最終更新日 2025-05-15

安国寺恵瓊

安国寺恵瓊 ― 戦国乱世に咲いた異能の華、その光と影

序章:安国寺恵瓊とは ― 激動の時代を生きた僧侶大名

安国寺恵瓊(あんこくじえけい、生年不詳~慶長5年10月1日(1600年11月6日))は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、特異な足跡を歴史に刻んだ人物である。臨済宗の僧侶としての顔を持つ一方で、卓越した外交僧として毛利氏に仕え、後には豊臣秀吉の信頼を得て伊予国に6万石の所領を与えられ、大名としても名を連ねたとされる 1 。その生涯は、宗教家、外交官、そして武将・大名という複数の役割をこなし、まさに激動の時代を象徴するものであった。

恵瓊は、単に寺院の運営や仏教の布教に留まらず、戦国大名間の複雑な政治・軍事の舞台において、重要な役割を担った。その弁舌と機知、そして類稀なる洞察力は、時に主家の危機を救い、時には歴史の転換点に深く関与した。しかし、その非凡な能力と野心的な活動は、彼を時代の寵児へと押し上げる一方で、最終的には関ヶ原の戦いにおける西軍への加担という大きな賭けへと導き、非業の最期を迎えることとなる 1

本報告書は、安国寺恵瓊という人物の多面的な生涯を、現存する資料に基づいて丹念に追うものである。彼の出自から仏門への道、毛利氏の外交僧としての活躍、豊臣政権下での飛躍、そして関ヶ原の戦いにおける役割と最期に至るまでを詳述する。さらに、彼に対する「名僧」とも「妖僧」とも評される両極端な歴史的評価の背景を探り、その人物像の複雑さに迫ることを目的とする。恵瓊の生涯は、宗教と世俗権力、忠誠と野心、先見性と破滅といった、一見相反する要素が複雑に絡み合っており、その軌跡を辿ることは、戦国という時代のダイナミズムと、そこに生きた人間の可能性と限界を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれるであろう。

表1:安国寺恵瓊 略年表

年代(西暦)

出来事

典拠例

天文6年(1537年)または天文8年(1539年)

生誕(諸説あり)

4

天文10年(1541年)

安芸武田氏滅亡。安芸安国寺に入り出家

4

天文22年(1553年)頃

京都東福寺にて竺雲恵心に師事

1

永禄11年(1568年)頃

毛利氏の外交僧として活動開始。大友氏との合戦で渉外活動

4

元亀2年(1571年)

毛利元就の書状を携え上京。足利義昭に大友・浦上・三好氏との和議斡旋を依頼

4

元亀3年(1572年)

大友・浦上両氏との和議斡旋に成功

4

天正元年(1573年)

織田信長と足利義昭の調停に関与。信長・秀吉の将来に関する「予言」とされる書状を毛利家臣に送る

1

天正2年(1574年)

安芸安国寺住持となる

4

天正10年(1582年)

本能寺の変。備中高松城の戦いで羽柴秀吉と毛利氏の和睦を調停

1

天正13年(1585年)頃

豊臣秀吉より伊予国に2万3千石(後に6万石に加増との説あり)を与えられる

1

文禄元年~慶長3年(1592年~1598年)

文禄・慶長の役に従軍

1

慶長3年(1598年)

豊臣秀吉死去

2

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いで西軍に属す。敗戦後、捕らえられ京都六条河原にて斬首(享年62歳または64歳説など)

1

第一章:出自と仏門への道

安国寺恵瓊の生涯を理解する上で、その出自と仏門に至る経緯は重要な意味を持つ。彼は安芸国(現在の広島県西部)の守護大名であった安芸武田氏の一族に生まれたとされるが、その正確な生年や父親については諸説が存在する 1 。生年に関しては天文6年(1537年)説と天文8年(1539年)説があり、父親についても武田信重(光広)とする説や、信重の父である伴繁清とする説が見られる 4 。いずれにせよ、彼が名門武田氏の血を引くことは確実視されている。

