本報告書は、日本の戦国時代に活動した武将、宇山久兼(うやま ひさかね)について、現存する資料に基づき、その出自、尼子氏における立場、具体的な事績、そして悲劇的な最期に至るまでを詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とする。宇山久兼に関する記述は、後世に成立した軍記物に多く見られるため、本報告書ではそれら史料の性格を十分に考慮しつつ、客観的な事実関係の抽出と多角的な分析を試みる。
宇山久兼という人物を理解する上で、まずその基本的な情報と家系の背景を把握する必要がある。
生没年、幼名、通称
宇山久兼は、永正8年(1511年)に生まれ、永禄9年1月1日(西暦1566年1月22日)に没したとされる 1 。幼名は弥次郎と伝えられている 1 。官位としては飛騨守(ひだのかみ)を称したことが記録されている 2 。これらの情報は、久兼の生涯を追う上での基本的な座標となる。
宇山氏のルーツ
宇山氏の出自は、宇多源氏佐々木氏の一流に遡るとされる 1 。具体的には、佐々木頼綱の弟である輔綱(すけつな)が鳥山氏を名乗り、その後裔が宇山氏へと改姓したと伝えられている 2 。この家系は、尼子氏もまた佐々木氏の傍流(京極氏の庶流)であることから、宇山氏と尼子氏が同族の関係にあったことを示唆している 5 。この同族意識は、戦国時代の主従関係において、単なる家臣以上の強い結びつきや信頼関係の基盤となった可能性が考えられる。久兼が尼子経久の代から仕えていたこと 2 と合わせると、宇山氏は尼子家中で新参者ではなく、ある程度の「譜代性」を有していたと推測され、これが後の重用や忠誠心に繋がった一因かもしれない。
父・宇山久秀について
久兼の父は宇山久秀(ひさひで)である 1。久秀もまた「飛騨守」を名乗り 6、大永3年(1523年)9月には「宇山飛騨守勝部朝臣久秀」として日御崎の十羅刹女社に法華経を奉納した記録が残っている 6。この奉納の事実は、宇山氏が単に武勇を事とするだけでなく、信仰心を持ち、相応の財力を有していたことを示している。実際に、宇山氏は尼子氏の家臣として大きな財力を有しており 6、久秀の代から尼子氏直臣である富田衆の中でも有力な地位を占めていたと考えられる 6。この経済的・社会的基盤は、久兼が後に月山富田城籠城戦において兵糧調達などで重要な役割を果たす背景となったと見られる。
また、久秀は「宇山飛騨守藤原朝臣久秀」とも名乗った記録があり 6、これは宇山氏が勝部(宿祢)姓の朝山氏の一族であった可能性を示唆している 6。当時の武家において複数の姓や本姓を使い分けることは珍しくなく、宇山氏の出自や縁戚関係の複雑さ、あるいは多面的な社会的ネットワークを示している可能性がある。
宇山久兼は、尼子氏三代にわたって仕えた重臣であり、その地位と役割は尼子氏の盛衰と深く関わっていた。
尼子経久、晴久、義久の三代に仕えた老臣としての立場
久兼は、尼子氏の勢力を拡大した尼子経久の代から、その孫である晴久、そして最後の当主となった義久に至るまで、三代の主に仕えた 1 。これは、久兼が尼子氏の興隆期から、最大の版図を築いた時期、そして毛利氏の侵攻による衰退期に至るまで、一貫して尼子氏の中枢近くにいたことを意味する。その長年にわたる経験と知識は、家中において貴重なものであったはずである。
「御家老衆筆頭」としての職責と影響力
史料によれば、宇山久兼は尼子氏の御家老衆の筆頭という重職を主に担ったとされている 1 。この「筆頭家老」という地位は、尼子氏の政策決定に深く関与し、他の家臣に対しても大きな影響力を持っていたことを示すものである。
家臣団内での序列(他の重臣との比較)
