本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、安倍元真(あんべ もとざね)の生涯と事績について、現存する史料や伝承に基づき、その出自、主家の変遷の中での動向、徳川家臣としての具体的な活躍、そして後世への影響を多角的に検証し、歴史における役割を明らかにすることを目的とする。元真は、今川家臣として駿河防衛に尽力し、武田信玄の侵攻により困難な状況に直面しながらも、後に徳川家康に仕えて武功を挙げ、その子孫は譜代大名として続く基盤を築いた人物である 1 。なお、元真の姓については「安倍」と「安部」の表記が見られるが 1 、本報告書では主に「安倍元真」として記述し、必要に応じて「安部」の表記にも言及する。特に子孫の岡部藩主家は「安部氏」を称した点に留意が必要である 2 。
表1:安倍元真 略歴
項目 |
内容 |
氏名 |
安倍 大蔵尉 元真(あんべ おおくらのじょう もとざね) |
生没年 |
永正10年(1513年) – 天正15年10月10日(1587年11月10日) 1 |
本姓 |
神氏 1 |
出自 |
駿河安倍氏、信濃滋野氏・諏訪氏の系統と伝わる 2 |
主な主君 |
今川義元、今川氏真、徳川家康 1 |
主な事績 |
駿府城防衛、井川一揆、対武田氏戦での功績 6 |
子 |
安倍信勝(弥一郎) 1 |
孫 |
安部信盛(岡部藩初代藩主) 1 |
安倍元真の理解には、まずその出自と、彼が属した安倍氏の背景を探る必要がある。
安倍元真は、永正10年(1513年)に生まれ、天正15年10月10日(グレゴリオ暦1587年11月10日)に75歳で没したと記録されている 1 。通称は「大蔵尉(おおくらのじょう)」であり、これは当時の武士が官途名を私称として用いたものである 1 。諱(いみな)は元真(もとざね)である。その父は安倍信真(のぶざね)と伝えられている 1 。本姓は神氏(じんし、みわし)とされ、これは信濃の有力氏族である諏訪氏が神氏を称したことと関連する可能性が考えられる 1 。
安倍元真が属した駿河の安倍氏は、駿河国安倍郡安倍谷(現在の静岡市葵区安倍川上流域)を発祥の地とするとされる 3 。その起源については、元は信濃国からの移住であったと伝えられており、信濃の名族である滋野氏(しげのし)、あるいは諏訪氏の一族である諏訪神家(すわしんけ)の系統であるともいわれる 2 。江戸時代の武家系譜集である『寛永諸家系図伝』では、安倍氏の祖を諏訪盛重の子である元真(安倍元真とは別人か、あるいは元真の祖先か)に置いているが、より詳細な『寛政重修諸家譜』では滋野氏を称すると記されており、その出自には複数の伝承が存在する 3 。
この滋野氏との関連は、特に注目される。滋野氏は信濃の古来からの豪族であり、その嫡流は海野氏とされ、真田氏などもこの流れを汲む。安部氏(元真の子孫である岡部藩主家)の家伝によれば、海野幸義の子である頼真を祖とし、南北朝時代には後醍醐天皇の皇子である宗良親王に従った「諏訪神党」の一員として活動したとされる 2 。諏訪神党は、諏訪明神を信仰する信濃の武士団であり、この伝承は安倍氏が信濃において一定の武士としての基盤を持っていたことを示唆する。その後、時期は不明ながら駿河国の安倍谷に移り住み、地名を取って安倍を名乗るようになったという 2 。
このような出自の重層性は、戦国武家の家系意識の複雑さを物語っている。諏訪氏と滋野氏(海野氏)という、信濃における二つの有力な系譜に繋がるという伝承は、単なる血縁関係だけでなく、かつての政治的・軍事的な連携や、移住後のアイデンティティ形成に影響を与えた可能性が考えられる。『寛永譜』と『寛政譜』での記述の差異も、江戸時代における家系の主張の変遷や、どちらの出自をより重視したかという家の意識の変化を反映しているのかもしれない。
