年(西暦/和暦) |
年齢 |
事績 |
関連地・石高 |
主要典拠 |
1577年(天正5年) |
1歳 |
三河国にて、奥平信昌と亀姫の長男として誕生。幼名は九八郎。 |
- |
1 |
1581年(天正9年) |
5歳 |
祖父・徳川家康の御前にて元服。家康より偏諱を受け「家昌」と名乗る。 |
- |
3 |
1595年(文禄4年) |
19歳 |
豊臣姓を下賜される。 |
- |
4 |
1600年(慶長5年) |
24歳 |
関ヶ原の戦いにおいて、徳川秀忠軍に属し信濃上田城攻めに参加。 |
信濃上田城 |
5 |
1601年(慶長6年)2月 |
25歳 |
父・信昌の旧領である上野小幡藩を拝領。 |
上野小幡藩 3万石 |
2 |
1601年(慶長6年)12月 |
25歳 |
下野宇都宮藩へ10万石で加増転封となる。 |
下野宇都宮藩 10万石 |
1 |
1611年(慶長16年)10月 |
35歳 |
正室・もり姫(本多忠勝の次女)が死去。 |
宇都宮 |
1 |
1614年(慶長19年)10月6日 |
38歳 |
大坂冬の陣への出兵を命じられるも、病のため不参加となる。 |
宇都宮 |
1 |
1614年(慶長19年)10月9日 |
38歳 |
出兵免除の代わりに、江戸城本丸留守居役を命じられる。 |
宇都宮 |
1 |
1614年(慶長19年)10月10日 |
38歳 |
宇都宮にて病没。 |
宇都宮 |
1 |
奥平家昌は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将であり、下野国宇都宮藩の初代藩主である。彼の生涯は、徳川幕府の黎明期における政治的力学と、戦国から近世へと移行する時代の特性を色濃く映し出している。その存在を理解するためには、まず彼の出自と、その血統が持つ特異な意味を解き明かす必要がある。
家昌の父は、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、武田軍の猛攻から長篠城を守り抜き、織田・徳川連合軍の勝利に大きく貢献した奥平信昌である 11 。母は、徳川家康の長女である亀姫 1 。この婚姻は、単なる家と家の結びつきではなかった。当時、徳川家康は西から勢力を伸張する武田信玄の脅威に晒されており、武田氏に対抗するためには、奥三河の有力な国人領主であった奥平氏を味方につけることが不可欠であった 15 。一度は武田氏に属した奥平氏が再び徳川氏に帰順するにあたり、家康はその結束を確固たるものにするため、長女・亀姫との婚約を条件として提示したのである 17 。これは、家康の天下取りの布石における、極めて重要な戦略の一環であった。
このような政治的背景のもと、家昌は天正5年(1577年)に誕生した 1 。彼は家康にとって男子としては最年長の孫であり、後に二代将軍となる叔父の徳川秀忠(天正7年生まれ)よりも2歳年長であった。この事実は、家昌が単なる外孫という立場を超え、徳川一門の中で特別な地位を占める存在であったことを強く示唆している。
家昌の幼名は九八郎と称した 1 。天正9年(1581年)、わずか5歳で祖父・家康の御前にて元服し、家康から偏諱(名前の一字を与えること)を受け「家昌」と名乗った 3 。徳川宗家の「家」の字を与えられることは、将来の徳川政権を支える一員としての期待の表れに他ならなかった。家康は家昌をことのほか可愛がり、刀や鷹を与えるなど、幼少期から特別に重用したことが記録されている 4 。さらに文禄4年(1595年)には、豊臣姓を下賜されており、名実ともども次代を担う大名としての地位を固めていった 4 。
家康が家昌を厚遇したのは、肉親への情愛のみならず、徳川政権の基盤を固めるための高度な政治的計算があったと考えられる。信頼できる血縁者を国内の要所に配置し、支配体制を盤石にするという家康の構想の中で、家昌は重要な役割を担うべき存在と見なされていた。彼は、外様大名でありながら徳川の血を引く「親藩に準ずる譜代」、いわば「準連枝」とも言うべき戦略的な位置づけを与えられていたのである。彼の人生は、その誕生の瞬間から、徳川の天下統一戦略の中に深く組み込まれていたと言えよう。