一方で、宇山飛騨守(久兼)の尼子家臣としての立場は、佐世清宗、牛尾幸清、中井綱家、立原幸綱、川副久盛といった他の重臣たちと比較すると、必ずしも最上位ではなく、むしろ格下であったとする見解も存在する 2 。この「筆頭家老」という記述と「格下」であったとする評価の間の矛盾については、慎重な検討が必要である。考えられる可能性としては、(1)参照する史料の違いによる評価の差異、(2)「筆頭」という表現が、特定の時期や、例えば財務や兵糧奉行といった特定の分野における指導的立場を指していた可能性、(3)後世の軍記物による脚色の可能性などが挙げられる。宇山氏が「大変な財力を有して」おり 6 、月山富田城籠城戦で兵糧調達に大きな功績を挙げたこと 2 を考慮すると、財務面における重鎮であった可能性は高い。しかし、総合的な家格や軍事指揮権において、他の宿老たちと同等以上であったかについては、さらなる史料の分析が求められる。
財政力と兵糧調達における貢献
前述の通り、宇山氏は尼子氏の家臣として相当な財力を有していた 6 。その財力は、特に尼子氏が窮地に陥った月山富田城の籠城戦において顕著な形で発揮される。久兼は私財を投じて兵糧を買い求め、城内に運び入れることで、毛利軍の兵糧攻めに対抗し、一時的に城内の士気を支えた 2 。この行動は、久兼の尼子氏に対する忠誠心の現れであると同時に、当時の尼子氏が、兵站の維持において個々の家臣の財力や個人的なネットワークに大きく依存せざるを得ない状況にあったことを示唆している。毛利氏のようなより中央集権的な支配体制を築きつつあった戦国大名と比較した場合、尼子氏の国人領主連合的な性格の限界が、このような側面にも現れていたのかもしれない。個人の忠誠心と財力に頼らざるを得ない状況は、組織としての継戦能力や危機管理能力の脆弱性につながりうる。
宇山久兼は、尼子氏の主要な合戦に数多く参加しており、武将としての側面も持ち合わせていた。
吉田郡山城攻め(天文9年/1540年)への参加
天文9年(1540年)、尼子晴久が安芸国の有力国人毛利元就の居城である吉田郡山城を攻めた際、宇山久兼もこれに従軍している 2 。この戦いは、毛利元就の巧みな籠城戦と大内氏の援軍により、尼子氏にとって大きな敗北に終わった。久兼にとって、この大規模な遠征とその失敗は、彼の武将としてのキャリアの初期における重要な経験となったであろう。
石見国攻め(永禄元年/1558年・永禄3年/1560年)への参加
その後も久兼は、永禄元年(1558年)および永禄3年(1560年)に行われた石見国への侵攻作戦に参加している 2 。これらの戦いは、石見銀山を巡る争いや、尼子氏の勢力圏維持のための重要な軍事行動であり、久兼が継続的に軍事作戦に従事し、一定の役割を担っていたことがうかがえる。
白鹿城の戦いにおける動向と敗走
毛利氏による出雲侵攻が本格化すると、月山富田城の重要な前方拠点である白鹿城を巡って激しい攻防が繰り広げられた。この白鹿城の戦いにおける宇山久兼の動向については、史料によって記述に差異が見られる。
ある史料では、久兼は白鹿城救援に向かう際、山中幸盛や立原久綱らの進言を聞き入れずに兵を進め、結果として敗走したとされている 4。これが事実であれば、老臣としての経験に固執したか、あるいは状況判断に誤りがあった可能性が指摘される。
一方、別の史料 3 によれば、久兼は白鹿城の守将であり、城兵はわずか二千、兵糧も乏しい中で毛利軍の包囲を受けた。久兼は急ぎ月山富田城の本隊に援軍を要請し、尼子義久は亀井秀綱を総大将とし、山中鹿介(幸盛)、立原久綱らを派遣したが、この一万の援軍は毛利元就の巧みな戦術によって敗北した。この混乱の中、久兼は殿軍を務めた山中鹿介の奮戦によって辛うじて月山富田城へ帰還できたとされている。
また、白鹿城の城主を松田誠保とする記述もあり 10、この場合は尼子からの救援軍が敗れた際に山中鹿之介が殿軍を務めたとされ、久兼の具体的な役割は明確ではない。