家紋についても、この出自の複雑さを反映している。「丸に梶の葉」紋は、諏訪神党に属していたことから、諏訪明神の神紋である梶の葉に由来するとされる 2 。梶の葉は古来より神事に用いられ、諏訪大社や諏訪氏の象徴であった 10 。一方で、同じ滋野氏系の海野氏流である真田氏が用いたことで知られる「六連銭」も、安倍氏(安部氏)は戦時の旗印として使用し、庶流の中にはこれを家紋とした家もあると伝えられる 2 。これら二つの家紋の伝承は、安倍氏が諏訪信仰との繋がりと、滋野氏(海野氏)という武士としての系譜という、複数のルーツを自らのアイデンティティとして保持し、それを象徴的に示そうとしていたことをうかがわせる。
なお、現在の静岡市葵区には安倍城跡が存在するが、この城は南北朝時代に南朝方の狩野氏によって築かれた山城であり、安倍元真の時代の安倍氏との直接的な関係を示す史料は確認されていない 12 。元真の本貫地としての「安倍」は、特定の城郭ではなく、安倍郡一帯の地域を指すものと考えられる。
安倍元真の武将としてのキャリアは、駿河国の戦国大名今川氏への臣従から始まる。
元真は、駿河国の戦国大名であった今川氏に仕えた 1 。主君であった今川義元からは、その諱の一字である「元」の字を与えられ(偏諱)、名を「元真」と名乗ったとされている 1 。偏諱を受けることは、主君との間に特別な主従関係があったことを示すものであり、元真が今川家中で一定の評価を得ていたことをうかがわせる。
今川家における元真の具体的な役職や知行については詳細不明な点が多いが、今川家の家臣団を記したリストには「安倍大蔵尉元真」の名が見える 4 。同リストには「安倍刑部大夫信真」という人物(元真の父か、あるいは近親者か)が「駿河安倍郡井川」を領地としていたと記されており、元真もこの安倍郡井川周辺に勢力基盤を持っていたことが強く推測される 4 。この在地性が、後の彼の行動に大きな影響を与えることになる。
安倍元真の運命を大きく左右したのが、甲斐国の武田信玄による駿河侵攻であった。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏の勢力は急速に衰退し始める 1 。この機に乗じ、武田信玄は今川領国への侵攻を計画する。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄は大軍を率いて駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻) 1 。今川氏の当主であった今川氏真の居城は駿府(現在の静岡市)にあった。この時、安倍元真は、同じく今川家臣であった岡部正綱らと共に、駿府城もしくはその周辺の城砦において武田軍を迎え撃ったと伝えられている 1 。岡部正綱は今川家の譜代の重臣であり、その武勇は知られていた 15 。
しかし、武田軍の猛攻の前に駿府での防衛線は破れ、安倍元真は敗北を喫する 1 。今川氏真は駿府を放棄し、遠江国の掛川城へと逃れた 6 。掛川城では、重臣の朝比奈泰朝らが氏真を迎え入れ、籠城戦を展開することになる 16 。一方、安倍元真は、主君氏真とは行動を共にせず、自らの本貫地である安倍郡井川方面へと退いた 1 。
この敗戦は、元真にとって今川家臣としての立場が事実上終焉に向かうことを意味した。主家が衰退していく中で、多くの国衆や家臣が自らの生き残りをかけて新たな道を模索せざるを得ない状況に置かれた。元真が駿府陥落後に自領へ退いたという行動は、彼が単なる今川家の奉行衆ではなく、安倍郡という地域に強い影響力を持つ在地領主としての性格を強く有していたことを示している。この在地性が、武田氏による支配に抵抗する基盤となり、また、その後の彼の選択を方向づけることになる。
興味深いのは、共に駿府で戦った岡部正綱のその後の動向である。岡部正綱は、武田軍に頑強に抵抗した後、その武勇を信玄に高く評価され、開城して武田氏の家臣となった 6 。これは戦国時代の武将が取り得る現実的な選択肢の一つであった 17 。しかし、安倍元真は岡部とは異なり、武田氏には従わず、井川へと退去した 6 。この時点での武田への非服従という決断が、後に徳川家康へ仕える道へと繋がる重要な伏線となったのである。
駿府を失い、本貫地である安倍郡井川へ退いた安倍元真であったが、そこでも武田氏の圧力が及ぶことになる。
