最終更新日 2025-06-10

宇都宮尚綱

「宇都宮尚綱」の画像

戦国期下野の動乱と宇都宮尚綱:その生涯と宇都宮氏の変遷

1. はじめに

宇都宮尚綱(うつのみや ひさつな)は、永正9年(1512年)に生まれ、天文18年(1549年)に没した戦国時代の大名であり、下野国(現在の栃木県)に勢力を誇った宇都宮氏の第20代当主とされています 1 。彼が生きた時代は、日本各地で群雄が割拠し、関東地方においても古河公方(こがくぼう)の権威が揺らぎ、後北条氏や上杉氏、そして在地領主たちが激しい勢力争いを繰り広げた戦国時代中期にあたります。

本報告書は、宇都宮尚綱の出自、家督相続の経緯、その治世における主要な事績、とりわけ那須氏との「喜連川五月女坂(きつれがわそうとめざか)の戦い」における敗死、そして彼の死が宇都宮氏とその後の下野国の情勢に与えた影響について、提供された資料に基づき詳細に明らかにすることを目的とします。ユーザーが既に把握されている「宇都宮家20代当主、興綱の嫡男。那須政資・高資父子の抗争の際、政資を支持した。のちに高資の支城・喜連川城を攻めるが、那須軍の奇襲に遭い敗死した」という概要を踏まえ、これらの点を深掘りし、より多角的な情報を提供することを目指します。

尚綱の生涯は、一見すると志半ばで戦場に散った悲劇的な武将として捉えられがちです。しかし、その背景には、当時の宇都宮氏が抱えていた家中の不安定さや、周辺勢力との複雑な関係性といった構造的な問題が存在していました。彼の死が宇都宮氏のその後に大きな影響を与えた点を考慮すると、その生涯は単なる一武将の記録を超え、戦国期における地方大名の苦悩と限界を象徴している可能性も読み取れます。本報告書では、尚綱の出自に関する諸説、家督相続後の家中統制の困難さ、那須氏との抗争に至る経緯とその背景にある古河公方の動向、喜連川五月女坂の戦いの詳細と尚綱の死がもたらした宇都宮氏の危機的状況、そして尚綱の歴史的評価と彼が生きた時代の宇都宮氏の位置づけといった論点について、詳細に検討していきます。

2. 宇都宮尚綱の出自と家督相続

宇都宮尚綱の生涯を理解する上で、まず彼の出自と、宇都宮氏の家督を相続するに至った経緯を明らかにする必要があります。これらにはいくつかの説が存在し、当時の宇都宮氏が置かれていた複雑な状況を反映していると考えられます。

2.1. 生誕と改名

宇都宮尚綱は、永正9年(1512年)に生を受けました 1 。初名は俊綱(としつな)といいましたが、後に尚綱と改名しています 1 。改名の具体的な時期や理由については、現存する資料からは詳らかではありませんが、元服や家督相続といった人生の大きな節目に行われた可能性が考えられます。官位としては、従四位下(じゅしいのげ)、下野守(しもつけのかみ)、左衛門尉(さえもんのじょう)、右馬頭(うまのかみ)などを称したと記録されています 1 。これらは、下野国の名門である宇都宮氏の当主として相応の官位であり、当時の武家社会における家の格式を示すものでした。

2.2. 父親に関する諸説

尚綱の父親が誰であったかについては、複数の説が存在し、研究者の間でも見解が分かれています。

従来、最も広く知られているのは、宇都宮興綱(おきつな)の子とする説です 1 。これは、多くの人名辞典や基本的な歴史資料で採用されており、ユーザーが事前に持っていた情報とも一致します。

しかし近年、宇都宮成綱(しげつな)の子であるとする新説も有力視されています 1 。成綱は宇都宮氏中興の英主とも評される人物であり、もし尚綱が成綱の子であれば、その血筋は宇都宮氏の最盛期に繋がることになります。資料 3 などに見られる宇都宮氏の系譜は複雑で、成綱の子に興綱がおり、その興綱の子が尚綱であるとする系譜と、成綱の子として尚綱と興綱(兄弟)が存在したとする説が混在している状況がうかがえます。特に資料 3 では、成綱の子である忠綱(ただつな)の孫として興綱が位置づけられ、その子が尚綱とされる流れと、成綱の側室の子として尚綱が、別の側室の子として興綱がそれぞれ生まれたとする流れが併記されており、当時の系譜認識の流動性を示唆しています。

尚綱の母親については、小田氏の出身である小田成治(おだ しげはる)の娘とされています 1 。これは、当時の武家社会において一般的であった婚姻政策の一環と考えられ、常陸国(現在の茨城県)の有力大名であった小田氏との同盟関係を背景に持つ可能性があります。また、尚綱の妻は結城政朝(ゆうき まさとも)の娘でした 1 。これも同様に、下総国(現在の千葉県北部など)の雄である結城氏との婚姻同盟を意味し、周辺勢力との関係構築における重要な要素であったと言えます。

これらの父親に関する諸説の存在は、単に系図上の記載の違いという問題に留まらず、当時の宇都宮氏における家督相続が必ずしも安定していなかった可能性を示唆しています。もし尚綱が成綱の子であった場合、興綱の位置づけや尚綱自身の家督継承の正当性について、異なる解釈が生じる可能性があります。特に、後述するように興綱が家臣によって幽閉されるという事件 1 は、当主の権力が盤石でなかったことを物語っており、こうした内部の権力闘争が系譜の混乱を生んだ、あるいは逆に系譜の曖昧さが権力闘争の火種となった可能性も考えられます。これは、尚綱の治世における家臣の専横とも深く関わってくる問題と言えるでしょう。

宇都宮尚綱 関係系図(諸説併記)

関係

興綱を父とする説

成綱を父とする説(一例)

