安田景元
安田景元は越後毛利氏の一族で、長尾為景・上杉謙信に仕えた。北条高広の謀反を察知し謙信に報告、その忠誠心と政治的手腕で上杉家中の重鎮となる。子孫は米沢藩重臣として続いた。

日本の戦国時代における安田景元の徹底調査報告書
序章:安田景元 ― 越後を支えた忠臣の実像
日本の戦国時代、越後の雄・上杉謙信の家中にあって、その忠誠心と功績で知られる武将、安田景元(やすだ かげもと)。彼は一般に、主君・長尾為景に従って「上条定憲の乱」で武功を挙げ、次代の主君・上杉謙信の代には同族・北条高広の謀反を未然に知らせた忠臣として語られることが多い 1 。しかし、この評価の背景には、彼の出自である越後毛利一族内の複雑な力学、下剋上が常態化した越後国内の激しい政治闘争、そしてその中で彼が下した数々の戦略的な決断が存在する。
本報告書は、断片的に伝わる景元の事績を丹念に検証し、彼の生涯を包括的かつ立体的に再構築することを目的とする。具体的には、景元の出自と彼が属した越後安田氏の源流を解き明かし、長尾為景、そして上杉謙信という二人の主君の下で彼がいかにして台頭し、その地位を確立したかを詳述する。さらに、景元の没後、その子らがたどった栄光と悲劇の運命を追うことで、安田一族が越後の戦国史、ひいては上杉家の興亡に果たした役割の全貌を明らかにする。
以下の年表は、安田景元の生涯と、彼が生きた時代の主要な出来事を対照的に示したものである。これにより、彼の活動をより広い歴史的文脈の中で捉えることが可能となる。
表1:安田景元 関連年表
西暦 (元号) |
安田景元および安田一族の動向 |
関連人物および越後・日本の動向 |
生年不詳 |
安田景元、誕生。安田広春の養子となる 3 。 |
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1530年 (享禄3年) |
養父・安田広春の死去に伴い、家督を相続か 3 。 |
長尾為景に対し、上条定憲が挙兵(上条定憲の乱、~1536年) 6 。 |
1534年 (天文3年) |
上条定憲の乱において、納下(なしのした)で戦功を挙げ、長尾為景より感状を受ける 7 。 |
長尾為景軍と上条定憲軍の抗争が続く 9 。 |
1536年 (天文5年) |
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長尾為景が隠居し、子の晴景が家督相続。為景は同年中に死去 6 。 |
1548年 (天文17年) |
長尾晴景、景虎(後の謙信)に仕える 4 。 |
長尾晴景が弟の景虎に家督を譲る。 |
1554年 (天文23年) |
同族の北条高広が武田信玄と通じ謀反。景元はこれを察知し、直江景綱に報告 3 。 |
武田信玄、信濃への侵攻を活発化。 |
1555年 (弘治元年) |
謙信に従い、北条高広の討伐に参加。高広は降伏 4 。 |
第2次川中島の戦い。 |
1561年 (永禄4年) |
この頃までに家督を子・顕元に譲り隠居したとみられる 5 。 |
第4次川中島の戦い。謙信、関東管領に就任。 |
1563年 (永禄6年) |
死去したと伝えられる 5 。 |
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1578年 (天正6年) |
子・安田顕元、御館の乱で上杉景勝方に与し、新発田重家を味方に引き入れる功を立てる 11 。 |
上杉謙信が急死。養子の景勝と景虎による後継者争い「御館の乱」が勃発。 |
1580年 (天正8年) |
子・安田顕元、御館の乱後の恩賞問題の責任を取り自害 12 。 |
新発田重家が恩賞への不満から景勝と対立を深める。 |
1582年 (天正10年) |
