本報告書は、上野国(現在の群馬県)西部に拠った戦国時代の国衆・安中氏の末期を担った武将、「安中久繁」の生涯を、同時代史の広範な文脈の中に位置づけ、その実像を徹底的に解明することを目的とする。安中久繁という一個人の生涯を追うことは、単なる人物史の再構築に留まらない。彼の人生は、武田、後北条、織田、豊臣といった巨大権力の狭間で、一地方勢力がいかにして生き残りを図り、そして最終的に淘汰されていったかという、戦国末期の関東における国衆の動態と運命を映し出す鏡となる。本報告書は、安中久繁の足跡を丹念に辿ることで、戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりの中で、無数に存在したであろう地方武士団の興亡の実相に迫るものである。
安中久繁という人物を調査する上で、まず直面するのは史料上の呼称の問題である。ユーザーから提示された情報、および天正10年(1582年)に織田信長の家臣・滝川一益が上野国を支配した際に配下となった武将を列記した史料には、「安中久繁」という名が見受けられる 1 。これは諱(いみな)、すなわち実名であると考えられる。
一方で、彼の経歴に合致する人物は、より多くの史料において「安中七郎三郎」という通称(仮名)で登場する 2 。これらの史料は、彼が長篠の戦いで戦死した安中景繁の子であり、武田氏滅亡後に滝川一益、次いで後北条氏に仕え、最終的に小田原征伐で没落したという、久繁の経歴と完全に一致する軌跡を記している。そして、この「七郎三郎」の諱は不明であるとされている 2 。
戦国時代の武士が、公的な文書や日常生活において通称を用い、諱は特定の改まった場面でのみ使用することは一般的であった。この時代背景を考慮すると、「安中久繁」と「安中七郎三郎」は同一人物を指していると比定するのが最も合理的である。すなわち、「七郎三郎」が彼の通称であり、「久繁」がその諱であった可能性が極めて高い。本報告書では、この仮説に基づき、両者を同一人物として論を進める。記述にあたっては、史料上確実性の高い「安中七郎三郎」の呼称を主としつつ、その諱が「久繁」であった可能性を念頭に置き、適宜「安中七郎三郎(久繁)」と併記することで、史料の現状を正確に反映させる。この呼称の問題自体が、地方の小領主に関する記録がいかに断片的であるか、そしてその生涯を再構築する上での困難さを示唆している。
上野国碓氷郡を本拠とした安中氏の出自は、確かな史料の上では詳らかではない。後世に編纂された系譜や地誌においては、その権威を高めるため、高貴な血統に連なる由緒が語られることが常である。安中氏もその例に漏れず、桓武平氏の平維茂(たいらのこれもち)の末裔とする説や、さらには後嵯峨天皇の皇胤に連なるという説が伝えられている 3 。しかし、これらの説は同時代の史料によって裏付けることができず、戦国期に一族の権威付けのために創出された可能性が高いと考えられる。
史料上で安中氏の名が初めて確認されるのは、享徳4年(1455年)頃に発給されたとされる野田忠持副状である 3 。この文書には、享徳の乱の最中、「安中左衛門」の知行地に味方の大井播磨守が着陣した旨が記されており、15世紀半ばには既に安中氏が碓氷郡に勢力基盤を築いていたことがわかる。
安中氏は古くからこの地に土着していたわけではなく、越後国から移住してきた一族であるとされている 3 。近世の史料は、この移住を長享元年(1487年)のこととし、越後国新発田から来たと具体的に記すが、前述の享徳年間の史料との年代的な矛盾や、移住元とされる新発田に安中氏の痕跡が見られないことから、その正確性には疑問が呈されている 3 。確実な史料で一族の具体的な名が判明するのは、貫前神社に現存する兜の前立の裏銘にある「永正四年安中宮内大輔顕繁」の文であり、これにより永正4年(1507年)に安中顕繁という人物が惣領として存在したことが証明される 3 。