備考

宇都宮興綱 1

宇都宮成綱 1

成綱の子とする説では、興綱は尚綱の兄または叔父などの可能性がある 3

小田成治の娘 1

小田成治の娘 1

結城政朝の娘 1

結城政朝の娘 1

宇都宮広綱 1

宇都宮広綱 1

広綱は尚綱の死後、佐竹氏の支援を得て宇都宮氏を再興する 5

(説)祖父

宇都宮成綱 (興綱が成綱の子の場合) 3

宇都宮正綱 (成綱が正綱の子の場合) 3

系譜は諸説あり、特に成綱・興綱・尚綱の関係は複雑である。

(説)叔父/兄弟

宇都宮成綱 (興綱が成綱の弟の場合など) 4

宇都宮興綱 (尚綱が成綱の子で、興綱も成綱の子の場合) 3

尚綱と興綱の関係性も、どちらの父親説を採るかによって変動する。

(注:上記系図は諸説を簡略化して示したものであり、全ての系譜の可能性を網羅するものではありません。)

2.3. 家督相続の経緯

尚綱が宇都宮氏の家督を継いだ経緯は、平穏なものではありませんでした。資料 1 によれば、尚綱は初め、僧侶となるべく宇都宮氏と縁の深い慈心院(じしんいん、宇都宮二荒山神社の神宮寺)に入っていました。これは、彼が当初、家督相続の候補者として有力視されていなかった可能性、例えば庶子であったり、兄がいたりした可能性を示唆します。あるいは、当時の武家の子弟の慣習として、一時的に僧籍に入ることがあったのかもしれません。

しかし、天文年間(1532年~1555年)の初め頃、当時の宇都宮氏当主であった宇都宮興綱(尚綱の父または兄とされる人物)が、家臣である芳賀高経(はが たかつね)によって幽閉されるという衝撃的な事件が発生します 1 。この宇都宮錯乱とも呼ばれる事件は、宇都宮氏内部の権力闘争の激しさを示すものであり、当主の権威が著しく低下していたことを物語っています。

興綱が幽閉されたことにより、宇都宮氏の家督は空位に近い状態となりました。この危機的状況の中で、僧籍にあった尚綱が還俗(げんぞく、僧侶が俗人に戻ること)し、宇都宮氏の家督を継承したとされています 1 。この一連の経緯は、興綱に家督を継承しうる他の男子がいなかったのか、あるいは尚綱が特定の家臣団(例えば反芳賀高経派)によって擁立される形で家督を継いだ可能性を示唆しています。いずれにせよ、尚綱の家督相続は、彼自身の積極的な意思というよりは、宇都宮氏が直面していた異常事態と、それを取り巻く周囲の政治的力学によって押し上げられた結果である可能性が高いと考えられます。このような不安定な状況下での家督相続は、その後の尚綱の治世における困難、特に宿老壬生綱房(みぶ つなふさ)の専横を許す一因となったのかもしれません。

また、尚綱の母が小田氏、妻が結城氏の出身であること 1 は、当時の宇都宮氏が周辺の有力大名との間で婚姻を通じた同盟関係を築こうとしていたことを明確に示しています。これは戦国大名にとって一般的な生存戦略ですが、これらの同盟が実際にどの程度機能し、尚綱の勢力基盤の安定に寄与したのか、あるいは逆に特定の勢力との関係を固定化し、他の勢力との対立を招いたのかは、彼の治世を評価する上で重要な視点となります。特に、後に那須氏と敵対することを考えると、これらの縁戚関係が那須氏との力関係にどのように影響したのかは注目すべき点です。

3. 尚綱の治世と宇都宮氏の状況

宇都宮尚綱が家督を相続した時期の宇都宮氏は、内憂外患を抱えていました。家中では宿老の力が強大化し、周辺では有力大名が勢力を拡大しようとしのぎを削っていました。このような困難な状況下で、尚綱は家中の掌握と勢力拡大を試みます。

3.1. 家中の掌握と宿老の専横

尚綱が宇都宮氏の当主となった頃、宿老である壬生綱房の専横が目立っていたとされています 1 。壬生氏は宇都宮氏の重臣であり、その力は当主を凌駕するほどに強大化していた可能性があります。これは、興綱が家臣によって幽閉された事件 1 にも象徴されるように、宇都宮氏当主の権力が弱体化し、有力な家臣が実権を握りやすい状況にあったことを示しています。

このような状況を打開するため、尚綱は天文8年(1539年)、壬生綱房と共に、当時結城氏や小山氏と連携して宇都宮氏に反抗的な態度を示していた芳賀高経を討伐しました 1 。芳賀高経はかつて興綱を幽閉した中心人物であり、この討伐は尚綱にとって父(または兄)の仇討ちという意味合いと共に、低下した当主権力の回復を目指す重要な行動であったと考えられます。この行動により、尚綱は一時的に家中の主導権を握ろうと試みたと言えるでしょう。

しかし、芳賀高経の排除に成功したものの、壬生綱房の勢力は依然として強大であり、尚綱の権力基盤が完全に盤石になったわけではありませんでした。尚綱の治世を通じて、壬生氏の動向は常に宇都宮氏の安定を左右する要因であり続けたと考えられます。

3.2. 芳賀氏への介入と勢力拡大の試み

芳賀高経の討伐後、尚綱は宇都宮氏の重要な庶流家臣である芳賀氏の当主交代に介入します。高経の子である芳賀高照(たかてる)を追放し、代わりに益子氏出身で益子勝宗(ましこ かつむね)の子であった宗之(むねゆき)を芳賀氏の後継者とし、芳賀高定(たかさだ)と名乗らせました 1 。資料 8 によれば、天文10年(1541年)に芳賀高経が宇都宮家に反逆して児山城(こやまじょう)に籠城し、退去後に殺害された後、尚綱の命によって高定が芳賀氏を継いだとされています。これは、宇都宮氏にとって長年影響力の大きかった芳賀氏を、より自らに忠実な人物、あるいはコントロールしやすい人物に替えようとする意図があったと考えられます。