これらの記述の差異は、久兼の軍事的指導力や判断力に対する評価を左右する。白鹿城の失陥は、月山富田城が直接毛利軍の脅威に晒されることを意味し、尼子氏にとって戦略的に大きな痛手であった。
月山富田城籠城戦における役割と奮闘
永禄5年(1562年)から本格化した毛利元就による月山富田城攻めにおいて、宇山久兼は主君・尼子義久を懸命に励まし、忠臣としての役割を最大限に果たそうとした。特に毛利軍による兵糧攻めが厳しくなる中、久兼は私財を投じて兵糧を調達し、城内の窮状を救おうと奔走した 2 。具体的には、丹波や若狭といった遠隔地から食料を買い付け、山中幸盛が警護する海路を利用して中海沿岸の安来浦から密かに城内へ運び込んだと伝えられている 3 。この兵糧搬入は、毛利軍の包囲下にあって困難を極めた作戦であり、久兼の財力、交渉力、そして尼子氏への忠誠心を示す象徴的な行動であった。この時、山中幸盛の軍事力が兵糧輸送ルートの確保に貢献したとすれば 3 、久兼の経済力・調達力と幸盛の武勇・実行力が連携して籠城戦を支えていたことになり、尼子方の抵抗の具体的な様相をより鮮明にする。この連携が、後の讒言による久兼誅殺によって断ち切られたことの悲劇性は一層際立つ。
月山富田城での籠城戦が長期化し、城内の士気が低下する中、尼子氏にとって最も忠実な家臣の一人であった宇山久兼は、悲劇的な最期を遂げることとなる。
毛利元就の謀略の可能性
中国地方の覇権を争った毛利元就は、武力だけでなく謀略、特に敵内部の離間を誘う計略を得意としたことで知られている 1 。月山富田城攻めに際しても、元就は城兵の投降を許す旨の布告を出すなどして、尼子方の結束を揺るがそうと試みていた 3 。実際に、牛尾幸清や佐世清宗といった尼子氏の宿老までもが前途を悲観して毛利方に降る事態が生じていた 3 。このような状況下で、最後まで抵抗を続ける宇山久兼は、元就にとって攻略の障害となる存在であった。そのため、久兼の誅殺事件の背後には、元就による離間の計が働いていた可能性が指摘されている 3 。
大塚与三衛門による讒言の内容
久兼を悲劇的な死に追いやった直接の原因は、尼子義久の近臣であった大塚与三衛門(おおつか よざえもん)による讒言であった 2 。追い詰められた月山富田城内では、兵糧が日に日に減少しており、その管理は極めて重要な問題であった。大塚与三衛門は、義久に対し「宇山久兼が城内の兵糧を私物化しており、毛利方に内通して降伏しようとしているに違いない」という内容の虚偽の告発を行った 3 。
主君・尼子義久による誅殺とその経緯
長期間の籠城戦と相次ぐ家臣の離反により、尼子義久は極度の疑心暗鬼に陥っていたと考えられる 3。そのような精神状態にあった義久は、側近である大塚与三衛門の讒言を容易に信じ込んでしまった。そして、永禄9年(1566年)1月1日、義久は長年にわたり尼子家に忠誠を尽くしてきた宇山久兼とその子を、月山富田城内において誅殺するという取り返しのつかない決断を下した 1。
この譜代の忠臣の誅殺という異常事態は、ただでさえ低下していた城内の士気を決定的に打ち砕き、兵士たちの間に動揺と絶望感を広げた 3。この事件は、尼子氏の組織としての末期症状を露呈するものであり、義久の指導力や判断力の欠如、あるいは精神的な追い詰められ具合がいかに深刻であったかを物語っている。
久兼誅殺が尼子軍に与えた影響(士気低下、尼子氏滅亡への影響)
宇山久兼の死は、尼子軍にとって計り知れない打撃となった。私財をなげうって兵糧を調達し、最後まで主家のために奮闘していた忠臣が、内通の濡れ衣を着せられて主君の手によって殺害されたという事実は、残された将兵の戦意を完全に喪失させた 2。これにより、月山富田城の籠城戦は事実上終焉を迎え、尼子氏の滅亡を早める一因となったことは否定できない。
