日本の歴史上、最も激しい社会変動期であった戦国時代から江戸時代初期にかけて、数多の武士が時代の荒波に翻弄され、その家名と運命を大きく揺さぶられた。本報告書で詳述する孕石元成(はらみいし もとしげ)もまた、そうした激動の時代を生きた一人である。彼の生涯は、仕えた主家である今川、そして武田という二大戦国大名の相次ぐ滅亡によって、一度は浪々の身にまで落ちぶれるという逆境から始まる 1 。しかし、彼はそこから不屈の精神と武才をもって再起し、最終的には土佐藩の藩主山内家の上級藩士として確固たる地位を築き上げ、その家名を後世にまで繋いだ 1 。
元成の人生は、単なる立身出世の物語にとどまらない。その背景には、父・孕石元泰が徳川家康との長年の確執の末に非業の死を遂げるという、個人的な悲劇が存在した 2 。父の死という重い宿命を背負いながら、仇敵ともいえる家康が天下人となっていく時代をいかにして生き抜き、新たな主君のもとでいかにして信頼を勝ち得ていったのか。その軌跡は、戦国末期から近世初期への移行期を生きた武士の生存戦略、武勇、そして忠誠のあり方を考察する上で、極めて示唆に富む事例である。
本報告書は、これまで断片的にしか語られてこなかった孕石元成の生涯について、『御侍中先祖書系圖牒』などの一次史料や関連する歴史記録を丹念に繋ぎ合わせることで、その全体像を立体的に再構築することを目的とする。一族の出自から、父・元泰の生涯と死、元成自身の浪人時代、そして新天地・土佐での成功と彼が遺した影響に至るまでを詳細に分析し、一人の武士の非凡な生涯を浮き彫りにする。
孕石元成の生涯を理解するためには、まず彼が属した孕石一族の出自と、その社会的基盤について把握する必要がある。孕石氏は、遠江国(現在の静岡県西部)に根を張る、由緒ある武士団であった。
孕石氏のルーツは、藤原南家工藤氏の流れを汲む遠江の名族、原氏の庶流にあるとされている 1 。その始祖は原小六忠高といい、永享11年(1439年)に勃発した永享の乱において、室町幕府6代将軍・足利義教に従い、関東公方・足利持氏の追討に戦功を立てたと伝えられる 3 。この功により、忠高は遠江国原田荘内にある孕石村(現在の静岡県掛川市孕石)を賜り、その地名をもって「孕石」を名乗ったのが始まりとされる 3 。
この出自は、孕石氏が単なる在地の土豪ではなく、室町幕府の権威を背景に所領を得た、格式の高い家柄であったことを示している。一族の本拠地は、その名の由来となった孕石村に置かれ、孕石城あるいは居館を構えていたと推定されるが、宅地化や茶畑への改変が進んだため、今日その明確な遺構を特定することは困難である 5 。この地域には、現在も子宝や安産の神徳で知られる孕石天神社が鎮座しており、地名と一族の歴史を今に伝えている 7 。
室町時代を通じて遠江に勢力を扶植した孕石氏は、戦国時代に入ると、駿河・遠江の守護大名であった今川氏の家臣として歴史の表舞台に登場する。元成の祖父にあたる孕石行重の代には、すでに今川家の被官となっていた記録が残る 2 。
さらに、元成の曽祖父にあたる孕石光尚の代には、その地位を一層強固なものとした。光尚の名は、大永6年(1526年)の文献に現れ、天文年間(1532年~1555年)には今川氏の本拠地である駿府に屋敷を構えることを許されるほどの有力家臣となっていた 5 。これは、孕石氏が遠江における在地領主という側面だけでなく、主君の膝元である駿府に出仕し、今川氏の中央政権にも深く関与する存在であったことを物語っている。この駿府の屋敷の存在こそが、後に一族の運命を大きく左右する、徳川家康との因縁が生まれる舞台となったのである。
孕石元成の人生を語る上で、父・孕石元泰の存在は決定的に重要である。元泰の生き様と、その壮絶な最期が、息子である元成のその後の人生航路を大きく規定することになった。