芳賀高定の登用は、尚綱にとって家中の安定化と、さらには積極的な勢力拡大を図る上での重要な布石でした。高定は後に、尚綱の子である宇都宮広綱が幼少で家督を継いだ際にその後見人となり、宇都宮氏の再興に大きく貢献する重要人物です 1 。尚綱が芳賀高定を登用した後、積極的な勢力拡大策に乗り出したとされていますが 1 、その具体的な内容や成果については、提供された資料からは詳細を読み取ることは難しい状況です。

尚綱による一連の家中統制の試み、すなわち壬生綱房と協調しつつも芳賀高経を排除し、自らの意に近い芳賀高定を登用した動きは、当主権力の強化と家中の安定化を目指すものであったと考えられます。しかし、結果として壬生綱房の専横は尚綱の死後まで続き、宇都宮城を乗っ取られる事態 5 を招くことから、尚綱の存命中の家中統制は限定的な成功に留まったと言わざるを得ません。これは、当時の宇都宮氏家臣団内部の権力構造が複雑であり、当主が必ずしも絶対的な権力を行使できなかったことを示しています。芳賀高定の登用は長期的には宇都宮氏にとって大きなプラスに働きますが、尚綱の治世においては、壬生氏の勢力を完全に抑え込むまでには至らなかったようです。

3.3. 周辺勢力との関係

戦国時代の武将にとって、周辺勢力との外交関係は自家の存亡に直結する重要な課題でした。宇都宮尚綱もまた、複雑な関東の政治状況の中で、様々な勢力との関係構築を迫られました。

  • 古河公方 足利晴氏(あしかが はるうじ):
    足利晴氏は室町幕府の出先機関であった鎌倉府の流れを汲む第4代古河公方であり、関東における公的な権威者の一人でした。晴氏の母親は宇都宮成綱の娘であったため 11、宇都宮氏と古河公方家は縁戚関係にありました。この関係は、宇都宮氏にとって自らの行動を正当化する上で有利に働くこともありました。事実、尚綱は後に那須氏を討伐する際、古河公方・足利晴氏の命(あるいは要請)を受けて出陣したとされています 2。これは、尚綱の軍事行動が単独の野心によるものではなく、関東の公権力である古河公方の意向に沿ったものであったという大義名分を得ることを意味しました。しかし、この古河公方との連携は、宇都宮氏を関東全体の複雑な政治紛争に、より深く巻き込む結果も招きました。特に、足利晴氏自身が天文14年(1545年)または天文15年(1546年)とされる河越夜戦で後北条氏に大敗し、その影響力を大きく低下させていたこと 12 を考えると、晴氏の要請に応じることが、必ずしも宇都宮氏にとって最善の戦略であったかは慎重な検討が必要です。結果的にこの行動が、尚綱自身の命運を左右する喜連川五月女坂の戦いへと繋がったことを考えると、古河公方との関係は、権威を利用できるというメリットと、紛争に巻き込まれるというリスクを併せ持つ、両刃の剣であったと言えるでしょう。
  • 結城氏・小山氏:
    芳賀高経が結城氏や小山氏と連携していたという事実 1 は、これらの勢力が宇都宮氏にとって潜在的な脅威であり、同時に連携の対象ともなり得る存在であったことを示しています。尚綱の正室は結城政朝の娘であり 1、宇都宮氏と結城氏は婚姻同盟を結んでいました。しかし、芳賀高経の件では、結城氏が宇都宮氏の内部対立に関与する形で敵対的な立場に立つ可能性も示唆されています。また、資料 14 によれば、かつて宇都宮正綱の時代には小山氏の勢力が非常に強大で、宇都宮氏は領地の一部を譲渡して小山氏の後見を受けることで侵攻を免れていた時期もあったとされ、宇都宮氏と小山氏の関係は一筋縄ではいかない複雑なものであったことがうかがえます。
  • 那須氏:
    那須氏は下野国北部に勢力を持つ有力な国衆であり、宇都宮氏とは領土を接していました。尚綱の時代には、那須氏内部で当主・那須政資(まさすけ)とその子・高資(たかすけ)の間で家督を巡る深刻な対立が生じており、これが尚綱の介入を招き、最終的には喜連川五月女坂の戦いという形で両氏の全面衝突に至ります(詳細は次章で詳述)。
  • 後北条氏:
    相模国(現在の神奈川県)を本拠地として急速に勢力を拡大していた後北条氏は、関東の覇権を目指す上で、宇都宮氏を含む伝統的な関東の諸大名としばしば対立しました。資料 15 によれば、戦国期の宇都宮氏は後北条氏と敵対関係にあったとされています。特に、前述の河越夜戦における後北条氏の劇的な勝利 12 は、関東の勢力図を一変させました。この戦いの結果、古河公方足利晴氏の権威は失墜し 12、晴氏と連携していた宇都宮氏も間接的に大きな影響を受け、後北条氏との対立がより鮮明になった可能性があります。尚綱の治世後半は、この後北条氏の台頭という新たな脅威にいかに対応するかが、宇都宮氏にとって重要な課題となっていたと考えられます。
  • 佐竹氏:
    常陸国を本拠とする佐竹氏は、関東における有力な大名の一つでした。尚綱の存命中に佐竹氏と宇都宮氏がどのような直接的関係にあったかを示す具体的な資料は、提供されたものの中には多くありません。しかし、尚綱の死後、その子である広綱が佐竹義昭(さたけ よしあき)の娘を正室に迎え、佐竹氏の強力な支援を受けて宇都宮城を奪還し、宇都宮氏を再興しています 5。この事実は、尚綱の時代から佐竹氏との連携が模索されていた可能性、あるいは尚綱の死という危機的状況が、宇都宮氏と佐竹氏の関係を急速に深化させる契機となった可能性を示唆しています。

