安宅治興は淡路水軍の領主。洲本城を築き三好冬康を養子に迎え、三好政権の海路を支えた。謎多き生涯だが、一族の発展を導いた戦略家。後に織田信長と対峙し滅亡するも、洲本城は遺産として残る。
日本の戦国時代、数多の武将が歴史の表舞台でその名を馳せた。しかし、その影で時代の潮流を的確に読み、一族の運命を左右する重大な決断を下しながらも、自身の詳細な記録をほとんど残さなかった人物も存在する。淡路国の水軍領主、安宅治興(あたぎ はるおき)はその典型例と言えよう。彼の名は、今日、主に淡路国・洲本城の築城者として、そして畿内に覇を唱えた三好長慶の弟・冬康の養父として記憶されるに留まる 1 。
ご依頼者が既に把握されているこの基礎的な情報から一歩踏み込み、本報告書は「安宅治興」という人物の生涯と、彼が生きた時代の全体像を、あらゆる角度から徹底的に調査し、解明することを目的とする。
しかしながら、安宅治興本人に関する直接的な史料は極めて限定的である。彼の生没年や具体的な人物像を伝える記録は乏しく、その生涯を一直線に追うことは困難を極める。したがって、本報告書では、治興という一点のみを注視するのではなく、彼を理解するための鍵となる四つの側面、すなわち「治興本人に関する記録と謎」「彼が率いた安宅一族の通史」「彼が築いた洲本城の変遷」、そして「彼が養子とした安宅冬康の生涯と、その後の安宅氏の動向」から多角的に光を当てるアプローチを採用する。これは、点としての人物史ではなく、線と面で歴史を捉え、断片的な情報から治興の実像と彼が果たした歴史的役割を立体的に再構築する試みである。
この分析を通じて、安宅治興の生涯を追うことが、単に一個人の伝記を辿る作業に非ずして、紀伊半島を起源とする一水軍勢力が、淡路島を戦略的拠点として畿内の政治力学に深く関与し、やがて時代の大きな波に呑まれていくという、戦国時代の一つの縮図を明らかにすることに繋がるであろう。本報告書は、謎多き武将・安宅治興が、日本の歴史に刻んだ確かな足跡を浮き彫りにすることを目指すものである。
安宅治興の人物像に迫る上で、数少ないながらも複数の史料で一致して語られるのが、洲本城の築城と安宅冬康との養子縁組という二つの大きな事績である。これらは彼の歴史的役割を定義づける確固たる基盤であるが、同時にその出自や実名を巡っては多くの謎と異説が存在する。
安宅治興の最も確実かつ重要な功績は、大永六年(1526年)、淡路国三熊山に洲本城を築いたことである 1 。当時、安宅氏は由良(現在の洲本市由良)を本拠地としていたが、大阪湾の制海権を掌握し、淡路島全域に影響力を行使するための新たな戦略拠点として、この地を選んだと考えられる 3 。この洲本城築城は、安宅氏が淡路における支配体制を一層強固なものにしたことを示す象徴的な出来事であった。
もう一つの重要な事績は、当時阿波を本拠に畿内へ勢力を拡大しつつあった三好氏の当主・三好元長の三男、後の安宅冬康を養嗣子として迎え入れたことである 1 。これは単なる家督相続の問題に留まらない。淡路水軍の頭領たる安宅氏が、戦国の一大勢力である三好氏と完全に一体化し、その強力な軍事力、特に海軍力の中核を担うことを内外に示す、極めて高度な政治的・軍事的決断であった。この養子縁組により、安宅氏は三好一門としての地位を確立し、治興は冬康の養父、すなわち三好長慶の義理の叔父という立場を得ることになった 7 。
治興の確固たる事績の裏で、彼の出自や実名については複数の説が錯綜しており、人物像を複雑にしている。
第一に、洲本城の築城年に関する異説である。江戸時代の地誌『淡路四草』には、大永六年の治興築城説に加え、それより16年も早い永正七年(1510年)に「安宅河内守冬一」なる人物が築城したという説も併記されている 8 。これは、治興の時代以前から安宅氏による洲本への進出計画が存在した可能性を示唆する。
