道頓堀開削者・安井道頓は平野郷の成安道頓。秀吉に仕え、大坂城築城で功績。私財で道頓堀を開削中、大坂の陣で戦死。道卜らが継承し、道頓堀は大阪ミナミ発展の礎に。
大阪・ミナミの心臓部として、昼夜を問わず国内外からの人々で賑わう道頓堀。その名は、一人の男が私財を投じて成し遂げた壮大な運河開削事業に由来する 1 。一般に、この人物は「安井道頓」として知られ、「大坂の町人であり、豊臣秀吉に仕え、大坂城外堀の掘削の功により道頓堀の開拓を任されたが、大坂の陣に豊臣方で参戦し、志半ばで戦死した」という概要が広く流布している 3 。
しかし、この通説の背後には、より複雑で奥深い歴史が隠されている。彼の出自をめぐる長年の論争、事業を可能にした社会的・経済的背景、そして彼の死後にその遺志がどのように受け継がれ、日本を代表する歓楽街へと発展したのか。本報告書は、利用者が提示した情報の範疇にとどまることなく、最新の研究成果と『道頓堀裁判』などで明らかにされた史料に基づき、この「道頓堀を拓いた男」の知られざる生涯と、彼が遺した歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。通説の「安井道頓」という人物像の深層に迫り、その実像を多角的に描き出す。
道頓堀の開削者として名を残すこの人物の最も根源的な問いは、その姓が「安井」であったのか、それとも「成安」であったのかという点にある。この出自の謎を解き明かすことは、彼の人物像、行動原理、そして世紀の大事業を成し遂げた背景を理解する上で不可欠である。
長らく、道頓は河内国久宝寺村(現在の大阪府八尾市)を出身地とする「安井道頓」であると信じられてきた 3 。彼の名は成安(なりやす)、通称を市右衛門(または市左衛門)といい、剃髪して「道頓」と号したとされる 3 。
この通説の直接的な根拠となったのは、道頓の事業を継承した安井九兵衛(道卜)の子孫が明治10年(1877年)前後に編纂した家伝書『安井系譜』である 7 。この文書の中で、道頓は九兵衛の従兄弟として位置づけられており、これが「安井氏」説の根幹を成してきた。大正4年(1915年)に日本橋のたもとに建立された「安井道頓・道卜紀功碑」にもその名が刻まれ、通説は広く社会に浸透していった 8 。
この通説に初めて学術的な異議を唱えたのが、郷土史家の佐古慶三であった。彼は1930年代、平野郷の豪商・末吉家に伝わる『末吉家文書』などの古文書の中に、「平野藤次郎」や「安井九兵衛兄弟」といった道頓堀開削の協力者たちと並んで「成安道頓」という名が記されていることを発見した 7 。佐古は、この「成安」を名ではなく姓と捉えるのが自然であるとし、道頓は「安井」氏ではなく、摂津国住吉郡平野郷の「成安」氏の出身であるとする新説を提唱した 3 。
この「成安氏」説が決定的なものとなる契機は、昭和40年(1965年)から昭和51年(1976年)にかけて争われた、世に言う「道頓堀裁判」であった 10 。これは、安井九兵衛の子孫が道頓堀川の河川敷地の所有権を主張し、国や大阪府、大阪市を相手取って起こした訴訟である 12 。裁判の争点の一つが、まさに道頓の出自であった。
この裁判では、佐古慶三らが鑑定人として法廷に立ち、彼の説を裏付ける新たな史料が次々と提出された。平野の旧家・奥野家に伝わる成安家の系図や、道頓の妻や娘が嫁いだ平野七名家の西村家・土橋家の系図にも、彼の名が「成安道頓」と明記されていたのである 7 。11年に及ぶ審理の末、裁判所は原告の訴えを退ける判決を下したが、その判決理由の中で、道頓が成安氏の出身であるとする説について「有力である」と公に認めた 7 。これにより、「成安道頓」説は学術的な定説としての地位を確立するに至った。
成安氏説の確からしさは、彼の故郷である平野郷の特異な歴史背景によって、より一層強固なものとなる。戦国時代の平野郷は、堺と並び称されるほどの強力な自治都市であり、外敵の侵入を防ぐために周囲を二重の堀で囲んだ「環濠集落」を形成していた 13 。
この高度な自治を担っていたのが、征夷大将軍・坂上田村麻呂の末裔を称する「七名家(しちみょうけ)」と呼ばれる七つの有力氏族であり、成安氏はその筆頭格の一つであった 17 。彼らは町の運営を司る惣年寄の役職を世襲し、地域の政治・経済・軍事を掌握する支配者層だったのである 18 。
