最終更新日 2025-05-22

安藤守就

戦国武将 安藤守就 詳細報告

序章:安藤守就とは

  • 概要 : 本報告書では、戦国時代から安土桃山時代にかけて美濃国(現在の岐阜県)を主な活動の舞台とした武将、安藤伊賀守守就(あんどう いがのかみ もりなり)について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その生涯と事績を明らかにする。守就は、美濃三人衆(西美濃三人衆とも)の一人として斎藤氏に仕え、後に織田信長に臣従したが、天正8年(1580年)に突如追放され、本能寺の変後に旧領回復を目指して挙兵するも、かつての盟友・稲葉一鉄に討たれるという劇的な最期を遂げた人物である。本報告書は、守就の出自から最期に至るまでの動向、彼が関わった歴史的事件の背景、そして彼自身の人物像について、多角的に光を当てることを目的とする。 1
  • 本報告書の留意点 : 利用者からの指示に基づき、報告書中の日本語表現において、不自然な形で外国語の単語が孤立して入り込むことがないよう、細心の注意を払う。

第一章:出自と初期の動向

  • 第一節:安藤氏の系譜と伊賀氏からの改姓
  • 安藤守就の家系は、藤原秀郷を遠祖とし、元々は伊賀氏を称していたと記録されている 4 。守就の代に至り、安藤氏へと改姓したとされるが、その具体的な時期や背景については諸説ある。父は伊賀定重(守利とも)、母は稲葉良通(一鉄)の伯母と伝えられる 2 。姓は史料により「安東」とも記される 6
  • 伊賀氏から安藤氏への改姓は、単なる名称の変更に留まらず、守就の政治的、社会的な立場を再定義する重要な意味合いを持っていたと考えられる。戦国時代において、武将が姓を改めることは珍しくなく、主君の変更、勢力関係の変化、あるいは自らの立場を有利にするための戦略的な判断が背景にあることが多い。守就の場合、美濃国内における在地勢力としての立場を強化し、新たな主家(例えば斎藤氏)への帰属意識を明確にする意図があったのかもしれない。また、 28 が示唆するように、美濃国内に既に存在した「安東」を名乗る勢力との連携や同族化を通じて、地域社会における影響力を増そうとした可能性も考慮される。守就は美濃の有力国人であり、後に西美濃三人衆として重きをなす存在となることから、この改姓は美濃国内での政治的地位の確立や、他の在地勢力との関係再編を意図した、戦略的な一手であったと推察される。
  • 関連史料 : 1
  • 第二節:美濃の風雲児、斎藤道三への臣従
  • 守就の生年については、文亀3年(1503年) 2 、永正2年(1505年)頃 9 、あるいは永正5年(1508年) 2 など複数の説が存在する。 9 の記述によれば、幼くして父を亡くし、母の手一つで育てられ、若くから武芸に励み、二十代に入る頃には領国経営の才も買われ頭角を現したという。
  • 当初は美濃守護であった土岐頼芸に仕えたが、斎藤道三が実力で美濃国を掌握すると、道三の家臣となった 1 9 によれば、道三に仕え始めたのは三十歳ほどの頃とされる。
  • 道三配下としての守就は、その才覚を認められ重用された。天文11年(1542年)の加納口の戦いでは、道三軍の先陣を切って突撃し、道三から賞賛の言葉を賜ったと 9 は伝えている。この戦いの勝利により道三は美濃の大半を手中に収め、その後、守就は道三の側近として稲葉山城(後の岐阜城)の城下整備や周辺城塞の監督も任されたという 9
  • 天文24年(1555年)1月、尾張の織田信長が今川方の村木砦を攻撃するにあたり、同盟者であった道三に援軍を要請した。道三はこれに応じ、守就に兵1000を率いさせ、信長の居城である那古野城の城番(守備)に派遣した 8 。この事実は、『清須合戦記』にも記されており 8 、守就が道三から軍事的に深く信頼されていたことを示す事例である。この那古野城への派遣は、守就にとって若き日の信長と直接的あるいは間接的に接触する機会となった可能性があり、後の両者の関係や守就自身の運命に影響を与えたかもしれない。この時点で互いの力量や器量をある程度認識し合う契機となったとも考えられ、後の守就による信長への内応という大きな決断に至る伏線の一つとして捉えることができる。
  • 関連史料 : 1