恵瓊の幼少期は、戦国時代の常として波乱に満ちていた。天文10年(1541年)、毛利元就の攻撃によって安芸武田氏は滅亡の途を辿る 4 。この時、幼い恵瓊(幼名・竹若とも 1 )は家臣に連れられて難を逃れ、安芸国の安国寺(現在の不動院)に入り、出家の道を選んだ 4 。この安国寺入山が、後の彼の人生を大きく左右することになる。 7 の記述によれば、落城の際、父は「武田の誇りをしかと胸に刻み、そなたの手で武田を再興せよ」と言い残したとされ、若き恵瓊の胸中に複雑な思いが去来したであろうことは想像に難くない。仇敵である毛利氏によって一族を滅ぼされたという事実は、彼のその後の人生において、常に影を落としていた可能性も否定できない。

仏門に入った恵瓊は、その後京都へ上り、臨済宗の大本山である東福寺の門を叩いた。そこで彼は高僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となり、禅の修行に励むことになる 1 。この竺雲恵心は、毛利元就の嫡男・毛利隆元と親交があったため、これが奇しくも恵瓊と毛利氏を結びつける最初の接点となった 4 。師を通じて生まれたこの縁は、恵瓊が後に毛利氏の外交僧として活躍する道を開くことになる。運命の皮肉とも言うべきこの巡り合わせの中で、恵瓊は過去の怨恨を乗り越え、現実的な道を歩み始める。ある逸話では、毛利元就から出自を問われた恵瓊が「禅僧に過去などございませぬ」と応じたとされ、彼の並外れた精神力と状況適応能力が窺える 7

僧侶としての恵瓊は、優れた才覚を発揮し、その地位を高めていった。天正2年(1574年)には安芸安国寺の住持となり、その後も備後国鞆の安国寺住持を兼任、さらには東福寺や京都五山の別格とされる南禅寺の住持にも就任し、中央禅林における最高の地位にまで上り詰めた 1 。また、建仁寺の方丈を安国寺から移築するなど寺院の再興にも尽力し、大内義隆が建立した凌雲寺仏殿を安国寺に移築するなど、文化的貢献も果たしている 4 。彼が「安国寺恵瓊」という名で広く知られるのは、彼が住持した安国寺に由来するが、一説には、武田氏滅亡後に自身を庇護し、人生の転機を与えた安国寺への深い恩義の念が込められていたのではないかとも言われている 4 。この名は、彼のアイデンティティ形成において重要な意味を持っていたのかもしれない。

第二章:毛利氏の外交僧としての暗躍

安国寺恵瓊の才能は、仏門における研鑽のみならず、乱世を生き抜くための現実的な交渉能力においても発揮された。師である竺雲恵心が毛利氏の帰依を受けていた関係から、恵瓊は早くから毛利氏に仕える外交僧としての道を歩み始める 4 。彼の名は、やがて毛利氏の外交戦略において欠くことのできない存在となっていく。

恵瓊の初期の外交活動としては、九州の雄・大友宗麟との多伏口の合戦(たぶせぐちのかっせん)において、博多の町衆に堀の工事を命じるなど、後方支援に関わる活動が見られる 4 。また、永禄11年(1568年)に再び大友氏と干戈を交えた際には、恵瓊も従軍し、周辺の諸豪族を毛利側の味方とするための渉外活動を行い、戦局を有利に進める上で貢献した 4 。これらの活動は、彼が単なる使僧ではなく、戦略的な思考と実行力を兼ね備えた人物であったことを示している。

中央政局との関わりも、恵瓊の外交僧としてのキャリアにおいて重要な位置を占める。元亀2年(1571年)、恵瓊は毛利元就の書状を携えて上洛し、室町幕府第15代将軍・足利義昭に対して、毛利氏と敵対関係にあった大友氏、浦上氏、三好氏との和議の斡旋を依頼した。この時、義昭は三好氏との調停には難色を示し、交渉は一部不調に終わったものの、翌元亀3年(1572年)には、三好氏を除く大友・浦上両氏との講和について義昭の了承を得ることに成功している 4 。これは、恵瓊が中央政権との複雑な交渉を担うだけの能力を持っていたことを物語る。

