本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、安部元真(あんべ もとざね、永正10年(1513年) – 天正15年10月10日(1587年11月10日))について、現存する諸史料に基づき、その出自、事績、さらには人物像に至るまでを可能な限り詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする 1 。安部元真は、はじめ駿河国の戦国大名今川氏の家臣として、その本拠地である駿府の防衛などに尽力したが、主家の衰退と武田信玄の駿河侵攻という激動の中で、本貫地である安倍(現在の静岡市安倍川上流域)に拠点を移し抵抗を続けた。その後、徳川家康に帰属し、各地で武田軍と戦い武功を重ねた。その生涯は、大勢力の狭間で翻弄されながらも、巧みに生き残りを図り、結果として子孫を譜代大名として後世に残した、一地方武将の姿を克明に映し出している。
調査の範囲は、安部元真の出生から死没、そしてその子・信勝、孫・信盛らによる家名の継承と発展までとする。主要な情報源としては、江戸幕府によって編纂された『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』といった公式な系譜史料をはじめ、各種の戦国人名事典、関連地域の地方史(特に『静岡市史』や深谷市教育委員会の『岡部藩主安部家とその周縁』など)、さらには寺社の縁起や古記録、家譜といった多様な文献史料を駆使し、安部元真の実像に迫ることを試みる 3 。
安部元真の出自と家系については、複数の説が存在し、その複雑さが注目される。彼の姓は一般的に「安部」と記されるが、「安倍」という表記も見られる 1 。本姓は神氏とされている 1 。駿河国安倍郡安倍谷(現在の静岡市葵区安倍奥、梅ヶ島地区周辺)を本貫地としていたことは、多くの史料で一致している 5 。
安部氏の起源については、主に信濃国に由来する系統と、駿河の在地性に注目する説が見られる。
有力な説の一つとして、信濃国の名族である滋野氏、特にその嫡流とされる海野氏の末裔であるというものがある 5 。具体的には、海野幸義の子である頼真(信真とも)を祖とし、この頼真が駿河国安倍郡安部谷へ移り住み、「安部」を名乗るようになったと伝えられている 5 。この説は、江戸時代中期から後期にかけて編纂された『寛政重修諸家譜』(寛政呈譜)にも採用されている 3 。
また、信濃との関連では、諏訪神党との繋がりも指摘される。南北朝時代、安部氏の祖先が後醍醐天皇の皇子である宗良親王に従い、諏訪神党の一員として南朝方で戦ったという伝承がある 6 。太田亮編『姓氏家系大辞典』には、信濃の宮宗良親王に従って勤王した「神家一党三十三氏」の中に「安部」氏が含まれていたとの記述が見られる 3 。さらに、諏訪氏の係累である諏訪神族(諏訪神党)に属する地方領主として、駿河国の安部氏が挙げられていることも、この説を補強する 7 。
安部氏の出自を巡る議論で特に興味深いのは、江戸幕府が編纂した主要な系譜史料である『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』とで、その記述に相違が見られる点である。『寛永諸家系図伝』では、駿河安部氏の祖を源姓諏訪氏とし、諏訪盛重の子である元真を始祖とすると記されている 8 。ここでの元真の父は信真とされ 1 、さらに信真の八代前の祖先が信濃国諏訪郡から駿河国安部谷に移り住み、元真の代になって初めて「安部」と称した、とも記されている 3 。一方で、前述の通り『寛政重修諸家譜』では滋野氏の出であるとされている 3 。
このような幕府編纂の公式な系図における記述の差異は、単なる誤記や情報の錯綜に留まらず、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会における系譜意識の流動性や、家の権威付けを目的とした由緒の選択・強調といった側面を反映している可能性がある。安部家自身が、あるいは史料編纂者が、参照した原史料の違いや何らかの意図をもって異なる系譜を提示したことも考えられる。諏訪氏は信濃の名族であり、諏訪大社との関連から神聖視される側面も持つ。一方、滋野氏もまた信濃における屈指の名門であり、いずれの出自も家の格を高めるに足るものであった。この相違は、安部氏の出自が単純な一本の系譜ではなく、複数の伝承や主張が混在していたか、あるいは時代によって強調する出自が変化した可能性を示唆している。
