奥平忠昌(おくだいら ただまさ)は、江戸時代前期を生きた大名である。彼の生涯は、徳川家康の曾孫という輝かしい血筋に恵まれた「栄光」と、その高貴な出自ゆえに背負わされた重責、そして自身の死後に一族を襲った「悲劇」という、光と影の二面性によって彩られている 1 。慶長13年(1608年)に生まれ、父・奥平家昌の急逝によりわずか7歳で下野宇都宮藩10万石の藩主となった忠昌は、一度は下総古河へ転封となるも、世に名高い「宇都宮釣天井事件」を経て宇都宮に復帰し、寛文8年(1668年)に没するまで、46年間にわたる長期統治を成し遂げた。
利用者様がご存知の概要は、忠昌の生涯の重要な転換点を的確に捉えている。しかし、その背後には、江戸幕府黎明期の複雑な政治力学と、彼を取り巻く人々の激しい情念が渦巻いていた。本報告書では、忠昌の生涯を単なる事実の羅列に留めず、以下の三つの分析軸から立体的に解明することを目的とする。第一に、彼の運命を決定づけた徳川将軍家との血縁関係、特に祖母・亀姫の強烈な影響力。第二に、幕府の全国支配体制が確立していく過渡期において、譜代大名、とりわけ将軍家縁戚が担った役割とその苦悩。そして第三に、長期政権が必然的に孕む後継者問題と家臣団の変質という、武家社会の普遍的な課題である。これらの視座から、忠昌という一人の大名の生涯を通して、江戸初期という時代の深層に迫る。
和暦(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
慶長13年(1608年) |
1歳 |
宇都宮藩主・奥平家昌の長男として誕生。 |
1 |
慶長19年(1614年) |
7歳 |
父・家昌が急逝。家督を相続し、下野宇都宮藩10万石の第2代藩主となる。 |
1 |
元和5年(1619年) |
12歳 |
1万石を加増され、下総古河藩11万石へ転封となる。 |
3 |
元和8年(1622年) |
15歳 |
宇都宮釣天井事件で本多正純が改易されたことに伴い、宇都宮藩11万石へ再封される。 |
5 |
寛文8年(1668年) |
61歳 |
2月19日、江戸の藩邸にて病死。 |
8 |
寛文8年(1668年) |
死後 |
忠昌の死後、追腹一件や興禅寺刃傷事件が発生。家督を継いだ長男・昌能が幕府から咎められ、奥平家は出羽山形藩9万石へ減封・転封処分となる。 |
4 |
この年表は、忠昌の生涯が幼少期の度重なる転封、その後の長期にわたる安定した宇都宮統治、そして自身の死をきっかけに一族が大きな混乱に見舞われるという、劇的な展開を辿ったことを示している。
奥平忠昌の生涯を理解する上で、彼が徳川家康の血を引くという出自は決定的に重要である。それは彼に栄光をもたらす源泉であると同時に、彼の運命を大きく左右する足枷ともなった。
奥平家は元来、三河国の山間部を拠点とする小豪族に過ぎなかった 12 。その家運が大きく開けたのは、忠昌の祖父・奥平信昌の代である。当初、強大な武田氏に属していた奥平氏は、武田信玄の死後、徳川家康への帰参を決断する 12 。この帰参を確実なものとし、奥三河の有力国衆を味方に取り込みたい家康は、その証として自身の長女・亀姫を信昌に嫁がせるという破格の条件を提示した 12 。
この政略結婚により、奥平家は単なる譜代大名から、将軍家の縁戚である「御連枝」という特別な地位へと駆け上がった 11 。信昌は天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、長篠城を死守して織田・徳川連合軍の勝利に大きく貢献し、その武功を信長と家康から高く評価された 12 。
忠昌の父である奥平家昌は、信昌と亀姫の間に生まれた長男であり、徳川家康にとっては初孫世代の最年長にあたる存在であった 5 。家康はこの外孫をことのほか可愛がり、元服に際しては自らの名から「家」の一字を与え、刀や鷹を授けるなど、格別の寵愛を示した 5 。その期待に応えるように、家昌は関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍に属して戦功を挙げ、慶長6年(1601年)、家康は北関東の軍事的要衝である下野宇都宮の地に、外孫の家昌を10万石の大名として抜擢したのである 18 。
