安富純治は肥前深江城主。龍造寺隆信の圧迫で有馬氏を離反。沖田畷の戦いで隆信と共に戦死。一族は後に深江氏と改姓し鍋島藩重臣となる。
戦国時代の九州は、数多の英雄が覇を競う群雄割拠の地であった。16世紀後半、その勢力図は大きく塗り替えられようとしていた。豊後の大友氏、薩摩の島津氏、そして肥前の龍造寺氏という三大勢力が互いに鎬を削り、九州の統一を目指して激しい抗争を繰り広げていたのである 1 。この巨大な権力闘争の渦中で、自らの領地と一族の存続を賭けて苦渋の決断を迫られた中小の国人領主たちがいた。本報告書で詳述する安富純治(やすとみ すみはる)もまた、そうした時代の奔流に翻弄された一人である。
安富純治は、肥前国高来郡(たかきぐん)の深江城(ふかえじょう)を本拠とする国人領主であり、当初は島原半島に勢力を張る有馬氏の家臣であった。しかし、後に「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信の圧迫を受け、主家を離反して隆信に属すという大きな決断を下す。この離反が契機となり、一時的に有馬氏と龍造寺氏の間に和議が結ばれたものの、最終的に彼は新たな主君・隆信と運命を共にし、天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)の戦いでその生涯を閉じた。
この概要は、安富純治の生涯の骨子を的確に捉えている。しかし、彼の行動の裏には、より複雑な政治的力学、人間関係、そして個人の動機が隠されている。なぜ彼は主家を裏切るに至ったのか。その決断は、単なる軍事的な劣勢による降伏だったのか、あるいは他に理由があったのか。彼の死は、一族に何をもたらしたのか。本報告書は、これらの問いに答えるべく、安富純治という一人の武将の生涯を、その出自から最期、そして一族のその後までを徹底的に追跡し、彼が生きた時代の特質と、国人領主が直面した過酷な現実を浮き彫りにすることを目的とする。彼の物語は、戦国という時代における「忠誠」と「生存」という根源的なテーマを我々に問いかけるであろう。
本報告書の理解を助けるため、まず主要な登場人物の関係を以下に示す。
人物名 |
続柄・関係性 |
立場・役職 |
主要な行動・特徴 |
安富 純治 |
本報告書の主人公 |
肥前深江城主、有馬氏家臣 |
天正6年、龍造寺氏に降伏。沖田畷の戦いで龍造寺方として戦死 2 。 |
安富 貞直 |
純治の父 |
深江安富氏当主 |
純治と共に龍造寺氏に降伏 2 。 |
安富 純泰 |
純治の子 |
深江安富氏後継 |
沖田畷の敗戦後、佐賀へ退転。後に深江氏を名乗り鍋島藩に仕える 3 。 |
有馬 晴信 |
純治の主君 |
肥前日野江城主 |
龍造寺氏の圧迫を受け、後に島津氏と結ぶ。キリシタン大名 5 。 |
龍造寺 隆信 |
純治が降伏した相手 |
肥前の戦国大名 |
「肥前の熊」。肥前統一を進める。沖田畷の戦いで戦死 7 。 |
安富 徳円 |
純治の同族 |
有馬氏家老、晴信の外叔父 |
敬虔なキリシタン(洗礼名ジョアン)。有馬氏に最後まで忠誠を尽くす 9 。 |
安富純治の人物像と、彼の生涯における重大な決断を深く理解するためには、まず彼が属した安富一族の歴史的背景を把握することが不可欠である。安富氏は、単なる一地方の土豪ではなく、鎌倉時代にまで遡る由緒ある家柄であり、その誇りと伝統は、戦国乱世における彼らの行動原理に少なからず影響を与えたと考えられる。
肥前安富氏は、その系譜を清和源氏、中でも摂津源氏の祖とされる源頼光に連なる名門武家であると称している 2 。具体的には、頼光から頼国、頼綱、仲政、頼行、宗頼、頼衡と続く流れを汲み、安富氏の祖とされる安富民部三郎頼清(泰嗣)に至るとされる 3 。戦国時代の武家が自らの権威付けのために名家の系譜を称することは珍しくないが、安富氏の場合、後述する鎌倉幕府における役職や、後世に伝えられた古文書の存在から、その出自の確かさは比較的高いものと見なされている。この源氏の名門という出自は、一族の自負心の源泉となり、在地勢力との関係性においても、独自の矜持を保つ要因となった可能性がある。
