最終更新日 2025-06-06

安居景健

「安居景健」の画像

朝倉景健(安居景健)に関する調査報告

序論

本報告書は、戦国時代の武将、朝倉景健(あさくら かげたけ、後に安居景健と改名)の生涯と事績について、現存する史料に基づき多角的に検討することを目的とする。朝倉景健は、越前朝倉氏の同名衆として、特に主君朝倉義景の治世下において軍事面で重要な役割を担った人物である。朝倉氏の滅亡という激動の時代を生きた彼の動向は、当時の越前国および周辺地域の情勢を理解する上で不可欠な要素と言える。

景健に関する記録は、『信長公記』や『越州軍記』、『朝倉始末記』といった軍記物を中心に、一部の古文書にも散見される。しかしながら、これらの情報は断片的であったり、あるいは記述に異同が見られたりすることも少なくない。それゆえ、本報告書では、これらの史料を可能な限り比較検討し、客観的な事実の再構築を試みるものである。景健の生涯を辿ることは、戦国時代という時代の特質、とりわけ大勢力の狭間で翻弄されながらも生き残りを図ろうとした武将の姿を浮き彫りにするであろう。

第一部 朝倉景健の出自と家督相続

第一章 生誕と家系

生没年に関する諸説の検討

朝倉景健の生没年については、複数の史料や研究において異なる記述が見受けられ、正確な特定は困難な状況にある。例えば、大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証においては「1537(天文5)年?-1575(天正3)年」という説が採用されているが、同じ資料の別項目では「?-1574(天正2)年」という記述も存在する 1 。また、中国語版のオンライン百科事典では「1536年-1576年9月25日」と記されており 2 、国内の辞書サイトでは没年のみ天正3年(1575年)とするものもある 3

このような情報の揺れは、戦国時代の武将研究においてしばしば見られる現象であり、根本史料の不足や後世の編纂物における情報の錯綜を反映していると考えられる。特に、ドラマの考証や海外の百科事典サイトの情報は、それ自体が一次史料ではなく、何らかの研究や既存の説に基づいているため、その典拠を遡って検証する必要がある。景健ほどの立場にあった人物でありながら、その基礎情報である生没年が確定していないという事実は、彼個人の詳細な記録が初期の段階で十分に整備されなかった可能性、あるいは後世に伝わる過程で情報が錯綜した可能性を示唆している。

表1:朝倉景健 生没年に関する諸説一覧

史料(典拠)

生年

没年

備考

『麒麟がくる』考証 1

1537(天文5)年?

1575(天正3)年

NHK大河ドラマ

1 (別項目)

不詳

1574(天正2)年

中国語版Wikipedia 2 , 2

1536年

1576年9月25日

Weblio辞書 3

不詳

1575年

『朝倉氏配下 武将名鑑』 1 (朝倉景健 あさくら・かげあきら)

不詳

1574(天正2)年

別人の可能性あり

この表からも明らかなように、景健の生没年に関する情報は多様であり、決定的な説は存在しない。これは、戦国時代の人物研究における史料批判の重要性を示すと同時に、単一の情報を鵜呑みにすることの危険性を示唆している。

父・朝倉景隆と朝倉家中における位置づけ

景健の実父は、越前国安居城主であった朝倉景隆(あさくら かげたか)であるとされるのが通説である 1 。景隆は朝倉義景の従兄弟にあたり、一族内での序列も高かったと記録されている 5 。景健の家系は朝倉氏の庶流にあたり、同名衆の中でも大野郡司や敦賀郡司に次ぐ有力な家柄であった 3 。これは、景健が朝倉家中で一定の重みを持つ家柄の出身であったことを示している。

なお、一部史料 1 には、朝倉景健(読み:あさくら・かげあきら)の父を朝倉景高とする記述と、本報告の対象である朝倉景健(読み:あさくら・かげたけ、大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれた人物)の父を朝倉景隆とする記述が併存している。朝倉景隆と朝倉景高は別人であり 5 、本報告で扱う景健の父は景隆であると判断される。

