太田政景 詳細報告書
序章:太田政景という武将
本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、太田政景(おおた まさかげ、後に梶原政景と称す)の生涯について、現存する史料に基づき詳細に記述し、その実像に迫ることを目的とする。太田政景は、武蔵岩槻城主太田資正の次男として生まれ、父と共に常陸国で戦功を重ね、特に手這坂の合戦で小田氏治を破り小田城主となったことで知られる。その後、主家である佐竹氏の秋田転封に従ったものの、最終的には越前福井藩主結城秀康(松平秀康)に仕え、その地で生涯を終えた。
ユーザー諸賢においては、政景が佐竹家臣であり、太田資正の次男であること、手這坂の合戦での武功、小田城主としての経歴、主家の秋田転封への随行、そして結城秀康への転仕といった概要は既に了知されていることと拝察する。本報告書では、これらの情報を基盤としつつ、彼の出自、家督問題、改姓の背景、主君変遷の経緯、そして晩年に至るまでの活動を、関連する歴史的背景や人物関係と共に、より深く掘り下げて提示する。政景の生涯は、戦国乱世の激動と、それに続く近世初期の新たな秩序形成期を生き抜いた武士の一つの典型として、多くの示唆を与えるものである。
第一部:出自と家系の潮流
第一章:太田一族の血脈と岩槻太田氏の動向
太田政景の生涯を理解する上で、まず彼が生まれた太田氏、特に岩槻太田氏の歴史的背景と、彼が置かれた家庭環境について詳述する必要がある。
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生誕と家族構成
太田政景は、天文17年(1548年)に生を受けたとされる。父は「三楽斎」の号でも知られる知謀の将、武蔵国岩槻城主(後に常陸国片野城主)太田資正(おおた すけまさ)である。母は相模国玉縄城主であった大石定久の娘と伝えられている。政景は資正の次男であり、兄には太田氏資(うじすけ、名は資房(すけふさ)とも)、弟には太田資武(すけたけ、初名は景資(かげすけ))、潮田資忠(うしおだ すけただ)らがいた。姉妹には成田氏長室や多賀谷重経室となった女性がいる。
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岩槻太田氏の背景
太田氏は、室町時代に関東管領扇谷上杉氏の家宰として江戸城や川越城、岩槻城を築いた太田道灌(どうかん、資長)を輩出した名門である。道灌の死後、太田家はいくつかの系統に分かれたが、政景の父・資正はその中でも岩槻城を拠点とする岩槻太田氏の当主であった。岩槻太田氏は、扇谷上杉氏の衰退後、関東に覇を唱えた後北条氏との間で従属と離反を繰り返す複雑な立場に置かれた。父・資正は、当初後北条氏に従ったものの、後に上杉謙信(長尾景虎)と結び、反北条の姿勢を鮮明にするなど、知略縦横な武将としてその名を知られた。
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父資正と兄氏資の確執、そして政景への期待
政景の幼少期から青年期にかけて、太田家内部には複雑な緊張関係が存在した。父・資正は、正室(難波田憲重の娘)の子である長男・氏資よりも、継室(大石定久の娘)の子である次男・政景を寵愛し、家督を政景に譲ろうとしたという記録がある。この偏愛が、資正と氏資の深刻な確執を生み、永禄6年(1563年)には資正が政景に家督を譲ろうとしたことが原因で氏資が出家して「道也」と名乗る事態に至ったともされる。この親子間の不和は、資正が岩槻城を追われ、常陸国へと拠点を移す遠因の一つとなった可能性が指摘されている。
このような家庭環境は、政景のその後の人生における選択に少なからぬ影響を与えたと考えられる。父からの期待を一身に受けつつも、家督争いの渦中に身を置かれた経験は、彼が後に太田本家とは異なる道を歩む一因となった可能性がある。父・資正の持つ反骨精神や権謀術数に長けた側面を間近で見て育ったことは、政景自身の武将としての資質形成にも影響を与えたであろう。自らの意思とは別に家族内紛争の中心に据えられた経験が、後に梶原姓を名乗り、太田本家と一定の距離を置くという選択の心理的背景になったとも推測される。
第二章:梶原姓拝領の経緯とその意味
太田政景は、その生涯のある時期から「梶原政景」として歴史の舞台に登場する。この改姓の経緯と意義は、彼のキャリアを考える上で重要な点である。
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梶原上野介未亡人の養子へ
諸記録によれば、政景は梶原上野介(かじわら こうずけのすけ)なる人物の未亡人の養子となり、梶原姓を称するようになったとされている。この梶原上野介が具体的にどのような人物であったか、また養子縁組がいつ頃行われたのかについての詳細な史料は現在のところ確認されていない。しかし、この改姓が政景の人生における一つの転機となったことは間違いない。
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改姓の背景と意義の考察
政景が梶原姓を名乗るに至った背景には、いくつかの可能性が考えられる。第一に、前述した太田家内部の複雑な状況、すなわち父・資正と兄・氏資との確執が影響した可能性である。太田本家の家督問題から距離を置き、新たな家名を名乗ることで独自の立場を築こうとしたという見方である。第二に、梶原家に後継者がいなかったため、形式的な養子縁組が行われた可能性も否定できない。
「梶原」という姓は、源頼朝の側近として知られる梶原景時を想起させるが、政景の改姓と鎌倉時代の梶原氏との間に直接的な血縁関係や系譜上の繋がりを示す史料は見当たらない。しかし、新たな姓を名乗ることは、単なる形式以上の意味を持ち得た。太田家の内紛から一歩引いた立場を確保し、独立した武将として、父の庇護下から自立し新たな主君のもとで功績を立てるための戦略的な選択であった可能性も考えられる。これは、戦国時代において、家名の存続や個人の立身出世のために、養子縁組や改姓といった手段が柔軟に用いられた事例の一つと捉えることができる。新たな姓は、異なる人脈や機会へのアクセスを可能にしたかもしれない。
第二部:常陸における躍進と佐竹氏への臣従
梶原姓を名乗った政景は、主に常陸国を舞台として、佐竹氏の家臣としてその武名を高めていくことになる。
第一章:佐竹氏旗下での台頭
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初期の主君:足利義氏から佐竹義重へ
政景の初期の動向として、古河公方・足利義氏に仕えた後、常陸国の戦国大名である佐竹義重の家臣となったと記録されている。この主君の変遷の具体的な時期や経緯については詳細な史料が待たれるが、当時の関東地方における後北条氏、上杉氏、そして佐竹氏といった諸勢力の複雑な力関係の中で、政景が自身の活躍の場を求めて動いた結果であろう。
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手這坂の戦いと小田城主就任(永禄12年・1569年)
政景の名を世に知らしめたのは、永禄12年(1569年)11月23日に起こった手這坂(てばいざか)の戦いである
1
。この戦いで、政景は父・太田資正と共に佐竹義重方として、常陸小田城主・小田氏治と対峙した。小田氏治は旧領回復を目指し、資正が籠る片野城を攻めようと小田城から出陣した。これに対し、資正・政景親子は、佐竹氏配下の有力国人である真壁久幹(まかべ ひさもと)らの援軍を得て、筑波山東麓の手這坂で小田軍を迎撃した。