河越夜戦は尚綱の治世後半に起こった関東の勢力図を塗り替える大事件でした。この戦いで宇都宮氏が直接的にどのような役割を果たしたかは提供資料からは不明ですが、同盟者であった足利晴氏が敗北し、後北条氏が関東での覇権を確立したこと 12 は、宇都宮氏の外交戦略にも大きな影響を与えたはずです。後北条氏との敵対関係が鮮明になる 15 中で、宇都宮氏は新たな同盟関係を模索する必要に迫られた可能性があり、これが後の佐竹氏との連携強化に繋がる遠因となったとも考えられます。尚綱の那須攻めも、こうした関東全体のパワーバランスの変化の中で、自勢力の維持・拡大を図る焦りの現れであった可能性も否定できません。

宇都宮尚綱 関係人物一覧

分類

人物名

続柄・関係など

主な関連資料

一門・家臣

宇都宮興綱

父(説)、宇都宮氏19代当主(説)

1

宇都宮成綱

父(説)、宇都宮氏17代当主

1

小田成治の娘

1

結城政朝の娘

正室

1

宇都宮広綱

嫡男、後の宇都宮氏21代当主

1

壬生綱房

宿老、尚綱死後に宇都宮城を乗っ取る

1

芳賀高経

家臣、興綱を幽閉、尚綱に討伐される

1

芳賀高照

高経の子、壬生綱房に擁立される

5

芳賀高定

家臣(益子勝宗の子)、尚綱に登用され、広綱を補佐

1

周辺勢力

足利晴氏

第4代古河公方、母が宇都宮成綱の娘

8

那須政資

那須氏当主、尚綱が支援

(ユーザー情報)

那須高資

政資の子、尚綱と敵対し喜連川五月女坂で戦う

2

伊王野資宗

那須方武将、喜連川五月女坂の戦いで活躍

9

鮎ヶ瀬実光

伊王野氏家臣、尚綱を討ち取る

1

佐竹義昭

常陸大名、広綱の岳父となり宇都宮氏再興を支援

5

後北条氏

関東の新興勢力、宇都宮氏と敵対

15

4. 喜連川五月女坂の戦い

宇都宮尚綱の生涯において、その運命を決定づけたのが、天文18年(1549年)の喜連川五月女坂の戦いです。この戦いは、宇都宮氏と那須氏の長年にわたる対立が一つの頂点に達したものであり、尚綱自身の死と、その後の宇都宮氏の危機的状況を招いた重要な合戦でした。

4.1. 合戦の背景

この戦いの直接的な引き金となったのは、那須氏内部で起こっていた深刻な家督争いでした。当時の那須氏当主であった那須政資と、その子である高資の間で、家督の継承を巡って激しい対立が生じていました。ユーザーが事前に把握していた情報にもある通り、宇都宮尚綱はこの内部抗争において、父親である政資の側を支持していました。

さらに、尚綱の那須領への侵攻は、単に那須氏の内紛への介入という側面だけでなく、より大きな政治的文脈の中に位置づけられます。資料 2 によれば、尚綱は当時の関東における公的な権威者であった古河公方・足利晴氏の命(あるいは要請)を受けて、那須高資を討伐するために出陣したとされています。これは、那須氏の内紛が、単なる一族内の問題としてではなく、関東全体の政治秩序に関わる問題として古河公方も認識しており、その解決に宇都宮氏の武力を利用しようとしたことを示唆しています。

また、資料 19 は、宇都宮氏の那須領への進攻の背景として、より長期的な両氏間の確執が存在した可能性を指摘しています。それによると、約二十数年前に宇都宮氏が岩城氏と組んで那須氏の川井城を攻略しようとしたものの、その後、那須氏と岩城氏が和解し親戚関係を結んだことに対し、宇都宮氏が強い憤懣を抱いていたというのです。このような積年の対立感情が、那須氏の内紛という機会を得て、軍事行動へと発展した可能性も考えられます。

4.2. 合戦の年月日と場所

喜連川五月女坂の戦いは、天文18年9月17日(西暦1549年10月7日)に、下野国喜連川(現在の栃木県さくら市喜連川)および五月女坂(そうとめざか、または「さおとめざか」とも読まれる)において行われました 1 。ただし、資料 2 のみ、合戦の日付を天文18年9月20日としており、若干の異同が見られますが、他の多くの資料が17日説を採っていることから、こちらがより有力と考えられます。

五月女坂は、現在の栃木県さくら市(旧喜連川町)早乙女地区にその名残を留める古戦場です 20 。宇都宮から喜連川へ抜ける街道の途中に位置し、戦略的にも重要な地点であったと考えられます。

4.3. 両軍の兵力と布陣

この戦いにおける両軍の兵力には、大きな差があったと伝えられています。宇都宮尚綱が率いる宇都宮軍の兵力は、2,000余騎 1 、あるいは3,000騎とも言われています 8 。いずれにしても、当時の動員力としては相当な規模であり、那須軍に対して圧倒的な数的優位を誇っていました。

一方、那須高資が率いる那須軍の兵力は、わずか300余騎であったとされています 17 。これは宇都宮軍の数分の一であり、兵力だけを見れば那須軍は極めて劣勢な状況にありました。

宇都宮軍の総大将である尚綱(資料によっては初名の俊綱と記される場合もある)は、五月女坂の南に位置する小高い丘に本陣を構え、そこから大軍の指揮を執っていたと伝えられています 17

4.4. 合戦の経過と那須軍の奇襲

合戦が始まると、兵力で圧倒的に優勢な宇都宮軍に対し、那須軍は当初苦戦を強いられたように見えました 19 。しかし、那須高資は寡兵であることを逆手に取り、大胆な奇襲攻撃を敢行します 1

この奇襲の具体的な内容について、資料 17 は、那須方の武将である伊王野資宗(いおうの すけむね)が手勢を率い、山を越えて尚綱の本陣側面または背後に迫り、急襲したと記しています。この伊王野勢の動きが、那須軍の奇襲の核心であったと考えられます。