なお、一部には、殺害されたのは久兼本人ではなく、その子である久信、あるいは宇山一族の別の宇山飛騨守という人物であり、久兼ほどの重要人物ではなかったため、士気の低下は限定的であったとする説も存在する 13。しかし、多くの史料や研究では、久兼本人の誅殺とそれに伴う士気の総崩れが関連付けて語られている。
讒言者である大塚与三衛門の末路については、その悪事が露見した後、宇山久兼の無実を知り憤慨した他の重臣・大西高由(おおにし たかよし)によって城内で斬殺されたと伝えられている 11。大塚与三衛門の動機は史料からは明確ではないが 11、毛利元就の謀略に利用されたのか、個人的な野心や久兼に対する私怨があったのか、あるいは尼子家中の権力構造の歪みがこのような悲劇を生んだのか、複数の要因が絡み合っていた可能性が考えられる。31によれば、大塚与三右衛門は晴久・義久の二代にわたり側衆として重用されたとあり、久兼のような旧来の重臣との間に軋轢が存在した可能性も推測される。
宇山久兼について調査する際、しばしば混同される可能性のある同姓の人物として宇山誠明(うやま さねあき)が存在する。両者の事績と最期を明確に区別することは、宇山久兼の実像を正確に把握する上で不可欠である。
宇山飛騨守と宇山久兼の同一性
一般的に、月山富田城内で讒言によって誅殺された「宇山飛騨守」は、本報告書の主題である宇山久兼その人として伝えられている 2 。
宇山誠明(宇山右京亮)の人物像と最期
宇山誠明は、久兼とは別の宇山姓の尼子方武将である 2。彼は、尼子義久が毛利氏に降伏する永禄9年(1566年)11月まで月山富田城に在城していた 2。
義久が毛利氏に降伏した後、安芸国へ移送される際に同行した家臣団の名簿「義久様へ之御供之衆」(二宮俊実 記)には、宇山誠明の名が筆頭に記されており、義久の幽閉先まで付き従うことを許された数少ない忠臣の一人であったことがわかる 2。その後、誠明は安芸国の志道(しじ)において病死したと伝えられている 2。
また、宇山誠明は、尼子義久が美作国の国人領主である江見氏などに宛てた書状の中に「宇山右京亮(うやま うきょうのすけ)」という官途名で度々その名が見えることから 2、義久の側近として外交交渉などにも関与していた可能性が考えられる。
両者の比較と混同の可能性についての考察
史料 2 によれば、宇山誠明(右京亮)が登場する江見左衛門佐宛の尼子義久書状の中には、「宇山飛騨守は死んだが動揺することはない」といった趣旨の記述が存在する。これは、誅殺された宇山飛騨守(=久兼)と、その時点で存命し活動を続けていた宇山誠明(右京亮)が明確に別人であったことを示す動かぬ証拠と言える。
つまり、悲劇的な最期を遂げたのは宇山飛騨守久兼であり、宇山右京亮誠明は主君義久の苦難に最後まで付き従い、その生涯を閉じたのである。
なぜこの二人が混同されやすいのかについては、いくつかの要因が考えられる。まず、同じ「宇山」という比較的珍しい姓を持ち、同時期に尼子氏に仕えていたこと。特に「宇山飛騨守」という名跡は、久兼の父・久秀も名乗っており 6、宇山一族の惣領格を示す称号として強く認識されていた可能性がある。そのため、宇山飛騨守の悲劇的な最期が、宇山氏全体のイメージと結びつきやすかったのかもしれない。一方で、宇山誠明は義久個人の側近としての活動が主であり、その名は公的な記録よりも私的な書状などに残る傾向があったため、よりドラマチックな最期を遂げた久兼(飛騨守)の影に隠れやすかったのではないかと推測される。
多くの家臣が離反、あるいは見捨てていく中で、宇山誠明が最後まで義久に付き従ったという事実は、尼子義久にも個人的な信頼関係を深く結んだ家臣がいたことを示しており、単に暗愚な君主として片付けられがちな義久像に、別の側面からの光を当てるものと言えよう。
以下に、宇山久兼(飛騨守)と宇山誠明(右京亮)の比較を簡潔にまとめる。
