最終更新日 2025-07-21

宇喜多能家

宇喜多能家は浦上氏の忠臣で、知略と武勇に優れた。通説の死因は創作で、赤松晴政による攻撃が有力。孫・直家の礎を築いた真の功労者。

備前の忠勇なる礎石―宇喜多能家の実像と伝説

付属資料:宇喜多能家 関連年表

年代(西暦)

元号

主要な出来事

関連人物

1469年

文明元年

『西大寺文書』に「宇喜多五郎右衛門入道宝昌」の名が見え、宇喜多氏が史料に初出する。

宇喜多宝昌

1492年頃

延徳4年頃

宇喜多久家(能家の父)が、周辺への勢力拡大を活発化させる。

宇喜多久家

1497年

明応6年

竜ノ口山の戦い。浦上宗助が松田元藤に包囲されるも、宇喜多能家の奇策により救出される。

宇喜多能家、浦上宗助、松田元藤

1520年

永正17年

飯岡原の戦い。能家が浦上村宗の援軍として赤松義村軍を破り、主家の優位を固める。

宇喜多能家、浦上村宗、赤松義村

1531年

享禄4年

大物崩れ。浦上村宗が細川高国と共に戦死。赤松晴政(政村)が裏切る。

浦上村宗、赤松晴政

1534年

天文3年

宇喜多能家、死去。 通説では島村盛実に砥石城を攻められ自害。有力説では赤松晴政の攻撃による落城。

宇喜多能家 、赤松晴政

1543年

天文12年

宇喜多直家が浦上宗景に仕え、初陣を飾る。

宇喜多直家、浦上宗景

1551年頃

天文20年頃

浦上政宗(兄)と宗景(弟)が尼子氏への対応を巡り対立。備前国内が二分される。

浦上政宗、浦上宗景

1559年

永禄2年

直家が岳父・中山勝政を謀殺。通説ではこの年に祖父の仇・島村盛実も謀殺したとされる。

宇喜多直家

1564年

永禄7年

浦上政宗が赤松政秀の奇襲を受け、子と共に戦死。

浦上政宗、赤松政秀


序章:伝説の忠臣、宇喜多能家―通説とその向こう側

戦国時代の備前国にその名を刻んだ武将、宇喜多能家(うきた よしいえ)。彼の人物像は、長らく一つの物語として語り継がれてきた。すなわち、備前の守護代・浦上氏の則宗、宗助、村宗の三代にわたり忠節を尽くし、知略と武勇をもって主家の危機を幾度も救った名将。しかし、その輝かしい功績とは裏腹に、最後は同僚であった島村盛実の奸計にかかり、居城の砥石城(といしじょう)を急襲され、非業の自害を遂げた悲劇の忠臣、という物語である 1

この物語は、能家の孫とされる宇喜多直家の「梟雄」としての立身出世譚と不可分の関係にある。祖父を無念の死に追いやった仇敵を、孫の直家が長じて後に見事討ち果たすという劇的な筋書きは、直家の謀略に満ちた生涯に「復讐」という大義名分を与え、その人物像に深みと共感をもたらしてきた 2 。この通説は、江戸時代中期に成立した軍記物『備前軍記』などを源流とし、長年にわたり多くの人々に受け入れられてきた。

しかし、近年の歴史学の進展、特に同時代の一次史料に対する精密な分析は、この広く知られた能家像に大きな疑問符を投げかけている。そもそも、能家を死に追いやったとされる「島村盛実」なる人物は実在したのか。能家の死の真相は、本当に同僚の裏切りによるものだったのか。そして、能家から直家へと至る宇喜多氏の系譜は、確かなものと言えるのか。これらの問いに対する答えは、通説が描く単純な善悪二元論の物語とは大きく異なる、より複雑で多層的な歴史の姿を我々に示してくれる 4

本報告書は、こうした最新の研究成果に基づき、伝説のベールに包まれた宇喜多能家という人物の実像に迫ることを目的とする。まず、宇喜多氏が備前の地にいかにして根を張り、その権力基盤を築いたのかを明らかにする。次に、浦上家臣としての能家の確かな功績を再検証し、その武将としての特質を分析する。そして、本報告書の核心部分として、能家の最期をめぐる謎、すなわち「島村盛実」の幻影を史料批判によって解体し、その死の政治的背景を探る。最後に、能家が孫・直家に遺した真の遺産とは何だったのかを考察し、戦国大名・宇喜多氏の礎を築いた人物としての能家を再評価する。これは、通説の向こう側にある、より確かな歴史の姿を追求する試みである。