予期せぬ方向からの攻撃を受けた宇都宮軍は、大軍であったが故に統制を失い、大きな混乱に陥りました 1 。数的優位を活かすことができず、陣形は崩れ、兵士たちは動揺したと推測されます。この奇襲攻撃の成功には、いくつかの要因が考えられます。第一に、宇都宮軍側に兵力差からくる油断や慢心があった可能性。第二に、那須軍側が尚綱の本陣の位置や宇都宮軍の布陣に関する的確な情報を事前に収集していた可能性。そして第三に、五月女坂周辺の地形を熟知し、それを巧みに利用した伊王野勢の戦術が挙げられます。大将である尚綱が、後に自ら前線に出て直接指揮を執らざるを得ないほど宇都宮軍が混乱したという事実は、この奇襲がいかに効果的であったかを如実に物語っています。

4.5. 尚綱の最期

自軍の混乱を目の当たりにした宇都宮尚綱は、兵たちの動揺を鎮め、軍の統制を取り戻すために、総大将でありながら危険を顧みず自ら前線へと進み出ました 1 。しかし、この決断が彼の命運を尽きさせることになります。

前線で指揮を執ろうとした尚綱は、那須方の援軍として参陣していた伊王野資宗の家臣である鮎ヶ瀬実光(あゆがせ さねみつ、弥五郎とも称される)によって射撃されました。鮎ヶ瀬実光が放った矢は尚綱に命中し、これが致命傷となって、尚綱は戦場で討死を遂げました 1 。享年38歳という若さでした 1

総大将が直接矢で射られて戦死するという結末は、宇都宮軍の指揮系統の完全な崩壊を意味し、戦いの趨勢を決定的なものにしました。尚綱が自ら前線に出た行動は、一見すると勇猛な大将としての姿を示しているようにも見えますが、同時に当時の戦いにおける総大将の脆弱性をも露呈しています。彼の死は、単に一人の武将の死としてではなく、宇都宮氏という組織全体の危機へと直結することになりました。

興味深いことに、敵将である尚綱を討ち取った鮎ヶ瀬実光は、後に尚綱の霊を供養するため、戦場となったこの地に永楽銭十貫文の費用を投じて石塔を建立したという伝承が残されています 19 。そして、その場所は「十貫弥五郎坂」とも称されるようになったといいます 19 。現在も五月女坂古戦場には、宇都宮尚綱の供養塔とされる五輪塔が残っており 20 、この伝承を今に伝えています。この鮎ヶ瀬実光の行動は、戦場では敵として命を奪い合う関係であっても、戦いが終われば死者を悼むという、当時の武士が持っていた複雑な倫理観や宗教観の一端を示しているのかもしれません。あるいは、高名な敵将を討ったことによる祟りを恐れたという側面も考えられますが、いずれにせよ、単なる殺戮に終わらない戦国時代の精神性を垣間見ることができる逸話です。

4.6. 合戦の結果

総大将である宇都宮尚綱を失った宇都宮軍は、指揮系統を完全に失い、総崩れとなって敗走しました。これにより、喜連川五月女坂の戦いは、兵力で劣っていた那須高資率いる那須軍の劇的な勝利に終わりました 1 。この戦いの結果は、宇都宮氏にとって計り知れない打撃となり、その後の下野国の勢力図にも大きな影響を与えることになります。

喜連川五月女坂の戦い 概要

項目

詳細

年月日

天文18年9月17日(西暦1549年10月7日) 1 (異説あり 2

場所

下野国喜連川、五月女坂(現 栃木県さくら市) 9

交戦勢力

宇都宮軍 那須軍

宇都宮軍:総大将 宇都宮尚綱、兵力 約2,000~3,000騎 1

那須軍:総大将 那須高資(伊王野資宗など援軍)、兵力 約300騎 17

主な経過

那須政資・高資父子の家督争いに宇都宮尚綱が政資方として介入。古河公方足利晴氏の命を受け、尚綱が那須高資討伐のため出陣 2 。兵力で劣る那須軍が奇襲攻撃を敢行し、宇都宮軍は混乱 9 。宇都宮尚綱は前線で指揮中に伊王野氏家臣・鮎ヶ瀬実光の矢を受け戦死 1

結果

那須軍の勝利。宇都宮尚綱の戦死により宇都宮氏は当主を失い、一時的に危機的状況に陥る 1

5. 尚綱死後の宇都宮氏

宇都宮尚綱の戦死は、宇都宮氏にとって未曾有の危機をもたらしました。当主を失ったことによる権力の空白は、家中の混乱を招き、宇都宮氏は一時的に本拠地である宇都宮城を失うという事態にまで追い込まれます。しかし、忠臣の尽力と外部勢力の支援により、宇都宮氏は辛うじてこの危機を乗り越えることになります。

5.1. 壬生綱房による宇都宮城乗っ取り

喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱が討死するという報が伝わると、宇都宮氏の宿老であった壬生綱房がこの機を逃さず、下克上とも言える行動に出ます。かねてより宇都宮家中において強大な影響力を持ち、専横が目立っていた綱房は、当主不在の混乱に乗じて宇都宮城を占拠し、実権を掌握してしまいました 5

壬生綱房は、自らの支配を正当化し、他の家臣たちの反発を抑えるためか、かつて尚綱によって討伐された芳賀高経の子である芳賀高照を傀儡(かいらい)の当主として宇都宮城に迎え入れました 5 。資料 8 には、「高照は宇都宮城主になるも、あくまで老獪な壬生綱房の傀儡に過ぎず」と記されており、実質的な権力は全て綱房が握っていたことがうかがえます。

このような状況下では、宇都宮氏の他の重臣たち、例えば塩谷義孝(しおのや よしたか)なども、壬生綱房の力に抗うことは難しく、その支配下に入ることを余儀なくされました 5 。尚綱の戦死は、宇都宮氏内部に深刻な権力の空白を生み出し、これを好機と捉えた壬生綱房の野心が顕在化した結果と言えます。これは、当時の宇都宮氏の家臣団が一枚岩ではなく、当主家への忠誠心を持つ勢力と、自己の勢力拡大を図る勢力に分裂していたことを示しており、戦国期の大名家が常に抱える内部抗争のリスクを浮き彫りにしています。