第二章:美濃動乱と守就

  • 第一節:長良川の戦いと斎藤義龍
  • 弘治2年(1556年)4月、斎藤道三とその嫡男・義龍との間で、家督相続を巡る対立が激化し、美濃国長良川において大規模な合戦が勃発した(長良川の戦い)。この戦いにおいて、守就は道三に弓を引く形となり、義龍方に加担した 9 9 における守就自身の述懐とされる記述では、道三への忠義と父子の争いの板挟みとなり苦渋の選択を迫られたとされているが、結果として義龍の勝利に貢献することになる。
  • 義龍方には守就のほか、稲葉一鉄(良通)、氏家卜全(直元)ら美濃の主要な国人たちが味方し、兵力で劣る道三は敗死した 8 。守就のこの選択は、単なる親子間の争いへの介入というよりも、美濃国人衆の動向や道三政権への不満といった、より複雑な政治的背景が絡んでいた可能性が考えられる。道三の強権的な統治に対する国人層の反発が義龍決起の背景にあったとも言われ、守就の決断もその大きな流れに沿ったもの、すなわち斎藤家内部の権力構造の変化を敏感に察知した現実的な判断であったかもしれない。
  • 義龍は父・道三を討った後、その出自の正当性を示すためか、足利一門である一色氏を称し、一色左京大夫と名乗った。この際、家臣たちにも一色氏ゆかりの姓への改名を命じたとされ、 34 の記述によれば、安藤守就(当時、安東日向守守就)は「伊賀伊賀守守就」へと改名させられた可能性がある。これは、義龍政権下における守就の立場を示す一つの出来事と言えよう。
  • 関連史料 : 2
  • 第二節:斎藤龍興の時代と稲葉山城奪取
  • 永禄4年(1561年)5月、斎藤義龍が病により急逝すると、その子・龍興が若年(当時14歳)で家督を継いだ 8 。しかし、龍興は祖父・道三や父・義龍ほどの器量はなく、一部の側近を寵愛し、守就ら三人衆をはじめとする宿老を遠ざけたため、家中の不満が高まったとされる 9 。守就らは龍興に諫言したが、聞き入れられなかったという 2
  • このような状況下、永禄7年(1564年)2月6日、守就は娘婿である竹中半兵衛重治と共謀し、白昼に龍興の居城である稲葉山城を奇襲し、占拠するという挙に出た。この時、斎藤飛騨守ら龍興の側近数名が殺害され、龍興自身は戦わずして城下に放火し、伊勢方面へ逃亡した 7
  • 7 によれば、守就らは稲葉山城を占拠した後、尾張の織田信長から城の譲渡を要求されたがこれを拒否し、約半年後に龍興に城を返還したとされる。この一見不可解な行動の意図については、単純な謀反とは言い切れない複雑な背景があったことが示唆される。「他の斎藤家臣の支持を得られず、進退両難の下で城を帰還した説もある」 7 とされており、クーデターが他の有力家臣の広範な支持を得られなかったために中途半端な結果に終わった可能性が高い。信長の介入を拒んだ点は、美濃の自立性を守ろうとする意識の表れか、あるいは信長への不信感があったとも考えられる。
  • この稲葉山城占拠事件の直後、永禄7年2月7日付で、守就は立政寺に対し禁制を発給しており、その中で自らを「伊賀守 無用」と称している 2 。これは、斎藤家に対して「もはや無用の家臣である」という意思表示、あるいは「若年の龍興では主君として頼りにならない」という痛烈な批判であった可能性が指摘されている。この一連の出来事は、守就の政治的判断の複雑さと、当時の美濃国内の分裂状態、そして外部勢力(織田信長)の台頭という緊迫した状況を反映している。
  • 関連史料 : 2
  • 第三節:西美濃三人衆としての台頭
  • 安藤守就は、稲葉一鉄(良通)、氏家直元(卜全)と共に「西美濃三人衆」(または美濃三人衆)と称され、斎藤氏の重臣として、また美濃西部に大きな影響力を持つ存在として知られるようになった 1
  • 彼らは代々美濃に土着し、土岐氏、そして斎藤氏に仕えた家柄であったが、単なる家臣というだけでなく、美濃西部に共同で独立的な勢力を形成していた点が特徴的である 1 48 によれば、三人は年齢も近く、互いに腹を割って話せる関係であったという。この「西美濃三人衆」という呼称と実態は、彼らが単なる斎藤氏の個々の家臣ではなく、地域に根差した連合的な勢力であったことを示している。
  • 「美濃三人衆」という呼 Lösungen自体は、彼らが織田信長に降伏して以降に用いられるようになったもので、当時既に存在した「三好三人衆」の呼称を意識したもの(もじったもの)である可能性が 18 で指摘されている。信長が彼らを個別にではなく「三人衆」として扱ったのは、彼らの団結力と地域への影響力を認識し、それを効果的に利用しようとした戦略の現れかもしれない。信長は彼らの内応を受けて美濃を攻略し、本領安堵だけでなく共同の段銭徴収権も認めており 1 、これは信長が彼らを一つの政治的・軍事的単位として認識し、処遇したことを示唆する。
  • 関連史料 : 1

