富樫泰俊は加賀守護家の最後の当主。一向一揆と織田信長に翻弄され、越前金津城で自害し宗家は滅亡。しかし三男家俊が血脈を継承し、後藤家として存続した。
本報告書は、戦国時代の武将・富樫泰俊の生涯を、単なる個人の伝記としてではなく、加賀守護という中世的名門が、一向一揆という新興勢力と織田信長に代表される天下統一の奔流の中でいかにして滅び、そしてその血脈が形を変えて近世社会に継承されていったかの軌跡を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。
富樫泰俊の生涯は、しばしば「一向一揆に敗れ、越前で自害した加賀野々市城主」として要約される 1 。この要約は彼の最期を的確に捉えているが、その悲劇的な結末に至るまでの複雑な背景を見過ごすことになりかねない。彼の生涯を深く理解するためには、その背景にある富樫氏の権威失墜の歴史、すなわち長享二年(1488年)の「長享の一揆」に端を発する約90年間にわたる緩やかな衰退の過程を視野に入れる必要がある。富樫泰俊の悲劇は、個人の資質の問題以上に、時代の構造的変化に翻弄された結果であった。本報告書では、この視点に基づき、彼の生涯を詳細に追跡する。第一章では富樫氏の歴史的背景、第二章では泰俊の人生の転機となった享禄の錯乱、第三章では弟・晴貞の治世と泰俊の束の間の復帰、第四章では宗家滅亡に至る悲劇、そして第五章では血脈の継承と歴史的意義を論じることで、滅びゆく名門の最後の当主の実像に迫る。
富樫泰俊の生涯を理解するための前提として、本章では富樫氏がどのような一族であり、泰俊が生まれる以前に、一向一揆といかなる関係性を築き、そしてなぜその権威が揺らいでいたのかを明らかにする。
富樫氏は、鎮守府将軍・藤原利仁を祖とすると伝わる、由緒ある一族である 2 。平安時代には加賀国石川郡富樫郷(現在の石川県金沢市、野々市市一帯)に根を張る在庁官人として勢力を築き、「富樫介」を世襲した 4 。その拠点となったのが、現在の野々市市である。伝承によれば、康平六年(1063年)に富樫家国が交通の要衝であったこの地に館を構えたとされ、この富樫館が後の中世加賀国における政治・経済の中心、すなわち守護所としての役割を担うことになった 7 。一族は北極星と北斗七星を信仰する妙見信仰を奉じており、その家紋である八曜紋もこれに由来する 4 。
南北朝時代、富樫高家が足利尊氏方として戦功を挙げ、建武二年(1335年)に一族で初めて加賀守護に任じられたことで、富樫氏は名実ともに加賀国の支配者となった 5 。以後、室町時代を通じて加賀守護職を世襲するが、その地位は必ずしも盤石ではなかった。特に15世紀中頃には、家督相続を巡る一族内の対立が激化し、教家派と泰高派(泰俊の曽祖父の系統)に分裂して、それぞれが半国の守護となる事態も発生するなど、内紛が絶えなかった 3 。この一族内部の結束力の弱さが、後の衰退を招く遠因となった。
富樫氏の運命を決定的に変えたのが、本願寺門徒(一向一揆)との関係である。応仁の乱後、富樫政親は一族内の家督争いを制するため、本願寺第8世蓮如が率いる一向宗門徒の軍事力を利用し、対立する富樫幸千代を追放した 10 。しかし、勝利を収めた政親は、急速に拡大する一向宗の力を自らの支配を脅かす脅威とみなし、協力関係を反故にして弾圧政策へと転換した 10 。
この裏切りは、一向一揆の激しい怒りを買った。長享二年(1488年)、政親の重税や幕府への従軍による負担に反発した加賀の国人層が、一向一揆と結託して蜂起する。これが「長享の一揆」である。一揆方は、政親と対立していた富樫泰高(泰俊の曽祖父)を名目上の大将に擁立し、20万ともいわれる大軍で政親の居城・高尾城を包囲した 10 。衆寡敵せず、政親は自害に追い込まれ、ここに守護大名としての富樫氏の権勢は事実上終焉を迎えた 12 。