この戦いは太田・佐竹連合軍の圧勝に終わり、小田一門の岡見治資(おかみ はるすけ)や岡見義綱(おかみ よしつな)らが討死し、小田軍は総崩れとなった。この時、政景は別働隊を率いて機敏な動きを見せた。小田氏治が本隊の敗北を知り小田城へ引き返そうとした際、政景の部隊が先回りし、「御館様(小田氏治)御帰陣」と偽って城門を開かせ、混乱に乗じて小田城を奪取したと伝えられている。この鮮やかな戦術により、小田氏治は本拠地を失い、土浦城へと逃れた。この手這坂の戦いにおける勝利と小田城奪取は、政景の武将としての評価を決定づけた重要な出来事である。特に、偽計を用いて城を奪取した逸話は、単なる力押しではない、彼の戦術的な柔軟性と知謀を示しており、父・資正譲りの才覚を窺わせる。この功績により、政景は小田城主となった。
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天正12年(1584年)の一時的離反と帰参(太田資武の伝承より)
政景の経歴の中で注目されるべき点の一つに、天正12年(1584年)における一時的な佐竹氏からの離反と北条氏への内通疑惑がある。この件は、主に弟である太田資武の伝記に関連して言及されており、資武のWikipediaによれば、政景はこの年に突如北条氏に内通して佐竹氏を離反したが、後に降伏して許されたとされる
2
。そして、この一件が太田氏本家の家督継承問題に影響を与え、結果的に三男である資武が後継者となる流れを作ったと示唆されている。
この離反の具体的な理由や経緯については史料が乏しく、不明な点が多い。当時の佐竹氏と北条氏の外交関係、あるいは政景個人の野心や不満、父・資正との関係などが複雑に絡み合っていた可能性が考えられる。しかし、梶原政景自身の伝記とされるWikipediaの記述 には、この時期の明確な離反に関する言及が見られないため、この情報の確度については慎重な吟味が必要である。もしこの離反が事実であったとすれば、一度主家を裏切ったという経歴は、その後の佐竹家中での彼の立場や信頼関係に影を落とした可能性があり、後の佐竹家離脱の一つの伏線となったとも考えられなくもない。
第二章:豊臣政権下での活動と主家の変転
豊臣秀吉による天下統一事業が進む中で、政景もまたその大きな歴史のうねりの中に身を置くこととなる。
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小田原征伐(天正18年・1590年)と植田城への移鎮
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、後北条氏が滅亡すると、関東の勢力図は大きく塗り替えられた。この後、政景は佐竹氏の命により、それまでの小田領から、現在の福島県いわき市にあった植田城に居城を移したとされている。『新編常陸国誌』にも、この時期の梶原政景の動向に関する記述が含まれている可能性が示唆されている。これは、北条氏滅亡後の佐竹氏の勢力範囲の再編と、それに伴う家臣団の配置換えの一環であったと考えられる。
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父・太田資正の死(天正19年・1591年)
小田原征伐の翌年、天正19年(1591年)9月8日、父・太田資正が死去した。資正は晩年、佐竹義重に客将として遇され、常陸国片野城主の地位にあった。知謀の将として、また政景にとっては大きな影響力を持った父の死は、彼の心境や立場に何らかの変化をもたらしたことであろう。
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文禄の役(朝鮮出兵)への従軍
豊臣政権下の大名として、佐竹氏もまた朝鮮出兵(文禄・慶長の役)への軍役を負うこととなった。政景も佐竹軍の一員として文禄年間(1592年~)に開始された朝鮮出兵に従軍し、海を渡り朝鮮半島で戦ったと記録されている。具体的な戦功に関する詳細な記録は現時点で見当たらないが、当時の多くの武士たちと同様に、異国の地での過酷な戦役を経験したことは想像に難くない。
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関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年)と佐竹氏の処遇
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、全国の大名を巻き込む天下分け目の決戦であった。この時、政景の主君である佐竹義宣(佐竹義重の子)は、東軍を率いる徳川家康と西軍を率いる石田三成との間で、その去就が注目された。義宣は石田三成と親交があったことや、上杉景勝への加担を疑われたことなどから、東軍への参加が遅れ、日和見的な態度をとったと見なされた。その結果、戦後処理において徳川家康から厳しい処断を受け、それまでの常陸国水戸54万5千石から、出羽国秋田20万石へと大幅な減転封を命じられた。
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秋田転封への随行と佐竹家離脱
主家である佐竹氏のこの大きな変化は、政景を含む多くの家臣たちの運命を大きく左右することになった。政景は、慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田への国替えに一旦は従ったとされている。しかし、その後、政景は佐竹家を離れることになる。
彼が秋田まで随行しながらも最終的に佐竹家を辞去した具体的な時期や理由については、史料に明確な記述が乏しい。しかし、いくつかの複合的な要因が考えられる。まず、主家の石高が半減以下になるという厳しい現実は、家臣団の大規模なリストラや知行の削減を伴ったはずである。佐竹義宣は秋田転封を機に一門や譜代家臣の知行を減らし、当主権力を強化しようとしたため、政景のような外様に近い立場の武将にとっては、将来への不安が増大したであろう。また、慣れない北国での生活や、佐竹家中で起こったとされる内紛(川井事件など、譜代家臣との対立)も、離脱を決意する一因となった可能性がある。ある漫画作品では、築城の地選定において梶原美濃守(政景)の意見が容れられず肩を落とす場面が描かれているが、これはあくまで創作の範囲と見るべきであろう。いずれにせよ、旧主への忠義と新天地での立身の機会を天秤にかけた結果、より将来性のある新たな主君を求めたとしても不思議ではない。これは、戦国末期から江戸初期にかけて、大名の改易や減封に伴い多くの武士が新たな仕官先を求めて移動した、いわゆる「牢人問題」にも通じる現象の一端と言える。
第三部:新天地・越前福井藩への転身
佐竹家を離れた政景が次なる活躍の場として選んだのは、徳川家康の次男であり、当時越前北ノ庄(後の福井)を領していた結城秀康のもとであった。
第一章:結城秀康への仕官
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結城秀康という人物とその家臣団
結城秀康(ゆうき ひでやす、後の松平秀康)は、徳川家康の次男として生まれながらも、豊臣秀吉の養子(羽柴秀康)、さらには下総結城氏の養子となるなど、複雑な経歴を持つ人物である。武勇に優れ、家康からもその能力を認められていたとされる。関ヶ原の戦いでは、関東にあって上杉景勝の西上を牽制する役割を果たし、その功績により越前一国68万石(後に福井藩となる)を与えられた大大名であった。秀康は新たな領国経営にあたり、積極的に家臣団を形成しており、旧結城家臣や徳川譜代だけでなく、他家からの移籍者も能力に応じて多く登用したことが知られている。