道頓が単なる一介の町人や土木技術者ではなく、こうした自治都市の支配者層の一員であったという事実は、彼の人物像を根本から書き換える。なぜ彼が私財を投じて巨大な土木事業を企画し、実行できたのか。その答えは彼の出自にある。
第一に、七名家としての強固な経済基盤が、私財を投じることを可能にした 1。第二に、自治都市の運営を通じて培われた
政治力と人脈 が、豊臣政権との交渉や、久宝寺の安井家、同じく平野の平野家といった他地域の有力者との協力関係を構築する上で大きな力となった 4 。そして第三に、環濠の維持管理など、平野郷の運営で培われた
土木技術に関する知見 が、この大事業の基盤にあったと推察される。
以上の分析から、本報告書では「安井道頓」という広く知られた通称を用いつつも、その歴史的実像は「平野郷七名家の一つ、成安氏の当主、成安道頓」であるという学術的定説に立脚する。彼の生涯と偉業を理解する上で、この出自こそが最も重要な鍵となるのである。
表1:安井道頓/成安道頓の人物情報に関する説の比較
項目 |
安井氏説(通説) |
成安氏説(定説) |
姓 |
安井(やすい) |
成安(なりやす) |
名 |
成安(なりやす) |
不明(俗名は善九郎) 7 |
通称 |
市右衛門、市左衛門 3 |
市右衛門、市左衛門 |
号 |
道頓(どうとん) |
道頓(どうとん) |
出自 |
河内国久宝寺村の土豪・安井氏の一族 3 |
摂津国平野郷の自治を担った七名家・成安氏の当主 7 |
根拠史料 |
『安井系譜』(明治期に安井家子孫が作成) 7 |
『末吉家文書』、『奥野家文書』、西村家・土橋家系図など(同時代史料) 7 |
確立の経緯 |
明治期に形成され、大正期の紀功碑建立により広く定着 7 |
1930年代に佐古慶三が提唱。1976年の『道頓堀裁判』判決で有力とされ定説化 3 |
成安道頓が歴史の表舞台に登場するのは、豊臣秀吉による大坂の都市建設事業においてである。天下統一を成し遂げた秀吉は、大坂を日本の実質的な首都とすべく、壮大なスケールでの城郭建築と城下町整備を推進した 23 。この国家的な大事業の中で、道頓はその能力を高く評価され、重要な役割を担うこととなる。
道頓は、平野郷の支配者として培った土木技術や差配能力を買われ、大坂城の築城工事に従事したと伝えられる 3 。一部の資料では彼を「奉行」と記しているが 27 、豊臣政権下で正式に定められた普請奉行の一人であったか、あるいは特定の工区を任された現場責任者であったか、その具体的な役職や地位については明確ではない。しかし、最高権力者である秀吉から直接その功績を認められるほどの人物であったことは、後年の恩賞の事実が物語っている。
道頓が関わった具体的な功績として伝わっているのが、大坂城の最外郭に位置する防御線、特に南側の「南惣構堀(みなみそうがまえぼり)」の掘削工事への従事である 29 。この堀は、大坂城の防衛上の弱点であった南側台地続きの方面を守るための重要な施設であり、水を入れない「空堀」であった 31 。現在の「空堀商店街」の名は、この南惣構堀の跡地に形成されたことに由来する 31 。
この築城事業における多大な貢献が秀吉に認められ、道頓は恩賞として城の南に広がる広大な土地を与えられた 3 。当時、この一帯はまだ開発の進んでいない湿地帯であった。この「拝領地」こそが、後の道頓堀開削という、彼の生涯をかけた大事業の舞台となるのである。
豊臣秀吉から拝領した城南の土地は、道頓にとって新たな挑戦の始まりであった。彼はこの未開の湿地帯を、大坂の未来を担う新たな経済の中心地へと変貌させる壮大な計画に着手する。その中核をなしたのが、道頓堀の開削であった。
慶長17年(1612年)、道頓は豊臣氏から正式な許可を得て、私財を投じて運河の開削工事を開始した 1 。この事業は、単に堀を掘るだけにとどまらない、複合的な目的を持っていた。