忠昌の生涯に最も大きな影響を与えた人物は、祖母の亀姫(加納御前)であった。彼女は家康の正室・築山殿を母とし、その気性の激しい性格は母譲りであったと伝えられる 14 。夫・信昌の転封先である美濃加納城下には、嫉妬深い亀姫の勘気に触れて手討ちにされた12人の侍女を祀る「十二相神」の墓が残るという逸話は、彼女の性格の一端を物語っている 14 。
慶長19年(1614年)に長男・家昌、三男・忠政を相次いで亡くし、翌年には夫・信昌にも先立たれた亀姫は、出家して「盛徳院」と号した 14 。そして、わずか7歳で家督を継いだ孫・忠昌の後見役として、奥平家の実権を掌握し、絶大な影響力を行使し始める 22 。
彼女の存在は、奥平家にとって最大の政治的資産であった。亀姫は2代将軍・徳川秀忠の実の姉であり、幕政の中枢に直接働きかけることが可能な、数少ない人物の一人であった 22 。しかし、その強烈な個性と一族への深い愛情は、時に政治的な波乱を巻き起こす両刃の剣でもあった。後に本多正純を失脚に追い込む「宇都宮釣天井事件」は、彼女の存在なくしては起こり得なかった政変であり、奥平忠昌の運命は、この祖母の意向によって大きく翻弄されることとなる 13 。
この事実は、江戸初期の幕府の権力構造が、老中や奉行といった公式の役職体系だけで動いていたわけではないことを示唆している。将軍家との血縁という非公式なネットワーク、とりわけ将軍の姉という亀姫の立場は、時に大名の改易という幕政の根幹を揺るがすほどの力を持ち得た。奥平忠昌の物語は、近世初期における女性の政治力を考察する上でも、極めて示唆に富んだ事例と言えるだろう。
関係 |
氏名 |
忠昌との関係および備考 |
出典 |
曾祖父母 |
徳川家康 |
曾祖父。江戸幕府初代将軍。 |
1 |
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築山殿 |
曾祖母。家康正室。 |
14 |
祖父母 |
奥平信昌 |
祖父。長篠の戦いで武功を挙げ、奥平家隆盛の礎を築く。 |
3 |
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亀姫(加納御前) |
祖母。家康の長女。忠昌の後見人として絶大な影響力を持つ。 |
14 |
父母 |
奥平家昌 |
父。宇都宮藩初代藩主。38歳で急逝。 |
1 |
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法明院 |
母。徳川四天王・本多忠勝の次女。 |
5 |
正室・子女 |
桂岳院 |
正室。出羽山形藩主・鳥居忠政の娘。 |
1 |
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奥平昌能 |
長男。忠昌の跡を継ぐが、家中騒動により減封・転封となる。 |
4 |
徳川将軍家 |
徳川秀忠 |
大叔父(祖母・亀姫の弟)。江戸幕府2代将軍。 |
2 |
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徳川家光 |
又従兄弟。江戸幕府3代将軍。 |
28 |
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徳川家綱 |
4代将軍。忠昌の子・昌能が傅役を務めた。 |
11 |
関連人物 |
本多正純 |
宇都宮釣天井事件で失脚した大名。忠昌の母方の伯父にあたる。 |
25 |
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土井利勝 |
江戸幕府老中。正純失脚の黒幕の一人とされる。 |
25 |
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鳥居忠政 |
岳父(正室の父)。出羽山形藩主。 |
1 |
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山崎左近 |
忠昌の家老。新田開発などで手腕を発揮。 |
32 |