さらに、駿河国安倍郡安倍谷という地名との関連から、古代の中央豪族である安倍氏の後裔ではないかとする説も存在する 3 。地名を氏の由来とすることは一般的であり、安倍川流域に勢力を有した安部氏が、古代安倍氏と結びつけて考えられた可能性は否定できない。しかし、この説は信濃からの移住を前提とする他の有力な説(滋野氏説、諏訪氏説)とは異なる視点を提供しており、これらの説がどのように関連し合うのか、あるいはどの説がより歴史的実態に近いのかを判断するには、さらなる史料的裏付けが必要となる。
安部氏が使用した家紋についても、その出自の複雑さを窺わせる複数の種類が伝えられている。
主な使用家紋としては、「安部梶の葉紋」または「丸に梶の葉」が挙げられる 5 。これは、安部氏の祖が諏訪神党に属していたため、諏訪明神の神紋である「梶の葉」に由来すると説明されており、諏訪氏との強い繋がりを示唆するものである 6 。
また、「違い鷹の羽紋」も安部氏が使用した家紋として記録されている 5 。鷹の羽紋は多くの武家で用いられた一般的な紋ではあるが、特定の縁戚関係や由緒を示す場合もある。
さらに注目すべきは、戦時の旗印として、同じく信濃滋野氏系海野氏の流れを汲む真田氏と同様の「六連銭」を使用し、庶流の中にはこれを家紋として採用した家もあるという点である 6 。六連銭の使用は、滋野氏・海野氏との系譜的関連性を強く裏付けるものと考えられる。
このように複数の家紋が伝えられている事実は、安部氏の出自が一様でなかった可能性、あるいは時代や状況に応じて異なる家系との繋がりを強調した可能性を示している。「梶の葉」紋が諏訪氏との関連を、「六連銭」紋が滋野氏・海野氏との関連をそれぞれ補強する材料となっており、安部氏の家系が複数の有力氏族と結びつく、あるいはそのように認識されていたことを物語っている。
安部元真は、その武将としてのキャリアを駿河国の戦国大名・今川氏の家臣として開始した。当時の今川氏は、義元の指導のもと、東海地方に強大な勢力を築き上げていた。
元真は今川氏に仕え、特に主君である今川義元から偏諱(「元」の字)を賜り、「元真」と名乗ったとされている 1 。偏諱を授かるということは、主君から一定の信頼と評価を得ていた証左であり、元真が今川家中で相応の地位にあったことを示唆する。実際に、今川義元・氏真時代の主要家臣を列挙した「駿河衆」の中に、安部元真の名が見られることから、彼が今川家の軍事力を構成する重要な一員であったことが確認できる 9 。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川氏の勢力は急速に衰退し始める 1 。この弱体化に乗じ、永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が大軍を率いて駿河国への侵攻を開始した(駿河侵攻) 1 。
この国難に際し、安部元真は今川家の重臣である岡部正綱と共に、今川氏の本拠地である駿府城(今川館)の守備にあたった 2 。岡部正綱は今川氏譜代の有力武将であり、彼と共に駿府城の防衛を担ったことは、元真が今川家中において防衛の枢要を任されるだけの立場にあったことを示している。しかし、武田軍の圧倒的な兵力と巧みな戦略の前に、駿府城は持ちこたえることができず、陥落した 1 。この戦いにおける具体的な兵力配置や戦術、あるいは元真個人の詳細な戦闘行動に関する記録は、現存する史料からは乏しいのが現状である。
駿府城が武田軍の手に落ちると、安部元真は自らの本貫地である安倍(安倍谷)へと退却した 1 。主家の本拠地が陥落した後に、直ちに自領へ戻り再起を図ろうとした動きは、彼が安倍谷という地域に一定の支配基盤と兵力を保持していたことを物語っている。この安倍谷という拠点が、後の井川での武田氏への抵抗活動や、さらには徳川家康への仕官へと繋がる重要な布石となったと考えられる。本貫地への撤退は、単なる敗走ではなく、次なる行動への戦略的な転進であったと評価できよう。
今川氏の滅亡という大きな転換点を経て、安部元真は新たな主君として徳川家康に仕える道を選ぶ。これにより、彼の活動の舞台は武田氏との熾烈な抗争の最前線へと移っていく。
武田信玄の駿河侵攻により、今川氏真は本拠地駿府を追われ、遠江国の掛川城へと退いた 11 。その後も徳川家康や武田信玄の圧迫を受け続け、戦国大名としての今川氏は事実上滅亡する。主家を失った安部元真は、一時期流浪の身となったとも伝えられている 1 。