第三章:織田信長への臣従と活躍

  • 第一節:信長への内応と美濃攻略への貢献
  • 永禄10年(1567年)、織田信長による美濃侵攻(稲葉山城の戦い)が本格化すると、西美濃三人衆(安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全)は、当時の主君であった斎藤龍興を見限り、信長に内応した 1 。『信長公記』首巻によれば、同年8月1日のことであった 8
  • 三人衆の龍興政権への不満は既に頂点に達しており、信長の勢力が増大する中で、彼らは新たな支配者として信長を選び、その下での地位を確保しようとした能動的な行動であったと考えられる。 9 の守就自身の述懐(とされるもの)によれば、内応に際しては、城内の兵の配置、城門の警備時間、裏手の抜け道といった詳細な情報を信長に提供し、その効果は絶大であったという。この内応は、信長の美濃攻略において決定的な役割を果たした。
  • 内応の功績により、守就らは信長から本領を安堵されると共に、杭瀬川以西における共同での段銭(臨時の軍事税)徴収権などを認められた 1 。これは、彼らが単に旧領を保証されただけでなく、新たな特権を得たことを意味し、信長からの評価の高さを示すものである。彼らの行動は、戦国武将の現実的な生き残り戦略と、地域勢力の動向が中央の覇権争いに直結する様を如実に示している。
  • 関連史料 : 1
  • 第二節:信長配下としての各地の戦役への従軍
  • 織田信長の家臣となった安藤守就は、その後約10年以上にわたり、信長の主要な戦役のほとんどに従軍し、その統一事業に貢献した。当時既に高齢であったにも関わらず、その活躍は目覚ましいものであった。
  • 永禄11年(1568年)には、信長の上洛戦に従軍し、足利義昭を奉じて京都へ向かう道中の戦い、例えば六角氏の観音寺城攻めや、その後の和田山城攻めなどに参加している 8
  • 永禄12年(1569年)には、伊勢国司北畠具教が籠城する大河内城攻めに従軍した 8
  • 元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、 9 の記述によれば、当時六十五歳を過ぎていた守就は織田軍の左翼を担当し、浅井軍の側面を突く作戦を遂行して勝利に貢献し、信長から感状を賜ったとされる。同年には江州路(近江国の街道)警護のため、斎藤利三と共に守山城へ入っている 12
  • 元亀2年(1571年)、伊勢長島の一向一揆攻めに参加し、この戦いで負傷したと伝えられる 2 。この戦役では、西美濃三人衆の一人である氏家卜全が戦死している。
  • その後も、元亀3年(1572年)の河内国交野城救援や近江国小谷城攻め 8 、天正元年(1573年)の将軍足利義昭が籠る槇島城攻め、越前朝倉義景攻め(刀根山の戦い、一乗谷炎上)、近江浅井長政攻め(小谷城陥落) 2 など、信長の重要な戦いに立て続けに参陣している。
  • 天正2年(1574年)には伊勢長島一向一揆の殲滅戦に参加 8 。この頃、 9 によれば、織田家中で対立していた柴田勝家から、守就の部隊の動きが鈍い、あるいは一揆勢に内通しているのではないかとの讒言を信長にされたという逸話も残る 9
  • 天正3年(1575年)には越前一向一揆討伐 8 、天正4年(1576年)には石山本願寺との天王寺合戦 8 にも加わった。
  • さらに、天正5年(1577年)には紀州雑賀攻め、加賀一向一揆攻め、播磨神吉城攻め 8 、天正6年(1578年)には信長に謀反した荒木村重の有岡城の戦いにも従軍している 8
  • これらの戦役において、守就は信長直属の部隊として、あるいは主要な指揮官の一人として活動したことが史料から確認できる 2 。信長が家督を嫡男・信忠に譲った後も、守就は信長直属の立場であったとされ 2 、その信頼の厚さが窺える。守就の広範囲かつ長期にわたる従軍は、彼自身の武将としての能力の高さと、信長の統一事業への貢献度がいかに大きかったかを示している。
  • 関連史料 : 2

第四章:追放と最期

  • 第一節:突然の追放とその背景
  • 天正8年(1580年)8月、安藤守就は、織田家の宿老である林秀貞(通勝)、丹羽氏勝と共に、織田信長によって突如として追放処分を受けた 1 。これは、長年にわたり信長に仕え、数々の戦功を挙げてきた守就にとって、まさに青天の霹靂であったと言える。追放後、守就は一族と共に美濃国武芸郡谷口村へ退去したと伝えられている 6
  • この不可解な追放の理由については諸説あり、単純な理由では説明できない複雑な背景があったと考えられる。主な説としては、以下のものが挙げられる。
  1. 子の尚就(またはその子・忠四郎)による武田氏内通説 : 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 1 や、岐阜県北方町の指定史跡の説明文 6 などでは、守就の子である尚就(ひさなり、なおなり)が甲斐の武田信玄(または勝頼)に内通したことが原因であるとされている。『当代記』や『甫庵太閤記』にも、先年、武田信玄に内通した罪によるとの記述がある 16
  2. 『信長公記』に見る「野心」説 : 織田信長の側近であった太田牛一が記した『信長公記』には、林秀貞、丹羽氏勝、そして安藤守就の追放理由として、「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」(信長公が苦境に立たされた折に、それに乗じて野心を抱いたためである)と簡潔に記されているのみである 2 。この「野心」が具体的に何を指すのかについては、過去の主君への裏切り行為や、信長が困難な状況にあった際の不審な動きなどが研究者によって推測されている 17
  3. 信長にとっての守就の存在そのもの : かつて斎藤氏の重臣として信長と敵対した経緯があり、また美濃国に大きな勢力基盤を持つ守就の存在が、天下統一を目前にした信長にとって、潜在的な脅威、あるいは統治上の障害と見なされた可能性も指摘されている 3
  • これらの説を総合的に勘案すると、守就の追放は単一の理由ではなく、複数の要因が複合的に作用した結果である可能性が高い。『信長公記』の「野心」という曖昧な表現は、信長側の公式見解として、具体的な証拠が薄いか、あるいは公表しにくい政治的判断があったことを示唆しているとも考えられる。もし子の内通が事実であればそれが直接的な引き金となり、それに加えて守就自身の過去の経歴や美濃における潜在的な影響力が、信長の決断を後押ししたと推察される。
  • 表:安藤守就 追放理由に関する諸説比較