この事件以降、加賀は「百姓の持ちたる国」と称される、本願寺門徒が実質的に統治する国へと変貌を遂げた 14 。富樫氏は泰高の系統が守護職を継承したものの、その権威は名目的なものとなり、一向一揆の傀儡として存続するに過ぎなくなった。富樫泰俊が歴史の舞台に登場する頃には、富樫氏はすでに自力で領国を統治する能力を失った「負の遺産」を背負った状態だったのである。その衰退は、単に一向一揆が強大であったからというだけでなく、一族内部の慢性的な分裂と、短期的な利益のために宗教勢力を利用し裏切るという政治的失策という、構造的な要因に根差していた。泰俊の生涯は、この歴史的帰結の延長線上にあった。
富樫氏の家督相続と、泰俊に至るまでの血縁関係の理解を助けるため、以下に略系図を示す。
富樫泰高 (17, 19, 24代当主)|泰成 (早世)|稙泰 (25代当主)|
|富樫泰俊 (27代当主)||富樫晴貞 (26代当主)|
|稙春(長男)∣天易侍者(次男)|家俊 (後藤家祖)(三男)
注:富樫政親は泰高の大叔父にあたる。長享の一揆において、一揆方は泰高を擁立し、政親を攻め滅ぼした。
富樫泰俊が歴史の表舞台に初めて登場するのは、彼の人生を大きく揺るがすことになる「享禄の錯乱」である。本章では、この事件を軸に、彼がなぜ故郷の加賀を追われ、流浪の身となったのか、その具体的な経緯と背景を詳述する。
泰俊の父・稙泰が家督を継承した時点で、富樫氏はすでに一向一揆の傀儡であり、守護としての実権は失われていた 3 。そのような状況下で、加賀を支配する一向一揆そのものに深刻な内部分裂が生じる。享禄四年(1531年)、本願寺中央の支配強化を推し進める超勝寺・本覚寺らの「大一揆」と、それに反発し、より在地領主としての性格が強い賀州三ヶ寺(本泉寺、光教寺、松岡寺)を中心とする「小一揆」との間で、加賀の主導権を巡る大規模な内戦が勃発した 17 。この内紛は「享禄の錯乱」または「大小一揆」と呼ばれる。
もはや領内の紛争を調停する能力も権威も失っていた守護・富樫稙泰は、この内乱において、在地勢力である「小一揆」方に味方して参戦した 19 。この決断は、富樫氏がもはや中立の守護ではなく、一揆内部の一派閥に埋没した存在に過ぎないことを雄弁に物語っている 16 。
この戦いには、嫡男である泰俊も父と共に出陣した 1 。しかし、本願寺法主・証如の正式な支援を受けた大一揆方の勢いは凄まじく、小一揆方は敗北を喫した 21 。この敗北により、稙泰は名目上の守護の地位さえも完全に追われ、加賀は本願寺の直接支配地(本願寺領国)としての性格を一層強めることとなった 16 。泰俊はこの戦で敵方に捕らえられるという屈辱を味わうが、後に辛くも逃亡に成功している 1 。享禄の錯乱における富樫父子の行動は、自らの意志で状況を切り開こうとしたものではなく、一向一揆の内部対立という既存の力学の中で、どちらか一方に与することでしか生き残りを図れないという「主体性の喪失」を象徴していた。
加賀での足場を完全に失った稙泰と泰俊の父子は、国境を越え、越前国の金津城主・溝江氏を頼って亡命した 21 。天文元年(1532年)、畿内で山科本願寺が法華一揆や六角定頼の攻撃により焼き討ちに遭うなど、本願寺勢力が一時的に動揺した隙を突いて、稙泰は泰俊を野々市に派遣し、旧領回復を試みたという記録も残る 25 。しかし、これは長続きせず、再び越前へ退かざるを得なかったとみられる 1 。
結局、父・稙泰は二度と加賀の地を踏むことなく、天文四年(1535年)5月11日、亡命先の越前で失意のうちにその生涯を終えた 25 。父の死により、泰俊は「追放された守護家の嫡男」として、他国で流浪の青年期を送ることになった。彼の後の人生における他律的な動きは、この時点での経験が原点となっている可能性が高い。
父と兄が越前に亡命した後、加賀の富樫家では次男の晴貞が家督を継いだ。本章では、傀儡としての日々を送る弟・晴貞の治世と、その背後で雌伏を続けた兄・泰俊の動向を対比的に描き、富樫家内部の複雑な状況と、時代の変化に対応しようとする最後の試みを明らかにする。
