安田作兵衛は本能寺の変で信長に一番槍、森蘭丸を討ったとされる猛将。明智家滅亡後、流浪の末に旧友・寺沢広高に仕え、唐津で晩年を過ごした。
安田作兵衛国継(やすださくべえくにつぐ)という名は、日本の歴史上、最も劇的な転換点の一つである「本能寺の変」と分かち難く結びついている。彼は、主君・明智光秀の謀反において、天下人・織田信長に一番槍をつけ、その寵愛深き小姓・森蘭丸を討ち取ったとされる、鮮烈な武功の主として語り継がれてきた 1 。その活躍は、後世の講談や浮世絵の中で英雄的に描かれ、彼の勇名は不動のものとなった。
しかし、その輝かしい武功とは裏腹に、彼の名は同時代に記された第一級の史料にはほとんど見出せない。信長の旧臣・太田牛一が著した詳細な記録『信長公記』は、本能寺の変の顛末を克明に記しながらも、安田作兵衛という人物の活躍については沈黙を守っている 3 。彼の生涯の具体的な姿は、主に江戸時代に成立した逸話集『翁草』や系譜集『美濃国諸家系譜』といった二次史料によって形作られており、史実と伝説の境界は極めて曖昧である 5 。
本報告書は、この「史実」と「伝説」の間に横たわる安田作兵衛の実像に、多角的な視点から迫ることを目的とする。史料を批判的に検証し、「歴史上の人物としての安田国継」と、「物語の登場人物としての安田作兵衛」を峻別しつつ、なぜ彼が後世において英雄として語り継がれるに至ったのか、その人物像の形成過程までを解き明かしていく。彼の数奇な生涯を追うことは、一人の武将の人生を探求するに留まらず、歴史がいかにして語られ、記憶され、そして伝説へと昇華していくかの過程を考察することに他ならない。
安田作兵衛国継は、美濃国安田村(現在の岐阜県海津市海津町安田)の出身とされる 7 。この地は木曽三川が合流する水運の要衝であり、戦国時代には織田氏と斎藤氏の勢力がぶつかる最前線でもあった。彼の生年には二つの説が存在し、一つは弘治2年(1556年)とする説 9 、もう一つは『美濃国諸家系譜』に見られる天文13年(1544年)とする説である 6 。この生年の違いは、彼の享年にも影響を与えている。
彼の出自はやや複雑である。『美濃国諸家系譜』によれば、実父は山岸勘ヶ由左衛門貞秀であり、国継は末子であったという。そのためか、永禄元年(1558年)頃に安田利国の聟養子(むこようし)となり、安田家を相続したと伝えられる 6 。幼名は岩福、あるいは乙千代と呼ばれた 6 。戦国時代において、家名の存続や勢力拡大のために養子縁組は頻繁に行われたが、この養子という立場が、彼の立身出世への渇望に影響を与えた可能性は否定できない。
彼の武将としての素質は、その傑出した身体的特徴にも現れていた。身長は六尺二寸(約188cm)と伝えられ、当時の日本人としては類稀な巨躯であった 6 。さらに「大力量無双」「早業飛行の達人」と評されるほどの身体能力を誇り、特に槍術に優れた使い手であったとされる 6 。この恵まれた体格と武芸の才が、後の本能寺における槍働きを支える物理的な基盤となったのである。
国継が明智光秀に仕え始めたのは、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした永禄11年(1568年)頃とされる 6 。当初は光秀の重臣であった斎藤利三の配下であったという説もある 7 。斎藤利三もまた美濃の出身であり、同郷の縁を頼ってその門を叩いた可能性が考えられる。
明智家臣団に加わった国継は、各地の戦いで武功を重ね、次第に頭角を現していった。その活躍により、近江国高島郡田中に一万石の所領を与えられるまでになったと『美濃国諸家系譜』は記している 6 。この記述の信憑性については慎重な検討を要するものの、彼が単なる一兵卒ではなく、明智家中で一定の地位を占める武将であったことを示唆している。
後世の講談や軍記物語において、国継は「明智三羽烏(さんばがらす)」あるいは「明智四天王」の一人として称揚されることが多い 1 。しかし、これらの呼称は、歴史的な実体を示すものというより、文学的な装置として機能した側面が強い。例えば「三羽烏」という呼称は、国継以外の構成員が史料によって一定せず、明確な定義が存在しない。同様に「織田四天王」 15 のように、有力大名の家臣団を象徴的に表現する定型句として、他の大名家にも見られるものである。これらの呼称が登場する史料が、物語性の強い後代の記録が中心であることから判断すると、これは国継の武勇を際立たせ、光秀の家臣団の層の厚さを演出するためのレトリックとして、後世に付与されたものと考えるのが妥当であろう。彼の地位を史実として追う以上に、なぜ彼がそのような象徴的な呼称で語られる必要があったのか、その文化的背景を分析することが、人物像の理解には不可欠である。