項目 |
宇山久兼(飛騨守) |
宇山誠明(右京亮) |
官位・通称 |
飛騨守 |
右京亮 |
主な事績 |
吉田郡山城攻め、石見攻め参加、月山富田城での兵糧調達など |
尼子義久の側近として活動、美作国人との連絡役など |
月山富田城落城時 |
讒言により主君・尼子義久に誅殺される(永禄9年1月) |
義久に同行して毛利氏に降伏、義久の幽閉先まで付き従う |
最期 |
月山富田城内にて誅殺 |
安芸国志道にて病死 |
史料での言及 |
『雲陽軍実記』等で忠臣として描かれるが、讒言により死亡。 |
「義久様へ之御供之衆」に筆頭として名が見える。義久書状に「宇山右京亮」として登場。 |
家中での立場 |
重臣の一人。ただし最上位ではなかった可能性も指摘される 2 。 |
尼子義久の信頼が厚い側近。 |
なお、宇山飛騨守(久兼)の尼子家臣としての序列については、前述の通り佐世清宗や牛尾幸清といった他の重臣と比較すると格下であったとする見解もあり 2 、「御家老衆筆頭」という評価との間で慎重な検討が求められる。
宇山久兼の人物像や事績は、主に江戸時代に成立した軍記物語を通じて後世に伝えられている。これらの史料は、歴史的事実を伝える一方で、文学的な脚色や特定の勢力への配慮が含まれる可能性があり、その取り扱いには注意が必要である。
『雲陽軍実記』における記述
『雲陽軍実記』は、出雲国を中心とした戦国時代の動乱を描いた軍記物である。この中には、尼子晴久の大叔父にあたる尼子久幸が晴久の器量を評した言葉などが記されている 16 。宇山久兼自身に関する具体的な記述の全容は、提供された資料の断片からは把握しきれないものの 8 、大塚与三衛門による讒言、久兼の誅殺、そしてその後の与三衛門の末路といったドラマチックな場面が描かれている可能性が高い 11 。特に 11 の記述は、『雲陽軍実記』がこの悲劇を詳細に伝えていることを示唆している。
『陰徳太平記』における記述
『陰徳太平記』は、毛利氏の視点から中国地方の戦国史を描いた軍記物であり、享保2年(1717年)に成立したとされる 19 。石見国の合戦などについても記述が見られる 19 。宇山久兼に関する具体的な記述内容は、提供された断片からは必ずしも明確ではないが 2 、毛利元就の謀略に関する記述や、尼子氏の内部崩壊に至る経緯などが、毛利氏の立場から描かれている可能性がある。 3 で詳述されている元就の離間の計、久兼の兵糧調達、そして讒言による死といった一連の出来事は、『陰徳太平記』またはそれに類する軍記物の影響を強く受けていると考えられる。
その他史料(『宇山家系図』など)に見る宇山久兼
『宇山家系図』という系図が存在することが示唆されており 2、これが現存し、その内容を確認することができれば、宇山氏の出自や一族関係について、より詳細かつ信頼性の高い情報が得られる可能性がある。
また、松江市の郷土史家である原氏による講座資料 6 では、宇山氏の有した財力や、久兼の父・久秀の具体的な活動(日御崎への法華経奉納など)、そして久兼自身の兵糧調達と悲劇的な最期について触れられている。これらの記述は、軍記物とは異なる視点や、より一次史料に近い情報を含んでいる可能性があり、貴重な手がかりとなる。
軍記物における記述の留意点
『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』のような軍記物は、成立が江戸時代であり、必ずしも戦国当時の史実をありのままに反映しているとは限らない。物語としての面白さを追求するための文学的な脚色や、特定の勢力(例えば『陰徳太平記』における毛利氏)の行動を正当化し、美化する意図が含まれている場合がある 22。