5.2. 嫡男・広綱の保護と芳賀高定の尽力

宇都宮尚綱には、伊勢寿丸(いせじゅまる)という幼い嫡男がいました。後の宇都宮広綱です。尚綱の死の当時、広綱はまだ5歳 1 、あるいは7歳 8 と非常に幼く、自ら家督を継いで家中を統率することは到底不可能な年齢でした。

壬生綱房が宇都宮城を占拠した際、城内にいた幼い広綱の身辺にも危険が迫りました。しかし、この危機的状況の中で、尚綱が生前に登用した忠臣・芳賀高定が広綱を保護し、密かに宇都宮城から連れ出すことに成功します。広綱は芳賀高定に伴われ、高定の居城である真岡城(もおんじょう、現在の栃木県真岡市)へと逃れ、そこで庇護されることになりました 1 。これにより、宇都宮氏の正統な血筋は辛うじて保たれ、再興への望みが繋がれたのです。

芳賀高定は、幼い広綱を補佐し、宇都宮氏の再興のために不屈の精神で奔走します。その活動は多岐にわたりました。

まず、天文20年(1551年)には、謀略を駆使して千本城主・千本資俊(ちもと すけとし)に、かつての主君・尚綱の仇である那須高資を千本城にて誘殺させることに成功します 6。これにより、最大の敵の一人を排除しました。

さらに、弘治元年(1555年)には、壬生綱房が傀儡として擁立し、宇都宮氏に反抗を続けていた芳賀高照を自害に追い込みました 6。

芳賀高定の一連の行動は、絶望的な状況の中から宇都宮氏を再興させようとする彼の卓越した外交手腕、戦略性、そして主家に対する並々ならぬ忠誠心と執念を示しています。彼の存在なくして、宇都宮氏の早期再興はあり得なかったと言っても過言ではなく、戦国時代において当主を支える有能な家臣がいかに重要であったかを示す好例と言えるでしょう。

5.3. 宇都宮氏の危機と佐竹氏の支援による広綱の帰還

壬生綱房(及びその後を継いだ子の壬生綱雄)と、綱房に擁立された芳賀高照(後にその弟の芳賀高継が後を継ぐ)の支配によって、宇都宮氏は本拠地である宇都宮城を失い、まさに滅亡の危機に瀕していました 1

この絶体絶命の状況を打開するため、芳賀高定は外交努力を重ねます。彼は、江戸忠通(えど ただみち、母が芳賀氏出身)や古河公方足利義氏(あしかが よしうじ)、さらには当時関東一円に強大な勢力を築きつつあった後北条氏の当主・北条氏康(ほうじょう うじやす)にも働きかけ、宇都宮城奪還のための支援を求めました。そして最終的に、常陸国(現在の茨城県)の有力大名である佐竹義昭に軍事的な支援を要請することに成功します 6

この要請に応じた佐竹義昭は軍勢を派遣し、弘治2年(1556年)または弘治3年(1557年)に、佐竹軍は下野国へ進軍。芳賀高定ら宇都宮旧臣と協力し、宇都宮城を占拠していた壬生綱雄らを追放することに成功しました。これにより、宇都宮広綱はついに宇都宮城への帰還を果たしました 5 。父・尚綱が喜連川五月女坂で戦死してから、実に約8年の歳月が流れていました 5

宇都宮城への帰還後、宇都宮広綱は佐竹義昭の娘である南呂院(なんりょいん)を正室として迎えました。これにより、宇都宮氏と佐竹氏の間には強固な婚姻同盟が結ばれました 5 。この佐竹氏との同盟は、その後の宇都宮氏の存続と勢力回復にとって極めて重要な意味を持ち、後北条氏や他の敵対勢力と渡り合っていく上での大きな支えとなりました。尚綱の死によって弱体化した宇都宮氏が生き残るための、まさに生命線とも言える戦略的判断であり、戦国時代の勢力争いにおいて、同盟戦略が個々の大名の運命を大きく左右したことを示す典型的な事例です。

6. 宇都宮尚綱の評価と歴史的意義

宇都宮尚綱の生涯は、戦国時代の地方大名が直面した困難と悲劇を象徴しています。彼の人物像や治世、そしてその死が宇都宮氏および下野国の情勢に与えた影響について考察します。

6.1. 人物像と治世に対する評価

提供された資料からは、宇都宮尚綱自身の具体的な性格や、内政における個人的な治績に関する直接的な記述は乏しいのが現状です。資料 23 は、尚綱の時代の宇都宮藩の治績や政策ではなく、後代のものや一般的な内容であり、尚綱個人の評価に直接結びつくものではありません。

しかし、彼の行動から人物像の一端を推察することは可能です。まず、家臣であった芳賀高経を壬生綱房と共に討伐し 1 、その後、自らの意に近い芳賀高定を芳賀氏の当主に据えたこと 1 は、低下した当主権力を回復し、家中の主導権を掌握しようとする強い意志と一定の指導力を示しています。また、古河公方の要請があったとはいえ、那須氏討伐のために2,000から3,000ともいわれる大軍を率いて自ら出陣したこと 8 からは、武将としての積極性や決断力も見て取れます。

一方で、宿老である壬生綱房の専横を完全に抑え込むことができず 1 、最終的には喜連川五月女坂の戦いで油断からか奇襲を受けて敗死し、宇都宮氏を一時的な危機に陥れた結果 1 から見ると、戦国大名としての総合的な力量が十分であったとは言い難い側面も否定できません。

