる
1
。康資の誕生は、道灌にとって待望の嫡子であり、太田家の将来を担う存在として大きな期待が寄せられたであろう。康資の母については、残念ながら史料にその名は見いだせない
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。
康資には弟が一人おり、日遵(にちじゅん)と名乗って出家し、後に相模国衣笠(現在の神奈川県横須賀市)にある大明寺の住職を務めたと伝えられている
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。この弟・日遵と大明寺の存在は、後に康資の最期と墓所を考える上で重要な意味を持つことになる。
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太田氏の系譜と扇谷上杉家における地位
太田氏は、清和源氏の中でも摂津源氏の流れを汲む名門の一族であり、代々関東管領を補佐する重臣の家柄として、関東の政治において重要な役割を担ってきた
1
。特に康資の父・太田道灌の代には、太田氏は武蔵国を拠点とする扇谷上杉家の家宰(家臣の筆頭)として重きをなし、道灌自身も文武両道に秀でた武将として知られた。江戸城の築城(長禄元年、1457年)や、長尾景春の乱(文明9年~14年、1477年~1482年)における活躍など、その功績は枚挙にいとまがない
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。
このような家格と父・道灌の輝かしい業績を背景に生まれた康資には、太田家の後継者として、また主家である扇谷上杉家の中核を担う人材としての大きな期待がかけられていたことは想像に難くない。しかし、父・道灌が主君によって暗殺されるという悲劇的な事件は、康資の運命、そして太田家の将来に暗い影を落とすことになる。名門の嫡男としての将来が約束されていたはずの康資は、この事件を境に、時代の荒波に翻弄されることとなるのである。
3. 太田康資の生涯
太田康資の生涯は、父・道灌の非業の死に始まり、関東の戦乱の中で主家を変え、拠点を移しながらも、父祖伝来の地の回復を目指し、最後は同盟者の救援のために命を落とすという、短くも激しいものであった。その足跡を時系列で整理するため、以下に略年表を提示する。
表2:太田康資(道灌の子)略年表
和暦(西暦)
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年齢(数え)
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出来事
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関連史料・備考
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文明8年(1476年)
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1歳
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太田道灌の嫡男として誕生
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。
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文明17年(1485年)12月
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10歳
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江戸城西側の平河天満宮にて元服
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。直後に古河公方・足利成氏のもとへ人質として送られる
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。
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『梅花無尽蔵』に元服の記述あり
1
。
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文明18年(1486年)7月26日
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11歳
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父・太田道灌、主君・扇谷上杉定正により糟屋館にて謀殺される
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。康資、江戸城に戻り家督を継ぐも、定正の追討を受け江戸城を脱出(江戸城の乱)。甲斐国へ逃れる
1
。
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文明19年(1487年)
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12歳
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江戸城を去る前に父・道灌の一周忌法要を執り行う
1
。
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『梅花無尽蔵』所収の記録
1
。
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長享2年(1488年)
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13歳
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長享の乱勃発。山内上杉顕定方に与し参戦。三浦高救らと行動を共にする
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。この頃、万里集九の訪問を受け、句会を催す
1
。須賀谷原の戦いで平沢寺付近に布陣
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。
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『梅花無尽蔵』に万里集九との交流の記述あり
1
。
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明応3年(1494年)