安富氏が肥前の地に根を下ろす直接的な契機は、13世紀後半の国家的危機、すなわち元寇であった。もともと安富氏は関東の御家人であったが、鎌倉時代中期、安富頼清(泰嗣)が鎌倉幕府の引付奉行という要職に就いていた 3 。そして文永二年(1265年)頃、彼は肥前国高来郡東郷深江村の地頭職に任命された 2 。
当時は、モンゴル帝国(元)による日本侵攻の脅威が現実のものとなりつつあり、幕府は九州沿岸の防備体制を強化していた。その国策の一環として、頼清の子である安富頼泰が鎮西引付衆(九州における訴訟や行政を担う幕府の出先機関の役人)の一員として九州へ下向したのである 3 。彼は父が地頭職を持つ深江村に拠点を構え、そのまま土着するに至った 3 。このように、元寇の防備などを目的として、幕府の命令により関東などから九州へ移住した御家人を「下り衆(くだりしゅう)」と呼ぶが、肥前安富氏はその典型的な事例であった 3 。
この「下り衆」という出自は、安富氏の性格を規定する上で重要な意味を持つ。彼らは、その土地で自然発生的に勢力を伸ばした在地領主とは異なり、中央権力(鎌倉幕府)を背景に持ち、統治者として現地に入った一族であった。このことは、後に主家となる有馬氏のような在地勢力との間に、見えざる一線、すなわち一種の緊張感や独自性を生み出す土壌となったと推察される。安富氏側には「鎌倉幕府以来の名門」という自負が、一方で有馬氏側には安富氏を「外様の有力家臣」と見なす意識があったとしても不思議ではない。この微妙な関係性が、後の離反決断の心理的背景の一つとなった可能性は否定できない。
九州に下向した安富氏は、頼泰とその子・貞泰が親子二代にわたって鎮西引付衆を務めるなど、当初は幕府の官吏として活発に活動した 2 。しかし、鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱期に入ると、中央との結びつきは次第に弱まり、彼らは深江村に根を張る在地領主、すなわち国人としての性格を強めていく。
南北朝時代、島原半島の諸勢力は南朝方と北朝(幕府方)に分かれて争ったが、安富氏は有馬氏などと共に幕府方に属して戦ったようである 2 。室町時代に入ると、島原半島では有馬氏が急速に勢力を拡大し、地域の盟主的存在となった。安富氏もまた、安富泰清の孫である貞直(純治の父)の代には有馬氏と姻戚関係を結び、その麾下に属する有力な国人領主としての地位を確立した 2 。
鎌倉時代後期から戦国時代末期に至るまで、安富氏は約300年もの長きにわたり深江村一帯を支配し続けた 3 。この事実は、深江の地が彼らにとって単なる所領ではなく、一族の歴史とアイデンティティが深く刻まれた、かけがえのない本拠地であったことを物語っている。したがって、天正年間に安富純治が下した重大な決断は、単に主君・有馬晴信個人への忠誠心の問題としてのみならず、300年続いた「深江の安富氏」という一族そのものをいかにして守り抜くかという、より大きな責務との間で下されたものと解釈すべきであろう。
安富氏の歴史を語る上で特筆すべきは、彼らの一族(後の深江氏)が後世に伝えた「深江文書」という貴重な史料群の存在である 3 。総数104通に及ぶこの古文書は、巻子本三巻に仕立てられ、現在に伝えられている 2 。その中には、文永十年(1273年)の「六波羅御教書」や、元寇の恩賞に関する正応二年(1289年)の文書などが含まれており、鎌倉時代から南北朝時代にかけての肥前国の動向を知る上で極めて重要な一次史料となっている 11 。