第一章:宇喜多氏の黎明―備前における基盤形成

宇喜多能家の活躍を理解するためには、まず彼が属した宇喜多氏が、いかにして備前国に勢力を築き上げたのかを知る必要がある。宇喜多氏の台頭は、単なる武力によるものではなく、地政学的・経済的優位性を巧みに利用した、戦略的な基盤形成の賜物であった。

1-1. 史料に見る宇喜多氏の初出

宇喜多氏の名が、信頼性の高い一次史料に初めて登場するのは、文明元年(1469年)に遡る。備前国の古刹・西大寺に伝わる古文書群、いわゆる『西大寺文書』の中に、「宇喜多五郎右衛門入道宝昌」なる人物が土地を寄進したことを記す寄進状が残されているのである 6 。この宝昌こそが、史料上で確認できる宇喜多氏の最も古い祖先とされ、宇喜多氏研究における確かな出発点となっている 8

この文書によれば、当時の宇喜多氏は備前国東部の金岡東庄(現在の岡山市西大寺一帯)や邑久郷(現在の岡山市東区から瀬戸内市邑久町一帯)を経済的基盤としていたことが示唆される 6 。この地域は、宇喜多氏のその後の発展を考える上で、極めて重要な意味を持っていた。

1-2. 能家の父・久家の時代

能家の父とされる宇喜多久家(ひさいえ)の時代になると、宇喜多氏の勢力拡大はより積極的なものとなる 10 。久家は、父・宗家の恭順な姿勢から一転し、周辺地域への影響力を強めていった。『西大寺文書』には、宇喜多氏の一族が代官として金岡西庄へ進出した記録が残されており、久家が周辺領主からもその地位を承認される存在であったことが窺える 9

ここで特筆すべきは、宇喜多氏がその権力基盤を築き上げる上で、軍事力以上に経済力を重視していた点である。彼らの本拠地であった金岡東庄は、吉井川の下流域に位置していた。これは、美作国で産出される豊富な木材などの物資が、吉井川の水運を利用して運ばれる際の最終拠点、すなわち物流の結節点を押さえていたことを意味する 9

さらに、彼らの勢力圏は瀬戸内海に面しており、海上交通を通じた各地との交易にも極めて有利な立地であった。近隣には西大寺や福岡の市(いち)といった商業の中心地も存在し、宇喜多氏はこれらの商業・流通活動から莫大な利益を得ていたと推測される。久家は、こうして蓄積した潤沢な資金を元手に、周辺の土地を次々と購入し、自らの所領を着実に拡大していったのである 9

したがって、宇喜多能家が父・久家から継承したのは、単なる武士団や所領だけではなかった。それは、河川交通と海上交通、そして商業という経済の動脈を掌握することによって築かれた、強固で豊かな経済的権力体そのものであった。この経済力こそが、後に能家が主家のために軍事行動を起こし、数々の武功を挙げるための揺るぎない礎となったのである。

第二章:浦上家の柱石―主家を支えた武功の数々

経済的基盤を固めた宇喜多氏は、能家の代になると、備前・播磨・美作の守護代であった浦上氏の家臣として、その軍事的能力を遺憾なく発揮する。能家の活躍は、単なる一介の武将の武勇伝にとどまらない。それは、主家の存亡を左右する重要な局面で、類稀なる知略と戦術的センスによって勝利をもたらした、真の「知勇兼備」の将としての記録である。

2-1. 守護代・浦上氏の忠臣として

能家が生きた時代、備前周辺の政治情勢は複雑を極めていた。名目上の支配者である守護・赤松氏の権威は衰え、その下で守護代を務める浦上氏が実質的な権力を掌握しつつあった 12 。しかし、その浦上氏も一枚岩ではなく、赤松氏との関係や一族内部の路線対立など、常に不安定な要素を抱えていた。能家は、この激動の時代にあって、浦上則宗、そしてその子である村宗といった主君に仕え、浦上氏の勢力拡大と安定に大きく貢献した 1

2-2. 「知勇兼備」の具体的な功績

軍記物には、能家の「知勇」を物語る具体的な戦功がいくつか記録されている。これらは後世の脚色を含む可能性を考慮する必要があるものの、彼の武将としての特質を鮮やかに描き出している。