資料 25 に見られる「宇都宮興綱のゲーム内での政治値は高すぎです。あの人は、政治手腕に関しては全然ダメな人ですから、政治オンチにしてもよいです。あえて言えば、貪欲なだけで器量がついていってないタイプです」という評価は、尚綱の父(または兄)とされる興綱に対するものであり、尚綱自身に直接当てはまるかは不明です。しかし、近親者、特に先代当主の評価が低い場合、その影響が次代の当主の治世の困難さの一因となる可能性は否定できません。また、資料 26 の「劣勢ながら敵軍を撃退し、古河公方と敵対勢力を味方に引き入れる外交手腕は凄い」という評価は、文脈から特定の人物を指しているかが不明瞭であり、尚綱の事績として直接結びつけるのは困難です。資料 27 で宇都宮朝綱が「坂東(関東)一の弓取り」と絶賛されたと述べられていますが、これは鎌倉時代の宇都宮氏の祖先であり、尚綱の直接の評価とは異なります。

尚綱の治世は、芳賀高経討伐や芳賀高定登用など、家中の権力構造を再編し当主権力を強化しようとする意志が見られる一方で、壬生綱房の台頭を抑えきれず、また那須氏との戦いでの敗死という結果は、彼の試みが道半ばで終わったことを示しています。もし彼が長生きし、芳賀高定という有能な家臣と共に宇都宮氏の舵取りを続けることができたならば、その後の宇都宮氏の歴史は異なる展開を見せたかもしれません。しかし、戦国中期という関東の激動期にあって、内外の困難な状況を乗り越えるには、彼の力量や運が及ばなかったのかもしれません。彼の評価は、こうした成功と失敗の両側面から多角的に行う必要があるでしょう。

6.2. 尚綱の死が宇都宮氏及び下野国の情勢に与えた影響

宇都宮尚綱の戦死は、宇都宮氏にとって単に当主を失うという直接的な打撃に留まらず、その後の下野国全体の情勢にも大きな影響を及ぼしました。

最も直接的かつ深刻な影響は、宿老・壬生綱房による宇都宮城の乗っ取りと、それに伴う家中の大混乱でした 1 。これにより、宇都宮氏は一時的に本拠地を失い、正統な後継者である広綱は幼少の身で真岡城への逃亡を余儀なくされ、宇都宮氏はまさに滅亡の危機に瀕しました。この権力の空白と内部対立は、宇都宮氏の領国経営(資料 28 に見られるような広範な支配体制)にも深刻な支障をきたしたと考えられます。

尚綱の死とそれに続く宇都宮氏の弱体化は、下野国内における宇都宮氏の権威と影響力を著しく低下させました。その結果、壬生氏が一時的に宇都宮領を掌握し、また、長年のライバルであった那須氏も勢力を伸長させるなど、周辺勢力が台頭する状況を生み出しました。

しかし、長期的な視点で見ると、尚綱の死という危機的状況は、宇都宮氏にとって新たな活路を開く転換点ともなりました。嫡男・広綱の代に、芳賀高定らの不屈の尽力と、常陸の佐竹氏による強力な軍事支援を得て宇都宮城を回復したこと 5 は、その後の宇都宮氏の外交戦略を大きく方向づけることになります。特に佐竹氏との間に結ばれた強固な婚姻同盟 5 は、後北条氏の圧迫が強まる中で宇都宮氏が生き残るための重要な支えとなりました。

尚綱の死が即座に壬生綱房による宇都宮城乗っ取りを招き、幼い広綱が芳賀高定に保護されて逃亡するという事態は、宇都宮氏の家臣団統制や権力基盤がいかに脆弱であったかを露呈しました。これは尚綱個人の問題というよりは、鎌倉時代以来の名門である宇都宮氏が、戦国という新たな時代に適応していく過程で抱えていた構造的な問題であった可能性があります。当主の急死によって容易に組織が崩壊の危機に瀕する状況は、多くの戦国大名家が直面した課題であり、宇都宮氏もその例外ではなかったことを示しています。

歴史に「もしも」は禁物ですが、仮に尚綱が喜連川五月女坂の戦いで勝利し、あるいは戦死しなかった場合、その後の関東の勢力図はどのように変化したでしょうか。那須氏を抑え、古河公方との連携を強化し、壬生氏の力を削ぐことに成功していれば、宇都宮氏は北関東においてより強固な地位を築けたかもしれません。そうなれば、後北条氏の関東進出に対する有力な抵抗勢力として、佐竹氏と共に大きな役割を果たした可能性も考えられます。この意味で、尚綱の死は、宇都宮氏一門の運命だけでなく、関東全体のパワーバランスにも少なからぬ影響を与えたと言えるでしょう。

7. 関連史跡

宇都宮尚綱とその時代を偲ぶことができる史跡が、現在の栃木県内にいくつか残されています。これらの史跡は、宇都宮氏の栄枯盛衰と、尚綱の悲劇的な運命を今に伝えています。

7.1. 宇都宮城跡

宇都宮城は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて築かれたと考えられ、中世から近世にかけて宇都宮氏代々の居城として、また下野国の政治的中心地として重要な役割を果たしました 30 。江戸時代に入ると、徳川将軍の日光社参の際の宿城となるため、本多正純(ほんだ まさずみ)によって大規模な改修が加えられ、本丸には将軍のための御殿が造られるなど、北関東の要衝としての地位を確立しました 30

しかし、幕末の戊辰戦争の際には戦場となり、城内の多くの建造物が焼失しました。明治時代以降は旧城郭内の市街地化が進み、土塁や堀もその多くが失われてしまいました 30

現在は、宇都宮城址公園として整備されており、本丸の一部の土塁や堀、そして清明台(せいめいだい)櫓や富士見(ふじみ)櫓などが往時の姿を偲ばせる形で復元されています 30 。園内には「清明館」という歴史展示施設もあり、宇都宮市の歴史や文化について学ぶことができます 30