この「深江文書」の存在は、安富氏が単なる武勇一辺倒の武士ではなく、自らの一族の由緒や権利の所在を文書によって証明し、後世に伝えようとする、記録と文化を重んじる側面を持っていたことを示唆している。安富純治もまた、こうした一族の伝統の中で育った人物であり、彼の思考や判断の根底には、武門の誇りと共に、家の歴史を守るという強い意識があったに違いない。
安富純治が歴史の表舞台で重要な役割を演じることになる天正年間(1573年〜1592年)、肥前国、ひいては九州全体の勢力図は、一人の傑物の登場によって激変の時を迎えていた。その人物こそ、後に「肥前の熊」と畏怖されることになる龍造寺隆信である。彼の野心的な領土拡大政策は、周辺の国人領主たちを震撼させ、安富純治の主家であった有馬氏を存亡の危機へと追い込んでいった。
龍造寺隆信は、肥前の一国人に過ぎなかった龍造寺氏を、彼一代で九州三大勢力の一角にまでのし上げた、戦国時代を代表する下剋上大名の一人である 8 。若い頃から幾度も苦難を経験した彼は、猜疑心が強く、目的のためには手段を選ばない冷酷さと狡猾さを併せ持っていたと言われる 1 。その一方で、そうした非情さがあったからこそ、旧主である少弐氏を滅ぼし、肥前国内の敵対勢力を次々と打ち破ることができたとも言える 7 。
天文年間から永禄年間にかけて、隆信は着実にその勢力を拡大。天正年間に入るとその勢いはさらに増し、肥前統一に向けて最後の仕上げに取り掛かる。彼の圧倒的な軍事力と容赦のない攻撃は、周辺の国人領主たちにとって抗いがたい脅威であり、恐怖の対象であった。
龍造寺隆信の矛先が次に向かったのが、島原半島に勢力を誇る名門・有馬氏であった。有馬氏は、祖父・有馬晴純の代に最盛期を迎え、肥前国に大きな影響力を持っていたが、隆信の台頭と共にその勢いには陰りが見え始めていた 15 。
天正五年(1577年)、有馬氏にとって衝撃的な出来事が起こる。長年の同盟相手であった大村純忠や、近隣の西郷純堯といった国人たちが、龍造寺氏の軍門に降ったのである 2 。これにより有馬氏は孤立を深め、龍造寺氏からの直接的な圧力を一身に受けることになった。
翌天正六年(1578年)正月、隆信は満を持して大軍を島原半島へ侵攻させる 2 。この軍事行動は、有馬氏の息の根を止めるための決定的な一撃であった。有馬氏の拠点の一つであった松岡城が龍造寺軍の猛攻の前に陥落し、当主であった有馬晴信(当時は鎮純とも)は、龍造寺氏への従属を余儀なくされる状況にまで追い詰められた 6 。この時点で、有馬氏が単独で龍造寺氏の強大な軍事力に対抗することは、もはや不可能に近い状態であった。この客観的な情勢は、安富純治をはじめとする有馬家臣団に、一族の将来を左右する極めて困難な選択を迫るものであった。
この危機的状況において、安富氏が置かれた立場を理解する上で、極めて重要な事実がある。それは、安富氏と主家・有馬氏が、単なる主従関係だけでなく、深い血縁関係で結ばれていたという点である。当時の有馬氏当主・有馬晴信の母は、安富一族の女性、具体的には安富入道徳円の妹であった 15 。
これは、安富氏が有馬氏にとって単なる家臣ではなく、主君・晴信の外戚、すなわち母方の親族という極めて重要な地位を占めていたことを意味する。通常、外戚は主君にとって最も信頼できる相談相手であり、政権の中枢を担う存在である。安富純治もまた、この強力な血縁のネットワークの中に位置していた。
しかし、この密接な関係は、龍造寺氏の侵攻という未曾有の国難に際して、逆に安富純治の苦悩を深める要因となった。主家への忠誠を貫くことは、強大な龍造寺軍の前に一族もろとも滅びることを意味しかねない。一方で、一族の存続を優先して龍造寺氏に降ることは、主君であり、血縁的にも近い甥にあたる晴信を見捨てるという、人間的にも極めて辛い「裏切り」を意味した。安富純治は、この忠誠と生存の狭間で、究極の選択を迫られることになるのである。この人間関係の複雑さこそが、彼の後の決断に深い陰影を与えている。