その代表例が、明応6年(1497年)の 竜ノ口山の救出劇 である。この時、能家の主君の一人であった浦上宗助が、備前西部の有力国人・松田元藤の軍勢に富山城で敗れ、竜ノ口山(現在の岡山市中区・北区)に追い詰められ、包囲されるという絶体絶命の危機に陥った。兵糧も尽きかけ、宗助軍の士気は地に落ちていた。この窮地に際し、能家は正面からの武力衝突という愚を犯さなかった。『備前軍記』によれば、彼はわずか60名ほどの兵を農民に変装させると、夜陰に乗じて包囲軍の背後にある村々に潜入させ、一斉に放火させたという 9

予期せぬ場所からの火の手と混乱に、松田軍は大いに動揺し、自陣の守りを固めるために包囲を緩めざるを得なくなった。能家はこの隙を逃さず、手勢を率いて突入し、見事、宗助を救出したのである。これは、大軍に対して寡兵で挑む際に、直接的な戦闘を避け、陽動と奇襲という非対称的な戦術を用いて敵の心理的弱点を突く、能家の戦術的思考を見事に示す逸話である。

さらに、主君・浦上村宗が、主家である赤松氏の当主・赤松義村と対立した際にも、能家の活躍は目覚ましい。永正17年(1520年)、村宗に反旗を翻した義村を討つため、能家は村宗の援軍として出陣。 飯岡原の戦い (現在の岡山県美咲町)において赤松軍を撃破し、主家の優位を決定づけた 9 。また、別の局面では、主君が敗走し、配下の兵たちが逃亡しようとする中で、能家が兵たちを叱咤激励し、城を死守させたという記録も残っている 9 。これは、彼の戦術眼だけでなく、人心を掌握し、危機的状況下で組織をまとめ上げる高いリーダーシップをも兼ね備えていたことを示している。

これらの功績を分析すると、能家の「知勇」の本質が浮かび上がってくる。それは、単なる個人的な武勇や、大軍を率いる指揮能力だけを指すのではない。むしろ、敵と味方の戦力差、地理的条件、そして兵士たちの心理状態を的確に把握し、最小限の犠牲で最大限の効果を上げるための最適な「解」を導き出す、高度な戦略的思考能力であった。力と力が正面からぶつかり合うのではなく、知恵と心理操作を駆使して勝利を手繰り寄せるその戦い方は、後に「謀将」「梟雄」と評されることになる孫・直家の権謀術数を多用した戦術の源流と見ることができる。能家の「知」は、直家の「謀」の原型であり、宇喜多氏の躍進を支える軍事思想の根幹を形成したと言っても過言ではないだろう。

第三章:「島村盛実」の幻影―能家の最期をめぐる謎

宇喜多能家の生涯において、最も劇的で、かつ最も謎に包まれているのが、その最期である。浦上家への忠節を貫いた名将が、同僚の裏切りによって非業の死を遂げるという物語は、長らく人々の心を捉えてきた。しかし、史料を丹念に読み解くとき、この通説は砂上の楼閣のように崩れ去り、その背後には全く異なる歴史の真相が姿を現す。

3-1. 通説の検証:「同僚の裏切り」という物語

まず、広く知られた通説を改めて確認しよう。それは、天文3年(1534年)、浦上家の重臣であった能家が、同僚の島村盛実(しまむら もりざね、豊後守を称し、入道して観阿弥とも)との確執の末、居城である砥石城を急襲されたというものである 1 。盛実は能家の権勢を妬み、主君に讒言した上で、夜討ちを仕掛けたとされる。不意を突かれた能家は、奮戦するも衆寡敵せず、一族郎党と共に自害して果てた。この時、能家は幼い孫の直家とその父・興家を城から脱出させ、宇喜多家の再興を託した、と物語は続く 3

この筋書きは、後に直家が成長し、祖父の仇である島村盛実を謀略によって討ち果たすという「復讐譚」へと繋がることで、一つの完成された英雄譚を形成している 2 。しかし、この感動的な物語の根幹をなす「島村盛実」という人物の存在そのものが、極めて疑わしいのである。

3-2. 「島村盛実」は実在したか?―史料批判のメス

近年の研究において、専門家が一致して指摘するのは、同時代の信頼できる一次史料の中に、「島村盛実」という名の武将は一切登場しないという事実である 4 。では、この人物はどこから現れたのか。