このように、安中氏の系譜には、同時代の古文書から読み取れる系統と、後世の編纂史料に記された系統とで大きな隔たりが存在する。この情報の不一致は、単なる記録の誤りというよりも、戦国時代の地方領主が自らの正統性をいかに構築しようとしたかを示す興味深い事例である。出自不明な地方の小勢力から、権威ある系譜を持つ名族へと自らの由緒を「更新」していくことは、周辺勢力との交渉や領国支配を有利に進めるための重要な政治的戦略であった。安中氏が語る二つの系譜は、彼らが乱世を生き抜くために駆使した知恵の証左とも言えよう。
史料区分 |
系譜 |
典拠 |
戦国期の古文書に基づく系譜 |
安中左衛門 ― 宮内大輔顕繁 ― 宮内少輔長繁 ― 越前守重繁 ― 左近大夫景繁 ― (七郎三郎) |
3 |
近世の編纂史料(『和田記』等)に基づく系譜 |
安中出羽守忠親 ― 伊賀守忠清 ― 越前守忠正(忠政, 春綱) ― 左近忠成 ― 主計(広盛) |
3 |
16世紀初頭、上野国に確固たる勢力を築いた安中氏は、関東管領を世襲し、上野国の守護でもあった山内上杉氏の配下として歴史の表舞台に登場する 3 。平井城(群馬県藤岡市)に本拠を置く山内上杉氏の指揮下で、安中氏は西上野の国衆としてその地位を確立していった。前述の安中顕繁の後継者としては、安中長繁の名が知られている 3 。
安中氏の勢力基盤の中核を成したのが、安中城と松井田城という二つの城郭であった。安中城は、九十九川と碓氷川に挟まれた河岸段丘上に築かれた平山城である 5 。この城は、後に甲斐の武田信玄が西上野への侵攻を本格化させた永禄2年(1559年)頃、当時の当主であった安中忠政(重繁)が、来るべき脅威に備えて築城、あるいは大規模な改修を行ったとされる 5 。
一方、松井田城は、安中氏の初期からの本拠地であり、より軍事的な性格の強い山城であった 9 。この城は、信濃国と上野国を結ぶ中山道(東山道)が越える碓氷峠の東麓に位置し、関東への入り口を扼する極めて重要な戦略拠点であった 10 。安中氏は、この二つの城を拠点とすることで、碓氷郡一帯の交通の要衝を支配し、西上野における有力な国衆としての地位を固めたのである。彼らの拠点の地理的条件は、平穏な時代には経済的な利益をもたらしたが、戦乱の時代には大国の争いの最前線となる宿命を負っていた。
16世紀半ば、関東の勢力図は劇的に塗り替えられる。天文15年(1546年)、河越夜戦において相模の後北条氏康が山内・扇谷両上杉氏の連合軍に歴史的な大勝利を収めると、上杉氏の権威は失墜し、後北条氏の関東への進出が本格化した。このパワーバランスの変動は、上杉配下の国衆たちに重大な決断を迫った。
安中氏も例外ではなかった。惣領・安中長繁の代、一族は従来の主君であった山内上杉氏を見限り、勢いを増す後北条氏の陣営に加わる道を選んだ 3 。これは、自領と一族の存続をかけた現実的な選択であったが、同時に一族内に深刻な亀裂を生じさせることにもなった。全ての者がこの変節に同調したわけではなく、一部は最後まで旧主・山内上杉憲政に忠誠を誓い、彼が越後へ逃れるのに付き従った 3 。この「安中七郎太郎系」と称される一派は、その後、歴史の表舞台から姿を消す。この内部分裂は、巨大勢力の争いに翻弄される国衆が、必ずしも一枚岩の意思決定を行えなかった実情を如実に示している。惣領の決定が、一族全体の総意とは限らない。それぞれの家臣や分家が、自らの利害や信義に基づき異なる選択をすることは、この時代の国衆によく見られた現象であった。
後北条氏に属した安中氏であったが、その安寧は長くは続かなかった。永禄年間に入ると、信濃をほぼ平定した甲斐の武田信玄が、次なる目標として西上野への侵攻を本格化させる 3 。信玄にとって、碓氷峠を越えた先にある西上野は、越後の上杉謙信との抗争における戦略的要地であり、また関東進出への足掛かりでもあった。
この新たな脅威に対し、当時の安中氏当主・安中重繁(近世史料の『和田記』などでは「忠政」とされ、同一人物と推定される)は、西上野の雄であった箕輪城主・長野業政と連携し、敢然と抵抗の道を選ぶ 3 。しかし、武田軍の軍事力は圧倒的であった。