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杉浦右衛門兵衛 |
忠昌の寵臣。忠昌の死後、殉死(追腹)する。 |
4 |
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奥平内蔵允 |
奥平家重臣。興禅寺刃傷事件で刃傷に及び、自刃。 |
4 |
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奥平隼人 |
奥平家重臣。興禅寺刃傷事件の当事者。後に仇討ちで討たれる。 |
4 |
徳川家の外戚という栄光を背負って生まれた忠昌であったが、その幼少期は父の突然の死と、それに伴う幕府の思惑によって、波乱の幕開けとなった。
慶長19年(1614年)10月、大坂冬の陣を目前に控えた緊迫した情勢の中、宇都宮藩主であった父・奥平家昌が病のため38歳の若さで急死する 5 。この予期せぬ事態により、長男の忠昌はわずか7歳(数え年)で家督を相続し、下野宇都宮藩10万石の第2代藩主となった 1 。
幕府もこの幼い藩主の状況を考慮し、父・家昌に命じられていた大坂出兵の免除と、それに代わる江戸城本丸の留守居役という重職を、幼少では務まらないとして免除する措置を取った 1 。しかし、藩政を実際に動かすにはあまりに若く、藩の運営は家老や、そして何よりも後見人である祖母・亀姫の手に委ねられることとなった。
家督相続から5年後の元和5年(1619年)、忠昌は12歳になっていた。この年、幕府は忠昌に対し、1万石を加増して11万石とした上で、下野宇都宮から下総古河(現在の茨城県古河市)への転封を命じた 3 。
この転封の表向きの理由は、宇都宮が日光街道と奥州街道が交差する北関東の軍事的要衝であり、奥羽諸大名への押さえという重要な役割を担っていたため、若年の忠昌には荷が重いという幕府の政治的判断であった 2 。そして、忠昌に代わって宇都宮に入封したのは、徳川家康の側近として権勢を誇った本多正純であった 5 。
この一連の措置は、懲罰的な意味合いを持つものではなく、1万石の加増が伴っていることからも、幕府の論理としては合理的な大名再配置政策の一環であった。幕府は、要衝である宇都宮に経験豊富な重臣の本多正純を配置し、同時に徳川家の血を引く忠昌を、格は下がるものの江戸により近い古河で厚遇するという、一挙両得を狙ったのである。
しかし、この幕府の「合理的な判断」が、思わぬ波紋を広げることになる。後見人である祖母・亀姫の目には、この転封は愛する孫が格下の土地へ追いやられた「左遷」と映った 13 。さらに、その原因を作ったのが、かねてより遺恨のある本多正純であるという事実は、彼女のプライドを深く傷つけ、激しい怒りを燃え上がらせた。幕府が軽視したこの徳川家縁戚の「感情」と「面子」は、やがて正純を失脚へと追い込む巨大な政治的エネルギーへと転化していく。忠昌の古河への転封は、彼自身の意思とは無関係に、次なる政変の序曲となったのである。
奥平忠昌の生涯における最大の転機は、彼が直接関与したわけではない「宇都宮釣天井事件」であった。この事件は、祖母・亀姫の怨念と幕閣の権力闘争が絡み合い、忠昌の運命を再び大きく動かすことになった。
元和8年(1622年)、2代将軍・徳川秀忠は、父・家康の七回忌のため日光東照宮に社参した。その帰路、宇都宮城に宿泊する予定が組まれていた 7 。当時の宇都宮城主は、本多正純。彼は将軍を迎えるべく、城の普請や宿泊所となる御成御殿の造営を進めていた 28 。
ところが、秀忠が日光に滞在中、衝撃的な報せがもたらされる。秀忠の姉であり、奥平忠昌の祖母である亀姫から、「宇都宮城の普請に不備がある」という密告がなされたのである 24 。この密告は、やがて「正純が湯殿に釣天井を仕掛け、将軍を圧殺しようと企んでいる」という、より具体的で衝撃的な噂へと発展した 28 。
この報せを受けた秀忠は、宇都宮城への宿泊を急遽取りやめ、壬生の地を経由して江戸へ帰還した 28 。その後、幕府は正純に対して厳しい追及を開始。釣天井の嫌疑に加え、幕府への届け出なしに城の石垣を修築したことや、鉄砲を無断で購入したことなど、11箇条にも及ぶ罪状が突きつけられた 24 。身に覚えのない正純は潔白を主張したが聞き入れられず、最終的に15万5千石の所領は没収(改易)、自身は出羽国横手へ流罪という厳しい処分が下された 28 。
