宇多頼重
宇多頼重は石田三成の義兄。本姓は尾藤氏。関ヶ原の戦いで佐和山城に籠城し、父と共に自害。石田家への忠義を貫き、一族の名誉を回復した。
宇多頼重の生涯に関する徹底調査報告書
序論:佐和山に散った将、宇多頼重 ― 忠義の源流を探る
慶長五年(1600年)九月、美濃国関ヶ原における一日(いちじつ)の激戦は、徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。しかし、天下分け目の戦いは、これで終結したわけではなかった。西軍の事実上の主宰者であった石田三成の居城、近江佐和山城には、なおも三成の父・石田正継をはじめとする一族郎党が籠城しており、関ヶ原の戦後処理における最後の、そして最も象徴的な戦闘が始まろうとしていた。
この佐和山城で、城主・石田三成の父や兄、そして三成の義父・宇多頼忠(うだ よりただ)と共に城を枕に討ち死にしたのが、本報告書の主題である宇多頼重(うだ よりしげ)である 1 。歴史上、彼は「石田三成の義兄(または義弟)」として、その悲劇的な最期と共にわずかに名を留めるに過ぎない。しかし、彼の短い生涯を真に理解するためには、彼とその父が名乗った「宇多」という姓の裏に隠された、一族の存亡を懸けた激動の物語を解き明かす必要がある。
本報告書は、頼重の出自を彼の本姓である「尾藤(びとう)」氏の歴史にまで遡り、伯父の悲劇的な失脚、父の苦渋に満ちた改姓、そして石田三成との固い絆が、いかにして宇多頼重という一人の武将を佐和山での壮絶な最期へと導いたのか、その全貌を多角的な史料分析を通じて徹底的に論証するものである。彼の死は単なる敗北ではなく、一族の名誉と忠義を懸けた、計算され尽くした選択の終着点であった。
第一部:宇多頼重の源流 ― 尾藤一族の興亡
宇多頼重の人物像を理解する上で、彼の一族が「宇多」を名乗る以前の歴史、すなわち「尾藤」氏としての歩みを知ることは不可欠である。この一族が戦国乱世をいかに生き抜き、豊臣政権下でいかに翻弄されたかを見ることで、後の改姓が持つ意味の重さと、頼重の運命を方向付けた忠義の源流が明らかになる。
第一章:本姓「尾藤」の出自と変遷
宇多頼重と父・頼忠が、元は「尾藤」姓であったことは、複数の史料が一致して示すところである 2 。尾藤氏は、その出自を辿ると信濃国の武士団に源流を持つとされ、戦国時代後期には信濃守護であった小笠原氏の属将として活動していた 2 。しかし、天文年間(1532年~1555年)に甲斐の武田信玄による信濃侵攻が激化し、主家である小笠原氏が没落すると、尾藤一族もまた信濃を追われることとなる 5 。
故郷を失った一族は、遠江国の今川氏、次いで尾張国の織田氏へと主君を変えながら、家の存続を図った 2 。この流転の歴史は、特定の大名家への絶対的な忠誠よりも、時勢を的確に読み、家名を絶やさぬことを最優先する、戦国期の国衆(在地領主)が取った典型的な生存戦略を物語っている。彼らにとって、家こそが忠誠を捧げるべき究極の対象であった。
第二章:伯父・尾藤知宣の栄達と悲劇
流浪の一族であった尾藤氏に、最大の栄光をもたらしたのが、頼重の伯父にあたる尾藤知宣(ともせん、または「とものぶ」)であった。知宣は、羽柴秀吉がまだ織田信長の一武将であった頃からその家臣となり、秀吉の馬廻衆の中でも精鋭である「黄母衣衆」に抜擢されるなど、その草創期から重用された武将であった 2 。
知宣は、秀吉の天下統一戦の中で軍功を重ね、天正十三年(1585年)の四国征伐における活躍により、讃岐国に領地を与えられ、丸亀城主となる 5 。これにより、尾藤氏はついに大名の列に加わり、一族の栄華は頂点に達した。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。天正十四年(1586年)に始まった九州征伐において、知宣は軍監(軍目付)として参陣したが、島津軍の猛攻に苦しむ味方(仙石秀久ら)を救援しなかったという失態を犯す。この報告を受けた秀吉は激怒し、知宣は即座に所領を没収され、追放処分となった 4 。その後、許しを請うも聞き入れられず、最終的には死に追いやられたと伝わる 8 。秀吉の古参であり、大名にまで出世した重臣が、一度の失敗で全てを失い、命まで奪われるというこの一件は、豊臣政権下における主従関係の厳しさと、秀吉の気性の激しさを示す象徴的な事件であった。
