最終更新日 2025-07-21

太田資頼

太田資頼は太田道灌の孫。岩付城主として後北条氏と戦い、家臣の裏切りで城を失うも、石戸城を拠点に奪還。晩年は息子たちの路線対立に苦悩した。

戦国武将・太田資頼の生涯 — 関東動乱期における名門の苦闘と再起

序章:乱世に生きた武将、太田資頼 — 関東動乱の縮図

本報告書は、戦国時代の武蔵国に生きた一人の武将、太田資頼(おおた すけより、1484-1536)の生涯を、その出自、武功、そして苦難に満ちた経歴を通じて徹底的に解明することを目的とする。彼の名は、祖父である太田道灌や、後に「鬼知恵」と称される次男・太田資正のそれに比べ、歴史の表舞台で語られる機会は少ない。しかし、彼の人生は、単なる一地方領主の伝記に留まらず、旧来の権威であった上杉氏が衰退し、新興勢力である後北条氏がその覇権を確立していく16世紀前半の関東戦国史、その激動の転換期を象徴する縮図である。

資頼が生きた時代、関東地方は享徳の乱以来の長い混乱の只中にあった。古河公方と関東管領上杉氏(山内・扇谷の両上杉家)の権威は大きく揺らぎ、その隙を突くように伊勢宗瑞(北条早雲)を祖とする後北条氏が、相模国から武蔵国へと急速に勢力を拡大していた 1 。資頼が主君として仕えた扇谷上杉氏は、この後北条氏による侵攻の矢面に立たされた最前線の勢力であり、彼の居城であった岩付城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)は、両勢力の存亡をかけた攻防の最重要戦略拠点であった 4

利用者が概要として把握している「家臣の裏切りによる落城と、その後の居城奪還」という逸話は、資頼の生涯における最も劇的な出来事である。しかし、この事件の深層を探ると、忠誠と裏切り、雌伏と再起といった戦国武将の典型的な経験が凝縮されているだけでなく、関東独自の複雑な政治情勢が色濃く影を落としていることがわかる。後北条氏の関東制覇戦略は、単なる軍事力による征服ではなく、敵対勢力の内部矛盾や領主間の対立を巧みに利用する「調略」を主軸としていた。資頼が経験した居城の失陥と奪還のドラマは、まさにこの後北条氏の戦略が関東の支配構造を塗り替えていく過程そのものを体現しているのである。彼の物語は、個人の武勇伝や悲劇に留まらない。それは、関東における「中世的権威の黄昏」と「近世的支配の黎明」が交錯する瞬間の、生々しい記録に他ならない。本報告書では、この視座に立ち、太田資頼という一人の武将の生涯を通して、関東戦国史の重要な転換点を立体的に描き出すことを試みる。

第一章:名門・太田氏の血脈 — 道灌の孫として

太田資頼の人物像を理解する上で、彼が背負っていた「太田道灌の孫」という出自は決定的に重要である。この血脈は、彼に名声と権威をもたらす一方で、新時代の挑戦者からは打破すべき旧勢力の象徴と見なされるという、栄光と苦難の源泉となった。

1-1. 太田氏の出自と道灌の偉業

太田氏は、清和源氏の一流である摂津源氏、源頼光の流れを汲むとされ、その祖である太田資国が丹波国桑田郡太田郷に住んだことから太田姓を名乗ったと伝えられる 4 。一族は早くから上杉氏に仕え、関東へと下向した。

その名を不朽のものとしたのが、資頼の祖父にあたる太田道灌(資長)である。道灌は、扇谷上杉家の家宰として主君・上杉持朝を補佐し、長期にわたる戦乱であった享徳の乱で目覚ましい軍功を上げた。彼は武将として卓越していただけでなく、江戸城、川越城、そして資頼の代の拠点となる岩付城を築城した優れた築城家でもあった 4 。和歌にも通じた文武両道の人物として、その名は後世にまで轟き、太田一族に絶大な名声と権威をもたらしたのである 8