第二に、安宅秀興(ひでおき)という人物との関係である。一部の資料では、永正七年(1510年)に洲本城を築き、永正十六年(1519年)には三好元長と共に淡路守護・細川尚春を謀殺した人物として「安宅監物秀興」の名が挙げられている 10 。この秀興の存在は、治興の事績とされる洲本城築城や三好氏との連携が、彼一代で完結したものではなく、一族内での継続的な方針であった可能性を浮上させる。
これらの情報から、ある研究者は、大永七年(1527年)に安宅秀興が安乎八幡社を遷座させた記録があることから、その後に秀興が亡くなり、跡を継いだ子の吉安が「治興」と改名したのではないか、という仮説を提示している 11 。この仮説が正しければ、「秀興」と「治興」は親子、あるいは何らかの近しい血縁関係にあった可能性が高い。治興の官途名が「隠岐守」 8 、秀興が「監物」 10 とされることから別人である可能性も高いが、いずれにせよ、治興が登場する背景には、一族内での権力移行や路線継承があったと見るのが自然であろう。
これらの錯綜した情報から浮かび上がるのは、安宅治興が単なる一城主ではなく、一族の路線を決定づけた「戦略的経営者」であったという側面である。彼個人の武勇伝が記録に残りにくいのは、個人の武功よりも、一族全体の存続と発展という大局的な視点から行動したためかもしれない。「洲本城築城」というインフラ投資と、「冬康の養子縁組」という他勢力とのM&A(合併・買収)にも似た戦略的提携は、いずれも長期的な視野に立った経営判断そのものである。『安宅一乱記』などの軍記物が示唆する一族内の内訌 10 を乗り越え、外部の強力な後ろ盾を得て一族の飛躍を図った治興の姿は、戦国の「武将」というよりも、むしろ近代的な「経営者」のそれに近い。彼の名は、安宅氏が淡路の地域的国人領主から、畿内政治の中枢を担う広域勢力へと飛躍を遂げた、まさにその「転換点」を象徴しているのである。
人物名 |
続柄・関係 |
活動時期(推定) |
主な事績・備考 |
典拠 |
安宅治興 (はるおき) |
隠岐守。冬康の養父。 |
大永年間 (1521-1528) 中心 |
大永六年 (1526) に洲本城を築城。三好氏との同盟を主導。 |
1 |
安宅冬康 (ふゆやす) |
三好元長の三男。治興の養子。摂津守。 |
天文~永禄年間 (1532-1564) |
淡路水軍を率い三好政権を支える。「仁将」と称された。永禄七年 (1564) に兄・長慶により誅殺。 |
6 |
安宅信康 (のぶやす) |
冬康の長男。通称は神太郎。 |
永禄~天正年間 (1564-1578) |
父の跡を継ぎ淡路水軍を率いる。当初は反織田、後に帰順し毛利水軍と戦う。天正六年 (1578) 病死。 |
13 |
安宅清康 (きよやす) |
冬康の二男。信康の弟。 |
天正年間 (1578-1581) |
兄の死後家督を継ぐ。天正九年 (1581) 羽柴秀吉に降伏後、同年に病死。淡路安宅氏の滅亡。 |
16 |
安宅秀興 (ひでおき) |
監物。治興との関係は諸説あり。 |
永正~大永年間 (1510-1528頃) |
永正七年 (1510) 洲本城築城説の主。三好元長と連携し細川尚春を謀殺。 |
10 |
安宅冬一 (ふゆかず) |
河内守。 |
永正年間 (1504-1521) |
永正七年 (1510) 洲本城築城説のもう一人の主。 |
8 |
安宅治興の戦略的決断の背景を理解するためには、彼が率いた安宅一族が、いかにして淡路島に根を張り、強力な水軍勢力へと成長したのか、その歴史を遡る必要がある。安宅氏の発展史は、紀伊の海から始まり、瀬戸内海の覇権を巡る経済と軍事の物語そのものである。