徳川の血を引く若き武将として、奥平家昌の武人としての真価が問われる最初の舞台は、天下分け目の関ヶ原の戦いであった。しかし、彼が経験したのは輝かしい武功ではなく、苦い試練であった。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、家昌は徳川秀忠が率いる約3万8千の中山道軍に属し、西上した 1 。秀忠軍の当面の目標は、徳川方に敵対した真田昌幸・信繁(幸村)父子がわずか2千の兵で籠城する信濃上田城の攻略であった 21 。
秀忠は真田信幸(昌幸の長男、徳川方)を先鋒として背後の戸石城を無血で確保するも、本城である上田城の攻略には手こずった 20 。徳川軍は城下の稲を刈るなどの挑発行為で真田軍を城外におびき出し、一時は城門近くまで攻め寄せた。しかし、これは昌幸の巧妙な戦術であった。徳川軍が深追いしたところを、伏兵と城内からの鉄砲による一斉射撃で迎え撃ち、さらには事前に堰き止めていた神川の水を一気に放流して大混乱に陥れたのである 20 。
この第二次上田合戦において、秀忠軍は榊原康政、本多忠政、大久保忠隣といった徳川譜代の重臣を擁しながらも、真田父子の老練な戦術の前に多大な損害を出し、足止めを食らう結果となった 20 。家昌もこの上田城攻めに参加した武将の一人として名を連ねているが 5 、結局、秀忠軍は上田城を陥落させることができず、関ヶ原の本戦に遅参するという痛恨の失態を犯した。
軍事的には不首尾に終わった上田城攻めであったが、戦後の論功行賞において家昌は破格の待遇を受けることになる。慶長6年(1601年)2月、父・信昌が関ヶ原の功績により美濃加納10万石へ移封されると、家昌はまず父の旧領であった上野小幡3万石を与えられた 2 。しかし、そのわずか10ヶ月後の同年12月、下野宇都宮10万石という、石高においても戦略的重要性においても小幡とは比較にならない大領へと加増転封されたのである 1 。
この異例の抜擢の背景には、家康の深謀遠慮があった。宇都宮は、北の伊達政宗ら強力な外様大名を牽制し、江戸を防衛する上で死活的に重要な拠点であった 24 。家康がこの要衝に誰を配置すべきか側近の天海僧正に諮問した際、天海が「奥平大膳(家昌)に与えるべき」と進言し、家康もそれに深く同意したという逸話が残っている 9 。
上田城攻めという軍事作戦の失敗にもかかわらず、家昌がこれほどの大出世を遂げた事実は、当時の論功行賞が単純な戦功のみで決定されるものではなかったことを如実に物語っている。家康にとって、家昌の価値は上田城での働きではなく、「徳川家康の孫」という血統がもたらす絶対的な「信頼性」にあった。戦国的な個人の武勇の時代が終わりを告げ、徳川の家格と血縁を基盤とする近世的な支配秩序が形成されていく過渡期において、家昌の宇都宮入封は、その象徴的な出来事であったと言える。
慶長6年(1601年)、25歳にして10万石の大名となった奥平家昌は、武人としてだけでなく、優れた統治者・行政官としての才能を開花させていく。彼の宇都宮における治績は、わずか13年という短い期間ながら、近世初期の藩政のモデルケースとも言うべき先進的な取り組みに満ちていた。
父の世子という立場から、突如として10万石の大領を与えられた家昌にとって、喫緊の課題は藩を運営する家臣団の編成であった 9 。彼は、文武に優れた浪人たちを積極的に召し抱え、新たな家臣団の核とした。
同時に、彼は奥平家が三河時代から抱えてきた旧来の家臣制度の限界を鋭く見抜いていた。父・信昌を長篠の戦いで支えた「七族五老」と呼ばれる12家の重臣たちは、戦国時代の主従関係においては機能したものの、近世的な藩の統治機構としては硬直化し、非効率であった 26 。家昌は、この旧来の枠組みを解体し、七族と五老を「大身衆」として一つのグループに再編・統合した。そして、その中から5、6家が月番制で国政を担当し、有事の際には12家が協力して対応するという、合議制に近い新たな統治システムを導入したのである 26 。これは、戦国時代の「一族郎党」的な主従関係から、近世的な「官僚機構」への脱皮を図る、極めて画期的な改革であった。