永禄9年(1566年)頃、信玄自らが率いる大軍が松井田城に押し寄せた 9 。安中勢は頑強に抵抗したものの、衆寡敵せず、城はついに陥落する。この時、城主であった重繁(忠政)は、武田方に降伏した嫡男・景繁(忠成)の生命と安中家の存続を条件に、自刃して果てたという悲劇的な伝承が複数の史料で語られている 9 。
父の死と引き換えに家督を継いだ安中景繁は、武田氏への服属を余儀なくされた。ある史料によれば、この時、名を「忠成」から「景繁」へと改めたとされる 15 。興味深いことに、「景」の字は、かつての主君であった上杉謙信(長尾景虎)から与えられた偏諱である可能性が高い 19 。もしそうであれば、景繁は旧主から賜った名をあえて名乗り続けることで、武田への服属が不本意なものであるという密かな矜持を示そうとしたのかもしれない。あるいは、単に元服時の名乗りを続けただけかもしれないが、この惣領家の交代劇は、安中氏の歴史における大きな転換点となった。父の世代が選んだ「抵抗と死」に対し、子の世代は「服属と生存」を選んだ。この苦渋の決断は、以降の安中氏の行動原理を決定づけることとなる。
武田氏の麾下に入った安中氏は、その地政学的な位置から、新たな役割を担うことになった。永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河の今川領へ侵攻(駿河侵攻)すると、これまで同盟関係にあった後北条氏との関係が破綻し、両者は敵対関係に入る。これにより、安中氏の所領は、武田領国の対北条における最前線となった 3 。当主・安中景繁は、武田氏の先方衆として、この重要な国境線の防衛を任されたのである。一族の安中家繁や安中繁勝といった人々が、武田信玄への忠誠を誓う起請文を信濃国の生島足島神社に奉納しており、一族を挙げて武田氏に仕えていた様子が窺える 3 。
しかし、この従属は安中氏に束の間の安定をもたらした一方で、最終的には破滅的な結末を招いた。天正3年(1575年)5月、武田勝頼が率いる軍勢が三河国長篠において、織田信長・徳川家康連合軍と激突した(長篠の戦い)。安中景繁もまた、安中勢を率いてこの決戦に従軍していた。結果は武田軍の歴史的大敗であり、この戦いで景繁は討死を遂げた 3 。
この敗戦が安中氏に与えた打撃は、当主の死だけに留まらなかった。長篠へ出兵した安中氏の軍勢は、ほぼ全滅に近い損害を被り、「当主以下ただの一人も安中へ帰ってくることができなかった」とまで伝えられている 19 。これは、一地方国衆がその存立基盤である軍事力を、主家の存亡をかけた大会戦によって根こそぎ失うという、従属の最大のリスクが現実化した瞬間であった。この壊滅的な人的損失は、安中氏の自立性を完全に奪い去った。わずか7年後に武田氏が滅亡した際、安中氏はもはや抵抗する力も、独自の外交戦略を展開する力も残されていなかった。一族の運命は、実質的に長篠の設楽原で決定づけられていたと言っても過言ではない。
長篠の戦いにおける父(あるいは兄)・安中景繁の戦死と、それに伴う一族の主力の壊滅という未曾有の国難の中で、安中氏の家督を継承したのが七郎三郎(久繁)であった 2 。彼の生年は不明だが、父の戦死時にはまだ20歳にも満たない若年であったと推定されている 2 。
若き当主は、武田勝頼に仕え、上野国衆の一員としてその軍事行動に参加した。武田氏による上野国内の諸城攻略戦にも、その一翼を担って加わっている 2 。しかし、その支配は決して安泰ではなかった。天正6年(1578年)、七郎三郎は赤城神社に「本領回復」を祈願する願文を奉納している 2 。この事実は、長篠での大敗後、安中氏の所領が何らかの形で不安定な状況に陥っていたことを示唆している。それは、周辺勢力による侵食であったかもしれないし、あるいは武田家臣団内での再編に伴う所領の削減であったかもしれない。いずれにせよ、七郎三郎(久繁)の治世は、失われた旧来の勢力を回復しようとする苦闘の中から始まったのである。