しかし、元真は間もなく徳川家康に仕えることとなる 2 。その具体的な経緯については、後述する井川での武田氏への抵抗活動が深く関わっている。武田軍の駿河支配に対し、元真は井川を拠点に抵抗を試みたが、武田方の調略による在地勢力の一揆(井川一揆)に遭い、一時的に遠州へ逃れた。この際に徳川家康の保護を受け、家臣となったとされている 12 。家康は、今川氏が武田信玄に敗れた後も武田方に与しなかった元真の忠節や武勇を評価し、優遇したと伝えられる 14 。
徳川家康の家臣となった後、安部元真は遠江国伯耆塚城(ほうきづかじょう)に入城し、今や仇敵となった武田氏との戦いの第一線に立つことになった 1 。伯耆塚城の具体的な位置については諸説あり、今後の研究課題であるが、遠江国内における武田勢力との境目に位置する重要な拠点であったと推測される。
安部元真は、徳川家臣として武田軍との間で繰り広げられた数々の戦において、多くの戦功を挙げたと記録されている 1 。
その中でも特筆すべき戦功として、天正5年(1577年)に武田軍と交戦し、敵将である三浦右馬助(みうら うまのすけ)の部隊を破ったことが挙げられる 2 。この戦いの具体的な場所や合戦名、戦闘の詳しい経緯については、現存する史料からは残念ながら限定的な情報しか得られない 16 。しかし、「三浦右馬助軍撃破」という敵将名を伴う具体的な勝利の記録は、安部元真の武名を大いに高め、徳川家康や家臣団からの評価を確固たるものにした重要な出来事であったと推測される。当時、徳川家康は武田勝頼と遠江・駿河の覇権を巡って激しい攻防を繰り広げており、このような最前線での勝利は戦略的にも価値が高かったはずである。この戦功が、今川旧臣であった元真が徳川家中で確固たる地位を築き、さらにはその子孫が譜代大名へと取り立てられる道を開く一因となった可能性は極めて高い。
武田氏が天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍によって滅亡した後、安部元真は井川方面へ進出し、旧武田方の山城や砦を次々と攻略する功績を挙げたとされる 12 。これらの戦功により、徳川家康から駿河国有度郡八幡村・中田村・宮竹村、益津郡焼津村・田尻村・矢久次村、志太郡梅地村、安倍郡井川七ヶ村、そして遠江国千頭・利果・大間・鷺坂村といった広範囲にわたる領地を賜ったと記録されている 12 。これは、元真の徳川家への貢献がいかに大きかったかを示すものである。
安部元真の生涯において、駿河国の山間地域である井川(現在の静岡市葵区井川地区)との関わりは非常に深く、彼の軍事活動や経済基盤を理解する上で欠かせない要素である。
安部元真、あるいはその一族とされる海野氏は、井川地域を実質的に統治していたと考えられている 13 。井川は山深く、交通の要衝とは言えないものの、戦国時代においては戦略的・経済的に重要な意味を持っていた。特に注目されるのは、当時の井川地域が金の産出地として知られていた点である。徳川家康もこの井川の金を重要な資金源の一つとして認識していたとされ、その確保と管理は喫緊の課題であった 13 。
史料によれば、安部元真の婿養子とされる海野弥兵衛(うんの やへえ)は井川の郷士として活動し、徳川家康の巣鷹役(鷹狩りのための鷹の雛を捕獲・育成する役)や、井川近隣の笹間金山の管理、さらには大日峠の御茶小屋(幕府献上茶の運搬路の休憩・警備施設)の運営など、多岐にわたる重要な任務を担当していた 14 。また、海野弥平衛本定という人物が井川金山奉行であったという記録も存在する 12 。安部氏、あるいはその密接な関係にあった海野氏が、この井川の金山経営に深く関与し、その利益を徳川家康にもたらしたとすれば、それは軍事的な功績と並んで、徳川家における安部氏の地位向上に大きく貢献したと考えられる。戦国武将の評価は、単なる武勇だけでなく、領国経営や経済力の確保といった側面も重要であったからである。
武田信玄による駿河侵攻後、今川方の多くの武将が武田氏に降る中で、安部元真とその子・信勝は井川の地を拠点として武田氏への抵抗を続けた 12 。これは、武田氏の支配を容易に認めないという元真の気概を示すと同時に、井川という山間地域がゲリラ的な抵抗活動に適していたことを物語っている。