天正10年(1582年)6月1日夜、明智光秀は丹波亀山城で重臣らと謀議を重ね、主君・織田信長討伐を決意する 10 。この歴史的な謀反において、安田国継は極めて重要な役割を担うこととなる。明智軍の先鋒として、本能寺襲撃の最前線に立ったのである 6 。
『美濃国諸家系譜』によれば、出陣に際し、光秀は道中の沓掛(くつかけ)で国継を呼び寄せ、「味方勢から本能寺へ注進に走る者があるやもしれぬ。そのような卑しき者を見つけたら打ち捨てよ」と密命を下したという 6 。これは、謀反の計画が事前に露見することを何としても防ごうとする光秀の周到さと、国継への信頼の厚さを示す逸話である。この命を受けた国継は、京の入り口である丹波口に差し掛かった際、異様な殺気を放つ軍勢の姿に驚き逃げ惑う農民たちを見て、情報漏洩を危惧し、20人から30人を斬り捨てたと伝えられている 6 。この凄惨な逸話は、謀反成功にかける明智軍の異常なまでの緊張感と冷徹な決意を物語っている。
また、『太平記英勇伝』などの後代の記録では、光秀が桂川のほとりで軍勢を休ませた際、国継に「吾が敵は本能寺にあり」という有名な言葉を兵士たちに伝達して回らせたとされる 6 。これにより、兵士たちは初めて光秀の真意を知ったと描かれており、国継が謀反の意志を末端まで浸透させるという重要な役割を担ったことが強調されている。
6月2日未明、明智軍は本能寺を完全に包囲し、攻撃を開始した。その乱戦のさなか、安田国継は歴史にその名を刻む武功を挙げる。
江戸時代の逸話集『翁草』は、その場面を劇的に描写している。それによれば、国継は箕浦大蔵丞、古川九兵衛と共に御殿の大庭へ乱入した。信長は当初、自ら弓を取って応戦したが、やがて弦が切れると槍を手に広庭へ飛び降り、三人と渡り合った。しばらくの攻防の後、信長が奥の座敷へ引き取った際、燭台の光にその影が障子に映った。その好機を、国継は見逃さなかった。彼は穂先の長い槍を手に、障子越しにその影を突き、信長の右脇腹に深手を負わせたとされる 6 。この「障子越しの槍」こそ、彼が「信長に一番槍をつけた」とされる功績の核心であり、後世の創作物で繰り返し描かれる象徴的な場面となった 1 。
信長を襲った直後、国継は主君を庇おうと駆けつけた信長の小姓・森蘭丸成利と対峙する。この若き寵臣との死闘もまた、彼の武勇を語る上で欠かせない逸話である。蘭丸に十文字槍で下腹部を突かれ、溝へ突き落とされるも、国継はその槍を手繰って起き上がり、逆に刀を抜いて蘭丸を討ち取ったと伝えられている 1 。この一連の行動、すなわち天下人・信長に手傷を負わせ、その忠勇の臣・蘭丸を打ち破ったという功績は、国継の武名を決定的なものとしたのである 2 。
これほどまでに劇的な活躍をしたとされる安田国継であるが、その武功には史料的な裏付けが乏しいという大きな課題がある。最も信頼性の高い同時代史料の一つである太田牛一の『信長公記』は、本能寺の変の様子を詳細に記しているにもかかわらず、安田国継の名も、彼が信長や蘭丸と渡り合ったという功績も一切記していない 4 。信長の最期についても、「どのように死んだかはわかっていない」と曖昧に記述するのみである 17 。この沈黙は、彼の功績が同時代的にはさほど重要視されていなかったか、あるいは後世に描かれるような形では起こらなかった可能性を示唆している。
国継の英雄譚が具体的に形作られていくのは、戦乱の記憶が薄れ、歴史が物語として消費されるようになった江戸時代以降のことである。彼の武勇伝は、逸話集である『翁草』 11 、系譜集の『美濃国諸家系譜』 6 、あるいは『森家先代実録』 6 といった二次史料や、歌舞伎、浄瑠璃、そして明治時代の錦絵(浮世絵) 18 といった大衆文化の中で増幅され、定着していった。