主な根拠史料

内容

研究上の解釈・評価

子・尚就の武田氏内通説

『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 1 , 『当代記』, 『甫庵太閤記』 16 , 北方町史跡説明 6

守就の子・尚就(またはその子・忠四郎)が武田信玄または勝頼に内通したことが追放の原因。

具体的な内通の証拠となる一次史料は乏しいとされる。信長による追放の口実として利用された可能性も指摘される。

本人の野心説(『信長公記』)

『信長公記』 2

「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」と記述。信長が苦境にあった際に野心を抱いたとされる。

「野心」の具体的内容は不明確。過去の主君への裏切り行為や、信長が困難な状況にあった際の不審な動きを指すとの解釈がある。信長側の公式見解で、詳細は伏せられた可能性もある。

信長にとっての潜在的脅威説

― (諸説からの推論)

かつての敵対勢力の重臣であり、美濃に大きな影響力を持つ守就の存在自体が、集権化を進める信長にとって障害または不安要素と見なされた。

林秀貞・佐久間信盛ら他の宿老追放と同時期であり、信長の政権運営方針の転換や権力集中化の一環であったとする見方と関連する。

柴田勝家ら反対派による讒言説

9 (守就の述懐とされる記述中)

伊勢長島一向一揆攻めの際などに、柴田勝家が守就の動きが鈍い、あるいは内通していると信長に讒言した。

守就自身の視点(とされるもの)からの主張であり、客観的な裏付けは不明。ただし、織田家中の派閥対立の可能性を示唆する。

*   **関連史料**: [1, 2, 3, 6, 8, 10, 16, 17, 20, 51]

  • 第二節:子の尚就(郷良)による武田氏内通説の詳細
  • 守就追放の直接的な原因としてしばしば言及されるのが、子である尚就(「ひさなり」または「なおなり」と読まれる。郷良(さとよし、ごろう)とも称したとされる)の武田氏への内通疑惑である 1 。この内通の相手は、武田信玄とも、その子・勝頼とも伝えられる。
  • 史料によって尚就と郷良の表記には揺れがあり、同一人物を指すのか、あるいは近親者で混同されているのかについては慎重な検討が必要である。 19 の系図では守就(友郷)の子として郷良(平左衛門)と尚就が併記されているように見えるが、本文では嫡男を尚就としている。一方、 19 の系図では守就の嫡男を尚就としている。 19 では「尚就(郷良とも)」と記されており、同一人物である可能性を示唆している。
  • 内通の具体的な内容、例えばいつ、どのような方法で、何を目的として武田氏と接触したのか、そしてその内通を直接的に裏付ける一次史料は、現在のところ乏しいと言わざるを得ない。 52 といった調査範囲の資料からは、この内通に関する具体的な一次史料は見出せなかった。
  • 事件がどのように発覚したのか、その経緯も詳らかではない。信長の性格や当時の緊迫した政治状況を考慮すると、わずかな嫌疑であっても、特に最大の敵対勢力の一つであった武田氏との接触は、即座に粛清の対象となり得た。
  • 尚就自身のその後の消息については、父・守就と共に本能寺の変後に挙兵し、北方合戦で討死したという記述が複数の資料に見られる 19 。また、 19 の系図によれば、尚就の子である忠四郎も北方城で討死したとされている。
  • この武田氏内通説は、その信憑性や詳細についてさらなる史料的裏付けが求められるものの、守就追放という不可解な事件の背景を理解する上で重要な要素の一つである。これが信長による守就排除の単なる口実として利用された可能性も否定できず、慎重な扱いが必要である。
  • 関連史料 : 1
  • 第三節:他の宿老追放との関連性