しかし、武田方も手をこまねいていたわけではない。武田氏は井川近隣の田代村・小河内村の郷民に対し、安倍氏を討ち取るよう命じた。これにより、在地住民による一揆(いわゆる井川一揆)が組織され、安倍氏の陣営が夜襲を受けるという事態が発生した 12 。この一揆の背景には、武田氏の巧みな調略があったことは想像に難くない。在地領主であった安部氏にとって、外部勢力の介入による領民の離反は極めて深刻な脅威であった。
この井川一揆の結果、安倍一族は一時的に井川の山を下り、遠州方面へ逃れて徳川家康の保護下に入り、正式に家臣となった 12 。この一連の出来事は、戦国時代の在地領主が常に有力大名の勢力争いや領民の動向に左右される不安定な立場にあったことを示している。しかし、安部元真の物語はここで終わらない。その後、徳川家康の支援を受けて、再び井川の地を回復し、統治を再開したのである 12 。この一時的な撤退と徳川への帰順は、単なる敗北ではなく、より強力な後ろ盾を得て失地を回復し、再起を図るための戦略的な判断であったと解釈できよう。この経験は、安部氏の徳川家への忠誠心を一層強固なものとし、後の譜代大名としての地位確立に繋がった可能性も考えられる。
安部元真の菩提寺は、井川にある龍泉院(りょうせんいん)とされている 13 。一部の記録には、この龍泉院が江戸幕府の公費によって建立された格式の高い寺院であったとの記述も見られる 13 。
また、井川の龍泉院近くには「海野屋敷」と呼ばれる施設が存在したことも伝えられている。この屋敷には武器弾薬が秘かに集積され、万が一駿府で有事が発生した場合の、特別な軍事拠点としての役割を担っていたという 12 。この海野屋敷の具体的な役割については、安部元真の婿養子である海野弥平衛本定が井川の家督を継いだ後の事績として語られることが多い 12 。
なお、現在の静岡市葵区に存在する「安倍町(あべちょう)」という町名は、徳川家康が安部元真(通称:大蔵)のために駿府に与えた屋敷があったことに由来すると伝えられている 14 。これは、家康がいかに元真を評価し、信頼していたかを示すエピソードと言えよう。
安部元真は、激動の戦国時代を生き抜き、徳川家康のもとで確固たる地位を築いた後、その家名を子孫へと繋いでいく。
安部元真は、天正15年(1587年)10月10日、現在の静岡市内にあった居宅にてその生涯を閉じたと記録されている 2 。享年は75歳であった 2 。彼の遺骸は、生涯を通じて深い関わりを持った井川の龍泉院に葬られた 18 。その法名は「龍泉院殿心清浄安大居士(りょうせんいんでんしんしょうじょうあんだいこじ)」と伝えられている 18 。
安部元真の子である安部信勝(あんべ のぶかつ、通称:弥一郎、天文21年(1552年) – 慶長5年1月2日(1600年2月16日))もまた、父・元真と共に今川氏に仕え、後に徳川家康の家臣となった武将である 19 。信勝は、父譲りの武勇をもって数々の戦いで功績を挙げた。天正11年(1583年)には、後北条氏方の甲斐国本巣の砦を攻略し、翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや、それに続く蟹江城合戦においても戦功を立てたとされる 19 。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東へ移封されると、信勝もこれに従い、武蔵国榛沢郡および下野国梁田郡内において合計5250石の所領を与えられた 19 。これは、安部家が徳川家中で確かな地位を築いたことを示すものである。しかし、信勝は慶長5年(1600年)に大坂にて49歳で病没した 19 。信勝はまた、亡き父・元真の追善供養のため、武蔵国深谷(現在の埼玉県深谷市)の人見昌福寺八世であった賢達和尚を招き、源勝院(げんしょういん)を建立したことでも知られている 15 。
安部信勝の子、すなわち安部元真の孫にあたる安部信盛(あんべ のぶもり、天正12年(1584年) – 延宝元年9月12日(1674年10月11日))の代に至り、安部家はさらなる発展を遂げる。信盛は、父・信勝の遺領を継ぎ、その後、三河国八名郡内に4000石を加増された。さらに慶安2年(1649年)には大坂定番という要職に任ぜられ、その功績により摂津国四郡内に10000石を加増された結果、合計19250石(後に子の信之の代に20250石、さらに孫の信友の代には22250石となるが、表高としては20250石で確定)を領する大名となり、武蔵国岡部(現在の埼玉県深谷市岡部)に陣屋を構える岡部藩の藩主となった 5 。これにより、安部氏は徳川政権下における譜代大名としての地位を確立したのである。岡部藩安部家では、安部元真を「御元祖」として尊崇していたと伝えられている 20 。