第二章 安居城主としての景健

家督相続の経緯と安居城主就任

朝倉景健は、朝倉景隆の末子として誕生した 3 。元亀元年(1570年)頃、父である景隆と兄たちが相次いで死去したため、景健が家督を相続したとされている 2 。この時期は、織田信長による越前侵攻が開始される直前であり、朝倉氏にとっては極めて困難な状況下での家督相続であった。

家督相続に伴い、父・景隆の居城であった安居城(現在の福井市安居地区)の城主となったと考えられる 2 。史料 10 によれば、戦国時代には初代朝倉孝景の弟である経景が安居を支配し、その子孫である景隆、そして景健が安居城を居城としたと記されている。安居城は、日野川と足羽川の合流点を望む要害の地にあり、交通の要衝でもあった 10

「安居殿」呼称に関する考察

父である景隆が「安居殿」と呼ばれていたという記録が存在し 8 、景健も安居城主であったことから、同様に「安居殿」と呼ばれた可能性が高い。実際に福井県史には、景健が「安居殿」と呼ばれていたとの記述が見られる 11 。この呼称は、景健の支配基盤が安居地域にあったことを明確に示している。

「安居殿」という呼称が父・景隆から景健に引き継がれた可能性は、単なる名前の継承以上の意味を持つ。これは、安居地域における領主権がある程度安定して世襲されていたことを示唆し、朝倉氏の支配体制下における地域支配の一端を垣間見せる。一族が特定の地域と結びつき、その地の名を冠した呼称で呼ばれることは、戦国期の武家社会における在地性の強さを物語っている。

朝倉家中における立場:郡司職に関する異説の検討

景健の家柄は、朝倉氏の同名衆のうち、大野郡司、敦賀郡司に次ぐ序列であったと一般的に理解されている 3 。朝倉氏においては、敦賀郡と大野郡にそれぞれ郡司が置かれ、当主一族の最有力者がその任にあたっていた 12

一方で、一部の資料、例えば中国語版Wikipedia 2 およびそれを引用した資料 2 では、景健が「大野郡と敦賀郡の郡司を務めた」とされている。これは他の多くの史料と矛盾する点であり、慎重な検討が必要である。郡司職に関する記述の矛盾は、史料批判の重要性を示す一例と言える。景健の家格を郡司に「次ぐ」ものとする記述 3 は具体的であり、より信憑性が高いと考えられる。 2 2 の記述は、景健の父・景隆が郡司職に就いていた可能性(景隆は加賀攻めの総大将などを務めている 5 )、あるいは景健の家が郡司を輩出する有力な家柄であったことから生じた混同、または翻訳の過程でのニュアンスの変化の可能性がある。朝倉氏の郡司職は一族内の最有力者が務める極めて重要な地位であり 12 、景健が実際に両郡の郡司を兼任したとすれば、その権力は非常に大きかったことになるが、それを裏付ける他の有力な史料は見当たらない。したがって、景健が直接郡司を務めたというよりは、それに準ずる有力な立場であったと解釈するのが現時点では妥当であろう。

第二部 朝倉義景配下としての主要な軍歴

第一章 元亀年間の戦い

織田信長の越前侵攻と景健の役割(元亀元年・1570年)

元亀元年(1570年)、織田信長が越前に侵攻を開始すると、家督を相続したばかりの朝倉景健は、この国難に際して防戦にあたった 2 。これは、景健にとって城主としての初陣に近い重要な軍事行動であった。

姉川の戦いにおける総大将としての指揮と結果(元亀元年6月28日)

金ヶ崎の戦いで織田信長を窮地に陥れた浅井・朝倉連合軍は、元亀元年(1570年)6月28日、近江国姉川河原で織田・徳川連合軍と雌雄を決する戦いに臨んだ。この重要な戦いにおいて、朝倉義景は出陣せず、朝倉景健が朝倉軍の総大将として全軍の指揮を執った 1

朝倉軍は、兵数で劣る徳川家康軍と対峙したが、戦闘は朝倉軍の総崩れという形で終わり、敗北を喫した。この敗戦は、姉川の戦い全体における浅井・朝倉連合軍の敗因の一つとなったとされている 1 。太田牛一が著した『信長公記』にも、朝倉景健が浅井長政と共に連合軍を率いて布陣したことが記されている 13 。一部の記録 9 によれば、姉川の戦いの火蓋を切ったのも、そして総崩れの敗走を開始したのも景健率いる朝倉軍であったと伝えられている。