その答えの鍵を握るのが、「島村盛貫(しまむら もりつら)」という実在の武将である 15 。盛貫は、浦上政宗(宗景の兄)に仕えた重臣として、一次史料にもその名が確認できる。ここで重要なのは、漢字の字形である。「盛実」の「実」の旧字体は「實」と書く。一方、「盛貫」の「貫」は、草書体で書かれると「實」と酷似することがある。このことから、後世に軍記物が編纂される過程で、「盛貫」が「盛実」へと誤記・誤認され、それが定着してしまったのではないか、という説が極めて有力視されている 4 。つまり、「島村盛実」とは、実在の人物「島村盛貫」の影が、伝承の中で歪んで生まれた幻影である可能性が高いのだ。

3-3. 真相へのアプローチ:赤松晴政の影と浦上兄弟の対立

では、能家を死に追いやった真の敵は誰だったのか。現在、最も有力な説として浮上しているのが、**「赤松晴政による砥石城攻撃・落城説」**である 4 。能家の死は、浦上家内部の同僚同士の私怨や権力争いといった矮小な事件ではなく、当時の備前・播磨を揺るがした、より大きな政治的力学の中で起きた必然的な悲劇であった。

その背景を理解するためには、当時の複雑な政治状況に目を向ける必要がある。

第一に、浦上氏の内部対立である。享禄4年(1531年)の「大物崩れ」で当主の浦上村宗が戦死すると、その後継を巡って浦上氏は分裂状態に陥った。家督を継いだ兄の浦上政宗と、備前天神山城を拠点に独立勢力化を図る弟の浦上宗景との間で、深刻な対立が続いていた 16。

第二に、主家・赤松氏の復権運動である。かつての実権を守護代の浦上氏に奪われていた守護・赤松晴政は、この浦上氏の内紛を好機と捉え、自らの権威を取り戻すべく、浦上氏への圧力を強めていた 12。

宇喜多能家は、この浦上兄弟の対立において、どちらの派閥に属していたか明確ではないが、浦上氏一門の有力武将であることに変わりはなかった。赤松晴政から見れば、勢力を強めすぎた家臣である浦上氏、そしてその力を支える能家のような重臣は、自らの権威を脅かす排除すべき対象であった。天文3年(1534年)、晴政が浦上氏の勢力を削ぐために、その一翼を担う能家の砥石城を攻撃し、これを攻め滅ぼした、というのが、事件の真相に近いシナリオと考えられる。

3-4. なぜ「島村盛実」という悪役は創作されたのか?

能家の死の真相が赤松氏による攻撃であったとすれば、なぜ「島村盛実による殺害」という物語が生まれ、広く信じられるようになったのだろうか。その理由は、歴史がしばしば勝者の都合の良いように語り直されるという事実の中に見出すことができる。「島村盛実」という物語は、単なる歴史的誤謬ではなく、孫である宇喜多直家の台頭を正当化し、その生涯を英雄譚として脚色するために、江戸時代に意図的に創作・採用された**「物語装置」**であった可能性が極めて高い。

この構造を段階的に解き明かすと、以下のようになる。

  1. 史実の複雑性: 能家は、主家(浦上氏)のさらに主君である赤松晴政に攻め滅ぼされた。これは、主家が主君に反抗した結果に巻き込まれた悲劇であり、物語としては勧善懲悪の構図が描きにくい。
  2. 物語上の要請: 孫の直家を、単なる下剋上を成し遂げた「梟雄」ではなく、「祖父の無念を晴らす正義の執行者」として描くためには、明確で、かつ直家自身が打倒可能な「分かりやすい悪役」が必要となる 2 。赤松晴政では、相手が大きすぎ、直家が直接仇を討つ物語にはならない。
  3. 悪役の創作: そこで、実在の人物「島村盛貫」にまつわる逸話(彼が直家の父・興家の死に関わったとする記録がある 4 )などを下敷きに、浦上家中の「奸臣・島村盛実」という架空の悪役が作り上げられた。これにより、複雑な政治力学は「忠臣 vs 奸臣」という、人々が感情移入しやすい単純な二項対立のドラマへと書き換えられた。
  4. 物語の効果: この創作により、直家が後に島村氏を滅ぼす行為は、単なる権力闘争や勢力拡大ではなく、「祖父の仇討ち」という崇高な大義名分を得ることになる。直家の謀略の数々は正当化され、その人物像には悲劇性と正統性が付与され、物語はより魅力的で感動的なものとなった。