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織田信長、本能寺で死去。 |
1598年 (慶長3年) |
顕元の弟・安田能元、主君・上杉景勝に従い会津へ移封。安田城は廃城となる 5 。 |
豊臣秀吉、死去。上杉景勝、会津120万石へ移封。 |
1622年 (元和8年) |
安田能元、死去。子孫は米沢藩重臣として続く 15 。 |
|
第一章:越後安田氏の源流 ― 大江姓毛利一族の系譜と二つの「安田氏」
安田景元の人物像と彼の政治的選択を理解するためには、まず彼が属した「越後安田氏」の出自と、越後国内におけるその特異な位置付けを把握することが不可欠である。
1-1. 鎌倉以来の名門、越後毛利氏の出自
安田景元が属した一族は、その源流を鎌倉幕府の創設に多大な貢献をした重臣・大江広元に遡る、由緒ある家系である 5 。大江広元の四男・季光が相模国毛利庄(現在の神奈川県厚木市)を領したことから毛利氏を称し、その子・経光の代に一族は大きく二つに分かれる。経光の四男・時親の系統は安芸国(広島県)へ下向し、後に戦国大名として名を馳せる毛利元就を輩出した安芸毛利氏の祖となった 16 。
一方で、経光の長男・基親の系統は越後国に留まり、刈羽郡佐橋庄(現在の新潟県柏崎市周辺)を本拠として「越後毛利氏」の祖となった 16 。安田景元は、この越後毛利氏の系譜に連なる武将である。
1-2. 北条(きたじょう)氏との分立と本拠地
越後毛利氏は、時代が下るとともにさらに分化し、惣領家筋は刈羽郡北条(きたじょう)を本拠として「北条氏」を称し、そこから分かれた一族が同郡の鵜川庄安田条(現在の柏崎市安田)を領して「安田氏」を名乗るようになった 16 。安田景元はこの安田氏の当主であり、その居城は安田城であった 5 。この安田城は、安田氏初代とされる憲朝の時代に築かれた可能性が指摘されているが、それ以前から何らかの館が存在した記録もあり、一族の拠点として長い歴史を有していた 21 。
このように、景元の安田氏と、後に彼の運命に大きく関わる北条高広の北条氏は、元をたどれば大江広元という同じ祖先を持つ同族であり、越後国内において地理的にも近接したライバル関係にあった。この事実は、後の彼らの行動を理解する上で極めて重要な背景となる。
1-3. 【重要】蒲原安田氏(大見安田氏)との峻別
越後の戦国史を研究する上で、しばしば混同を招くのが「二つの安田氏」の存在である。安田景元が属した「大江姓毛利安田氏」が越後中部の刈羽郡を本拠としたのに対し、越後北部の蒲原郡(現在の阿賀野市周辺)には、全く別系統の安田氏が存在した 22 。
この北越後の安田氏は、桓武平氏大掾氏の流れを汲む城氏の支流である大見氏の末裔とされ、「大見安田氏」とも呼ばれる 22 。その代表的な人物が、川中島の戦いでの武功により謙信から「血染めの感状」を賜ったことで知られる安田長秀である 22 。彼らは阿賀野川以北の有力国人領主群である「揚北衆(あがきたしゅう)」の一員であり、景元らの毛利安田氏とは出自も本拠地も全く異なる別個の勢力であった 15 。本報告書で扱うのは、あくまで刈羽郡を本拠とした大江姓の安田景元であり、この峻別は彼の動向を正確に分析するための大前提となる。
以下の略系図は、大江広元から安田景元に至るまでの越後毛利氏の分流と、景元と北条高広の関係性を示したものである。
表2:越後毛利氏(北条・安田氏)略系図
大江広元
┃
毛利季光
┃
毛利経光
┏━━━━━━━┻━━━━━━━┓
毛利基親 (越後毛利氏 祖) 毛利時親 (安芸毛利氏 祖)
┃
(数代略)
┃
毛利経高
┣━━━━━━━━━━━━━━┓
北条氏 (惣領家) 安田氏 (分家)
(本拠: 刈羽郡北条) (本拠: 刈羽郡安田)
┃ ┃
(数代略) 安田憲朝