安宅氏のルーツは、紀伊国牟婁郡安宅荘(現在の和歌山県西牟婁郡白浜町日置川地区)を名字の地とする海洋勢力にある 19 。彼らは熊野三山を核とする海の武士団、いわゆる熊野水軍の一翼を担い、日置川河口を拠点に水上での活動を得意とした 20 。その本姓は橘氏、あるいは清和源氏小笠原氏流とも伝えられるが、いずれにせよ、古くから海と共に生きてきた一族であった 12 。
鎌倉時代には、現地の荘官としてその名が見え始め 20 、後には紀伊国守護であった北条氏の被官として活動していた記録も残る 20 。このことは、安宅氏が単なる在地領主ではなく、中央の政治権力とも結びつきを持つ、組織化された武士団であったことを示している。
安宅氏が歴史の表舞台でその水軍としての能力を明確に示すのは、南北朝時代である。観応元年(1350年)、室町幕府の足利義詮(後の2代将軍)より、淡路国沼島を拠点とする海賊の退治を命じられたことが、淡路への本格的な関与の始まりとされる 19 。この任務の成功により、彼らは幕府から阿波国内に所領を与えられ、紀伊から四国、淡路へと活動範囲を広げる足掛かりを築いた 20 。
この「海賊退治」という任務は、単なる軍事行動以上の意味を持っていた。それは、畿内と西国を結ぶ海上交通路の安全確保という、当時の経済活動にとって死活的に重要な役割を担うことであった。安宅氏は、この海の安全保障を担うことで自らの価値を高め、淡路島に土着。室町時代には淡路守護であった細川氏の有力な家臣として、その地位を確固たるものにしていった 21 。
戦国時代に入り、応仁の乱以降、中央の権威が揺らぐ中で、淡路にも変革の波が訪れる。永正十六年(1519年)、阿波の三好之長が淡路に侵攻し、守護であった細川尚春を滅ぼした 8 。これにより淡路は権力の空白地帯となり、在地領主が実力で勢力を拡大する下剋上の時代に突入する。
この好機を逃さず、安宅氏は島内各地に勢力を急拡大させた。一族は洲本、由良、炬口、安乎、岩屋など、淡路の主要な港湾を抑える8つの家に分かれ、連合体を形成して島内を支配した。これは「安宅八家衆」と呼ばれ、安宅治興はこの八家衆の中でも、洲本を拠点とする最も有力な一派の当主であったと考えられる 8 。
安宅氏の発展の歴史は、彼らが「海の道」の支配者であったことを明確に示している。彼らの力は、領地の石高だけでなく、支配する航路の経済的・軍事的価値によって測られるべきである。大型軍船が「安宅船」と呼ばれるようになった由来は定かではないが 22 、一族の名が軍船の代名詞となるほど、彼らの影響力は絶大であった。後の時代、徳島藩では水軍基地やその周辺の町一帯が「安宅」と呼ばれ、藩の最重要施設として厳重に管理されたことからも 23 、その名が持つ重みが窺える。安宅治興が三好氏という新たな時代の覇者と手を結んだのは、この海の利権を最大化し、一族の更なる発展を目指した、必然的な選択であったと言えよう。
守護細川氏が衰退し、阿波から三好氏が台頭する激動の時代、安宅治興は一族の未来を賭けた大きな決断を下す。それは、当時まだ若き三好元長の三男・冬康を養子に迎え、安宅氏の家督を継がせるというものであった 1 。この決断は、安宅氏を三好一門へと組み込み、その強力な水軍力を三好政権の海軍として機能させることで、戦国中期の勢力図を塗り替えるほどの戦略的価値を持っていた。
治興による冬康の養子縁組は、単なる同盟関係の構築を超えた、陸軍(三好本隊)と海軍(安宅水軍)の指揮系統を「三好一門」という強固な枠組みで統合するものであった。これにより、三好長慶は、本拠地である四国(阿波・讃岐)から、経済の中心地である畿内(和泉・摂津・河内)へ至る、淡路島を経由した補給線と軍事展開ルートを完全に掌握した 26 。これは、長慶が父・元長の非業の死を乗り越え、天下統一事業を推し進める上で、決定的に重要な一手となった。安宅水軍という強力なピースを得たことで、三好政権は当時類を見ない「陸海一体の機動力」を手に入れたのである。