1-2. 岩付太田氏の成立と資頼の誕生

しかし、道灌は主君・扇谷上杉定正との間に確執を生じ、文明18年(1486年)に謀殺されるという悲劇的な最期を遂げる。彼の死後、太田一族は道灌の実子・資康の系統である江戸太田氏と、道灌の養子となった資家の系統である岩付太田氏に分かれた 4

資頼の父・太田資家は、道灌の甥にあたり、その養子となって岩付城を継承した人物である 9 。彼の具体的な事績については史料が乏しく不明な点が多いが、道灌亡き後の太田氏の嫡流(岩付太田氏)を率い、その血脈を資頼へと繋いだ重要な役割を果たした 4

太田資頼は、文明16年(1484年)にこの太田資家の子として誕生した 10 。通称を彦六、官位は美濃守を名乗った。後年には出家して「知楽斎道可(ちらくさいどうが)」と号している 10 。彼はまさに、道灌が築いた名声と岩付城という物理的遺産を直接受け継ぐ、正統な後継者であった。この「道灌の孫」という出自は、彼の最大の政治的資産であり、主君の扇谷上杉氏にとっては重用すべき理由となった。しかし同時に、旧来の権威を打破して関東に新たな秩序を築こうとする後北条氏にとって、彼と彼の居城・岩付城は、その象徴性ゆえに必ず攻略しなければならない最重要目標となったのである。資頼の生涯を彩る栄光と苦難は、この「道灌の孫」という宿命と不可分であったと言えよう。


表1:太田資頼 略年表

年代(西暦)

太田資頼の動向

関東の主要な動向

文明16年 (1484)

太田資家の子として誕生 10

大永2年 (1522)

父・資家が死去したとされる 9

大永4年 (1524)

北条氏綱が江戸城を攻略(高輪原の戦い) 2

大永5年 (1525)

岩付城の戦い。家臣・渋江三郎の内応により岩付城を失い、石戸城へ敗走 12

扇谷上杉朝興、白子原の戦いで北条軍に勝利 15

享禄3-4年 (1530-31)

石戸城から出撃し、渋江三郎を討ち岩付城を奪還 10

天文2年 (1533)

隠居し、家督を嫡男・資顕に譲る 10

天文5年 (1536)

4月20日、死去。享年53 10


表2:主要関連人物一覧

人物名

続柄・立場

太田資頼との関係

太田道灌(資長)

祖父(養祖父)

資頼の名声と権威の源泉。岩付城の築城者 4

太田資家

道灌の養子。岩付太田氏の祖 4

太田資顕

嫡男

親北条派。資頼から家督を継ぐが、弟・資正と対立 6

太田資正

次男

反北条派。父・資頼の路線を継承し、兄・資顕と対立 4

扇谷上杉朝興

主君

扇谷上杉氏当主。後北条氏の侵攻に抵抗 2

後北条氏綱

敵将

後北条氏2代目当主。武蔵侵攻を本格化させ、資頼と敵対 12

渋江三郎

資頼の家臣

北条氏に内応し、岩付城を資頼から奪う 12


第二章:関東の動乱と岩付城失陥 — 叛逆の真相

1520年代、後北条氏の武蔵国への侵攻は熾烈を極め、太田資頼と岩付城はその渦中に飲み込まれていく。一般に「家臣の裏切り」として知られる岩付城の失陥は、その背景を深く探ると、単純な忠誠と叛逆の物語では割り切れない、戦国時代特有の複雑な権力闘争の様相を呈してくる。

2-1. 後北条氏の武蔵侵攻と「高輪原の戦い」

大永4年(1524年)正月、後北条氏の2代目当主・氏綱は、関東支配の夢を継ぎ、武蔵国への本格的な侵攻を開始した。その最初の標的となったのが、扇谷上杉氏の重要拠点・江戸城であった。この時、氏綱の勝利を決定づけたのは、江戸城を守るべき太田一族からの内応であった。道灌の孫であり、資頼の従兄弟にあたる江戸太田氏の太田資高が氏綱に寝返り、江戸城はあっけなく陥落したのである 2