さらに、織田信長と足利義昭の対立が先鋭化する中で、恵瓊は毛利氏の使者として両者の間に立ち、調停を試みている。天正元年(1573年)、信長によって京都を追放された義昭が和泉国堺に移ると、信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らを派遣して義昭の帰京を促した。この会談に恵瓊も毛利氏の代表として参加したが、義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため、交渉は決裂した。この時、恵瓊は義昭が西国へ下向してくることを望まない旨を伝えており、毛利氏の戦略的判断を反映した動きを見せている 4 。天正4年(1576年)に義昭が毛利氏を頼って備後国鞆(とも)に移った後も、恵瓊は宇喜多直家と手を切り、織田信長と結ぶべきであると主張したが、これは毛利家中枢には受け入れられなかった 4 。この進言は、旧体制である幕府に固執するよりも、新興勢力である織田氏との関係を重視する、恵瓊の現実主義的な情勢分析と先見の明を示すものであったと言えよう。

恵瓊の外交手腕が最も劇的に発揮されたのは、天正10年(1582年)の本能寺の変に際してである。当時、毛利氏は羽柴秀吉率いる織田軍と備中高松城で対峙していた。信長の横死という報がもたらされると、秀吉はこれを秘匿しつつ、毛利氏との和睦交渉を急いだ。この危機的状況下で、毛利側の交渉代表を務めたのが恵瓊であった 1 。当初、秀吉は備中・備後・美作・伯耆・出雲の5ヶ国の割譲を要求していたが、本能寺の変の報が毛利方に伝わる前に、恵瓊は高松城主・清水宗治の切腹を条件に、割譲国を備中・美作・伯耆の3ヶ国とする和睦案をまとめたとされる 4 。一説には、恵瓊は秀吉の将来性を見抜き、積極的に和睦を成立させたとされ、その際に毛利氏が滅亡した場合には小早川秀包(毛利元就の子)と吉川広家(元就の孫)を秀吉の家臣として取り立てるよう、逆に条件を付けたとも伝えられている 4 。この交渉は、毛利氏の被害を最小限に抑えるとともに、秀吉の「中国大返し」を可能にし、その後の天下取りへの道を拓く上で決定的な意味を持った。恵瓊のこの時の働きは、彼自身にとっても大きな転機となり、秀吉からの信頼を勝ち得るきっかけとなったのである。彼が単に主家の意向を伝えるだけでなく、状況を動かす触媒としての役割を果たしたことが、後の彼の影響力の源泉となったと考えられる。

第三章:豊臣政権下での飛躍と葛藤

本能寺の変後の巧みな和睦交渉によって羽柴秀吉の信頼を得た安国寺恵瓊は、豊臣政権下でその存在感を一層高めていく。毛利氏が秀吉に臣従する際の交渉においても恵瓊は重要な役割を果たし、秀吉の側近としても取り立てられるようになった 2 。僧侶という立場でありながら、中央政権の深部に関与していく彼の姿は、戦国乱世ならではの流動的な身分制度と実力主義を象徴している。

恵瓊の功績は、寺領の安堵や寺院の復興に留まらなかった 1 。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)などでの働きが評価され、秀吉から伊予国和気郡を中心に2万3千石、後には6万石の所領を与えられ、大名としての待遇を受けたとされる 1 。僧侶出身の人物が大名に取り立てられるのは異例のことであり、これは秀吉の恵瓊に対する評価がいかに高かったかを物語っている。ただし、彼が正式な大名であったか否かについては諸説あり、その立場が当時の基準から見て特異であったことを示唆している 2

豊臣政権下での恵瓊は、外交官としてだけでなく、武将としての一面も発揮する。四国征伐においては、毛利軍と大坂の間の連絡役を務め、九州征伐では豊臣政権の外交官として従軍し、各勢力との調整や交渉にあたった 2 。さらに、肥後国人一揆の鎮圧にも出陣し、調略を用いて田中城を落城させるなどの武功を挙げている 2 。この肥後国人一揆では、大田黒城の大津山家稜を偽りの講和で誘い出して謀殺し、降伏した内空閑鎮房を宴席で謀殺するなど、目的のためには非情な手段も辞さない冷徹さを見せた 4 。これらの行為は、彼の「悪僧」という評価の一因となった可能性も否定できない。また、小田原攻めにも参陣し、文禄・慶長の役では小早川隆景率いる六番隊の一員として朝鮮へ渡海し、戦闘に参加して敵将を討ち取ったという記録も残っている 4