この現象の背景には、平和な江戸時代に生きた人々が、過去の戦国時代に対して抱いた憧れやロマンがあったと考えられる。本能寺の変という歴史的大事件において、具体的な加害者や英雄、そしてドラマティックな展開が求められた。信長という絶対的な権力者に一矢報い、美少年として名高い蘭丸を打ち破るという役割は、物語の登場人物として非常に魅力的であった。安田作兵衛の伝説は、史実の記録というよりも、この「物語的空白」を埋める存在として、大衆の娯楽への欲求が生み出した文化的創造物と結論付けられる。彼の逸話は、史実の核があったとしても、語り継がれる中で劇的に脚色され、一人の武将を「伝説の英雄」へと昇華させたのである。
表1:本能寺の変における安田作兵衛の行動に関する史料比較
史料名(成立年代) |
信長への攻撃に関する記述 |
森蘭丸討ち取りに関する記述 |
特記事項 |
『信長公記』(天正末期~慶長年間) |
記述なし |
記述なし |
最も同時代性の高い史料だが、作兵衛の名は見られない。 |
『翁草』(江戸中期) |
障子に映る信長の影を穂長の槍で突いた 6 。 |
記述あり(詳細は他の史料に詳しい)。 |
作兵衛の功績を具体的に記した初期の文献の一つ。 |
『美濃国諸家系譜』(江戸中期) |
「信長を突き止め」と簡潔に記述 6 。 |
「森蘭丸を討つ」と簡潔に記述 6 。 |
系譜集として、家系の功績を記す形で言及。 |
『森家先代実録』(江戸中期) |
記述あり。 |
蘭丸に下腹部を突かれながらも反撃して討ち取ったとされる詳細な一騎打ちの様子が描かれる 1 。 |
森家の視点から、蘭丸の奮戦と、それを上回った作兵衛の武勇を記す。 |
本能寺における輝かしい武功からわずか11日後、安田国継の運命は暗転する。天正10年6月13日、主君・明智光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、その天下はあまりにも短く終わった 10 。国継自身は、本能寺で蘭丸から受けた槍傷の治療のため、この決戦には参加していなかったとも言われ、結果的に命拾いした 12 。
しかし、主家を失った彼は、もはや英雄ではなかった。信長を討った「逆臣の家来」という烙印を押され、秀吉から追われる身となったのである。彼は名を「天野源右衛門(貞成)」と改め、潜伏を余儀なくされた 8 。それは、栄光の頂点から奈落の底へ突き落とされるような、「マイナスからの再出発」であった 12 。
ひっそりと浪人生活を送るかと思いきや、国継のその後の人生は驚くほどに活動的である。戦国乱世は、個人の武勇が何よりも価値を持つ時代であり、「信長に一番槍をつけた」という彼の武名は、逆臣の家来という汚名を補って余りあるほどの「ブランド」となっていた。そのため、彼の元には仕官の誘いが殺到したという 12 。
彼の仕官遍歴は、その気性の激しさと高い自負心を物語っている。羽柴秀吉の甥である羽柴秀勝や、弟の秀長、そして蒲生氏郷といった豊臣恩顧の大名に短期間仕えたが、いずれも長続きしなかった 6 。中でも特筆すべきは、討ち取った森蘭丸の兄である「鬼武蔵」こと森長可に、その武勇を高く評価されて仕官したという事実である 13 。個人の怨恨よりも、武士としての能力が優先される戦国時代の価値観を端的に示す、皮肉な逸話と言えよう。しかし、その長可も小牧・長久手の戦いで戦死し、国継は再び浪人となる。
その後、九州の雄として知られる立花宗茂の門を叩いた際には、「拙者の取り柄は一番槍。失敗したことはござらぬ故、一万石を給われ」と啖呵を切ったと伝えられる 12 。宗茂のもとで朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍し、武功を挙げたが、同僚との不和が原因で出奔している 8 。
彼の気性を最も象徴するのが、豊臣秀次に仕えていた時の逸話である。秀次から城普請を命じられた際、国継は「自分は戦働き、すなわち武辺の奉公のために仕官したのだ」と激しく抗議し、あろうことか配下の者たちに武装させて持ち場に立てこもるという、前代未聞の「ストライキ」を起こしたという 8 。この一連の行動は、単なる彼の性格の問題として片付けることはできない。それは、戦乱の世で培われた「個の武勇」を絶対的な価値とする旧来の武士の価値観と、中央集権化が進み、武士に行政官僚としての役割(普請や検地など)をも求め始めた新しい時代の価値観との間の、深刻な軋轢を象徴している。国継の流転の人生は、戦場でしか生きられない、時代の変化に取り残されつつあった猛将の悲哀と、決して折れることのなかった矜持の物語として読み解くことができるのである。
