日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、数多の武将が覇を競い、その名を歴史に刻んだ。しかし、その中にあって宗義智(そう よしとし)は、極めて特異な存在として位置づけられる。彼は、刀槍を交える武勇によってではなく、日本と朝鮮という二つの大国の狭間にあって、対馬という一島の存亡そのものを賭けた、絶え間ない外交交渉によってその生涯を全うした人物である 1 。
彼の人生は、中央の巨大な権力者である豊臣秀吉と徳川家康、そして隣国である李氏朝鮮王朝という、三つの強大な勢力の意向に翻弄され続けた。対馬守護、そして初代対馬府中藩主として、彼は常に領国と領民の生存を最優先課題とし、そのためには時に危険な綱渡りも辞さない、現実主義に徹した決断を下し続けた 3 。
宗義智の行動原理を理解する上で不可欠なのは、対馬の地政学的・経済的な宿命である。山がちで耕作地に乏しい対馬は、古来より朝鮮半島との中継貿易を生命線としてきた 5 。この貿易が途絶えることは、対馬にとって経済的な死を意味した。したがって、秀吉による朝鮮出兵という未曾有の国難は、軍事的な脅威であると同時に、領国の存立基盤そのものを根底から覆す危機であった 7 。彼が戦争回避に奔走し、戦後は破綻した国交の回復に生涯を捧げたのは、単なる平和主義や理想論からではない。それは、領国を飢餓と崩壊から救うための、他に選択肢のない唯一の道であった 3 。
本報告書は、この「境界」に生きた大名、宗義智の生涯を、その出自から複雑な家督相続、豊臣政権下での苦悩、文禄・慶長の役における矛盾に満ちた役割、そして徳川政権下での再生と国交回復事業に至るまで、あらゆる側面から徹底的に掘り下げるものである。彼の行った国書偽造という禁じ手、そしてそれが次代にもたらした負の遺産にも光を当て、その決断の背後にあった苦悩と、歴史における功罪を多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。
和暦 (西暦) |
宗義智の動向 (年齢) |
国内外の主要な出来事 |
永禄11年 (1568) |
宗将盛の四男(または五男)として対馬で誕生 (1歳) 8 。 |
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
天正7年 (1579) |
兄・義純の跡を継ぎ、宗義調の養子として家督を相続 (12歳) 3 。 |
織田信長、安土城天主が完成。 |
天正10年 (1582) |
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本能寺の変。山崎の戦い。 |
天正15年 (1587) |
豊臣秀吉の九州征伐に際し、養父・義調が当主に復帰。義智は家督を返上するが、義調と共に秀吉に臣従し、対馬の本領を安堵される (20歳) 3 。 |
豊臣秀吉、九州を平定。バテレン追放令を発布。 |
天正16年 (1588) |
養父・宗義調が死去。再び家督を継ぎ、宗家当主となる (21歳) 3 。 |
豊臣秀吉、刀狩令を発布。 |
天正18年 (1590) |
秀吉の命を受け、朝鮮通信使を伴い上洛。秀吉に謁見させる (23歳) 1 。 |
豊臣秀吉、小田原征伐により天下を統一。 |
天正19年 (1591) |
秀吉より羽柴の名字と豊臣の姓を与えられる 13 。 |
千利休が切腹。 |
天正20年 (1592) |
文禄の役 勃発。小西行長率いる一番隊の先導役として5,000の兵を率いて朝鮮へ渡海 (25歳) 3 。 |
日本軍、釜山に上陸。漢城、平壌を占領。 |
文禄2年 (1593) |
小西行長らと共に明との和平交渉にあたる。妻・マリアが受洗 3 。 |
明軍、平壌を奪還。日本軍は南へ後退。 |
文禄4年 (1595) |
和平交渉のため、明の使者と共に帰国。功により薩摩国出水に1万石を与えられる 13 。 |
豊臣秀次、切腹。 |
慶長2年 (1597) |
和平交渉決裂。 慶長の役 が勃発し、再び渡海 (30歳) 1 。 |
日本軍、南原城などを攻略。 |
慶長3年 (1598) |
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豊臣秀吉、死去。日本軍、朝鮮から撤退開始。 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い 。岳父・小西行長との関係から西軍に与し、伏見城攻めなどに参加 (33歳) 3 。 |