父・稙泰と兄・泰俊が越前に追われた後、加賀に残った次男の晴貞(初名・泰縄)が、天文三年(1534年)頃に富樫家の家督を継承した 26 。この家督継承は、享禄の錯乱に勝利し加賀を実効支配する本願寺(大一揆方)が、富樫家の持つ伝統的な権威を名目的に利用するために仕組んだものであり、晴貞は事実上の「傀儡」であった可能性が極めて高い 27 。
晴貞自身は、雪舟派の画家に絵を学ぶなど画才に優れ、特に馬の絵を好んだと伝わる文化人としての一面を持っていた 26 。しかし、彼は単なる文化人としての日々を送っただけではなかった。幕府へ積極的に働きかけ、訴訟の裁定権を認められるなど、失われた権威を少しでも回復しようと苦心した形跡も見られる 28 。
元亀元年(1570年)、織田信長と石山本願寺との対立が先鋭化すると(石山合戦)、晴貞はこれを千載一遇の好機と捉えた。彼は長年の一揆との協調路線を放棄し、信長に呼応して挙兵するという大きな賭けに出た 3 。これは、失われた実権を取り戻すための富樫氏による最後の主体的な権力回復の試みであった。
しかし、この反旗は、加賀国内に盤石の支配体制を築いていた一向一揆の迅速かつ猛烈な反撃に遭い、即座に鎮圧された。晴貞は居城の野々市館を追われ、金沢の伝燈寺まで逃れたが、そこで一揆勢に包囲され、元亀元年五月、自害して果てた 8 。彼の試みは、その意志を支えるだけの国内の権力基盤を欠いていたため、あまりにも早く潰えてしまった。
弟・晴貞の死という予期せぬ事態を受け、長年亡命生活を送っていた兄・泰俊が歴史の表舞台に呼び戻される。彼は富樫家第27代当主の座に就き、一度は加賀へ帰還して野々市城主となった 1 。享禄の錯乱から約40年ぶりのことであった。
この復帰の背後には、晴貞という「駒」を失った一揆勢力が、再び富樫家の権威を傀儡として利用しようとしたか、あるいは信長方の介入があった可能性などが考えられるが、史料に乏しく詳細は不明である。いずれにせよ、この復帰は泰俊自身の主体的な行動の結果ではなく、弟の死という状況変化によってもたらされた「他律的」なものであった。彼の城主の座は極めて不安定であり、案の定、ほどなくして再び本願寺方(一向一揆)に攻められ、野々市を追われることになった 1 。晴貞の「主体的だが失敗した賭け」と、泰俊の「他律的な復帰と再度の追放」の対比は、戦国末期における旧守護家の無力さと悲哀を浮き彫りにしている。
野々市を追われた泰俊は、再び流浪の身となる。本章では、富樫宗家が名実ともに滅亡する天正二年の金津城の戦いに焦点を当て、その直接的な原因となった越前の政治的混乱と、泰俊と彼を庇護した溝江長逸の最期を克明に描く。
加賀を追われた泰俊が三度目の亡命先として選んだのは、かつて父も頼った越前金津城主・溝江長逸のもとであった 1 。この時点で泰俊は、領地も実質的な家臣団も失った「客将」という、庇護者に寄食する身分に過ぎなかった 32 。
庇護者となった溝江長逸は、越前の土着豪族であり、元は守護大名・朝倉氏の家臣であった 32 。加賀国境の防衛を担い、一向一揆との戦闘経験が豊富な武将だった 32 。天正元年(1573年)に主君・朝倉義景が織田信長に滅ぼされると、長逸はいち早く信長に降伏して所領を安堵され、信長方の武将として越前の新たな支配体制の一翼を担う存在となっていた 32 。
泰俊が溝江氏を頼った天正年間初頭の越前は、激しい動乱の渦中にあった。信長は朝倉氏滅亡後、元家臣の桂田長俊を守護代に任じて越前を統治させ、自身はすぐに畿内へ戻った。しかし、天正二年(1574年)正月、桂田の統治に反発した同僚の富田長繁が、民衆を扇動して一揆を蜂起させた 35 。この内乱は瞬く間に越前全土に拡大し、本願寺勢力も介入。信長が構築しようとした支配体制は崩壊し、越前は「一揆持ちの国」と呼ばれる大混乱状態に陥ったのである 37 。