この「高輪原の戦い」での敗北により、扇谷上杉氏当主の上杉朝興は本拠を失い、河越城(埼玉県川越市)への撤退を余儀なくされた 2 。これにより、資頼が守る岩付城は、河越城を防衛し、後北条氏の北上を食い止めるための最前線となり、その戦略的重要性は飛躍的に高まった。

2-2. 大永5年(1525年)「岩付城の戦い」

江戸城を手中に収めた氏綱は、その勢いを駆って翌大永5年(1525年)2月、岩付城へと軍を進めた 12 。これが「岩付城の戦い」である。この戦いの結末は、資頼にとって屈辱的なものであった。籠城戦の最中、資頼の家臣であった渋江三郎が突如として北条方に内応し、城門を開け放ったのである 12 。不意を突かれた城内は混乱に陥り、奮戦も虚しく3000人余りの将兵が討ち死にし、岩付城は落城した 22

城を追われた資頼は、辛くも脱出し、後述する石戸城へと敗走した。一方、岩付城には内応の功労者である渋江三郎が北条氏綱によって城代として置かれ、城は後北条氏の支配下に入った 13

2-3. 叛逆者・渋江三郎の実像

この劇的な落城の鍵を握る渋江三郎という人物については、残念ながら史料が極めて乏しく、その出自や内応に至った動機を詳細に解明することは困難である。後世、森鷗外の史伝小説で著名となる弘前藩の儒医・渋江抽斎の一族とは、時代も家系も全く異なる別人であり、混同してはならない 23 。戦国時代の関東に生きた一地方武士であったこと以外、彼の人物像は歴史の闇に包まれている。

しかし、この「裏切り」の背景には、見過ごすことのできない別の側面が存在する。複数の史料を突き合わせると、この事件は単純な「主君への不忠」という文脈だけでは説明がつかない、より複雑な力学が働いていた可能性が浮かび上がる。

一部の史料には、驚くべき記述が見られる。それは、資頼自身が岩付城失陥の前年である大永4年(1524年)、一時的に後北条氏と内通し、もともと城を支配していた 渋江氏から岩付城を奪取した 、というものである 7 。この説が事実であると仮定するならば、一連の出来事の構図は完全に反転する。

つまり、岩付城の支配権は、もともと渋江氏が保持していた可能性がある。そこへ太田資頼が、新興勢力である後北条氏の力を借りて介入し、城を奪い取った。しかしその後、資頼は主家である扇谷上杉氏への忠誠を選び、北条氏から離反して帰参する 25 。この資頼の行動は、後北条氏から見れば明らかな裏切り行為である。

この流れを踏まえると、翌年に後北条氏が岩付城に攻め寄せた際、元城主であった渋江三郎が北条方についた行動は、もはや「叛逆」ではなく、資頼に奪われた自らの城を取り戻すための「逆襲」あるいは「失地回復」と解釈することが可能となる。

この視点に立てば、岩付城を巡る攻防は、「忠臣・太田資頼」と「裏切り者・渋江三郎」という単純な二元論では到底語れない。資頼、渋江、そして後北条氏という三者が、それぞれの利害と存亡をかけて繰り広げた、戦国時代らしい権力闘争の縮図であったと理解するのが、より実像に近い分析と言えるだろう。渋江三郎の行動は、個人的な不満や野心だけでなく、関東の旧領主たちが後北条氏という新たな勢力と結びつくことで、既存の支配関係を覆そうとした時代の大きな動きの一環であった可能性が高いのである。

第三章:雌伏と再起 — 石戸城からの反攻

岩付城を失った太田資頼であったが、彼の物語はここで終わりではなかった。本拠を追われた後の彼の行動は、単なる落ち武者の逃避行ではなく、周到な計画に基づいた戦略的撤退であり、その後の見事な再起は、彼の武将としての真価を物語っている。