結論として、宇喜多能家の最期をめぐる伝説は、能家自身のために語られたものではない。それは、彼の死をドラマチックな序章として利用し、孫である宇喜多直家の物語をより輝かせるために、後世の人々によって巧みに構築された壮大なフィクションだったのである。

第四章:能家の遺産―梟雄・直家への継承

宇喜多能家の死後、その血脈と遺産は孫の直家へと受け継がれ、宇喜多氏は戦国大名へと飛躍を遂げたとされる。しかし、この継承の物語もまた、通説が語るほど単純なものではない。能家と直家を繋ぐ血の繋がりには不確かな点が多く、能家が遺した真の遺産は、血脈という物理的なもの以上に、彼が築き上げた「見えざる資産」にあった。

4-1. 血脈の不確かさ:「興家」は実在したか?

通説において、能家と直家を繋ぐ中間世代として登場するのが、直家の父とされる宇喜多興家(おきいえ)である。軍記物などでは、興家は「武士の器ではなかった」「愚かであった」などと評され、能家の死に際しては、戦うことをせず、ただ幼い直家を連れて落ち延びるだけの人物として描かれている 13

しかし、この興家という人物もまた、その実在性が極めて疑わしい。能家や直家とは異なり、興家の名が記された信頼性の高い一次史料は、現在のところ確認されていない 20 。史料の乏しさは、彼が歴史的に重要な役割を果たさなかったか、あるいはそもそも実在しなかった可能性を示唆している。

4-2. 物語装置としての「無能な父」

興家の実在性が不確かであるという事実は、単なる系譜上の謎に留まらない。むしろ、興家の「無能な父」という人物像そのものが、直家の英雄譚を際立たせるための巧みな 文学的・物語的装置 として機能している点に注目すべきである。

英雄の物語には、しばしば典型的な構造が見られる。主人公は恵まれない境遇や逆境から出発し、自らの力で成功を掴み取る。この構造に当てはめると、「偉大で悲劇的な祖父(能家)」と「無力で頼りない父(興家)」という設定は、主人公である直家の物語を劇的に演出する上で、この上なく効果的である。

能家が死の間際に「お前(興家)は役に立たないから、才能ある直家を連れて逃げろ」と命じたとされる逸話 13 は、まさにこの構造を象徴している。この設定によって、直家の功績は「父の七光り」によるものではなく、偉大な祖父の遺志を継ぎ、没落した家を自らの才覚のみで再興させた「裸一貫からの成り上がり」であるという印象が、強く読者に刻み込まれる 21 。つまり、「興家」という存在(あるいはその無能な人物像)は、史実の人物というよりも、直家という英雄を誕生させるための物語上の「触媒」や「背景」としての役割を担わされているのである。

4-3. 能家の真の遺産とは何か?

したがって、能家から直家への継承の本質は、不確かな血脈や、劇的に語られる遺言にあるのではない。その本質は、能家がその生涯をかけて築き上げた、具体的かつ実利的な「遺産」にあった。直家は、これらの見えざる遺産を巧みに利用し、発展させることで、備前一国を支配する戦国大名へと飛躍することができたのである。

能家が遺した真の遺産とは、具体的に以下の三点に集約される。

  1. 経済的基盤: 第一章で詳述した、吉井川の水運と瀬戸内海の交易ルートを掌握することによって得られる、強固な経済力。これは、直家が軍備を整え、家臣団を養い、謀略のための資金を捻出する上での大前提となった 9
  2. 軍事的ノウハウ: 第二章で分析した、寡兵で大軍を破るための非対称戦や、敵の心理を突く計略といった、実践的な戦術思想。直家が後に「戦国の梟雄」として駆使する謀略の数々は、この能家の戦術思想を応用・発展させたものであった。
  3. 人的ネットワークと一族の結束: 能家が浦上家臣として長年活動する中で築き上げた、備前国内の国人たちとの人脈。そして、能家という強力なリーダーの下で培われた宇喜多一族の結束力。これらは、直家が勢力を拡大していく過程で、味方を増やし、家臣団を組織する上で不可欠な資産となった。