第三章:一族に刻まれた衝撃と教訓
伯父・尾藤知宣の栄達からの転落と死は、単なる一個人の悲劇ではなかった。それは、弟である頼忠(頼重の父)をはじめとする尾藤一族全体に、「太閤秀吉の怒りを買えば、いかに功臣であろうと一族郎党が滅びる」という、拭い去ることのできない強烈な恐怖と教訓を刻み込んだ。
この衝撃こそが、頼忠が一族の存続のために「尾藤」という姓そのものを捨てるという、極端とも言える手段に踏み切らせた直接的な動機であったと考えられる。兄・知宣の失脚により、「尾藤」という姓は、秀吉にとって「命令不服従の者」「無能者」という負の烙印が押されたも同然となった。この名を名乗り続けることは、一族全体が兄の罪を永続的に背負い続けることを意味し、将来的な立身出世の道を閉ざすだけでなく、些細なことで再び秀吉の逆鱗に触れる危険性を常にはらんでいた。
したがって、頼忠の改姓は、過去との決別であり、一族を兄の「呪縛」から解き放つための、計算され尽くした政治的な生存術であった。彼は、新たな庇護者の下で一族の再出発を図るため、汚名と結びついた「尾藤」の名を捨て去るという苦渋の決断を下したのである 7 。
表1:宇多(尾藤)一族 主要人物相関図
人物名(姓の変遷) |
頼重との続柄 |
主要な主君・庇護者 |
主な役割・出来事 |
結末 |
尾藤 重吉 |
祖父 |
小笠原氏→今川氏→森可成 |
一族を率いて信濃から流転。元亀元年(1570年)、近江坂本にて討死 3 。 |
戦死 |
尾藤 知宣 |
伯父 |
豊臣秀吉 |
秀吉の古参。讃岐丸亀城主となるも、九州征伐での失態により改易 5 。 |
改易・死罪 8 |
宇多 頼忠 (←尾藤 頼忠) |
父 |
豊臣秀長→秀保→秀吉→石田三成 |
兄の死後、豊臣秀長の配慮で「宇多」に改姓。秀長の家老。三成の舅 2 。 |
佐和山城で自害 10 |
皎月院 (うた) |
妹 (または姉) |
(石田三成の正室) |
三成との間に三男三女を儲けたとされる。石田家と宇多家を結ぶ存在 11 。 |
佐和山城で死去 13 |
宇多 頼重 |
本人 |
石田三成 |
河内守に叙任。父と共に佐和山城を守備し、石田家への忠義を貫く 1 。 |
佐和山城で自害 10 |
尾藤 頼次 (石田 頼次) |
従兄弟 (知宣の子) |
石田正継 (養子) |
父の死後、石田正継の養子となり「石田頼次」を名乗る。三成の養弟となる 2 。 |
関ヶ原後、旧姓に戻り他家に仕官したとの説がある 2 。 |
尾藤 知則 (金助) |
従兄弟 (知宣の子) |
細川忠利 |
兄とは別に、関ヶ原後、肥後熊本藩主・細川家に仕え、尾藤家を再興 5 。 |
熊本藩士 |
第二部:父・宇多頼忠の決断
兄・知宣の悲劇によって存亡の危機に立たされた尾藤一族を、巧みな政治手腕で再生へと導いたのが、宇多頼重の父・頼忠であった。彼が下した二つの大きな決断――「宇多」への改姓と、石田三成との姻戚関係の構築――は、一族の運命を決定的に方向付け、息子・頼重の生涯の道筋をも定めることになった。
第一章:「宇多」への改姓と豊臣秀長
兄・知宣が秀吉の怒りを買って非業の死を遂げた後、頼忠は「尾藤」の姓を捨て、妻の姓であったとされる「宇多」を名乗り始めた 2 。この大胆な改姓が可能であった背景には、豊臣秀長の存在が極めて大きい。秀長は秀吉の弟でありながら、兄とは対照的に温厚で調整能力に長けた人格者として知られ、豊臣政権内では多くの武将から信望を集める実力者であった 14 。
頼忠はこの秀長に家老として仕えており、秀長は兄・秀吉の激しい怒りから、配下である頼忠とその一族を守る防波堤の役割を果たしたと考えられる 2 。秀長の配慮と庇護があったからこそ、頼忠は「罪人の弟」という汚名を雪ぎ、新たな姓で再出発することができたのである。