孕石元泰は、通称を主水(もんど)といい、今川氏の全盛期を築いた当主・今川義元から諱の一字「元」を拝領するなど、今川家において重用された武将であった 2 。しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると、今川家の威勢は急速に衰退する。
永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄が駿河への侵攻を開始すると(駿河侵攻)、元泰は没落しつつあった今川氏真を見限り、武田氏に帰属した 2 。これは、同じく今川家の重臣であった朝比奈信置や岡部元信らと同様の動きであり、自らの家を存続させるための、戦国武将としての現実的な選択であった。武田氏に仕えた元泰は、駿河先方衆の一人として、蒲原城攻めなどで武功を挙げ、信玄から感状を賜っている 2 。また、駿河国藤枝郷(現在の藤枝市)に知行地を与えられ、領内の市を立てたり、堤を再興したりするなど、軍事のみならず民政においてもその手腕を発揮した 2 。
武田信玄の死後、その子・勝頼の代になっても元泰は武田家に仕え続けた。天正7年(1579年)、彼は武田氏にとっての対徳川政策における最前線拠点、遠江国の高天神城に武者奉行として在番を命じられる 2 。
しかし、この高天神城は徳川家康による執拗な包囲と兵糧攻めに遭い、天正9年(1581年)3月22日、ついに落城する(第二次高天神城の戦い)。城主の岡部元信をはじめとする多くの将兵が討死する中、元泰は不覚にも徳川方に生け捕りにされてしまった 2 。そして翌23日、元泰は降伏者の中でただ一人、家康から切腹を命じられるという異例の措置を受けた 2 。
この不可解ともいえる厳しい処置の背景には、家康が抱いていた元泰に対する積年の遺恨があったと、『三河物語』や松平家忠の『家忠日記』は伝えている。
家康がまだ竹千代と名乗り、今川家の人質として駿府で暮らしていた頃、その屋敷は孕石元泰の屋敷と隣接していた 2 。鷹狩りを好んだ若き日の家康は、しばしば屋敷の周辺で鷹を放ったが、その鷹が獲物や糞を隣の元泰の屋敷に落とすことが度々あったという 2 。
その都度、元泰は家康に対して厳しい態度で苦情を申し立て、「人質の分際で鷹狩りに興じるとはけしからん」と、人前で憚ることなく叱責したと伝えられる 3 。人質という屈辱的な境遇にあった家康にとって、この元泰からの叱責は耐え難い侮辱であり、その恨みを深く心に刻み込んだ。
それから二十数年の歳月が流れた。かつての人質の少年は三河の戦国大名として独立し、今や武田方の重要拠点を陥落させるほどの勢力を持つに至っていた。高天神城で元泰を捕らえた家康は、若き日の屈辱を忘れてはいなかった。降伏した将兵のほとんどが赦された中で、元泰一人に切腹が命じられたのは、この個人的な遺恨に基づく報復であったとされている 2 。
父・元泰の死は、単なる戦場での討死ではなかった。それは、天下人へと歩みを進める家康の個人的な感情が、政治的・軍事的な決定に直結した結果であった。この出来事は、当時まだ若かった息子の元成の人生に、拭い去ることのできない影を落とし、彼を「父の仇」ともいえる家康が支配する世界の中で、主家を失った浪人として生き抜くことを強いる、決定的な原体験となったのである。伝えられるところによれば、元泰は切腹の際、極楽浄土があるとされる西方ではなく、敢えて南を向いて腹を切り、最後の意地を示したという 2 。
父・元泰の非業の死からわずか1年後の天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍の侵攻によって、元成が仕えていた武田家が滅亡する。これにより、彼は仕えるべき主家を完全に失い、先の見えない浪人生活へと突き落とされた 1 。