結局のところ、宇喜多直家はゼロから全てを始めたわけではない。彼は、祖父・能家が遺した経済的、軍事的、そして社会的な資本という、極めて有利な「初期手札」を持って戦国の舞台に登場したのである。能家の遺産こそが、直家の飛躍を可能にした真の土台であった。

終章:再評価される宇喜多能家像

本報告書を通じて行ってきた宇喜多能家に関する多角的な検証は、通説として語られてきた人物像を大きく覆し、新たな歴史的実像を浮かび上がらせた。

伝説上の「悲劇の忠臣」としての能家像は、その死が孫である宇喜多直家の英雄譚を劇的に彩るための「序章」として、後世に創作・脚色された側面が極めて強い。能家を死に追いやったとされる「島村盛実」は一次史料では確認できない幻影であり、能家の死の真相は、浦上家中の私怨によるものではなく、主家である赤松氏の政治的弾圧という、戦国初期の複雑な権力闘争の渦中で起きた必然的な出来事であった可能性が高い。

史料から浮かび上がる能家の実像は、単なる主家への忠節に生きた武人ではない。彼は、吉井川流域の経済的利権を掌握する優れた経営感覚と、寡兵をもって大軍を翻弄する高度な戦略的思考を併せ持った、極めて現実的な国人領主であった。彼の活躍は、宇喜多氏が単なる一土豪から、備前国に確固たる勢力を持つ有力な権力体へと脱皮する上で、決定的な役割を果たした。

宇喜多能家の歴史的意義は、ここにおいて再定義されねばならない。彼は、宇喜多直家という「梟雄」の物語の導入部に登場する脇役としてのみ記憶されるべき人物ではない。むしろ、能家こそが、その経済的才覚と軍事的実績によって、戦国大名・宇喜多氏の権力基盤を実質的に築き上げた**「真の礎石」**であった。能家が遺した経済力、軍事思想、そして人的ネットワークという有形無形の遺産なくして、直家のその後の飛躍はあり得なかった。

備前戦国史を語る上で、宇喜多能家は、孫・直家の影の中に埋没させてはならない、独立した重要性を持つ人物である。彼は、伝説の忠臣ではなく、激動の時代を知略と実利で生き抜いた、一人の優れた戦国武将として、正当に評価されるべきなのである。

引用文献

  1. 宇喜多直家- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
  2. 宇喜多直家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
  3. 天文12年(1543) 、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には吉井川河口の小城塞・乙子城の城主に抜擢され - 宇喜多直家公の足跡を巡る https://ukita.e-setouchi.info/naoie.html
  4. 宇喜多氏の先祖等について - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n0264ii/2/
  5. 備前軍記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99%E5%89%8D%E8%BB%8D%E8%A8%98
  6. 宇喜多氏- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-sg/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F?oldformat=true
  7. 宇喜多氏の先祖等について - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n0264ii/1/
  8. 西大寺文書 - 岡山市 https://www.city.okayama.jp/life/0000043314.html
  9. 宇喜多氏- 维基百科,自由的百科全书 - Wikipedia https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E6%B0%8F
  10. 宇喜多能家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E8%83%BD%E5%AE%B6
  11. 宇喜多久家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E4%B9%85%E5%AE%B6
  12. 下克上の時代 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/622716.html
  13. 宇喜多直家伝説-恐るべき策略家、梟雄(きょうゆう)ではない- | ITプラン・ツーリズム・センター | 岡山の体験型・着地型・産業観光に特化した旅行会社 https://tourism.itplan-global.com/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6%E4%BC%9D%E8%AA%AC/
  14. 島村観阿弥 - 落穂ひろい http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/urakami/humei/shimamura0.htm
  15. 島村盛実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%9D%91%E7%9B%9B%E5%AE%9F
  16. 浦上政宗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%94%BF%E5%AE%97
  17. 武家家伝_浦上氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/uragami.html
  18. e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城> - 備前市 https://www.city.bizen.okayama.jp/soshiki/33/551.html
  19. 「宇喜多直家」稀代の梟雄と評される武将は実はかなりの苦労人!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/516
  20. 三謀将 宇喜多直家 プロローグ「宇喜多能家という男~赤松・浦上争乱記~」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=k7zHy80u2bs
  21. 【岡山の歴史】(2)戦国宇喜多の再評価・・・宇喜多直家は、本当はどんな人物だったのか | 岡山市 https://www.city.okayama.jp/0000071248.html