後世の研究により、宇都宮城に釣天井という仕掛けは存在せず、この話は正純を失脚させるために創作された伝説であったことが定説となっている 28 。
この一大政変の黒幕と囁かれたのが、亀姫であった。彼女が本多正純に対して並々ならぬ怨念を抱いていた理由は、複合的であった。
第一に、最も直接的な動機は、孫・忠昌が宇都宮から格下と見なされた古河へ転封させられ、その跡釜に正純が座ったことへの屈辱と怒りである 13 。第二に、より根深い遺恨として、大久保忠隣の失脚事件があった。亀姫の一人娘は、幕府の重鎮であった大久保忠隣の嫡男・忠常に嫁いでおり、奥平家と大久保家は緊密な姻戚関係にあった。しかし、その忠隣が正純の父・正信の策略によって失脚させられたと亀姫は信じており、本多親子への憎悪を募らせていたのである 13 。
古河への転封が決まった際、亀姫が法度で城に残すべきと定められていた障子や襖、畳、さらには庭の竹木に至るまで根こそぎ持ち去ろうとし、国境で正純の家臣に咎められて返還したという逸話は、真偽は定かでないものの、彼女の正純に対する激しい敵意を象徴している 23 。
ただし、この事件は亀姫の私怨だけで動いたわけではない。当時、家康の死後も権勢を振るう正純を疎ましく思う勢力が幕閣内にも存在した。特に、老中の土井利勝らは反・正純派の筆頭であり、亀姫の密告を好機と捉え、正純を失脚させるための政治工作に利用した可能性が指摘されている 25 。亀姫の個人的な恨みと、幕閣の権力闘争という二つの潮流が合流し、正純を追い詰める巨大なうねりとなったのである。
本多正純の失脚によって空席となった宇都宮藩には、事件からわずか数ヶ月後、古河にいた奥平忠昌が11万石のまま再入封することになった 2 。これはまさに、祖母・亀姫が望んだ通りの結末であった。溜飲を下げた亀姫は、その3年後の寛永2年(1625年)、夫・信昌が治めた加納の地で66年の生涯を閉じた 22 。
この劇的な事件は、後に講談や歌舞伎の格好の題材となり、「宇都宮釣天井事件」として江戸の民衆に広く知れ渡ることになった 28 。忠昌にとって、この宇都宮への復帰は自らの功績によるものではなく、ひとえに祖母の政治力と執念の賜物であった。彼の藩主としてのキャリアが、常に「徳川家の威光」という外部の力学によって強く規定されていたことを、この事件は象徴している。
宇都宮釣天井事件という政変の渦を経て、15歳で再び宇都宮城主となった奥平忠昌は、以後、寛文8年(1668年)に没するまでの46年間、この地を治めることになる。彼の統治は、幕府への奉公という重圧と、藩の内政努力という二つの側面から評価することができる。
宇都宮に再封される前の、わずか2年10ヶ月ほどの古河藩主時代においても、忠昌は注目すべき治績を残している。彼はこの短期間に、古河城の城郭拡張に着手し、新たに長谷曲輪や立崎曲輪を設けた 42 。
さらに重要なのは、城下町の改造である。忠昌は、それまで城下を迂回していた日光街道を城の中心部に取り込むという大規模な町割り(都市計画)を実施した 44 。この時、大工町、石町、江戸町といった町名が新たに名付けられ、これが後の古河宿の骨格を形成した 46 。忠昌が着手したこの町づくりは、後任の永井氏や、特に大老・土井利勝の時代に引き継がれ、古河は日光社参における将軍の重要な宿城として、また渡良瀬川の水運を活かした水陸交通の要衝として、大いに発展していくことになる 44 。若年でありながら、都市計画に長けた手腕を発揮した点は評価に値する。
宇都宮に復帰した忠昌を待ち受けていた最大の責務は、徳川将軍家による日光社参への対応であった。彼の46年間の治世中、江戸時代を通じて行われた全19回の将軍社参のうち、実に13回がこの期間に集中している 9 。