当主不在の中での総大将という立場は、景健にとって極めて重い責任であった。姉川での敗戦は景健の評価に影響を与えた可能性は否定できないが、当主不在の戦において、その全責任を景健一人に帰すことは早計であろう。朝倉軍全体の士気、兵站、あるいは戦術的な配置など、敗因は複合的であったと考えるのが自然である。事実、景健がこの敗戦の後も志賀の陣などで軍事指揮を任されている点を見ると、この一戦のみで彼の能力が完全に否定されたわけではないことがうかがえる。

志賀の陣における戦功と評価(元亀元年9月)

姉川の戦いでの敗北から約3ヶ月後の元亀元年(1570年)9月、朝倉景健は再び軍を率い、織田信長が摂津方面に出兵している隙を突いて近江坂本方面に侵攻した(志賀の陣)。この戦いにおいて、景健率いる朝倉軍は、迎撃に出た織田信長の弟である織田信治および信長の重臣であった森可成を討ち取るという大きな戦功を挙げた 1

『信長公記』巻三(十)「志賀御陣の事」にも、浅井長政・朝倉景健の軍勢が坂本に攻め寄せ、宇佐山城を守る森可成らが応戦するも衆寡敵せず討死したと記録されている 19 。この志賀の陣での勝利は、姉川での敗北の汚名を返上するに足る大きな戦功であったと言える。信長の近親者と有力武将を同時に討ち取ったことは、織田方にとって戦略的にも精神的にも大きな痛手であり、景健の武名を示すものとなった。この勝利は、景健が単なる敗将ではなく、状況によっては戦術的な成功を収める能力を持っていたことを証明している。また、朝倉軍が姉川での敗戦から短期間で立ち直り、再び織田領内深くまで侵攻し反撃に出るだけの余力を依然として有していたことも示唆している。

第三部 朝倉氏滅亡と景健の変転

第一章 朝倉氏の終焉と景健の降伏

刀根坂の戦いと一乗谷炎上(天正元年・1573年)

天正元年(1573年)8月、織田信長は浅井長政の小谷城を包囲し、朝倉義景は浅井氏救援のため出陣した。しかし、織田軍の猛攻の前に朝倉軍は敗走を余儀なくされる 21 。この撤退戦である刀根坂の戦いにおいて、朝倉軍は壊滅的な打撃を受け、朝倉景行や山崎吉家など多くの有力武将を失った 21 。朝倉景健もこの戦いに参陣しており、義景本隊を逃がすために奮戦したと伝えられている 4

織田軍の追撃は厳しく、朝倉軍の抵抗もむなしく、信長軍は朝倉氏の本拠地である一乗谷に侵攻し、壮麗を誇った城下町は焼き払われた 21 。追いつめられた朝倉義景は、一族である朝倉景鏡の裏切りにより、賢松寺において自害し、ここに戦国大名としての朝倉氏は滅亡した 19

『越州軍記』によれば、朝倉氏が滅亡する過程で、景健は織田方に内応していた家臣の一人であったとされ、天正元年(1573年)11月には上洛して織田信長に謁見したと記されている 24

織田信長への降伏と「安居」改姓の背景

朝倉氏滅亡後、朝倉景健は織田信長に降伏し、所領を安堵された 2 。この際、景健は姓を「朝倉」から、自身の本拠地名に由来すると考えられる「安居」(あご、あんご、あぐいなど複数の読みが伝わる)に改めた 2 。この改姓は、旧主家である朝倉氏との決別を明確にし、新たな支配者である織田信長への服従を表明する行為であったと解釈できる。

戦国時代において、主家が滅亡した後に旧臣が姓を改めることは珍しいことではない。景健が「安居」を名乗ったのは、自身の支配基盤である安居城とその周辺地域 10 を新たなアイデンティティの中心とし、信長が構築する新体制下で自立した領主としての存続を図ろうとした戦略的判断であった可能性が高い。これは、広範な「朝倉一門」という立場から、より限定的な地域領主へと自己規定を変化させることで、新体制への適応を試みたものと見ることができる。地名と姓の関連性については、他の戦国武将の事例でも見られるところである 26