関ヶ原で東軍が勝利。小西行長は処刑される。 |
慶長6年 (1601) |
徳川家康から罪を問われず、所領を安堵される。家康の命で朝鮮との国交回復交渉を開始。正室マリアと離縁 (34歳) 3 。 |
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慶長10年 (1605) |
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徳川秀忠、第2代将軍に就任。 |
慶長12年 (1607) |
国交回復交渉が実り、朝鮮通信使(回答兼刷還使)が来日。江戸で将軍秀忠に謁見 8 。 |
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慶長14年 (1609) |
朝鮮との間で**己酉約条(慶長条約)**を締結。対馬藩による対朝鮮貿易の独占が確立 (42歳) 19 。 |
薩摩藩が琉球に侵攻。 |
元和元年 (1615) |
1月3日、対馬府中にて死去。享年48 3 。 |
大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。武家諸法度制定。 |
宗義智の生涯を理解するためには、まず彼が背負った宗家、そして対馬という土地の歴史的特異性を把握する必要がある。宗氏は、家伝によれば桓武平氏の流れを汲むとされ、鎌倉時代に惟宗重尚が対馬に入って以来、明治維新に至るまで約600年以上にわたり、この国境の島を支配し続けた稀有な一族である 23 。
対馬は、九州と朝鮮半島のほぼ中間に位置する。その地理的条件から、古代より大陸との交流の窓口としての役割を担ってきた。しかし、島の大部分は険しい山地で覆われ、耕作可能な平野は極めて少ない。そのため、農業生産に依存して領国を経営することは不可能であり、宗家の存立基盤は、必然的に朝鮮半島との中継貿易に求められた 5 。宗氏は、日本の室町幕府から対馬守護に任じられる一方で、李氏朝鮮からは通交・貿易の許可を得て官位や印章(図書)を与えられるなど、両属的な立場を巧みに利用して、日朝間における外交と貿易の独占的な担い手としての地位を確立していった 25 。
しかし、その関係は常に平穏だったわけではない。15世紀から16世紀にかけて、倭寇の活動が活発化すると、対馬はその拠点と見なされ、朝鮮側から攻撃を受けることもあった(応永の外寇) 25 。また、1510年には朝鮮南部の日本人居留地で「三浦の乱」が勃発し、日朝関係は一時断絶の危機に瀕するなど、緊張と緩和の歴史が繰り返されていた 27 。義智が生まれる16世紀後半の宗家は、こうした複雑で繊細なバランスの上に成り立っており、対朝鮮外交の巧拙が、そのまま領国の盛衰に直結する状況にあったのである 29 。
宗義智は、永禄11年(1568年)、宗家第15代当主・宗将盛の四男(一説に五男)として生を受けた 3 。母は立石高弘の娘、龍安院である 3 。幼名を彦三、彦七といい、天正5年(1577年)には室町幕府第15代将軍・足利義昭から「昭」の字の偏諱を受け、初めは昭景(あきかげ)と名乗った 3 。
彼が宗家の歴史の表舞台に登場する経緯は、極めて複雑であった。当時、宗家の実権は、第16代当主・宗晴康の子で、第17代当主となった宗義調(よししげ)が隠居後もなお掌握し続けていた 10 。義調は、自らの養子として将盛の子らを迎え、家督を継がせるという形で権力を維持していた。まず、義智の長兄である茂尚(しげひさ)が家督を継いだが、彼は間もなく早世してしまう。その後を継いだ次兄の義純(よしずみ)もまた、若くしてこの世を去った 3 。
相次ぐ当主の夭折という宗家の不安定な状況の中、天正7年(1579年)、白羽の矢が立てられたのが、わずか12歳の義智であった。彼は、宗家の実力者である義調の養子となる形で家督を継承し、宗家第19代当主(数え方により第20代ともされる)となった 3 。しかし、若年の彼に実質的な統治能力はなく、政治の全権は後見人である義調が引き続き握っていた 8 。