講談などでは、国継(天野源右衛門)が朝鮮での戦体験を『天野源右衛門覚書』(別名『立花朝鮮記』)として執筆したと語られることがある 13 。この書は、朝鮮の役における立花家の奮戦を描いたものとして知られる。しかし、近年の研究により、これは幕末の文人によって書かれた偽書、すなわちフィクションであることが明らかになっている 6 。安田作兵衛という人物が持つ物語性が、後世の創作意欲を刺激し、さらなる伝説を生み出した一例として興味深い。
諸国を流浪し、数多の主君の下を渡り歩いた安田国継の波乱の人生は、一人の旧友との再会によって、ようやく安住の地を見出すこととなる。その人物こそ、肥前唐津八万石の大名となっていた寺沢広高であった。
『翁草』には、二人の間に交わされた若き日の誓いが、美しい逸話として記されている。美濃出身の国継と尾張出身の広高は、まだ無名であった頃、「今は戦国の世である。槍働きをもって、いずれかが国郡の主となったならば、もう一方をその禄高の十分の一をもって家臣として迎え入れよう」と約束を交わしたという 5 。その後、二人の運命は大きく分かれた。国継は明智光秀に仕えて本能寺で武功を挙げるも、主家の滅亡と共に没落。一方の広高は豊臣秀吉に仕えて着実に出世を重ね、ついに大名の地位を掴んだのである 5 。
国郡の主となった広高は、昔の約束を忘れてはいなかった。彼は流浪の身であった国継を唐津に招き、自身の石高八万石の十分の一にあたる八千石という、破格の待遇で召し抱えたのである 5 。
この美談には、単なる友情物語に留まらない、より現実的で強固な背景が存在する。国継の度重なる主君交代が示すように、逆臣の家来という経歴は、彼の武勇をもってしても拭い難い足枷であった。そんな彼が最終的に安住の地を得られたのは、寺沢広高との特別な関係があったからに他ならない。『美濃国諸家系譜』は、国継の母親が広高の父・寺沢広正の妹であった可能性を示唆している 6 。これが事実であれば、二人は単なる旧友ではなく、「従兄弟」という血縁関係にあったことになる。この血縁の絆が、友情の美談に説得力のある裏付けを与えている。広高にとって国継を召し抱えることは、旧友への義理を果たすと同時に、一族の者を保護するという、戦国社会における極めて重要な責務でもあったのだ。国継の人生の終着点は、個人の武勇だけでは生き抜けぬ世の非情さの中で、血縁という最後のセーフティネットがいかに重要であったかを物語っている。
寺沢家に迎えられた国継は、姓を「平野」、名を「源右衛門」と改め、唐津の地でようやく穏やかな晩年を送ったとされる 5 。また、旧主・明智光秀の重臣であった明智秀満の子・三宅重利の後見人となり、寺沢家に仕官させるなど、滅びた明智家の一族に対する配慮も見せている 6 。
彼の最期についても、複数の説が伝えられ、謎に包まれている。没年は慶長2年(1597年)6月2日、享年42歳とする説が有力である 9 。死因については、頬にできた悪性の出来物(腫瘍)の痛みに耐えかねて自害したという説 6 と、慶長3年(1598年)に旧主・光秀の十七回忌に際して追腹(殉死)したという説 6 があり、判然としない。
興味深いのは、彼の命日が、奇しくも本能寺の変が起きた6月2日(旧暦)であったことから、「信長を刺した祟りだ」と当時の人々に噂されたという点である 6 。彼の生涯は、その始まりから終わりまで、本能寺の変という歴史的事件の呪縛から逃れることはできなかった。その死さえもが、一つの伝説として語り継がれることになったのである。
安田作兵衛国継の生涯は、史料の乏しさにもかかわらず、いくつかの具体的な遺品や史跡を通じて、その存在を現代に伝えている。
作兵衛の管槍(くだやり):
彼が本能寺の変で使用したと伝わる槍が、佐賀県唐津市の唐津城天守閣内にある郷土博物館に「作兵衛の管槍」として現存している 20。管槍とは、槍の柄に筒(管)を取り付け、その管を左手で握り、右手で柄を素早く繰り出して突くための特殊な槍である 20。この槍は、彼の伝説的な武功を物質的に裏付ける象徴として、非常に重要な意味を持っている。
墓所:
彼の墓は、佐賀県唐津市にある浄泰寺の境内にある 23。この寺は、彼を召し抱えた寺沢広高が父の菩提を弔うために開創した寺院であり、国継が晩年を過ごした地との深いつながりを示している 26。法名は「善要智仙人禅定門」と伝えられている 6。