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19歳
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扇谷上杉定正が事故死
1
。岳父となる三浦道寸が相模三浦氏の家督を奪還
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。康資、扇谷上杉家に復帰し、新当主・上杉朝良に仕える
1
。
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永正2年(1505年)頃
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30歳頃
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長享の乱終結
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。武蔵国菅谷城から江戸城へ帰還したとされる
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。
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永正10年(1513年)9月
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38歳
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伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められた舅・三浦道寸を救援するため出陣。相模国三浦郡方面にて北条早雲軍と戦い討死
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。
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『太田家記』による
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。
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元服と人質生活
太田康資は、幼少の頃より父・道灌のもと、江戸城で育ったものと見られる
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。彼の人生における最初の大きな転機は、文明17年(1485年)12月、数え10歳という若さで迎えた元服であった。この元服の儀は、江戸城の西側に位置する平河天満宮で執り行われたと記録されている
1
。この時期、父・道灌とその主君である扇谷上杉定正との関係は既に険悪化しており、道灌が嫡男の元服を急いだ背景には、後継者としての康資の存在を内外に明確に示し、来るべき事態に備えて太田家の体制を固めようとする意図があった可能性が考えられる。平河天満宮は太田氏とも縁の深い神社であり、ここでの元服は、太田氏と江戸という土地との結びつきを象徴するものでもあったろう
1
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元服を済ませた康資は、間もなく父・道灌の判断により、上杉定正と対立関係にあった古河公方・足利成氏のもとへ、「和睦の人質」という名目で預けられることになった
1
。これは、表向きは両勢力の緊張緩和を目的としたものであったが、実際には、万が一の際に定正からの危害を避けるための、康資の身柄を保護する措置としての意味合いが強かったと推測される
1
。
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父・道灌の暗殺と家督相続
康資が古河公方のもとに身を寄せていた翌年の文明18年(1486年)7月26日、関東の政情を揺るがす大事件が発生する。父・太田道灌が、主君である扇谷上杉定正によって、相模国糟屋(現在の神奈川県伊勢原市)の上杉氏館において謀殺されたのである
1
。この時、康資は数えで11歳前後であった。道灌の暗殺は、扇谷上杉家にとって計り知れない損失であったばかりでなく、太田家の運命、そして康資自身の人生を根底から覆すものであった。道灌という卓越した指導者を失ったことは、扇谷上杉家の弱体化を招き、結果として山内上杉家との対立(長享の乱)を激化させ、さらには後北条氏のような新興勢力の台頭を許す遠因ともなった
2
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父の訃報に接した康資は、古河公方のもとから急ぎ江戸城に戻り、混乱の中で太田家の家督を相続した
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。しかし、若年の康資にとって、父を殺害した主君・定正の圧力をはねのけて家政を掌握することは困難であった。
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江戸城からの逃亡(「江戸城の乱」)
家督を継いだものの、間もなく上杉定正の追討軍が江戸城に迫った。康資の率いる兵力ではこれに抗することができず、康資は江戸城を放棄し、一族郎党と共に落ち延びることを余儀なくされた
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。この一連の出来事は「江戸城の乱」とも呼ばれている。康資らは武蔵国を脱出し、西方の甲斐国(現在の山梨県)まで退いたとされている
1
。甲斐国を選んだ理由については、扇谷上杉家の勢力圏から地理的に離れていたこと、山岳地帯が追っ手から逃れるのに有利であったこと、あるいは父・道灌の時代からの何らかの縁故が甲斐武田氏との間に存在した可能性などが考えられるが、具体的な支援者の存在やその経緯を伝える明確な史料は乏しく、推測の域を出ない。
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山内上杉顕定方への参加
父を失い、本拠地である江戸城からも追われた康資であったが、長享2年(1488年)に関東管領の地位を巡って山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間で大規模な内紛、すなわち長享の乱が勃発すると、康資はこの戦乱に身を投じる