この一連の家督相続劇は、単なる血筋の継承という以上の、深い政治的意図を含んでいた。義調は、自らの実権を保持しつつ、来るべき新時代に対応するための「顔」として、若く柔軟な義智を意図的に当主の座に据えたと考えられる。その背景には、織田信長、そして豊臣秀吉という、旧来の秩序を覆す新たな中央権力の台頭があった。天正15年(1587年)、秀吉による九州征伐という未曾有の国家的危機が現実のものとなると、経験豊富な義調は自ら当主の座に復帰し、天下人との直接交渉の矢面に立った 3 。この時、義智は一度家督を返上するが、養子(嗣子)としての地位は保たれた 30 。これは、義調が義智を単なる中継ぎではなく、自らの後継者として、豊臣政権という新しい政治秩序の中で宗家を率いていく人物として育成しようとしていたことを示唆している。義調の死後、義智が再び当主としてその困難な役割を引き継ぐことになるのは、まさにこのための布石であった。義智の若さは、旧来の慣習に縛られない、新しい時代に即した外交を展開する上で、むしろ利点と見なされていたのかもしれない。
天正15年(1587年)、圧倒的な軍事力をもって九州を席巻した豊臣秀吉に対し、宗義調と義智は迅速な判断を下した。彼らは抵抗という選択肢を捨て、いち早く秀吉に臣従の意を示したのである 3 。この賢明な判断により、宗氏は対馬一国の本領を安堵され、近世大名として存続する道を得た 12 。天正18年(1590年)には、義智は従四位下侍従・対馬守に叙任され、豊臣政権下における大名としての地位を確立した 12 。
しかし、この安堵は無条件ではなかった。秀吉は、宗氏が長年にわたり築いてきた対朝鮮外交のチャンネルに目をつけた。そして、彼らに対して「李氏朝鮮を日本に服属させ、明征服の際にはその先導役を務めさせよ」という、にわかには信じがたい過酷な命令を下したのである 3 。これは、朝鮮との友好関係と貿易によって成り立ってきた対馬の存立基盤そのものを、根底から破壊しかねない要求であった。秀吉の壮大な野望の前に、対馬は否応なく、日本と朝鮮の間に横たわる巨大な断層の、まさに最前線に立たされることになった。この瞬間から、若き当主・宗義智の、苦悩に満ちた外交官としてのキャリアが幕を開ける。
秀吉の命令は、当時の国際秩序から見て、朝鮮王朝が絶対に受け入れることのできないものであった。明を「父母の国」として事える冊封体制下にある朝鮮にとって、日本に服属し、その明を攻める先鋒となることは、国家の根幹を揺るがす裏切り行為に他ならなかった 34 。この現実を誰よりも深く理解していた義智は、破局的な戦争を回避するため、必死の外交努力を開始する 8 。
この困難な任務を遂行するにあたり、義智には二人の強力なパートナーがいた。一人は、博多の聖福寺から対馬に招いた高名な外交僧、景轍玄蘇(けいてつげんそ)である 19 。彼は外交文書に精通し、義智の生涯を通じてその外交を支え続けた 36 。もう一人は、同じくキリシタン大名であり、対朝鮮交渉の担当者であった小西行長である。行長は後に義智の岳父となり、二人は運命共同体として、この難局に立ち向かうこととなる 3 。
義智、玄蘇、そして行長が取った戦略は、秀吉の要求をそのまま朝鮮に伝えるのではなく、その内容を巧みに「翻訳」し、すり替えることであった 39 。彼らは、秀吉の「服属せよ」という高圧的な命令を、「日本の天下人となった秀吉の就任を祝うための、親善使節を派遣してほしい」という、穏当で儀礼的な要請へと変換して朝鮮側に伝えたのである 1 。これは、双方の面子を保ちつつ、対話の糸口を見出すための苦肉の策であった。
この綱渡りの外交は、天正18年(1590年)に朝鮮通信使の来日という形で、一応の成果を見る。しかし、義智はこの使節団を秀吉に謁見させるにあたり、彼らが「服属のために来た使者である」と偽りの報告を行った 1 。秀吉はこの虚偽の報告を鵜呑みにし、朝鮮が日本の支配下に入ったと完全に誤解した。そして、これを前提として明征服計画を本格的に始動させてしまう。義智の必死の努力は、一時的に時間稼ぎにはなったものの、結果として秀吉の誤解を助長し、戦争への道を不可逆的なものにしてしまった。
この義智の「国書偽造」や「要求のすり替え」は、単なるその場しのぎの嘘と断じることはできない。それは、日本の武力による天下統一という論理と、中華思想に基づく朝鮮の冊封体制という、根本的に相容れない二つの世界観の間に立たされた義智が、その衝突を少しでも和らげようと試みた、高度な異文化コミュニケーション戦略であった。彼は、双方の「面子」や「名分」を傷つけない形で実質的な破局を回避しようとしたが、秀吉の誇大化した野望という制御不能な変数の前には、その努力も限界があった。彼の行動は、破局を少しでも遅らせるための、悲劇的なまでの奮闘として評価されるべきであろう。