安部元真、そしてその子・信勝が徳川家に対して重ねた武功と忠誠が、孫である信盛の代になって大名への取り立てという形で結実し、その後も岡部藩主として幕末まで家名が続いたことは、安部家が徳川幕藩体制の中で譜代としての役割を安定して果たし続けたことを明確に示している。以下の表は、岡部藩安部家の歴代当主と石高の変遷をまとめたものである。
【表1】岡部藩安部家歴代当主と石高の変遷
続柄(元真から見て) |
氏名 |
生没年 |
主な事績(特に石高の変動に関わるもの) |
最終的な石高 |
本人 |
安部元真 |
永正10年~天正15年 (1513-1587) |
今川氏家臣、後徳川家康に仕え武功多数。井川周辺などを領有。 |
(記載なし) |
子 |
安部信勝 |
天文21年~慶長5年 (1552-1600) |
家康関東移封に伴い武蔵国榛沢・下野国梁田で5250石を拝領。 |
5250石 |
孫 |
安部信盛 |
天正12年~延宝元年 (1584-1674) |
三河国八名郡内に4000石加増。慶安2年(1649)大坂定番、摂津国四郡内に10000石加増。大名に列し岡部藩主となる。 |
19250石 |
曾孫 |
安部信之 |
慶長9年~天和3年 (1604-1683) |
兄・信重より遺領を継ぎ、20250石となる。 |
20250石 |
玄孫 |
安部信友 |
寛永15年~元禄14年 (1638-1701) |
弟・信厚に2000石分与。後に収公され、所領高合計20250石が岡部藩安部家の表高として確定。 |
22250石 (後20250石) |
来孫 |
安部信峯 |
万治2年~宝永3年 (1659-1706) |
|
20250石 |
昆孫 |
安部信賢 |
貞享2年~享保8年 (1685-1723) |
|
20250石 |
仍孫 |
安部信平 |
宝永7年~寛延3年 (1710-1750) |
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(20250石) |
雲孫 |
安部信允 |
享保13年~寛政10年 (1728-1799) |
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(20250石) |
9代孫 |
安部信亨 |
宝暦8年~文政5年 (1758-1822) |
|
(20250石) |
10代孫 |
安部信操 |
寛政2年~文政8年 (1790-1825) |
|
(20250石) |
11代孫 |
安部信任 |
文化6年~文政11年 (1809-1828) |
|
(20250石) |
12代孫 |
安部信古 |
文化12年~天保13年 (1815-1842) |
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(20250石) |
13代孫 |
安部信宝 |
天保10年~文久3年 (1839-1863) |
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(20250石) |
14代孫 |
安部信発 |
弘化3年~明治28年 (1847-1895) |
慶応4年(1868)半原へ本拠移動を願い出て許され、半原藩となる。 |
(20250石) |
(参考) |
安部信順 |
安政4年~大正10年 (1858-1921) |
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出典: 20 に基づき作成。石高は主に最終的なもの、または特筆すべき変動があった場合を記載。生没年は資料により若干の異同がある場合がある。
この表は、安部元真個人の一代の活躍が、その子孫を通じて江戸時代を通じて続く「家」の物語へと発展し、徳川幕藩体制の中で一定の地位を保持し続けたことを具体的に示している。
安部元真の具体的な人物像を詳細に伝える一次史料は限られているが、彼の行動や残された記録から、その武将としての能力や性格の一端を推察することは可能である。
まず、今川家への忠誠心は注目に値する。主家が衰退し、武田信玄という強大な勢力による侵攻を受けた際にも、岡部正綱らと共に駿府城で抵抗し、その後も本拠地である安倍・井川を拠点として武田氏への抵抗を試みている。この粘り強さは、単なる武勇だけでなく、困難な状況下でも諦めない精神力の強さを示している。