この体制は、長兄の長慶が畿内の軍勢を、次兄の実休(三好之虎)が阿波衆を、そして冬康が淡路衆(安宅水軍)を、四男の十河一存が讃岐衆を率いるという、兄弟による見事な役割分担によって機能した 6 。治興の決断は、この三好兄弟による軍事ブロックの、海路という生命線を担うという形で結実したのである。
治興から家督を継いだ安宅冬康は、武勇に優れるだけでなく、穏やかで情け深い「仁将」として人望が厚かったと伝えられる 6 。また、和歌や書を嗜む文化人としての一面も持ち合わせていた 12 。兄・長慶が驕りを見せた際には、鈴虫を贈って命の尊さを説き、諫めたという逸話も残っている 26 。この人柄が、荒々しい海の武士団である安宅水軍を巧みに統率する上で、大きな力となったことは想像に難くない。
冬康率いる安宅水軍は、三好政権の主要な合戦において、その真価を発揮した。彼らは大阪湾の制海権を完全に押さえ、敵対勢力の海上からの介入を許さなかった 6 。永禄元年(1558年)の北白川の戦いや、永禄五年(1562年)の畠山高政との一連の戦い(久米田の戦い、教興寺の戦い)など、三好政権の覇権を決定づける戦いにことごとく参陣し、勝利に大きく貢献した 5 。
特に、久米田の戦いで次兄・実休が戦死するという危機的状況において、冬康の行動は陸海共同作戦の有効性を如実に示している。彼は敗報に接すると、即座に軍を立て直すため、安全な海上ルートを用いて本拠地の阿波へと撤退した。そして、わずか3ヶ月後には体勢を再建し、再び河内へ出兵して畠山軍に雪辱を果たしている(教興寺の戦い) 6 。これは、淡路・阿波間の制海権が完全に確保されていたからこそ可能な、驚異的な機動力であった。
安宅治興が主導した三好氏との一体化は、戦国期における「陸海共同作戦」の最も成功した事例の一つと評価できる。それは、後の織田信長が九鬼嘉隆の水軍を駆使して石山合戦を制した戦略の、まさに先駆けであった。治興は、水軍の戦略的価値を誰よりも深く理解し、それを最大限に活かすための政治体制を構築した、時代の先を行く戦略家であったと言えるだろう。
安宅治興の戦略的決断によって築かれた三好・安宅連合体制は、十数年にわたり畿内に君臨し、三好政権に未曾有の繁栄をもたらした。しかし、その栄華は永禄七年(1564年)、一つの悲劇によって突如として終焉への道を歩み始める。政権の枢軸であった安宅冬康が、実の兄である三好長慶によって誅殺されたのである。この事件は、治興が築き上げた信頼に基づく陸海同盟を根底から破壊し、三好・安宅両氏の共倒れを運命づけた。
永禄七年五月九日、三好政権を支え続けてきた安宅冬康は、兄・長慶の居城である河内飯盛山城に呼び出され、謀反の嫌疑をかけられて自害を命じられた 1 。これは三好政権の絶頂期に起きた最大の悲劇であり、その後の急速な衰退の直接的な引き金となった。
冬康の死は、単なる一武将の死ではなかった。それは、安宅治興の最大の功績であった「三好・安宅連合体制」の終焉を告げる号砲であった。冬康は、血縁と信頼に基づいた両氏の関係の象徴であり、実務を担う結節点であった。その彼を長慶が自らの手で葬ったことは、この強固な同盟関係を内部から崩壊させるに等しい行為であった。安宅水軍の将兵にとって、敬愛する主君が、その主君の兄によって殺されるという事態は、計り知れない衝撃と三好本家への不信感をもたらしたに違いない。
冬康誅殺の直接的な原因については、史料によって見解が分かれており、今日でも議論が続いている。主な説は以下の三つである。