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仕官の経緯と待遇
梶原政景は、佐竹家を辞した後、この越前北ノ庄藩主・結城秀康に2,000石で仕えたと記録されている。具体的な仲介者や仕官の正確な時期は不明であるが、慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田移封以降、慶長15年(1610年)に政景が高野山に自身の供養塔を建立するまでの間と推測される。福井藩における政景の具体的な役職名については史料からは確認しづらいものの、2,000石という知行高は、秀康時代の福井藩が高禄の家臣を多く抱えていたことを考慮しても、藩内である程度の地位にあったことを示唆している。
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弟・太田資武との関係
注目すべきは、政景の弟である太田資武もまた、佐竹家を離れて結城秀康に仕えていたことである。資武は慶長6年(1601年)、秀康の越前入封に従い、3,000石を与えられて軍奉行に任じられたとされている
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。資武はその後、大坂の陣での活躍などにより、松平忠昌(秀康の次男、福井藩2代藩主)の代には7,900石にまで加増されている。
兄弟が同じ藩に仕官したという事実は、単なる偶然以上のものを感じさせる。佐竹家に見切りをつけた兄弟が、連携して新たな仕官先を探した可能性は高い。資武が太田氏の家督継承者と目されていたこと や、軍奉行という具体的な役職に就いていたことから、結城家が太田兄弟の能力、特に資武の武将としての器量を高く評価し、戦略的に重要なポストに据えたのかもしれない。政景の2,000石に対し、資武が初期から3,000石という比較的高禄で迎えられた背景には、資武が「太田氏本流の後継者」としての期待を担っていたこと、あるいは個々の交渉の結果、または政景に過去の佐竹家一時離反の経歴 があったとすれば(秀康がその事実を知っていた場合)、それが影響した可能性も考えられる。いずれにせよ、兄弟が同じ藩で活動したことは、互いにとって心強いものであったろう。
第二章:福井藩士としての活動
越前福井藩に仕官した後の政景の具体的な活動については、史料が限られているものの、いくつかの重要な出来事が記録されている。
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大坂の陣(慶長19年・1614年~元和元年・1615年)への従軍
慶長19年(1614年)に勃発した大坂冬の陣、そして翌元和元年(1615年)の夏の陣に、政景は結城秀康の子である越前福井藩主・松平忠直(秀康の長男)の家臣として従軍している。この時、政景は既に60代後半に達しており、当時としては老齢であったが、武将としての最後の奉公を果たしたことになる。大坂の陣における具体的な戦功に関する記録は見当たらない。
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高野山奥の院への逆修供養塔建立(慶長15年・1610年)
大坂の陣に先立つ慶長15年(1610年)7月20日、政景は高野山奥の院に自身の逆修供養塔(ぎゃくしゅうくようとう)を建立している
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。逆修塔とは、生前に自らの冥福を祈るために建てる供養塔のことである。この供養塔の地輪には、「武蔵國岩付梶原美濃守逆修 (梵字) 恱叟道喜居士 慶長十五庚戌七月廿日建之」と刻まれている。
この逆修塔建立は、政景の晩年の心境を物語る重要な行動と言える。当時、政景は数えで63歳。結城(松平)家に仕えて数年が経過し、新たな主君のもとで一定の安定を得ていた時期である。しかし、豊臣家の滅亡へと繋がる大坂の陣の気配が色濃くなりつつあったこの時期に逆修塔を建てたことは、自らの死期を意識し、仏教的な功徳を積むと共に、戦場での死を覚悟していた可能性も示唆される。「恱叟道喜居士(えつそうどうきこじ)」という戒名も、この時に得たものであろう。碑文に「武蔵國岩付」という太田氏の故地と、「梶原美濃守」という自らが名乗った官途名を刻むことで、波乱に満ちた自らの生涯を総括し、梶原政景としての名を後世に残したいという願いが込められていたのかもしれない。
第四部:終焉と後世への継承
第一章:死没と墓所
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没年に関する二つの説
梶原政景の没年については、史料によって二つの説が存在する。一つは元和元年(1615年)没とする説、もう一つは元和9年(1623年)没とする説である。元和元年(1615年)は大坂夏の陣が終結した年であり、もしこの年に亡くなったとすれば、大坂の陣での戦役との関連も考えられるが、戦死や陣中での病死といった具体的な記録はない。一方、元和9年(1623年)没とすれば、政景は数えで76歳となり、当時としては長寿を全うしたことになる。どちらの説がより正確であるかについては、今後の史料研究の進展が待たれる。
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墓所:越前福井の禅林寺
政景の墓所は、越前国福井(現在の福井県福井市徳尾町)にある曹洞宗の寺院、禅林寺(ぜんりんじ)とされている。この禅林寺には、弟である太田資武の墓も存在しており、兄弟が同じ菩提寺に葬られたことがわかる。太田資武の巨大な五輪塔は、平成29年(2017年)5月の修復作業中に、塔内部の石の窪みから越前焼の骨壺に納められた遺骨が発見され、話題となった。政景の墓の現状については、詳細な調査が必要であるが、弟と共に越前の地に眠ることは、彼らが晩年まで強い絆で結ばれていたこと、そして越前の地が彼らにとって終の棲家となったことを示している。
第二章:子孫と家系の継承
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実子と養子
梶原政景には実子がいなかったとみられている。そのため、彼が興した(あるいは継承した)梶原氏の家督は、弟である太田資武の子、梶原景嘉(かじわら かげよし)を養子として迎えることで継承された。
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養子・梶原景嘉のその後
養子となった梶原景嘉は、後に徳川家康の孫であり、徳川秀忠の三男である駿河大納言・徳川忠長(とくがわ ただなが)に仕えたと記録されている。しかし、主君である徳川忠長は寛永9年(1632年)に不行跡などを理由に改易され、高崎に幽閉の後、自刃に追い込まれた。そのため、景嘉のその後の動向もまた、主家の浮沈に翻弄される波乱に富んだものであった可能性が推測されるが、詳細は不明である。
実子に恵まれなかった政景が、最も近しい血縁である弟・資武の子を養子に迎えて梶原家を継がせたことは、自らが名乗った「梶原」の家名を存続させたいという強い意志の表れであろう。太田本家は弟の資武が継承する流れにあったため、政景は自らが興した(あるいは再興した)梶原家を甥に託すことで、血筋と家名の両方を考慮し、家の存続を何よりも重視した戦国武将の価値観を反映した選択をしたと言える。