天正10年(1582年)2月、織田信長は満を持して武田領への全面的な侵攻を開始した(甲州征伐)。七郎三郎(久繁)は、武田信廉(信玄の弟)と共に信濃国南部の拠点である大島城(長野県下伊那郡)の守備にあたっていた 2 。しかし、織田信忠を総大将とする織田軍の圧倒的な兵力の前に、武田方の戦線は各所で崩壊。周辺の国人領主たちも次々と織田方に寝返り、城の維持は不可能となった。信廉と七郎三郎は城を放棄して退却し、諏訪高島城に籠もるも、織田方の開城勧告を受け入れ、上野へと落ち延びた 2 。
主家である武田氏の滅亡という激動の中、七郎三郎(久繁)は迅速に行動する。彼はすぐさま織田氏に恭順の意を示し、甲州征伐の総仕上げのために上野国に入った織田家の重臣・滝川一益の支配下に入った 1 。これは、上野国の他の国衆たち、例えば高山氏や木部氏らと同様の動きであり、新たな支配者の下で生き残りを図るための、極めて現実的かつ合理的な選択であった。彼は旧武田家臣らの織田氏への服属を取りまとめるなど、新体制への協力姿勢を示している 2 。
天正10年(1582年)6月2日、京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死すると、関東の政治情勢は再び混沌の渦に巻き込まれた。信長という絶対的な権力者を失った滝川一益の立場は、上野国で急速に不安定化する。この機を逃さず、後北条氏が失地回復を目指して大軍を北上させた。一益は上野からの撤退を決意し、追撃する北条氏直の軍勢と、同年6月18日から19日にかけて武蔵国と上野国の国境を流れる神流川で激突した(神流川の戦い)。
安中七郎三郎(久繁)は、他の上野国衆と共に滝川一益方としてこの戦いに参陣した 1 。しかし、戦いは一益方の大敗に終わり、一益は命からがら本国の伊勢へと敗走した。主を失った上野の国衆たちは、再び後北条氏の勢力圏に組み込まれることになった。七郎三郎(久繁)もまた、父の代に敵対したこともある後北条氏に、三度(みたび)服属することを選択した 2 。彼の生涯は、まさに大国の動向に翻弄され、主君を次々と変えなければ生き残れない、地方国衆の過酷な現実を体現している。
後北条氏の配下となった七郎三郎(久繁)は、全く無為に過ごしていたわけではない。天正12年(1584年)には、北条氏直から笠原政尭と共に、北関東の重要拠点である厩橋城(後の前橋城)の城番を命じられている 2 。これは、彼が後北条氏の指揮下で、一定の軍事的役割と信頼を得ていたことを示すものである。
年代(西暦) |
安中七郎三郎(久繁)の動向 |
関東・中央の主要動向 |
天正3年 (1575) |
父・景繁の戦死により、若年で家督を継承。武田勝頼に仕える。 |
長篠の戦い。武田軍が大敗。 |
天正6年 (1578) |
赤城神社に本領回復の願文を奉納。 |
越後で御館の乱が勃発。 |
天正8年 (1580) |
武田勝頼の上野攻略戦に参加。 |
- |
天正10年 (1582) |
2月-3月 : 甲州征伐。大島城を放棄し上野へ退去。武田氏滅亡。 |
織田信長による甲州征伐。 |
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3月-6月 : 織田家臣・滝川一益に臣従。 |
滝川一益が上野国を支配。 |
|
6月 : 神流川の戦いに一益方として参陣し敗北。 |
本能寺の変。織田信長が死去。 |
|
6月以降 : 後北条氏に再服属。 |
天正壬午の乱。徳川・後北条・上杉が旧武田領を巡り争う。 |
天正12年 (1584) |
後北条氏の命により厩橋城の城番を務める。 |
小牧・長久手の戦い。 |
天正18年 (1590) |
後北条方として小田原征伐に参戦。伝承によればこの際に戦死。 |
豊臣秀吉による小田原征伐。後北条氏が滅亡。 |
天下統一を目前にした豊臣秀吉と、関東に覇を唱える後北条氏との対立が避けられないものとなった天正18年(1590年)、秀吉は20万を超える大軍を動員し、小田原征伐を開始した 20 。後北条氏に属する関東の諸将は、それぞれの城に籠もるか、本城である小田原城に馳せ参じて、この未曾有の国難に立ち向かった。