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。父の仇である上杉定正と敵対する山内上杉顕定の陣営に加わったのである
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。この行動は、単に父の仇を討つという個人的な動機だけでなく、失った江戸城と旧領を回復するための政治的な判断も含まれていたと考えられる。この際、康資は、同じく上杉定正と不和であった三浦高救(後の康資の妻の父である三浦道寸の叔父にあたる人物)らと行動を共にしたと記録されている
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。三浦氏との連携は、後の康資の婚姻関係にも繋がり、彼の活動基盤の一部を形成することになる。敵の敵は味方という論理に基づき、共通の敵を持つ勢力と結びつくことは、当時の武士にとって自然な選択であった。
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万里集九との交流
このような戦乱の渦中にありながらも、康資の許には文化的な交流の機会があったことが伝えられている。父・道灌と生前親交のあった五山文学を代表する禅僧・万里集九が、長享の乱の最中に康資の陣中を訪れ、彼を慰問し、共に句会(連歌や漢詩の会)を催したという記録が、万里集九自身の漢詩文集『梅花無尽蔵』に残されている
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。この逸話は、父の非業の死とそれに続く流浪の日々という困難な状況下にあった若き康資にとって、高名な文化人からの訪問と精神的な支援が、大きな励みとなったことを示唆している。また、道灌自身が優れた文化人でもあったことから、その人脈や文化的素養が子である康資にも受け継がれ、戦乱の中にあってもそうした交流が保たれていたことを物語っている。
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長享の乱における具体的な戦いへの参加
康資が長享の乱において具体的にどのような戦功を挙げたかについての詳細な記録は乏しいが、山内上杉顕定方として主要な合戦に関与したことは間違いないであろう。『梅花無尽蔵』によれば、長享2年(1488年)、武蔵国須賀谷原(現在の埼玉県嵐山町)での戦いに際し、太田資康は平沢寺(不動明王堂)のほとりに陣を構えたと記されており、これが彼の具体的な軍事行動を伝える数少ない記録の一つである
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。その他、実蒔原(現在の神奈川県伊勢原市)や高見原(現在の埼玉県小川町)など、長享の乱における関東各地の戦いに転戦した可能性が高い
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状況の変化
長享の乱が長期化する中で、康資の運命に再び転機が訪れる。明応3年(1494年)、康資にとって宿敵とも言える扇谷上杉定正が、落馬が原因とされる事故によって急死したのである
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。さらに同年、康資の岳父となる三浦道寸(義同)が、内紛状態にあった相模三浦氏の家督を実力で奪還し、その勢力を大きく盛り返した
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。三浦道寸は扇谷上杉家の一門でもあり、その台頭は扇谷上杉家にとっても無視できないものであった。
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扇谷上杉家への復帰
これらの状況の変化、すなわち最大の障壁であった定正の死と、有力な姻戚関係にある三浦道寸の勢力伸長を背景として、康資はかつて敵対した扇谷上杉家への復帰を許されることになった
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。定正の後を継いで扇谷上杉家の新当主となった上杉朝良(ともよし、朝興とも)に再び仕えることになったのである。朝良政権としては、父・定正の代の混乱を収拾し、弱体化した家勢を立て直す必要に迫られていた。太田道灌の子という血筋と、これまでの戦経験を持つ康資を取り込むことは、家中の安定化と軍事力の強化に繋がり、対外的にも一定の意義を持つと判断されたのであろう
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江戸城への帰還
扇谷上杉家に復帰した康資は、当初、武蔵国北部の菅谷城(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に在城したと伝えられる
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。しかし、その後、長享の乱が終結した永正2年(1505年)頃までには、父・道灌が築城し、自らも幼少期を過ごした江戸城へと帰還を果たしたとされる
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。父・道灌の死から約20年の歳月を経て、康資はついに江戸城と旧領を回復し、再び扇谷上杉家中で重臣としての地位を占めるに至ったのである
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新興勢力・北条早雲の台頭
江戸城への帰還を果たした康資であったが、その後の彼の後半生は、関東に急速に勢力を拡大しつつあった新興勢力、伊勢宗瑞(後の北条早雲、以下「早雲」と表記)との戦いに費やされることとなる
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。早雲は明応年間(1492年~1501年)に伊豆国を平定し、さらに明応4年(1495年)頃には小田原城を奪取して相模国西部へと進出、着実に関東での地歩を固めていた
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三浦道寸との共闘と劣勢
早雲の東進に対して、最後まで抵抗の姿勢を見せたのが、康資の岳父である相模三浦氏当主・三浦道寸であった
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。道寸は扇谷上杉家の一門でもあり、その本拠地である相模国中部は、早雲のさらなる関東進出を阻む上で戦略的に極めて重要な地域であった。しかし、早雲の攻勢は激しく、道寸は永正9年(1512年)には居城の岡崎城(現在の神奈川県平塚市・伊勢原市)を追われ、三浦半島南端の新井城(現在の神奈川県三浦市)へと後退し、籠城を余儀なくされた