総括:太田政景の生涯とその歴史的評価
太田政景の生涯は、父・太田資正という強烈な個性を持つ武将の子として生まれながらも、複雑な家庭環境の中で自己の道を模索し、梶原姓への改姓を経て、佐竹氏、そして結城(松平)氏という複数の主君に仕え、戦国乱世から江戸時代初期への移行期を駆け抜けたものであった。
手這坂の戦いで見せた武勇と知略は、彼が単なる家柄だけの武将ではなく、実力を備えていたことを示している。また、主家の盛衰や時代の変化に対応し、新たな仕官先を見いだして生き抜いた柔軟性は、当時の武士の処世術の一端を垣間見せる。
政景は、歴史の表舞台で華々しい活躍を見せた大大名ではない。しかし、関東の有力武将の一人として、また、主家の減封に伴い新天地を求めた多くの家臣たちの一例として、その生涯は戦国時代から近世への移行期を生きた武士のリアルな姿を我々に伝えてくれる。情報の少ない武将ではあるが、断片的な史料を丹念に繋ぎ合わせることで、一人の人間の生き様が浮かび上がってくる。彼の生涯は、家と個人の間で揺れ動きながらも、自らの力で運命を切り拓こうとした戦国武人の一つの典型と言えるだろう。
太田政景 略年譜
和暦 (西暦)
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年齢 (数え)
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出来事
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関連人物・所属
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備考
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天文17年 (1548年)
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1歳
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生誕
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父:太田資正、母:大石定久娘
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永禄6年 (1563年)頃
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16歳頃
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父・資正、政景に家督を譲ろうとし、兄・氏資と確執か。梶原姓を名乗り始める時期か
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太田資正、太田氏資
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,
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永禄12年 (1569年)
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22歳
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11月23日、手這坂の戦いで小田氏治を破り、小田城主となる
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太田資正、佐竹義重、小田氏治、真壁久幹
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,
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時期不詳
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―
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足利義氏に仕える
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足利義氏
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時期不詳
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―
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佐竹義重の家臣となる
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佐竹義重
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天正12年 (1584年)
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37歳
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(太田資武伝によれば)一時、北条氏に内通し佐竹氏を離反、後に許される
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佐竹義重、北条氏
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(情報の確度に注意)
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天正18年 (1590年)
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43歳
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小田原征伐後、佐竹氏の命で植田城へ移る
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佐竹義宣
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天正19年 (1591年)
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44歳
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9月8日、父・太田資正死去
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太田資正
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文禄年間 (1592年~)
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45歳~
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文禄の役に従軍し渡海