宇都宮尚綱もまた、この宇都宮城を本拠として下野国に号令していましたが、彼の死後、宇都宮城は一時的に宿老・壬生綱房によって占拠されるという悲運に見舞われました 5

7.2. 喜連川城跡と五月女坂古戦場

喜連川城は、宇都宮尚綱が攻め、そして敗れた那須高資の支城の一つでした。現在の栃木県さくら市喜連川にその城跡が残ると考えられますが、提供された資料にはその詳細な現状についての記述は見られません。

一方、五月女坂古戦場は、天文18年(1549年)に宇都宮尚綱が那須高資軍と激戦を繰り広げ、不運にも討死を遂げた場所として知られています 9 。この古戦場は、現在の栃木県さくら市早乙女地区にあり、「弥五郎坂(やごろうざか)」または「五月女坂(そうとめざか)」としてその地名が残っています 20

特に注目されるのは、この五月女坂に現存する宇都宮尚綱の供養塔とされる五輪塔です 20 。この五輪塔は、尚綱を討ち取った那須方の武将・鮎ヶ瀬弥五郎実光が、後に尚綱の霊を弔うために建立したものであるという伝承も伴っています 19 。この供養塔は、470年以上前の合戦の記憶と、そこで命を落とした尚綱の無念を今に伝える貴重な史跡と言えるでしょう。

7.3. 墓所とされる尾羽寺

宇都宮尚綱の墓所は、下野国芳賀郡(現在の栃木県益子町上大羽)にある尾羽寺(おばでら)にあるとされています 1 。尾羽寺は、宇都宮氏の第3代当主である宇都宮朝綱(ともつな)が出家し、この地に創建したと伝えられる古刹です。朝綱は、初代当主・藤原宗円(ふじわらのそうえん)と2代当主・宗綱(むねつな)の墓をこの地に築き、自らの墓もここに定めることで、尾羽寺を宇都宮氏代々の菩提所とすることを一族郎党に宣言したといいます 32

尾羽寺の墓所には、初代宗円から第33代当主正綱(まさつな)に至るまで、宇都宮氏歴代の当主や一族のものとされる五輪塔29基、石碑4基などが整然と並んでおり、これほど長期間にわたる武将一族の墓域が一箇所にまとまって現存する例は全国的にも稀であり、国の史跡にも指定されています 32 。宇都宮尚綱の墓も、この歴代当主の墓の中に含まれていると考えられています。

現在、尾羽寺の阿弥陀堂は地蔵院本堂として残り、国の重要文化財に指定されており、往時の面影を伝えています 32 。宇都宮氏が改易された後も、その遺徳を偲ぶ人々やこの地に定住した旧家臣団によってこの霊域は守り続けられ、現在でも「御廟(ごびょう)」と呼ばれ大切にされています 33

これらの史跡、すなわち宇都宮城跡、五月女坂古戦場、そして尾羽寺の墓所は、それぞれ宇都宮氏の長い歴史と権勢、尚綱の悲劇的な最期、そして一族の結束と信仰心を物語っています。宇都宮城跡の変遷は歴史の断絶と再生を、五月女坂は特定の歴史的事件の記憶を、そして尾羽寺は一族の連続性と権威の象徴としての役割を担ってきたと言えるでしょう。これらの史跡を訪れることは、宇都宮尚綱が生きた戦国時代という時代と、そこで繰り広げられた人々の営みに思いを馳せる貴重な機会を与えてくれます。

8. おわりに

宇都宮尚綱の生涯は、戦国時代中期という激動の時代に翻弄されながらも、下野国の名門宇都宮氏の当主として家運の維持と拡大に努めたものの、志半ばにして戦場に散った悲運の武将として総括することができます。彼の出自には諸説があり、その家督相続も平穏なものではなく、宇都宮興綱の幽閉という異常事態の中で行われました。当主となってからは、壬生綱房ら宿老の専横に苦慮しつつも、芳賀高経の討伐や芳賀高定の登用など、家中の掌握と権力基盤の強化を試みました。しかし、古河公方足利晴氏の要請を受けて臨んだ那須氏との喜連川五月女坂の戦いにおいて、那須軍の巧みな奇襲の前に大軍を擁しながらも敗北を喫し、自らも戦死するという劇的な最期を遂げました。

尚綱の死は、宇都宮氏にとって未曾有の危機をもたらしました。本拠地である宇都宮城は壬生綱房に奪われ、幼い嫡男・広綱は芳賀高定に保護されて辛うじて難を逃れるという状況は、まさに宇都宮氏滅亡の瀬戸際でした。しかし、この危機は、芳賀高定の不屈の尽力と、常陸の佐竹氏という強力な外部勢力との同盟締結によって乗り越えられました。結果として、尚綱の死は、その後の宇都宮氏の外交戦略に大きな影響を与え、佐竹氏との連携を軸とした新たな生き残りの道筋を形作る転換点となったと言えます。

彼の短い治世と悲劇的な最期は、戦国時代における地方大名が置かれた過酷な現実と、当主一人の死が組織全体に与える影響の大きさ、そして家臣団の忠誠と裏切りが複雑に絡み合う人間模様を象徴する事例として、後世に記憶されるべきでしょう。尚綱個人の能力や意志だけではどうにもならない時代の大きな流れや、組織内部の構造的問題の存在は、歴史の非情さを示しています。一方で、彼の死後に見られた芳賀高定の活躍や佐竹氏との連携は、危機的状況下におけるリーダーシップの重要性、有能な補佐役の価値、そして外部環境との適切な関係構築が、組織の盛衰を左右するという普遍的な教訓を私たちに示唆しています。

本報告書は、提供された資料に基づいて宇都宮尚綱の生涯と彼が生きた時代を考察したものです。彼の評価は、単に戦いに敗れた武将としてだけでなく、彼が置かれた複雑な状況、彼が行った試み、そして彼の死がもたらした広範な影響など、多角的な視点から行われるべきです。今後、さらなる一次史料の発見や研究の進展によって、宇都宮尚綱という人物、そして彼が生きた戦国期下野国の歴史について、新たな事実や解釈が明らかになることが期待されます。

引用文献

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