安中七郎三郎(久繁)もまた、後北条方の武将としてこの最後の戦いに臨んだ。ユーザーから提示された情報では、彼はこの小田原征伐の際に戦死したとされている。しかし、彼が具体的にどの城で、どのような状況で戦死したのかを明確に記した一次史料は、今回の調査の範囲では確認することができなかった。
可能性としては、後北条氏の重要拠点であり、安中氏の旧本拠地でもあった松井田城の防衛戦に参加していたことが考えられる。松井田城は、大道寺政繁が城主として守っていたが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らからなる豊臣方の北国方面軍の猛攻を受け、約1ヶ月にわたる籠城戦の末に開城している 22 。この激しい攻防の中で、七郎三郎(久繁)が命を落としたという筋書きは十分に考えられる。あるいは、小田原城に籠城し、その攻防の中で戦没したか、開城後に何らかの理由で命を絶った可能性もある。
確かなことは、この小田原征伐における後北条氏の敗北と滅亡によって、上野国の国衆としての安中氏もまた、その歴史に終止符を打ったということである 2 。所領は没収され、一族は離散し、戦国大名としての安中氏は完全に消滅した。七郎三郎(久繁)の生涯は、長篠の悲劇に始まり、武田、織田、後北条と主君を変えながら必死の存続を図り、そして最後は豊臣という新たな時代の奔流に飲み込まれて終わる、まさに戦国末期に滅び去った無数の国衆の運命を象徴するものであった。
安中城は、九十九川と碓氷川という二つの河川に挟まれた河岸段丘上に築かれた平山城である 5 。その立地は、領国を統治する政庁としての機能と、ある程度の防御機能を両立させるものであった。扇の要に本丸の御殿を置き、他の郭が三方へ広がる構造から「扇城」の別名も持つ 24 。
戦国時代、この城は安中氏の平時における居城として機能した。特に、武田信玄の侵攻が現実の脅威となった永禄年間には、安中忠政(重繁)によって防備が強化され、嫡男の忠成(景繁)がこの城を預かったとされている 8 。しかし、安中氏の歴史において、この城が大規模な籠城戦の舞台となったという記録は少ない。
安中氏の滅亡後、安中城の運命は大きく変わる。天正18年(1590年)に関東に入部した徳川家康は、重臣の井伊直政を箕輪城に置き、西上野一帯を支配させた。関ヶ原の戦いの後、元和元年(1615年)、直政の長男であった井伊直勝(後の直継)が安中藩3万石の初代藩主としてこの地に入封すると、安中城はその藩庁として再整備された 5 。この時、既に田畑となっていた城跡に再び普請が加えられ、近世城郭としての体裁が整えられた 25 。ただし、天守閣はなく、御殿も茅葺であったとされ、壮麗な城というよりは実用的な陣屋造りの城であったことが指摘されている 24 。その後、藩主は水野氏、堀田氏、板倉氏、内藤氏と変遷し、安中城は幕末まで安中藩政の中心地として存続した 26 。
安中城が政庁としての性格を帯びていたのに対し、松井田城は純粋な軍事拠点、特に国境防衛の要塞としての性格が極めて強い山城であった。碓氷峠を越えて上野国に入る最初の要害であり、その戦略的価値は計り知れない 10 。
安中氏がこの地を支配していた時代、城の中心部は現在「安中郭」と呼ばれている区画であったと考えられている 9 。永禄9年(1566年)頃、武田信玄の侵攻を受けた際には、この城で安中忠政(重繁)が最後の抵抗を試み、そして落城の悲劇を迎えた 9 。
安中氏の手を離れた後、松井田城はその重要性ゆえに、新たな支配者によってさらに強化される。武田氏、次いで織田氏(滝川一益)の支配を経て、天正壬午の乱の後は後北条氏の手に帰した。後北条氏は重臣の大道寺政繁を城主として入れ、来るべき豊臣氏との決戦に備えて城の大規模な改修を行わせた 9 。この改修は、特に関東の入り口である西側の防御を固めることに主眼が置かれ、多数の堀切や竪堀が設けられた 9 。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、この強化された松井田城が豊臣軍の最初の主要な攻撃目標の一つとなった。前田利家、上杉景勝、真田昌幸といった歴戦の武将が率いる北国方面軍3万5千の猛攻に対し、大道寺政繁は約1ヶ月にわたって籠城し、頑強に抵抗したが、最終的には降伏・開城を余儀なくされた 22 。この戦いの後、松井田城は廃城となり、その軍事的役割を終えた。