しかし、豊臣政権の中枢に近づく一方で、恵瓊は毛利家への配慮も忘れなかった。秀吉の側近という立場にありながら、毛利家の九州への国替えの噂を小早川隆景に内々に伝えたり、毛利輝元の後継者問題において、輝元の甥である毛利秀元が養子として認められるよう尽力したりしている 2 。毛利家が豊臣政権内での地位を維持し、向上させるために、恵瓊は陰に陽に動き続けた。特に、毛利家の重鎮であった小早川隆景とは親しく、秀吉と隆景の間を取り持つ連絡役のような役割も果たしていた 4 。隆景の死後、恵瓊は毛利家の将来を深く危惧したと伝えられている 4

僧侶から外交僧、そして大名格へと立場が変化する中で、恵瓊のアイデンティティや忠誠の対象にも複雑な揺らぎが生じたであろうことは想像に難くない。豊臣家臣としての立場と、毛利家への恩義や配慮との間で、彼は常に難しいバランスを取ることを強いられた。毛利家が大坂城へ参勤した際、恵瓊が豊臣家側の人間として毛利家臣団を迎えたという記述は 2 、彼の置かれた二重の立場を象徴的に示している。彼の台頭は、秀吉政権下における実力主義の一つの現れであったが、同時に、僧侶が大名となることへの伝統的な価値観からの違和感や反発も存在したかもしれない。こうした状況が、彼に対する評価を一層複雑なものにしたと考えられる。

第四章:関ヶ原の戦いと非業の最期

豊臣秀吉の死(慶長3年・1598年)、そして毛利家の重鎮であった小早川隆景の死(慶長2年・1597年)は、豊臣政権の内部に大きな動揺をもたらした 2 。五大老筆頭の徳川家康が急速に影響力を強める一方で、石田三成ら奉行衆との対立が先鋭化し、政権は分裂の危機に瀕していた。この緊迫した状況下で、安国寺恵瓊は人生最大の賭けに出ることになる。

恵瓊は、家康の台頭によって毛利家の政権内における地位が低下していくことを予測し、石田三成らと連携して家康に対抗する道を選んだ 2 。毛利家中には、吉川広家のように親徳川的な慎重論を唱える者もいたが、恵瓊はこれを振り切り、当主である毛利輝元を説得して西軍への加担を推し進めた 2 。彼の「洞察力」は、この局面においては毛利家を大きな戦乱へと導く結果となった。

恵瓊は、懇意であった石田三成と通じ、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させることに成功する 2 。これは西軍の体制を整える上で極めて大きな意味を持ち、恵瓊の策謀と影響力の大きさを物語っている。さらに、かつて外交僧として培った人脈を駆使し、九州の島津氏など各地の諸大名を西軍に引き入れるための調略活動も展開した 2 。京都の東福寺の塔頭である同聚院(どうじゅいん)には、恵瓊が石田三成や宇喜多秀家と共に、徳川家康打倒の密議を凝らしたとされる茶室「作夢軒(さくむけん)」が残っており 6 、関ヶ原開戦前の具体的な策謀の一端を今に伝えている。

しかし、慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原で雌雄を決した天下分け目の戦いは、恵瓊の思惑通りには進まなかった。西軍の総大将として大坂城にいた毛利輝元と、関ヶ原に布陣した毛利秀元・吉川広家らの軍勢は、広家が徳川家康と内通していたため、本戦で積極的に動くことができなかった 2 。さらに、西軍に属していた小早川秀秋の裏切りが決定打となり、西軍は総崩れとなって大敗を喫した 2 。恵瓊の壮大な計画は、毛利家内部の不協和音や、敵方の巧みな調略によって、脆くも崩れ去ったのである。かつて秀吉の台頭を予見したとされる恵瓊の洞察力も、この最大の危機においては、自軍の足並みの乱れや家康の深謀遠慮を見抜くことができなかった。