豊岩稲荷神社:
意外なことに、彼の痕跡は九州だけでなく、遠く離れた江戸の中心地にも残されている。東京都中央区銀座の路地裏に鎮座する豊岩稲荷神社は、浪人時代の国継(天野源右衛門)が、自身の屋敷内に祀ったものだと伝えられている 6。彼の流浪の人生の一端が、このような形で現代にまで伝えられていることは興味深い。
国継の子孫については、断片的な記録が残されている。光慶という男子がいたことや、安田検校と称した子、そして天野作兵衛貞能という孫がいたとされる 6 。しかし、その後の詳細な系譜は不明であり、歴史の表舞台から姿を消したようである。
なお、近代日本の実業家であり安田財閥の創始者である安田善次郎 28 や、その子孫にあたる芸術家のオノ・ヨーコ氏 28 と、安田作兵衛との間に血縁関係はない。両者は出身地も時代も全く異なり、同姓であることからの混同を避けるため、ここに明確に記しておく。
安田作兵衛国継の生涯は、本能寺の変という歴史の転換点における「一瞬の輝き」と、その後の主家滅亡に伴う「長い流転」という、極めて対照的な二つの局面で特徴づけられる。
彼は、戦国乱世が生んだ典型的な「武辺者」であった。その槍働きと武勇は高く評価され、逆臣の家来という汚名を負いながらも、数多の大名から求められるほどの価値を持っていた。しかしその一方で、彼の気性の激しさと、自らの武勇に対する高い矜持は、戦乱が収束し、武士に行政能力や協調性が求められる新しい時代との間に、深刻な軋轢を生んだ。彼の流転の人生は、個人の武勇だけでは生き抜けない時代の大きな変遷と、その中で自己の価値を貫こうとした一人の武士の葛藤を映し出している。
最終的に、安田作兵衛という人物は、確たる史実の断片の上に、後世の人々が抱いた英雄への憧憬や物語への渇望が幾重にも積み重なって形成された、歴史と文学の結晶であると言える。彼が現代にまでその名を留めているのは、史料によって裏付けられた武功そのもの以上に、彼の数奇な運命が持つ抗いがたい物語性の力によるものである。彼の生涯は、歴史の事実と人々の記憶が交差する地点に立つ、象徴的な武将として、我々に歴史の多層性を語りかけている。
表2:安田作兵衛(国継)関連年表
和暦(西暦) |
年齢(諸説) |
出来事 |
関連人物・主君 |
名乗っていた名前 |
天文13年(1544年) |
1歳 |
美濃国安田村にて誕生(『美濃国諸家系譜』説) 6 。 |
山岸貞秀(実父) |
岩福(乙千代) |
弘治2年(1556年) |
1歳 |
美濃国安田村にて誕生(通説) 9 。 |
山岸貞秀(実父) |
岩福(乙千代) |
永禄元年(1558年) |
3歳/15歳 |
安田利国の聟養子となる 6 。 |
安田利国(養父) |
安田国継 |
永禄11年(1568年) |
13歳/25歳 |
明智光秀に仕官する 6 。 |
明智光秀、斎藤利三 |
安田国継 |
天正10年(1582年)6月2日 |
27歳/39歳 |
本能寺の変。織田信長に一番槍をつけ、森蘭丸を討ち取る 1 。 |
織田信長、森蘭丸 |
安田作兵衛国継 |
天正10年(1582年)6月13日 |
27歳/39歳 |
山崎の戦いで明智家が滅亡。浪人となる 10 。 |
羽柴秀吉 |
天野源右衛門貞成 |
天正10年以降 |
- |
羽柴秀勝、秀長、蒲生氏郷、森長可らに仕える 13 。 |
羽柴秀勝、蒲生氏郷、森長可 |
天野源右衛門 |
天正15年(1587年)頃 |
- |
九州平定後、立花宗茂に仕える 6 。 |
立花宗茂 |
天野源右衛門 |
文禄・慶長の役(1592年-) |
- |
立花軍として朝鮮へ出兵 9 。 |
立花宗茂 |
天野源右衛門 |
時期不詳 |
- |
豊臣秀次に仕えるも、城普請を巡り出奔 8 。 |
豊臣秀次 |
天野源右衛門 |
時期不詳(晩年) |
- |
寺沢広高に八千石で召し抱えられる 5 。 |
寺沢広高 |
平野源右衛門 |
慶長2年(1597年)6月2日 |
42歳 |
死去(通説)。死因は病苦による自害とされる 6 。 |
- |
平野源右衛門 |
慶長3年(1598年)6月14日 |
55歳 |
死去(『美濃国諸家系譜』説)。旧主光秀への追腹とされる 6 。 |
- |
平野源右衛門 |