また、「宇多」という姓の選択にも、計算された意図が窺える。この姓は、宇多天皇を祖とする名門・宇多源氏佐々木氏を想起させる。佐々木氏は近江国(現在の滋賀県)を本拠とする有力な武家であり、戦国時代においても六角氏や京極氏としてその名を知られていた 17 。頼忠は、単に過去の汚名を消すだけでなく、権威ある姓を名乗ることで、一族の格付けを高め、豊臣政権下での生き残りを有利に進めようとした可能性が考えられる。
第二章:石田三成との姻戚関係 ― 運命の選択
一族の再興に向けた頼忠の次なる一手は、さらに決定的であった。彼は娘の皎月院(こうげついん、三成からは「うた」と呼ばれた)を、秀吉子飼いの能吏として急速に台頭していた石田三成に嫁がせたのである 11 。この婚姻は、研究によれば天正六年(1578年)頃と推定されており、両者の主君である秀吉、あるいは頼忠の直接の主君であった秀長の斡旋による、典型的な政略結婚であった可能性が極めて高い 16 。
この婚姻は、単なる家と家の結びつきを超えた、豊臣政権内部における高度な政治的意味合いを持っていた。
第一に、頼忠の立場から見れば、この縁組は一族の安泰を保障する「生命線」であった。兄を失い、家の存続自体が危うい状況下で、太閤秀吉の側近中の側近である三成と舅・婿の関係になることは、これ以上ない強力な政治的保険であった。これにより、彼は「罪人・尾藤知宣の弟」から「治部少輔(三成)の舅、宇多頼忠」へとその立場を劇的に転換させ、豊臣政権の中枢に再び確固たる足場を築くことに成功した。
第二に、三成の立場から見ても、この婚姻には大きな利点があった。三成は卓越した行政能力によって秀吉の厚い信頼を得ていたが、その出自は近江の土豪であり、古くからの譜代重臣などと比較すると、家格や武門としての威光の面で見劣りする部分があった 22 。武勇で知られた尾藤一族(改姓前)の血を引く宇多家と姻戚関係を結ぶことは、官僚としてのイメージが強い自身の弱点を補強し、武断派の諸将との関係においても一定の重みを持つことに繋がった。
そして、この婚姻を後押ししたであろう秀長にとっても、政権の安定という大局的な見地からメリットがあった。自身の有能な家老(頼忠)と、兄・秀吉の信頼厚い腹心(三成)とを結びつけることは、政権内部の連携を強化し、その運営を円滑にするための人事戦略の一環であったと推察される 14 。
このように、宇多頼忠の娘と石田三成との婚姻は、関係者それぞれの利害が一致した、極めて戦略的な結びつきであった。この選択によって、宇多(尾藤)家は石田三成と運命を共にする共同体となり、もはや後戻りのできない道を歩み始めたのである。宇多頼重の将来は、この父の決断の瞬間に、事実上、決定づけられたと言っても過言ではない。
第三部:宇多頼重、忠義に殉ず
父・頼忠が築いた石田家との強固な絆。その中で成長した宇多頼重は、その生涯のほとんどが謎に包まれている。しかし、彼の人生の最終章である佐和山城での壮絶な戦いと死は、史料に明確に記録されており、その行動は彼の生き様そのものを雄弁に物語っている。
第一章:知られざる前半生と「河内守」
宇多頼重の関ヶ原の戦い以前における具体的な経歴や人物像を示す一次史料は、残念ながら極めて乏しい 1 。彼の存在は、偉大な義兄である石田三成や、激動の半生を送った父・頼忠の影に隠れ、歴史の表舞台に登場する機会はほとんどなかった。
しかし、彼を語る上で見逃せない重要な事実がある。それは、彼が「河内守(かわちのかみ)」という官位に叙任されていたことである 1 。河内守は、令制国の一つである河内国を名目上治める長官の官職であり、戦国時代においては大名や有力武将が自らの権威を示すために名乗る、格式ある称号であった。これは、頼重が単なる一族の子弟ではなく、豊臣政権下で正式な官位を持つ武将として公に認められていたことの動かぬ証拠である。