敗戦後、恵瓊は西軍の首謀者の一人として捕らえられた。そして同年10月1日、京都の六条河原において、石田三成や小西行長らと共に斬首され、その首は三条大橋に晒された 1 。享年は62歳とも64歳とも伝えられる 1 。一説には、恵瓊は毛利家への罪が及ぶことを避けるため、西軍参加の責任を一身に背負い、処刑されたとも言われている 2 。彼が毛利家に対して一定の忠誠心を持ち続けていたことを示唆する一方で、結果として彼は西軍敗北の責任を負わされる「スケープゴート」としての側面も持つことになった。彼の辞世の句として伝えられる「清らかな風が明月を払い清め、明月の光が清らかな風を払い清める」(原文:清風払明月 明月払清風)は、禅語からの引用であり、彼の最期の心境を静かに物語っている 5

第五章:人物像の多面性 ― 「名僧」か「妖僧」か

安国寺恵瓊という人物は、その複雑な生涯と劇的な最期も相まって、後世様々な評価を受けてきた。彼の人物像は一面的に捉えることが難しく、「名僧」としての側面と、「妖僧」「悪僧」といった負の側面が混在している。

恵瓊の卓越した能力を示す逸話として最も有名なのが、その先見の明、いわゆる「恵瓊の予言」である。天正元年(1573年)12月12日付で毛利家の重臣である児玉三右衛門らに宛てた書状の中で、彼は織田信長の将来について「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」と記し、その治世が長くは続かず、やがて失脚することを示唆した。さらに同じ書状で、当時まだ木下藤吉郎と名乗っていた羽柴秀吉について「藤吉郎さりとてはの者にて候」と評し、その非凡な将来性を見抜いていたとされる 5 。この書状が書かれたのは本能寺の変の9年前であり、この予言の的中は、恵瓊の洞察力の鋭さを示すものとして語り継がれている。この予言が、後に豊臣秀吉が構想したとされる「天下の仕置の絵図」(天下統一の青写真)と直接的な関連があったかについては明確な史料はないものの 2 、恵瓊の洞察が秀吉の行動に何らかの影響を与えた可能性は否定できない。

外交における恵瓊は、生来機略縦横な弁才に富んでいたと評される 1 。しかし、その交渉術は単なる弁舌の巧みさに留まらず、時には冷徹な謀略も辞さないものであった。前述の通り、肥後国人一揆の際には、偽りの和議で相手を誘い出して謀殺するなど、非情な手段も用いている 4 。また、本能寺の変後の秀吉との和睦交渉において、毛利氏が滅亡した場合に備えて小早川秀包や吉川広家を秀吉の家臣とするよう条件を付けたとされる逸話は 8 、彼のしたたかさを示している。

こうした恵瓊の行動や能力に対して、評価は大きく分かれる。一方では「聖人君子」のようだと評されたり 12 、その優れた「洞察力」が高く評価されたり 2 、加来耕三氏のように「当時の日本最高の知識人、東大の学長に匹敵するほどの地位を有していた」とまで称賛する声もある 7 。しかしその反面、「妖僧」「悪僧」といった否定的なレッテルも貼られてきた 4

このような評価の分岐は、いくつかの要因によって生じたと考えられる。まず、彼の政治的立場である。関ヶ原の戦いで徳川家康と敵対した西軍の首謀者の一人であったことは、江戸時代を通じて編纂された史書において、彼を否定的に描く一因となったであろう 4 。また、目的達成のためには謀略も辞さない冷徹な手段は、当時の価値観から見ても、また現代の倫理観から見ても非難の対象となり得た 4 。さらに、僧侶という身でありながら大名となり、政治や軍事の深部に関与したこと自体が、伝統的な身分秩序を重んじる人々からは異端視され、違和感や反発を招いた可能性も考えられる 4 。加えて、 12 12 12 で触れられているように、酒癖が悪く、当時の主君であった毛利輝元の小姓に手を出したといった男色に関する逸話など、個人的な欠点も彼の評価に影響を与えたかもしれない。

一方で、恵瓊の人間的な側面を伝える逸話も残されている。老母が病に罹った際には、公務を欠席して看病にあたったことを示す書状が存在し、母への細やかな配慮が窺える 4 。また、関ヶ原敗戦後、捕縛の辱めを受けるよりは自らの手でと促す家臣に対し、首を縮めて逃げ回ったという、板坂卜斎が記したとされる逸話は 4 、英雄的とは言えない、彼の生への執着や人間的な弱さを示しているのかもしれない。