安倍元真は、子の信勝(弥一郎)と共に、安倍郡井川(現在の静岡市葵区井川地区)において、武田氏への抵抗を続けていたと考えられている 6 。井川は山深い地域であり、正面からの攻略が難しい地形であった。これに対し武田信玄(あるいは武田方)は、井川の田代村・小河内村の郷民に対し、安倍氏を討ち取るよう指示し、調略を仕掛けたとされる 6 。この結果、郷民らが一揆を起こし、安倍氏の陣営に夜襲をかけるという事件が発生した。これは「井川一揆」として伝えられている 6 。
武田方が井川の郷民を扇動して安倍氏を攻撃させたのは、直接的な軍事力で制圧しにくい山間部の在地勢力を内部から切り崩すための常套手段であった。この事実は、安倍元真が井川地域において依然として無視できない影響力を保持しており、武田氏にとって完全に制圧しづらい存在であったことの裏返しとも言える。この夜襲により、安倍一族は大きな打撃を受け、一時的に井川の地を離れ、遠江方面へと逃れることを余儀なくされた 6 。
井川を追われた安倍元真親子は、遠江国へと逃れ、そこで三河国の徳川家康に仕えることになった 1 。仕官の具体的な時期については、永禄12年(1569年)の駿河侵攻と井川一揆の後、元亀年間(1570年~1573年)の初頭頃と推測される。一部の記録では「今川氏滅亡後は流浪の末に徳川家康に仕え」と簡潔に記されているが 1 、「井川一揆」の伝承は、この「流浪」の具体的な背景と、徳川家仕官に至る切迫した状況を物語っている。
この時期、徳川家康は今川氏から独立し、遠江国へと勢力を拡大しつつあり、武田信玄とは敵対関係にあった。家康にとって、駿河の地理や旧今川家臣の動向に詳しい安倍元真のような人物の帰属は、対武田戦略上、非常に有益であった。特に井川のような山間部の在地領主であった元真の知識や人脈は、武田軍の兵站線や進軍ルートを把握し、攪乱する上で価値が高かったと考えられる。一方、元真にとっても、武田氏からの圧力を受け、自領を追われた状況下で、旧主今川氏と縁があり、かつ武田氏の敵対勢力である徳川家康に仕えることは、家名存続のための最も現実的な選択であったと言えよう。
徳川家康に仕官した安倍元真は、新たな主君のもとで、かつての仇敵である武田氏との戦いに身を投じることになる。
徳川家康に仕えた後、安倍元真は遠江国伯耆塚城(ほうきづかじょう)に入城したと伝えられている 1 。この伯耆塚城の具体的な所在地や規模については史料が乏しく詳細は不明であるが、遠江国内における対武田戦線の拠点の一つであった可能性が考えられる。
安倍元真は、徳川家臣として各地で武田軍と戦い、数々の戦功を挙げたとされる 1 。その具体的な戦功の一つとして注目されるのが、諏訪原城(現在の静岡県島田市・牧之原市にあった武田方の城)の攻略である。『武徳編年集成』の記述によれば、元亀4年(1573年)頃、「安倍大蔵定吉(さだよし、または、ていきち)」なる人物が徳川方としてこの諏訪原城を攻略したとある 18 。この「安倍大蔵定吉」の通称「大蔵」は元真の通称「大蔵尉」と一致する。諱の「定吉」は元真の「元真」とは異なるが、もしこの「定吉」が元真の別名であるか、あるいは何らかの理由で一時的に名乗った名であるならば、これは元真の具体的な戦功を示す貴重な記録となる。
この諏訪原城攻略の記述で特に興味深いのは、その戦術である。「安倍(駿河)の金堀りを呼び寄せ、外郭から二の丸まで坑道を掘り通し、夜になってから城内の建屋に放火して攻略した」と記されており 18 、鉱山技術を応用した珍しい攻城戦術が用いられたことがわかる。安倍元真の出自が駿河国安倍郡であり、同地には安倍金山が存在したという伝承もあることから 19 、元真が金掘り衆、すなわち鉱山技術者集団を動員できた可能性が示唆される。これが事実であれば、元真は単なる武勇だけでなく、特殊な技術力をも有していたことになり、その多面的な能力が浮き彫りになる。ただし、「定吉」という諱の相違点から、この人物が元真と同一であると断定するには慎重な検討が必要であり、現時点では可能性の一つとして留めておくべきであろう。
また、井川一揆で一時的に本拠を追われた元真であったが、徳川家康の支援を受けて再び井川を治めることに成功し、その後は武田方の山城や砦を次々と攻略したとも伝えられている 7 。井川周辺の地理に明るい元真にとって、地の利を活かした戦いが展開できたものと推測される。