┃ ┃
北条光広 安田道元
┃ ┃
北条輔広 安田重広
┃ ┃
安田広春 (一時、北条・安田両家を兼任) [5]
┣━━━━━━━━━━━━━━┓
北条高広 (養子) [10] 安田景元 (養子) [3]
┃
安田顕元
┃
安田能元
第二章:激動の越後と景元の台頭 ― 長尾為景の時代
安田景元が歴史の表舞台に登場するのは、越後が未曾有の内乱に揺れた長尾為景の時代であった。彼の初期の動向は、この時代の混沌とした政治状況と分かちがたく結びついている。
2-1. 「下剋上」の時代背景 ― 越後享禄・天文の乱
16世紀初頭、越後守護代であった長尾為景は、主君である守護・上杉房能を討ち、傀儡の守護・上杉定実を擁立して国内の実権を掌握しようと試みた 25 。これは典型的な下剋上の動きであり、越後の国人領主たちに激しい動揺と反発をもたらした。為景の中央集権的な支配に抵抗する上条定憲(上杉一族)や揚北衆などの国人勢力は、享禄3年(1530年)に為景打倒の兵を挙げ、越後は「享禄・天文の乱」と呼ばれる8年にも及ぶ大内乱に突入した 6 。
この時代、越後の国人領主たちは、新興勢力である為景に従って未来を賭けるか、あるいは旧来の守護体制を支持して抵抗するかの、重大な選択を迫られていた。中越・下越地方の多くが反為景陣営に席巻されるなど、当初の戦況は為景にとって決して有利なものではなかった 6 。
2-2. 上条定憲の乱と景元の決断
このような混乱の最中に家督を継いだ安田景元は、一貫して長尾為景方に与して戦うという決断を下した 3 。特に、内乱のクライマックスであった「上条定憲の乱」において、景元は為景軍の中核として奮戦したことが記録されている 1 。
この景元の決断は、単なる忠誠心の発露と見るべきではない。それは、旧守護体制の権威が失墜し、実力主義の時代が到来しつつあることを見抜いた、極めて戦略的な政治判断であったと分析できる。多くの国人が旧来の権威に固執して反為景で結束する中、景元はあえて少数派である為景の将来性に賭けたのである。この選択は、旧勢力に与してその他大勢の中に埋没するよりも、新興勢力の確立に貢献することで、自家の政治的価値を最大限に高める狙いがあったと考えられる。
その狙いは的中し、天文3年(1534年)5月、景元は上条定憲軍との「納下(なしのした)の戦い」で目覚ましい戦功を挙げた。この功績に対し、為景は直々に感状(感謝状)を送り、景元を賞賛した 7 。これは、景元が為景から個人的な信頼と高い評価を勝ち得たことを示すものであり、彼の政治的地位を盤石にする上で大きな意味を持つものであった。
2-3. 養子としての家督継承
景元は、先代当主・安田広春の養子として家督を継いだ 3 。広春は越中の陣中から送った置文などから実子に恵まれなかったとみられており、景元の出自の詳細は不明である 5 。一説には、景元が安田城に入城できたのは、長尾為景の強力な後押しがあったからだとされる 21 。これは、為景が自派の勢力を、由緒ある安田氏の家中に確実に根付かせ、刈羽郡における自らの支配体制を強化しようとする政治的意図の表れであった可能性が高い。景元の家督継承は、彼個人の能力だけでなく、為景の越後支配戦略の一環として行われた側面も持っていたのである。
第三章:主君・謙信への忠誠 ― 北条高広の謀反
長尾為景の死後、その子・晴景の時代を経て、越後の支配権は弟の長尾景虎(後の上杉謙信)の手に渡った。安田景元は、この新しい時代の幕開けにおいても、その忠誠心と政治的嗅覚を遺憾なく発揮し、上杉家中で不動の地位を築き上げることになる。
3-1. 長尾景虎(上杉謙信)の登場と家中掌握