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扇谷上杉家は、縁戚関係にあり、また自家の勢力維持のためにも重要な存在である三浦氏を救援すべく、新井城へ援軍を派遣した。太田康資もまた、妻の実家である三浦氏を救うため、この援軍に加わり出陣した
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戦死
しかし、当時の関東において旧勢力である上杉氏の力は衰えを見せており、対する早雲率いる後北条勢は破竹の勢いであった。扇谷上杉方の援軍は、早雲軍の前に次々と撃破されてしまう
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。そして永正10年(1513年)9月、太田康資は、相模国三浦郡方面(具体的な場所については諸説あるが、衣笠城近辺などが推測されている)で北条早雲軍と交戦し、奮戦の末に討死を遂げたと伝えられている(この没年と死因は主に『太田家記』に基づく)
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。享年37歳前後であった。舅である三浦道寸を救援するための戦いであり、康資は武士としての忠義と意地を貫いた最期であったと言えよう。
康資の戦死は、新井城で孤立無援の籠城を続ける三浦道寸にとって最後の望みを断つものであり、三浦氏の運命を決定づけた。その後、新井城は永正13年(1516年)7月についに落城し、三浦道寸・義意父子は自刃、名門三浦氏は滅亡した
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。この結果、関東における扇谷上杉家の勢力は一層の衰退を余儀なくされ、代わって後北条氏が相模国を完全に掌握し、さらに関東各地へと勢力を拡大していく時代へと移行していくことになる
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4. 室町幕府・古河公方との関係
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関東の複雑な政治構造
太田康資の生涯は、当時の関東地方における複雑な政治構造と深く関わっていた。室町幕府の権威が低下する中で、幕府が鎌倉府に代わって関東統治のために置いた古河公方(足利成氏以降)と、幕府から関東管領に任じられた上杉氏との間には、長年にわたる対立と和睦が繰り返されていた。さらに上杉氏内部でも、本家筋の山内上杉家と分家の扇谷上杉家が主導権を争い、しばしば武力衝突に至っていた(長享の乱など)
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。康資は、これらの勢力間のパワーバランスの中で、自身の立場を築いていかねばならなかった。
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父・道灌の外交政策と康資の人質生活
父・太田道灌は、主家である扇谷上杉定正との関係が悪化する中で、独自の外交戦略を展開していた。その一環として、嫡男である康資を、一時的にではあるが、扇谷上杉家と対立関係にあった古河公方・足利成氏のもとに人質として預けている
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。これは、道灌が古河公方側とも連携を模索し、多方面に手を打っていたことを示すものである。康資は文明17年(1485年)から父が暗殺される翌18年(1486年)にかけて、古河城(現在の茨城県古河市)の成氏のもとに身を寄せた
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。この経験は、若き康資にとって関東の複雑な政治状況を肌で感じる機会となったであろう。
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長享の乱における立場
父・道灌の死後、江戸城から追われた康資は、前述の通り、長享の乱において山内上杉顕定に仕えた。興味深いことに、この時、山内上杉顕定を支援した勢力の一つに、かつて康資が人質として身を寄せた古河公方がいた
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。これは、関東の政治勢力の関係が、敵と味方が流動的に変化する複雑なものであったことを示している。
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康資自身の幕府中枢との関わり
太田康資自身が、京都の室町幕府中枢と直接的に何らかの交渉を持ったり、官位を授かったりしたという記録は、現在のところ乏しい。しかし、彼の活動の舞台は常に関東における幕府の出先機関である古河公方や関東管領上杉氏と、伊勢宗瑞(北条早雲)に代表される新興戦国大名との間の激しい抗争の最前線であった
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。康資は太田道灌の子であり、太田氏の嫡流として、扇谷上杉家、山内上杉家、そして古河公方の間でその去就が注目される存在であった。彼がどの勢力に味方するかは、それぞれの勢力にとって無視できない影響力を持ち、直接幕政に関与せずとも、関東地方の安定、あるいは不安定化に寄与することで、間接的にではあるが室町幕府の関東統治策にも影響を及ぼした可能性が考えられる。
5. 人物像と伝承・逸話
太田康資の人となりを直接伝える史料は限られているが、いくつかの記録や伝承から、その人物像の一端を垣間見ることができる。
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幼少での元服
文明17年(1485年)12月、康資はわずか10歳(数え年)にして江戸城内の平河天満宮で元服の式を挙げたとされる
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。これは、父・道灌が主君・上杉定正との関係悪化を背景に、後継者としての康資の立場を早期に確立し、内外に示す意図があったものと考えられる
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。『梅花無尽蔵』などの同時代の記録にも、この元服の際の様子が記されていると伝えられており
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、若くして太田家の将来を託された康資の姿が偲ばれる。