宗義智の必死の外交努力も虚しく、天正20年(1592年)4月、豊臣秀吉はついに朝鮮への出兵を断行した(文禄の役)。この時、義智は、岳父・小西行長が総大将を務める第一軍に、5,000の兵を率いる「先導役」として組み込まれた 3 。これは、朝鮮の地理や言語に明るい対馬勢の能力を、侵略の尖兵として利用しようとする秀吉の冷徹な計算によるものであった 40 。昨日まで朝鮮との平和的共存を願い、戦争回避のために奔走していた人物が、今日からは侵略の最先鋒として、旧知の国に刃を向けねばならない。これほど大きな矛盾と皮肉に満ちた運命もなかったであろう 2 。
義智と行長が率いる第一軍は、対馬から海を渡り、釜山に上陸。釜山鎮、東萊城を次々と攻略し、破竹の勢いで北進を続けた 9 。彼らは首都・漢城(ソウル)を陥落させ、さらに平壌までをその手中に収めるなど、軍事的には目覚ましい戦功を挙げた 17 。しかし、その輝かしい戦果の裏で、義智の心は常に和平への道を探っていた。
義智と小西行長は、軍を進める一方で、常に明との講和交渉の可能性を模索し続けていた 3 。彼らの行動は、単なる厭戦気分から来るものではなく、豊臣政権内部の複雑な力学と深く結びついていた。当時、豊臣政権内では、加藤清正に代表される、徹底した武力侵攻による領土拡大を主張する「武断派」と、石田三成や小西行長ら、外交交渉による秩序形成を重視する「文治派」との間で作戦方針を巡る深刻な対立が存在した 38 。義智と行長の和平工作は、この文治派の路線に沿うものであり、それは国際紛争の解決であると同時に、国内の政敵である武断派を出し抜き、戦後の政権における主導権を確保するための、極めて政治的な行動でもあった。
この二正面作戦の過程で、彼らは再び大胆な策に打って出る。明との和平交渉を有利に進めるため、秀吉には内密で、あたかも秀吉自身が明に降伏を願い出るかのような内容の偽の国書(関白降表)を作成し、明の交渉担当者である沈惟敬に渡したのである 1 。この欺瞞に満ちた交渉は一時的に休戦をもたらしたが、その嘘が露見するのに時間はかからなかった。
文禄5年(1596年)、講和成立を祝うために来日した明の使者が、大坂城で秀吉に謁見した。その席で使者が読み上げた明皇帝からの勅諭は、「汝、豊臣秀吉を封じて日本国王となす」という、秀吉を明の臣下として遇する内容であった 1 。自らが明を征服するつもりでいた秀吉は、この屈辱的な提案に激怒。和平交渉は完全に決裂し、慶長2年(1597年)、秀吉は再び大軍を朝鮮に派遣した(慶長の役)。義智は、またしても望まぬ戦場へと引きずり戻されることになった 13 。
足かけ7年に及ぶこの大戦は、朝鮮半島に甚大な被害をもたらしただけでなく、対馬にも深刻な傷跡を残した。戦争の中継基地とされた島からは多くの男たちが動員され、生命線であった朝鮮貿易は完全に断絶した。領民は疲弊し、対馬の経済と社会は崩壊の危機に瀕していた 1 。義智にとって、この戦争は、個人的な信条の葛藤であると同時に、故郷の存亡をかけた悪夢そのものであった。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死により、文禄・慶長の役は終結した。しかし、日本の国内情勢は、次なる大きな動乱へと向かっていた。豊臣政権内部の対立は決定的となり、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍とが、天下の覇権を賭けて激突することになる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、宗義智は西軍に与した 3 。これは、彼の正室が西軍の主将の一人である小西行長の娘マリアであったこと、そして行長と運命共同体として朝鮮出兵を戦い抜いてきた経緯を考えれば、ほぼ不可避の選択であったと言える 16 。義智自身は、緒戦である伏見城攻撃に参加し、9月15日の関ヶ原の本戦には、家臣を代理として参陣させている 3 。