武田家滅亡後、その旧臣たちの多くは、甲斐・信濃を新たに領した徳川家康に召し抱えられた 9 。特に、天正壬午の乱を経て武田遺臣団を吸収したことは、後の徳川家の軍事力を大きく強化する要因となった。しかし、元成にとって徳川家に仕えるという選択肢は、父・元泰と家康との間の根深い確執を考えれば、事実上閉ざされていた。
他の武田遺臣の中には、北条氏や上杉氏といった他の大名を頼る者、あるいは帰農して潜伏する者もいた 9 。元成が武田家滅亡から再起を果たすまでの約8年間の動向は、史料に乏しく判然としない。しかし、後に彼が同じ武田旧臣の板垣正信らと行動を共にしていることから、この間、同じ境遇にあった旧臣たちと連携を取りながら、再起の機会を窺っていた可能性が考えられる 1 。
元成の人生に大きな転機が訪れたのは、天正18年(1590年)のことであった。天下統一の総仕上げとして、豊臣秀吉が関東の北条氏を討つべく、20万を超える大軍を動員した小田原征伐が勃発したのである 12 。この大規模な戦は、主家を失い、自らの武勇を披露する場を求めていた全国の浪人武者たちにとって、新たな仕官先を見つけるための絶好の機会であった。
元成はこの好機を逃さなかった。彼は、同じく武田旧臣であった板垣正信らと共に、豊臣方としてこの戦に「陣借り」という形で参陣し、奮戦した 1 。これは単なる行き当たりばったりの行動ではなく、自らの市場価値を最大化するための戦略的な自己投資であったといえる。
特に注目すべきは、彼が「井伊直政に従い」戦ったという記録である 3 。徳川四天王の一人である井伊直政が率いる部隊、通称「井伊の赤備え」は、家康が召し抱えた武田の旧臣を中核として編成され、武田流の軍制を色濃く受け継いだ精鋭部隊であった 15 。元・武田家臣である元成が、同じ境遇の者たちが集うこの井伊隊に身を寄せたのは、自身の経歴と武勇を最も効果的にアピールできる場を的確に選んだ、極めて合理的な判断であったと推察される。井伊隊は小田原攻めにおいて、唯一ともいわれる城内への夜襲を敢行し成功させるなど、目覚ましい武功を挙げており 17 、元成もその中で自らの存在価値を証明したに違いない。
小田原での奮戦は、一人の武将の目に留まることとなった。当時、遠江国掛川城主であった山内一豊である 1 。一豊自身、父を失い、長く浪人生活を送った経験から、家柄や出自よりも実力を重んじる人材登用方針を持っていた 20 。彼は、元成が持つ「旧武田家臣」という武勇のブランドと、小田原の役という実戦で証明された能力を高く評価したと考えられる。
また、一豊の居城が元成の故郷である遠江の掛川であったという地縁も、両者を結びつける上で有利に働いたであろう。同年、元成は山内一豊に200石で召し抱えられ、藩主の伝令などを務める格式の高い「御使母衣(おつかいほろ)」衆の一員に加えられた 1 。これは、父の死から10年近くに及んだ苦難の浪人生活の末に、元成が自らの力で掴み取った大きな成功であった。
西暦 |
和暦 |
元成の年齢 (数え) |
孕石元成の動向・出来事 |
関連する日本の歴史上の出来事 |
1563年 |
永禄6年 |
1歳 |
孕石元泰の嫡子として誕生 1 。 |
- |
1568年 |
永禄11年 |
6歳 |
父・元泰が今川氏を離反し、武田氏に仕える 2 。 |
武田信玄による駿河侵攻 |
1581年 |
天正9年 |
19歳 |
父・元泰が第二次高天神城の戦いで捕らえられ、切腹 2 。 |
第二次高天神城の戦い |
1582年 |
天正10年 |
20歳 |
武田家が滅亡し、浪人となる 1 。 |
本能寺の変、天正壬午の乱 |
1590年 |
天正18年 |
28歳 |
小田原征伐で奮戦し、山内一豊に200石で仕官 1 。 |
豊臣秀吉による天下統一 |
1601年 |
慶長6年 |
39歳 |
主君・一豊の土佐入国に従い、450石に加増される 1 。 |
関ヶ原の戦い(前年) |
1619年 |