彼の具体的な活動範囲は不明だが、義兄・三成の所領である近江佐和山周辺や、父・頼忠が豊臣秀長の死後に秀吉から与えられた大和・河内国内の知行地(1万3,000石)に関連していた可能性が高い 2 。彼は、石田家の縁戚という重要な立場から、その広大な支配体制を支える一翼を担う、信頼された武将であったと推察される。
第二章:佐和山城籠城戦 ― 忠義の戦場
慶長五年(1600年)九月十五日、関ヶ原での西軍本隊の壊滅という絶望的な報せは、佐和山城にもたらされた。城内には、総大将として三成の父・石田正継、三成の兄・正澄、そして宇多頼忠・頼重父子が、約2,800の兵と共に籠城していた 10 。彼らは、もはや勝ち目のない戦と知りながら、石田家の本拠地を守り抜く覚悟を決めていた。
九月十七日、関ヶ原で西軍を裏切り東軍勝利の立役者となった小早川秀秋の軍勢を主力とする、1万5,000とも言われる東軍の大軍が佐和山城に殺到した 1 。城は「三成に過ぎたるもの」と謳われた堅城であり、宇多頼重は父・頼忠と共に本丸の守備を担当し、寄せ手の猛攻に対して獅子奮迅の戦いを見せたことが記録されている 10 。
籠城軍は数で圧倒的に劣りながらも、地の利を活かして奮戦し、当初は東軍の攻撃をよく凌いだ。しかし、城兵の中に内応者が出たことで戦況は一変する。三成の家臣であった長谷川宇兵衛らが東軍に内通し、城門を開いたことで、東軍は一気になだれ込み、城の守りは急速に崩壊していった 10 。
第三章:父子、壮絶なる最期
城の各所が次々と破られ、もはやこれまでと覚悟を決めた石田正継・正澄父子、そして宇多頼忠・頼重父子は、落城の寸前、城の中枢である天守閣にて潔く自害を遂げた 1 。また、城内にいた三成の妻・皎月院をはじめとする一族の婦女子たちも、敵兵の手に渡って辱めを受けることを潔しとせず、家臣の手にかかるか、あるいは自ら谷に身を投じるなどして、その生涯を閉じた 10 。
宇多頼重と父・頼忠の自害は、単なる敗北の結果として強いられた死ではなかった。それは、石田家と運命を共にする者として、その忠義を最後まで貫徹するという、極めて意識的な政治的行為であった。関ヶ原の本戦が終わり、西軍の組織的抵抗が潰えた以上、佐和山城単独での抵抗に戦略的な勝利の可能性は皆無であった。彼らは助からないことを百も承知の上で籠城し、そして死を選んだのである。
この戦いは、石田三成の名誉を守り、豊臣家への忠義を天下に示すための、彼らにできる最後の奉公であった。特に宇多家にとって、この死は、かつて伯父・知宣の「不忠」によって失いかけた一族の名誉を、「忠義」という武士にとって最高の価値によって回復し、完成させる行為でもあった。父・頼忠が改姓によって守ろうとした家名を、息子・頼重と共に、最も壮絶な形で後世に刻みつけたのである。
宇多頼重の生涯は、その大半が史料の闇に閉ざされている。しかし、その最期は、彼の生き様そのものを何よりも雄弁に物語っている。彼の人生は、石田三成の義兄(義弟)として、その一族に殉じるためにあった。彼の死は、父が選び、歩んできた道の、必然的な、そして栄誉ある終着点であった。
第四部:一族のその後 ― 滅亡と再興
宇多頼重・頼忠父子の壮絶な自害により、石田三成と運命を共にした宇多家は、その嫡流が途絶えた。しかし、歴史の皮肉とでも言うべきか、かつて一族がお家断絶の危機に瀕する原因となった尾藤知宣の血脈は、別の形で生き延び、家名を後世に伝えていた。この対照的な結末は、戦国乱世の終焉期における価値観の複雑さと、生き残りを懸けた一族の多様な選択を浮き彫りにしている。
第一章:石田・宇多家の血脈の行方
佐和山城で宇多頼重と共に滅んだ石田一族であったが、その血脈は完全に絶えたわけではなかった。三成の嫡男・重家は、関ヶ原の戦い後、仏門に入ることで徳川家康から助命され、その生涯を全うした 26 。また、三成の娘たちは、北国の雄である津軽家に嫁ぐなどしており、石田家の血は意外な形で各地の大名家や重臣の家系に受け継がれていった 11 。