武田軍との度重なる戦闘や、徳川家康に仕えてからの数々の戦功、特に天正5年の三浦右馬助軍撃破といった具体的な勝利は、彼が戦術眼に優れ、部隊を効果的に指揮できる武将であったことを物語っている。また、井川での抵抗活動や、武田氏による一揆の扇動といった危機的状況への対応、さらには井川金山への関与(直接的か間接的かは別として)が示唆される点からは、単なる戦闘指揮官としてだけでなく、在地領主としての統治能力や経済感覚も持ち合わせていた可能性が考えられる。
一方で、一部のインターネット上の情報源には、「幼少期から洞察力に優れていた」「勉強熱心だった」「医学に精通していた」「女性好きで割と子だくさんだった」といった記述も見られる 21 。しかし、これらの情報の多くは、その直接的な典拠となる一次史料が明確でなく、二次的、三次的な情報である可能性が高い。したがって、これらの情報を安部元真の確実な人物像として採用するには慎重な検討が必要であり、本報告書では、より信頼性の高い史料に基づいて評価できる範囲に留める。
安部元真の生涯を俯瞰すると、主家である今川氏の衰亡という大きな時代の転換点に直面しながらも、自らの本拠地である安倍・井川を足がかりに抵抗を続け、最終的には新たな主君である徳川家康のもとで戦功を重ね、その結果として子孫を譜代大名として後世に残した点は、戦国乱世を生き抜いた武将としてのしたたかさと実力を如実に示している。
彼の生涯は、今川、武田、徳川という東海地方の覇権を争った三大勢力の興亡の狭間で、一地方領主がいかにして自らの家と領地を守り、そして発展させていったかという、戦国時代の縮図の一つと言えるかもしれない。特に、武田信玄という当代屈指の戦略家に対し、山間地域である井川を拠点に抵抗を試みたこと、そしてその後の徳川家康への帰順という判断は、彼の卓越した政治的判断力と、時代の変化を読み取り適応していく能力の高さを示している。単に武勇に優れるだけでなく、どの勢力に与し、どのタイミングで決断を下すかという洞察力がなければ、このような結果を得ることは難しかったであろう。安部元真は、大勢力間のダイナミックな変動の中で、自らの力と判断によって巧みに道を切り開いていった、戦国時代における地方武将の注目すべき一典型と言えるだろう。
安部元真は、永正10年(1513年)に生を受け、天正15年(1587年)に没するまで、戦国時代から安土桃山時代という日本史上屈指の激動期を生きた武将である。その生涯は、駿河国の在地領主として出発し、強大な今川氏の家臣として活動した後、主家の衰退と武田信玄による駿河侵攻という未曾有の危機に直面した。しかし、彼は本拠地である安倍・井川を拠点に粘り強く抵抗を続け、最終的には徳川家康という新たな主君のもとでその武才を発揮し、数々の戦功を挙げた。
彼の出自については、信濃滋野氏・海野氏説、諏訪神党説、さらには『寛永諸家系図伝』に見られる諏訪盛重の子とする説など、複数の系統が伝えられており、その家系の複雑さと、当時の武家社会における由緒形成の様相を垣間見ることができる。家紋もまた、「梶の葉」や「六連銭」など、これらの出自説と関連付けられるものが用いられていた。
今川家臣時代には、主君義元から偏諱を賜り、駿府城防衛戦では岡部正綱らと共に武田軍と対峙した。徳川家臣となってからは、遠江国伯耆塚城を拠点に武田氏との戦いに明け暮れ、特に天正5年(1577年)の三浦右馬助軍撃破は特筆すべき戦功である。また、井川地域との深い関わりは、彼の戦略的拠点であっただけでなく、金山経営などを通じて経済的基盤ともなっていた可能性が示唆される。井川一揆という危機を乗り越え、徳川の支援のもとで再び井川を治めたことは、彼の不屈の精神と政治的手腕を物語っている。
安部元真の功績は一代に留まらず、その子・信勝も徳川家で活躍し、孫・信盛の代には武蔵国岡部藩主として譜代大名の列に加わり、安部家は幕末まで存続した。これは、元真が築いた徳川家との信頼関係と、その後の子孫たちの努力の賜物と言えよう。
総じて安部元真は、中央の大きな歴史的事件の渦中で翻弄されながらも、在地領主としての強かさ、武将としての勇猛さ、そして時代の変化を見極める洞察力を兼ね備え、自らの家名を後世に確固たるものとして伝えた重要な人物であったと評価できる。彼の生涯は、戦国時代の地方支配の実態や、山間地域の戦略的・経済的重要性を考察する上で、多くの示唆を与えてくれる。