元和5年 |
57歳 |
山内忠豊の傅役を拝命し、200石を加増され計650石となる 1 。 |
大坂夏の陣(4年前) |
1632年 |
寛永9年 |
70歳 |
8月3日、土佐にて死去 1 。 |
- |
山内一豊への仕官は、孕石元成の人生における第二の、そして最も重要な幕開けであった。彼は掛川藩士として新たなキャリアをスタートさせ、やがて主君と共に新天地・土佐へと渡り、そこで家臣として最高位の栄誉を得るに至る。
掛川城主・山内一豊に200石で召し抱えられた元成は、その期待に応えるべく忠勤に励んだ。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。この戦における功績(「掛川城の提供」など)により、主君・一豊は戦後、土佐一国二十四万石(実質)の大名へと大出世を遂げる。
この主君の栄転に伴い、元成もまたその運命を大きく変えることになった。一豊が土佐に入国するにあたり、元成はこれまでの功績を高く評価され、知行を倍増以上の450石へと加増された上で、一豊に従って土佐へと渡った 1 。この大幅な加増は、掛川時代のおよそ10年間で、元成が単なる武勇に優れた武士としてだけでなく、一豊にとって不可欠な信頼できる家臣としての地位を確立していたことを明確に示している。
元成の成功は、土佐においてさらに飛躍を遂げる。彼の価値は、単なる武功や行政能力に留まるものではなかった。元和5年(1619年)、二代藩主・山内忠義は、自らの嫡子であり、後の三代藩主となる忠豊の傅役(ふやく、教育係)という大役を元成に命じた 1 。傅役は、藩の次世代を担う後継者の人格形成と教育の全てを委ねられる役職であり、武勇や才覚はもとより、高い人格と主君からの絶大な信頼がなければ務まらない、家臣として最高の名誉の一つであった。
この大任を拝命したことにより、元成はさらに200石を加増され、最終的な知行は650石に達した 1 。浪人の身からわずか30年足らずで、大藩の上級藩士へと上り詰めたのである。
さらに、元成が一豊から寄せられていた信頼の厚さを示す逸話として、影武者の話が伝わっている。土佐入国当初、土佐は旧領主である長宗我部氏の家臣たちによる一揆が頻発し、不穏な情勢にあった 22 。身の危険を感じた一豊は、自分と背格好の似た5人の影武者を常に伴って行動していたとされ、元成はその影武者の一人を務めたという 21 。主君の命を守るため、自らが矢面に立つこの役割は、両者の間に極めて強い信頼関係があったことの証左といえる。元成は、戦国武将としての「武」と、近世武士に求められる「忠」を両立させることで、その地位を盤石なものとしたのである。
寛永9年(1632年)8月3日、元成は波乱に満ちた生涯を土佐の地で閉じた。享年70 1 。その墓所は、高知市の筆山に現存する。注目すべきことに、その墓所内には、遠江・高天神城で非業の死を遂げた父・元泰を祀るための碑も建てられている 23 。父の無念の死を乗り越え、新天地で大成を遂げた元成が、終生父の慰霊を大切にしていたことが窺える。彼の土佐における所領は、安喜村、黒岩村、山田村など、複数の村にまたがっていた記録が残っている 1 。
時期(和暦) |
主君 |
役職・格式 |
知行(石高) |
備考 |
天正18年 (1590) |
山内一豊 |
御使母衣 |
200石 |
小田原征伐の功により掛川にて召し抱えられる 1 。 |
慶長6年 (1601) |
山内一豊 |
(不詳) |
450石 |
一豊の土佐入国に伴い加増 1 。 |
元和5年 (1619) |
山内忠義 |
忠豊傅役 |
650石 |
藩主嫡子・忠豊の傅役拝命に伴い200石を加増 1 。 |
孕石元成の最大の功績は、単に一代で立身出世を遂げたことだけでなく、その家名を土佐藩の永続的な権力構造の一部として組み込み、後世にまで続く確固たる礎を築いた点にある。