第一に、大坂城の東を流れる東横堀川と、西の木津川とを結ぶことによる 舟運路の確保 である 35 。これにより、全国から大坂に集まる物資を市中へ、また市中で生産された産品を全国へと効率的に輸送する新たな大動脈が生まれる。第二に、掘削によって生じる大量の土砂を利用し、周辺の広大な
湿地帯を埋め立てて宅地化 すること 17 。そして第三に、開発される新市街地への
農業用水や生活用水の供給 である 17 。道頓の計画は、単なる運河建設ではなく、物流、土地造成、水利を一体とした、極めて先進的な総合都市開発事業であった。
この世紀の大事業は、道頓一人の力で成し遂げられたものではない。彼の構想に賛同した複数の有力者が資本、技術、労働力を持ち寄って形成された、一種の「共同事業体(コンソーシアム)」によって推進された 4 。
その中心メンバーは、成安道頓をプロジェクトリーダーとして、河内国久宝寺の豪族であった 安井治兵衛 とその弟 九兵衛(道卜) 、そして道頓と同じく平野郷の有力者であった 平野藤次郎 の四名であった 4 。成安道頓が全体の計画と資金調達を主導し、安井兄弟が土木技術と労働力の差配を、平野藤次郎が地元との調整などを担ったと推察される。これは、特定の目的のために地域の有力者たちが連携する、近世初期の典型的な事業形態であった。
表2:道頓堀開削事業の主要関係者
氏名 |
出自 |
道頓との関係 |
事業における役割(推定) |
成安 道頓 |
摂津国平野郷・七名家 |
― |
プロジェクトリーダー、筆頭出資者、豊臣政権との交渉役 |
安井 道卜(九兵衛) |
河内国久宝寺村・豪族 |
協力者(通説では従弟) |
土木技術担当、労働力差配、道頓死後の事業継承者 |
安井 治兵衛 |
河内国久宝寺村・豪族 |
協力者(道卜の兄) |
土木技術担当、労働力差配(工事途中で病死) |
平野 藤次郎 |
摂津国平野郷・有力者 |
協力者(同郷) |
地元との調整、労働力提供、道卜と共に事業を完成 |
工事は、この地に元々流れていた「梅津川」という小川を大幅に拡幅する形で行われた 4 。当時の土木工事は、現代のような重機は存在せず、鍬や鋤を持った人々の力のみが頼りであった 40 。掘り出された土砂は「もっこ」と呼ばれる運搬具で担がれ、膨大な人手と歳月を要する難事業であったことは想像に難くない。
道頓堀開削は、近世大坂における町人主導の都市開発の象徴的な事例である。大坂では、道頓とほぼ同時期に、豪商・ 淀屋个庵 による中之島の開発 41 や、
岡田心斎 ら商人仲間による長堀川の開削 44 など、有力な町人たちが自らの私財を投じて都市インフラを整備した例が数多く見られる 26 。
これらの町人による「下からの開発」こそが、大坂が「天下の台所」として全国経済の中心地へと飛躍する物理的な土台を築いた。幕府や藩による「上からの開発」だけでなく、自らの利益と町の公共性を両立させようとした商人たちの旺盛な企業家精神が、商都・大坂の比類なきダイナミズムを生み出したのである。成安道頓の事業は、その先駆的な大成功例として、日本の都市史に燦然と輝いている。
道頓堀の開削工事が着々と進められていた矢先、日本の歴史を大きく揺るがす動乱が勃発する。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして翌慶長20年(1615年)の夏の陣である。この戦いは、道頓の運命を劇的に変えることとなった。
道頓堀開削という一大事業の完成を目前にしながら、道頓は豊臣方として大坂城に入城するという決断を下す 7 。当時、多くの大坂商人が徳川方の圧倒的優位を冷静に判断し、日和見を決め込むか、あるいは積極的に徳川に与して戦後の利益を確保しようと動く中で、道頓の選択は異彩を放っていた 29 。
彼を動かしたのは、かつて自分を抜擢し、広大な土地を与えてくれた亡き主君・豊臣秀吉への「恩義」であった 8 。これは、利益を第一に考える「商人」としての合理的な判断を超えた、主君の恩に命をもって報いようとする「武士的」な価値観に基づく行動であった。彼の出自である平野郷七名家が、単なる商人ではなく、地域の支配者として武士的な側面も持ち合わせていたことを考えれば、この決断は彼の生き方の根幹に関わるものであったと言える。彼は、戦国時代の価値観を色濃く宿した、最後の世代の一人だったのである。