天正六年(1578年)正月、龍造寺隆信率いる大軍が島原半島に雪崩れ込んだ時、安富純治は彼の生涯における最大の岐路に立たされた。この時彼が下した決断は、単に彼個人の運命を変えただけでなく、肥前国全体の勢力図にも大きな影響を与える歴史的な転換点となった。
龍造寺軍の圧倒的な軍事力を前に、有馬方の諸将は動揺した。その中で、安富純治は、父である安富貞直、そして息子である安富純泰と共に、抵抗を断念し、龍造寺隆信の軍門に降るという決断を下した 2 。安富氏だけでなく、同じく有馬方の有力国人であった安徳純俊らもこれに続いた 2 。
外戚という最も信頼すべき立場にあった安富氏の離反は、有馬晴信にとって致命的な打撃であった。自軍の中核をなす有力国人が敵方に寝返ったことで、有馬軍の戦線は内部から崩壊した。もはや抵抗を続けることは不可能と悟った晴信は、ついに龍造寺隆信に和睦を申し入れるに至る 2 。この和議の条件として、晴信は妹を隆信の嫡男・政家の妻として差し出し、事実上の従属を受け入れた 17 。
このように、安富純治の降伏は、有馬氏と龍造寺氏の力関係を決定づけ、島原半島における一時的な和平(龍造寺氏の覇権下での和平)を成立させる直接的な引き金となったのである。彼の行動は、一個人の去就に留まらず、地域全体の政治情勢を動かすほどの大きなインパクトを持っていた。
安富純治が主家を離反した最大の理由は、何よりもまず、冷徹な軍事的現実認識にあったと考えられる。前章で述べた通り、天正六年の時点で、龍造寺氏の軍事力は有馬氏を遥かに凌駕していた。大村氏らが既に龍造寺方に下り、有馬氏が孤立無援の状態にあったことを考えれば、正面から戦っても勝ち目がないことは火を見るより明らかであった。
国人領主にとっての至上命題は、何よりもまず先祖代々の所領を守り、一族の血脈を未来に繋ぐことである。無謀な戦いを挑んで一族郎党ことごとく討ち死にし、家名を断絶させることは、当主として最も避けなければならない事態であった。この観点に立てば、安富純治の降伏は、裏切りという道義的な非難を覚悟の上で、一族と300年続いた深江の地を守るために下された、最も合理的かつ現実的な選択であったと言える。
しかし、安富純治の離反の動機を、単なる軍事的な現実主義だけで説明し尽くすことはできない。史料の中には、彼の決断の背景に、もう一つの重要な要因があった可能性を示唆する記述が存在する。それは、「一説に安富氏は有馬氏がキリシタンを信仰していることを嫌い、有馬氏を離れて隆信に属したとするものもある」というものである 2 。
この説を検証するためには、当時の有馬氏の宗教政策を理解する必要がある。主君の有馬晴信は、天正八年(1580年)に洗礼を受けた、日本を代表するキリシタン大名の一人であった 5 。彼は叔父の大村純忠らと共に天正遣欧少年使節を派遣するなど、キリスト教の庇護に極めて熱心であった 18 。その信仰は非常に深く、時には過激とも言える行動を引き起こした。史料によれば、晴信は宣教師の求めに応じて領内の神社仏閣を破壊し、その資材を使ってキリスト教の教育施設を建設したことさえあったという 15 。
このような急進的なキリスト教化政策は、伝統的な神仏を信仰してきた領内の武士や民衆の間に、深刻な反発や戸惑いを生んだであろうことは想像に難くない。安富純治もまた、鎌倉以来の伝統を持つ武家の当主として、主君のこうした行動に強い違和感や危機感を抱いていた可能性がある。もしそうであれば、彼の離反は、軍事的な理由に加え、主家の急進的な宗教政策から距離を置き、自らが信じる伝統的な価値観を守るための行動であったという側面も帯びてくる。
この「反キリシタン」説の信憑性を探る上で、極めて興味深く、また重要な比較対象となる人物がいる。それは、安富純治と時を同じくして有馬氏に仕え、同じ安富一族に連なる重臣・安富徳円(やすとみ とくえん、実名:純清)である。