改姓後の「朝倉孫三郎」呼称に関する考察

興味深いことに、天正元年(1573年)8月の朝倉義景滅亡後に景健が降伏し「安居」に改姓したにもかかわらず、翌天正2年(1574年)7月20日付の織田信長発給の書状(『法雲寺文書』)では、景健は依然として「朝倉孫三郎」と記されている 4 。孫三郎は景健の通称である 3

この事実は、いくつかの可能性を示唆する。一つには、改姓が信長側によって即座にかつ公式に承認されていなかった可能性である。あるいは、信長が意図的に旧名を用いることで、景健の立場を完全に安定させず、一定の圧力を加えていた可能性も考えられる。また、通称である「孫三郎」が広く認知されていたため、公的な文書においても便宜的に使用されたという慣習的な側面も否定できない。武家社会における主従関係の成立や身分変更の承認には、一定のプロセスや時間が必要であり、改姓の公的認知もその一つであった可能性がある。当時の武家の書札礼や呼称の慣習は複雑であり 28 、この呼称の継続は、降伏後の武将が置かれた不安定な立場や、新体制への移行期における呼称の流動性を示す一例として捉えることができる。

第二章 越前一向一揆への関与と最期

一向一揆への加担と富田長繁との対立

朝倉氏滅亡後の越前は、権力の空白に乗じて混乱状態に陥った。織田信長は、旧朝倉家臣であった前波吉継(桂田長俊と改名)を越前の守護代に任じたが、これに不満を抱いた同じく旧朝倉家臣の富田長繁が土一揆を扇動し、桂田長俊を討伐する事件が発生した 25

この混乱の中、朝倉景健は当初、織田信長が府中に置いた奉行(木下祐久・津田元嘉・三沢秀次)と一揆衆との間の調停役として動いている 25 。しかし、富田長繁が魚住景固一族を謀殺するなど専横を極めるようになると、景健はこれに強く反発し、長繁から離反した 24 。そして景健は、杉浦玄任らを指導者とする一向一揆勢に与し、富田長繁と戦うことになる 11 。この結果、富田長繁は滅亡する。

朝倉氏滅亡後の越前は、権力の空白地帯となり、旧臣や一揆勢力が複雑に絡み合う流動的な状況にあった。景健の一連の行動は、この混乱の中で生き残りを図り、自身の勢力を再構築しようとする試みと見ることができる。富田長繁との対立は、旧朝倉家臣団内部の主導権争いの一環であり、一向一揆という外部勢力との連携も、その時々の力関係に応じた現実的な選択であったと言えるだろう。

『信長公記』に見る最期の詳細(天正3年・1575年)

天正3年(1575年)、織田信長は越前の一向一揆を鎮圧するため、大規模な軍勢を率いて再侵攻した。この織田軍の前に一揆勢は劣勢となる。

この状況下で、朝倉景健は再び立場を変え、織田方へ寝返ろうと画策した。彼は、一向一揆の指揮官であった下間頼照・下間頼俊らの首を持参し、信長に許しを乞うたのである 3 。しかし、信長は景健のこの降伏を受け入れず、向久家(一部史料では「向駿河」とあるが、向井久家か 4 )に命じて景健に自害を命じた。この直後、景健の家臣であった金子新丞父子と山内源右衛門の3名が、主君の後を追って追腹を切り殉死したと、『信長公記』巻八(七)「越前御進発賀越両国被仰付之事」に記されている 4

Wikisourceで公開されている『信長公記』巻八(七)の該当箇所には、「朝倉孫三郎頸持来色赦免之後佗言雖申候無御同心 向駿(ムカイ)河に被仰付生害させられ候爰(こゝ)希異之働有右之様子見申 孫三郎 家来 金子新丞 父子 山内源右衛門と申者両三人追腹仕是等の働見申候て 向駿河 消㆑胆感し被申候」との記述がある 32 。これは、朝倉孫三郎(景健)が(一揆方の将の)首を持参し、赦免を願う詫び言を述べたが、信長は同意せず、向駿河守に命じて彼を殺害させ、その様子を見ていた孫三郎の家来である金子新丞父子と山内源右衛門という者たちが追腹を切り、その働きに向駿河守も感嘆した、という意味に解釈できる。