当時、道頓は天文2年(1533年)生まれとすれば、実に83歳という高齢に達していた 3 。その老骨に鞭打って籠城したという事実は、彼の豊臣家に対する忠義心の篤さを何よりも雄弁に物語っている。
大坂夏の陣において、道頓は自らが開削を進めていた道頓堀南岸の湿地帯(芦原)の守備を担当したと記録されている 7 。未来の繁栄のために自らが創造していた土地が、皮肉にも最後の戦場となったのである。
慶長20年(1615年)5月7日、大坂城が炎上し落城する前日、道頓はその地で奮戦の末、討死を遂げた 7 。彼の弟である成安長左衛門もまた、道頓と共に戦死したと伝えられている 7 。自らの夢の結晶ともいえる場所でその生涯を閉じた道頓の最期は、彼を単なる成功した事業家から、時代の転換点に殉じた悲劇的英雄へと昇華させた。
成安道頓は戦いに斃れたが、彼が描いた夢は消えなかった。彼の死後、その遺志は意外な人物によって引き継がれ、道頓堀は完成を見る。そして、それは道頓の想像をも超える形で、大坂随一の文化発信地へと変貌を遂げていく。
大坂の陣の後、焼け野原となった大坂の復興を任されたのは、徳川家康の外孫にあたる新城主・松平忠明であった 47 。忠明は、敵方として戦死した道頓の事業を罪に問い、中断させることはしなかった。それどころか、道頓の遺志を継いだ安井九兵衛(道卜)や平野藤次郎らに対し、工事の続行を正式に命じたのである 8 。中断されていた工事は速やかに再開され、運河は道頓が戦死した同じ年、元和元年(1615年)11月にはやくも完成にこぎつけた 7 。
当初「南堀川」などと呼ばれていたこの新たな運河に対し、松平忠明は、その開削者の名を取って「道頓堀」と命名するよう命じた 1 。徳川に弓を引いた敵将の名を、自らが治める町の新たなシンボルに冠するというこの行為は、一見不可解に思える。しかし、これは極めて高度な政治的判断であった。
作家・司馬遼太郎が小説『けろりの道頓』の中で推察しているように、これは徳川への反感が未だ根強い大坂の町人たちの心を和らげ、新しい支配体制への円滑な移行を促すための、巧みな人心掌握術であった可能性が高い 17 。敵であった道頓の功績を公に称揚することで、忠明は自らが大坂の伝統と町人の功績を尊重する、寛大な統治者であることを効果的にアピールしたのである。
道頓の夢を物理的に完成させ、さらにそれを文化的に昇華させたのが、彼の事業パートナーであった安井道卜であった。運河完成後、道卜は松平忠明から道頓堀一帯の開発を任され、惣年寄として地域の発展に尽力した 9 。
彼の最大の功績は、寛永3年(1626年)、当時大坂市中の各所に散在していた芝居小屋を、道頓堀の南岸一帯に集めるという都市計画を断行したことである 1 。これにより、「中座」「角座」「浪花座」「朝日座」「弁天座」からなる「道頓堀五座」が形成され、この地は名実共に関西、ひいては日本を代表する芝居町として爆発的な発展を遂げた 2 。
道頓が構想した「物流と経済の動脈」は、道卜の手によって「文化と娯楽の中心地」へと発展したのである。芝居を観るために大勢の人が集まり、彼らをもてなすための芝居茶屋や飲食店が川沿いに軒を連ねた 52 。この「芝居」と「食」の融合こそが、今日の「食い倒れの街・道頓堀」の直接的な原型となった。成安道頓が土地を創り、安井道卜が文化を呼び込む。この二人の見事な連携プレーが、400年にわたって続く大坂ミナミの繁栄の礎を築いたのである。
時代が下り、大正3年(1914年)、道頓はその功績を認められ、従五位を追贈された 7 。これを記念して、翌大正4年(1915年)、道頓堀開削300年を期して、日本橋の北詰(かつての安井道卜の屋敷があった場所)に巨大な紀功碑が建立された 8 。この碑には、大坂城築城の際に使われなかった「残念石」が用いられていることでも知られる 9 。
また、彼の墓は大阪市中央区の三津寺墓地内にある松林寺に、事業を完成させた安井道卜の墓と共に、供養墓として現存している 6 。
成安道頓の生涯は、史実と創作が交錯する中で、様々な顔を見せてきた。彼の名を不朽のものとしたのは、道頓堀という物理的な遺産だけではなく、その劇的な生き様が後世の人々の心を捉え続けたからに他ならない。