  • 安藤守就の追放は単独の事件ではなく、天正8年(1580年)という同時期に、織田家の重臣であった林秀貞(通勝)、佐久間信盛・信栄親子、丹羽氏勝らが相次いで追放、あるいは譴責されるという一連の宿老粛清の文脈の中で捉える必要がある 10
  • これらの追放劇の背景には、織田信長の政権運営における方針転換や、権力構造の再編があったと考えられる。 17 の考察では、信長が天下統一を目前にし、石山本願寺との長年の戦いにも終止符を打ったこの時期に、過去に不審な動きを見せたり、忠誠心に疑問符が付いたりする古参の重臣たちを整理し、嫡男・織田信忠を中心とする新たな支配体制への移行を円滑に進めようとした意図があったのではないかと指摘している。
  • 追放された宿老たちは、多くが織田家がまだ尾張の一勢力であった頃からの古参であり、それぞれが独自の勢力基盤や価値観を持っていた可能性がある。信長が目指す強力な中央集権体制の構築においては、こうした旧来の重臣たちの存在が、ある種の障害となる、あるいは将来的な不安要素と見なされたのかもしれない。 63 は織田政権の土地政策と織田系大名の関係を論じており、信長による権力集中の動きを示唆している。
  • 20 は、これらの信長による強権的な所領没収や追放が、家臣団に大きな動揺や不満を生み、天正10年(1582年)の本能寺の変、すなわち明智光秀による謀反の遠因の一つとなったのではないか、との見方を紹介している。一連の宿老追放は、信長による集権化と世代交代、そして自らの理想とする支配体制構築のための計画的な人事刷新であった可能性が高い。単なる個々の非違行為に対する処罰というよりは、織田政権の質的転換を目指した「構造改革」の一環と捉えることができる。
  • 関連史料 : 2
  • 第四節:本能寺の変後の再起と北方合戦、そして最期
  • 天正8年(1580年)に織田信長によって追放され、雌伏の時を過ごしていた安藤守就にとって、天正10年(1582年)6月2日に発生した本能寺の変は、まさに千載一遇の好機であった。信長の横死という中央政権の突然の崩壊は、各地に潜んでいた旧勢力に再起の機会を与えるものであった。
  • 守就はこの混乱に乗じ、子・定治(史料によっては尚就とも 21 )と共に、かつての居城であった美濃国北方を奪回し、旧領回復を目指して速やかに挙兵した 1 。この行動は、守就の領地への強い執着と、老齢にもかかわらず衰えぬ行動力を示している。
  • しかし、当時の北方城の新たな領主となっていたのは、皮肉にもかつて西美濃三人衆として苦楽を共にした盟友、稲葉一鉄(良通)であった 6 。守就の旧領は、追放後に一鉄に与えられていたのである 6
  • 旧領回復を目指す守就軍と、それを阻止せんとする稲葉一鉄軍は、北方城周辺で激突した。この戦いは「北方合戦」と呼ばれている 22 。激戦の末、同年6月8日、守就は衆寡敵せず敗北し、北方城の北方に位置する千代母ヶ淵(ちよぼがふち)において、一族と共に討死(あるいは自害)を遂げたと伝えられる 1 。この時、守就は80歳余であったという 6
  • 守就の死により、美濃安藤氏の本流は実質的に滅亡したが、その血脈は完全に途絶えたわけではなかった。 45 2 によれば、守就の末弟である安東郷氏の子・可氏(後に山内姓を名乗る)が土佐の山内一豊に仕えて家名を保ち、また守就の八男である郷忠も土佐藩士として続いたとされている。
  • 守就の最期は、戦国武将らしい旧領への執念と、時代の大きな変化(信長の死とそれに続く権力闘争)に翻弄された悲劇的な結末と言える。かつての盟友・稲葉一鉄との戦いは、西美濃三人衆という共同体の完全な崩壊と、旧秩序の終焉を象徴する出来事であった。80歳という高齢での挙兵は、その執念の深さを示すと同時に、時代の変化に取り残された老将の悲哀をも感じさせる。
  • 関連史料 : 1