いずれの説が真実であったにせよ、この事件が三好政権に与えた打撃は致命的であった。冬康の死からわずか二ヶ月後、長慶もこの世を去り 28 、三好家は三好三人衆と松永久秀の激しい内紛状態に突入する。指導者を失った安宅氏もまた、かつてのような一体感のある行動を取ることができなくなり、畿内の政治情勢から徐々に影響力を失っていく。この内部崩壊がなければ、後の織田信長の上洛に対し、三好・安宅連合軍はより強固な抵抗を示し得たかもしれず、歴史の流れは大きく変わっていた可能性すらある。安宅治興が築き上げた偉大な遺産は、皮肉にもその養子の死によって、瓦解への道を辿り始めたのである。
安宅冬康の死と三好政権の内部崩壊は、安宅氏を新たな時代の荒波へと否応なく晒すことになった。畿内に織田信長という新星が台頭すると、安宅氏は存亡をかけて巧みな舵取りを迫られる。しかし、かつての栄光を支えた強固な一枚岩の体制は失われ、一族の路線は揺れ動き、やがて天下統一という巨大な奔流の中に飲み込まれていく。安宅氏の滅亡は、旧時代の地域連合型水軍が、中央集権化された「国家海軍」へと変貌する時代の過渡期における、必然的な淘汰であった。
冬康の死後、家督を継いだ長男の安宅信康(通称:神太郎)は、当初、三好三人衆らと共に反信長勢力の一翼を担い、石山本願寺を支援した 12 。天正四年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、毛利輝元が派遣した村上水軍と連携し、織田方の水軍を迎え撃った。この戦いで毛利・安宅連合水軍は、焙烙火矢(ほうろくひや)と呼ばれる火薬兵器を駆使して織田方の船団を焼き払い、圧勝を収める 30 。この勝利は、安宅水軍の戦闘力が依然として健在であることを天下に示し、彼らの最後の輝きとなった。
しかし、信長の勢威が畿内を席巻する中で、安宅信康は生き残りをかけて大きな方針転換を決断する。彼は三好家から離反し、織田信長に帰順したのである 14 。天正五年(1577年)には信長の命を受け、かつての盟友であった毛利水軍の来襲に備え、淡路の防備を固めている 13 。
だが、戦局は安宅氏にとって有利には進まなかった。第一次木津川口の敗戦に学んだ信長は、九鬼嘉隆に命じて船体を鉄板で装甲した巨大な「鉄甲船」を建造させていた。天正六年(1578年)、第二次木津川口の戦いで、この鉄甲船を中核とする九鬼水軍は毛利水軍を粉砕 35 。焙烙火矢をものともしない新兵器の登場により、瀬戸内海の制海権は完全に織田方へと移った。これにより、安宅水軍が長年保持してきた技術的・戦術的優位性は失われたのである。
この戦いの直後、信康は30歳の若さで病死 13 。跡を継いだ弟の安宅清康は、再び毛利氏に通じるなど、一族の路線は定まらなかった 16 。この迷走は、地域領主としての自立性と、巨大勢力への従属という狭間で揺れ動く、当時の多くの国人領主が抱えたジレンマの表れであった。
天正九年(1581年)十一月、信長は四国征伐の前段階として、羽柴秀吉と池田元助に淡路侵攻を命じた 3 。抵抗する術もなく、安宅清康は秀吉軍に降伏。一度は信長から所領を安堵されたものの、同年のうちに病死した(一説には切腹、あるいは追放とも伝わる) 17 。これにより、南北朝時代から200年以上にわたって淡路に君臨した水軍領主・安宅氏は、事実上滅亡した。
安宅氏の終焉は、単なる一家の滅亡ではない。それは、戦国時代を通じて各地に存在した独立性の高い国人水軍が、天下統一の過程で中央政権の軍事組織に再編・統合されていく歴史的プロセスの象徴であった。秀吉は淡路平定後、仙石秀久、次いで腹心の脇坂安治を洲本城主として送り込み、安宅氏の残存勢力を「吸収」して、自らの「豊臣水軍」の中核として再編成した 3 。安宅治興が築き上げた「安宅氏の海の王国」は、より大きな「日本の王国」に飲み込まれていったのである。