将軍の行列は、随行する大名や家臣団を含め、8代将軍吉宗の例では十数万人にも及ぶ大規模なものであった 49 。その宿泊所となる宇都宮城では、御殿の維持管理や改修、膨大な数の人馬の食料や宿舎の手配、そして最高級の接待が求められた。この対応は、藩にとって名誉な役目である一方、その費用は莫大であり、藩財政に極めて深刻な負担を強いた 19 。忠昌の治世における藩の具体的な財政状況を示す史料(藩債の記録など)は現存しないものの、この度重なる国家的事業への奉仕が、後の奥平家の財政窮乏の大きな原因となったことは想像に難くない 28 。
忠昌は、幕府への奉公という重圧に甘んじるだけではなかった。彼は藩の財政基盤を強化するため、新田開発を積極的に推進した 52 。この政策を主導したのが、家老の山崎左近である。忠昌は左近の指揮の下、水量豊かな鬼怒川から取水し、上野原台地を貫いて周辺の村々を潤す、総延長五里(約20km)余に及ぶ大規模な用水路「市之堀用水」の開削を計画し、実行に移した 32 。
この用水路の完成は、水利に乏しかった地域の農業生産力を飛躍的に向上させた。事実、忠昌の治世末期に近い寛文11年(1671年)の記録によれば、藩領の高根沢地域だけでも百五十七町(約157ヘクタール)を超える大規模な新田が開発され、新たに三百五石余の年貢増収が見込まれていた 55 。この新田開発への注力は、単なる富国策に留まらない。それは、日光社参という避けられない巨額の支出を補填し、藩財政の破綻を防ぐための、必死の経営努力であったと解釈できる。忠昌の治世は、この「社参対応(支出)」と「新田開発(収入増)」という、表裏一体の課題に取り組む日々であった。
忠昌は、父・家昌の代から続く寺社の保護・建立政策も継承した。父・家昌は、浄土宗の浄鏡寺や曹洞宗の台陽寺を建立し、また荒廃していた興禅寺や光琳寺を再建するなど、城下町の精神的な基盤整備に力を注いでいた 19 。これらの寺院は、城を取り囲むように街道沿いに配置され、有事の際には城の防御拠点としての役割も期待されていた 18 。忠昌自身も、寛永年間に那須塩原温泉の元湯が地震で壊滅的な被害を受けた際には、その再興に尽力したと伝えられており、領内のインフラ整備にも意を用いていたことがうかがえる 2 。
忠昌の46年間にわたる宇都宮統治は、派手さはないものの、幕府からの重圧に耐えながら、有能な家臣を登用して着実に領国経営を進めた、堅実なものであったと評価できる。彼は、この長期にわたる統治によって藩に安定をもたらし、次代へと引き継いだ。しかし、その安定の裏側で、次の時代の悲劇の種が静かに育まれていたことを、彼自身は知る由もなかった。
46年という長きにわたる奥平忠昌の治世は、寛文8年(1668年)の彼の死をもって、突如として終わりを告げる。そして、彼の死は、長期政権の下で隠されていた藩の歪みを一気に噴出させ、奥平家を未曾有の危機へと陥れる引き金となった。
寛文8年(1668年)2月19日、奥平忠昌は江戸汐留の藩邸にて61年の生涯を閉じた 4 。家督は、正室・桂岳院との間に生まれた長男の奥平昌能(まさよし)が36歳で継承した 11 。昌能は、徳川家康の玄孫という高貴な血筋から、若くして4代将軍・徳川家綱の傅役(教育係)に任じられるなど、幕府内では将来を嘱望される存在であった 11 。
しかし、その実像は幕府の期待とはかけ離れていた。昌能は粗暴な性格で知られ、家中では「荒大膳(あらだいぜん)」と陰で呼ばれるほどであり、藩主としての器量や人望に著しく欠けていたとされる 4 。この後継者の資質の問題が、忠昌の死後に続発する騒動の根本的な原因となる。
最初の事件は、忠昌の死の直後に起こった。新藩主となった昌能は、父・忠昌が深く寵愛していた家臣・杉浦右衛門兵衛に対して、「いまだ生きているのか」と詰問したのである 4 。これは、主君の死に際して家臣が後を追って切腹する「追腹(おいばら)」、すなわち殉死を暗に強要する言葉であった。主筋からの無言の圧力に、杉浦はただちに切腹して果てた 4 。
しかし、この行為は致命的な過ちであった。当時、幕府は戦国の遺風を改め、文治政治への転換を進めており、その一環として寛文3年(1663年)、殉死禁止令を口頭で発令していた 4 。殉死者を出した家の当主は、それを止めなかったとして厳しく罰せられることになっていた。昌能の行為は、この幕府の基本方針に対する公然たる挑戦と見なされた。この「追腹一件」は、後に奥平家が幕府から厳しい処分を受ける直接的な原因の一つとなった 10 。