この混乱の中、杉浦玄任らが率いる加賀・越前の一向一揆勢は、明確な敵対勢力である信長方の拠点への攻撃を開始した。信長に与する溝江長逸が守る金津城も、その主要な攻撃目標の一つとなった 32 。一揆の大軍が金津城に殺到し、激しい攻防戦が繰り広げられた。溝江長逸と客将の富樫泰俊らは数日間籠城して奮戦するが、大軍の前に支えきれず、天正二年(1574年)2月19日、ついに金津城は落城した 32 。
落城に際し、富樫泰俊は城主・溝江長逸、その父・景逸、弟で妙隆寺住職であった辨栄ら一族郎党30余名と共に、城中で自害して果てた 32 。泰俊だけでなく、同行していた長男・稙春(当時35歳)、次男・天易侍者(当時27歳)も父と運命を共にした 1 。これにより、平安時代から約600年の長きにわたり加賀に君臨した守護・富樫氏の宗家は、歴史の舞台から完全にその姿を消したのである 1 。
泰俊の辞世の句として、「木草にも非ざる竹の世を去りて後は石とも誰かなすべき」という歌が伝わっている 39 。
富樫泰俊の直接の死因は、加賀国内の問題ではなく、隣国・越前で発生した「織田信長の支配体制確立の遅れ」という権力の空白期間が生んだ大動乱に巻き込まれた結果であった。彼の死は、信長の天下統一という巨大な地殻変動の過程で起きた、無数の局地的な悲劇の一つとして位置づけられる。彼の死は「加賀の一向一揆に滅ぼされた」という単純な構図ではなく、「越前で蜂起した一向一揆が、信長方の拠点を攻撃した際に、そこに居合わせたために死亡した」という、より複雑な文脈で理解する必要がある。
泰俊の死による宗家滅亡は、しかし富樫氏の歴史の完全な終わりではなかった。本章では、生き残った血脈がどのように近世社会に適応していったかを追跡し、富樫氏滅亡の歴史的意義を総括する。
金津城落城の混乱の中、泰俊の三男であった家俊(いえとし、宗俊とも伝わる。当時9歳)は、家臣の手によって城から救出され、奇跡的に生き延びた 1 。家俊は「後藤弥右衛門」と改名し、武士としての身分を隠して加賀国石川郡押野村(現在の野々市市押野)の郷士となった 1 。
その後、加賀一向一揆を平定した織田家の武将・佐久間盛政が金沢城主となると、家俊はその盛政に見出されて仕官し、一揆討伐などで戦功を挙げて300石の知行を得、再び武士としての地位を回復した 1 。
佐久間盛政が賤ヶ岳の戦いで敗死した後は、加賀藩主となった前田家に仕えた。後藤家は江戸時代を通じて、押野村の十村(とむら、他藩の大庄屋に相当)という地方行政の要職を代々務める有力な家柄として存続した 42 。この変遷は、中世の守護大名「富樫」が、近世の藩体制下における行政官「後藤」へと姿を変えることで、その血脈を後世に伝えたことを示している。富樫氏の物語は、「滅亡」と「継承」という二つの側面から捉えるべきであり、この一族の変遷は、戦国から近世へと移行する日本の社会全体のパラダイムシフトを体現したミクロな事例と言える。
富樫氏の滅亡は、日本の歴史においていくつかの重要な意味を持つ。第一に、室町幕府の任命による「守護」という中世的な権威が、信仰で固く団結した民衆の力(一向一揆)や、天下布武を掲げる新たな実力者(織田信長)の前では、もはや無力であることを決定的に示した事件であった 5 。
第二に、富樫氏の滅亡は、加賀の支配者が一向一揆から織田(後の前田)へと移る、歴史の大きな転換点の直前に起きた象徴的な出来事であった。泰俊の死からわずか6年後の天正八年(1580年)、織田軍(柴田勝家、佐久間盛政)によって加賀一向一揆の拠点・尾山御坊は攻略され、約一世紀にわたる「百姓の持ちたる国」も終わりを迎える 17 。
最後に、約500年にわたり野々市を拠点とした富樫氏の治世は、加賀南部の発展の礎を築いた 2 。その記憶は、善政を称えたと伝わる民謡『野々市じょんから』や 4 、市内に残る富樫館跡 47 、一族の守護神を祀る布市神社 46 などを通じて、地域史の中に現代まで受け継がれている。