これらの対武田戦における功績により、安倍元真は徳川家康から厚く遇され、知行を与えられた。具体的には、「有度郡八幡村・中田村・宮竹村(現在の静岡市駿河区周辺)、益津郡焼津村・田尻村・矢久次村(現在の焼津市周辺)、志太郡梅地村(現在の藤枝市周辺)、そして旧領である安倍郡井川七ヶ村、さらに遠江国の千頭・利果・大間・鷺坂村」といった広範囲にわたる所領を賜ったと記録されている 7 。この知行地の広がりは、元真の功績が広範囲に認められたこと、そして徳川氏による駿河・遠江両国の支配体制確立への貢献がいかに大きかったかを示している。特に、かつての拠点であった安倍郡井川の地が含まれている点は、家康の元真に対する配慮と、元真の同地への影響力を依然として重視していたことの表れであろう。
さらに、駿府の城下には徳川家康から屋敷を与えられ、これが現在の静岡市葵区「安倍町」の町名の由来になったという伝承も残されている 7 。この伝承の史実性についてはさらなる検証が必要であるが、安倍元真という人物が徳川家康の駿府支配において一定の役割を果たし、地域の人々に記憶されたことを示唆している。
徳川家康のもとで数々の武功を立てた安倍元真であったが、その生涯もやがて終わりを迎える。しかし、彼が築いた礎は、子孫へと受け継がれていく。
安倍元真は、天正15年10月10日(グレゴリオ暦1587年11月10日)に死去した 1 。その菩提寺は、静岡市葵区井川にある竜泉院(りゅうせんいん)であると伝えられており、同寺の裏手には安倍元真(安倍大蔵)の墓とされるものが現存するという 6 。竜泉院は、山間の寺院としては格式が高く、安倍氏との深い関わりを今に伝えている。
安倍元真の跡を継いだのは、子の安倍信勝(のぶかつ)であった。信勝は通称を弥一郎といい 6 、父・元真と共に今川氏に仕え、その後、徳川家康に臣従した。信勝もまた家康に仕えて戦功を挙げたとされ 1 、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入国にも従い、武蔵国岡部(現在の埼玉県深谷市岡部町)において5,300石の知行を与えられた 7 。これが、後の岡部藩の基礎となる。
信勝の子、すなわち安倍元真の孫にあたるのが安倍信盛(のぶもり)である。信盛の代になり、安倍氏(この頃から「安部」の表記が多くなる)は譜代大名としての地位を確立する 1 。慶安2年(1649年)、信盛は大坂城番に任じられ、加増を受けて知行高は1万9千2百石となり、諸侯(大名)に列した 5 。これが武蔵国岡部藩の成立であり、安倍元真から三代にわたる徳川家への忠勤が実を結んだ形となった。
安倍元真・信勝親子の徳川家への貢献は、孫・信盛の代での大名昇格という形で結実した。戦国末期から江戸初期にかけて、主家への忠勤が家格上昇に結びつく典型的な事例と言える。岡部藩主となった安部氏は、その出自を信濃国の名族滋野氏の系統とし、家紋には「丸に梶の葉」や「六連銭」を用いたと伝えられる 2 。これは、安倍元真の時代からの家のアイデンティティが継承されたことを示している。
岡部藩はその後、石高の増減はあったものの、江戸時代を通じて存続し、明治維新を迎えた。維新後は華族令により子爵家に列せられ、安部家は近代までその家名を伝えた 2 。元真の時代には「安倍」の表記が主であったが、子孫の岡部藩主家が「安部」を称するようになった経緯については、提供された資料からは明確ではない。大名家としての新たな出発や、他の安倍姓の氏族との区別など、何らかの意図があった可能性も考えられるが、これは今後の研究課題と言えよう。
安倍元真の名は、彼が活躍した地域において、いくつかの伝承として残されている。前述の静岡市葵区「安倍町」の町名由来の伝承はその一つである 7 。また、本拠地であった井川地区には、菩提寺である竜泉院の存在や、「井川一揆」の逸話などが語り継がれており、安倍元真(安倍大蔵)が地域史において重要な人物であったことを示している 6 。