安富徳円は、有馬晴信の母の兄弟、すなわち晴信の外叔父にあたる人物であり、有馬氏の家老として絶大な信頼を得ていた 9 。驚くべきことに、彼は純治とは全く対照的に、自身が「ジョアン」という洗礼名を持つ敬虔なキリシタンであった 9 。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、徳円を「賢明で博識の人物」と高く評価している 10 。
さらに注目すべきは、彼の行動である。天正十二年(1584年)、有馬晴信が龍造寺氏から離反し、再び危機に陥った際、晴信の親族を含む多くの家臣が龍造寺方に寝返る中で、徳円はただ一人、断固として晴信の味方として踏み留まった 10 。彼は主君であり甥でもある晴信への忠誠を貫き、薩摩の島津氏に援軍を要請するなど、有馬氏の存続のために奔走したのである 9 。
安富純治の「離反」と、安富徳円の「忠誠」。同じ安富一族の中から、これほどまでに対照的な二つの生き方が生まれたという事実は、何を物語るのだろうか。これは、16世紀後半のキリスト教の伝播が、単に大名家のレベルに留まらず、その家臣団の内部、さらには一つの氏族の中にまで、深刻な亀裂、すなわちイデオロギーの対立を生んでいたことを示す、非常に象徴的な事例と言える。安富純治の決断の背景には、軍事政略的な計算だけでなく、徳円に代表される親キリシタン派との、一族内における宗教観や価値観を巡る路線対立があった可能性が強く示唆される。
結論として、安富純治の離反は、単一の理由で説明できる単純なものではない。それは、①龍造寺氏の脅威から一族を存続させるための軍事的現実主義、②主家の急進的なキリスト教化政策に対する伝統的価値観からの反発、そして③同族内の親キリシタン派との路線対立、といった複数の要因が複雑に絡み合った末に下された、重層的な決断であったと結論づけるのが最も妥当であろう。
主家・有馬氏を離れ、龍造寺隆信の麾下に入った安富純治。この決断は、彼に一時的な安寧をもたらしたかに見えた。しかし、戦国乱世の力学は、彼を再び過酷な戦いの最前線へと引きずり出す。そして、彼の運命は、九州の勢力図を塗り替える歴史的な一戦において、新たな主君・龍造寺隆信と共に尽きることになる。
天正六年(1578年)の和睦から数年、肥前は龍造寺氏の覇権の下で比較的平穏な時期が続いた。しかし、有馬晴信は龍造寺氏への従属に甘んじていたわけではなかった。彼はキリスト教の信仰を通じて精神的な支柱を得ると共に、密かに龍造寺氏の支配から脱する機会を窺っていた。そして天正十二年(1584年)、晴信はついに龍造寺氏からの離反を決意し、南九州で急速に勢力を拡大していた島津氏と手を結んだ 6 。
この有馬晴信の離反は、安富氏の立場を一変させた。龍造寺方に属した安富氏の居城・深江城は、それまで龍造寺領の南端に位置する城であったが、有馬氏が敵対勢力となったことで、島原半島における龍造寺方の最前線拠点という極めて重要な、そして危険な役割を担うことになったのである 2 。
案の定、有馬・島津連合軍は、龍造寺方の勢力を島原半島から駆逐すべく、まず深江城に攻撃の矛先を向けた。沖田畷の戦いの前哨戦として、深江城は激しい攻防の舞台となった 12 。この戦いで安富純治がどのような役割を果たしたかの詳細は不明だが、息子の純泰らが籠城してよく防戦したと伝えられており 12 、純治もまた城の防衛を指揮していたものと考えられる。
自らの支配領域で起きた有馬氏の反乱と、それに介入する島津氏の動きに対し、龍造寺隆信は激怒した。彼は自ら大軍を率いて島原半島に親征し、反乱分子を根絶やしにすることを決意する。この時、龍造寺軍の兵力は2万5千から5万とも言われ、対する有馬・島津連合軍は6千から8千程度であり、兵力では龍造寺軍が圧倒的に優勢であった 2 。