第五章:人物像と評価

  • 第一節:史料から読み解く守就の性格と能力
  • 安藤守就は、その生涯を通じて、武将としての確かな能力と、複雑な政治状況を生き抜くための判断力を示した人物であった。
  • 武将としての能力 : 若き日の加納口の戦いでは先陣を切って武功を挙げ 9 、織田信長配下となってからも、姉川の戦いでは65歳を過ぎていながら浅井軍の側面を突く作戦を成功させ信長から感状を得たとされ 9 、伊勢長島一向一揆攻めでは70歳近くで水中戦にも身を投じたと伝えられる 9 。これらのエピソードは、守就が単なる老将ではなく、経験に裏打ちされた勇猛さと戦術眼を兼ね備えていたことを示唆している。
  • 政治的判断力 : 土岐氏から斎藤道三へ、道三から義龍へ、そして斎藤龍興から織田信長へと、激動の時代の中で主君を幾度も変えている。これは、単なる変節と見ることもできるが、一方で、自らの一族と勢力を保全し、より将来性のある勢力を見極めようとする、戦国武将特有の現実的な判断力と先見性の表れとも解釈できる 24 。特に、龍興を見限って信長に内応した判断は、その後の織田政権の樹立を考えると的確であったと言える。また、竹中半兵衛と共に稲葉山城を一時占拠し、信長の介入を拒否して龍興に返還した一件 2 は、単純な謀反ではなく、美濃の自立性を保ちつつ斎藤家内部での発言力を回復しようとする高度な政治的駆け引きであった可能性も秘めている。
  • 性格 : 9 の守就自身の述懐とされる記述からは、柴田勝家からの讒言に憤り、旧知の荒木村重の謀反に際しては信長からの不信に苦悩しつつも、美濃の国と民を思う心情が窺える。一方で、 71 の記述では「決して人望のある男ではなかったが、兄弟仲はよかった」とされ、複雑な人物像が浮かび上がる。主君を次々と変えた経歴や、稲葉山城乗っ取りのような大胆な行動は、周囲から利己的と見なされることもあったかもしれない。しかし、娘婿の竹中半兵衛との共同行動や、弟・郷氏との関係は、家族や信頼できる者との絆を重視した一面も示している。
  • 稲葉山城占拠後に発給した禁制に「伊賀守 無用」と署名したこと 2 は、龍興への痛烈な批判であると同時に、自らの政治的立場を韜晦する複雑な心理状態を表しているのかもしれない。
  • 総じて、守就は武勇と知略を兼ね備え、自らの家と勢力の維持・発展を第一に考えるリアリストであった。しかし、その過程での度重なる主君変更や大胆な行動が、結果として信長のような中央集権化を強力に推し進める絶対的権力者にとっては、扱いにくい、あるいは信頼しきれない存在と映った可能性は否定できない。
  • 関連史料 : 2
  • 第二節:同時代及び後世からの評価
  • 安藤守就に関する同時代の一次史料は、残念ながら限定的であると言わざるを得ない 18 。そのため、彼の人物像や評価は、織田信長の動向を記した『信長公記』や、江戸時代以降に編纂された軍記物語、地域の記録などに大きく依存しているのが現状である。これらの二次史料は、編纂者の意図や時代背景によって記述に偏りが生じる可能性があるため、その解釈には慎重さが求められる。
  • 『信長公記』においては、村木砦の戦いの際に道三からの援軍として守就が派遣された事実が記されているが 11 、守就個人の評価に踏み込んだ記述は少ない。追放時の理由として「野心」という言葉が用いられている点は、信長側からの否定的な評価を反映していると解釈できる。
  • 『当代記』や『武家事紀』といった史料群に守就に関する記述が含まれる可能性はあるが 27 、具体的な内容や評価の度合いについては、各史料のさらなる詳細な分析が必要となる。
  • 美濃地域の記録である『美濃国諸旧記』や『濃陽諸士伝記』などにも守就に関する記述が含まれていると考えられるが 31 、これらの史料も多くは後世の編纂であり、守就の行動(特に主君の変更や信長への内応、そして追放)をどのように評価しているかについては、史料批判的な視点が不可欠である。
  • 24 では「土岐氏、道三、義龍と主君を渡り歩いている柔軟な思考と先見の明のある人物だ。確か晩年は信長に追放されるんじゃなかったかな」と、後世の視点から一定の評価を与えつつも、その複雑な経歴に言及している。
  • 守就の生涯は、主君を何度も変え、最後は信長に追放され、かつての盟友であった稲葉一鉄に討たれるという劇的なものであった。この経歴は、忠義を絶対的な美徳とする儒教的価値観が強かった江戸時代には、否定的に評価されやすかった土壌がある。一方で、竹中半兵衛と共に稲葉山城を乗っ取った逸話などは、智将としての側面を強調する物語として語り継がれやすい要素も持っている。
  • 従って、安藤守就の評価を論じる際には、各史料の成立背景や編纂意図を十分に考慮し、多角的な視点からアプローチする必要がある。彼の生涯は、忠誠、裏切り、野心、現実主義といった戦国武将の持つ多様な側面を体現しており、それが評価の多様性を生んでいると言えよう。
  • 表:西美濃三人衆 関係変遷

時期

安藤守就

稲葉一鉄(良通)

氏家直元(卜全)

三者の関係・備考

関連史料

斎藤義龍・龍興期

斎藤氏重臣

斎藤氏重臣

斎藤氏重臣

西美濃に共同の独立的勢力を形成。「三人衆」として連携。 48 によれば互いに腹を割って話せる仲。

1

永禄7年(1564年)

娘婿・竹中半兵衛と共に稲葉山城を一時占拠。

(この事件への直接的関与は不明確)

(この事件への直接的関与は不明確)

守就と半兵衛による行動。龍興政権への不満が背景か。

7

永禄10年(1567年)

織田信長に内応

織田信長に内応

織田信長に内応

三人衆として共同で斎藤龍興を見限り、信長に降る。美濃攻略に貢献。

1

信長臣従後

信長配下として各地を転戦

信長配下として各地を転戦

信長配下として各地を転戦

共同で段銭徴収権を得るなど、一定の連携は継続。

1

元亀2年(1571年)

伊勢長島攻めに従軍、負傷。

伊勢長島攻めに従軍。

伊勢長島攻めに従軍、戦死。

卜全の戦死により、三人衆の一角が欠ける。

2

天正8年(1580年)

信長により追放される。

信長に仕え続ける。守就の旧領の一部を与えられた可能性。

(既に故人)

守就の追放により、西美濃三人衆体制は完全に終焉。

1

天正10年(1582年)6月

本能寺の変後、旧領回復を目指し北方城を奪回。

北方城主として守就軍と対峙。

(既に故人)

北方合戦。かつての盟友同士が敵味方として戦い、守就は一鉄に討たれる。

1

*   **関連史料**: [1, 2, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 14, 15, 18, 24, 25, 26, 27, 28, 29, 30, 31, 32, 33, 34, 35, 36, 37, 38, 39, 40, 41, 42, 43, 44, 48, 49, 70, 71, 72, 73, 74, 75]