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佐竹義宣
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慶長5年 (1600年)
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53歳
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関ヶ原の戦い。主家・佐竹氏の戦後処理
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佐竹義宣、徳川家康
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,
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慶長7年 (1602年)
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55歳
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佐竹氏の秋田転封に一旦従う
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佐竹義宣
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,
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慶長7年以降
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55歳以降
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佐竹家を離脱し、越前福井藩主・結城秀康に2,000石で仕える
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結城秀康
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,,
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慶長15年 (1610年)
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63歳
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7月20日、高野山奥の院に逆修供養塔を建立
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3
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慶長19年 (1614年)
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67歳
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大坂冬の陣に従軍
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松平忠直(結城秀康の子)
|
,
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元和元年 (1615年)
|
68歳
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大坂夏の陣に従軍。同年没説あり。または元和9年(1623年)没説(享年76)
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松平忠直
|
,
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時期不詳
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―
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養子・梶原景嘉が家督を継ぐ
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梶原景嘉(太田資武の子)
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太田政景 主君変遷と処遇
主君
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所属期間 (推定含む)
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主な役職・石高 (判明分)
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主な事績・戦歴
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離脱/移籍理由 (推定含む)
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足利義氏
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永禄年間前半か
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不明
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不明
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佐竹氏への仕官のためか
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佐竹義重・義宣
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永禄年間~慶長7年 (1602年)
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小田城主、植田城主
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手這坂の戦い、文禄の役
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佐竹氏の減転封に伴う待遇悪化、将来性への不安、結城秀康からの招聘など
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結城秀康・松平忠直
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慶長7年 (1602年) 以降~死没
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2,000石
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大坂の陣従軍
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―