この二つの城の異なる運命は、安中氏の歴史そのものを象徴している。軍事拠点としての松井田城は、戦国の争乱の中で抵抗と落城を経験し、最終的に廃城となった。これは、安中氏の武門としてのアイデンティティが戦国時代と共に終焉したことを物語る。一方、政庁としての安中城は、新たな支配者である井伊氏によって再利用され、近世藩庁として生き永らえた。これは、安中氏が築いた領地という物理的基盤が、彼らを滅ぼした後の新体制に吸収・再編されていった過程を示している。城郭の歴史は、それを築き、守り、そして失った一族の運命を、静かに語り継いでいるのである。
安中七郎三郎(久繁)の生涯は、戦国時代末期の関東における典型的な国衆の当主が辿った軌跡そのものであった。彼の人生は、自らの意思で主体的に歴史を動かすものではなく、武田、織田、後北条、そして豊臣という巨大権力の動向という、抗いがたい奔流に翻弄され続けた受動的なものであった。家督を継いだ時点で、既に長篠の戦いでの大敗という致命的なハンディキャップを背負っていた彼は、選択の余地なく、従属と離反を繰り返すことでしか一族の存続を図れなかった。その一つ一つの決断は、臆病や不忠義として断じるべきものではなく、弱者が強者の間で生き抜くための、必死で合理的な選択の連続であったと評価すべきである。彼は、滅びゆく一族の最後の当主として、その責務を最後まで果たそうと奔走した人物であった。
上野国西部、碓氷峠という関東の玄関口を押さえる地政学的に極めて重要な位置を占めながらも、安中氏はついに戦国大名として飛躍することはできなかった。その歴史は、周辺に勃興した武田氏や後北条氏といった、より強大な領域権力の圧倒的な力の前に、地方の伝統的勢力がいかにして独立性を失い、吸収・淘汰されていったかを示す縮図である。彼らの物語は、戦国時代が「下剋上」という言葉に象徴されるような、下位の者が上位の者を実力で凌駕するダイナミズムの時代であったと同時に、より高度な統治システムと軍事力を持つ中央集権的な権力によって、旧来の国衆・地侍といった地方勢力が解体・再編されていく、容赦のない淘汰の時代であったことを我々に教えてくれる。
小田原征伐によって国衆としての安中宗家は滅亡したが、安中という血脈が完全に途絶えたわけではなかった。武士の家は、「領地」という物理的基盤を失っても、「家」という血縁と主従関係を核とする共同体として、形を変えて存続し得たのである。
史料には、安中氏の滅亡後、その一族や旧家臣の一部が、新たな領主や近隣の勢力に仕官したことを示す記録が散見される。特に、安中氏の旧領を支配することになった井伊氏や、地理的に近接する真田氏の家臣団に、安中姓の武士や旧安中家臣の名を見出すことができる 3 。例えば、井伊氏の家臣団の記録には、旧安中家臣であった萩原図書や、安中氏と姻戚関係にあったとされる奥原六左衛門朝忠といった人物の名が確認できる 29 。これは、新領主が旧領主の人的資源、すなわちその土地の地理や統治に詳しい人材を、新体制に組み込んでいった過程を具体的に示すものである。領主は代わっても、土地に根差した人々は生き残り、新たな支配者の下でその能力を発揮する場を見出していったのである。
安中久繁(七郎三郎)とその一族の歴史は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の華々しい成功物語の陰で、歴史の敗者として消えていった無数の人々の、声なき物語を代弁している。彼らのように、大国の狭間で苦悩し、抗い、そして最終的に滅び去った地方領主たちの軌跡を丹念に追跡することは、戦国時代史の理解を、勝者の視点からだけでなく、より多角的で深みのあるものにする上で不可欠な作業である。安中氏の興亡は、戦国乱世の複雑さと非情さ、そして近世へと向かう大きな歴史の転換を、我々に力強く示している。