終章:安藤守就が戦国史に遺したもの

  • 安藤守就の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた一人の武将の軌跡として、多くの示唆に富んでいる。美濃国の有力国人として地域に影響力を持ち、斎藤道三、義龍、龍興、そして織田信長と、目まぐるしく変わる主君に仕えながらも、自らの一族と勢力の維持・発展を図ろうとしたその姿は、当時の武士の現実的な生き様を映し出している。
  • 特に、西美濃三人衆の一角としての活動は、斎藤氏の美濃支配、そして織田信長による美濃攻略において重要な役割を果たした。信長への内応は、美濃の勢力図を大きく塗り替え、信長の天下統一事業の初期における重要な転換点の一つとなったと言える。信長配下となってからも、高齢にもかかわらず各地の主要な戦役に従軍し続けたことは、その武将としての能力と経験が高く評価されていたことを物語っている。
  • しかし、その複雑な経歴と、時に主君をも揺るがす大胆な行動は、強大な権力を掌握し中央集権化を推し進める織田信長にとっては、次第に容認しがたいものとなったのかもしれない。天正8年の突然の追放は、信長の政権運営方針の変化と、それに伴う古参宿老の整理という大きな流れの中で起きた悲劇であった。 9 で語られるような「斎藤家への忠義、織田家への献身、そして美濃の民を思う心」といった守就の心情が、どれほど信長に届いていたかは定かではない。
  • 本能寺の変後の旧領回復を目指した挙兵と、かつての盟友・稲葉一鉄との戦いにおける最期は、戦国武将らしい執念と、時代の大きな変化に翻弄された末路を象徴している。彼の生涯は、忠誠とは何か、武士としていかに生きるべきかという問いを、現代に投げかけているようでもある。
  • 美濃安藤氏の本流は守就の死と共に実質的に途絶えたが、その血脈は弟・安東郷氏の子孫(土佐山内氏家臣)や、守就自身の男子によって一部受け継がれた 2 。安藤守就という武将は、その波乱に満ちた生涯を通じて、戦国乱世の厳しさ、そしてそこに生きた人々の複雑な思いを我々に伝えている。 73 が斎藤義龍の評価に関連して、彼を支えた重臣たちの重要性を示唆し、守就のような人物も再評価すべきではないかと問いかけている点は、今後の研究においても重要な視点となるであろう。
  • 関連史料 : 2

付録:安藤守就関連年表及び主要関連人物

  • 安藤守就 略年表
  • 文亀3年(1503年)または永正2年(1505年)頃:安藤守就、美濃国に生まれる(父は伊賀定重とされる) 8
  • 天文年間(1532年~1555年):土岐頼芸に仕える。その後、斎藤道三に仕える 1
  • 天文11年(1542年):加納口の戦いに道三方として参加、武功を挙げる 9
  • 天文24年(1555年)1月:道三の命により、織田信長の援軍として那古野城の城番を務める 8
  • 弘治2年(1556年)4月20日:長良川の戦い。斎藤義龍方に属し、道三を破る 8
  • 永禄4年(1561年)5月11日:斎藤義龍死去。龍興が後を継ぐ 8
  • 永禄7年(1564年)2月6日:娘婿・竹中半兵衛と共に稲葉山城を一時占拠 7
  • 永禄10年(1567年)8月1日:稲葉一鉄、氏家卜全と共に織田信長に内応し降伏 1
  • 永禄11年(1568年):信長の上洛戦に従軍 8
  • 元亀元年(1570年):姉川の戦いに従軍 9
  • 元亀2年(1571年):伊勢長島一向一揆攻めに従軍し負傷。氏家卜全戦死 2
  • 天正年間(1573年~):槇島城攻め、朝倉・浅井攻め、長島一向一揆殲滅戦、石山合戦、雑賀攻め、有岡城の戦いなど、信長配下として各地を転戦 8
  • 天正8年(1580年)8月17日:信長により突如追放される 1
  • 天正10年(1582年)6月2日:本能寺の変、織田信長死去。
  • 天正10年(1582年)6月:旧領回復を目指し挙兵、北方城を奪回。
  • 天正10年(1582年)6月8日:北方合戦にて稲葉一鉄に敗れ、討死(自害とも)。享年80歳余 1
  • 関連史料 : 1
  • 主要関連人物
  • 斎藤道三 : 美濃の国主。「美濃の蝮」と称される。守就が仕えた最初の斎藤氏当主。長良川の戦いで子・義龍に討たれる。
  • 斎藤義龍 : 道三の嫡男。父に反旗を翻し、長良川の戦いで勝利し美濃国主となる。守就は義龍方に付いた。
  • 斎藤龍興 : 義龍の嫡男。若年で家督を継ぐも、家臣団をまとめきれず、守就・竹中半兵衛らにより稲葉山城を一時占拠される。後に信長に美濃を追われる。
  • 織田信長 : 尾張の戦国大名、後に天下統一を目前にする。守就は後に信長に仕えるが、追放される。
  • 竹中半兵衛重治 : 守就の娘婿。稀代の軍師と称される。守就と共に稲葉山城を占拠した。
  • 稲葉一鉄(良通) : 西美濃三人衆の一人。守就とは長年の盟友であったが、本能寺の変後、旧領回復を目指す守就と対立し、北方合戦でこれを討った。
  • 氏家直元(卜全) : 西美濃三人衆の一人。守就、一鉄と共に斎藤氏、後に織田氏に仕える。伊勢長島攻めで戦死。
  • 安藤尚就(郷良) : 守就の嫡男とされる。武田氏内通の嫌疑が守就追放の一因とされる。父と共に北方合戦で討死したとも伝えられる。
  • 関連史料 : 各人物に関連する記述を含む全般的な史料。