富樫泰俊の生涯は、失われた権威を回復しようとするも、父祖の代からの負の遺産、巨大化した一向一揆勢力、そして織田信長による天下統一の奔流という、抗いがたい時代の大きな流れに翻弄され続けた悲劇であった。彼の人生は、二度の復帰と三度の亡命に象徴されるように、常に他律的であり、自らの手で運命を切り開くことが叶わなかった。
彼の最期は、加賀守護・富樫氏という一つの名門の終わりであると同時に、室町幕府体制に根差した旧来の守護大名という存在そのものが、戦国の世ではもはや存続し得ないことを明確に示した。泰俊は、まさに中世から近世への転換期に、その狭間で消えていった無数の旧勢力の姿を凝縮した、象徴的な人物として歴史に記憶されるべきである。
しかし、その滅亡は完全な断絶を意味せず、後藤家への転身という形で血脈は近世社会に受け継がれた。この事実は、時代の変化に適応し、形を変えて生き残るという、歴史のダイナミズムをも示している。富樫泰俊の悲劇的な死は、単なる敗者の物語ではなく、新たな時代の始まりを告げる、より大きな歴史物語の一部として再評価されるべきであろう。
富樫泰俊の生涯と、それを取り巻く国内外の情勢を時系列で対比させ、出来事の因果関係や同期性を明確にするため、以下に関連年表を付す。
西暦(和暦) |
富樫泰俊および富樫家の動向 |
関連する国内外の情勢 |
1488年(長享2) |
曽祖父・泰高が一向一揆に擁立され、富樫政親が高尾城で自害(長享の一揆)。富樫氏の実権喪失。 |
足利義尚が近江で陣没。 |
1531年(享禄4) |
父・稙泰と共に、大小一揆(享禄の錯乱)で小一揆方に加担し敗北。泰俊は捕縛後、逃亡。 |
本願寺勢力が加賀の支配権を確立。 |
1532年(天文元) |
父・稙泰、泰俊を野々市に派遣し一時的に旧領回復を試みるも失敗。越前へ亡命。 |
山科本願寺が焼き討ちに遭う。 |
1534年(天文3) |
弟・晴貞が本願寺の傀儡として家督を継承。 |
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1535年(天文4) |
父・稙泰が亡命先の越前で死去。 |
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1570年(元亀元) |
弟・晴貞が織田信長に呼応し挙兵するも、一向一揆に攻められ伝燈寺で自害。 |
織田信長と石山本願寺の対立が激化(石山合戦開始)。 |
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弟の死後、泰俊が家督を継ぎ、一時的に野々市城主となるも、再び追放され越前へ亡命。 |
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1573年(天正元) |
越前金津城主・溝江長逸のもとに客将として身を寄せる。 |
織田信長が朝倉義景を滅ぼし、越前を支配下に置く。 |
1574年(天正2) |
越前で一向一揆が蜂起。一揆勢に金津城を攻められ、溝江長逸らと共に自害。富樫宗家滅亡。 |
越前で桂田長俊・富田長繁の内乱が勃発し、一揆が全土を支配。 |
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三男・家俊(後藤弥右衛門)が難を逃れる。 |
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1580年(天正8) |
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織田軍(柴田勝家ら)が加賀を平定。尾山御坊が落城し、「百姓の持ちたる国」が終焉。 |
1582年(天正10) |
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白山麓の一揆が鎮圧され、加賀一向一揆が完全に終息。 |