悲劇は続く。忠昌の二十七日忌の法要が城下の菩提寺・興禅寺で営まれた際、さらなる事件が勃発した。奥平家の重臣である奥平内蔵允(くらのじょう)と奥平隼人(はやと)が、法要の席での些細な作法をめぐって口論となり、激高した内蔵允が隼人に斬りかかるという刃傷沙汰に及んだのである 4 。
この前代未聞の不祥事に対する藩の裁定において、藩主・昌能の未熟さが露呈する。彼は、かねてより親しかった隼人に肩入れし、「喧嘩両成敗」という武家の慣習を無視して、内蔵允の一族にのみ厳しい処分を下し、隼人を事実上不問とした 4 。この不公平な裁定は、藩内に深刻な亀裂を生んだ。
内蔵允の遺児・源八は、この裁定を不服として、40名以上の家臣と共に脱藩。父の仇である隼人の行方を追い続けた。そして4年後の寛文12年(1672年)、ついに江戸牛込の浄瑠璃坂で隼人一行を襲撃し、本懐を遂げた 19 。この事件は「浄瑠璃坂の仇討」として、後に赤穂浪士の討ち入りにも影響を与えたと言われ、江戸の三大仇討ちの一つに数えられている。
藩主の死の直後に起きた、国禁である殉死と、家中を分裂させる刃傷事件および仇討。この一連の騒動は、奥平家の統治能力の欠如を幕府に強く印象づけた。
その結果、寛文8年(1668年)8月、幕府は奥平家に対して厳しい処分を下す。石高を2万石削減して9万石とし、宇都宮の地を取り上げて出羽山形へ転封を命じたのである 4 。昌能が将軍・家綱の傅役であったことから改易という最悪の事態は免れたものの、これは名門奥平家にとって屈辱的な懲罰であった 11 。
忠昌の死が、なぜこれほど短期間に藩の崩壊を招いたのか。それは単に後継者・昌能の個人的な資質の問題だけでは説明できない。忠昌の46年という長期政権は、藩内に安定をもたらした反面、世代交代の遅れと権力の硬直化を生んでいた可能性がある。忠昌の時代に権勢を振るった寵臣たちと、新藩主・昌能を中心とする新世代との間に潜在的な対立があったことは、昌能が父の寵臣・杉浦に放った一言からも推察される。また、幕府が文治政治へと舵を切る時代の変化を、奥平家の家臣団が共有できていなかったことも、追腹という旧弊に固執した悲劇を生んだ。忠昌の安定した治世が、皮肉にも、次世代が新たな時代に適応する機会を奪い、彼の死をきっかけに、その矛盾が一気に噴出したのである。
奥平忠昌の生涯は、徳川幕府の支配体制が盤石になっていく過渡期における、名門譜代大名の栄光と苦悩を凝縮したものであった。
彼の栄光は、何よりもその血筋に由来する。徳川家康の曾孫という出自は、彼に幼くして10万石の大藩を継がせ、宇都宮釣天井事件という政変においては、祖母・亀姫の政治力によって要衝・宇都宮への劇的な復帰を可能にした 1 。彼の人生は、常に徳川の威光という強大な追い風に支えられていた。藩主としての彼は、決して華々しい英雄ではなかったが、46年間にわたり宇都宮を統治し、古河と宇都宮で城下町の整備を進め、家臣の山崎左近を登用して新田開発を着実に実行するなど、堅実な領国経営を行った優れた行政官であった 9 。
一方で、彼の生涯には悲劇の影も色濃く付きまとう。将軍家縁戚という立場は、頻繁な日光社参の対応という、藩財政を著しく圧迫する重い責務を彼に課した 50 。そして、彼の46年という長期にわたる安定した治世は、皮肉にも、その死後に深刻な悲劇を引き起こす土壌を育んでいた。後継者・昌能の器量不足と、長期政権下で硬直化した家臣団の内部対立は、忠昌の死をきっかけに「追腹一件」や「興禅寺刃傷事件」といった騒動として一気に噴出。その結果、奥平家は減封・転封という凋落の道を辿ることになった 4 。
総括すれば、奥平忠昌は、江戸幕府の体制が「武」から「文」へと移行する時代の転換点に立ち、将軍家縁戚という特別な立場と、譜代大名としての普遍的な課題との狭間で、その生涯を全うした人物である。彼の人生は、血筋という「生まれ」が絶対的な力を持った時代の栄光と、それだけでは家の安泰を盤石にすることはできないという、近世武家社会の厳しさの両面を我々に示している。彼は、自らの治世で安定の礎を築きながらも、結果として次代の混乱の種を蒔いてしまった、複雑で多面的な評価を要する大名であったと結論づけられる。