3-1. 敗走と拠点・石戸城

岩付城から敗走した資頼が次なる拠点として選んだのは、武蔵国比企郡に位置する石戸城(現在の埼玉県北本市)であった 12 。この選択は、決して偶然や行き当たりばったりによるものではなかった。石戸城は、扇谷上杉氏の支配下にある岩付城、河越城、そして松山城という三つの重要拠点を結ぶトライアングルのほぼ中心に位置しており、各城との連携や情報伝達において極めて重要な戦略的価値を持つ城であった 27

さらに、石戸城は三方を沼沢地に囲まれた天然の要害であり、防御にも適していた 29 。そして何よりも重要なのは、この比企郡一帯が父・太田資家の代からの所領であり、資頼にとっては自らの影響力が深く浸透した地盤であったという点である 10 。事実、資頼の父・資家が太田道灌の菩提を弔うために建立したとされる養竹院も、この石戸城の近隣に存在していた 10 。したがって、資頼にとって石戸城は、単なる避難場所ではなく、兵を休め、再編し、反攻の機会を窺うための万全の条件が整った戦略拠点だったのである。

3-2. 約6年間の雌伏と勢力回復

大永5年(1525年)に石戸城に入ってから、資頼は約6年間にわたる雌伏の時を過ごすこととなる 32 。この期間、彼はただ鳴りを潜めていたわけではない。石戸城を本拠として着実に勢力を維持・回復し、来るべき日に備えていた。

この間、主君である扇谷上杉朝興も後北条氏への抵抗を断続的に続けていた。例えば、岩付城が落城した同年8月には、朝興は「白子原の戦い」で北条軍に一矢を報いている 15 。資頼の石戸城における勢力回復の動きは、こうした主家の抵抗と連動し、互いに呼応しながら進められていた可能性が高い。彼の敗走は、戦国武将としての終わりではなく、次なる戦いへの序章に過ぎなかった。この約6年という雌伏の期間は、逆境にあっても冷静に状況を分析し、自らの地盤を固め、好機を逃さずに行動に移すという、彼の優れた戦略眼と強靭な精神力を如実に示している。

3-3. 岩付城奪還

そして、機は熟した。享禄3年(1530年)とも4年(1531年)とも伝わる9月、太田資頼は石戸城から満を持して出撃し、岩付城への電撃的な奇襲攻撃を敢行した。この攻撃は完全に成功し、北条方の城代として留守を守っていた渋江三郎を討ち取ることに成功 10 。資頼は、かつて失った本拠・岩付城を、自らの力で見事に奪還したのである 12

この一連の出来事は、太田資頼が単に運命に翻弄された悲運の武将ではなく、逆境を乗り越える戦略と忍耐力を兼ね備えた、優れた指揮官であったことを何よりも雄弁に物語っている。計画的撤退から周到な準備期間を経ての本拠奪還という彼の行動は、戦国時代の武将の危機管理能力と戦略性を示す好例と言えるだろう。

第四章:晩年と次代への布石 — 太田家の内なる亀裂

岩付城を奪還し、岩付太田氏の当主としての権威を回復した資頼であったが、彼の晩年は平穏なものではなかった。外敵である後北条氏との緊張関係が続く中、一族の内部では次世代の路線を巡る深刻な対立が静かに進行していた。彼が残した遺産は、皮肉にも一族の分裂という新たな火種を内包するものであった。

4-1. 岩付城回復後の統治と隠居

本拠への帰還を果たした資頼は、その後しばらく領国の安定に努めたものと思われる。そして天文2年(1533年)、彼は隠居を決意し、家督を嫡男の太田資顕(すけあき)に譲った 10 。出家して「道可」と号したものの、その後も後見役として一定の影響力を保持し続けたと考えられる 10

4-2. 息子たちの路線対立

資頼の隠居は、太田家が抱える内部矛盾を表面化させるきっかけとなった。彼の二人の息子、資顕と資正は、強大化する後北条氏への対応を巡って、全く異なる道を歩むことになる。