家昌は、藩政の安定には領内の経済的活性化が不可欠であると考え、宇都宮の城下町整備に心血を注いだ 1 。特に有名なのが、商業振興策として開設した定期市である。彼は自身の官途名「大膳大夫(だいぜんだゆう)」にちなみ、「大膳市(だいぜんいち)」と名付けた市場を、毎月5と10のつく日に開催した 10 。宇都宮が江戸と東北を結ぶ奥州街道の要衝に位置することもあり、この大膳市は大いに賑わい、城下町の発展に大きく貢献した 31 。
領民の精神的な支柱となる寺社の保護にも熱心であった。宇都宮氏の旧菩提寺であった興禅寺を、奥平家の菩提寺として中興開基となり再興したのをはじめ 34 、浄鏡寺、台陽寺、光琳寺などの建立や再建にも尽力している 27 。
また、彼の統治が単なる一藩の枠に留まっていなかったことは、幕府との連携にも見て取れる。幕府が宇都宮大明神(現在の二荒山神社)の社殿造営を行った際には、関東郡代の伊奈忠次と共に奉行の大役を務めた 1 。これは、宇都宮藩が幕府の公儀と密接に連携し、北関東における幕府の権威を代行する重要な役割を担っていたことを示している。
一般的に「武勇に優れた」と評される家昌だが 28 、史料が雄弁に物語るのは、むしろ彼の卓越した統治者としての側面である。旧弊を打破し、新たな統治システムを構築するその手腕は、祖父・家康が目指した「武断政治」から「文治政治」への移行という時代の要請を深く理解し、自身の領地で実践した「改革者としての勇気」の表れであったと言えるだろう。
公的な記録に残る治績の裏で、奥平家昌はどのような人物であり、いかなる私生活を送っていたのだろうか。断片的な史料からは、徳川家の重鎮たちと深く結びついた家庭、武辺一辺倒ではない文化的素養、そして強烈な個性を持つ母との関係が浮かび上がってくる。
家昌の正室は、徳川四天王の一人に数えられる猛将・本多忠勝の次女、もり姫(法号・法明院)であった 1 。徳川家にとって最も信頼の厚い譜代筆頭の家との縁組は、家昌と奥平家の政治的地位をさらに盤石にするものであった。
もり姫との間には、後に宇都宮藩主を継ぐことになる長男・忠昌と、長女・ビン姫の二人の子供が生まれた 1 。ビン姫は後に叔父である将軍・徳川秀忠の養女となり、出雲松江藩主・堀尾忠晴に嫁いでいる。これもまた、奥平家が徳川一門として極めて高い家格を有していたことを示している。しかし、この家庭生活は長くは続かなかった。正室もり姫は慶長16年(1611年)に死去し、家昌はその3年後に後を追うようにこの世を去ることになる 1 。
家昌は小鼓を嗜んだという記録が残っており 1 、武人としての側面だけでなく、文化的な素養を併せ持っていたことがうかがえる。「父譲りの武勇を持っていた」とも評されるが 28 、具体的な武功を伝える逸話は上田城攻め以外に乏しい。これは、彼の活動期が大規模な合戦が終息に向かう時代であったこと、そして彼の本領が戦場での武功よりも、藩の統治にあったことを示唆している。
家昌の人物像を語る上で、母・亀姫の存在は無視できない。家康の長女である亀姫は、非常に気性が激しく、嫉妬深い一面を持っていたと伝えられている 39 。夫・信昌に生涯側室を持つことを許さなかったという逸話は、その性格を象徴している 40 。
家昌の生前、亀姫が藩政にどの程度影響を与えていたかを直接示す史料はない。しかし、家昌の死後、彼女が孫・忠昌の後見人として見せた行動は、その強烈な個性を物語っている。彼女は、奥平家の利益を脅かすと見なした政敵・本多正純を失脚させるため、あらゆる政治力を駆使したとされる(宇都宮城釣天井事件) 41 。このことから推察されるのは、亀姫の行動原理が単なる気性の激しさではなく、「徳川家康の長女」としての強烈な自負と、息子、そして孫を通じて奥平家を徳川政権の中枢に置き続けたいという野心にあったということである。
家昌の早逝という悲劇は、この亀姫の野心と期待の対象を、幼い孫・忠昌へと向けさせる決定的な転換点となった。家昌の死は、亀姫を単なる悲嘆にくれる母親から、奥平家の存続を賭けて戦う冷徹な政治家へと変貌させる引き金となったのかもしれない。