安富純治もまた、龍造寺方の国人領主として、この大軍の一翼を担い出陣した。かつての主君・有馬氏と、その新たな同盟者である島津氏を敵に回して戦うという、皮肉な運命であった。龍造寺軍は三手に分かれて進軍し、隆信自身が中央の本隊を、次男の江上家種らが海沿いの東路を、そして重臣の鍋島信生(後の直茂)が山手の西路を進んだ 21 。安富純治がどの部隊に属していたかは定かではないが、土地勘のある島原の国人として、いずれかの部隊で重要な役割を担っていたと推測される。
天正十二年(1584年)三月二十四日、両軍は島原北部の沖田畷と呼ばれる湿地帯で激突した。この地は、狭い畷(あぜ道)が縦横に走る泥深い沼地であり、大軍の運用には極めて不向きな地形であった 6 。
地の利を得ていたのは、寡兵の島津・有馬連合軍であった。島津軍を率いる猛将・島津家久は、この地形を巧みに利用した。彼は鉄砲隊を巧みに伏せ、狭い畷を進んでくる龍造寺軍の先鋒を集中射撃で混乱に陥れた。大軍ゆえに身動きが取れなくなった龍造寺軍は、予期せぬ奇襲に大混乱となり、総崩れとなった 6 。
この大混乱の中、輿に乗って督戦していた総大将・龍造寺隆信自身が、島津方の武将・川上忠堅によって討ち取られるという衝撃的な事態が発生する 6 。大将を失った龍造寺軍は完全に統制を失い、潰走を始めた。
安富純治もまた、この乱戦の中で奮戦したものの、衆寡敵せず、壮絶な戦死を遂げたと伝えられている。彼がどのような最期を迎えたのかを具体的に記す史料はないが、龍造寺軍の主だった将の多くがこの戦いで命を落としており 23 、彼もまたその一人として、新たな主君のために命を捧げたのである。
一族の存続を願い、苦悩の末に主家を離反した安富純治。しかし、その決断が彼を新たな、そしてより大規模な闘争の渦中へと導き、結果として自らの命を失うことになった。彼の死は、一つの選択が予測不能な結果を招く戦国時代の非情さと、時代の大きなうねりの前では一個人の力がいかに無力であるかを象徴する、悲劇的な結末であった。
安富純治は沖田畷の露と消えた。彼の決断は、短期的には彼自身の死という悲劇的な結末を迎えた。しかし、彼の物語はここで終わりではない。彼の死後、一族がどのような道を歩んだのかを追跡することによって、彼の生涯を賭した決断が持つ、より長期的な意味を評価することができる。
沖田畷の戦いで龍造寺隆信と安富純治が討ち死にし、龍造寺軍が壊滅したという報は、最前線の深江城にも届いた。城を守っていた純治の子・安富純泰は、もはや城を維持することは不可能と判断し、城を放棄して龍造寺氏の本拠地である佐賀へと落ち延びた 2 。先祖代々300年にわたって守り抜いてきた深江の地を失った瞬間であった。
一方、龍造寺氏は総大将を失ったことで急速に衰退し、その実権は重臣であった鍋島信生(直茂)の手に帰していく。安富純泰は、この新たな権力者である鍋島氏に仕える道を選んだ 11 。これは、父・純治が龍造寺氏に降った決断の延長線上にある、生き残りのための現実的な選択であった。
鍋島氏の家臣となった安富一族は、やがてその姓を、かつての本拠地であった「深江」に改めた 3 。これは、失われた故郷への思いと、一族の新たな再出発を象徴する改姓であったのかもしれない。
深江氏と改称した純泰の子孫は、江戸時代を通じて鍋島氏が治める佐賀藩(鍋島藩)の家臣として存続した。そして特筆すべきは、彼らが単に家名を保っただけでなく、藩政の中枢を担う「家老」という高い地位にまで上り詰めたことである 3 。鎌倉以来の名門としての家格と、戦国乱世を生き抜いた経験が、新たな主君の下で高く評価された結果であろう。安富純治の死から数世代を経て、彼の一族は新たな土地で確固たる地位を築き、繁栄を享受することになったのである。
安富純治の生涯を振り返るとき、我々は戦国時代における「忠誠」と「裏切り」、そして「存続」というテーマについて、深く考えさせられる。
彼の「離反」という決断は、結果として彼自身の死を招いた。この一点だけを見れば、彼の選択は失敗であったと言えるかもしれない。しかし、その一方で、最後まで有馬氏への忠誠を貫いた同族の安富徳円の一族は、その後の有馬氏の浮沈、すなわち岡本大八事件による改易など、主家と運命を共にし、波乱の道を歩んだであろうことが推測される。