道頓の生涯と人柄を、現代において最も広く知らしめたのは、国民的作家・司馬遼太郎の短編小説『けろりの道頓』であろう 17 。この作品の中で、道頓は常に笑顔を絶やさず、権力におもねらない、大らかで豪放磊落な人物として魅力的に描かれている 56 。しかし、道頓に関する同時代の史料は極めて乏しく、この人物像には作家の創作が多く含まれていることも事実である 17 。本報告書で明らかにした、環濠自治都市・平野郷の支配者層としての一面や、滅びゆく豊臣家への忠義に殉じた武士的な峻厳さといった側面と、創作上の人物像を比較検討することは、歴史的事実が物語としてどのように語り継がれ、変容していくのかという興味深い事例を提供してくれる。
一人の男が抱いた「大坂の町を豊かにしたい」という壮大な夢。そのために掘られた一本の堀は、やがて物流の大動脈となり、芝居町として文化を育み、食の中心地として人々を魅了し、そして400年の時を経て、巨大なネオンサインが煌めく国際的な観光地へと変貌を遂げた 58 。道頓の事業が、いかに長期的で未来を見据えたものであったか、現在の道頓堀の姿が何よりも雄弁に物語っている。
「安井道頓」という通説の影に長く隠されてきた「成安道頓」という実像が、『道頓堀裁判』という現代の出来事をきっかけに再び光を当てられたプロセスは、歴史研究のダイナミズムそのものである。一つの地名に刻まれた男の生涯を深く掘り下げることは、私たちが今、何気なく歩いている街の風景に、新たな歴史の奥行きと文化的な意味を与える。成安道頓の遺産は、道頓堀という水路そのものだけでなく、困難に屈せず未来を切り拓こうとした、その不屈の精神の中にも見出すことができるのである。
表3:安井道頓(成安道頓)関連年表
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物・事項 |
典拠 |
1533年(天文2年) |
成安道頓、生まれる(通説による)。 |
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3 |
1583年(天正11年)頃 |
豊臣秀吉による大坂城築城開始。道頓もこれに従事し、南惣構堀の掘削などで功績をあげる。 |
豊臣秀吉、南惣構堀 |
3 |
時期不明 |
築城の功績により、秀吉から城南の湿地帯を恩賞として拝領する。 |
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21 |
1612年(慶長17年) |
豊臣氏の許可を得て、私財を投じ道頓堀の開削に着手。 |
安井道卜、安井治兵衛、平野藤次郎 |
1 |
1614年(慶長19年) |
大坂冬の陣が勃発。工事が中断する。 |
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7 |
1615年(元和元年)5月7日 |
大坂夏の陣において、豊臣方として大坂城に籠城。道頓堀南岸の守備につき、戦死する(享年83)。 |
豊臣秀頼、成安長左衛門 |
3 |
1615年(元和元年)11月 |
道頓の死後、安井道卜らが事業を継承し、道頓堀が完成する。 |
安井道卜、平野藤次郎 |
7 |
1615年-1619年頃 |
新城主・松平忠明が、道頓の功績を称え、完成した運河を「道頓堀」と命名する。 |
松平忠明 |
1 |
1626年(寛永3年) |
安井道卜が、道頓堀南岸に芝居小屋を誘致。芝居町としての発展が始まる。 |
安井道卜、道頓堀五座 |
1 |
1914年(大正3年) |
「安井市右衛門成安」として、従五位が追贈される。 |
|
7 |
1915年(大正4年) |
道頓堀開削300年を記念し、日本橋北詰に「安井道頓・道卜紀功碑」が建立される。 |
残念石 |
8 |
1965年(昭和40年) |
安井家子孫が国などを相手取り、道頓堀川の所有権確認を求める訴訟(道頓堀裁判)を提起。 |
|
7 |
1976年(昭和51年) |
道頓堀裁判で原告敗訴の判決。判決理由で道頓が「成安氏」出身である説が有力と認められる。 |
佐古慶三、牧英正 |
7 |