結果は西軍の惨敗であった。岳父・小西行長は捕らえられ、京都の六条河原で斬首された 47 。西軍に与した多くの大名が改易(領地没収)や減封の処分を受ける中、宗家もまた、その存続が風前の灯火であった。しかし、徳川家康が下した裁定は、誰もが予想し得ないものであった。家康は義智の罪を一切問わず、対馬一国の本領を安堵したのである 3 。これは、関ヶ原の戦後処理において、極めて異例の措置であった。
この背景には、家康の冷徹なまでの現実主義があった。家康は、秀吉の無謀な対外戦争とは一線を画し、新政権の安定のためには、可及的速やかに朝鮮との国交を回復し、途絶えていた貿易を再開することが不可欠であると考えていた 18 。そして、その困難な交渉を成し遂げられるのは、長年にわたる対朝鮮外交のノウハウと人脈を独占する宗家以外にはあり得ないことを熟知していた 26 。家康にとって、義智を罰することの一時的な利益よりも、彼を生かして国交回復という国家的事業に利用する長期的な利益の方が、遥かに大きかったのである 50 。事実、家康は戦後間もなく、義智に対して朝鮮との和平交渉を命じている 3 。宗義智は、西軍に与するという最大の政治的失敗を犯しながらも、自らが持つ「外交的価値」という最大の資産によって、一族の命脈を保つことに成功した。彼の生涯がいかに外交と不可分であったかを、これほど雄弁に物語る出来事はない。
徳川家康からの信頼を確固たるものとし、逆賊として処刑された小西行長との関係を完全に断ち切るため、宗義智は非情な決断を下す。関ヶ原の戦い後、正室であったマリアとの離縁である 3 。
義智自身、岳父・行長の影響を受けて洗礼を受けたキリシタンであり、「ダリオ」という洗礼名を持っていた 3 。文禄の役の最中に朝鮮の日本軍を慰問したイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父は、義智を「極めて慎み深い若者で、学識があり、立派な性格の持ち主」と高く評価している 3 。また、義智とマリアは政略結婚ではあったが、その仲は睦まじかったと伝えられている 15 。
しかし、徳川の世で宗家が生き残るためには、個人の信仰や愛情は二の次であった。マリアとの婚姻関係は、西軍の首魁との繋がりを示す最も明確な証であり、政治的にあまりにも大きなリスクであった。さらに、江戸幕府が次第にキリスト教への警戒を強めていく中で、キリシタン信仰そのものも、将来の禍根となりかねなかった。
この離縁と、それに伴う棄教は、義智が対馬藩主という「公」の立場を、個人の信条という「私」よりも優先させたことを象徴する出来事である。彼は、宗家の存続という至上命題のために、愛する妻と自らの信仰を犠牲にした。離縁されたマリアは、幼い息子マンショ(後に小西姓を名乗る)と共に、対馬を追放された 15 。彼女は当時多くのキリシタンが暮らしていた長崎に身を寄せ、祈りのうちに静かな生活を送った後、慶長10年(1605年)に病のため、その短い生涯を閉じたと伝えられている 17 。
この非情ともいえる決断こそが、義智という人物が激動の時代を生き抜くことができた要因の一つであった。彼は後に、倉野氏の娘・竹(法名:威徳院)を継室として迎える 3 。彼女は義智の死後、幼くして家督を継いだ息子の義成を補佐し、自ら藩政に参加するなど、対馬藩の初期の安定に大きな役割を果たした 22 。
徳川家康からの特命を受けた宗義智は、彼の生涯における最後にして最大の事業、すなわち文禄・慶長の役によって完全に破綻した日朝関係の修復に着手した。しかし、その道程はまさに茨の道であった。侵略戦争によって国土を蹂躙された朝鮮側の日本に対する憎悪と不信感は極めて根深く、交渉は開始早々から難航を極めた 57 。
朝鮮側が講和の絶対条件として提示したのは、二つの厳しい要求であった。第一に、徳川家康が日本の新しい国王として、先に国書を送り、秀吉の侵略を公式に謝罪すること。第二に、戦役中に朝鮮王陵を暴いた犯人を捕縛し、朝鮮側に引き渡すことである 57 。日本の新たな支配者となった家康が、朝鮮に対して「謝罪」の国書を送ることは、国家の威信に関わる問題であり、到底受け入れられるものではなかった。
ここで義智は、豊臣政権下で用いた禁じ手に、再び手を染めることになる。彼は、家康が謝罪の国書を書くはずがないと判断し、家康の名を騙って国書を偽造し、朝鮮側に送付したのである 1 。さらに、犯人の引き渡しについても、対馬藩内の罪人を犯人に仕立て上げて朝鮮側に引き渡すという偽装工作を行った 61 。朝鮮側も、この国書が偽造であることに薄々気づいていたとされるが、日本との関係改善を望む思惑から、これを黙認した 62 。こうして、偽りの文書と欺瞞の上に、かろうじて国交回復への道筋がつけられたのである。