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父・道灌の一周忌法要
父・道灌が非業の死を遂げた翌年の文明19年(1487年)、江戸城を追われる直前の康資が、父の一周忌の法要を執り行ったという記録が『梅花無尽蔵』に見られる
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。当時まだ12歳という若さでありながら、混乱の中で父の菩提を弔い、その後、生き延びるために故郷を離れた康資の姿は、彼の孝行心と困難に立ち向かう意志の強さを示していると言えよう
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万里集九との文化的交流
長享の乱の最中である長享2年(1488年)、父・道灌と親交のあった禅僧・万里集九が、山内上杉方に与していた康資の陣中を訪ね、彼を慰問するとともに連歌の会を催したという逸話も『梅花無尽蔵』に記されている
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。これは、戦乱の厳しい状況下にあっても文化的な交流が行われていたことを示す貴重な記録であると同時に、道灌から受け継いだ太田家の文化的な素養や人脈が、康資の代にも生きていたことを物語っている。若き康資にとって、このような高名な文化人との交流は、精神的な支えとなったことであろう。
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その他の伝承
上記の比較的信頼性の高い史料に基づく逸話の他に、康資に関連する伝承も存在する。例えば、江戸城を脱出する際に、父・道灌の怨霊が現れて康資を守ったというような、やや怪談めいた話も伝わってはいるが、これらについては史料的な裏付けは乏しい
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。また、父・道灌にまつわる「山吹伝説」のような有名な逸話は、康資自身の伝承ではない点も注意が必要である
1
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これらの逸話や伝承を総合的に見ると、太田康資は、父の悲劇的な死や戦乱に翻弄されながらも、父を敬う心を持ち、文化的な素養も備え、周囲からの一定の支援や人望も集めていた人物像が浮かび上がってくる。ただし、伝承に関してはその史実性について慎重な吟味が求められる。
6. 死後の影響と評価
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関東の勢力図への影響
太田康資の永正10年(1513年)の戦死は、当時の関東地方の勢力図に小さくない影響を与えた。直接的には、彼が救援に向かった三浦道寸にとって最後の望みが絶たれたことを意味し、三浦氏の滅亡(永正13年、1516年)を早める一因となった
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。また、扇谷上杉家にとっても、有能な武将であり、かつての名宰相・太田道灌の嫡男である康資を失ったことは、軍事力のさらなる低下を招き、その後の関東における後北条氏の急速な台頭と、扇谷上杉家の衰退を決定的なものにしたと言える
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太田氏の血筋の存続
康資自身は37歳という若さで戦死したが、彼の血統は途絶えることはなかった。長男の太田資顕、次男の太田資高、そして資貞といった子息たちが生き延びたのである
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。彼らとその子孫は、戦国乱世の荒波の中で、時には後北条氏の配下に入り、また時には他の大名家を頼るなどしながらも、太田氏の家名を保ち続けた。そして江戸時代に入ると、康資の曾孫にあたる太田資宗(すけむね)が徳川幕府に取り立てられて大名となり、太田氏(江戸太田家)は遠江国掛川藩(現在の静岡県掛川市)の藩主などを務め、幕末・明治維新に至るまでその家名を存続させた
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。戦国時代において多くの名門武家が滅亡の道を辿る中で、太田道灌の直系が康資を経て近世大名として存続したことは特筆に値する。これは、太田氏が元来有していた家格の高さ、子孫たちの巧みな処世術、そして徳川家との間に結ばれた縁(例えば、資宗の叔母とされる英勝院が徳川家康の側室であったことなど)が複合的に作用した結果と考えられる
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墓所と顕彰
太田康資の遺体は、彼の戦死後、弟である日遵が住職を務めていた相模国衣笠の大明寺(現在の神奈川県横須賀市衣笠栄町)に葬られたと伝えられている
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。現在も大明寺の裏山にある墓地の一角には、太田資康の墓所とされる場所があり、五輪塔型の墓碑と、その功績を称える顕彰碑が建てられている。現在の五輪塔は昭和56年(1981年)に再建されたものである
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。地元では、江戸城主であり、また舅である三浦道寸を助けるために討死した悲劇の武将として、今もなお供養と顕彰の対象となっている
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歴史的評価
太田康資は、父・太田道灌ほど後世に名を残す武功や知名度こそないものの、その生涯と死は、当時の関東の政治・軍事状況に大きな影響を与えた。彼は、父祖伝来の江戸城を一時的にではあれ回復し、何よりも太田氏の家名を保ち、その血筋を後世に繋いだという点で、歴史的に重要な役割を果たした人物として評価できる。太田道灌の輝かしい業績が後世に語り継がれる上で、その直系子孫が近世まで存続したことは無視できない要素であり、康資はその連環の中で欠くことのできない存在であったと言えるだろう
1
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7. 関連史料と没年に関する諸説の検討
太田康資(道灌の子)の生涯を明らかにする上で参照すべき史料は、残念ながら豊富とは言えない。しかし、いくつかの古文書や記録から、その断片的ながらも貴重な情報を得ることができる。