病弱であった兄・晴景に代わり家督を継いだ景虎は、若年ながらも類稀なる軍事的才能を発揮し、国内の反乱を次々と鎮圧 27 。瞬く間に越後を統一し、強力なリーダーシップを確立した。安田景元は、この晴景から景虎への権力移行期においても、揺らぐことなく長尾家に仕え続けた 4 。為景の時代から続く一貫した忠誠は、新たな主君である景虎からの信頼を得る上で大きな基盤となった。
3-2. 北条高広の謀反と景元の情報戦
景元の忠誠心が最も劇的な形で示されたのが、天文23年(1554年)に発生した北条高広の謀反事件である。北条高広は、景元と同じく越後毛利氏の血を引く同族であり、刈羽郡北条城を拠点とする有力国人であった。彼はかねてより長尾氏の支配に不満を抱いており、この年、越後への侵攻を窺う甲斐の武田信玄と密かに通じ、謙信に対して反旗を翻した 8 。この謀反は、信玄の軍事力と連携して春日山城を南北から挟撃し、長尾氏を滅亡に追い込むという、越後の根幹を揺るがしかねない大規模な計画であった 29 。
この国家的な危機に際し、安田景元は驚くべき速さで行動した。彼は高広の不穏な動きをいち早く察知すると、即座に上杉家の重臣筆頭である直江景綱(実綱)を通じて主君・謙信にその事実を報告したのである 2 。この迅速かつ正確な情報提供により、謙信は謀反計画が実行に移される前に先手を打つことができた。翌弘治元年(1555年)、謙信は自ら軍を率いて北条城を包囲し、武田軍の来援を待つことなく高広を降伏させることに成功した 8 。景元の功績は謙信から高く賞賛され、彼の忠臣としての評価を決定的なものにした 4 。
3-3. 忠誠の裏にある深層 ― 同族間のライバル関係
しかし、景元のこの行動を単なる主君への忠誠心の発露としてのみ捉えるのは、事態の一側面に過ぎない。その背景には、越後毛利氏の分家である安田氏と、惣領家筋を自負する北条氏との間に長年横たわっていた、根深い対立関係が存在した。
史料には、景元と高広は「特に対立関係にあった」と明記されている 30 。北条氏は鎌倉以来の名門としての誇りが高く、下剋上によって台頭した長尾氏に対して「長尾氏何するものぞ」という反感を抱いていた 20 。同時に、同じ毛利一族でありながら長尾氏に従って着実に勢力を拡大する安田景元に対し、強い対抗心を燃やしていたとされる 20 。この長年にわたる緊張関係が、景元をして高広の動向を常に注意深く監視させる動機となっていたことは想像に難くない。
したがって、景元による謀反の密告は、以下の三つの目的を同時に達成する、極めて高度な政治的妙手であったと分析できる。
- 主君への忠誠の実証: 謙信への絶対的な忠誠心を示し、家臣としての信頼を不動のものとする。
- 国家の危機回避: 武田氏と連携した大規模な反乱を未然に防ぎ、越後国を守る。
- 政敵の排除: 長年のライバルであった北条氏を政治的に失脚させ、越後毛利一族内における安田氏の優位を決定づける。
この一連の動きは、景元が単なる武勇の士ではなく、情報戦を制し、複雑な人間関係や政治力学を巧みに利用して自家の利益を最大化する、優れた政治家・戦略家であったことを雄弁に物語っている。
第四章:景元の晩年と安田氏の継承
北条高広の謀反という一大事件を乗り越えた後、安田景元は上杉家中で重鎮としての地位を確立した。しかし、彼の名は次第に歴史の表舞台から姿を消し、次世代への継承が進んでいく。
4-1. 隠居と世代交代
北条高広の乱以降、上杉家の軍役帳などから安田景元の名は次第に見られなくなり、代わってその子である安田顕元(あきもと)が軍役を担うようになる 5 。これは、上杉軍が武田信玄と最も激しい戦いを繰り広げた第四次川中島の戦い(1561年)の頃には、景元が家督を顕元に譲り、隠居生活に入っていたことを強く示唆している。
この世代交代は、景元が築き上げた安定した政治的基盤の上で、極めて円滑に行われたと見られる。父・景元が長尾・上杉家への忠誠と功績によって確固たる地位を築いたことで、子・顕元は若くして上杉家の中核を担う重臣としてキャリアをスタートさせることができたのである。