宗義智と、彼の右腕として外交実務を担った家老・柳川調信らの、なりふり構わぬ努力は、ついに実を結ぶ。慶長12年(1607年)、朝鮮から国交回復交渉の回答使節団(回答兼刷還使。これが実質的な第一回朝鮮通信使となる)が来日し、江戸城で将軍・徳川秀忠に謁見した 8 。
そして、その2年後の慶長14年(1609年)、対馬と朝鮮との間で、近世日朝関係の基本法となるべき通商条約、**己酉約条(きゆうやくじょう)**が締結された 19 。この条約は、宗氏が朝鮮へ派遣できる貿易船(歳遣船)の数を年間20隻に定めるなど、貿易に関する細かな規定を盛り込んだものであった 63 。
この己酉約条の締結は、宗氏にとって決定的な意味を持った。これにより、宗氏は釜山の倭館における対朝鮮貿易の独占権を、徳川幕府と李氏朝鮮という双方の国家から公式に認められることになったのである 12 。対馬藩は、日朝間の外交と貿易を一手に担う唯一の窓口としての地位を確立し、その後の約250年間にわたる経済的繁栄の礎を築いた。義智の苦難に満ちた外交努力が、ついに最大の成果として結実した瞬間であった。
元和元年(1615年)1月3日、宗義智は対馬府中において、その波乱に満ちた48年の生涯を閉じた 3 。彼の死後、家督は長男の宗義成が、わずか12歳(数え年)で継承した 22 。義智の亡骸は、彼の法号にちなんで万松院と改められた菩提寺に葬られた 68 。
義智は、対馬の存続と日朝間の平和という二つの重責を果たし、近世対馬藩の礎を築いた。しかし、彼がその目的のために多用した「国書偽造・改竄」という危険な手段は、宗家にとって時限爆弾のような負の遺産となっていた。この外交の裏の顔は、藩主である義智と、実務を担当した柳川調信らごく一部の重臣のみが知る「秘中の秘」であった 24 。この秘密の共有は、柳川氏に藩内における特別な地位と権力をもたらし、彼らが徳川幕府の中枢とも独自のパイプを築くことを可能にした 16 。
この歪な権力構造は、義智の死後、深刻な問題を引き起こす。義成の代になると、藩主・宗家と家老・柳川家の対立が先鋭化。ついに柳川調信の孫・調興は、主家からの独立と幕府直参(旗本)への昇格を狙い、これまで宗家が犯してきた国書偽造の事実を幕府に暴露するという暴挙に出たのである 16 。この「
柳川一件 」と呼ばれるお家騒動は、宗家を改易の危機に陥れ、江戸幕府を揺るがす一大外交スキャンダルへと発展した 3 。義智が藩の存続のために用いた究極の手段が、皮肉にも、その息子と宗家そのものを最大の危機に晒すことになったのである。彼の功績と危うさは、まさに表裏一体であった。
宗義智の生涯を総括する時、彼は武勇を誇る典型的な戦国武将の姿とは大きく異なる像を結ぶ。むしろ、彼は巨大な権力と激動する国際情勢の奔流の中で、対馬という一艘の小舟を必死に操り続けた、極めて有能かつ苦悩多き「外交家」であり、「政治家」であったと評価するのが最も的確であろう 4 。
彼の用いた国書偽造という手段は、現代の倫理観や法意識から見れば、到底正当化できるものではない。しかし、彼の行動を歴史的に評価する際には、彼が置かれていた極限状況を考慮に入れる必要がある。対馬の経済的存続と、日朝間の全面戦争の回避という、彼が一身に背負った二つの重責を鑑みる時、その選択は、他に道のない「苦渋の決断」であった側面を否定することはできない 3 。
宗義智の歴史的意義は、その功績の大きさにある。彼は、豊臣秀吉の誇大化した野望の奔流を巧みに受け流し、徳川家康の現実的な平和構築の意図を的確に汲み取って、破綻した日朝関係を再建するという、極めて困難な事業を成し遂げた 8 。彼が築いた礎の上に、江戸時代200年以上にわたって12回も往来した「朝鮮通信使」に象徴される、安定的で平和な近世日朝関係が成り立ったのである 18 。その功績は、一地方大名の枠を遥かに超えるものであり、日本近世外交史において、宗義智は極めて重要な位置を占める人物として、再評価されるべきである。彼は、戦乱の時代の終焉と、新たな国際秩序の形成期という、歴史の大きな転換点において、自らの知略と胆力、そして非情なまでの現実主義をもって、国境の島・対馬の未来を切り拓いた、稀代の統治者であった。