嫡男の 太田資顕 は、現実主義的な観点から 親北条路線 を選択した。彼は、もはや衰退の一途をたどる主家・扇谷上杉氏に未来はないと判断し、関東の新興覇者である後北条氏と結ぶことで太田家の存続を図ろうとしたのである。その姿勢は、天文15年(1546年)の「河越夜戦」において、主君・上杉朝定(朝興の子)が北条氏康に討たれて扇谷上杉氏が滅亡した際、北条方として参陣しなかったものの、上杉方にも加わらなかったという中立的な態度に明確に現れている 4

一方、次男の 太田資正 は、父・資頼の意志を継ぐかのように、徹底した 反北条路線 を堅持した。彼は名分を重んじ、扇谷上杉氏の忠臣として最後まで戦う道を選んだ。河越夜戦においても、兄とは袂を分かち、上杉方として参陣している 4 。この兄弟間の深刻な不仲と路線対立は、資頼の存命中からすでに始まっており、岩付太田家の家臣団をも親北条派と反北条派に二分するほどの根深い問題となっていた 6

4-3. 天文5年(1536年)の死

このような一族内の不協和音に苦慮する中、太田資頼は天文5年4月20日(1536年5月10日)、その波乱に満ちた生涯を閉じた。享年53であった 10

彼の死は、太田家内部の対立を抑えていた「重し」が取れたことを意味した。資頼の死後、親北条派の兄・資顕と反北条派の弟・資正の対立はますます激化。最終的には、資顕が男子なくして死去すると、資正が実力で岩付城を掌握して家督を継承し、親北条派の家臣を追放するという、激しい内紛へと発展していくのである 6

資頼の晩年は、外敵との戦いだけでなく、自らの息子たちによって代表される「現実主義(親北条)」と「名分論(反北条)」という、内なる思想的対立に苦悩した時期であったと言える。彼が生涯をかけて後北条氏と戦い、守り抜いた岩付城という物理的遺産が、皮肉にも次世代の深刻な対立の舞台そのものとなってしまった。一族の存続のために、自らの路線とは異なる現実主義者の嫡男・資顕に家督を譲ったのかもしれないが、その決断は結果として、自らが生涯抵抗し続けた相手に一族が組み込まれていく道を開くことになった。彼の再起の物語は輝かしいものであったが、その遺産は悲劇的な側面を色濃く帯びていたのである。

第五章:太田資頼の歴史的評価

太田資頼は、その劇的な生涯にもかかわらず、歴史的な知名度においては祖父・道灌や息子・資正の影に隠れがちである。しかし、彼の生涯を詳細に分析することで、戦国時代前期の関東を理解する上で欠かすことのできない、重要な人物像が浮かび上がってくる。

5-1. 武将としての能力評価

太田資頼は、間違いなく優れた能力を備えた武将であった。家臣の内応によって本拠を失うという絶望的な状況から、約6年という雌伏の期間を経て自力で城を奪還した一連の行動は、彼の不屈の精神力、冷静な戦略的思考、そして卓越した危機管理能力を証明している。特に、敗走先に自らの地盤である石戸城を選び、そこを拠点に勢力を回復させた手腕は高く評価されるべきである。

一方で、彼の奮闘は、あくまで旧秩序を守るための「防衛戦」の域を出るものではなかった。彼の活躍は主家である扇谷上杉氏の衰退を一時的に食い止めることはできても、関東全体の勢力図を塗り替えるほどの決定的な影響力を持つには至らなかった。彼は時代の大きな流れに抗ったが、その流れを逆転させることはできなかったのである。

5-2. 歴史上の位置付け — 「過渡期の人物」として

太田資頼の歴史的な位置付けを考えるとき、彼は「過渡期の人物(transitional figure)」として特徴づけるのが最も的確であろう。彼は、関東に中世的な秩序を築いた祖父・道灌と、後北条氏という新たな秩序に対して最後まで抵抗を続けた息子・資正という、二つの時代を象徴する人物の間に位置している。