恵瓊に対する評価の多様性は、彼が生きた時代の価値観や、後の時代の視点によっても大きく左右される。特に「妖僧」「悪僧」という評価は、徳川幕府の正統性を強調する歴史観の影響も無視できない。彼の「予言」にしても、超自然的な能力というよりは、鋭い情勢分析と人間観察眼の賜物であった可能性が高く、後世にその的中が強調される中で、結果論的な解釈や脚色が加わった側面も考慮すべきであろう。「さすがの恵瓊も、関ヶ原の戦いの前に自分自身の未来を予言することはできなかったようだ」という指摘は 5 、彼の能力が万能ではなく、あくまで人間的なものであったことを示唆している。

終章:安国寺恵瓊が歴史に遺したもの

安国寺恵瓊の生涯は、僧侶として出発しながらも、外交官、武将、そして大名格という多様な顔を持ち、戦国末期から安土桃山時代という日本史上屈指の激動期を、まさに縦横無尽に駆け抜けたものであった。彼の存在は、当時の社会の流動性と、個人の才覚が時に身分や既成概念を超えて発揮され得たことを示している。

恵瓊が歴史に与えた影響は多岐にわたる。毛利氏の外交僧としては、特に本能寺の変後の羽柴秀吉との和睦交渉を成功させ、毛利氏の存続に大きく貢献した。豊臣政権下においては、秀吉の信頼を得て政権運営の一翼を担い、外交・軍事の両面で活動した。その一方で、毛利家の利益代表としての側面も持ち続け、豊臣政権内における毛利家の地位維持にも腐心した。そして最終的には、関ヶ原の戦いにおいて西軍の組織化に深く関与し、その敗北という歴史的帰結の一翼を担うこととなった。

彼の生涯は、後世に多くの教訓と示唆を遺している。時代の変化を鋭敏に読み解く洞察力の重要性、しかし同時に、いかに優れた洞察力をもってしても、複雑に絡み合う人間関係や予測不可能な事態の展開によって、その限界が露呈することもあるという現実。そして、一個人の意思決定が、特に指導的立場にある者の場合、いかに大きな歴史的影響をもたらし得るかという重みである。

安国寺恵瓊は、既存の枠組み、例えば単なる「僧侶」や「武士」といったカテゴリーには収まりきらない「異分子」として、時代の転換期に特異な役割を果たしたと言えるだろう。彼の存在は、戦国時代の社会の多様性とダイナミズムを象徴すると同時に、そのような異能の人物が台頭し、そして歴史の波に呑まれて消えていく過程を通じて、やがて徳川幕府という新たな、より強固な秩序が形成されていったことを示唆している。彼の評価が「名僧」と「妖僧」の間で揺れ動くこと自体が、彼という人間の多面性と、彼が生きた時代の複雑さを如実に物語っているのである。安国寺恵瓊という人物を多角的に考察することは、戦国乱世という時代、そしてそこに生きた人間の可能性と悲劇性を深く理解するための一つの鍵となるであろう。

引用文献

  1. 安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA%E6%81%B5%E7%93%8A-14471
  2. 秀吉と隆景から評価された安国寺恵瓊の「洞察力」 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/39675/2
  3. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 安国寺恵瓊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA%E6%81%B5%E7%93%8A
  5. 安国寺恵瓊の辞世 戦国百人一首82|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n9ea2138ca7a0
  6. 外交僧か?戦国大名か?安国寺恵瓊の生き方|山村純也 - note https://note.com/rakutabi2005/n/n35ed4d221563
  7. 安国寺恵瓊 - BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/no2/66.html
  8. 安国寺恵瓊 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ankokuji-ekei/
  9. 安国寺恵瓊~毛利は動かず…それでも外交僧が胸に抱き続けたもの https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5626
  10. 退耕庵(東福寺) - コトログ京都 https://www.kotolog.jp/post/%E9%80%80%E8%80%95%E5%BA%B5%28%E6%9D%B1%E7%A6%8F%E5%AF%BA%29/
  11. 安芸の空 ~安国寺恵瓊の策謀~(結城藍人) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054883010868
  12. 酒癖が悪く男児好き…!僧侶・安国寺恵瓊の生涯「本能寺の変」も ... https://mag.japaaan.com/archives/235882