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『梅花無尽蔵』(ばいかむじんぞう)
これは、室町時代後期の禅僧であり、五山文学を代表する文化人であった万里集九(ばんりしゅうきゅう)が、関東各地を遊歴した際の見聞を漢詩文で綴った作品集で、永正3年(1506年)頃に成立したとされる 1。この中には、太田康資に関連する記述がいくつか見られる。具体的には、文明17年(1485年)の康資の元服の様子、父・道灌が横死した翌年の文明19年(1487年)に康資が執り行った一周忌法要の記録、そして長享2年(1488年)の長享の乱における須賀谷原の戦いでの康資の動向などが記されており、康資の青年期を知る上で極めて価値の高い同時代史料である 1。
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『太田家記』(おおたかき)
これは、江戸時代中期に、太田道灌の子孫であり遠江国掛川藩主であった江戸太田家によって編纂された家譜であり、軍記物としての性格も併せ持つ 1。太田道灌とその子孫たちの事績がまとめられており、太田康資については、永正10年(1513年)に舅である三浦道寸を救援するための戦い(三浦合戦)において戦死したことなどが記されている 1。後世の編纂物であるため、その記述内容については史料批判を要する部分もあるが、太田家の公式な見解や伝承を含んでおり、康資の最期に関する通説の根拠となっている。
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書状・日記類
太田康資自身が発給した書状などの一次史料は、現在のところほとんど確認されていない。しかし、父・道灌が残した書状(「太田道灌状」など)や、太田氏に関連するその他の古文書、前述の万里集九の日記や漢詩文、さらには山内上杉家家中の記録(『永正記』など)の中に、康資の名が断片的に現れることがある 1。これらの史料を丹念に渉猟することで、康資の動向や当時の状況を補完的に理解することができる。
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没年に関する異説とその検討
太田康資の没年については、いくつかの説が存在し、確定には至っていない。
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永正10年(1513年)戦死説(通説)
これは『太田家記』の記述に基づくもので、舅である三浦道寸を救援するために伊勢宗瑞(北条早雲)軍と戦い、相模国三浦郡方面で討死したとする説である 1。享年37歳前後。本報告書で提供された資料 1 もこの説を支持しており、最も広く受け入れられている通説である。
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永正2年(1505年)謀殺説
江戸時代に編纂された年代記である『年代記配合抄』の中に、「太田六郎右衛門尉」という人物が永正2年(1505年)に主君である扇谷上杉朝良によって武蔵国中野の陣中で誅殺されたという記事があり、この「太田六郎右衛門尉」を太田康資に比定する説が存在する 1。しかし、この人物比定については明確な根拠が乏しく、康資の通称は「源六」7 であり、「六郎右衛門尉」とは異なる。また、扇谷上杉家に復帰し、江戸城への帰還も果たしたとされる時期(永正2年頃)に、主君によって謀殺されるというのも、よほど重大な理由がない限り状況的に考えにくい。そのため、この説については異論が多く、通説とはなっていない 1。
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明応7年(1498年)死去説
武蔵国川口(現在の埼玉県川口市)の赤城神社の年代記録である『赤城神社年代記』の明応7年(1498年)の条に、「太田源六生涯」という記述がある 1。康資の通称の一つが「源六」であることから、これを康資の死去と解釈する説である。この説に従うと、康資は22歳前後で没したことになる。しかし、この時期に康資が亡くなったとすると、その後の扇谷上杉家への復帰(明応3年(1494年)以降)、江戸城への帰還(永正2年(1505年)頃)、そして北条早雲との戦い(永正10年(1513年)頃の戦死)といった、他の史料や状況証拠と整合性が取れなくなるため、疑問が残るとされている 1。『赤城神社年代記』の記述が誤伝であるか、あるいは同名の別人物を指している可能性も考慮する必要がある。
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史料批判の重要性
このように、太田康資に関する情報は限られており、特に没年については複数の説が存在する。そのため、それぞれの説の根拠となる史料の成立時期、性格、記述の信頼性、そして他の関連史料との整合性などを総合的に比較検討し、最も蓋然性の高い説を導き出すための史料批判が不可欠である
40
。本報告書では、提供資料
1
が支持し、最も多くの状況証拠と整合する永正10年(1513年)戦死説を主軸として記述を進めたが、異説についてもその根拠と問題点を明示することで、多角的な理解を促すことを目指した。
8. 結論
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太田康資(道灌の子)の生涯の総括
太田康資(1476年~1513年)の生涯は、室町時代後期から戦国時代初期という激動の時代を背景に、父・太田道灌の暗殺という衝撃的な事件に始まり、主家の内訌である長享の乱への関与、流浪の末の扇谷上杉家への復帰と江戸城帰還、そして最後は関東に台頭した新興勢力・北条早雲との戦いの中で命を落とすという、波乱に満ちたものであった。彼の37年余りの生涯は、個人の力では抗し難い時代の大きなうねり、すなわち主家の内部対立、下克上の風潮、新旧勢力の交代といった歴史の転換期に、一人の武将がいかに翻弄され、またそれに立ち向かおうとしたかを示す一つの典型例と言えるだろう。
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歴史的意義の再評価
太田康資は、父・道灌のような華々しい武功や後世に語り継がれるほどの広範な名声を残すことはできなかった。しかし、父祖伝来の地である江戸城を一時的にではあれ回復し、何よりも太田氏の家名を困難な状況下で保ち続け、その血筋を後世に繋いだという点は、歴史的に評価されるべきである。彼の死は、扇谷上杉家のさらなる衰退と相模三浦氏の滅亡を早め、結果として後北条氏の関東における支配体制確立を助長するという、関東戦国史における一つの重要な転換点に深く関わった人物として位置づけられる。道灌の業績が後世に伝えられる上で、その直系子孫が近世大名として存続したことは大きな意味を持ち、康資はその連環の中で欠くことのできない橋渡し役を果たしたと言える。