景健の最期は、戦国武将の処世術の限界と、織田信長の厳格な(あるいは非情な)人物評価を示すものと言える。敵将の首を持参するという、当時としては最大の忠誠の証を示したにもかかわらず許されなかったのは、度重なる変節が信長の深い不信を招いたか、あるいはもはや景健に利用価値がないと判断されたためであろう。家臣3名の殉死は、景健が少なくとも近臣からは慕われる人物であった可能性を示唆するが、信長の天下布武という大事業の前では、個人の忠誠や武勇も絶対的なものではなかったことを物語っている。

第四部 朝倉景健の人物像と歴史的評価

第一章 史料から読み解く武将としての能力

朝倉景健の武将としての能力については、史料からいくつかの側面がうかがえる。彼は武勇に優れ、主君である朝倉義景に代わって度々総大将を務めたとされている 3 。特に元亀元年の志賀の陣において、織田信長の弟・信治や重臣・森可成を討ち取った戦功は特筆すべきものであり、彼の軍事的能力の一端を示すものと言える。

一方で、同じく総大将として臨んだ姉川の戦いでは、徳川軍の前に大敗を喫しており、この点は彼の評価を複雑にしている。一部の二次資料では「義景や景鏡とは違い、個性も行動もいたって正しく、直隆と直澄曰く無難な人物」という評価も紹介されている 3

この「無難な人物」という評価は、一見すると平凡さを意味するように受け取られがちだが、戦国乱世という過酷な時代背景を考慮すると、必ずしも否定的な意味合いだけではない。突出した才能や奇抜な戦略で歴史に名を残すタイプではなかったかもしれないが、与えられた職務を堅実にこなし、主家の危機(父兄の相次ぐ死や、織田信長の侵攻)にもある程度対応できたと解釈することも可能である。度重なる総大将への任命は、朝倉義景からの信頼があったか、あるいは他に任せられる適当な人材がいなかった可能性も考えられるが、いずれにせよ一定の実務能力や家中での統率力がなければ務まらない役割であった。彼の軍歴に見られる敗戦と戦功の混在、そして後の変節は、彼が突出したカリスマ性や絶対的な戦略眼を持つというよりは、むしろその時々の状況に応じて最善と思われる(しかし必ずしも成功には至らない)選択を繰り返した結果と見ることもできるだろう。

第二章 変転する状況下での生存戦略と評価

朝倉景健の生涯、特に朝倉氏滅亡後の動向は、激動の時代を生き抜こうとした一人の武将の必死の選択の連続であったと言える。織田信長への降伏、越前一向一揆への加担、そして再度信長への帰順の試みと、彼の立場は目まぐるしく変わっている。これらの行動は、結果として信長の不信を招き、悲劇的な最期に繋がった。

しかし、彼の行動を単なる日和見主義や裏切りと断じるのは表面的かもしれない。それは、旧体制(朝倉氏)から新体制(織田氏)へと移行する時代の大きな転換期において、中間管理職的な立場にあった武将が直面した苦悩と悲哀の現れとも言える。主家の安泰と自身の存続という狭間で揺れ動き、結果として多くの「裏切り」を重ねたように見える彼の生涯は、旧主への忠誠と新秩序への適応という、当時の多くの武将が直面したであろうジレンマを象徴している。彼の最期は、そのような武将たちが新たな統一権力の下で淘汰されていく過程の一コマとして、歴史的に評価されるべきであろう。彼の生涯は、戦国末期における旧勢力の武将が、新たな支配秩序の中でいかに生き残りを図ろうとしたか、その困難さを示す一例として、後世に多くの示唆を与えている。

結論

朝倉景健は、越前朝倉氏の有力な一門として生まれ、主家が最大の危機に直面した時期に軍事の重責を担った武将であった。姉川の戦いでの敗北はあったものの、志賀の陣では織田信長の弟らを討ち取る戦功を挙げるなど、一定の武勇を示した。しかし、朝倉氏滅亡という時代の奔流に抗しきれず、主家滅亡後は織田信長に降伏し「安居」と改姓して生き残りを図った。