引用文献

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  2. 安藤守就とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%AE%88%E5%B0%B1
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  4. 安藤氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%B0%8F
  5. 斎藤龍興の家臣 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-saito-tatsuoki-kashin.html
  6. 安東伊賀守守就戦死の地[あんどういがのかみもりなりせんしのち] - 岐阜県公式ホームページ https://www.pref.gifu.lg.jp/page/6937.html
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  10. あんどう - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/ando.html
  11. すさまじき男、織田信長が尾張村木城攻めで見せた獅子奮迅ぶり【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 | サライ.jp https://serai.jp/tour/1018452/2
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  53. 史 - 山梨県身延町 https://www.town.minobu.lg.jp/chosei/minobucho/files/choshi_7.pdf
  54. 検索用のページを表示する | - 福島町 https://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%E6%A4%9C%E7%B4%A2%E7%94%A8%E3%81%AE%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%92%E8%A1%A8%E7%A4%BA%E3%81%99%E3%82%8B/
  55. ついに和人を統一して安東氏の代官としての地位を築き、実質的な支配権を確立するようになった。さらにこの信広から五世の子孫である蛎崎慶広が、天正18年(1590)豊臣秀吉に謁見のうえ蝦夷島主として認められ - 八雲町 http://www2.town.yakumo.hokkaido.jp/history/ep03.htm
  56. 書籍の販売 - historyandculture ページ! - 株式会社歴史と文化の研究所 https://historyandculture.jimdofree.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%AE%E8%B2%A9%E5%A3%B2/
  57. 伊藤博文をハクブンと呼ぶは﹁有職読み﹂にあらず︱人名史研究における術語の吟味︱ https://www.kanken.or.jp/project/data/investigation_incentive_award_2016_miura.pdf
  58. 地方史研究 http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/za0042.htm
  59. 上総非 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/31/31044/22328_1_%E4%B8%8A%E7%B7%8F%E4%BA%95%E7%94%B0%E6%96%87%E6%9B%B8.pdf
  60. 家庭生活とナショナルクイジーンの創出 - 国際基督教大学リポジトリ https://icu.repo.nii.ac.jp/record/4726/files/Shoko%2CHIGASHIYOTSUYANAGI.pdf
  61. 第97回日本社会学会大会 11月9日土曜日午前報告要旨 https://jss-sociology.org/other/20240911post-16788/
  62. 21世紀における国学研究の新展開 国際的・学際的な研究発信の可能性を探る - 國學院大學 https://www.kokugakuin.ac.jp/assets/uploads/2021/03/Forum-NCDKS2019.pdf
  63. 織田政権下における織田系大名の研究 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145242/1/ybunk00297.pdf
  64. 戦国!室町時代・国巡り(1)尾張編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n294af4609edc
  65. 熱田八ケ村宛て信長制札 - 弘前大学学術情報リポジトリ https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/record/2242/files/AN00211590_90_27.pdf
  66. 豊臣政権成立への歴史的前提 小牧・長久手の戦いに至る政治過程 https://opac.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/bdyview.do?bodyid=TD32166845&elmid=Body&fname=rd-bn-ky_043_004.pdf&loginflg=on&once=true
  67. 安土桃山時代と江戸町人文化についての考察 https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/record/10387/files/kdoc_k_00037_01.pdf
  68. 頑固一徹!稲葉一鉄~織田信長が愛した武骨者 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/ganko-ittetsu/
  69. 西美濃の「両雄」稲葉一鉄と安藤守就が激突 北方合戦 | 岐阜新聞 ... https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/205223
  70. 1582年(後半) 西国 中国大返しと山崎の戦い https://sengokumap.net/history/1582-3/
  71. 第747話・安藤守就という男 - 戦国時代に宇宙要塞でやって来ました。(横蛍) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330649963056625/episodes/16817330649992934760
  72. 西美浓三人众 - 维基百科 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%A5%BF%E7%BE%8E%E6%BF%83%E4%B8%89%E4%BA%BA%E7%9C%BE
  73. 父を討ち、信長の前に立ちはだかった!マムシの子・斎藤義龍の数奇な生涯に迫る https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/80404/
  74. 織田信長のイメージが変わる?大火に焼かれた犬山城と攻略の痕跡を辿ってみた - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/travel-rock/106458/
  75. シリーズ:「摂津国衆・塩川氏の誤解を解く」 第二十回 | 東谷ズム https://higashitanism.net/shiokawa-s-misunderstanding20/
  76. 安藤氏 - 姓氏家系メモ https://dynasty.miraheze.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%B0%8F
  77. 佐久間信盛の追放(19ヶ条の折檻状)|意匠瑞 - note https://note.com/zuiisyou/n/na0dd4c0f2aa3
  78. 岐阜市の歴史 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/r6dai4syou.pdf
  79. 本書全体のダウンロード(46MB) - 国文学研究資料館 https://www.nijl.ac.jp/pages/marega/resulting_papers/pdf/marega_all.pdf
  80. 愛知県公文書館研究紀要 https://kobunshokan.pref.aichi.jp/upload/pubresearchs/116394696364183a594764b.pdf
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  82. 安藤守就の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/171