4-2. その死と人物像の総括
安田景元の没年については、永禄6年(1563年)に死去したと伝えられている 5 。生年は不詳であるが、長尾為景の時代から活躍したことを考えると、戦国の武将としては比較的穏やかな晩年を送り、天寿を全うした可能性が高い。
彼の生涯を総括すると、それは激動の戦国時代において、的確な政治判断と揺るぎない忠誠心を両輪として、自家の存続と発展を見事に成し遂げた、越後国人領主の成功例として評価できる。彼は、武勇一辺倒の武将ではなく、時代の潮流を読み解く戦略眼、敵対勢力の動向を探る情報収集能力、そして複雑な家中力学を利用する政治的手腕を兼ね備えた、稀有な人物であった。景元の存在なくして、長尾為景・上杉謙信の越後統一は、より多くの困難に直面したであろう。
第五章:景元没後の安田一族 ― 栄光と悲劇の行方
安田景元が築いた礎の上で、安田一族は上杉家中で重きをなし続けた。しかし、その道程は平坦ではなく、父の栄光を受け継いだ息子たちは、それぞれに異なる、しかし象徴的な運命をたどることになる。
5-1. 子・安田顕元の活躍と「御館の乱」
父・景元の跡を継いだ安田顕元は、主君・謙信の信頼も厚く、信濃飯山城の守備を任されるなど、上杉軍の主要な武将として活躍した 5 。天正3年(1575年)の『上杉軍役帳』には、顕元が95名の軍役を負担したことが記録されており、彼が一家の当主として確固たる地歩を築いていたことがわかる 5 。
顕元の真価が問われたのは、天正6年(1578年)に謙信が急死したことで勃発した、二人の養子、上杉景勝と上杉景虎による家督相続争い「御館の乱」であった。この越後を二分する大内乱において、顕元は兄の能元と共に、一貫して景勝方に与して戦った 8 。彼の最大の功績は、当時、去就を決めかねていた揚北衆の最有力者・新発田重家を説得し、景勝方へと引き入れたことである 11 。新発田氏の加勢は、戦局を景勝方優位に傾ける上で決定的な意味を持ち、顕元は景勝勝利の立役者の一人となった。
5-2. 顕元の悲劇 ― 恩賞問題と自害にみる武士の「義」
しかし、乱の終結後、事態は予期せぬ方向へ展開する。御館の乱によって疲弊した景勝政権は、論功行賞において、顕元の説得に応じて多大な貢献をした新発田重家らに対し、その功績に見合う十分な恩賞を与えることができなかった 12 。この背景には、景勝政権の深刻な財政難に加え、景勝側近である譜代の家臣団と、乱を機に味方となった外様の国人衆との間での政治的対立があったとされる 33 。
恩賞に強い不満を抱いた重家は、景勝に対して反感を募らせ、両者の関係は急速に悪化。自らが勧誘した重家と、主君である景勝との板挟みとなった顕元は、必死に両者の仲裁を試みるが、事態は好転しなかった 13 。
天正8年(1580年)、顕元は自害を遂げる。この死は、単なる絶望によるものではない。それは、自らの言葉を信じて命を懸けて戦った同輩への約束を果たせず、また主君の決定にも逆らえないという、解決不可能なジレンマに陥った武将が、その責任と信義(義)を全うするために選んだ、究極の選択であった。彼の死は、自らの面目を保ち、信義を貫くことを命よりも重んじる、戦国武士の倫理観・死生観を象徴する悲劇であったと言える 13 。父・景元が政治的手腕で成功を収めたのとは対照的に、子・顕元は武士としての「義」に殉じたのである。
5-3. 弟・安田能元の再興 ― 米沢藩重臣への道
兄・顕元の悲劇的な死の後、安田家の家督はその弟である能元(よしもと、幼名:弥九郎)が継いだ 16 。能元は、兄の死という困難を乗り越え、上杉景勝の側近としてその信頼を勝ち取っていく。彼は幼少期から謙信の小姓として仕えた経験を持ち、主君との結びつきは強固であった 37 。