さらに、元真の婿養子となった海野弥兵衛という人物が井川の郷士として徳川家康の巣鷹役(鷹狩りのための鷹の飼育・調練役)や笹間金山の管理、大日峠の御茶小屋の諸事を担当し、その子孫も海野弥兵衛の名を襲名して安倍町の屋敷も使用していたという伝承もある 19 。この海野氏との関係は、安倍氏の井川におけるネットワークや、徳川家との繋がりを補強する情報として興味深い。これらの伝承の史実性を個々に検証することは困難な場合もあるが、歴史上の人物が後世に与えた影響や、地域社会における記憶のあり方を理解する上で貴重な手がかりとなる。
安倍元真の生涯は、今川氏の衰退と徳川氏の台頭という、戦国時代の大きな転換期を背景として展開された。彼は、主家の危機に際して困難な状況に直面しながらも、自らの判断と行動によって家名を存続させ、結果として子孫を譜代大名へと導く礎を築いた武将であったと言える。
特に、武田信玄による駿河侵攻後、多くの今川旧臣が武田方に靡くなかで、元真が武田に与せず井川に退き、その後、徳川家康に帰属するという選択を下したことは、その後の安倍(安部)家の運命を決定づける重要な岐路であった。この決断がなければ、子孫が譜代大名として栄える道は開かれなかったであろう。
徳川家臣としては、対武田戦における武功が記録されているが、諏訪原城攻略の伝承に見られるような鉱山技術の活用や、井川周辺の地理・人脈を活かした活動など、単なる武勇に留まらない多面的な貢献を果たした可能性も示唆される。これらの能力は、徳川家康による領国拡大と支配体制の確立において、少なからぬ役割を果たしたと考えられる。
安倍元真の生涯は、戦国武将が激動の時代を生き抜き、家名を後世に伝えるために、いかに状況を読み、戦略的な決断を下し、そして主君への忠誠と自家の存続という二つの目標を追求していったかを示す好例である。その事績は、中央の歴史の表舞台で華々しく語られることは少ないかもしれないが、地域史や特定の家の歴史を深く掘り下げることで、戦国という時代の多様な武士の生き様を我々に伝えてくれるのである。
表2:安倍元真 関連年表
和暦 |
西暦 |
関連事項(国内外の主要事件、主家の動向など) |
安倍元真の動向・事績 |
備考(出典など) |
永正10年 |
1513年 |
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安倍元真、誕生。 |
1 |
天文年間~弘治年間 |
1532年~1558年 |
今川氏、駿河・遠江・三河に勢力を拡大。 |
今川義元に仕える。義元より偏諱を受け「元真」と名乗る。 |
1 |
永禄3年 |
1560年 |
桶狭間の戦い。今川義元、織田信長に討たれる。 |
|
1 |
永禄11年 |
1568年 |
武田信玄、駿河侵攻を開始。 |
岡部正綱らと共に駿府で武田軍と抗戦するも敗退。本貫地である安倍郡井川へ退く。 |
1 |
永禄12年 |
1569年 |
今川氏真、掛川城を開城し北条氏を頼る。武田氏、井川の郷民に安倍氏討伐を命じる。 |
井川にて郷民一揆(井川一揆)が発生。安倍元真親子、遠江へ逃れる。この頃、徳川家康に仕官か。 |
6 |
元亀年間~天正初年 |
1570年~1575年頃 |
徳川家康、武田信玄・勝頼と遠江・駿河で抗争。 |
徳川家臣として対武田戦で活動。遠江国伯耆塚城主となる。諏訪原城攻略に関与か(安倍大蔵定吉名義)。 |
1 |
天正3年 |
1575年 |
長篠の戦い。織田・徳川連合軍、武田勝頼軍に大勝。 |
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天正10年 |
1582年 |
武田氏滅亡。本能寺の変。 |
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|
天正15年 |
1587年 |
|
安倍元真、死去(10月10日)。享年75。 |
1 |
天正18年 |
1590年 |
豊臣秀吉、小田原征伐。徳川家康、関東へ移封。 |
(子・信勝)家康の関東入封に従い、武蔵国岡部に5,300石を知行。 |
7 |
慶安2年 |
1649年 |
|
(孫・信盛)大坂城番となり1万9千2百石。武蔵国岡部藩主として諸侯に列する。 |
5 |