これに対し、純治の決断は、彼の子孫が鍋島藩の家老として江戸時代を通じて家名を存続させる道を開いた。もし純治が有馬氏に殉じていれば、沖田畷の前哨戦である深江城の戦いで、一族もろとも滅んでいた可能性も否定できない。短期的に見れば悲劇であった純治の決断は、数百年という長期的な視点で見れば、結果として一族の血脈を未来に繋ぐための「成功」であったと評価することも可能なのである。
ここに、戦国武将の行動を評価する際の難しさと奥深さがある。安富純治の生涯は、絶対的な正解が存在しない過酷な状況の中で、一人の国人領主が、自らの信義と一族の未来との間でいかに苦悩し、そして決断を下したかの生々しい記録である。彼の物語は、個人の悲劇と一族の成功が表裏一体となった、複雑で深遠な歴史の綾を我々に見せてくれる。時代の奔流の中で最善を尽くそうとした一人の武将の生き様として、安富純治の名は、肥前の戦国史に深く刻まれている。
西暦(和暦) |
出来事 |
安富純治の動向 |
関連勢力の動向 |
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1265年頃(文永2年頃) |
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安富氏の祖先が肥前国深江村の地頭となる 2 。 |
鎌倉幕府、元寇に備える。 |
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1577年(天正5年) |
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大村純忠らが龍造寺隆信に降伏 2 。 |
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1578年(天正6年) |
龍造寺軍、島原侵攻 |
父・貞直、子・純泰と共に龍造寺隆信に降伏 2 。 |
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有馬晴信、安富氏の降伏を受け龍造寺氏と和睦 2 。 |
1580年(天正8年) |
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有馬晴信、洗礼を受けキリシタン大名となる 5 。 |
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1582年(天正10年) |
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有馬晴信ら、天正遣欧少年使節を派遣 18 。 |
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1584年(天正12年)3月 |
沖田畷の戦い |
龍造寺軍として参陣し、戦死を遂げる。 |
龍造寺隆信戦死。有馬・島津連合軍が勝利 6 。 |
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1584年以降 |
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子・安富純泰が佐賀へ退転し、鍋島氏に仕える 4 。 |
龍造寺氏が衰退し、島津氏の勢力が九州南部で拡大。 |
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江戸時代 |
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一族は「深江氏」を名乗り、鍋島藩(佐賀藩)の家老となる 3 。 |
徳川幕府の下、鍋島氏が佐賀藩主として存続。 |