能元は、兄が命を懸けて守ろうとした上杉家への忠誠を貫き、豊臣秀吉の天下統一後、主君・景勝が会津120万石へ移封された際にもこれに従った 5 。関ヶ原の戦いを経て上杉家が米沢30万石に減封された後も、能元は一族を率いて米沢に移り住み、藩の執政を担う会津三奉行の一人に数えられるなど、藩政の中枢で活躍した 15 。その禄高は4333石に達し、上杉家中でも筆頭クラスの重臣として、その地位は幕末まで保たれた 38 。
能元の代において、安田氏は戦国時代の独立性の高い国人領主から、近世大名である上杉家の家臣団に完全に組み込まれた、安定した家としてその血脈を後世に伝えたのである 5 。
終章:結論 ― 安田景元が歴史に刻んだもの
安田景元は、戦国時代の越後という、絶え間ない動乱の渦中にあって、長尾・上杉家がその支配権を確立する上で、決定的に重要な役割を果たした武将であった。彼の功績は、単に戦場での武勇や主君への盲目的な忠誠心に帰せられるものではない。それは、時代の大きな潮流を見極める冷静な戦略眼と、同族間の根深い対立関係さえも利用する高度な政治的手腕の賜物であった。彼が「上条定憲の乱」で新興の長尾為景に与したこと、そして「北条高広の謀反」を未然に主君に報じたことは、いずれも彼の卓越した判断力がもたらした、上杉家の歴史における重大な転換点であった。
景元の生涯は、鎌倉以来の名門の出自を持ちながらも、実力が全てを左右する戦国乱世において、国人領主がいかにして生き残り、自家の繁栄を築き上げたかを示す、一つの理想的なモデルケースと言える。
一方で、彼の一族がたどったその後の運命は、戦国という時代の複雑さと悲哀を色濃く映し出している。子・安田顕元は、父が築いた地位を受け継ぎ、主君のために多大な功績を挙げながらも、戦後の論功行賞という政治の現実と、武士としての「信義」との狭間で苦悩し、自ら命を絶った。彼の悲劇は、戦国末期から近世へと移行する中で、武士たちが抱え込まざるを得なかった「義」と「現実」の間の深刻な葛藤を浮き彫りにする。
そして、その弟・安田能元が、兄の死を乗り越えて家名を再興し、近世米沢藩の重臣として一族を存続させた軌跡は、安田氏が戦国乱世を生き抜き、新たな時代に適応していく強靭さを持っていたことを証明している。
結論として、安田景元という一人の武将から始まる安田一族の三代にわたる物語は、単なる一個人の列伝に留まらない。それは、上杉家そのものの栄枯盛衰と、戦国から近世へと至る日本の社会構造の大変革を、鮮やかに映し出す貴重な歴史の証言なのである。
引用文献
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- 安田景元(やすだかげもと)『信長の野望 天道』武将総覧 http://hima.que.ne.jp/tendou/tendou_data_d.cgi?equal1=1902
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- 武家家伝_安田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/e_yasuda.html
- 【伊達天文記】第20回 長尾為景の死 https://ameblo.jp/white3fox/entry-12481181241.html
- 安田景元@戰國無雙精華區 - 巴哈姆特 https://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=6121&sn=754
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