宇多家の縁戚関係が歴史に与えた影響も大きい。真田昌幸・信繁(幸村)父子が関ヶ原で西軍に与した背景には、昌幸の正室が宇多頼忠の娘(皎月院の姉妹)であったとする説があり、この姻戚関係が彼らの決断に大きな影響を与えた一因であることは間違いない 9 。宇多一族の選択は、天下分け目の戦いの趨勢にも関わっていたのである。
第二章:尾藤氏、再興への道
石田三成への「忠義」を貫き、佐和山で滅んだ「宇多」の家系。それとは対照的に、豊臣秀吉から「不忠」の烙印を押され、一族を存亡の危機に陥れた尾藤知宣の家系は、驚くべき形で「尾藤」の名を再興させていた。これは、戦国から江戸へと移行する時代の価値観の転換を象徴する、極めて示唆に富んだ事実である。
宇多頼忠・頼重父子が石田三成(西軍)との絆を重んじ、佐和山で滅亡の道を選んだ一方で、彼らが絶縁しようとした伯父・尾藤知宣の息子たちは、関ヶ原の戦いを生き延びていた。知宣の子とされる尾藤知則(ともなり、金助とも)は、後に肥後熊本藩の初代藩主となる細川忠利に仕官し、尾藤氏は熊本藩士として家名を存続させることに成功したのである 5 。細川家は関ヶ原の戦いにおいて東軍の主力として戦功を挙げた大名であり、尾藤家はかつての主家の仇敵とも言える陣営の庇護下で生き残ったことになる。
この運命の皮肉は、この時代における武家の生存戦略の多様性を示している。「忠義」に殉じるという武士の名誉を選び、滅びることで家名を高めた宇多家。一方で、時勢を読み、新たな主君の下で実利を取ることで家名を存続させた尾藤家。どちらの選択が正しかったという単純な評価はできない。一族が二つに分かれ、それぞれが異なる論理で行動し、全く対照的な結果を迎えたという事実そのものが、この時代の複雑さと、生きることの無常観を我々に強く訴えかけてくる。
結論:忠義の武将・宇多頼重の実像
宇多頼重の生涯は、彼個人の事績として見れば、歴史の記録にほとんど足跡を残していない。しかし、彼の一生を、その出自である「尾藤一族の物語」という大きな文脈の中に置いて考察することで、その短い生涯が持つ意味は、初めて鮮明に浮かび上がってくる。
彼の行動原理の根幹にあった石田三成への「忠義」は、単なる個人的な感情や姻戚関係に留まるものではなかった。それは、伯父・尾藤知宣の悲劇的な死という一族最大の危機を乗り越え、父・頼忠が豊臣秀長の庇護の下で築き上げた、家の存続と名誉回復を懸けた政治的同盟の、最終的な帰結であった。頼忠が石田三成という次代の権力者と結んだ絆は、一族が生き残るための最善の策であり、頼重はその戦略の継承者であった。
慶長五年九月、佐和山城での頼重の死は、父が選択し、切り拓いた道を、息子として忠実に、そして最も壮絶な形で全うした姿であった。彼は、自らの死をもって、宇多家が石田三成と一心同体であることを天下に証明し、かつて伯父の汚名によって地に堕ちた一族の名誉を、「忠義」という武士最高の徳目によって完遂させたのである。
歴史の片隅に消えた一武将、宇多頼重。しかしその生涯は、戦国乱世の終焉期において、巨大な権力のうねりに翻弄されながらも、己の信義を貫き、一族の物語をその身をもって完結させた生きた証として、現代の我々に強い感銘を与えるものである。
引用文献
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- 佐和山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%92%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 佐和山城の戦い古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/sawayamajo/
- 関ヶ原に散った戦国武将「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちはどうなった?【前編】 | 歴史・文化 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/224471