したがって、これらの史料を利用する際には、他の一次史料(書状、日記、公的記録など)との比較検討を徹底し、記述の背後にある編纂者の意図や史料的価値を批判的に吟味する必要がある。宇山久兼の悲劇的な最期は、物語の題材として非常に魅力的であり、後世の人々の同情や共感を呼びやすい。軍記物は、こうした感情に訴えかける形で、久兼を理想化された忠臣として描いた可能性があり、その結果、実際の久兼の能力や家中での立場以上に、その忠誠心と悲劇性が強調されて現代に伝わっているのかもしれない。
史料間の記述の差異、例えば久兼の家中での地位に関する「筆頭家老」説と「格下」説の混在 1 は、一つの史料のみに依拠することの危険性を示している。複数の史料(軍記物、家系図、書状、現代の研究論文など)を比較検討し、それぞれの史料の成立背景や性格を考慮することで、より立体的で客観的な宇山久兼像に迫ることが可能となる。
本報告書では、戦国武将・宇山久兼について、現存する資料に基づき多角的な調査を行った。以下にその生涯と評価、そして歴史における意義について総括する。
宇山久兼の生涯と評価の総括
宇山久兼は、永正8年(1511年)に生まれ、尼子経久、晴久、義久の三代にわたって仕えた重臣であった。特に尼子氏が毛利氏の強大な軍事力の前に衰退していく困難な時期において、最後まで忠誠を尽くした人物として評価できる。その忠誠心と、宇山家が有した財力を示す象徴的な行動が、月山富田城籠城戦における私財を投じた兵糧調達であった。この尽力は、絶望的な状況下にあった尼子方の士気を一時的に支えたものの、戦局を覆すには至らなかった。
軍事的な才能については、白鹿城の戦いにおける指揮や判断に関して史料間で評価が分かれる部分も見られる。しかし、尼子氏の屋台骨を支えようと奮闘した忠臣としての側面が、後世の軍記物語などを通じて強く印象付けられている。
その最期は、主君・尼子義久の近臣であった大塚与三衛門の讒言を信じた義久自身の手によって、永禄9年(1566年)1月1日に誅殺されるという悲劇的なものであった。この忠臣の死は、ただでさえ低下していた月山富田城内の士気を決定的に崩壊させ、尼子氏滅亡の一因となった可能性は否定できない。
歴史における意義と今後の研究課題
宇山久兼の生涯は、戦国時代における武将の忠誠と裏切り、謀略の応酬、そして主家の栄枯盛衰といった、この時代を象徴するテーマを凝縮して示していると言える。彼の存在は、尼子氏末期の混乱と悲劇を語る上で欠かすことのできない人物である。
今後の研究課題としては、まず宇山久兼と、彼と混同されやすい宇山誠明(右京亮)との人物像及び事績の明確な区別を徹底し、それぞれの役割を正しく評価することが挙げられる。また、『宇山家系図』のような一次史料に近い資料が発見・公開されれば、宇山氏の出自や一族内での久兼の位置づけ、さらには尼子氏家臣団の構造について、より詳細な情報が得られる可能性がある。
軍記物における宇山久兼像が、史実からどのように脚色され、またどのような意図をもって形成され、後世に受容されてきたのかという、文学的・歴史社会学的な視点からの研究も興味深い。
さらに、宇山氏の名字の地とされる島根県雲南市木次町宇山に存在する宇山城跡 23 や、その他関連史跡の発掘調査報告書や研究成果を参照することで、宇山氏の在地における具体的な基盤や活動実態について、より詳細な情報を得られる可能性がある。宇山久兼個人の墓所や菩提寺に関する確実な情報は、提供された資料からは見当たらなかったが 13 、これらの特定と調査が進めば、宇山氏や久兼に関する新たな手がかりが得られることも期待される。
宇山久兼という一人の武将を通じて、戦国時代の複雑な人間模様と社会の有り様を垣間見ることができる。今後のさらなる史料の発見と研究の深化が望まれる。
本報告書作成にあたり参照した資料は、提供された 1 から 32 までの各資料である。本文中においては、該当する資料番号を角括弧内に示している。