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同姓同名人物との違いの最終確認
本報告書の冒頭でも述べた通り、太田康資という名を持つ人物は複数存在する。本報告書が一貫して対象としてきたのは、あくまで太田道灌の子である太田康資(1476年生~1513年没)であり、その孫(康資の子である太田資高の子)にあたる太田康資(1531年生~1581年没)とは全くの別人である。両者の活動時期や仕えた主君、生涯の軌跡は大きく異なるため、混同することのないよう、改めて注意を喚起する。
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今後の課題
太田康資(道灌の子)に関する一次史料は依然として限られており、その生涯の全容を完全に解明するには至っていない。特に、父の死後に逃れたとされる甲斐国での具体的な動向や、彼を支援した可能性のある人物、そして没年に関する複数の異説(永正2年謀殺説や明応7年死去説)のさらなる検証については、今後の史料発見や研究の進展によって新たな事実が明らかになる可能性が残されている。これらの課題の解明は、関東戦国時代初期の歴史理解をより深める上で重要となるであろう。
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室町時代の築城の名人・太田道灌の最期とは?壮絶な死に際や「死の絶叫」と真意も紹介
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関東戦国史 第2部 戦国時代の争乱 - 歴史を旅しよう ~AI World
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北条氏 VS 里見氏の激戦地、国府台城 - パソ兄さん
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梅花無尽蔵|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ
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越生健康寺と梅花無尽蔵|Kazuhiko - note
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【第1回】群雄割拠の幕開け/戦国時代は関東から始まった!(1438~1505年)
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最大級の水堀を誇った、岩槻城!太田道灌の3名城(諸説あり) - パソ兄さん
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室町幕府四職家 その4:赤松家の家臣団と軍団|鳥見勝成 - note
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本家と分家がつぶし合い、上杉家の抗争「長享の乱」 - JBpress
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/50856?page=2
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民を味方につけて伊豆・相模平定の礎を築いた北条早雲:乱世の名将に学ぶ 1
https://jtop.jma.or.jp/column02-01/index.html
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城ぶら「新井城」!北条対三浦再び…北条早雲と三浦父子、3年に及ぶ執念の籠城戦
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三浦一族の水軍拠点「三崎城」!北条早雲に徹底抗戦するもついに陥落
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三浦半島の歴史 P6
https://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/miurahasi6.html
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新井城
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三浦道寸の墓 - 名族・三浦氏終焉の地に立つ - 日本伝承大鑑
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太田道灌「非業の最期」の真相(2025.2.6増補)ー「報復の連鎖」と上杉方のフェイク(偽情報)拡散
http://blog.doukan.jp/article/191213313.html
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太田氏 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E6%B0%8F
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掛川藩(かけがわはん)[静岡県] /ホームメイト - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/edo-domain100/kakegawa/
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石垣原合戦を題材とし た軍記・伝記史料(下) - 九州大学
https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4493118/027_pa001.pdf
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中世村落の景観と生活(下) -関東平野東部を中心として-
https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/15204/files/ndl_000000324348_2.pdf