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太田資正 一族と梶原政景 関係者一覧
氏名
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政景との続柄
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生没年 (判明分)
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主要事績・備考 (政景との関連)
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太田資正
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父
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大永2年 (1522年) – 天正19年 (1591年)
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岩槻城主、片野城主。知謀の将。政景を寵愛し家督を譲ろうとしたとされる,,。
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大石定久の娘
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母
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不明
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政景の母。
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太田氏資
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兄
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天文11年 (1542年) – 永禄10年 (1567年)
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太田資正の長男。父と確執。三船山合戦で戦死,。
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太田資武
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弟
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元亀元年 (1570年) – 寛永20年 (1643年)
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太田資正の三男。佐竹氏、後に結城秀康に仕え軍奉行、3,000石(後に加増)。政景と共に福井藩に仕官。墓所は福井市禅林寺。
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梶原景嘉
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養子 (甥)
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不明
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太田資武の子。政景の養子となり梶原氏を継ぐ。後に徳川忠長に仕える。
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真壁久幹
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友軍
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大永7年 (1527年) – 慶長2年 (1597年) (諸説あり)
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常陸の武将。手這坂の戦いで太田親子を支援。
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小田氏治
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敵将
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享禄元年 (1528年) – 慶長6年 (1601年) (諸説あり)
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常陸小田城主。手這坂の戦いで政景らに敗れる。
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結城秀康
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主君
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天正2年 (1574年) – 慶長12年 (1607年)
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徳川家康次男。越前福井藩初代藩主。政景を2,000石で召し抱える,。
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松平忠直
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主君
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文禄4年 (1595年) – 慶安3年 (1650年)
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結城秀康長男。越前福井藩2代藩主。政景は大坂の陣で忠直軍に従軍。
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引用文献
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手這坂の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E9%80%99%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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太田資武 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E6%AD%A6
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梶原政景供養塔
https://gururinkansai.com/kajiwaramasakagekuyoto.html