安宅治興が歴史の表舞台から姿を消した後も、彼が遺した最大の物理的遺産である洲本城は、淡路統治の拠点として、また大阪湾防衛の要として、その重要性を増していく。城の歴史的変遷は、治興がこの地の軍事的ポテンシャルをいかに正確に見抜いていたかを物語る、彼の「先見の明」を証明するものであった。
大永六年(1526年)、安宅治興によって三熊山に築かれた洲本城は、当初は石垣を持たず、土塁や堀、曲輪(くるわ)を主体とした中世的な山城であったと推定される 3 。その目的は、安宅水軍の拠点として淡路島内を統括し、紀淡海峡を越えて畿内へ睨みを利かせることにあった。彼が選んだ三熊山の立地は、大阪湾と紀淡海峡を一望でき、海上交通を完全に掌握できる、まさに水軍の城として理想的な場所であった 8 。
安宅氏が滅亡し、淡路が織田・豊臣政権の支配下に入ると、洲本城の戦略的価値は飛躍的に高まる。天正十年(1582年)以降に城主となった仙石秀久は、城に石垣を導入し、近世城郭への改修に着手した 3 。
そして天正十三年(1585年)、賤ヶ岳の七本槍の一人である猛将・脇坂安治が3万石で入城すると、洲本城は天下人・豊臣秀吉の本拠地である大坂城を守る西の最重要拠点として、未曾有の大改修を受けることとなる 8 。現在、我々が目にすることができる壮大な総石垣の城郭は、その大部分がこの脇坂時代に築かれたものである 41 。
この改修で特筆すべきは、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)での築城経験を活かして導入されたとされる「登り石垣」である 1 。これは、山頂の主郭から山麓に向かって竪堀(たてぼり)に沿って築かれた石垣のことで、敵が山腹を横移動するのを防ぎ、山城と山麓の防御施設を一体化させる高度な築城技術であった。この登り石垣の存在は、当時の洲本城が、全国でも有数の堅固な要塞と見なされていたことを示している。
江戸時代に入ると、淡路は姫路藩主・池田輝政の三男・忠雄、次いで徳島藩・蜂須賀家の所領となった 3 。一時は政治の中心が由良に移され、洲本城は廃城となるが、寛永八年(1631年)からの城下町ごと移転させる大規模な事業「由良引け(ゆらびけ)」により、再び洲本が淡路統治の中心地として返り咲いた 4 。
しかし、世が泰平になると、山上の要塞は次第にその役割を終え、政治の中心は山麓に築かれた御殿(下の城)へと移っていった 3 。山上の城は江戸時代を通じて禁足地とされたが、明治以降に公園として開放され、昭和三年(1928年)には昭和天皇の即位を記念して模擬天守が建設された 2 。現在、山上の城跡は国の史跡に指定され、その歴史的価値が守られている 4 。
洲本城の壮大な石垣は脇坂安治の功績であるが、その石垣が築かれるべき場所として三熊山を選定した根源的な功績は、紛れもなく安宅治興に帰せられる。治興が築いた城は、後の天下人たちによってその価値を認められ、最新技術を投じて大改修されるほどのポテンシャルを秘めていた。洲本城跡は、安宅治興の卓越した戦略眼を、今に伝える最大の遺産なのである。
安宅治興は、その個人の武勇伝や詳細な一代記こそ残されていないものの、本報告書で詳述した通り、彼の行動は戦国時代中期の歴史を大きく動かす原動力となった。彼は、一族の存亡を賭けて新興勢力・三好氏と手を結び、自らが率いる水軍力という不可欠な戦略的カードを提供することで、自らも時代の主役の一翼を担った。その決断は、安宅氏に未曾有の繁栄をもたらすと同時に、三好政権の興亡、ひいては一族の終焉にまで繋がる壮大な物語の序章を記すことになったのである。
安宅治興の生涯と彼が下した決断は、戦国時代における「水軍の戦略的重要性」を見事に体現している。陸上での城の奪い合いが注目されがちな時代にあって、彼は制海権こそが権力の源泉であることを深く理解していた。「制海権を制する者が畿内を制する」という、三好長慶から織田信長へと受け継がれていく戦略の礎を、治興は政権のパートナーとして築き上げたのである。