彼の生涯は、享徳の乱以来の権威を誇った関東の旧来の名門領主が、後北条氏という合理性と実力主義を兼ね備えた新興勢力の挑戦に直面し、いかに苦闘したかを如実に物語っている。そして、彼の存在なくして、後の「反骨の名将」と謳われる太田資正の登場はあり得なかった。資頼が命がけで守り抜いた岩付城と、彼が束ねた家臣団こそが、資正がその生涯をかけた反北条闘争を展開するための重要な基盤となったのである 6

5-3. 後世への影響と遺産

太田資頼の名は、彼が深く関わった地域に今も息づいている。埼玉県比企郡川島町に現存する臨済宗の寺院・養竹院には、資頼の寿像(生前に描かれた肖像画)とされる貴重な絵画が伝えられている 17 。これは、彼がこの地で敬意を集める存在であったことを示す何よりの証拠である。

また、彼がその生涯をかけて守り、そして再起の拠点とした岩付城 36 と石戸城 27 は、現在も城址公園や史跡としてその面影を一部残しており、戦国時代の関東の歴史を物語る貴重な文化遺産となっている。

太田資頼の知名度は、一般的な戦国武将ランキングなどでその名を見ることはほとんどないほど低い 38 。しかし、その生涯を詳細に追うと、彼は単に有名な親族の「つなぎ」の人物ではなく、関東戦国史の極めて重要な転換点において、一族と領地の存亡をかけて主体的に行動し、一度は失った全てを自力で取り戻した、極めてドラマティックな生涯を送った人物であることがわかる。彼の歴史的評価は、その知名度の低さに比して、著しく過小評価されていると言わざるを得ない。本報告書が、その実像に新たな光を当てる一助となれば幸いである。

終章:総括

太田資頼の生涯は、扇谷上杉氏の忠実な家臣として、そして名門・岩付太田氏の当主として、後北条氏の台頭という時代の大きなうねりに立ち向かい続けた闘争の記録であった。

彼が直面した家臣の叛逆による落城と、それを乗り越えた執念の再起の物語は、戦国武将の強靭な精神力と、いかなる状況下でも自らの家と領地を守り抜こうとする凄まじい執念を象徴している。彼は、祖父・道灌が築いた栄光を受け継ぎ、それを守るために戦い、そして次代へと繋いだ。

しかし、その遺産は、息子たちの間で深刻な路線対立を生むという悲劇的な側面も持っていた。彼の生涯は、旧時代の秩序が崩壊し、新たな秩序が生まれる過渡期に生きた武将の栄光と苦悩を凝縮している。

結論として、太田資頼は「旧時代の秩序を守る最後の防人であり、次代の闘争の礎を築いた悲劇の先駆者」として位置づけることができる。彼の名は歴史の表舞台で大きく語られることはないかもしれないが、その不屈の生涯は、戦国時代の関東を理解する上で、決して忘れてはならない重要な一頁を形成しているのである。

引用文献

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  3. 関東の覇者でありながら評価の低い・北条氏政 【小田原征伐では日本中から集団リンチ状態】 https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/46509/
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  35. 太田資正と戦国武州大乱 実像と戦国史跡 : 中世太田領研究会 | HMV&BOOKS online https://www.hmv.co.jp/artist_%E4%B8%AD%E4%B8%96%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%A0%98%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A_000000000824184/item_%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E6%AD%A3%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%AD%A6%E5%B7%9E%E5%A4%A7%E4%B9%B1-%E5%AE%9F%E5%83%8F%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%B7%A1_10534839
  36. 岩槻城の見所と写真・600人城主の評価(埼玉県さいたま市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/374/
  37. 岩槻城跡を探る - さいたま市 https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
  38. 〝戦国関東武将総選挙〟結果発表!|戎光祥出版 - note https://note.com/ebisukosyo/n/nbac205194ee9
  39. 『信長の野望・大志』関東地方での戦国武将人気ランキングが発表 - ファミ通.com https://www.famitsu.com/news/201711/06145484.html