その後、越前国内の混乱の中で一向一揆に与するなど、複雑な立場を渡り歩いたが、最終的には天正3年(1575年)、織田信長に再び降伏を試みるも許されず、自害に追い込まれた。彼の生涯は、戦国時代の武将が置かれた過酷な状況、忠誠と裏切りが紙一重であった現実、そして新たな統一権力の下での旧勢力の武将が辿る運命といった、歴史の転換期における重要な側面を浮き彫りにしている。

朝倉景健に関する史料は断片的であり、その評価も一様ではない。しかし、彼の動向を丹念に追うことは、戦国末期の越前地域の複雑な政治状況や、そこに生きた人々の姿を理解する上で貴重な手がかりとなる。今後の研究においては、未発見の史料の発掘や、既存史料の再解釈を通じて、より多角的な朝倉景健像が構築されることが期待される。

表2:朝倉景健 主要関連年表

和暦

西暦

主要な出来事

景健の関与・役割

関連史料(典拠ID)

天文5年頃?

1536年頃

生誕(諸説あり)

1

元亀元年

1570年

父・朝倉景隆、兄ら死去

家督相続、安居城主となる

2

元亀元年

1570年

織田信長の越前侵攻

防戦にあたる

2

元亀元年6月

1570年

姉川の戦い

朝倉軍総大将として参陣、敗北

1

元亀元年9月

1570年

志賀の陣(近江坂本の戦い)

朝倉軍を率い、織田信治・森可成らを討ち取る

1

天正元年8月

1573年

刀根坂の戦い、一乗谷炎上、朝倉義景自害(朝倉氏滅亡)

参陣、奮戦。義景自害後、織田信長に降伏。

4 のWikipedia情報, 24

天正元年

1573年

「安居」へ改姓

信長への服従を示す

2

天正2年1月

1574年

越前一向一揆発生、富田長繁が桂田長俊を討伐

信長が府中に置いた奉行と一揆衆との調停に入る

25

天正2年

1574年

富田長繁の専横に対し、一向一揆に与して長繁と戦う

一向一揆勢の一員として富田長繁と対立、長繁滅亡

11

天正2年7月

1574年

織田信長の書状で「朝倉孫三郎」と記される

改姓後も旧名で呼ばれる

4

天正3年

1575年

織田信長の越前再侵攻、一向一揆劣勢

再び織田方に寝返り、一揆の将の首を持参し降伏を試みるも許されず、自害を命じられる。家臣3名殉死。没年については諸説あり(表1参照)。

3

引用文献

  1. あさくら - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/asakura.html
  2. 朝倉景健- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E5%81%A5
  3. 朝倉景健とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E5%81%A5
  4. 朝倉景健 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E5%81%A5
  5. 朝倉景隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E9%9A%86
  6. 朝倉氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F
  7. 姉 川 合 戦 の 事 実 に 関 す る 史 料 的 考 - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/614648.pdf
  8. AK02 朝倉教景 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/ak02.html
  9. 越前 安居城 姉川の合戦、朝倉方総大将・景健の居城 | 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-219.html
  10. 戦国大名朝倉氏(安居城跡) http://fukuihis.web.fc2.com/memory/me012.html
  11. 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-01-02-01.htm
  12. 朝倉氏の歴史 - 福井市 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
  13. 姉川の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2375
  14. 戦国時代の指揮官とは|大将、軍師、侍大将などの役割を解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1134032
  15. 史蹟 - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_4_s.pdf
  16. 姉川の戦い~織田・徳川と浅井・朝倉が大激戦 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4057
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  18. カードリスト/浅井朝倉家/浅005朝倉景健 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/475.html
  19. 歴史の目的をめぐって 朝倉景鏡 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-asakura-kageakira.html
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  22. 一乗谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11096/
  23. 歴史の目的をめぐって 朝倉義景 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-asakura-yoshikage.html
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  28. 夫婦別姓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%A9%A6%E5%88%A5%E5%A7%93
  29. 国号に見る「日本」の自己意識 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/6504/files/maeno.pdf
  30. 日本中世書札礼の成立の契機 https://www.gcoe.lit.nagoya-u.ac.jp/result/pdf/1-2%E5%B0%8F%E4%B9%85%E4%BF%9D.pdf
  31. 書札礼と文書から見た室町・戦国期の儀礼秩序 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/20492/files/14.pdf
  32. 信長公記 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98