彼の名は、淡路島という一島が、日本の中心の動向を左右するほどの戦略的価値を持っていた時代の証人として、また、一族の未来を見据えて大胆な決断を下した戦略家として、記憶されるべきである。史料の乏しさゆえに謎に包まれた人物ではあるが、彼が歴史に残した確かな足跡は、洲本城の石垣や、安宅水軍の活躍の記録の中に、今なお生き続けている。今後の『安宅一乱記』などの軍記物に対する史料批判の深化や、淡路島におけるさらなる考古学的調査の進展が、治興や彼が生きた時代の安宅氏の実像を、より一層鮮明にすることを期待したい。
西暦 |
元号 |
出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1350年 |
観応元年 |
足利義詮の命により、安宅氏が淡路国沼島の海賊を退治。淡路進出の契機となる。 |
足利義詮 |
19 |
1510年 |
永正七年 |
安宅河内守冬一が洲本城を築城したとする説がある。 |
安宅冬一 |
8 |
1519年 |
永正十六年 |
阿波の三好之長が淡路に侵攻し、淡路守護・細川尚春を滅ぼす。 |
三好之長、細川尚春 |
8 |
1526年 |
大永六年 |
安宅治興 が三熊山に洲本城を築城する。 |
安宅治興 |
1 |
1530年代 |
天文年間 |
安宅治興 が三好元長の三男・冬康を養子に迎える。 |
安宅治興 、安宅冬康 |
1 |
1558年 |
永禄元年 |
安宅冬康、北白川の戦いに参陣。 |
安宅冬康 |
6 |
1561年 |
永禄四年 |
冬康の弟・十河一存が死去。 |
十河一存 |
45 |
1562年 |
永禄五年 |
冬康、久米田の戦い・教興寺の戦いで活躍。兄・三好実休は久米田で戦死。 |
安宅冬康、三好実休 |
6 |
1564年 |
永禄七年 |
安宅冬康、兄・三好長慶の命により飯盛山城で自害。長慶も後を追うように病死。 |
安宅冬康、三好長慶 |
1 |
1570年 |
元亀元年 |
野田城・福島城の戦いで、淡路衆が反織田方として参戦。 |
- |
46 |
1576年 |
天正四年 |
第一次木津川口の戦い。安宅信康率いる水軍が毛利方として織田水軍に勝利。 |
安宅信康 |
30 |
1577年 |
天正五年 |
安宅信康、織田信長に帰順。毛利水軍と対峙する。 |
安宅信康、織田信長 |
13 |
1578年 |
天正六年 |
安宅信康が病死。弟の清康が跡を継ぐ。第二次木津川口の戦いで織田水軍が勝利。 |
安宅信康、安宅清康 |
13 |
1581年 |
天正九年 |
羽柴秀吉・池田元助が淡路に侵攻。安宅清康は降伏し、同年に病死。淡路安宅氏が滅亡。 |
安宅清康、羽柴秀吉 |
17 |
1582年 |
天正十年 |
仙石秀久が淡路領主となり、洲本城の石垣普請を開始。 |
仙石秀久 |
3 |
1585年 |
天正十三年 |
脇坂安治が3万石で洲本城主となる。城の大規模な改修に着手し、登り石垣などを築く。 |
脇坂安治 |
3 |
1609年 |
慶長十四年 |
脇坂安治が伊予大洲へ転封。 |
脇坂安治 |
1 |
1615年 |
元和元年 |
大坂の陣の功により、淡路国が徳島藩主・蜂須賀至鎮に加増される。 |
蜂須賀至鎮 |
3 |
1631年 |
寛永八年 |
「由良引け」開始。淡路統治の拠点が由良から洲本へ再び移される。 |
稲田示植 |
4 |
1642年 |
寛永十九年 |
山上の城が不要とされ、政庁機能が山麓の御殿に移される。 |
- |
3 |
1999年 |
平成十一年 |
洲本城跡が国の史跡に指定される。 |
- |
4 |