その統治者としての才覚をいかんなく発揮し、将来を嘱望されていた奥平家昌であったが、その生涯はあまりにも突然に、そして歴史の大きな転換点において幕を閉じることとなる。
豊臣家との最終決戦である大坂の陣が目前に迫った慶長19年(1614年)10月、家昌の運命は急転する。
家昌の死因は「病」と記録されているが、その具体的な病名については詳らかではない 1 。大坂の陣という国家的大事を前にしての急死であったため、様々な憶測を呼ぶが、確たる史料は存在しない。一部の史料には京都で病死したとの記述も見られるが 42 、宇都宮での死去が通説となっている 1 。
遺骸は、彼が中興開基となった宇都宮の興禅寺に葬られた 1 。現在も同寺には家昌の墓所が残り、その短いながらも濃密な生涯を今に伝えている。また、高野山 43 や江戸品川の清光院 44 にも、彼の墓碑や供養塔が建立されている。
彼の最期は、歴史の皮肉を深く感じさせるものであった。もし彼が戦場での活躍を望んでいたならば、大坂の陣は武勇を天下に示す最大の舞台であったはずだ。しかし、彼はその舞台に上がることすら叶わなかった。そして、後方支援という地味ながらも国家の命運を左右する重責を託された直後に、その生涯を終えたのである。家昌の死は、戦国武将としての華々しい活躍ではなく、新時代の統治者としての重責を期待されながら、それを果たせずに倒れたという、近世初期の大名が置かれた状況を象徴する結末であった。
奥平家昌の38年という短い生涯は、彼個人の悲劇に留まらず、その後の奥平家の歴史、ひいては徳川幕府初期の政治情勢にも大きな波紋を広げることとなった。
家昌の急逝により、家督はわずか7歳の嫡男・忠昌(幼名・千福)が相続した 1 。幼少を理由に、父に命じられていた江戸城留守居役の重任は免除された 28 。
しかし、家昌の死がもたらした影響はこれに留まらなかった。元和5年(1619年)、忠昌は「幼少の身では、将軍が日光社参の際に宿泊地となる宇都宮藩主の務めは果たせない」という表向きの理由で、1万石を加増された上で下総古河藩へと移封されたのである 1 。そして、忠昌に代わって宇都宮に入ったのが、家康の側近として権勢を誇っていた本多正純であった。
この一連の動きの裏には、孫・忠昌の後見人として絶大な影響力を行使していた祖母・亀姫の存在があったと強く推察されている。亀姫は、かねてより政敵と見なしていた本多正純が、孫から宇都宮を取り上げる形で入封したことに激怒した 41 。結果、元和8年(1622年)に「宇都宮城釣天井事件」という謀略によって正純は失脚し、改易される。そして、その空席を埋める形で、忠昌は再び宇都宮藩主として返り咲くのである 1 。
家昌の死は、結果的に奥平家の歴史に「亀姫の時代」とも言うべき、祖母が孫に代わって辣腕を振るう特異な一時期をもたらした。さらに、この混乱は後の奥平家の内紛の火種となり、江戸三大仇討ちの一つに数えられる「浄瑠璃坂の仇討」の遠因となる宇都宮興禅寺刃傷事件へと繋がっていく 27 。彼の早逝が、奥平家に長い波乱の時代の幕開けを告げたことは間違いない。
奥平家昌は、徳川家康による天下統一事業の最終段階と、徳川幕藩体制の確立期という、時代の大きな転換点において、血縁と能力の両面から大きな期待を担った人物であった。その短い生涯は、戦国的な武勇が求められる時代から、近世的な統治能力が重視される時代への過渡期そのものを体現している。
彼の家臣団改革や城下町経営に見られる先進的な統治手腕は、もし彼が長命を保ち、その才覚を十分に発揮する時間があったならば、彼を幕府の中枢へと導いたであろう。老中などの要職に就き、本多正純や土井利勝らと並ぶ、あるいはそれ以上の影響力を持つ重臣として、徳川初期の幕政に大きな足跡を残した可能性は極めて高い。その意味において、奥平家昌の早逝は、単に奥平家一門にとっての損失であっただけでなく、確立期の徳川幕府にとっても計り知れない損失であったと言えるだろう。彼の生涯は、歴史の「もし」を強く想起させる、栄光と悲劇に彩られたものであった。