元成には実子がいなかった。そのため、彼は木部藤兵衛の次男であった内蔵助正元を養子として迎え、家督を継がせた 1 。木部氏の詳しい出自は不明だが、土佐藩内の他の家臣との縁組を通じて、藩内における自家の安泰と存続を図ったものと考えられる。これは、武家社会において、血統そのものよりも「家」(家名、家格、知行)を永続させることがいかに重要視されていたかを示す好例である。元成は、自らの手で再興した孕石家を、血の繋がりを超えて次代へと託したのである。
元成が築いた礎の上で、孕石家は土佐藩においてさらなる発展を遂げる。元成の孫にあたる孕石元政(養子・正元の子)は、その才覚を認められ、藩の最高職の一つである家老にまで昇進した 25 。
元政は、土佐藩の歴史における一大事件として知られる「寛文の改替」において、中心的な役割を果たした人物である。寛文3年(1663年)、彼は藩政改革を強力に推し進めていた執政・野中兼山の失脚を画策し、これを成功させた 25 。この出来事は、孕石家が単なる上級藩士に留まらず、藩の政治の中枢を担い、その歴史を動かすほどの影響力を持つ一族として確立したことを示している。元成が浪人の身から一代で築き上げた家は、孫の代には藩政を左右するほどの権勢を誇るに至ったのである。
孕石元泰
┃
孕石元成
∥ (養子)
孕石正元 (実父:木部藤兵衛)
┃
孕石元政 (土佐藩家老)
土佐藩における孕石家の重要性は、彼らが残した記録からも窺い知ることができる。元政が著した『孕石家家記』や、一族の記録をまとめた『孕石家秘録』といった文献は、土佐藩初期の政治史や上級武士の生活実態を知る上で、今日極めて貴重な史料として扱われている 1 。
さらに、孕石一族の名は、思わぬ形で文化史にその痕跡を残している。怪談として有名な「番町皿屋敷」の類話が、井伊家の城下町である彦根にも伝わっており、その物語に登場する主家の名が「孕石家」なのである 27 。これは土佐の孕石家とは直接の関係はない可能性が高い。しかし、元成の父・元泰の弟である孕石泰時は、武田家滅亡後に徳川家に仕え、井伊直政付きの家老となっている 2 。また、元成自身も小田原で井伊隊に属した可能性が高い。これらの事実から、井伊家とその周辺に「孕石」という姓を持つ一族が存在し、その名が何らかの形で民衆の記憶に残り、伝説に取り込まれていった可能性が考えられる。これは、歴史上の人物や一族の名が、公式の記録とは別に、民間の伝承や物語としていかに変容し、再生産されていくかを示す興味深い事例といえるだろう。
孕石元成の生涯は、父の代から続く逆境を、自らの武勇と時流を読む知性、そして新たな主君への揺るぎない忠誠によって乗り越え、道を切り拓いた一人の武士の力強い物語である。彼は、今川、武田という二つの巨大勢力の滅亡という、抗いようのない時代のうねりの中で一度は全てを失いながらも、決して屈することなく再起の機会を掴み取った。
彼の人生は、戦国時代の「実力主義」と、江戸時代の「忠誠と家格」という、二つの異なる時代の価値観が交錯する移行期を象徴している。滅びゆく主家に見切りをつけて新たな覇者に従うという戦国的な判断力(父・元泰)と、一度仕えた主君には命を懸けて忠誠を尽くし、その家の安泰と発展に貢献するという近世的な武士道(元成本人)の両方を、その父子二代の物語の中に見ることができる。
小田原征伐という天下統一の最終局面で自らの価値を証明し、山内一豊という新たな主君を得てからは、その信頼に全身全霊で応え、藩の後継者の教育係という最高の栄誉を得るに至った。そして、血の繋がりを超えて家を存続させ、孫の代には藩の歴史を動かすほどの有力な家系へと発展させた。孕石元成は、激動の時代をしなやかに、そして力強く生き抜いた数多の武士たちの、非凡な生涯を代弁する存在として、現代に多くの示唆を与えてくれるのである。